2014年の10大ニュース

2014.12.31

今年はわりと良かった一年,満足満足の年.
健康だったし,楽しいこともあったし,嫌なことも楽しいことも足しあわせてわずかにプラスに.

なんともいっても,自らの手でつくった装置が観測ロケットで宇宙へ行った.
一度やってみたかった(秋月部品使いまくりだし).
おまけで「世界初」という記録を幾つか打ち出した探査機の裏方をやって,それがうまく行った.
裏方作業をやるうで,自分の知らないことをやったことないことを手伝ったおかげで「できる」ことが増え,そしていろいろと「学ぶ」ことができた.
これぞ幸せな一年であったといえます,ホントに.
正直なところ,それがなければ「生きたって面白くないだろうな」と思います.
その意味からも,今後の人生において一つの指標となる年になりました(2014年とくらべてどうかな?と)

(1)観測ロケットに自作の装置を搭載し,それを宇宙へ打ち上げた
(2)観測ロケットの姿勢制御ソフトウエアを書いて,それを動かした
(3)トラ技の付録にエッセイ?のようなものを掲載し,原稿料をもらった
(4)チェロで無伴奏組曲1番ブレリュードの練習を開始できた
(5)人工知能学会誌に論文を掲載してもらった
(6)長く気にっていたカフェがひとつ閉店したが,わりとよさ気なカフェを2店見つけられた
(7)ブログ程度のレベルの日本語でいいのならば,以前よりも時間がかからずに書けるようになった
(8)そろそろ自分の行く末を考えるようになった

十個ないけど,こんなかたちで楽しく締められた.
さぁ,また来年ガンバルかな.

坂の上まで行けんなと思ったらどうするか

2014.12.30

自分の年齢を考えると,そろそろこの先どうするかなぁと考えはじめるかというところにいる.
腕一本で渡世できる職人ではないし,家業を継げる店を出しているわけでもない.
いつまでもそのまま仕事があるわけでもない普通のサラリーマンなんだから.

サラリーマンにもいろいろあるが,退職金で逃げ切れるような高額収入があるわけでもなく,役所ほどかっちりと未来が予定されているようなこともない.
研究職なので仕事の自由度はバカみたいに大きく,また世の中の景気を気にする必要もない仕事なので,ぼくにはたいへんあっているが.「自分の先が見えてしまう」仕事であるわけで,どうしたもんかなぁと考える年頃である.

もちろん業績を積み上げれば今とは違う風景も見えようが,大半の人と同じく普通.
坂の上の雲を目指しているうちの雲の中に突入してしまう,というようなことはなかったし,これからもない.
坂の上の雲ってどうなっているんだろうなぁ,と思ったまま終わるわけである.
しかし,ぼくのような人が大半のはずだが,そういう人は何を考えているのだろうか.

フツーの人でもやるべき作業はいろいろあるし,フツーの頭脳でも考えつづければちょっとしたことはできる.
フツーだからといって全く意味が無いことはなく,フツーだからこそやるべきことはたくさんあるわけで,悲観的なことでもないし絶望するような必要はない.
フツーな人が普通であれば,社会はまったく幸せに営める.
しかし,フツーな人が芸術家狙っていたら大変だろうなぁと思います,ホントに.

ではその状態で普通の人は何をしたらよいのか.
ここで決して考えないことは「だからといって,自分を犠牲にする必要なんてない」.
「みんなのため」とか「次世代のため」とか「環境のため」とか,そういうことは一切考えない.
普通に機嫌よく暮らしてゆく方法を模索するまでだろう.
そういう「立派な」ことは業績を積んだ人がやればいい.
「機嫌よく暮らす」にはいろんな意味が含まれるだろうけど,親切にすると気持ちいかもね,ということがあるのならばそうすれば良い.
自分から思っていもないことを言葉の上で指示されて,あるいは知らす知らずに洗脳された価値観に従うようなことは絶対にしない(ぼくは,だけど).

信じてもらえるかどうかわからないが,業績をなした人は普通の人を薪にして釜にくべるようなことを「平気でする」ものです.
だから,近寄らないほうが安全ですし,うかうか近寄ると釜にくべられてしまうのですよ(ホントに).
自分が普通の人だとわかったのだから,ふつーの人は極悪にだってなれんもので(親鸞あたりがそう入ってたはずだけど),フツーに生活を組み立てていくことに専念してゆけばよい.
間違っても英雄気取りをしてはいけない.
だから,道徳みたいのを掲げて何かをすることは絶対にしないことにしている.

