あらまほしき自分と実際の自分の狭間

2016.04.22 

もっと文章をガンガンとかけるようになりたい,ホントにそう思う.

職業とか芸術とか,そういう「理想や生活が背後にかかったような」理由からではない.「俺はスゴイんだぜ」と相手にわからせるためのオレオレ衝動が理由からでもない.単純に書けるようになりたい.文章で考えや事実を記録したい.そういう技術への憧れを持っていて,それが未だに実現できていないから.

歳をとるだけで年々何が知らの能力が向上していそうな気もするが,そのほとんどは勘違いであって,歳を取るとなにかができるのではなくできなくなっている.

動機が自分の中にないことを文章に書く必要があったんだよね,ということは10年以上全くない.そういうのは学生時代の「レポート」で終了したようだ.このブログもそうなんだけど,ぼくが文章を書くのは「やらないくていいのにやっている」ようなもので,だから動機は自分の中にだけある.だから趣味といってもいいだろう.文章書きの趣味はゴルフと違って筆記道具と公開方法があればいいので,高価な道具を揃えなくていいし,仲間や賛同者を募る必要もない.そしてやり始めるとすぐに時間が経ってしまう.ブログつけは週末の趣味だ.

遊びで文章を書く人がいるのだろうか,そんなことありえるのか? そう問われれば「あります,ぼくが実例です」といえる.素人のブログつけは総じて評判が良くないので,この趣味はあまり人にいわないほうがいいだろう.ブログをつけているだけでよい印象を持たれないから.というのは,普通の人がブログをやる動機は2ch的な他人批判だからだろう.あるいは自慢だからだろう.最初の一歩はそういうものなのは仕方ないし,その後どう発展するかまで考えてほしいのだが,普通の人はそんなところまでトラックしないから,この風評的なところは今後もこのままに違いない.

文章を書くことは難しいけど面白い.試しに文章を書いている最中の自分を観察してみればよい.実に奇妙なことが起きているとあり面白いということがわかるはずだ.今こうしている間に言葉が自分の目の前で紡がれていく.それを目の当たりにしている.ホントに不思議な気分になる.真の作者は一体誰なのだろうかって.暗唱しているわけではないのだから,この文章の著者は自分である.いや自分かも知れないがそれだけではなく,同時に最初の読者であり,批評家でもある.打ち込んだ文章は文字列として現れた矢先に消されることが少なからずある.文章を出力している瞬間に同時並行して次に文字に置き換えられようとする言葉が自分のどこかにあって,それが自分の指にキーボードを叩かせ,IMEを経由して文字列となって目の前に現れ,それと同時に自分が読みながら「ふむふむ」とチェックしてリターンキーが押されるのを待つ.一体なんなんだろう,この書くという行動は.

この文章は「この先,これを読み返す自分」へ向けた発信手段となっている.書いたものには結果的に読者が必要になる.だからこの文章も読者が必要とされる.しかしだ.今の世の中いくらでも面白い文章が溢れている.だったら素人の文章が「今」読まれる仮定することには無理がある.だからこの文章の著者はぼくだが,読者もぼくで,それで終わりだ.瓶に手紙を入れて海に放つようなロマンちっくなことが目的ではない.最低でも「自分で納得し,それなりにいいかな」と自分で冷静に評価をくだせるようなものを自ら作り出したいのだ.

成人するまえの好き嫌いというのは,それがプロとどのくらいつながっているのかで評価される.実際自立にはそういう要素は必要なのだが,大人になっちゃって,しかも還暦まで最後の周回に入った人にはプロかどうかなんてどうでもいいことでしかない.若者からおじさんになる過程の中で,どんなことでもプロというのは大変なことだわ,という理解するはずだ.だから,「好きだからプロになる」というナイーブな動機で何かを始めることはない.

