2013の出来事

2013.12.31 

ことしは大きな変化があった。
「仕事の始め方」を変えたのだ。

声をかけられたことにはぜんぶ乗ってみる。

たったこれだけなのだけど、暇しない程度の作業があれこれ振ってきて、しかも全部面白いものだった。
研究費という名目の資金はほとんどもっていないのだが、とはいえ、振ってきた仕事の範疇で面白そうなことはいろいろできるので、結果的に研究費には困っていないという状態になった。
ぼくは振ってきた仕事に研究的要素を見出して設定し、それをすべて研究にしてしまうことにしたのだ。

面白いか思い白くないかは別として、信用できる人からの話には即答する。
これは「幸福の女神には前髪しかない」という格言の実践方法の一つだと思う。
普段から信用できない人には近寄らないので、結果的に話をもってきてくれるのは信用できる人だけになっていることも幸いしているかもしれない。

これは自分の人生を自分で決めているような雰囲気はない。
まぁ、自分で人生を左右するようなことはなかなかできないものだし、ここ一年くらい運に委ねるものいいだろうと思っていた。

ぼくに持ち込まれた作業は「命令」ではなく「相談」だったので引き受けないとことは可能だった。
そんな感じで気軽に「あぁ、いいですよ、引き受けますよ」といって引き受けるという方法にした。
「人生の岐路」での決断を迫られるような場面に陥ったら、すでに負けている。
そう考えているのだから、その決断しなければならない分岐点よりもはるか手前で道を曲がってしまうほうがよい。
それを実践してみた。

来年はそのような形で引き受けた仕事の結果がパラパラと出てくる。
なので、ホントの意味で「安請け合いして良かったのか」が判明するはずだ。

来年の結果をみてから、今後の生き方を更に変えていくことにしたい。

タフ、という言葉の意味がわかってきた

2013.12.30 

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とくになんの感情も持ち合わせないまま街にでて買い物して帰ってくる間にイラッとすることが1、2回はある。
多いだろうか。
ぼくが短気だからということがあるかもしれない。
しかし口に出したり表情を変えたりするほどでないにせよ「イラっと」する感情の噴出は、どんな人でも一日数回はあるんじゃないかと思うのだが、どうだろう。

例えば今日はこんなときにイラッとした。
バス停で先頭から2番目で待っていて、後ろに3人くらい並んでいた。
秋葉原駅だったので、バスの終着駅であり始発駅だからバスに乗客は全員降り、それからぼくらが乗り込むことになる。
だから、並んでいる人は全員座れるわけである。
待ち時間は5分位だったし、極寒のなかで待っていたというわけでものない。
そこに一人のおばさんがふらっとやってきて列の先頭近くに佇み、乗車口が開くと真っ先に乗り込んでいった。
並ぶという行為を一切無視した人だった。

ぼくがイラッとするのはこういう時である。
このときは並んでいた人誰もが「イラッと」したはずだが、かといって声に出して非難する人はいなかった。
まぁ、全員座れるのは分かっているから。

最初に乗り込んだおばさんは、精神病罹患者か知恵遅れの障害者かあるいはその両方を患っている人なんだろう。
あるいは単に唯我独尊の人かもしれない。
いずれにせよ列で並んでいた多くの人は「文句をいってもしょうが無い人」だと思って感情を抑えたはずだろう。

混雑する駅の改札とは車内とか、不特定多数の人が集まってくる場所ではこのおばさんのような人に出会うことはさけられないだろう。
「イラッとしない」で帰宅できたらまずまずの幸運だと言えるだろう。
そうそう、と多くの人が納得してくれるのではないかと思う。

怒りを外に出すほどではないイラツキだけならば、なんとか自分で抑えることは可能だろう。
しかし、「イラッとした人の蛮行の被害にあったどうだろうか。
この場合、相手が「普通の人じゃないから」というだけではすまず、口喧嘩になるか、嫌がらせ合戦になるか、あるいはイジメや暴力沙汰に発展してしまうことすら珍しくないだろう。

人生相談などをはじめて世の中の人の愚痴は「気に喰わない奴」の話で構成されており、その大半は嫌な人の被害にあっているというテーマで語られている。
そんな目にあって嬉しい人などいない。
誰だってそんな目に会いたくないはずだ。

では、どうしたらそんな目に会わないで済むのだろうか?

それが「タフさ」なんだと思う。
タフという言葉は、身体的な丈夫さが第一の語義だろうと思う。
アーノルドシュワルツネッガーのような人ならば、野生動物みたいなイメージがあり、いざというときでも生き延びる可能性が高い。
災害や戦争にあっても生き延びることができそうだ。

あるいは、サラリーマンで出世する人のように、反対派のなかでうまく立ち回り、結果的にプロジェクトを成功させるような精神的な意味で疲れを知らない人。

今日までぼくもタフの意味をそう考えていた。

でも、先の説明した乗車したバスの車内ではたと気がついた。
いや、ちがう。
タフってのは、自分の怒りに自分の思考力が「負けない」という状態なんじゃないか。

ぼくがバスで遭遇した先のおばさんのような人に対して誰でも抱くはずの「苛立ち」を「自分の思考や行動へ影響を与えない」ようにできるのか?
それがタフさなんじゃないか。

イライラしている間は、外部世界への注意力が全く機能しなくなってしまう。
嫌なシーンを繰り返し思い出してイライラしたり、どうやって反撃したらいいかを想像したりするから。
イライラすると「倍返しにしてやる」と考えて、どうやったらそれができるか想像を巡らしてしまいがちだから。
自分の周りがどうなっているかなど頭に入ってこない。
このような状況は、災害時だって会社や世間での人間関係だって同じなんじゃないか。

そんなときに、自分に一瞬生じたイラツキをたちどころに消すか脇に置くことができるかしたらどうだろうか?