坂の上まで行ける人はたくさんいます.
それは年齢で決まるわけでもないし,才能できまるわけでもないようなところがある.
今の政治家を見ていると思うが,なるほど「二世,三世」というのは強い(明々白々のバカでもやっていけるわけです).
その人「単体」での「凄さ」なんてなくとも,前の世代の力を感じるわけです,それこそ束になってね.
人の社会においても,ロケットのようにある程度スピードを与えられれば「何もしなくてもどんどん飛べる」ということがよく分かる.

ふと,自分の周りの人の人がどういう人なのかを考えると,まぁ,医者だの経営者だの学者だの高級官僚だの,そういう人で締められていることに気づいてしまうわけです,それが事実というものです.
もちろん一代で成し遂げる人はいますし,ひょんなことから成功する人だっていますけど,その事例数は親や家系による「シード権」を利用している人にくらべれば「例外」といっていいくらいの人でしかない.
こういう現実を目にするわけです.
美談風にいえば,一代で成し遂げられることなんて大したものではない.
昔は見えなかったのだが,年を取るってから周りをみるとそれが非常にくっきりと見えてくるのです.

ただ,ここで諦めたり暗くなったりしてはいけない.
自分は「そこからスタート」したということを忘れないこと.
何かをするとき自分でスタート地点を選べないものだけど,そこからの移動量は自分が行きた結果です.
何が「できるようになった」というのが自分の財産です.
自分がどうなったということではない.その事実をちゃんと認識しないと変にルサンチマンにかられてしまう.
「なんて運が悪いのだ」なんてちょっとでも思ったら,その人はそこで腐ります,以後絶望の淵まで落ちます.

「なるほど人の世の中はそうなっているのか」
物理法則の中で運動が行われますし,それをかみして制御工学は威力を発揮しているのと同じように,現在の足場を鑑みながら自分ができる幅を広げていくこと.
もちろん,山登りならば天候や日没までの時間や帰り道を鑑みながら登るわけですが,その場の景色や空気をどう楽しむのかについては常に意識しないともったいない.


ぼくは幸い新しいことをまだ始めることができる年齢だし環境にいる.
来年スタートさせようと思っていることは複数ある.
だけど,身につけて使えるようになるまでの時間を考えるとそろそろ新規なものは終わりかなぁ.
あとは今あるものの洗練化だろうなぁ.

そんな意味で今年から来年にかけて,考え方を変えていくかな.

時間の進み方を調整する方法

2014.12.29

IMG_9221.jpgリビングの現在

もう3日も年末の休みが続いている.
奥さんは今年最後のパートに出かけてしまったので,今日の昼も一人でご飯を食べるのかと思うと億劫になる.
外へ行けばお店はあるが,1000円くらいかかるし寒いし,ということでどうしようか(迷う).
こういうときに「おれって,そんなに美味しいものが大好きってわけではないな」と再発見する.

美味しいものが嫌いは人はいないだろうけど,そのためのどこまで時間をさくかは人によって違う.
めんどくさくても好きなことならばやってしまうもので,だったらぼくは美味しいものはさほど好きではないのだろう.
そういう人って結構ないるんじゃないかという気がする.

今この瞬間はブログのための文章書きをしている.
誰に求められたものでもないし,この行為自体そんなに好きだとは思っていない.
しかし,「ブログ書き」は「美味しいご飯」よりは好きなんだ,と今わかった.
「ブログ」よりもは「ご飯」のほうが好きだけど,「美味しいご飯」よりは好きではない.
これは発見だろう.
だって,ブログ書きをしているときに顔がにやけているわけではないのだから.

好きなことをしていると時間の進みが速いって言われる.
それってほんとは時間の進みが速い遅いに問題があるのではなく,速く感じるのは自分が時間の進みをチェックしないからだろうと思っている.
時間の進みとは,要するに「あれから何分立ったのか?を計測する回数」で決まります,ホントに.
1分間に10回計測する人と,1時間に1回しか計測しない人とは時間の進み方の印象が全く違って感じるさ.
前者は計測ごとに6秒しか進まないという経験をし,後者は計測ごとに1時間経過する.
だから驚くのである.
時間の進みがおそい(はやい)は,前回計測してからの経過時間でしかないのだよ,全くおかしな発言.

だからゆっくり時間を進ませるには,なるべく多く時間を計測する.
試験の際に慌ててなんども時計を見れば,それはそれだけ「時間を」引き延ばしていることは間違いない.
一方で「ゆっくり」と時間を流すには「時計をみない」あるは「なんからの変化から時間が想像できるものをみない」ことに尽きます.
ゆっくりと流れるからこそ「あっという間」にすぎるのですから.

