人は見たものになる

2015.06.12 

人は見たものになる.

本当にそうなっていると実感する.そう思う回数がここのところ増えているからか,外を歩いていても職場でも会議でもメールによる通知でも,現在の政府・内閣みたいな物言いが多くなったように思う.

ぼくの職場では,これまでの慣習にさして問題があるとは思えないのだが,「長」のつく人が独断で何かを押し付けくるようになった.それを事務が粛々とサポートする.

普通に生活してして「ぼくは国民なんだな」と感じることが多くなった.同時に職場でも「ぼくは従業員なんだな」と再確認する機会が増えた.実際ぼくは国民であり従業員なのだけど,そんなことを意識させることが「何かをすることにプラスに作用する」とはゆめゆめ思えないのだが.むしろ息苦しい.

空だと思っていたのがフェイクの天井だった.そう気づいたような気分なのだ.

だからといって具体的に改善できる余地は少ない.「総理がおかしいから」といって何かすぐにできることはなく,次の選挙で「アンチ票」を入れようと誓うくらい.しかも市井の人は忘れっぽい.だから物事は急には変わらない.

これまでずっと毎回毎回アンチ票を入れているが,それが効果を発揮したことは一度もない.だがやれることはそれくらいなので今後もずっとそうするつもりだ.

職場の雰囲気はここ数年で大きく変わった.悪い方向へだけど.

現在の長は「オレが方向を決めて,それを全面採用すればよくなるのだ」と考えているようで,その物言いや行動からにじみ出てしまっている.

外部からぽっとやってきて長となり,結果的に組織を破壊してでていくだけなんだろうなぁ.それはひとつのやり方であり,必ずしも悪いことではないと思うが,作るのは大変だよ,コストもかかるし,と思う.壊すのは,本当はどうなんだろうか.ぼくは懐疑的に思っている.

コンビニであれグループであれ,「長」がつく人は今の政府のようなことをするようになる.必ずなる.そう予想している.上司部下の関係でしか人との間合いをとれなくなる人が圧倒的な割合になるだろう.

その理由は,まさに政府がそうやっているからである.それを役所が真似し,大企業が真似をする.その連鎖がテレビでニュースで(小出しだが)毎日確実にいろんな場面で放映される.

こうなると,その人達の態度が「無意識に」ぼくたちのなかに入り込んでしまう.そしてそれは防御できない.だって,ニュース映像の一場面だから,「これから道徳強化の映像が流れるから,ろくなものが流れないはずだ」と身構えることができるはずがないからだ.

テレビの怖さは,「無意識」に人の態度が自分の中に入り込んでしまうことにある.それに尽きる.

自分が何かをしたおりに「これってテレビで見たことがあると」無意識に思い出し,「そのときはこう振る舞うはずだ」と感じて,無意識に身体が動く,表情をつくる,言葉を発してしまう.こういうことがあると思っている.まさに,見たものになる.

そして一度でもそうするとそれが「基準」となってしまう.これで「無意識」による行動模倣が完了する.とくに洗脳という大げさな行為ではなく,また誰もそれを意図して行っているわけではない.そんなわけではないのに,実際は洗脳されてしまう.これが今の社会で起きているのだろう.

ぼくはそう考えている.「長」が独善してきた社会傾向となったことには違う理由があるのかもしれないが,「人はみたもになる」と考えれば,どうして最近「ソフトな独裁思考」が増えたのかの説明はつく.とりあえずそう理解しておく(ちがったら後で修正すればよい).

こういう社会に生きたくはないが,理想的な時代に生きるという自由はそもそもない.どんな世の中でも機嫌よく生き続けたい.ならばどうするか.

確実な方法は,「独善的な長が何かをする」というシーンを「見ない」ことだろう.どうしてもそういう場面に立ち会わなければならない場合は仕方ないが,強制でもない限り近寄らないという自由はある.

端的に言えば,テレビは見ないに限るということだろうか.情報を入手する方法は他にいくらでもあるのだから.

