温泉がブログに与える影響をみる、という実験をしてみようかな

2013.01.30

P1306647.jpg宇宙的なものを感じるなぁ

いま自分に何が実際に視覚として見えているのか。

銀山温泉の能登屋の和室。
そとから川の流れる音がシューシューと窓の隙間から空気が漏れこんでくるような音に似ている。
外に持ち出すには重いMacBookPro17のディスプレイを見ている。
身体は温泉のおかげでホカホカして、自分から蒸気が立っているのではないかと想像する。

今はそんな感じだけど、それはPCを開いた場所によっていろいろだろう。
自宅とは違った気分でPCのキーボードを叩いているわけだ。
なんとくなく、気分がよい。
和室が久々であること、車の音が全くしないこと、窓からは雪に覆われた温泉街が見えること。
当然ながら、とても気分が良い。

あぁ、でも、何かをするときに、これが決定的に大切なことではなかろうか、と気がついた。

つまり、今自分は何を見ながら作業をしているのか。
これが「考える範囲」を決めているのではないのか、と。
今は、不愉快なことなんて全く考えられないじゃないか。

時と場所によって考えることが変わってくる。
そんなの当たり前じゃないか。

そう言われるくらい自明なことなのかもしれない。
しかし、ぼくは初めてそのことに「納得」したわけで、それでびっくりしているのだけど。

本当にそうかなぁ?
それって、勘違いじゃないの?

そういう真偽を問う前に、さしあたってこの発見が「真」であるとして、すこしぼやぼやと考えてみたい。


視覚の情報量は他の感覚器と比較して一番多い(と学んだのだ)。
何をどのように計測するのかで結果は変わるとは思うが、一般的には視覚の情報量が一番多いと考えて問題ないだろう(たぶん)。
見えることと聞こえること、そりゃ百聞は一見に如かずのようなところがあり、普通の人は納得してくれるだろう。

脳の処理量には限界がある。
いろんなことを同時にやる余裕など、普通はない。

だから作業中に注意散漫だとその作業で良い結果は得られない
テレビを見ながら宿題をすることはかなり難しい(高校のところはやったけど)。
ラーメン屋でテレビが付いていると奥さんと話すのを忘れて見てしまい不評を買うのは普通だろう。

一つのことに集中しないと失敗しやすい、ということは一般的に同意がとれているだろう。
だから、いかなる学校でも習い事でも、人の失敗をみた上司などはそう注意するもので、それに誰も反論できない。

見えるものがあると見てしまう。
脳の処理能力を仕事に収集させるないと、脳の遊んでいる部分だけでなく、仕事に必要な脳の機能も仕事以外の(注意散漫の原因となる)作業に割り振られてしまうから、集中せよと怒られるわけだ。

視覚情報だけに情報が集中すれば、それを処理する脳は忙しくなり、他のことに気が回らないので、結果的に作業結果は影響を受ける。

つまり、どんな作業をしていても、その作業過程や結果(作品?)は、作業中の視覚情報に大きく影響される。
しかも作業結果の善し悪しだけでなく、作業結果の雰囲気なども違ってくる。
面白いテレビ番組を見ていると、計算結果が間違ってしまうだろうし、悲しい番組を見ながら楽しいエッセイは書けないだろう。
そういうことだ。

heya.jpg平たく言えば、どのようなものが見える環境で作業したかが、結果に大きな影響を与えるわけである。
視覚情報が「邪魔」ならば、何も見なければ作業に集中できるはずだ。
が、何もないで何かをすることは実際問題できない。
雪の風景を見ていたら、気分が落ち着いてきて、綺麗な言葉が浮かんできた、などということはありえるだろう。

つまり、作業結果を「よくする」方法はよくわからないけど、作品を「変える」ことは、作業をする場所から見える景色を変えることできる。
逆に言えば、景色を変えるだけで違う作品になるかもしれない。

論理的に言えば「そういうわけではない」のだが、そんなの当たり前じゃないか。

そうかな。
本当に皆さんそう思っているのかな。
だったら、それぞれの人がいる場所を注意してみればいい、どんなものが「見える」のか。


少し話がずれる。
今こうして誰に頼まれなくブログを書いている。
その行為にどれだけ意味があるのか。
そう問われれば、「あまりないだろう」と答える。

普通の人には誰にも頼まれないもの。
それは当たり前だろう。
そして、その状態が続く限りブログをつける行為は「無意味」ということになる。

とはいえ「実際」自分が活動しているという事実があり、活動しさえすればなんらかのものを脳は確実に獲得する。
何に意味があって何に意味が無いのか。
誰にとっての「意味」なのかで、答えが変わるだろう。
「他人に」説得する上では「無意味」でも、「自分には」なんからの意味は確実にある。

例えばオッサンの習い事を考えればわかりやすい。
絵を書いたり楽器を弾いたり、素人がオッサンになってからやることには「意味が無い」と多くの人は考える。
あなたが「結果」だけをみたらそうなる。
だが、やっている人についていったら「大違い」ですね。

やっている人は、やればやっただけ「変わっている」わけ(必ずしも上達しているわけではない)。
ちょっと考えればわかるが、歳をとってから「自分が変わる」ことは難しい。
「視点を変えて物事見る」ことも難しい。
しかし、絵なり楽器なりを習うことで、この「不可能なこと」がいとも簡単できてしまう。
だから、やる側には大いに意味がある、わけだ。

