普通の人がニュースを読む・見る必要性。それは、先回りのための準備

2013.08.23 

市井の人は普通の生活をしながら、幸せにいきていければそれでいい。
何かで有名になることもないし、大金持ちなったり、名誉なことをしたりする必要はまったくない。
そんなところに「幸せ」を感じる源泉は全くない。
ぼくはそう思っている。

そうわかっていても、なんとなくニュースをみていると感情的になり、不愉快になり、政府や企業ってのは嫌な存在だよなぁ、なんて腹立たしくなる。
うっかりすると、天下国家を論じたくなったりする。
「こうするべきだ」というあれだ。

しかし、選挙で一票を入れることしかできない人が天下国家を論じても仕方がない。
ましてや「ああしろ、こうしろ」と念じたところで全く意味が無い。
単に不愉快になるだけだ。

不愉快を解消する方法としての選挙には全く意味が無い。
これまでの経験上、「まともなだよね」と思う主張していた候補者が当選したことはあまりない。
大政党や宗教政党のようなものが結果的に当選しているところを見ると、ぼくの「まともだよなぁ」という感覚は一般的ではないわけだ。
どっちが正しいとか間違っているとかいうことではなく、単に多数派ではないわけだ。

「ばかだよなぁ、このままじゃぁ、ああなっちまうじゃないか」
予測というものではなく、何も食べなかかったらお腹が空くだろうよ、程度のことでさえニュースでは報道しない。
世間ですら問題されていないようなことが多々あるが、そういうことが選挙の争点になることはあまりない。

先日の選挙でも、ほんとにどうでもいいようなことを「審判を仰ぐ」とか言って投票するように報道していた。
今までそうだったし、それでよしと思っていた人は「そのままその仕事をしている」のだから、今後もそのままだろう。

悪い予感がする、というのではなく、良くなるわけないだろう、と考えていることが幾つもある。

もうすでに敗戦を迎えているのだが、いつになったら認めるのだろうか

2013.08.22 


連日深刻なニュースが報道されている。
報道をみていると、このニュースの次にアナウンサーはにっこりしながら野球の結果を報道していたりし、どうもニュースを読むほうも見る方も、その内容はさっぱり理解できていないのかもしれない。

ニュース番組内で扱われる順番は遅いし、その時間は短いし、交通事故と同じような雰囲気の項目として淡々と報じられている。
民放はそれで仕方ないとしても、NHKまでがそう扱うから心配になる。

目前の事実を無視した傾向にあると強く感じる理由は、この水漏れが「事故」であり、この影響で予定していた「漁業の試験操業」が遅れる、という「困ったこと」というでこのニュースが扱われている。

しかし、ちょっと考えればわかるのだが、福島第一にはもう逃げ場がない。

工夫しようがしまいが今後も大量の汚染水が地下水として大地に供給され続け、大半は太平洋に放出、海流によって日本周囲だけでなく太平洋中に流される。
相手は物理現象であって、誰かが呼びかけてもお願いしても、止まることはないだろう。

原発をめぐる人々(政府・東電だけでなく原発稼働で利益を得る会社)の行動や発言から容易に想像できるが、結果的になんとかなると考えているようである。

しかし、ちょっと考えてみればわかる。

メルトダウンした燃料の冷却を続けなければならないこと、毎日大量(400トンと言われている)が発生していること、それを保管しておかなければらならないこと、これをあと数十年つづけなければならないこと。

さらにいえば、廃炉は実質的に見通しがない。


もう、すでに敗戦を迎えているのである。

結局、どこまで住めなくなるのだろうか、どれだけ海洋汚染を続けるのだろうか、を考える段階だろう。
これは政権が変わろうが、人々が反省しようが、もっといえば原発のポツダム宣言のようなものを受け入れいたとしても「なんのかわりもなく」存在し続ける。


それでも、再稼働を唸っている人がたくさんいる。

太平洋戦争末期の政府、日本軍と同じことを寸分違わずやっているわけだ。

広島・長崎の原爆投下で日本軍は敗戦したと考えている人が多い。
福島第一の次に事故があれば、それで終わるだろうと。

とはいえ、日本が戦争をやめた直接の理由は原爆投下ではない。
ソ連の参戦だ。

さらに、原子力発電所で大事故があっても、東電も関電も政府も原子力はやめないだろう。
「まだ、諦めるな」といいつづけるだろう。


では、どうなったらこの人達がやめるのか。

ちょっとわからないのだが、ぼくは使用済み燃料が「どうにもならない」ということをアメリカやフランスあたりが言い出したときだと思う。

普通の人ができること、それがSNSなわけないか・・・

2013.08.01 

LinkIcon中川さんの新書を読んでいたら、市井の人でしかない自分がブログをつけたりSNSにエントリーを入力したりする。
これ、実に恥ずかしいことをしているような気分がした。
Twitter、ちょうどどうしようかと考えていたこともあって、これをきっかとして全部スパっと解約した。

普通の人がブログに写真を載せたり、新聞記事をネタに政府を批判したり、企業の振る舞いにイライラして毒づいたりする。
あまり好ましいことではないような気がする。
いや、どちらかと言えば愚劣なことかもしれない。
流行りだからとおもってやってみたが、自然と疑問が湧いていたんだ。

自分がつまらない存在だという事実は見たくないことだったが、こうもはっきりと指摘されるとね。
この本の趣旨を理解した普通の人だったら、全部サービスを解約するよりないだろう(たぶん)。

SNSを続けることは誰に迷惑をかけることではないが、仮想的な世界での愚行でも現実の自分の発言であることには違いない。
だったら、災難からは離れるに限るだろう。

普通の人が文章を書いて、それがインターネットで閲覧可能になる。
どうでも個人がどうでもいいことをちまちま書くことに意味はないのは確かなのは変わらない。
それでも、ブログを一つエントリーすると「なんかやったな」感を感じていた。
その気分だけけがツィートしたする動機だった。

まぁ、でも、それって「やっぱり」意味ないかもしれない。
そう思うようになった。
普通の人は何をやっても普通の人だろうね、ほんとに。

普通の人の書く文章が面白いわけない。
それは能力というより、そんなことをする理由がなかったからだろう。

ごく一般的な人が文章を書く機会など、これまでほとんどなかった、のは事実。
学生やある種の社会人は「報告」というものを求められるが、それもとちらかといえば「面倒なもの」ということでしかない。

普通の人が頼まれもせずつけるのは日記くらいだったろう。
元旦に日記をつけ始め、学校が始まるときには忘れてしまう。
こんな記憶はだれにだってあるだろう(たぶん)。

「日記」は苦役として、あるいは修行のようなものとして存在していた。
宿題でもないのに「さぁ、日記をつけるか」は、気分一新して新しい自分になるぞ、という表現だった。
それでも、たいていは3日坊主になる。
普通の人は「文字にして記録するほど愉快なことは日常では起きない」のが普通だから、日記は続かない。

ならばブログだって同じことになるはず。
自分の考えたことを文字にするのは結構つらいから、身辺に起きたことをブログにつける。
どこへ言った、何を食べた。
あるいは写真をとって感想をつけるとか。

この作業自体はつまらないだろう。
最初はワクワク間があるが、手順を憶えてしまうとなんの気分も起きない。
そういうものだ。

それで結局やめちゃう、となる。
こうなるだろうと自分でも予測していた。

しかし、FacebookもTwitterも以外に続いた。
読者をまったく想定しないで書いていたので、一方的な感情表現に終始することになったが。
どうして1年以上つづいたのだろうか。



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