スピーチは乗り物が大事(短文をつなげれば,長いメッセージも列車のごとく届く)

2015.06.06 

AKBの総選挙速報を見てしまった.
たまたまつけたら7位あたりからの発表だった.さすがに上位の人だなと思わせるスピーチだった.高橋みなみと指原莉乃は秀逸だった.
上位7人のスピーチを聞いたのだが,この二人しか憶えていない.二人が古い人だからということもあるかもしれない.
しかし,TVでみることもないこの人達を「ぼくですら知っている」には,何かの折にふれ二人の発言を聞き,それが印象を与えていたのかもしれない.

売上からみたら今の歌謡曲の世界はAKBが握っていることになる.
歌が旨いとか曲が楽しいとかフォトジェニックだとか,必ずしもそうとはいえない集団なのだが,圧倒的な人気があるのは事実だ.
もちろん,CDの売上だけからみたら,一部の人が爆買しているだけで,支持者数はそんなに多いとは言えないのかもしれない.
しかし,他に有効な指標を知らないし,あまり聞いたこともないしので,このグループが日本的に受ける要素をもっていると考えていいだろう(アイドル評論家の議論ではないし).

スピーチがうまいなと思った要素は2つある.
とにかく「短文」をつなげる.そして内容は「下から見上げる目線」で社会的劣位にある人を鼓舞する意気込みを「さらり」と主張すること.
おそらく電通のようなところがスピーチ原稿を書いているわけではないだろうと思うので(知らないけど),彼女らから自然と口に出た言葉なのだろう.グループ全体として人気があっても,その中でもある種のカーストがあり,それに苦しんでいるのかもしれない.

スピーチは,その内容を練習しているわけではない場合には,上手く短文で切ることは意外に難しい.その場で思いつたことを口にしてしまいがちになるから.自分だけがしゃべっているのならば声をださないと「場が真空になる」わけで,それが怖いのでとにかく声をだしてしまう.当然論旨はぐちゃぐちゃになり,聞いている人は何がいいたのかよくわからなくなる.話を途中で分岐させたり,その場で思いついたことを挿入したりするから論旨がわからなくなる.口下手な人はほぼ全員そうなっている.

ならば,上手にやるためにはその逆を行えばいい.それには短文で話すことだ.そして,話しが分岐しそうな場合は,一旦間をおき,それまで話してきた内容の理解してもらう時間を与える.二人のスピーチはそうなっていた.「〜です.」の連続だった.

短文で話すと内容がシンプルになり,面白くはならない.
何をいっているのか明確であっても,続きを聞こうという記にはなれない.話題が大事である.注意を引く話題は2つあり,1つは「知らないこと」,もう一つは「自分の事」である.

クイズ番組や情報バラエティ番組はトリビア的な知識を「へぇ,そうなんだ」と言わせることで人を惹きつけている「トリビア」も「珍百景」もそうだ.知らないことを知る瞬間には心地よさがあり,それを視聴者に味合わせることで注意を引くことができる.しかし,この方法をスピーチで使うときは大抵「暴露ネタ」になってしまい,結果的にあまり良いことにならない.
二人は「自分の話し」をしたが,同時に「多くの人にも該当する」話をして,結果的に「視聴者の聴きたい視聴者の話」をしたように僕には感じた.

AKBのファン層はオタクだとかなんとかいうことになっている.
要するに「学校に通学している」学生さんか,「会社に通勤している」サラリーマンかである.家業を回している人などではなく,先生や上司に小突き回されて日々を送っている「たいして才能がなく,うだつも上がらない」人とそれぞれが自分をみなしている人である.
つまり,「本当は才能があるのに,周りの邪魔で上手く才能が開花していない」ともどかしく思っている人だろう.それは必ずしも男性でなく,女性にだっておおく当てはまる.スポットライトを浴びるようなところには行けない自分を知っている人とでもいえばいいのかもしれない.そして,それは「ほぼすべての人」に該当するはうずだ.そうではないのは,実際にスポットライトを浴びている人のはずで,例外的にレアな存在だから.

