読んだ本の感想を書きはじめて10年、そろそろ効果が

2013.11.24 

ブログの最初の一歩として読書感想をつけることは多くの人がやっている。
ぼくもそこからスタートした。
それが2004年の年末だったので、もうそろそろ10年経ったことになる。

通勤時間に本を読む週間はブログをつける前からあった。
読んだ本のメモをつけると、ただ読むだけよりも何を読んだのか精度よく把握できるようになった。
わかったことはいろいろ書けるし、何も書けないのならば「なにもわかっていない」ということだから。

読んだ直後ですら読んだ本のことをよく分かっていないことがある。
そんなときは、しばらくしたら理解したことすら忘れていまう。
これが事実なんだから悲しいのだが、まぁ人間の実力はこんなものだ。

とはいえ、何かをしはじめて10年たつ。
なんと感慨深いものか。
何事をやるにしても最低10年かかるなぁ。
つくづくそう思う。

今はPCにソフトをインストールするかの如き「学習即利用」という状況が求められている。
読んだ本はすぐに使えるかのようなものを、勉強したらすぐにヤツに立つものを求められている。

そんな状況は勉強やお稽古事だけではない。
本だって音楽だって、ラジオだってテレビだってそういうものを求められている。

阿呆だわ。
つくづくそう思う。
即効性に価値があるという思い込み現象はマスコミが広げている。
「そういうことがあるかもしれない」と思って多くの人が釣られている。
それで市場成り立っているので、関係者が賑やかにやるのは傍から見ているは害がないのでいいんだけど。

しかしだ。
本を読んで考えて言葉する。
こんな簡単なことですら10年たってもうまいくいかないのだから、多くの物事だってそうだろう。
そのもの人間の能力の適用度には限界があり、時間がかかる。
そういう仕組みなんだと思う。

それでは「困る」という方が多いから現在のような状況になっているのだが、人の社会的な都合と人の身体とはあまり関係がないように思える。


とはいえ、震災以後感想文を書けなくなってきた。
だから、感想文を10年つづけたといっても「完璧にやれた」というわけではない。
ただ「やめていない」というだけで、情熱はかなり薄れてしまっている。

では、買ってに始めた読書感想文のブログをつけることは、どれだけ「現実的な価値」があったのだろうか。

自分の能力向上という意味では意味があったのだが、客観的な指標としてお金が使える。
ブログにはアマゾンのアフェリエートが付いているので、ぼくの感想文からアマゾンにジャンプして本を購入してくれた人がいると、購入金額の1%くらいのアマゾンポイントが蓄積される。
この10年でたまったポイントは、かろうじてアマゾンで使える最低ポイント(1500)でしかない。

金銭的な価値で計測したら、ブログに読書記録をつけるなど未意味である。
まぁそうだ。
しかし人知れずブログを続けた事実が、いざとなれば短い文章くらいすぐに書けるよなぁ、という自信を裏付けている。
その能力は世間的な評価としては大したことはない
だけど、文章を書くときの心理的な敷居が驚くほど下がったのには驚いた。

お金で買えない価値はあるなぁ。
10年後の感想としてはパッとしないけれど、これは事実であることをまたひとつ体感できたわけだ。

嫌な思いを消す方法について、さらに認識が深まった

2013.11.23 

ある種の気付きが訪れた。
全く当たり前なことなんだけど、腑に落ちた。
それは、嫌な思いをしたときの「対処方法」。

実に簡単である。
嫌な気分が湧き上がったら次のことをすればよい。

  1. 嫌な気分を感じた場所から、できるだけすぐ、なるべく遠くへ身体を移動させること。
  2. 身体的な外傷があるかどうかを確認する(傷や打ち身、あるいは細菌、ウイルス、あるいは薬品の影響があるのかないのか)。
  3. 経済的な損失がどれくらいかを確認する(損をしたとして、どのくらいの金額か、金額に匹敵するのか。支払い可能かどうか)。

これだけ。
上記の2,3の確認の後、損害がないか、あるいは復旧(治療)できる範囲であれば「よかった、助かった」と思うこと。
そして、嫌な思いをしただけならば、2,3は「ない」はずだ。
つまり、「気分を害した」というだけでしかなく、なんの実害も発生していない。

でも、自然界の中でいきてゆくのに気分のいいことばかりが「起きるわけがない」。
とくに同種の人間という存在に囲まれて、気持よく過ごせるわけがない。

だったら考え方を変えた方がいい。
損をしたっていいし、怪我をしたっていい。
大事なことは「生き延びられるかどうか」ということ。

こう考えれば、嫌な人に出会ったなぁ、嫌なことをされたなぁ、嫌なことを言われたなぁという類のことは全部「まぁいいか」に収まってしまう。
つまり、心情だけが害されたというのはらば、身体を動かして身体で感じている情報を捉えるように気分を落ち着ければ、「嫌な気分とは、実態が全くないことだった」ということがよくわかる。
そんなことに、自分の行動が影響されてはほんとに勿体ない。

10年くらい同じイベントに毎年顔をだすと、古くから続くイベントも不変のようで不変ではないことに気づく

2013.11.04 

神田で開催される古本市は秋を感じるイベントして毎年楽しみにしている。
とくに買う本はなくとも、靖国沿いに並んだワゴンを一つ一つ見ていくのは楽しい。
どうせ買わないのだけども。

収穫があるのなしによらず、本を探してうろうろする時間を持てたということが、自分の身体にっても清々しさを感じる。
何冊か買った時はそれはそれで楽しい。

そういうイメージを抱きつつ今年も歩いたのだが、どうやら様子がおかしい。
ワゴンをひやかしてある自分には全く「ワクワク感」というものがない。
なにか楽しくないし、道行く人が持っているはずの期待感のようなものが伝わってこない。
今年の古本祭はなにかおもしろみがない。
どうしてかを考えたのだが、雨が降ったという天候が最大要因なんだろうかとしか思い浮かばない。

イベント自体に興味がないのか、それを感じる自分がおかしいのか、その違いは分からない。
でも、変な気分だった。
結局日を変えて3回ほど足を運んだが、ワクワク感を感じることができなかった。

なるほど、毎年同じ場所で同じ人達を集めても、同じイベントをやることはできないんだな。
何か別の要因が全体を支配しているのだ。
それは一体何なのだろうか。

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