これまで生きてくるために,幾分かのレポート・論文・記事といったものを書いた経験がある.そしてそのどれもは「締め切りに追われて」書いたものだった.「イマイチなのは締め切りがあったからだな,もっと時間があればまともなものになった(はず)」という言い訳がつねに頭にあった.しかし考えてみればだが,実際のアウトプットから中身を推定するほうが「間違いない」.だから書かれたレポートなり論文なりから「この人の頭の広さと文章表現技術の質」を直接評価してよいと思う.ならば,「なんだかんだいって,大したことがない」ということを自分でもうすうす感じてるならば,実際にそうだということだ.

自分は実はダメなやつではないか,という心配と,いやいや自分は以外に素質があるがチャンスがなかっただけだからまだ可能性ある,という楽観は常に同居しているものである.若い頃は激しくそう思うはずで,だいぶ歳をとってもそう信じている人も結構いる(観察でしかないのだけど).結局,実際の出力結果を観測して評価するという行為からしかわからない.だから文章を書くわけだ.

しかし,思い返してみると,高校時代にブログをつけ始めてたらもうすこしマシな文章がかけていたのだろうか.いやいや,当時だって文章を書くことはできたし,だから道具があっても変わらないだろうよ.そういう考え方もあるし,それなりに正しいとは思う.しかし,一方で今のように自由に発表する(というか公開する)媒体があったらただ今現在とは動機が全く違うものになっていただろうから,違う結果になってくるような気もするし,同じようなものを書いているかもしれない.どっちだかわからない.

そんなときは,今を見れば良い.自分が高校生のときと今の高校生とは「そんなに」変わるはずはない.もっといえば,勉強のやらなかさ下限も将来への見通しのなさも含めて,たいして変わらないだろう.ならば,今の高校生と比較してどうなのかを考えれば良い.もっといえば,高校生・大学生は文章を書くという能力はぼくの頃と比較して向上しているのだろうか.

実際のところわからない.学生さんとの接点などはほぼないので.例えば「コンピュータの知識」はぼくと今の学生さんとを比較していどうなのかわからない.というのは,知っている「対象」というか「レイヤー」というか,そういうものが違っているので.存在していることを当たり前と思い過ぎて「空気」となっているものがぼくと学生さんとではだいぶ違うので,知っている量はそんなに変わらないけどその範囲,指向性は違ちがっているので比較が成立しないと思う.スマホの存在が前提で教科書がタブレットの時代では,いろんなものの前提が違うのと同じだ.

文章についてぼくと今の学生さんを比べるとどうか.ぼくの時代も現代も「文章をかかなければならないという状況」に陥る機会はさほど変わらない気がする.メールを送る機会は増えたが,短文の回数を増やしたところで文章の能力が発達するとは思えない.計算機を介在させるために,クリシェ(常套句)の利用は楽だし漢字変換は気が利くから人単体の能力は落ちているとすら思う.学生さんが文章を書く機会としては,ぼくの時と同じで,やっぱりレポートくらいしかないだろう.今の高校生も20年後,30年後に「文章が下手だよなぁ」なんて思うのかもしれない.道具が変わっても,身体から湧き出る能力というのは,結果的には変わらないと思っている.

現場の力が壊れてきているのか

2016.04.21 

ここ最近(数年),どうやら「日本の技術力」というものに疑いをもたせるようなの記事を数多く目にするようになった.技術力なんて「すでに衰えてしまった」のではないか.そう感じている.正体不明の不安は朧げにしか意識できないので,たまに「日本全体としての技術力低下」に関連する事件があると「あぁ,やっぱりそうか」と一人都合よく拡大解釈してしまう.そういう傾向は確かにある.だから感情を伴うような判断の根拠が自分の感覚でしかないならば疑ってかかる必要がある.確かにそうなのだが,しかしそうは言っても日々のニュースのなかで「そんなこと,あるんだろうか?」と思うようなことが報道されていて,ずいぶんと不幸な出来事だな,とばかり思っていられないものがでてくる.やっぱり,じわじわとだが「日本全体としてみたときの能力劣化」のようなものは,いろいろな分野で表に出てきているのではなかろうか.