高橋みなみは「自分でだってスポットライトを浴びたい,でもどうやっていいかわからない,しかしそのうちダメだなとわかってくじける,それでも何かやってみようとする,結果はこの場ではでないかもしれない,結果がでないのに努力するという矛盾した生き方を誰に言われたわけでもないのに自分で選びとる,これが人生じゃないか」と言ったわけだ(少なくとも,ぼくはそう理解した).
LinkIconスピーチ全文:http://news.walkerplus.com/article/59687/

もちろんこれまで多くの人が口にした言葉であるし,新規なものの味方とは言えないかもしれないが,名言であることに変わりはない.

指原莉乃は「前回の一位は物語的の構成上一位になっただけ,自分の来し方をみるにアイドルになるような条件をもっていない,それでもある種の偶然を味方に努力したら一位になれた,努力の源泉は昔みた自分を元気づけることになったアイドルだった,だから一位になった自分は昔の自分のような人を元気づけたい」と循環論を言っている(ぼくにはそう聞こえました).
LinkIconスピーチ全文:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/06/06/kiji/K20150606010492800.html

自分がもらったものを次世代に渡すという麗しいストーリを語っている.もちろん,モデル的な容姿ではないが,多くの人から行為をもたれる圧倒的な存在感を彼女はもっていることが一位になれた原因なのだが,その人の中では「理想と現実との違い」を彼女なりにかみしめていたのだろう.
冴えない落ちこぼれであっても,元気を与えてくれる人がいたら,それなりに輝ける場所を見つけることができる」というメッセージは特段新しいものはなく,数多くの物語で見出すことができる.
が,AKBで一位の人もその物語をたどってきたのだと主張することで,多くの人を元気づけているわけだ.

二人のスピーチにメッセージは,(1)自分は社会的な評価でいえばベリーグットではない,(2)それでも元気を出してガンバルと輝けることがあると信じている,(3)そして今(不完全かもしれないが)それをつかみとった,(4)だから,ここにいる人もそうしよう,ということだったように感じた.
文句のつけようのないものであり,またかなりの教育的効果があったと考えられる.というのは,40半ばのぼくも「なるほどいいこというなぁ」と感心してしまったから,結構多くの人もそう思ったのだ.

そして今ここでぼくが感心しているのは,そのメッセージ自体ではない.もちろん,いいメッセージだと思うけど,スポットライトを浴びている人が口にすれば,聞いているひとすべてが共感するわけではない.
それなのに,どうしてぼくは共感してしまったのかについてである.そしてその理由は間違いなく,短文で話す,というメッセージの乗り物にあったのだと考えている.同じメッセージでも違う乗り物(違う説得方法)だったら,伝わらなかっただろうと.
文体としてはつまらない短文だが,話し言葉としてはメッセージを相手に送り込む道具なのだ.日本語があまり上手ではない人でも,稚拙な方法と思われようとも,短文で話せば相手に届く.
プロではない普通の人が効率的にメッセージを届けるには,まずは短文にメッセージをのせ,タイミングを見計らって相手に送り出す,列車のような話し方を学ぶことだ.

そんなことを選挙速報をみて考えた.

金沢の芸姑さん

2015.06.05 

P5242156.jpg舞う姿って,なるほど歌と三味線と合わせて無敵な感じがした

新幹線開通もあったことだし.そういう理由をつけてチェロ教室の仲間で金沢へ遠足に行った.兼六園や金箔工芸などをいろいろ見て回ったけど,一番「へぇ」と記憶に残ったのはお茶屋遊びというものだった.はじめて本物の芸姑さんが舞う姿を間近で見てしまった.

お茶屋さんは基本的に「一見さんお断り」なのだが,それはそれ,いろんな職種の方がいるチェロ教室の強みである.地元出身の人がいて,そのツテでお茶屋さんに入れたのである.なかなかレアな体験だろう.ぼくらは観光できている(接待ではないよね,当たり前だけど).お茶屋さんではお酒を飲みつつ歌と踊りを見るというだけのシンプルなもてなしだった.そして僕らは運が良いことに,有名な芸子さんが来てくれていた.月刊金澤という雑誌で表紙を飾った人なんだそうか.
LinkIcon『月刊金澤4月号』(http://www.k-club.co.jp/kanazawa/pageflip/147/ks147.jpg)

間近で聴く三味線と歌.こういうシーンは映画やドラマで何度も見てるけど,そもそも生楽器の生演奏なので迫力がある.なるほど人が直接演奏するというもの,人が歌うこと,それに合わせて踊る様子をみることは「聴く価値がある」ものだ(もちろん,そもそも演奏がいいからなんだけど).着物姿と部屋の明かりとを含めて,この部屋は舞台芸術としてはかなり完成されたものなんだな.そう,しみじみと感じて理解に至った.いいぞ,日本文化,やるじゃないか.そういう気分がした.