考えているだけ、評論しているだけでは普通の人の「脳」は活動していないのではないか。
すでにどこかで聞いたことを「言っている」だけでだから。
ましてや「工夫」も「学習」もしていない。
感情にまかせてしゃべっているだけだから。
緊張感がないわけで、今までどおりの道を進むよりない。

しかし「他人にとって無意味な行為」であっても現に「実施」しているのならば、工夫なり学習なりは確実に起きている。

意味があるかどうかの基準は、効用(意味、ですね)が「他人」が感じられるか。
他人にわからなければ、他人は「無意味でしょうねぇ」と嬉々として断定する。
そして、それは極めて理にかなったことともいえる。

他人の判断というのは、他人にとって意味があるか。
そもそも他人のためにやっていないことならば、無意味という判断は「当然」で、正しいとすらいえる。
とういうよりも、判断をしてもらおうという行為がそもそも無用である。

自分で企画し、自分で活動しているのならば、その評価などというものは常に「意味が無い」。
よく言われることかもしれないが、これを忘れるとおかしなことになる。


そして、ここで元に戻る。

何を見て行動するのかで、作業結果(アウトプット)は大きく影響される。
脳の使い方が変わるのだから。

他人にとって意味のない行為(アウトプットでもある)であっても、その「行為」自体、自分には意味がある。
やれば頭も変わるんだよね。

さて、ブログをネタに文章能力の向上を試みている自分を考える。

文章の技術は、数多く書けば書いただけ、自分に書く方法の一端が捕まえられそうである。
いろいろなことを書こうと挑戦しようとも考えれば、そんなにいろいろできるわけではない、素人なんだから。
ならば、いつもやっていることは同じでも、書く場所を変える。
これでどんな変化があるのかを観察してみる。
これはありではないだろうか。

自宅以外でブログをつけることはない(喫茶店などではなかなかできるものではない)。
休日は奥さんと一緒にいるので、奥さんを無視して一人でパチパチと入力するのもよろしくない。

yado2.jpgならば、こんな感じで温泉にでかけ(@銀山温泉)、どうせやることないからねぇ、ということで部屋で本を読んだりブログをパチパチと入力したらいい。
大いに書いたものの変化が期待できるのではないか。

こんな虫の良い方法を今年は何度か実行してみる。
その結果について、ちょっとしたら反省してみたい。

なんでもそうだが、新しいことを始めるには「生活に組み込む」ことが大切だよね。

温泉でリラックすることで何が変わるだろうか

2013.01.29 

銀山温泉は、成瀬巳喜男『乱れる』ラストシーンで登場するロケ場所である。
高峰秀子の立ちすくむ姿、驚きの表情のアップは、一度見たら一生忘れられない。

いつか雪の銀山温泉へいってみたいなぁ。

そんな妄想は、行動的な奥さんのおかげであっさりと実現することになった。
じゃぁ、ということで老舗旅館の能登屋へ電話して予約を入れ、新幹線のチケットを取ればよい。

「さぁ行こうか」という気分をどこまで大切に考え、その実現に「自分が協力するのか」で一生のかなりの部分は決まってくる。
ボヤキが現実のものになるかどうかは、自分の行動による部分が実は多い、ということを知った。


やど1.jpg銀山温泉に宿は17件(と、女将が言っていた)。
川沿いの旅館はどれも大正時代の建物を補修して使っているようで、川沿いの景色自体に価値がある。
鬼怒川や熱海をはじめとした、大型ホテルが立ち並び、よくわからない土産物屋のシャッター商店街があるような興ざめた温泉街ではない。
ひっそりと着実に残っている「典型的な温泉街」なのかと想像する(たぶん)。

この旅館は、調度品も人の応対も上品で、金儲けにギラギラしたところを全く感じさせない。
だから、見知らぬ土地や人への警戒心が心底なくなり、風呂にはいる前からまったりしてしまう。
何もせずともリラックスな気分になる、ホントに。
安い、ということを求めているのではない。

「金儲け」を感じさせないことが大事なんだけど、多くの宿はそういう細やかな配慮はない。
だからこういう宿は、いきなり気に入ってしまう(部屋に入っただけなのに)。

ウィークデイの宿泊だから宿泊客が少ないのか、そもそも宿の部屋数が少ないからいつもそうなのかわからないが、いつ風呂場に行っても人が少なった。
とくに、露天風呂を一人で浸かるのは、罪の意識が芽生えるくらいラッキーなことである。


能登屋の露天風呂は檜の浴槽で、決して広いものではない。
4人くらいでいっぱいだろう。
それを一人で入る。
仮説の屋根が浴槽を覆っている。
積もった雪が屋根の傾斜を氷河のように滑り、軒のところで張り出し、なんとか止まっている。
軒の梁のところでオーバーハングしている雪の塊の先には何本ものつららがぶら下がって、ひたひたと水が垂れている。
時たまは鳥の鳴き声がする。
なんの鳥かはわからない。
周りは雪がどっと積もった山の斜面が迫りくる風景で、そこにある木々には雪が積もっている。