これまで「そんな失敗するかなぁ」と思うような事故は,一年を通じて何度もなかったように記憶している.ぼくも目を皿のようにして新聞記事をチェックする,というようなことはしていない.だからたまたま目にした記事の集積でしかなく,決して「確からしいこと」を言っているわけではない.それでもこういう記事を目にすると別の意味で心配になる.


LinkIcon(参考ページ)http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160422/k10010494611000.html
高速道路で工事中の橋桁落下 2人死亡8人けが 4月22日 20時03分)

なにか手を抜くことをしたのだろうか.偶然とか運の悪さとか,そういうものが介在しない行程である.というのは物体の形状の重さも強度も全部既知のもので,机上で計算すれば「おかしなことは起きない」から.おそらくは,そういうことがすでに「できない」のではないのだろうか.現場作業でも,能力差の分散が広がっていて,有名企業においても「あのグループはできるが,そうでないところも多く,だれが担当するかで結果はまるでちがう」ということのように.


LinkIcon(参考ページ)http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20160422-OYT1T50192.html
(衛星ひとみ分解 宇宙の藻くずになってしまう)

LinkIcon(参考ページ)http://www.astroarts.co.jp/news/2016/04/18hitomi/index-j.shtml
(「ひとみ」姿勢異常の推定メカニズムを公表)

結果的に「姿勢制御装置の異常」ということが原因だと推定されているけど,にわかには納得できないのだ.主力的なミッションで開発期間も短くないのだから「そんなことが理由で衛星を失う」ことになる「はずがない」ように感じる.これも報道されていることを受け入れるよりないだから仕方ないとして,異常回転したらどうしようか,ということはプログラムを組んでいる人間が「真っ先に」考えることであり,そのための対応はしてあるはずで,だから「異常に回転して部品が外れました」なってストーリーは受け入れがたい.で,もし本当にそうなっていたら,一体どういう連中が担当したんだろうか?と首をかしげたくなる.これも技術が問われる場所での技術力低下を思わせる事後だった.個人的にはこれ「単純な(陳腐というレベルの)バグ」に思えるし,だから同情する余地が全くない.


事故にはそれなりの理由がある.報道を通しての理解だと記者の能力によって情報がブロックされてしまい,いろいろと補って考えなければならなくなる.だから新聞記事からの判断は難しい.難しいのだけど,見えてるのは「劣化」である.

ただし,新聞報道の盲点として,「うまく行っていることは書かれない」ということがある.日々の生活に資する技術力の「圧倒的多数のものは機能している」わけである.数件ほど取りこぼれたものを批難するのは,逆に技術的な素養がない人の指摘だと言える.

したがって,記事自体には一喜一憂せず,可能ならばメカニズムと意思決定ルート,および価値(どうしてそれで良しと判断できたのかの評価意識)を一つ一つ記憶し,自分はなるべく近寄らないようにする.意味のある憂いとは,そのくらいではないかと思っている.

先取りする試み

2016.04.20 

なんでもそうだが,頼まれてから始めるようでは遅い.


頼まれてから考えたり調べたりをしていたら,その結果がどうなるのかわからないまま引き受けてしまったことになる.いろいろやった挙句つまらない結果がでたら頼んだ方も嫌だろうし自分も不満である.両者にとって時間の無駄だったというオチになる可能性が高い.

ならば自分の興味があること,少なくとも結果を個人的に知りたいことを引き受けることだ.それなら誰かに頼まれてもいいし,そもそも頼まれる前にやってしまうかもしれない.実際問題「誰にか頼まれる」ということは「ほぼない」まま人生を過ごしてきたぼくとしては,頼まれるのを待つ,などは愚行だと考える.誰も頼みに来たこと無いし,だからこの先もないだろう.その結果の人生訓として,知りたいことは自分で企画して自分で活動して結果までたどり着く,としてきた.いや,その方法を取るよりなかったのだが.そして自己動機で自己完結させるやり方は今までやってきたことで,始めたらなんとかなるだろうと考えて間違いはあまりない.そしてその行動方針は実は誰でもできる程度のことでしかないのだが,一般には「他人と協力せよ」と言われていて,だから動きが鈍るわけだ.物事をやるときに頼れるものは自分の意志と技術とそして運でしかないのに.

