物書きの人たちの日常

2016.03.25 

短いブログのエントリーを書くのにもそれなりの時間が必要なのだ.ブログだからずばぬけて面白い必要はないし,読者からのクレームを先回りして想定する必要もない.そもそもブログは書いた本人しか読まないものだ.にもかかわらず,その程度の「ゆるい」基準であっても,文章を書くには時間がかかる.

物書きの人は平気で長いものを書いているし,しかも頻繁に新しい物がでてくる.それはプロだからだし,それをするための時間が「人生そのもの」だったりするのだから当然だ.そういう見方もある.一日中書いていていいよと言われても,ぼくには到底できそうもない.まぁだから物書きにはなっていないし,目指していないから己の能力のなさ恨むことがなくていいのだけど.漫画家がずっと絵を書いていられるように,演奏家が楽器を鳴らしていられるように,特筆する能力があると認められた人はそれを一日中やっていても苦にならないのだろう.

でも,世の中には「プロではない」のに文章がやたら上手な人がいる.いわゆる「天才の人」でなくても,そこそこ読ませる論文を書く人が結構いるのだ.そういう人はどうやって書く技術を身につけたのだろう.高校時代に新聞部に入っていたとはとても思えないような人であっても,いい本を書く科学者って結構いる.あれはなぜなんだろう?

市井の人がそういうものを目指したらどうなるのか.何か方法論とはいわないけど,少しはましな文章がかけるほうほうが見つかれば,世の中もっとよくなるのではないかと思ってしまう.それもこうして努力している理由の一つ.

ごく普通の人はコンピュータと無関係に生きていくのが当然,と考えられた当時,普通の人のためのコンピュータを夢想した人がいて,それがあるから今こうしてPCを使える時代になった.PCを使えば,文章のツールもしたので,簡単に見た目がよい体裁のページができる.あとは,みんながそれなりに面白いことで内容がかけるようになるように,できればその努力しやすいようにすればいいではないか.これは夢想に近い発想なのだけど.

「塩漬け」についてのエントリーを書いていて感じていたのだが,定期的にブログのエントリーを出力するには,最低限定期的に書いていく必要がある.しかし,一回一回書いて塩漬けして出力して,といやっていると途中間延びしてしまう.だから上達も遅くなってしまうような気がする.だったら,パラレルにしておく必要がある.つまり,一定期間ごとにエントリーを書いて,塩漬けして,出力するというのを蓄積しておく必要があるだろうと.

じゃぁ,と思ってもなかなか文章にするほうがよいことなど思いつかんもので,だから市井の人なんだなと感じった.

必ず塩抜きすること

2016.03.24 

書く以上はしっかりしたものを追求してきたが,時間もスキルもないので完成品のできは当然よくない.文章を書くのが好きではなかったので書き始めるのはつねに締め切りギリギリだったし,ギリギリセーフで間に合わせた文書はさっさと提出していたのでロクに読み返したことがない.だって締め切りだったこともあるが,できが良くないことを知っているから早いとこ自分の手元から文章を外に放り出したかったといのが本音で,ともかく提出してしまえばそで文書は「固まる」わけで,それ以上の手直しはできなくなるという言い訳もつく.未提出の状態の原稿が手元にある限り「修正をしたほうがいい」無言の圧力が自分にかかるものだが,書き直しは実に厄介だったのでやらないで済ませてきた.

文章書きは嫌いだったとはいえ,論文が出来上がれば嬉しい気分に満たされた.その喜びの大きさと持続時間は書き上げた原稿の量,つまりページ数で決まったように記憶している.個々の品質を云々するほどの論文は全くかけないできた.だから評価は明確な指標であるページ数に頼ることになり,ページ数が多いものほど満足度が高く感じられたのだと思う.自発的に書いたものでも要請されたものでも提出が義務なものでも,もっといえばメールであっても書き上がればそれなりに嬉しいわけで,それが明日への活力につながっていたといえる.単純なことだけど.何かを完成させた喜びは誰だって感じるはずで,ぼくの場合もそれだった.われながら可憐といえるよなと思う.