バスのおばさんの例だと、座席はほとんど空いているのだから、さっさと座り、そして今日の思い出や街の風景などを楽しむほうが「よっぽどよい」。
それは確かだろう。
そしてそのほうが次に自分に振るかかる危険を事前に察知することもし易しい。
イライラしていなのだからストレスも感じない。
ずっとずっと「人としてあらまほし」的な行動であろう。

タフな人とは、自らの内部で湧き上がる怒りの感情に対して、精神的に「なんの影響も受けない」ような方策をもっている人、感情的に「怒り悪い人」となんだよ。
そしてそれは、どんな場合においても「生き延びる可能性」が高い。

よし、来年はそれをテーマにして一年生きてみよう。

そんなことを夕暮れのバスの中で考えた。

研究について、人事異動について、あいも変わらず同じこと言ってしまう

2013.12.29 

また、説教になってしまう。

説教したくてする人もいるだろうけど、そうではない人もいる。
ぼくもその一人で、なんで結局説教になるんだろうかと我ながら呆れる。

今の部署から異動したいとか、人事がそれを考慮してくれないとか、そういう話を聞いていると「お前はアホか」といいたくなってしまう。

修士課程や博士課程にのらないで何かをするときは当然不利になるはずなのだが、相談者は修士や博士過程を「大した事をしていない」と見下しているわりに、その相談者の研究と称する活動を見てると手法が幼稚で呆れてしまう。

親切心から、ぼくがなりに「どうすれば人事異動が達成できるのか、どすれば博士号が取得できるのか」について、ゼロから論理建てて説明することになる。

言われている人からみれば「自分が思った方向に進める可能性はゼロに近い」と受け取られるだろう話するわけで、相手は不機嫌になる。
そして、後半話を聞かない。
嫌な話をすることになるが、そしてそれは俗にいう「説教」となる。

言ったあとで気づくのだが、まったく馬鹿くさい。

ここで大いに疑問に思う。
じゃぁ、なんでオレに「世の中が自分の思う通りに動かないというクソ話をおれにするのか?」。

こういうことが何度か続いたので、さすがにこちらもわかってきた。
一度でも「結果的に説教になった人間と話す必要などない、以後全速力で逃げろ」ということだ。

自分がその立場にあったらこうするだろう。
そういう話を真摯にしたところで、全く無駄に終わる。
そう、そもそもそういうことを言わなければならないような人には今後近寄るのはやめよう。

40近くでそういう相談をする人は、まぁ、その状態から抜け出せることは決してないだろう。
ぼくならばこうする、という内容を相談者に言っても言わなくても同じなのだ。

そういう話をする羽目になったら、どうしてそんなところに近づいてしまったのかを反省することにする。
すべては自分の愚かさゆえの失敗だと思うよりない。

年賀状に文字をたくさん書き込むことはありか、なしか。

2013.12.23 

家族の幸せの押し売りみたいな年賀状はいらない、ほんとに。
年賀状の交換って、どうしてそういうものになったんだろう。

年賀状も手紙なんだから、言葉で近況を報告したり相手がたに問い合わせをしたりすることが基本だろう。
「読みたい」気がするのだが、大半は写真を貼ってくる。
家族の集合写真か絵葉書か、あるいは「よくある」干支の絵と謹賀新年を記入したもの。
だから2秒くらいしか見ないし、それ以後も翌年の年賀状で住所を調べるときにちょっと見るだけ。
なんかその努力がもったいないです。
時間もエネルギーも捨てているから。

では、どういう年賀状がいんだろうか?
と考えれば簡単に答えが見つかと思うのだ。
答えは「ちゃんと言葉を書けばいい」のだから。

一昨年だったか、ぼくの年賀状は「文字だけ」にしてみた。
それをもらった相手がどう思ったのか、全くわからない。
そんなことをする人は少なかろうとは思うが、電子メールの延長だと思えば良い。
場合によってはある種の気持ち悪さのようなものすら感じるかもしれない。
そう考えると、正月早々「迷惑だろう」というものだ。

そこで、去年は背景に大型の絵を足らし、一方でこの一年間で学んだ「社会の法則」を文字でタップリと記入してみた。
で、反応はどうだろうか。
まぁ、なんとも思わなかっただろう。
正月から年賀状の文面程度でいちいち何かを感じるなんてことはないよ。

我ながら、一体なにをやっているのだろうか、という気分に浸りつつ、今年思いついたこととと写真を印刷した。
年賀状をわざわざしたためるのは、まだまだ友達ですよとか御恩を感じていますよとか、そういう縁を切れないようにする行為のはず。
でも、それだけじゃぁつまらない。
何かよいアイディアはないものか、と年末になるといろいろ考えだす姿が情けない。

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