自分で考えて自分で活動を始めてしまうと意外にも「身軽」になれる.


身軽とは心が軽くなることで,組織にいてはなかなか体験できない気分ではないかと思う.いや,組織にいても末端ならば可能かもしれない.組織の新陳代謝の対象になってしまう危険もあり,その場合はビクビクと生きていかざるを得ないのだが,「住宅ローンを抱えていなければ」どうにかなるだろう.

身軽になったら的に向けて移動することになる.活動とは結果を目指して走るわけで,ある程度タイム(つまりは締め切り)が気になってくるはずだ.うさぎと亀』においてアリは全力疾走していたと考える人もいるが,ぼくは「アリなりにタイム設定していた」と考えている.周りの人より遅くても自身のハードウエア制約からそうなっているのだから遅くて仕方がない.スピードよりも全工程でどうペース配分するかに注力していたのだろう.うさぎとは関係なくスケジュール設定しているわけだ.一方うさぎは亀に合わせてしまった.それでは「身体能力よりも低い結果で終わる」わけで,そうなって当然といえば当然だ.なんやかんや言っても他人に巻き込まれた人の結果である.「競技」でないなら,他人のことなど放っておき,「自分自身の運用」だけを考えることだ.これってアスリートのインタビューによくある話になるので,概ね正しいのだろう.

頼まれもせず始めると,自分の範囲内で最速で結果を得ることができ,その行程から結果までを自分は楽しめる.こうなるためにはリアクションではなく,自律的なアクションがトリガーになっている.つまりは,いずれやるだろうことを先取りしているわけだ.先取りとは自分の活かし方の方向の一つである.

新しいことを始める,その苦しさ

2016.04.19 

新しいことを始めるにあたって注意すること。それは,

スラスラ理解できたり、はらはらと行動できるようになることは,しばらくない


そりゃそうだ.そんなことは知っている.そう誰もが思うはずだ.今知らない・できない,だから学び始めたのであって,できなくて仕方ないと普通の人は考えるだろう.いやしかし,ぼくが言いたいのはそうことではない.

できないのは最初だけではない.「しばらく」やったところで上達なんかしない


多くの人はその事実にショック受け,新しいことを始めてもすぐにやめてしまう.新しいことなんだから「やってもやっても理解も上達もできない」のは考えてみれば当然のことなのだが,問題は自分がその現実に耐えられるかどうかにある.

この残念な事実については長年生きてきたせいでわかってきた.誰もちゃんと教えてくれなかった.でも,なぜだろう,事実は考えている以上にネガティブだからだろうか.自分に輝ける能力があるかどうかという問題とは別の話であって,料理だってプログラムだって旅行だってどんなものにも「行程」と「知識」が前提になっていて,そういうものは最初から人間には備わっていない,という話でしかないのだが,このアタリマエのことを生きていくうちに身にしみて納得していくことが,

ある意味大人になるということ


なのだと考えるようになった.


新しいことを始めるならば「なんだかさっぱりわからないで進めていく」よりない.ただし,このさっぱりわからないのに進める苦しさは並大抵のことではない.子供は間違いなくやめるし,大人は意味がわからないといってやめる.結局やめるのだ.新しいことを始めると,

わからないことがある,のではなく,わかるものがない


これじゃぁ,これから何をしていいのか,どうやったら上達するのかもわからない.それは大変不条理なことに思えるが,実際そうなるのだから仕方ない.そしてそれが普通のことなのだ.このどうしようもない状況を体感して脂汗を流す.これに耐えられなければ新しいことを学び始めることはでない.