人気が少ない山の頂上へと上がるスキー場のリフトの乗っているときのような感覚を覚える。

露天風呂では、空気は冷たくお湯は温かい。
だから水面からの蒸気のもやが激しく湧き上がり、風に吹かれて複雑な空気の模様を描く。

寺田寅彦のエッセイに、コップの水面から立ち上がる湯気をて気象について考えるものがあった。
タイトルは忘れ、内容もほとんど記憶していないが、そういう「見方があるのか」と感心したことは覚えていて、だからこうして風呂に入って瞑想していて思い出したのだろう。
瞑想って無心だから何も考えてはいけないはずだが(よく知らないけど)、ぼんやりしていると気分がスッキリするのだけど、これって何て言うのかな。

静かな雪の露天風呂につかっていると心身ともにリラックスする。
「良いことも嫌なことも」考えられなくなる。
とくに、「嫌なこと」が全く頭に浮かばなくなる、ということに気がついた。

風呂に入ればだれでもそうなるもんだ、ということ「は決してない」。
自宅の浴槽に浸かるのはぼくの日常における最大の娯楽なのだが、そのときでも「嫌なこと」というものは、体調次第で止めどもなく浮かぶものだ。
風呂に浸かることで身体はリラックスするが、決して無心になれるものではない。
だから、風呂あがりに「身体は」さっぱりしても、気分としてはさっぱりしないときもある。

しかし温泉は違うんだね。
嫌なことのたねは付きぬくらい思いつくのだが、露天風呂で試しに思い出そうとしても「全く」考えようという気分にならなかった。

「へぇ、そうなんだ」という反応が普通かもしれないが、いやいやこれば「たまげるくらいの」大発見だと自分では思っている。
環境を調整することで、考える内容が変わってしまうのだから。

ポスト.jpg良い思い出も悪い思い出も、人の心のなかではゆらゆらと浮かんだり沈んだりし続けている。

随分と昔の、今更思い出してもどうしようもない体験がフッと浮かび、「うぅ」と声を上げたくなるくらい「恥ずかしい」気分ににあることもあるし、イラッとしたときの状況を思い出して「くそう」と唸りたくなるくらい「腹立たしく」なることもある。

今ここにないことに対して、気分を左右されることがあるが、これが身体に良い効果を与えるとは思えない。
気分がいい思い出よりも嫌な思い出のほうが選択的に多く?思い出されるものだ。
だから、過去のことに気分を煩わされることが好ましいわけがない。

そういうものが一切ない温泉。
ということは、温泉で無心になることには身体にとってとても良いものではないのだろうか。
いや、当たり前か。
当たり前にたどりついた、ということか。

良いことも悪いことも、ぼやっとしていると「思い出される」のならば、それは無意識下では「思い出したがっている」はずである。
何をしてても思い出すのならば、「かなり強く思い出すほうが良い」と無意識では感じてるのだろう。

とはいえ、日常生活で嫌なことを思い出すのは良くない。
だから、露天風呂に浸かりながら、良いことも悪いことも意図してきではなく、頭のなかから開放させるように、ぼんやりすることはいいことなのではないか。

ひと通りそれをやれば、無意識化で感じていたようなことは「考えちゃったから、もういいか」となり、興味がなくなってほんとに「忘れちゃう」かもしれない。
嫌なことを忘れちゃうことは、ぼくにとっては「とてもよい」ことである。

多分なのだが、このような心に開放のことを「リラックスする」という本来の意味なのではないのだろうか。
無意識化で思い出したがっていることを、意識では「手綱を締めて」思い出さないようにしており、その手綱を緩めることを「リラックスする」というのではないのだろうか。

舞い散る雪を見ながら、そんなことを考えて、この銀山温泉へはなるべくこの時期に定期的に来ようと心に決めた。

どのようにエッセイを書くといいのだろうか

2013.01.28 

エッセイを上手に書いてみたいよなぁ。

ワープロを上手に使えるようになれと、誰もが一度はそう思うのではないか。
ブラインドタッチもできるし、ワープロで見栄えのするレイアウトもできるし、それをインターネット上に公開する手段もあるのならば、なおさら。

ここでいうエッセイとは、想ったことなどをつらつらと書く随筆のこと。
日本で使われる意味のエッセイである。
アメリカの大学などで提出を求められる論理的な考察をまとめたものではない。

さてぇ、とばかりちょっと試してみる。
もちろん、このブログの一つ一つのエントリーがその試みの結果なのだが、なかなかどうしてうまくいかない。
文章らしきものを書いて体裁を整えてみるのだが、なかなかそれらしいものができない。
素人なんだから、面白いものなんて書けるわけはない。
「まずは、形から入る」という習い事のように、エッセイも形から入っても結果は全くついてこない。
文章に限らず、なんでも同じだろう。

さて、と思って手元にあるエッセイを読んでみる。
内容にどれだけのコストを掛けいるのだろうかを注意して読むと、まず気づくことがある。
それは、自分の考えが元になっているとしても、自分の考え以外のもの、例えば他人の考え(書籍や映像で残っているもの)、出来事(マスメディアや歴史書に記載されている事実)を「参照」して、自分の考えの「位置づけ」を与えていること。
想ったを書いているからといって、それだけで他人の興味をそそるようなものが書けるわけがない。
自分の考えを他人の目から見るという予防線を張って、一人合点に落ちないようにしている。

考えていることと現実との「関係」を必ず示し、考えていることが「どのくらい空虚なのか」を示しておく。
これによって読者がどの程度そのエッセイを「本気にして読めるのか」を判断する材料をちゃんと明示しておく。