お茶や遊びってなんだろうと,変なじゃんけんか?と思っていたが,ここ金澤は太鼓なのだそうだ.ゲームなのかと思いきや,調子に合わせて芸姑さんと太鼓を叩くという,まぁ単純だけど酔っ払っていると「楽しいぞこれ,ゲラゲラ」というものでした.
P5242185.jpg調子に合わせて太鼓を叩くだけなんだけど,これはこれで面白い.老若男女だれでもがそう思うはずだ

2時間ちょっと居て7人でいくらかかあったのか.まぁ,なるほどというものでした.庶民だとなかなか入れないけど,そもそも庶民向きなものではないからよいはずだ(金澤の旦那衆の文化資本なのだから).

また行きたいか? そう問われると,どうだろうか.もちろん行ったら楽しいけど,「また行く」という機会を設定できるものではないだろう.少なくとも僕は自分でなんとかできるものではない.災害にあうあわないは自分でどうにかできる部分が少ない.だから災害なんかにあいたくないと思うはずだ.それでもどうなるかは制御できない.お茶や遊びはそれと同じだと思う.そりゃまた行ってみたい気はするが,自分じゃどうにもならないということだ.

P5242091.jpgレンズフードをなしていたのでハレーションが

ちなみにだけど,金澤で一番行きたかったところは,じつはここ.これは「どうでしょう」ファンならばわかると思うのだけど,「絵葉書の旅1」での撮影ポイントです.おぉ.

地震と火山と心構え

2015.06.01 

地震と火山のニュースが増えると地震予知や地震雲が頭に浮かんでしまう.これは子供の頃からのクセであって,それ自体の信ぴょう性を高く評価しているわけではない.ノストラダムスを子供の頃に知った人ならば,UFOもネッシーも地震雲もみな同じカテゴリーに入っているはずだ.怖いけど信じたい気分もある.そういうもの.

地震発生や火山噴火を予知できるのか.ぼくはこう考えている.地震や火山噴火の前に目で見るような自然現象があり,その自然現象と地震・噴火の相関度がとても高いものがあるのならば,すでに議論の余地のないものになっているはずだろう.しかしそれが今の時点でないならば「たぶんない」といっていい.地震も火山も,災害発生回数が世界が有数の日本で「人々が共通にもっている予兆の指標がない」のならば,今後も人の感覚で検知しうる予兆はない.そう考えていいだろう.だから,地震雲は与太話となる.

だからといって全ての予知行為を否定する気はない.「身体感覚を含めて五感で感じとることができる予知現象はない」と思っているが,「五感に感じないもの」を使うならば予知は可能かもしれない.人が感じられないのだからあるとかないとか言えない.だから,予知は不可能だとは現時点ではなにも結論づけられるはずはない.

予知をするには第六感が必要ですよ,と主張しているのではない.身体の感覚器ではわからんけど,「装置」をつかったらわかるかもねと思っている.『ゴーストバスターズ』たいな話しになりがちだが,しかるべき物理現象を装置で探知することで,予知らしきことはできるかもしれない.