そんなことにどうして耐えられるのか? 結局のところ,全くわからないものを相手にしてそれと奮闘できる人は,他に逃げ道がない人だけなのだと思う.「顔見知りがいない状況」に放り込まれ、右も左もわからない、何を聞いてもひっかからない、そういう状態に置かれるってどういうときなのか。例えていえば,外国で道に迷ったようなことだ.そんな経験はあるだろうか.ぼくはある.

10年くらい前のことだ.夕暮れ時のオランダ・アムステルダムでホテルの場所がさっぱりわからず難儀したことがある.日が暮れてあたりは暗くなってきたというのに,近くに店がない.なんでまたあんな駅で降りちゃったんだろうかと後悔しつつ車しか通っていない大通りを歩いていた.どっちに行くべきかさっぱりわからなかった.道を聞こうにも人が歩いていないのだ.そのうちジブシーと思われる人が寄ってきて何やら話しかけてくるが,もう怖くてしょうがない.そのとき遠くに横断歩道があるようで微かに明るくなっていて,その方向へと走るよりないと思って一目散に走った.そう,なんだかわからなくても移動しつづけるしかない.自分から進んで入るような状況ではないのだ.

わからなくても,とにかく続けてみる.


これがとりあえずの方法だと思っている.

教科書を最初から読むときに,不明な部分があったらそれをほったらかしにして先に進むなんてことはできない.完全に理解してから先に進めるべきだ.一見正しそうにみえるのこの態度は,結局先に進めないで「終わってしまう」典型的な症状で,これをやっていはいけない.というのは,ある時点を境にして,過去は全部理解しており未来はこれから学ぶ,というような状態には決してならないものだからだ.そうならないのに,そうなると考えているから間違いなのだ.

学ぶ対象は「全体がつねにぼんやり」しており,学ぶことはその全体を「何度も何度も」訪問しなおし,そのそのたびごとに少しずつ「部分的にわかった部分が多くなる」という発達形式をとる.簡単にいえば,

一回で学び取ることなんてない


誰しもが勉強したことがあるはずで,勉強によって何がしか身についた経験はある.義務教育というものがあるし,実際それは機能している.義務教育期間での経験からすれば,文字を覚える程度ことは,学びさえすればかならずできるようになると皆が信じている.それができないのは,最後まで学べない・練習できないから.そういう経験則を「新しいことの習得」に当てはめのは自然なアイディアだ.

とわいえ経験則は結構あたる.


だから「過去を捨てる」とか「軽く見る」とか「無視する」とか、そういう愚かなことをしてはいけない。過去はすでに成し得たこと、なんぴともこれには干渉はできない。ただし,自分が歳をとり続けていることは忘れていはいけない.

ところが過去の成功体験にこだわり続けると過去の周辺をうろうろする浮浪者になってしまう。そこが好きだから離れらないという意味と、過去なし得たパターンの近くにいれば安全だろうという意味は全く違うものであって、普通の人は前者のようなものを持ち得ない。代々続く家の職業のようなものならば別だが、学校出てから選ぶような人ならば、そして多くの人と同じようなマインドの人ならば、後者になっているはずだ。だから、むしろ過去から少しジャンプしてみることが必要だ。

そして今一度自分を振り返って,自分の過去を考えてみればよい。テストの成績が悪かった科目はおそらく「捨てて」しまったはずだ.だから文系と理系というような「本来背反するはずのない科目」がお互い不都合な科目のグループを捨ててしまった「人種」が形成されてしまい,その人のその後の人生に大きなバイアスをかけてしまう結果となっている.「文系」「理系」というような,そんな区分けは実な存在しようもないにもかかわらず,「文系と理系という違いはある」と思ってしまってしまう.

文系・理系という人種差別は,現在一般的にも認められている.その理由は「自分が理解できなかったもの」にもう二度と顔を合わせないですまそうとしていることなんだと思う.過去の自分が「ちょっとやってわからなかったことできなかったこと」と,もう二度とかかわらないで生きる,避けて通るために生み出した差別感である.これはわからないという状態に我が身を置くことを避けるための方法なのだ.そのほうが楽だから.