頭をつかって何かを考える,頭を使わないでリラックスする.
この両方は「自意識を消す」ことをしているけど,両方とも「時間経過」と無縁になる努力をしている.
一つのことをはじめたら,それが終わるまで「別のことをしない」という努力をすることでもいい.
これって,要するに自分のことを考えない,自分の以外のことを考えることです.
これで意識が消え,時間計測もしなくなり,結果的に時間から自由になれる.
そして後から考えると,時間から自由になった「時間」はゆっくり過ぎたとも言えるし,あっという間だったとも言える.
つまり,時間は速くも遅くもないということが言え,だからこそ好きな方を言えばいい.
それはつまり,時間の進み方を自分で決めることができるということになる.

なんてことを考えてたら,ストーブの換気ボタンがピッピとなって,前回押してから2時間たったようだと教えられた.
今は何もする必要がなくぼんやりブログでも書くかなぁと考えていたので,2時間は速くもなく遅くもなく,どっちなんだろうと思っているわけで,自分で時間を調整できたことを実感している.

しかし,この積まれている「買っちまった本」はどうするかなぁ.
これについでは,多くも少なくもない,とはいえない.
圧倒的に多いので,さてどうするかな.

年賀状書き

2014.12.23 

毎年この日は年賀状書きをしている.
この一年に撮影したデジカメ画像から気に入ったものを選んで,フォトショップとイラストレーターとでいっちょあがりにする.
そもそも自分でとった画像で構成するのでパクリものコピペものとは無関係なものができる.
もちろん素人レベルだが,知ってる人にしか出さないし,その人達ならば見て笑ってくれるはずだ.

おじさんになってわかってきたが,年賀状って,出すことに意義があるものだと.
へんに「こだわり」をもつ必要なく,せいぜい文を添えるだけでいいです.
はんこや絵があれば見た目が楽しくなるので,ないよりあったほうがいい.
でも,出さないよりもなんでもいいから出したほうが良い,絶対に.
出して損はない,もちろん返事はもらえないこともあるけど.

結婚して子供ができて成長して.
あるいはこんなもの買った,こんなところへ行った,どうだすごいだろう.
ぼくがもらうのはそういう普通の年賀状で,見てて面白いものではないけど,知っている人が書いている姿を想像できるので,内容とはかかわりなく「数十秒見入る」ことになる.
こたつに入ってみかんを食べながらというのが理想だけど,こたつがなくともいい.

年賀状の文面としてそれを選んだ理由を考えると,少なくともその人が普段何を考えて生きているのか,がよくわかる.
別の偉人や哲人に手紙を出すわけではないのだから,しょうもない俗物の内容でよいと思う.
自分だってそうだし.

中身がなくとも「コネクションをはる」だけで意味がある.
だから,市販のものを買ってそのまま出す,というのだって構わないと思う.
それが何もメッセージを持っていなくとも,生きているんだな,わざわざはがきをくれるんだなと確認できれば,それはそれでよい.

一年前の年賀状の文面を読んで,その問いかけに答えることをする.
片道一年かかる通信であって,大変まどろっこしいけど,まぁそういうのもいいじゃない.

目標は別の形で実現する(そして,思ったのとは違うことになるのでがっかりする)

2014.12.22 

ついついWEBでニュースページを開いて芸能ニュースをちら見し,「へぇ,あぁ,ふーん」とやってしまう.
これはほとんど意味が無い行為だとご同意いただけるだろう,我ながら自分の不甲斐なさに呆れてしまう.
東スポを開いている人に尊敬の眼差しは向かわないだろう.
パソコンを使ってすることじゃないことであって,これじゃぁ東スポオヤジと大差無い.

せっかく有給休暇を取って,「さぁ,少しでも日々の生活を少しでも充実させ実りある人生を過ごしたい」と思ってはみたのだが,結果としては「自分でも情けないくらいしょうもない一日」を過ごしてしまったことになる.

もう夕方で,辺りは暗くなっている.
台所テーブルにおいてあったピスタチオを摘んでいたのでお腹は空いていない.
昨日開けたワインはちょっと酸化しちゃっているけど,ちびちび飲むにはちょうどよい.
この生活は,わざわざ第三者の目でみなくとも「退廃した生活」ですよ,

世の中にいる僕と同年代の人はきっと今この瞬間バリバリと働いて,さぞ充実した時間を過ごされていることでしょう.
一方僕はといえば・・・.
他人と比較しても仕方ないが,考え方を変えれば,幸いなことにこんな時間をもてるくらいの余裕が僕にはあるわけで,その部分を全能の神々や(仏さんたちに)感謝しなければいけないのだろう.
ピスタチオの殻を割りながらそう思い,でもすぐにガリガリと食べてしまう.