超有名人であればそんな配慮はいらない。
どんなことでも「作品」になる。
司馬遼太郎や村上春樹ならば、何をいっても書いても「なるほどなぁ」という評価を得られるはずである。
しかし、これを普通の有名人が真似すると「上から視線」になり、市井のオッサンがやると「床屋政談かいな」となる。

手元には茂木健一郎さんの『挑戦する脳』という新書があり、これをつらつらと面白く読ませてもらっている。
内容は、脳についてではなく、社会批評であり、自己啓発であり、愚痴?である(ぼくはそう感じました)。
いくつものエッセイが列んでおり、すべてを貫くテーマが「挑戦する=脳の機能発揮」ということのようである。

ともかく著者が言いたいことがある。
一つの主張として、それがざっと書かれている。
ふむふむ、なるほど、と読む。
そうなれば万々歳であるが、それじゃぁ茂木健一郎さんファンしか読まないだろう。

そこで、茂木健一郎さんの「体験」が事実として記述され、読者に「ホントですよ」という判断のよすが示されている。
実際起きたことを短く、わかりやすく、しかも普通の人は「あぁ、似たようなことを僕も体験した」とはいえないようなことが書かれている(これが、茂木健一郎さんならではの技だと思う)。
あるいは、有名なジャーナル(学術論文誌)に掲載された論文について引用し、要約してあり、現実への出来事と自分のアイデアとの対応を誰もがわかる形にしようと努力してある。

エッセイにおいては、経験も論文引用も現実・事実・証拠として扱える。
茂木さんの主張と事実とが列挙されたあとに、両者を結ぶ「見方」が提示される。
茂木さんの主張していることが現実の問題を解くすべであると読者に気づいてもらう。
あるいは、茂木さんの主張は現実には「社会にとって良くないこと」として問題を起こしているのだとわかってもらう。
こういう仕掛けがあるようだ。

随筆のように、自分の見方なり感想なりを文字に起こすだけで終わってしまうと、他人がそれに共感することがなかなかできない。
読者が著者のファンならば話は別であるが、そうでない場合は「無関心」か「気持ち悪い」か「反感を買う」かのどれになってしまう。
そこで論理と科学的な方法を使って説得するわけだ。

科学的な活動とは、仮設を定義し、仮説を演繹して実験を定義し、実験結果から仮設の是非を問う行為である。
あるいは、いくつかの事実を帰納して仮設を生成し、それを別の形で実験できるように定義し、実験結果から仮設の是非を問うのでもよい。
大切な点は、仮説が「論理」で構成され、「実験で検証しうる命題として定義され」、それを「実際にやってみる」こと。

自分がつらつらと感じていることを記述するときに、結論を導くためには論理を使って説明するのが普通である。
論理を使って説明しないと、自分以外の人が「考え」を「その人に再度考えてもらう」ことができないから。
人を納得させるためには、論理を使うよりない。
だから、どんなブログでも、何かに同意を得ようとしているものには、論理が含まれている。

普通のブログにないのは、ブログでの主張と現実との接点・つながりである。
今こうして気づいたのだが、現実との接点がない考えというものは全く無意味かもしれない。
なぜなら、良し悪しを判断するためには基準となるものと直接比較するしかないが、著者と自分とで共有される比較源泉となるものは「事実」しかないから。
だから、現実との関係を持たないエッセイは、自分とは無関係のエッセイでしかないことになる。
逆に、現実との関係を示すことで、「どれだけ自分と関係があるのか」を直接理解することができるようになるはずだ。


なるほどなぁと、自分で納得した。
今後のエントリーは、必ず「現実と接地する(触れさせる・関係をもたせる)」配慮を入れることにしてみよう。

そんなことを考えていたら、内田樹さんのツィートにこういうものあがった。

これをこれから一両日塩抜きをして、繰り返しを削り、論旨の飛躍を繋ぎ、わかりにくいところに「たとえばなし」を挟み込んでできあがりです。『ナウシカ』の物語の中身についてはほとんど言及がない、「ナウシカ論」というよりは「宮崎駿における創造性論」であります。

締め切りに追われている文章の草稿?をえいやっ、で書き出したあとにやろうとしていることがツィートされている。
どんな文章でも推敲?作業があるはずだが、つぎのようにやるといいらしい。

(1)すぐに投稿しないで、数日ほったらかしにして、その後で次の作業をする
(2)繰り返しを削る
(3)論旨の飛躍を見つけ出し、飛躍を埋める論理を挿入して読者がついてこれるようにする。
(4)抽象的な主張をしている場合は、具体的な(身近な)例をつかった「たとえばなし」を挿入する。

なるほど。

文章というのものは、どんなものであっても書くことは辛いもので、とにかくできたらすぐに「離れたい」と思う。
プロとアマの物書きの文章の違いは、文章の上手下手とか、面白さ分かりやすさとかの表面上の違いもあるが、文章を書くために投入している「努力・コスト」の見えないところに埋まってる違いが大きいことにある。

たぶん読者は「知らないだろう」という内容が含まれているのか、どれだけマスコミなどで流布されている考え方とは「違う」ものが含まれているのか。
そいういった部分の違いにお金を払うほどに価値があるのかどうかが決まってくるし、どのくらいの時間で劣化するかが決まってくるのだろう。

ある一瞬の音で過去を思い出してしまう効用はなんなのか?