文章を書くことはぼくの仕事で大事な割合を占めていない.誰もが作家や文筆業あるいは芸術家のといった人はのものが求められるからだ.ぼくの仕事も同じで,文書づくりが最終目的ではない.物を作り,それを使ってデータなり情報なりを引張りだすこと.これが目的だ.しかしそうはいっても芸術家ではないから「作って終わり」というわけにもいかなく,最後は文書の形で閉じる必要があり,そこではじめて終わりになる.だからこれまで文章づくりを無視することはできなかったし,これからもそうだろう.文書なしという選択肢はない.

文章を書くことは嫌いだけど逃げられるものではない.ならばなんとかするよりないではないか.そう思って文章についてあれこれ思案する日々がずっと続いてきた.文書を書くことの一体なにが嫌なんだろう.そんな具合に.素人でも少しずつであっても長い時間をかけて試行錯誤すればそれなりにコツらしきことを再発見することができると信じている.だからこうして未だに文章について考えて書き続けている.

ものづくりでもプログラム書きでもその行為自体が楽しい.が,その結果を論文の形にするのは憂鬱だ.その理由は,言ってみれば「パーティーは終わった」からなわけで.だからあとは嫌いなピーマンを食べなければならない的なものだろう.楽しさには憂鬱さがなからず一緒についてくるものだ.

なぜ文章書きが嫌いなんだろう.よくよく考えてみるとその理由は実に単純なことだ.それは書いたものが「面白いと言われない」からだ.どんなことでも作業自体が嫌でもその結果が人から好評価されれば「がんばろう」という気になるものだ.いや,絶対にそうなる.要するに,文章書きが嫌いなのは,面白いものがかけないからでしかない.

だったら勉強すればいい.訓練して面白いものを書けるようになればいい.でも,どうやって.

作家の人は小さい頃から本読のクセがあり,かつ感想文で褒められたり賞をとったりしてたんだろうけど,そういう人の方法論を聞いたところで普通の環境に育ったぼくには役立ちそうもない.かといって本屋の実用コーナーで「一週間で文章がみるみる上達する方法」みたいなものを手に取る気にもなれない.文章書きは身体技術である.ならば簡単に人に教えられないし人から教わってもできるようにならない.

そもそも「うまい文章なんて書く方法」なんてものがあるのだろうか.もしあるのならば決定版となる方法が世間に知れ渡っていてもいいような気がする.文章が上達する方法は痩せる方法と同じカテゴリーの問いなのではないのか.

こういう状況下で実践し効果を確認できた方法が一つある.それは技術ではない.作業行程の一つで「塩抜きをする」ということだ.文章は勢いよく書いて,その惰性で推敲して,力を振り絞って誤字や変換ミスを直して完成させる.ぼくのやり方はそうなっていた.締め切りギリギリで書き始めると推敲まで一通りするのが精一杯で,内容の整合性とか接続詞の使い方にバグがあったまま提出してしまうこともよくあった.これが会議資料ならば「あ,これまちがっていますよ」と参加者が指摘できる部分を残しておくことになり,これはこれで決して悪いことではない.でも,論文ではこの方法はあまりよい結果につながらない.

書いたあと文章を寝かせる.これを「塩抜き」と呼ぶそうだが,文章から塩がでてくるわけではない.変えるのは自分の頭だ.自分の頭のなかのモードを変えてから読み直してみると気づかなかった文章のアラがみえている.自分の評価基準を正常にすることが重要で,頭のモードが変わるまで時間をあけること.これがコツなのだ.これは内田樹のエッセイに何度か紹介されているご自身のやり方で,「塩抜きしてエグみをとる」として紹介されていた.でも寝かせてから推敲するというのは授業中の脱線話で聞いたこともあるので,世の中では広く知られた方法なのだろう.

