市販の雑誌に2ページだけど文章を書かせてもらえることになった

2013.09.28 

市販の雑誌に2ページの文章を書かせてもらうことになった。
職場の人たちが2ヶ月に一度順番に書いているらしく、ぼくはその最後にまぜこんでもらえるらしい。

雑誌といっても、「雑誌の付録」についてくる数ページの小冊子の2ページ。
その冊子は中高生向けなんだけど、読んだところ内容のクオリティーは高く、ぼくが読んでも「へぇ、そうなんだ」と思ったりした。
雑誌そのものの読者層は極めて限られているが、その分野の人は「絶対に知っている」雑誌だから、変なことは書けない。
ホントに。

すでに何人かの人が掲載されている。
面白いものとつまらないものがある(残念なことだけど)。
普段から論文や予算取りの文章しか書いていない人だと、まぁそうなるわな、という文章。
そういうのはつまらない(仕方ない)。

一方で、そこそこ面白いものもある。
自分の研究テーマを「愉しいから」やっている人なんだろう。
そもそも面白いことをやっているので、それを説明するときも愉快だろう。
それが言葉ににじみ出ちゃっている(たぶん)。

ならばぼくも好きなことを語ってみるか。

もちろん、内田樹さんの「知らないことから語り始め、その人なら言いそうないことを言って終わる」という方法は守ってみたい。
できるいいなぁ。

とりたてて奇をてらったことをする必要はない、ということに気づく

2013.09.01 

「研究」という行為について、ちらちらと疑問に感じることがある。

こういう場合の「研究」とは、誰も知らないことを探しすことで、それが「誰もまだやっていないこと」であれば、素晴らしいという評価を与えられる。
だれかがもうやっていたら「意味が無い」ということで終わってしまう。
だから多くの研究者は「誰もやっていない」ということを自己目的化した活動をするこことになる。

数学や物理のような分野はこれまでそうだったし、今後もそうなんだろう。
わかっていることをわかろうとして、それは個人の勉強でしかないではないか。
過去の人の活動の上に、自分が新しいものを付け加えるのだ。
こう考えるのは、まったく健全だ(異議はない)。

だからといって、これが「研究」という言葉で指し示すすべての活動の価値基準にされてどうする。
「誰も見たことがない」ことを追求するのは、それは「対象に興味がある」ということとは別だろう。
たんに、「おれはすごい」という感情を突き詰めているにすぎない。

工学は少し違う考え方が入り込む余地があるんじゃないだろうか。
というのは、自分が作りたいことは「すでにあること」でも「だれもやっていないこと」でもなく、ある特定の「こと」であるからだ。

それをたどり着くための道筋にはいろんな物事があるだろう。
過去の結果をうまく使い、定評のある道具を「上手に」つかって、自分が目的とする結果をえることでなんの問題もない。
というのは、ほしいのは一体なんのか、それを得ることができたか、が重要になるからだ。

ちがうかなぁ。

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