2013.01.26 

このCDのこの曲が死ぬほど好きだなぁ。
そういう気持ちはは若さともに失せてしまった。
誰でもそうなるのかはわからないが、ぼくはそういうところがある。
残念だけど。

これはとてもネガティブなことを言っているように聞こえるかもしれない。
しかし、40過ぎると「この曲死ぬほどいいなぁ」と思う機会は減ってきているから仕方ない。
減っているとうか、「ない」。

もちろんこの現実はぼくの経験なので、ぼくの特殊事情の可能性も高い。
美味しい食べ物に感動することは今でも時たまあるし、愉快な本に笑ってしまうことは通勤電車の中でさえ体験する機会が日常の中にある。
にもかかわらず、ある種の「感性」が摩耗していて、何かに感動するということがなくなった。
そういう、ただのオッサン化の症状を告白しているにすぎないという具合に。

なぜ、音楽に「おぉ」って感じることが久しくないのだろう。
特に「新曲」と言われるものに気分が動じるなんて体験は皆無だろう。

つまらないオッサンと化した今でも、昔っから聞いているCDは日常的に聞く機会が多い。
むしろ、そういう音楽を聞かない日々というものは考えられない。

10年くらい前にひどく気に入って、日常的にBGMとして聞いているCDがある。
その曲を聴きこんだのは10年前。
だからだろう、1ヶ月ぶりくらいでそのCDを聞くと、ある曲のあるフレーズ(ギターのインスツルメンタルだが)が近づくと頭のなかでは「実際に聴くよりも早く」再生が始まり、実際のその部分が聴覚として認識されるころには脳内は10年前へと戻ってしまう。

似たような経験は誰でもがしているはず。
歌は世につれ世は歌につれというが、社会現象というよりも個人の生理のレベルまで過去に引き戻してしまう。
ホント不思議なことなんだけど、音楽はタイムマシンの一種であることは間違いないだろう。

昔から聴き続けている曲を聴くと、頭のなかは「歳を取らない」のかもしれない。
物理的な存在としての身体は歳をとっているのだが、脳の中の「状態」はずっとそのまま。

そして、そういう思い出って「悪い記憶は全部消えて、いいことしか憶えてない」もの。
だから、頭の中は理想的に爽やかな状態にあるわけで、きっとそのほうが「健康」なんだろうと想像する。
つまり、身体が気持ちいから昔の曲を選択して聴くようになる。

違うかなぁ。

プログは誰に向けた文章なのだろうか

2013.01.25 

もう何度も何度も考えたことがあることだが、誰のためでもないブログは誰に向けた文章なのだろう。

あてのないこのブログのケースだけでなく、一般的な意味での「ブログ」について疑問になる。

「プロ」だけではなく、誰でもが自由に文章を綴り、それを公開できる「ブログ」というシステムが一般的になって10年くらい経つだろうか。

どんな技術でもそうだが、草創期には「なにやら怪しい」いろんな方法が編み出されては消えていゆくもので、「こうだ」という決定的な使い方が存在しない。
ブログもそうで、使い方がはっきりしないのだから、ブログをつける目的だってはっきりしない。
だから、ブログって一体なんの意味があるんだろうなぁ、と疑問に感じる。

しかし、逆に言えば、もう10年たったわけで、それだったらブログにまつわる機能は出揃ってきたと考えてよいかもしれない。
生まれた当初からブログサービスが身近にある人も結構いるわけで、まだまだ使い方は変わっていくのだろうけど、社会におけるブログの立ち位置と個人のブログの使い方なるものは大体固まってきたのではないか。
ブログを使う人は使うし、使わない人は使わない。

一般的に(普通の人は)、ブログをどうやってつかっているのだろうか。

そういう疑問を思いついたのならば、自分で調査すればいいじゃんかよ。

そう思うけどけど、なかなかねぇ。
何らかの仮説が思い浮かばないと、調べようという気分にはならない。

すべては行きがかり上のことだ、と考える

2013.01.11 

なんかやだなぁ。

そう感じる機会は日常生活のなかで思った以上にある。

逃げ場のない仕事上のことだけでなく、あえてやらなくてもいい個人的な行動のことについてであっても。
例えば、行かなくていいところへ行ったりという休暇のときでも。
日々脳生活、いついかなる時でも、嫌な出来事、嫌な人に遭遇してしまう。
ラーメン屋で居合わせた不愉快な客だとか、駅でスレ違いざまに当たって無視する人だとか、思い出したらキリがない。

嫌なものは避けたいよなぁ。

当然そう思う。
そういうものと関わり合いたくない。
ならば、なんとか出会わないで済ませたい。
そう考えるのは自然なことで、誰だってそう思う。

じゃぁ、どうするか。
自分のことを振り返ると、そういうのは「よく知らない人」が原因になっている。
ならば一番手っ取り早い方法は、自宅から出ないとか、人と関わらないとかである。

もし、それができれば、嫌な気分となる回数を劇的に減らすことができるうえ、速攻性がある。
「自分の感じ方」なるものも「その原因となる自分以外の人の行動も」変えることができないのだから、理にかなった方法であるのは間違いない。

しかしだ。
それじゃぁ、引きこもりだよ。
社会人がそんなことできない。

じゃぁ、嫌な目に合う回数を減らすにはどうしたらいいのだろうか。
ちらちらと考える。

そんな方法があるのか?