今日は一日ずっと本でも読もう.
そう思っていたわりには,蓋を開けてみればとくに何をすることもなく過ぎてしまった.
せめて外出し,お気に入りのコーヒー屋さんでコーヒーでもすすろうとかとも妄想したが,外で歩いているうちに嫌なことを考えてしまうような気もしたので,こうしておとなしく自宅でパソコンでも叩きながら文章を書いている方が良いだろう.
そう思ってPCの前に座ったのだが,文章すらろくすっぽ書けないで一日が終わってしまった.
繰り返すが,こんな時間の過ごし方をしてて,おれは大丈夫なんだろうか.


一言で言えば大丈夫だろう.
努力して努力して,アスリートみたいに努力して何かを勝ち取る.
そういう人生行路をぼくはとっていないので,普通の人が普通の人生をささやかに過ごすのならばこれでよいのだ.
ピーテル・ブリューゲルの絵の中にある,普通の人の生活,みたいなものならば,ぼくはもう手にしているではないか.
ブリューゲルの絵はドイツの人々の生活を描かれており,ぼくは東京の下町ぐらしだから,見た目の様相はだいぶ違うが,人の心持ちはブリューゲルの絵の中の人と僕とでは大差ないだろうと感じている.

鴨長明さんのように方丈の庵に住んで,ごく普通の人からみた社会の見方をされた人もいた日本だ,貴族でなくともなんからの「悟り」のような理解を,いつかぼくだって持てるだろうよ.
それはバカボンパパと同じ結論,「これでいいのか」,のような気がするのだが.
あるいは吉田兼好さんのように,願わくば花の下にて・・・,と一句詠んでしまうような「気分」なのかもしれない.
どちららにしても「そんな大したことではない」けれど悟りさえ得られば「それでいいじゃないか」と思えるものだ.
どこでどんな生活をしていようと,最後の最後になれば「もう,今更どうにもならんのだから,それでいいじゃないか」という結論に至るはずなんだ(たぶん).

確かにそうなのだが,一方ぼくにまだちょっと「先ある」ような気がしている.
まだ40代だし,持病もないし,放射能レベルは低いし,来年に会社がなくなるような気配もない.
となれば,この生活は今しばらくつづくだろう.
これって,結構多くの人がそう感じているはずである.
だから,だったらもうちょっと,と欲が出てしまうもので,それが不安の原因にもなっているのだ.
もちろん,昨今の経済事情では明日をも知れぬ状態の人は少なくない
が,そうでない人も同数はいるはずだと思う.
100%の人が同じ環境に置かれないし,そもそも人は等しく作られているわけでもない.
悟ると楽だろうなと思う一方,頑張れななんとかなるかもというよくがブレーキとアクセルを両方踏ませているわけだ.

庶民であるぼくは,あれしたいなぁ,と感じていることを実現させてみよう,と考えてもよいはずだ.
とはいえ,ノーベル賞とったり,一つの研究所の運命を左右するような,そんな大それたことをしようとは思わない(そこが庶民なんだけど).
なぜそれをやってみたいのかの理由は明確で,「僕が知りたいから」.
他のどこでもやっていないからいう新規性についてはあまり考えない.
少なくとも早く成し遂げないと他の誰かに名誉を奪われるという「あせり」が生じる活動は,やってて楽しくなんかないからやらない.
どうして「やらなくてもいいのに,楽しくないこと」をわざわざ選んでやるのか.
でも世の中にはそれをやりたがる人がいっぱいて,その理由は大抵「おれはすごい人だ」ということを高らかに宣伝したいだけ.
不思議とこのたぐいの人が「先生,先生」と持ち上げられる.
「そんなにその人すごいなかぁ」と疑問に感じるぼくのような人を迫害し続けるのだからたまらない.

だからぼくは逃げている.
今でも組織の中で逃げている.
逃げいているばかりだとつまらないので,目立たない場所で楽しいことをする.
とくかくお金をかけない,自分で計算する,自分で工作する,自分でプログラムする.
大抵のことは道具があれば出来る世の中で,それは研究職であっても同じである.
そしてそれをやってみると,意外に出来てしまう.
ぼくはポケットマネーで工作したものを高度300Kmまで上昇するロケットに乗せてしまった.
人間,やればできますね,ホント.