書いている自分と読む自分が「同じ」だったら,「読みなおす」必要はない.誤字脱字のためには意味があるが,話の持って行き方の違和感のような,文章全体の質を左右するようなポイントを検知することはできない.書いた人間は「これでなんとかなるだろう」と思うから完成としているのだから,同じ人間が再読したところで評価は「まぁいいか」になってしまう.ところが数日経って読みなおしてみると「なんか変な書き方だ」と感じるもので,これが頭のモードが切り替わったことの証拠なのだ.そして時間が経てば経つほど頭は「違うモード」に遷移するもので,数ヶ月経つともはや別人.読む時にはなんの容赦もしなく「だめだなぁこの文章」と感じるようになる.

塩漬けするとは,自分の書いたものを他人の目で評価しそれから提出することを心がけることだ.たったそれだけでも驚くほど「独りよがりな部分」を削ぎ落とすことができる.書いた直後には何を書いて何を書かなかったのかを憶えている.しかし1週間も経てば「何にこんなに書いているのかな」と疑問に感じるようになるし,「一体何をいいたのだろう」と腹立たしくなることすらある.自分とはいえ,過去の自分は自分ではないことを身にしみることになる.

文章の書き方はこれまでから変える必要はない,ただ,完成してから提出するまで最低でも1日寝かせる.できれば3日後に再度文章に手をいれてから提出する.校閲の方法も論理の考え方も文体すらこれまでと変更する必要はない.それなのに文章が改善する.とまぁ,これは個人の感想なのだけど.

とはいえ注意しておきたいことがある.そもそもの下手な文章が上手になることはなく,下手は下手なりに「形になる」ということであって,それが塩漬けの上限であることを忘れてはいけない.塩抜きしたらアミノ酸が増えておいしくなるようなことは文章にはない.少しだけ他人の目というものを獲得できるだけで,その目で一旦フィルタできるから「エラーを見つけやすい」ということだ.

これ以外にも素人なりの上達方法はあるはずだが,探しているキリがないので当面はこれだけを採用してみることする.

意識がなくなるにつれ気持ちがよくなるのか

2016.03.23 

風がある寒い日,ホームに突っ立て電車を待っているとき厳しいなぁと感じることがある.顔がこわばってしまうし.そして我慢を続けたあとようやく電車に乗り込み席に座る.暖房がじわじわとふくらはぎあたりから効いてくる.暖かくなるとそのまま眠気に襲われる.あるいは,風呂に入って寝るだけという気分で湯船に浸かる.これまで気持ちよさ全開のまま無心になっていく.気持ちいいわけです.

気持ちいいなぁ,という思いをするにはどうしたらいいのか.そんなことを考えているうち,気持ちいいって要するに無心になることではないかと思い至った.寝ることも無心になる一つだけど,寝ちゃったら気持ちよさすら消えてなくなる.だから寝ない状態で,でも眠りに落ちる状態を維持し続ければいいわけだ.が,それは箒の軸を手のひらに載せてバランスをとるようなもので,実際やるにはなかなか難しいだろう.眠る直前の気持ちよさって,長続きしない.

意識がある状態から意識がない状態へと遷移するときに心地よさを感じるのではないか.これが仮説.で,この思いつきはさして根拠があるわけでもない.仏教や精神医学あたりでは「当たり前」のことなのかもしれない.今は新発見を求めているわけではないので,この仮説が正しかろうが間違っていようが,すでに誰かが唱えたことであろうが,どうでもよい.思いついた仮説はなんとか実証したくなるもので,そこに幾分事実があったら生き方のコツとして自分で採用すれば済むわけだし.

無心に向かうことに心地よさを感じるのならば,なんで意識なんてあるんだろうな,と.

さきに図を仕上げると言葉はそれを補えばいい

2016.03.22 

論文を書くときは,逆説的だが言葉で考えない.考えは必ずしも言葉で表現できるわけではないし,記録するのに言葉が適しているわけでもない.頭のなかにぼんやりと置いておくだけというのもありだ.

学生のときに,「まずは目次から書いてみたらどうか」とアドバイスしてもらった.論文全体の構成を考えて,その中身を埋めていけばいい.そういうことなのだろう.目次さえ出来てしまえば,各章の順番とは関係なく書き始められるし,具体的に何をかけばいいのかと途方にくれることもない.単に,目次に書いていることを説明すればいいのだから.