いいえ。
なんとかしたいと考えきたが、最近はもう諦めてきた。
もう、避けることはできないだろうと思っている。

人と合うことは避けられないのだから、できることは二通り。
(1)人と合わないように行動する
(2)嫌な人にあっても、自分の気楽をなるべく暗いものしないようにする

(1)については、不要不急の繁華街へ行くことをやめることで対応できる。
いや、結構それでなんとかなる。
それ以上のことはしなくていいだろう。

(2)については、完全達成は不可能だが、そんなことぐらいで自分の気分が揺らがないようにしたい。
完全達成ができたら、そりゃ悟りを開いた僧だろうし。

どうしたら他人の行為によって、自分の気分が暗いものにならないようになるのだろうか。
そこで、人生に一つの目標を設定し、取り組んでみることにした。
考えてみれば相当難しいことで、仏教と同じことを独立に努力することにも思える。
やれることは限られてるから、そんなに大したことではないのだけど。

とりあえず、こう考えてみる。
意味なんてあろうがなかろうが、自分が「知りたいなぁ、やりたいなぁ」と思うことをやればいい。
そういう発想なのだ。
ここに、他人の存在は「さておく」ことにする。

ある種の謎に迫るには、楽しいことと同じくらい嫌なことがあっても「納得」できる。
どんなことでも嫌なことばかりに偏ることはないだろう。
長く生きていれば、「必ず」プラスマイナスゼロになる。

そのメカニズムを前提として、嫌なことは仕方ないと諦める。

無関係なことなのに、関わりたもくない人に迷惑を受けることは、もう仕方ない。
人生の行きがかり上、仕方ないことだ、と思って受け入れる。

一言でいえば、「嫌な思い」は、人生を生きていくために必要な「税金」。
どうやっても避けられなかった嫌なことは、そりゃもう「行きがかり上仕方ない」で諦める。

こういう発想はどうだろうか。

うーん、結局なにも言っていない、という気もするのだが。

本を読んでいる時に考えていること

2013.01.04 

本を読んでいる時、ぼくは何を考えているのだろうか。

以前から感じていたことだけど、最近やっとそれを意識できるようになってきた。
もちろん読みながら意識するので、曖昧な理解ではあるのだが…。

本を読んでいる時に何を意識するかって?
当然その本の内容だろう?

いやいや、ちがうんだよ。
ここで言っているのは、読んでいる時の自分の「視線」を言っているんだ。

そりゃ視線はページにある活字へ、だろう?

「目玉の向き」の意味での視覚では、そうだろう。
でも「意識でなかの視線」は、必ずしも本を向いていないよね。
ぼやっとしているときに「何も見ていないかった」ということがあるじゃない、あれと同じ意味で。
なんてのか、「今、自分はどういう状態にあると想像、あるいは勘違いしながら」本を読んでいるのかなぁ。
このことを言っているのだよ。
だいぶ昔、高校生の頃の話だけど、真夏にベッドで漫画を読んでいた。
クリスマスシーズンの内容の漫画だった。
そのときは冷房をガンガンに入れていて、すこし寒いくらいだったので、漫画を読みながら「あぁ、早く夏が来ないかなぁ」と、読みながら想ったりしたんだよ。
読み終わって、われに帰って驚いた。
驚いたから、今でもその勘違いを憶えているくらいだ。


んなことを言っても、あまりわかってもらえない。
が、それを百も承知で考えている。

読んでいるときに自分は何を見ているのか。
それは、どんな本を読むのかによって違ってくる。
当然だろう。
本質的には小説でも論説文でも同じかもしれないが、人によっては論説しか、あるいは小説しか読まない、ということもあるだろう。
なので、両方のケースで考えてみる。

まず、小説から。

小説を読むときの読者の視点はわかりやすい。

目は本のページを見ている。
活字を見ている。
ページに散らばる文字を眺めているわけで、「漢字が多いなぁ」とか「改行が頻繁にあるなぁ」とか、そういうことを感じながら読んでいる。

しかし同時に見えているのは、小説の場面だろう。
それは視覚的なイメージであり、音響的(会話?)なイメージだろう。

文字を目で追いながら「同時」に世界を感じつつ、本を読む。
主人公の振る舞いを近くで見ているような想像が読者の頭のなかで立ち上がっているはずで、それは映画のシーンのような形かもしれない。
あるいは、映画のシーンをみたときに抱くであろう「感触(クオリアかなぁ)」を感じているかもしれない。
その世界に浸る、つまり自分もその世界にいるかのような「勘違い」ができたならば、小説を読んだかいがあるもの。

自分が自分であることを忘れているとき、自分の視線は本の登場人物の視線を意識しているのだろうか。
あるいは、自分が自分であることは忘れないで、本の中の世界を自分のまま(幽霊のように)傍観する視線なのか。
そのどちらかであろう。

一方、論説文のときの視線はどうか。
事件や社会現象の解説や国際紛争の論説あるいは科学研究などのドキュメンタリー的なもの。
そのような本を読んでいるときには、ぼくは何を「見ている」のだろうか。

読み始めは、著者が自分に「教えてくれる」場面を想像している。
教室で自分が机に座って、著者が黒板に背を向けて立っているとか。
必ずしもそういう場面ばかりではなく、著者の姿は見えず声だけが聞こえるというときもある。

本が紹介してくれている「社会」なり「世界」なり、あるいは「組織」というものを(適当に)想定して、それが「動く(つまり機能している、活動している)」ところを見るということもある。