ただし,隠れてやっていてもこういう活動は,結果的に目立ってしまう.
目立つとまた,いろいろ横槍が入ってくる.
そしていろいろ言われる.
「あれは大した事ない」とか「こっちではもっとすごいことやっているとか」,要するに「自分たちのほうがよっぽどすごい」という主張を,あいも変わらずしてくるのだよ.
「東大の人」は要するにそれしかない.
彼らの青春時代に刷り込まれた価値はもう抜けないのだろう.
もちろん,そもそも大学に関しては「苦労していない人」もいて,そういう人はわりと付き合いやすい.
なので一律に東大だからダメとは思わないほうがよい.
まぁ当たり前だ(けど,確率的にはかなりやなやつであるのが高い).

脱線してしまったので話を戻す.
閑話休題.

今年はブログでの文章かきだけでなく別のことを試してみたいと考えていたが,それができないでいた.
しかし12月の終わりになって,遅ればせながら少し幾つか企画して,実際にやってみる時間が取れそうだ.

まずひとつ目は,まともな講義メモを作ってみること.
過去の論文なり報告書なり発表資料なりを「再録して解説する」というブログは,ありだと思っている.
外部に発表したものは締め切りと字数制限に追われて,これだけでわかってもらえるだろうとは考えていない.
では,誰にもわかってもらえるものはどうやってかけばいいのだろうか.
今ならできそうな気がするんですよ,ホントに.
というわけで,架空の講義を想定し,その内容をメモで構成してみようと思う.
技術的であり思弁的であって構わない.
ぼくならば納得行くだろう一つの繋がったお話を聞いてみたいので,それを自分でつくってみよう.

もう一つは写真である.
趣味ではあるが,とったら見てみることが大切で,見る機会を増やすためにページをつくってみる.
ぼくとしては,佐伯祐三の絵のような何気ない街の風景を取りたいと思っている.
無理っぽいけどで,それでも目標としてそうしたい.

この2点について,年末年始の休みに活動を始めてみよう.

年末年始にブログのエントリーが増えるのには理由がある

2014.12.21 

年末年始にはブログのエントリー数が増える.
これは単純に日記の三日坊主と同じ理由であり,正月を起点に「今年こそしっかり一年を送ろう」という決心を日記をつけるという具体的な行為で証明するぞという目論見であり,それが儚く消えてゆくところを見ているから.
ブログも日記もホントに長続きしない.
長続きする人が世の中にいるんだろうかと思うくらい続かない.
でも,いますよ,まめなにブログをつける人は山ほどいて,いや普通続くのかもしれないな,とこちらが不安に思うくらいたくさんいます.

その日あったことをブログにつける,というブログになんの問題もない.
それは誰も読まないかもしれない,というか,読む人はいないだろう.
それを前提にしてつければよい.
日記って,普通は「人に読ませない」工夫をする必要があるけど,ブログは「読ませる工夫」をしないと誰も読まないのはなんだか愉快な気がする.
芸能人や有名人は別だけど,普通の人とくに中年のおじさんのブログなんて誰も読まない.
だから,安心してブログをつければいいのです,ホントに.


まったく文学的な素養がなく,小説などを読まないで小中高と過ごした人にはブログをお勧めします.
自分で文章を書いてみてはじめてわかることがある.
「文章って,ホント難しいなぁ」と感じることができる,ホントに.
雑誌の記事ですら「こりゃ難しい」とか「結構頑張っている」とか「これはアートだな」とか,書かれたもの一般に対して素直に敬意を持つことができるようになる.
あんなの簡単だよと書いたこともないに考えがちな人には,それがどんなことにせよ自分の身体をつかってその難しさを感じることが大切で,自分でやればその世界の奥深さを知ると当時に,物事に謙虚になれ,他人に敬意をもてるようになるからです.

ピアノでもエッセイでも,上手な人はいとも簡単にやっている.
が,できない人がやってもホントにだめ.
入口で「とてもできない」と感じて終わりにしたら,それだとその難しさを「感じる」ことができないで死ぬことになる.
また,時間をかけて練習すれば自分にだって練習すればできるはずだよ,という言い訳の余地を残しているのもよくない.
時間をかけて練習したって「できないものはできない」という発見をし,驚き,そして絶望をする.
この過程を経ていない人からでたら「難しいですね」という言葉は,何も意味していないです.


ブログをつけると文学に興味を持ちます.
そもそも「文学って一体何のこと」?
文学(文系でもいい)な講義をまったく受けてこなかったぼくは,実のところ明確にこれが文学が何を示すのかわかっていません,ホントに「文学って何さ」と.
文学作品もほとんど読んだことはない.
それでも「あぁ,これが文学というものを追求している態度なのか」と感じたことがあります.
そんな気づきもブログつけたことの効果でしょう.