で,ぼくは実際そうしたのかと問われると,そうしていなかった.まずもって目次から考えるなんてできなかったのだ.そもそも何をどうやってまとめればいいのかなんてわからなかったのよ.いきなりコツを実践できることはない.一回全部やった人がコツを実践できるのであって逆は無理.だから当時のぼくも最初から全部書くよりなかったのだが,これが全然すすまなかった.そもそも文章がかけないのだから,最初から順番に書いていくことなんて無理だ.

学生の頃はそんなだった.だから論文は嫌いだった.そして結局上手く書けなかった.しかし今は中身がわかれば論文を書くことに困難さを感じない.理解したことをブロックごと記述して接続詞でつなげればいいから.その論文が面白いかどうか,わかりやすいかどうかはわからない.がたった数ページの文章を書くだけなら以前ほどの困難さを感じることはない.考えてみれば不思議だ.どうして苦痛でなくなったのだろう.

なんでもそうだが,コツをつかんだからだ.ぼくのコツは一般的なものではないし,良い方法でもないだろう.しかしこの方法をつかえば,ちょっとしたことならば自分でも完備だと思えるものを短時間で作成できる.

その方法は絵から取り掛かることだ.論文であっても最初は言葉の利用を放棄する.文章は書かない.とにかく「グラフ」と「説明図」から取り掛かる.ぼくの場合はデータがあってそれを必ずグラフにするはずなので,まずは数値解析を行いグラフにし,その意味の説明をイラストレーターで描く.グラフは「証拠」として論文に多数登場する.内容を人に説明するとき,それ以前に自分がものを考えるときは,グラフのシーケンスを使うのが一番的確だということを最近になって自覚したのだ.パワーポイント世代というわけでもないのだけど,グラフが幾つかあれば,それらの関係を考えるようになり,時間的な順序が見えてきて,それで結論にたどり着く.

グラフを最初に書いてしまう.そのグラフも,そのまま論文に張り込めるものを準備する.フォントやサイズなどは紙面を仮定してしまえばいいし,自分なりのクセをつけてしまう.例えば1:2の長方形か1:4の長方形か1:1の正方形のどれかという具合に.データ解析の結果からグラフを幾つかできあがったら順番にワードなどに入れ込む.それらをみながら順番を入れ替えているうちに論文全体の骨格がみえてる.そう,ぼくの場合は目次じゃなくて図だったんだと気づいたわけで,これがコツでした.

一度グラフができればそのグラフが存在する理由を言葉で埋めればいい.言葉でグラフを説明していくのだ.言葉で考えを説明するのではなく,見えているグラフを言葉で補足するのだ.あるいはグラフが必要となる論理を言葉で表現する.これだったら文章が苦手だったとしても書ける.こうすれば自然と「論文」ができてくる.昔と比較してラクに論文(らしきもの)が書けるようになった.

自分がクセとしてやっていたことが別の人も主張していたことを読んで驚いた.黒田龍之助というフランス語の先生のエッセイだったと思うけど,先に図をつくれとアドバイスされたいのだ.この先生も独力で辿り着いたのか,あるいはよく知られたコツなのかもしれない.でも,だれかこういうことをもっと早く教えてくれる人がいてもよかったのではないか.そう思うんだけど.

オリジナリティーなんていらない

2016.03.21 

オリジナリティーというものは,そりゃないよりあったほうがいいだろうけど,なくても生きていく上であまり問題にはならない.簡単にいえばオリジナリティーはお金のようものだろうよ.

不愉快な隣人との接し方

2016.03.20 

絶望的に難しい問題にどう対処するか.一日の大半,とまではいかないが無視できない量の我慢を日々強いられる.ホントに.騒音や体調不良,あるいはツキの無さには我慢するよりないが,ぼくの場合その大半は「不愉快な隣人との接し方」が課題だ.