こんがらがってきたので閑話休題.
ぼくは今,新たに「全くわからない分野」の勉強を始めたところだ.そして,なんだかわからないまま日々を送っている.いい歳なんだけど「知りたいこと」があって,それを知るためには今が勉強しはじめる最後のチャンスなんじゃないかと思っている.ある意味「逃げ場がない」状態にあるのだと思う.あるときふと気がついてしまった.

そして,知りたい内容は「周りに教えてくれる人がない」し,「定番の学習コース」があるわけでもない.学び方すらわからない.なので「たぶん,こういうものを読み込み,こういうことをやればいいのではないか」という自分なりの判断で進めている.おそらくは,今こころみている学習方法は大変効率が悪い方法なんだと思う.これは「教師なしで人は学べるか」というような状態になっている.

そしてここ2週間,上記に書いた「右も左も全くわからない,ホント苦しい,そしてこんなわからないまま進めてていいんだろうか」という状態で学んでいる.進んでいるかどうかはわからない.しかし,

ほかに方法がないし,自分はこれでいいだろうと思っているし,


という方法で学んでいるつもりだ.最初の一回は「なんだかわからない」まま終わってもいい.教科書を2回目に読む段になったら,わけのわからない概念に対して「あぁ,あなたを以前見たことがある」といえる状態になればいいだろう.そして3回目は「あぁ,あのときはそんなことを言っていたのか,今わかったよ」という箇所がいくつか増えてきて,やがて空白だった場所が手元にあるピースで埋めていけるという「楽しい」出来事が日々起きて,最後は「なんだよ,オレわかちゃってるじゃん」となる.そう信じている.実際にはそうそううまくいくのかはわからないけど,ぼくはそれでいいと思っているのでそうする.

学ぶって,結局はよくわからないままで,ある時気づくとできるようになっているものだろう



自分がどうなるのかなんて現時点でわからない。嘘だと思うのなら生きてみれば良い。あのときああいうことがあったが、それは結果的にどうなったのだろうか。そういう事例を具体的に思い出してみれば良い。友人なり知り合いなりの人の振る舞いを追っていけばいい。あの人はあのときああいう選択をして、ぼくはそれに対してどう思ったのか、そしてその結果はどうなったのか。どんな人でも落ち着いて考えればそういう事例は山程思い出すはずだ.

あのときああだったが結果はどうなったのだろう? これは「間違いようがない」現実を観察ができる。しかし、あれが原因で結果こうなった、という現実を知ったところで、それをもとに自分の行動の意思決定をしよう、ということができない。つまり、自分の生き方を修正する武器にはならない。

それでも他人がどうなったのかを考えるのはよいことだ。事実を再構成して理解すると、それはテレビドラマのよううになっているはずである。テレビドラマがどんなに好きでも、視聴者が干渉してドラマの筋を変更することはできない。そもそも放送された時点でドラマの世界の未来はすでに確定しているのだから。自分が何を言おうとテレビドラマの中での世界は進行していくわけで、だからドラマの中の世界に自分は全く責任をもつ必要がない。他人の人生についてもそれと同じだ。過去の出来事と現在についてを考えるだけならば、同様の結果になる。他人の人生には責任など持てないのだから、これでよい。

そして効率が悪い学習方法で新しいことが身につくのか.意識的に始めたこの勉強方法には意味があるのか.半年くらいしてその結果をまた考察してみたい.


MacBookProからMacBookAirへの移行

2016.04.18 

MacBookProが壊れてしまった.壊れた理由を状況から推測するに,どうやらビデオチップ周りの故障のようである.ネットでぼくのと同じ症状の人が結構いて,その情報どれもが同じ結論に至っているのだ.そして症状について,そもそもアップルからリコールがでていたのだ.知らなかった.