「文学って何か」を意識しはじめたのは須賀敦子さんの一連の作品でした.
須賀さんが追求したのが文学なんだろうと想像し,なのであの人が残した不思議な作品もまた文学なんだろうと.
そしてこう考えた.
文学は印字された本やら文章やら自体にあるのではなく,それをつかって表現しようとした行為・工夫とその結果の総合的な人の考えた感じたことの現象を言葉でとどめたものの「体系知」なんだろうと.
今はそういう理解なんだけど,どれほど正しいのかわからない.

本に何がとどめられているのか.
それを読んで著者が考えたであろうことが見えた聞こえた感じたときに,自分に「何が伝搬してきたのか」を総合的に判断すればよい.
それが文学が表現しようとした対象なんだろう.
それを一つひとつ整理して,ツリー上に並べなおすと「文学」になります.
今はそういう理解をしているのだけど,それが正解かどうかはわからない.

誤字脱字が多くてもへっちゃらで読めるというところがすでに文学的なセンスがぼくにはないようです.
ひとつには不感症ということですが,文学が指し示す内容に対する「敬意がない」現れかもしれない.
何か大切なものをぼくが適当に扱っている,ということ.
それが文学を大切にする人には許すまじなんでしょうね.
この辺りは感覚なので,わらないと一生わからないで終わる.

そういうことを全く感じなかったぼくが,少しは「あれ,この対象が文学のなかな」と考えるようになったのは大きな進歩であり,それを促した直接の原因がブログ.
ここでも再確認するのだけど,やっぱり自分でやらないと「何もわからない」という結論に落ちます.
どんなに頭がよかろうと,身体を使わないで身につくことはない(いや,天才は知らないので,普通の人は,という限定がつきますけど).

自分のヴォイスを発見する方法(があればいいのに)

2014.12.20 

内田樹さんの本を読んで知ったのだけど,「自分のヴォイスを見つける」という気づきが,ある人にはあるらしい.
一度ヴォイスを発見すると,その後ホイホイ(かどうかはしらないけど)文章を書くことができるようになるらしい.

ホントなんだろうか.
そう疑ってしまうが,「気づき」を境にしてこれまで「できなかった」ことが「できるようになる」ことはありえる.
逆上がりでも自転車でも,不可能から可能への分水嶺は一瞬で超えてしまうのと同じで.

残念ながら文章がホイホイ書けるようになった経験はない.
だが「あぁ,こうすりゃいいのか」と気づいて,それ以後の報告書作成が劇的にラクなったという経験はある.
文章一般にもそういうことってあるんだろう.
内田さんの本を読んで,疑い半分,希望半分で「ヴォイス」をぼくも発見したいと念じてしまった.

では具体的になにをやればいいのだろう.
当然それは本に書かれていない.
「彼は自分のヴォイスを発見したんだ」としか書いていない.
「さぁやるぞぉ」と決心した直後にいきなり詰まって急ブレーキがかかる.
まぁ普通の人はそんなものである.

酸っぱいブドウと同じで,行き詰まったら「やらない理由」を探すものである.
「バリバリ文章をかけるようになったとして,では何を書くのだろうか」
正座して少し考えてみる.

どんなことにせよ,形から入るという人は多いけど,中身から入るという人はほとんどいない.
文章も同じで,ブログサイトの準備やツール類の整備にお金と時間を費やすが,結局何も書かないで終わる.
ぼくの場合はかろうじてブログを続けているけれど,仕事で忙しい人はなかなか続けられないだろう.
個人のブログはそもそも不毛だから.

普通の人が面白いことを書けるわけでもないが,普通の人が何を考えているのかについては知りたい.
みんな「どんなすごいこと」を考えているのだろう.
それには興味がある.
自分が相当阿呆なんだろうという心配があるし,そもそも自分の考えはよく発散するので,一体何を考えているのか自分でもよくわからないでいるから.

文章にしてはじめて,あ,そうなんだ,とわかることは少なくない.
自分のブロクの数年前のエントリーはもはや他人の文章なので,それを見返しながら「へぇ,そうなんだぁ」と勉強することすらできてしまう.
だから,目立とうとしたり情報をコピペしているサイトには全く感心はないが,何かを考えているブログにはつい見入ってしまう.


これも内田樹さんだったか名越康文さんだったかの本かツィートで読んだのだが,「何かをする人は過去形で語る」というのがあった.
何々をしようと思っているのですけど,アドバイスをいただけますか?」
こういう問いを投げかけてくる人は,アドバイスしても何もしないからアドバイスの必要はない.
一方「何々をしたのだけど失敗したのですが,どうしてなんですかね?」
こういう相談をしてくる人は,アドバイスしたことは活かされる可能性は高く,その人の話は具体的なので聞いてみる価値がある.
そういうことだった.