不愉快の原因の100%は対人関係だ.そうアドラー心理学の先生の本に書いてあった.わりと信用のおけそうな先生がそう言ってることもあるし,確かにそうかもしれないなと同意する.ぼくは子供でも中学生でも若者でもないけれど,不愉快さへの対処法は我慢しかないなと結論づけている,とくに時間が過ぎ去るまで安全なところで待つ.こんな方法しか知らないである.不愉快さは夏の暑さや冬の寒さと同じ.そう思っているので.

電車のなかで「嫌な人」に出くわしたことを考えて見れば良い.舌打ちされたり,怒られたりという場合.相手が明確な酔っぱらいだったしたら,周りに居合せた乗客も「面倒にならないでほしいなぁ,酔っぱらいは吠える犬みたいなもんだから」と我慢を期待している.そしてその期待どおり多くの人はぐっと堪えるか,その場所から離れるする(と想像する).ぼくは幸いなことに,そこから口論に発展したり,そういう場面に出くわしたりした経験はない.こういうときは皮肉を言ったり声を荒げたりすることはなく,逃げることだと信じている.普通の大人は,苛立たしい感情はどこかへ過ぎ去るのを待つものだ.

だからといって,それで物事が解決することにはならない.我慢すると「思い出し怒り」に罹患するから.不運に見舞われるとしばらくの間は嫌なことを思い出してしまい,めらむらと怒りが湧いてくるものだ.どういうわけか「嫌な場面を再三味わうかごとく」繰り返し思い出し,繰り返し頭に血がのぼる.この症状は時が経つにつれ消えてなくなるのだが,しばらくは嫌な時間を事あるごとに思い出して過ごすことになる.

不快な(嫌な)記憶との戦いは2通りの変化をしつつ消えていなくなるようである.一つは思い出す回数が減っていくこと.もう一つは思い出しても怒りが湧いてこなくなること.どちらも結局は感情的に無害なものになるが,後者のほうが絶対によい.

先に後者の「嫌なことを嫌と感じなくなる」ことについて考えてみる.これは年齢のなせる技だ,というか老化の症状なのかもしれない.感情の起伏がゆるやかになってくることに近いから.怒りの状態は「血が頭に上る」くらい身体全体で戦闘準備をしているようなもので,不測の事態に備えているわけだが,歳をとると「不測の事態ってそんなにないものだし,そもそも不測の事態になるような状況にはちかづかなくなるし」とわかってしまう.「実害って結局なかったよね」という経験が積み重なる.「あれは若い頃に起きたことで,もはや夢の様なものだ」.そう身体的に判断する.だから身体が反応しなくなり,結果的に怒りを感じなくなる(これはぼくの仮説ですけど).

一方前者の「思い出す回数が減る」はどうか.これは年齢云々んではなく,日々何を考えて生きているのかによる.嫌なことを思い出しているのは結局「自分」なわけで,そんなことを思い出すくらいヒマをしているのだ.締め切りに追われ「必至の形相になってる」ようなら,もう過ぎ去った嫌なことなどを思い出しているヒマがない.うっかり思い出すことがあったとしても「いや,そんなことより」と,すぐに「意識」が目の前にある現実を処理し始めてしまうはずだ.これはこれでよい.しかし嵐が過ぎ去ってしまいやることがなくなってヒマになると,嫌なことは嫌なままであり続けているだけなので,リラックスしようとすると嫌なことを思い出して不快になってしまう.偏頭痛みたいなものだ.こうなると,たとえ10年経っても同じレベルで「嫌な思い」を味わうことになる.自分でも「どうして嫌なんだろうな」と思うのだけど,感じちゃうものはしょうが無い.この段階まで罹患すると休暇をとってでかけても全く楽しめないという不幸に落ちるわけだ.

「思い出し怒り」にどう対処するかで,その後の人生の楽しさが違ってきてしまう.思った以上に怖いことなんだ.とくに時々思い出していまう嫌なことにどう対応するのか.この対処法のあるなしで人生の色味は違ってきてしまう.しかし,まぁ,そんな悩みは平和な社会を生きていくならではだよね.災害時や戦時中は今日を生き延びる事しかないだろうし,ならば過去のことはどうでもよくなるだろうから.