こういう本では、ぼくは著者から「教えてもらう」という態度で読んでいる。
著者の授業を受けている学生のつもりで。
あるいは、よく知っている人から教わっているという態度で読んでいる。

実際はソファーで寝転んでいたり、通勤電車の中にいたりするのだが、読んでいるときは仮想的な世界での生徒という気分で読んでいる。

だから、ふむふむ、なるほど、うぁ勉強になった、という衝動が多いほど「読んだかいがある」わけだ。
さらに、いいことを聴いたあとには
「おぉ、これを誰かに教えやろう。きっと知らないだろうから、そういう人にぼくが「教える」機会があるはずだ。」
などと考えたりする。

別の言い方をすれば、自分が仕入れた情報は基本的には「誰に教えるため」に頭の中で整理している、となる。

別に、僕が教師マインドを持っていることを自慢しているのではない(残念ながら)。
むしろある種の「自慢をする」ことが目的になっている。

「こんな事実を知らないだろう、オレは知ってるぜ」


少年ジャンプを一日でも数時間でも早く帰る書店に行ったものである。
「リンかけ」の続きを早く読みたくねぇ…。
小学校時代に友達よりも「先をいっている」という自慢からくる優越感は、行動の励みになっていた。
ドラえもんやガンダムやTVゲームの話をするとき、どちらがファンなのかを競うという動機が「教えてあげるよ」ということだった。

ということ、本を読む動機と全く変わっていないのかもしれない。
小学生の動機のまま、40すぎまで同じ事をやっている。
対象は歳相応に変わっているが、中身は変わっていない。
なんともがっかり。

つまり、本を読んでいるときの「心の視線」は、最初は語ってくれている人・教えてくれる人(つまり、著者)に向けている。
しかし、本の内容が「おもしろく」それを頭に入れ始めるとすぐに、「今聴いたことをあいつに教えてあげよう」というような気分がしてくる。
そのときの相手は、全く決まっていないし、想定もしてない、にもかかわらず、である。

ということは、視線は他人を向いているという事実があり、そうしているときには「この話を知らない人にしたときの優越感」を先取しているわけである。
なるほど、思い返してみると、そんな気分がしているような気が確かにしている。

自分が勉強するだけならば、「自分が」情報の終点でよいはずだ。
それなのに「こんなことを知っているか?」と友達に自慢する気分が立ち上がり、読書で知った情報の出力先が「自慢」という回路につながっている、ということになる。

なんだよ、読書好きって、他人に「自慢するため」なのかよ。
自分の底の浅さに気がついてしまった。
がっくるだよ。

いやまてよ、と思いなおす。
実際読んだないようを「誰かに話す」ということはない。
そもそもそんな相手は物理的に存在していないし、人と合う機会があっても自分からうんちくをあーだこーだ言うことは一切ない。
(人によく思われようと独力する時間があったら、さっさと帰って奥さんとテレビでも見ていたほうがいい)


ここで、本を読む行為について、疑問に感じる。
だってそうだろう、実に不思議なのだ。
実際に使うことがない行動を想像した視点で読んでいるのだから。

何かがおかしい。
情報というものは、必要になる前に獲得していて初めて意味をなす。
そりゃそうだろう。
その時に調べても間に合わないのだから。

でも、どういうわけだが、過去の自分の人生を振り返ってみると、何らかの事件が身に起きた時には「必要な情報はすでに持っている」ということが多かったことに気づく。

どうして、必要になる前に必要な知識を獲得することができたのだろうか?


本を読む視点ということは、その疑問につながるようだ。

2013年の抱負

2013.01.02 

震災から2年が経過しようとしている。
震災をきっかけに、ぼくの行動の方針は一変した。
以前よりずっとシンプルなものになった。
生き延びるにはどうすればいいか、という具合に。
今も線量計をずっとカバンに入れてログを取り続けているし、食材についても注意している。
電気を熱に変えるエネルギーの使い方は極力やめた。
できることはやろうと思ったことのうち日々の生活に取り込めたもは今でも継続できている。

一方で、原発震災の記憶は少し消えかかってきる気がする。
何かのおりに「緊急地震速報」の音を耳にすることがあり、それがテレビであっても携帯であっても、自分の意識は正気なのだけど、涙がでてきてしまうことがある。
深層心理のレベルで、ぼくはダメージを受けているのかもしれない。

とはいえ、地震があろうとなかろうと生きていられる時間は限られている。
死ぬのはまだだいぶ先だろうとか、まだまだぼくにも未来があるとか、そういうことを無条件に(ぼやっとだが)感じることができなくなってきている。
そりゃそうで、ぼくはもう40過ぎのおっさんだから。


ある程度歳をとると自分に対する評価が現実的なものになってくる。
もともと「根拠のない自信」というものを持つタイプの人間ではなかった。
最近は学生時代、子供時代を思い出してみて、そもそもからしてぼくは立派な人間であろうはずはないよなぁ、と再認識する回数が多くなった。
頑張れば今からだって「なんらかのこと」を成し遂げることができるかもしれない。
なんてことはあまり考えない。
そんなことは無理に考えても痛々しくなるか、馬鹿馬鹿しくなる。
別段くらい気分になったり、諦観でいたりということはない。

観測される事実をデータとして感情抜きで受け入れることができるようになった。
自分は普通の人間であり、社会において何かしら立派なことを成し遂げられるような人ではない。
当然のことだよなぁと感じるようになってきた。