MacBook.png
LinkIconMacBook Pro ビデオの問題に対するリペアエクステンションプログラム(https://www.apple.com/jp/support/macbookpro-videoissues/)



いや参った.月並みなコメントだけど,まさかアップル製品が短期間で壊れるとは思っていなかった.かっこいいけど壊れやすいソニーじゃないんだから数年で壊れるとは想定しなかった.これまで購入したPCは「スペック的に持たない」から使わなくなったのであって壊れたのではなかったし.だから保証を気にした取り扱いをしてきておらず,HDDもメモリも増設したし冷却グリースも塗り直してしまっていた.こういうことをするとメーカー修理は受けられない.

冷却グリースを塗り直したときビデオチップ周りはがっちりとマザーの基盤につけられているのを確認している.だから簡単には外せないだろうし,外して修理をしようにも交換部品が手に入らないだろう.こういうときはヤフオクやVintage Computerという会社から通販で手に入れていたので早速WEBで確認したが,さすがにリコール関係の部品までは取り扱っていないようだ(そりゃそうだが).入手できないので自分での修理は諦めた.

一応ダメ元でアップルに電話をして修理について確認した.電話での応答は必ずしも的を得たものではなかった.結果的に修理不可でした.最低でも「買った時についてた部品を戻すことが条件」だそうで(なるほど,それはそうだね),もうメモリもHDDもないのよ(探せばあるかもしれないが,もう気力的に諦める方針でいた).

では,ということで民間が請け負ってくれないかなぁとWEBを探したところ,そのものズバリではないが「パソコン修理の・・・」という大阪の会社の「ビデオチップの交換をした」というブログを見つけた.ぼくが交換した部品を交換している.可能性があるかもしれないなと思い,その会社に見積もりについての問い合わせをした.結果「ガン無視」だった.なんだよ,「できない」と回答くらいすればいいのに「ガン無視」はねぇだろうが,と感じたが,この手の小さな修理屋さんは修理対象PCのHDDからデータを抜き出して売るのは当然だろうし,カモを探しているのだろうから,まぁ近寄らないに越したことはない.結局,Macは部品取りにして廃棄とする.

仕方ないのでほとんどつかっていないMacBookAirを再投入する.SSD容量も画面サイズも小さいので,ともに外付けで対応する.気軽なデスクトップPCだった17インチノートPCがない.これからは机に座って作業することになる.おそらく生活が変わってくるだろう.じつに些細なことなのだけど,そういう些細なことほど人の生活を結果的に大きく変えてしまう.デスクトップらしくキーボードだのマウスだのを引っ張りだして机に配置した.モニタを持っていないので小さいものを購入した(しかし安いな昔の1/4以下の値段だよ).これで再出発する.

とりあえずデータの移行をしたい.壊れたMacにはTimeMachineをつけていたが,結果的に壊れたMacのHDDからデータをコピーした.ファイルのコピーで済むものが多く,ちょっと迷ったのはMailとiTunesとLightroomだった.Mail以外は外付けHDDにデータを移行する必要もある.iTunesは簡単に対応できた.Mailは吸い上げに時間がかかったのだけど結果的には問題なく,Lightroomも問題なく移行できた.


LinkIcon(参考ページ)http://emapictures.tv/how-to-migrate-mail-to-el-capitan2/
  El CapitanなのでV3フォルダから吸い上げた

LinkIcon(参考ページ)http://bamka.info/itunes-to-hdd
  iTunesのデータ移行(外付けへ)

LinkIcon(参考ページ)http://photo-studio9.com/lightroom-firststep/
  Lightroomはディレクトリごとコピーしカタログファイルを読み込ませた


ホント,インターネットって便利だ.昔ならばどうにもならなかったに違いない.ただし,10.10以後のMacOSは「毎回変わりすぎ」っていうところがあり,ドンピシャで参考になる情報を検索できなかったが,そこはそこ,これでいいだろう的な対応でなんとかすることができた.こういうのって,年の功だよなと一人上機嫌になる.

しかし,歳をとったことが理由でわかるようになることはそんなに多くない.ロジックボードを外していたとき小さなリボンケーブルのコネクタの外し方がわからなかった.ロジックボードのリボンケーブルの取り外しについてはわからなかったのだけど,そういう解説を個人がYouTubeにあげてくれていて,これまた助かった(感動した).