なるほどなるほど,と大変深く同意しながら読んだ.
ぼくの数少ない経験から考えても,「〜したい」という学生さんには何を言っても教えても意味が無い.
それでも教えないと角が立つので,知っていることは全部教えてしまうのだが,けっかてきに「良かった」ことは何一つない.
未来形での質問と過去形での質問との違いを知っておけば,教えた割にはムダだったという失敗を何度もしなくて済んだのに.
そう後悔している.

これは他人とのかかわり合いに篩をかけるためのものではない.
「自分の行動」も篩にかけることができる.
一度も過去形にしなかった予定や希望なんて,全部すててしまえ,ということである.

ブログをつづけて何になるのか.
この質問ついては今年は明確に答えることができる.
確かにぼくの文章は下手だし,面白くもない.
それでも,雑誌の付録に2ページほどのエッセイを書いて1万円という原稿料を頂いた.
そういう事実が発生したのだから,それでいいではないか.
もちろんぼくの文章はプロのレベルには到底及んでいない.
それでも「ひょんなこと」という条件が揃えば雑誌には載せてもらえた.
世の中には上手な文章を書いても貧乏をしている人はたくさんいるらしいが,上手ければなんとかなるわけでもないようだ.
つまり「上手な人だから,面白い人だから,それなりの仕事があって幸せになれる」というような「秩序だった」世界ではないということだ.

ではこの先このブログはどうやって続けようか.
自分のできることを増やそう,勉強して練習して,システムに依存しないでも生きていくための手段を少しでもいいから身につけよう.
さらに自由に生きてゆきたい.
そのための具体的な一つの活動として,文章創作を練習しつづける.
もちろんブログで何かができるとは思っていない.
そこまでぼくもナイーブではない.
しかし,何にもしないよりは,何かしていくほうがよく,今はたまたま時間があってパソコンがあってブログを書くことができるという状態にある.
だからブログを書く.


ここでまた思い出すのだが,「自分のヴォイス」というのはどういうものなんだろう.
論文や報告書をスラスラ書くことにはヴォイスがあったら邪魔になるのかもしれない.
しかし,ぼくが書くようなものは「むしろ面白い方がいい」的なものばかりなので,ヴォイスというものがあったほうがいいと思っている.
なので,これを来年に向けたブログの課題にしてみようかと思う.

今年得た大きな気づきは次の2点.

(経験1)
本を読んだ感想をメモすることからブログをスタートしたのだけど,1000冊を超えたところで読書メモをつける気が失せてしまった.
さすがに1000冊は努力したほうだと思っている.
やってみるとわかるが,1000冊分のメモを書いたからって文章が上手になるわけではない(ホントに).

(経験2)
同じく原稿料をもらって文章を書く,という一つの目標もひょんな偶然の結果からチャンスをもらって,5月には実現した.
おもしろいだろうと思ったエッセイだったが,編集者は扱いに困ったらしく,ゲラをもらったときは「そのつまらなさ」に愕然とした(笑).
いや,他人の目からみるとぼくの文章ってここまでつまらないものなのか.
驚いた.

この2つの経験を超えるものをどうやって来年の課題とするのか.

そのひとつのアイディアとして,講義メモを読みものにしてみたらどうだろうかと思っている.
あるいは報告書や論文を,講義メモして読み物にしてみる.

単なる論文ではない.
もうちょっと文章をたしていく.
論文って,「こんなこともわからんのか」ということは書かない.
図にしてしまって,あとは見ればわかるだろ的な説明が入りがちである.

言葉で説明を追加すればいいところを,なんとかして文章だけで完結させてみるのは,一つの訓練である.
すでに公開しているものを編集して公開するだけだし,そもそも自分で書いているものを書くだけなのだから,いかなる制約を受けるものでもない.

とにかく,「過去形」で語るよう努力すること.
これを来年の課題としてしてみよう.

音楽を聴くこと,できれば誰かが演奏しているものを

2014.12.14 

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昨夜は表参道のプラッタオンゼで佐藤正美先生のライブを聴いた.
ギターとパーカッションだけの編成だけど,ぼくはこの二人のライブが楽しくて楽しくて仕方がない.
たぶん一番最初に「ライブ」を聴いたのが四谷のサッシ・ペレレで,演奏がこの二人だったからだろう.

どのくらいメジャーなのかは知らないけれど,ボサノバギターを好きな人ならばご存知な方も結構いらっしゃるでしょう.
奥さんが佐藤先生にギターを習っているし,そもそも先生のギターのCDはぼくの仕事のおともなので,実質的に縁が深い.