こう理解はしているが,あれこれ書物を紐解いても結局のところなにもわからない,なにも変わらないわけだ.そりゃそうだ,本で水泳ができるはずもなく,CDを聴いて楽器が弾けるようになるわけでもない.いろいろと工夫するよりないのだよ.

今週を振り返って(2016/02/29-03/04)

2016.03.05 

あれ,ハンコックの新刊がでている.八重洲ブックセンターに行ったら,店頭の新刊コーナーに並んでいた.これは買いだろうよ,と今週は暇しないと思ってワクワク感が湧いて出来てきた.好きな人の新刊を店頭で見かけることは,日々の生活のなかでの「嬉し驚き」を提供してくれる少ない機会だと思うのだが,他の人はどうなんだろう.

ハンコック.tiff(出典:http://www.amazon.co.jp/)

ハンコックの古代文明以前への探求は現在でも続いていたのか.『神々の指紋の段階で,口絵写真に映る著者を見るに結構な歳にみえたのだが,今でも精力的に世界を見て回っているようで,大変うれしい.人を魅了する疑問って,結局一生ものになる.疑問は考える事自体を誘うわけで,結局常に頭を動かす結果となる.筋肉は弱くなっても,思考力は落ちないよな,と安心した.

ぼくはハンコックの「有史以前にあった失われた文明」というアイディアに魅了された一人で,その疑問はぼくの生涯のテーマの一つに組み込まれている.

現代人のハードウエアとして人間は20万年前に完成していたそうだが,なぜ文明が1万年前から現れたのだろう.一体全体そのまえの19万年は「何をやっていたんだ?

この問い.これはハンコックに通じるものがある(実際,この本の結論に全く同じ事が書かれていたし).実に素朴な質問であって,しかしそれに答えることは相当難しいだろうものだ.少なくともぼくが生きている間にはわからないだろう.

この本,八重洲の店頭平積みで見かけたのだけど,日本橋丸善で買おうと思ったら「店頭にないです.仕入れてもいないようです」と言われてショックを受けた.角川の本なのにと.さらに,翌日神保町の三省堂で探したら「精神世界」の棚に挿してあるだけで,そのコーナーの新刊扱いもされていないかった.ずいぶん不当な扱いを受けているなぁと感じた.しかし,「精神世界」ってどういうことなんだろう.

この本を読んだけど,普通にサイエンス的な内容だった.論文ではないからポピュラーサイエンス,というものかもしれないけど.でも,仮説をたて,その場所に行き,その専門家から話を聞いて,仮説を検証することをしているのだから.つまりは「まっとうなサイエンスの本」であるとぼくは思っている.サイエンスって,なにも大学教授がやる行為ではないし,扱うテーマによって決まるものではない.「仮説を立てて,それを検証する」という行為とその記録を指すのであって,だからハンコックのやっていることは完璧なサイエンスの一つだと思っている.

この本が置いてあった精神世界の本は「証明できないことを信じる」ということから始まる.いわゆる宗教のカテゴリーもそうだ.言葉で構成された体系をその人にとっての事実と受け取り,世界を理解したと考える,外部世界での検証を行わないのだからサイエンスではない.だからハンコックの本は精神世界でもオカルトでもないのだけど.

ハンコックは過去の文明についての考察から,オカルトのメインテーマに近い題材を扱っていく方向に流れていくので,扱っているテーマからみれば精神世界の本に分類されても仕方がないかもしれない.科学かオカルトかを分けるのは「題材ではない」のだけど,普通の人にその違いはわからないのかもしれない.それはそれで,仕方ないか.

今週はこの上下巻を読みながら過ごし,週末風邪をひくということで終わった.



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人の知能の発端を知りたいです。ハードウエアとしての人は二万年は変わっていないらしい。それなのに、文明といわれるものはローマ以前の数千年までしか遡れない。ローマ以後の二千年で海王星の写真を撮れるし、原子も見られるようになった。文明以前の一万年以上、一体全体「人類」は何をやっていたのだろう?それが知りたいんです。



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