一度この考えが自分に染みこんでくると自分の変化に気づく。
自分がやっていること、これからやろうとしていることに対して「制約」が消えてゆくのだ。

「自分はこれこれの勉強し、学位をとり、こういうところで働いている」ということを前提としてしまうと、それに見合った、あるいはそれ以上のことを「達成すべき人」にならなければならないと考えるようになる。
あえて言わなくとも「そう」考えるようになってしまう。
自分が自分のに対して、許諾できる社会的存在に下限を切ってしまうところがあった。

恥ずかしことできないよなぁ、という縛りのようなものが厳しかったので、「ばかばかしい」こと「原始的な」こと、あるいは稚拙なことをすることができなかった。
その可能性があることは全部最初に避けてしまっていた。
そんなレベルの低いこと、やってられれないよ、という具合に。
世の中では「それはプライドが許さんから」とでもいうのだろうか。

しかし、これってプライド云々よりもまずいことが起きる。
学習できなくなるのだ。
今できないことをやろうとするからには、馬鹿馬鹿しいくらいにレベルの低いことに着手しなければならないのだが、それが一切できなくなる。
やろうと思っても心理的に「できない」から。
すると何を言い出すか。
「あぁ、学生の頃にもっと勉強しておけばなぁ」
決まってそう言い出すはず。

学習する過程では、稚拙なことをする自分を他人に見せてしまう過程がある。
「弱い自分」を社会に晒してしまう可能性がある。
子供だったり、学生だったりすればそれは許される、と自分で信じている。
だから、堂々とでないにせよ、ダメなところを見せることができる。

ところが、ある程度「立派な」人は、それができないだろう。
プライドがあるから、ということは少し違う。
好き嫌いや美学的なことからではなく、生死に関わる意味で避けるはずだ。
弱い自分を晒す可能性のあることは、生命の危機のようなものと考えるから。

ほとんどの「立派な人」はそういう弱い状況の人を潰して這い上がってきたのではないか、とぼくは想像している(自分はそんな立場にないので想像でしかないけど)。
そんな人は、自分がやってきたことだから、今度は自分はそうされるだろうと考えてるのではないかと想像する(想像でしかないけど)。
そういう人って大変な人生を生きているわけだ。
彼らは「上昇」以外に生きるすべがないから。
立派になった人はもうあとに引けない。

一方で、そもそも「たいした」人ではない人は、いくらでも弱いところを他人に見せることができる。
他人からの評価が高くないのだから、馬鹿馬鹿しい、稚拙な状態にあるところを他人に見せることも可能。
失敗しても、「ははは、勉強中なんだ」、とにっこり笑って見せることすらできる。
だから、物事の基底部から学習することが可能になり、続ければ学習内容を自分のものとすることができるチャンスは大きい。

もっとも、「たいしたことがない」という評価の人は、そろそも「学習して高みに登る」という行為に成功しなかった人なのだが、今から勉強したとしても学習内容を自分のものとできる可能性は常に高くわけではないのが現実である。
なので、「十分な時間を運があれば」いつからでも身につけることができる可能性が残っている、という言うべきであろう。


職場が有名なところで、間近でいろんなものを見てしまうところにいると、「自分もすごい人達の仲間なんじゃないか」と勘違いしてしまうことがある。
そんなわけはない、ってことを最近になって思い出す。

小中と普通の公立学校でのほほんとし、高校ではビリから数番目、先生には「お前は理系に来るな」と言われたことを思い出す。
大学だって二浪一留だったし。
そうそう、そもそもそんな自分が「そんなにすごいこと」をできるなんて期待しないよなぁ。
普通の人に戻ればいいだけだ。
今の職場で楽しく仕事をしているのは、能力のおかけではなく、勉強するべき時に少なものだけど勉強し、ラッキーな先生が目の前にいた、というだけのたまたまの話である。

「今、何をしているの?」と問われて、大したことをしていないと堂々と答えることがある。
すると相手は「そんなことないでしょ?」と食い下がってくる。
とはいえ、実質大したことをしていないのだからしていないと答える。
普通の人だから、何かをやるにはそれなりの努力が必要だった。
(そういえば、受験でも大学でもかなり勉強したんだったけ)


ぼくは知りたいことがある。
そのためには何をとっかかりにして、どんな作業をしたらいいのだろうか。
そういうことを教えてくれる先生はこれまでいなかった。
今後もいないだろう。
教えてくれる先輩もいないし、同僚も後輩もいない。
とはいえ、知りたいのだから調べて何かしら進めればいい。
だれも教えてくれないってのは、まぁ「ふつうのコト」だろうと思うことにすればよい。

こんなことをしていると、ますます職場で浮くことになる。
が、僕は職場において全く役に立たない人間でもない。
なぜなら、僕がやろうとしていることで必要なことのある部分は独学で身につけたのだが、周りの人はそれができないから。
そういう場面では何らかの役に立てるわけで、「専門外ですけどね」といって手伝うことで居場所は確保できている。
居場所があって、時間がある。
だったら、これを最大限利用して、自分が知りたいことへの「とっかかり」を見つけることが。
人生は短いってのは、かなり確からしい。
ぼくもあと何年この追求をやっていられるのかわからない(今年もつかどうかもわからない)。

さて、地味だが今年も知らないことをゼロから勉強するか。
「だって馬鹿なんだから仕方ないじゃない」ってことを掲げて、自分が必要なことを一つ一つ学び取っていくか。

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