これ好き

とりあえず先生がライブをやるときはなるべく行っている.
嫌なことが頭に充満していようとも,演奏が始まれば終わるまでは音楽に満たされる.
音楽が嫌な気分を払拭してくれる.
ほんと,すばらしい薬でもあるし娯楽でもあるし,楽しい時間を過ごせて幸せである.

ハイレゾの音源と装置を使えば自宅でもライブ同じような感覚が得られるのかといえば,多分ノーではないか?
(いや,そんな高価なシステムも聞く場所も持っていないから知らないし,また今後も知り得ないからノーでいいよ)
その理由の一つとして,CDは演奏が完全であることがわかっているから.

先生の体調は昔ほど元気というわけには行かないし,だから演奏中もちょっと心配になるときがある.
演奏が始まったらちゃんと間違いなく終わるのかどうか,アドリブがあるのか途中で変わるのか,酔漢が乱入したりしないかといろいろ不安要素があるのので,結果的に真剣に聞いてしまうことになる.
どうなるかわからないというところがある.
そういう面白さがライブにはあるんだと思う.

まぁ,絶対にライブでなければいけないというものではないけど,こういうことは「永遠には続かない」機会なので,一つでもチャンスがあれば参加している.

次の機会はいつだろうかね.

税金化するソフトウエア所持

2014.12.13 

近頃,ホントに目にあまる思いがする有償ソフトウエアの税金化.
あれもこれも月極支払いを要求するようになってきた.
パッケージの製品としての完成度にはもはや注力せず,いかにして継続的にお金を吸い取れるかへと会社の感心が向かっている.
あの会社がそうしはじめた,ではうちもそうするか,的なことが起きているんじゃないかと勘ぐりたくなる.
携帯電話のアプリでは月々数百円だが,PC上のソフトは月々数千円.
それを「安い」価格で提供するからお得です,という謳い文句で宣伝はせまってくる.
お得だと宣伝するものは「絶対に得ではない」のは自明なことで,さすがに多くの人気づいている.
宣伝すればするほど人は引いていくのに.

会社としては,そのソフトを使っても使わなくとも税金を集めることができる.
だから会社は「地主」になったようなものである.
合法的な貴族化であり,ソフトを利用する側から見れば会社は封建領主化である.

Windowsは数年に一度の税金を要望してきた会社だった.
バージョンアップだのサポート停止だので世界中から税金を徴収し,それで大成功したわけだ.
その方法を大手も小さいなところも真似をして,とにかくお金が流れるようにしている.
アドビのシリーズは毎年買うシロモノではなく,お金が入ったときに意を決して購入した.
それが今や税金化し,アドビ王国の住人になれ,うちは税金が安いぞと宣伝している.
もはや「製品」をつくるのではなく,本質的に「寄生虫化」する戦略を選んだわけである.

税金方式にすると,ソフト会社側の緊張感はなくなるだろう.
とにかく収入は安定してくる.
確信がなくとも現在に満足している人からも税金が取れるから,進化する必要もない.
会社としては「ホット一息つけるから,よりよいものをつくれる」と考えているかもしれない.
確かに研究開発にはそういう側面がある.
が,全く無駄なものに目を向けるような研究ならばそうだろうが,普通は違う.
人はホットするための時間の長さにも「慣れてしまう」性質があるので,単に生産性がなくなるだけである.
とはいえ,それはそれで悪いことではない.
そのほうが働く人はいい.

税金徴収が可能なのは,選択肢が実質一つしかない超大手だけであるので,普通の会社には結果的に賢い選択肢ではなくなる.
マンネリだったり別のものを求める人が増えるので,中小だとつらいだろう.

そうこうしているうちに,初代製品から気に入って毎回購入しているこのBiND(IDもあったが)も,クラウド化というまやかしをつかった税金方式に移行しようとしているようだ.
そのうち新しいバージョンではクラウドだけになるかもしれない.
そうしたらもう購入することはやめる.
10年近く愛用してきた会社の製品だが,それで終了する.
まったく残念なことだが,金を追求する会社の製品を使うことはしたくない.

アドビ製品については,当面更新しない.
デジタルステージもそうなるかもしれない.

歳を取るごとに使う製品は限られてくるので,更新しなくともたいして困らない.
この製品もOSのアップデートを止めて使うことになるかもしれない.
いつまでも更新更新の生活をつづけられるのかは全くわからない.



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人の知能の発端を知りたいです。ハードウエアとしての人は二万年は変わっていないらしい。それなのに、文明といわれるものはローマ以前の数千年までしか遡れない。ローマ以後の二千年で海王星の写真を撮れるし、原子も見られるようになった。文明以前の一万年以上、一体全体「人類」は何をやっていたのだろう?それが知りたいんです。



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