LinkIcon(参考ビデオ)https://www.youtube.com/watch?v=xmp-l9vH_hw
  ロジックボードのリボンケーブルのコネクタについての解説がすごい,助かった


昨日の続きの今日があったのだから,今日の続きの明日があるだろう.当然のごとく考えてたが,(もちろん)そうではないのだ.幸いなことに被災して生活を変えざるを得ない状態になった経験はないが,とはいえ遠からずそういう立場にぼくも置かれるだろう.そうならなくとも,そろそろ年齡的に険しい時期に入りつつあるわけで,どんなきっかけであれ生活を変えるようにしていくほうがいい.そういう自然からのメッセージをぼくは受け取ったのだろう.そう考えることにした.

突然,終わってしまう日常

2016.04.17 

PCが壊れ,代替のPCのやりくりをしていたが,ノートPCではダメと判断してデスクトップ型の対応とした.利用できるPCのモニタが11インチだったので,さすがに外部モニタが必要だろうとNanao(EIZO)の液晶を急遽購入し,バックアップデータからの復旧などを漁り,なんとかPC環境を復旧させた.

それにしても日常は突然終わる.MacBookProが突然壊れるとは思ってもいなかった.それにMacはTimeMachineというスグレモノのバックアップツールがあるから復旧は簡単かなぁと思っていたので,壊れたと判断しても気分は明るかった.が,そうはいかなかった.TimeMachineだと「まるっと復旧」以外は難しいことがわかった(MacOSのPCでも現在稼働中の別のMacに環境を部分的にTimeMachineから戻すのは得意じゃないみたい).

結局壊れたPCは単なる部品取りとし,HDDやメモリなど再利用可能なものを引っ剥がした.HDDはケースにいれて読み込ませた.写真やメール,iTunesのデータなどは量が多いので正常に戻すのが大変時間がかった.さらに代替でつかっているMacのディスク容量は壊れたPCの半分しかないので,復旧にあたってはいろいろ構成を変えないといけなかったし,だから復旧を諦める機能もあった.なるほど無傷では壊れた環境は元に戻せないものだ.

週末はこのPCの環境復旧に時間をさくだけでだったから楽しい気分で過ごせるかなと考えていた.が,熊本での震災が思ったよりひどく,NHKを見ていたが「緊急地震速報」のベルの音をたびたび聞くはめになって,あれはもはやトラウマとなっているので耳にするたびに涙目になってしまう自分がいた.

311の震災のとき,九州の人の友人の意見が結構ドライだっだったことを覚えている.原発事故についての考え方が「全く違う」ことに違和感を覚えていた.が,なるほど距離の壁というものはあると体感的にわかった.熊本で起きた地震,東京では感じないのだよ.だから「あぁやばい」という論理を超えた感情からの恐怖のようなものが湧いてこない.311震災のときの感覚を思い出して熊本の報道を見ると,少し現地の状況が想像できる.が,311がなければまったくピンと来なかったに違いない.想像力には限界というものがある,と身にしみた.

日常ってのは突然途切れる.本当に.

いつまでもあるとおもうなMyMac(壊れるもんだなぁと驚いた)

2016.04.01 

PCが壊れた.症状がではじめてから壊れるまでが急速に進行した.「あれ?画面がへんだなぁ」と思ってから2日で正常に起動できなくなり,あれこれ試したがどうにもならない.ブログエントリーどころではなくなった.週末の作業はできないのでしばらくほっておく.



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人の知能の発端を知りたいです。ハードウエアとしての人は二万年は変わっていないらしい。それなのに、文明といわれるものはローマ以前の数千年までしか遡れない。ローマ以後の二千年で海王星の写真を撮れるし、原子も見られるようになった。文明以前の一万年以上、一体全体「人類」は何をやっていたのだろう?それが知りたいんです。



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