イタリアで地震予知結果の取り扱いについて裁判沙汰になったことがあった.ある研究者いわく,大地震の前には地殻が割れ,その隙間からアルゴンガスが噴出する.ならばガスの変化をずっとモニタしていれば地殻の変化がわかり,結果的に大地震が起きる予知ができる.そう主張するグループがあって,彼らが実際に予知結果を発表し,それが政府サイドの見解とが食い違い,本当に地震が発生したあと負傷した人の責任について裁判があったということだ.
LinkIcon「地震予知失敗」の科学者ら逆転無罪 イタリア(http://www.asahi.com/articles/ASGCC2GPXGCCUHBI008.html)

地震発生時には地下深くで地殻というかプレートというか,そのあたりの地面?がバリバリと割れることになる.どのような範囲でどのようなタイミングで割れるのか.その詳細についてはある程度学問として分かっている.しかし何キロというスケールでの割れの現象であっても最初は数メートル範囲の部分的な破壊が起きている.そう考えることはそんなにおかしなことではない.ならば「その小さな破壊」を検知できればなんらかの予知ができるんだろう.

このような破壊がおきると割れるという現象にともない電磁波が放射されるらしい.ならば,それを検知することで地震予知ができるのではないか.こういう予知方法について311前にも散見していた.

有名なのは串田法で,一時的に話題になったあといろいろたかかれて,新書まで出版したけれどイマイチだった.これはデカイ地震ほど起きると予言できたらしいのだけど,だったら311をなんとかしてほしかった.
LinkIcon串田さんについての評判 (http://matome.naver.jp/odai/2139437199565808701)
あれはFM電波を使って「なんかありそう」という予報をするのだったとおもうけど,データ整理の方法が不明瞭だし,予報をつかって「ビジネス」をしているところから予報そのものが「事後にしか公開されない」という問題を本質的に含んでいる.普通の人がツールとしてはあまり適していないと考えていた.今のような扱われ方だとスポーツ新聞の記事の枠を超えた信用をえることはできないような気がする.というのは,検証可能な「理論」がついていっていないから.

もう一つは早川先生の活動がある.こちらは大学の先生で,まともに物理から追求していた方法のようである.事後の発表ばかりではなく,事前にいろいろと好評している.以前はこの先生が教授を務めていた大学の研究室の廊下に予測情報が張り出してあった.
LinkIcon地震解析ラボ (http://earthquakenet.com/blog/)
こちらの方は「そこそこ当たる」程度であるが,でかいのは当たらないような気がする.つまり日常生活に支障が起きない程度のものはあたるけど支障ができるようなものはあまりあてにならない.となると,あまり見なくていいかなとは思うのだけど.

こういう話をすると,すごい剣幕で否定し露骨にバカにしてくる人がいる.統計確率論を持ち出す人までいる(ただ,大抵ぼくのほうが数学的にカバーしている範囲が広いので,どこまで議論したらよいものか文系の人相手だと躊躇するのだが).しかし,こういうものは「発生のメカニズムをモデル化し,それを現物に応用して確認している」という科学そのものの手法をとっているのであって,信じる信じないの問題ではない.理論には不適切な仮説があるか,現実の予測をするための観測量がおかしい,あるいはその両方がおかしいかという問題として扱えば良い.自分がやるわけではないのなら「面白いアイディアと実験結果」の話しでしかないのだから,笑顔で話す内容なのだ.しかし,多くの人はそれができない(不思議なんだけど).

最近は地震も火山噴火も多い.これは311直後から予測がでていた.環太平洋として活動期に入ったようだし,地殻の歪が解消されたところはマグマが上がって噴火が起きやすくなると.そして,最近その通りになっている.地震や噴火のニュースが続く毎日だから.地震や噴火に対して人は対抗などできない.近寄らないくらいしか方法がない.だとしたら,なるべく近寄らないでいて,物理現象でモデル化された理論をたよりに少し先に発生する現象を推定し,それが本当はどうなるのかを「観察」することだ.それを楽しむほうがずっとよい.つまり,噴火や地震のニュースを見たらあれこれ考えながら「へぇ」とワクワクしながら科学するマインドをもつ.そのほうが,怖がったり不安になったりするよりずっといいだろうに.



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人の知能の発端を知りたいです。ハードウエアとしての人は二万年は変わっていないらしい。それなのに、文明といわれるものはローマ以前の数千年までしか遡れない。ローマ以後の二千年で海王星の写真を撮れるし、原子も見られるようになった。文明以前の一万年以上、一体全体「人類」は何をやっていたのだろう?それが知りたいんです。



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