地下鉄の駅で見かけた行者

2016.08.05 

大江戸線に乗って六本木へ行く途中、汐留駅から発車する電車の窓ごしにプラットホームをぼんやり眺めていたら、階段を上がっていく駅設備のメンテナンスをしているらしいエンジニアを見かけた。ねずみ色の作業を着て、腰にはドライバなどの工具が詰まったベルトをつけ、暑そうに汗をかきながらトコトコと作業靴を鳴らし、エスカレーターではなく人が少ない階段を登っていった。そのとき、「あっ、この人は行者だ」と直感した。

こんな暑い日に地下鉄とはいえ設備メンテナンス。誰だってしたくないだろう。あのエンジニアだって「自分からやりたくて」しているわけではないはずだ。単に「仕事だから」やっている。あるいは「やらないと電車が動かなくなるから」こなしている。そう思った。

やりたくない肉体的に辛い作業を四の五の言わずに淡々とこなす。これは「行」だろうよ。千日回峰行ほど無意味な派手さはないが、本堂の床板雑巾がけ以上には辛いレベルの行だ。あのエンジニアは、「あれしてそれして、その次にこれやらないと」というプランが頭の中にあって、暑くて疲れて意識が朦朧としながらも、その作業を終わらせることを追いかけている。もしそうだとしたら座禅を組むよりもずっと「修行」しているはずじゃないか。そう結論づけた。

黒子的な仕事を淡々とそして何年も続けてこなしていたら、そういう人は「なんともいえずいい感じの人」になるんじゃなかろうか。そう、枯れた感じの「和尚」のように。それはつまり、自分の欲望、それは偉くなりたいでもいいし、何かを買うために金が必要だから稼ぐのだでもいいし、あるいは家族のために家を買う、子供の教育費用をためるでもいいが、そういう「自分の欲望を満たす行為」を続けた人と同じ感じの人になるわけないだろうから。

修行の行為自体には意味は無い。そういう「目の前の物理的な現象をただ追っていた」人とと欲望を追った人は結果的に「違う」人になるはずだ。ぼくの印象では、欲望を追求した人は結局「ただのおじさん」にしかなれない。それが家族のためであっても結局は欲望を追求した人でしかないから。修行を重ねた僧と同じわけがないし、だから昔から僧という存在が尊ばれたはずだ。

地下鉄の真っ暗な壁の車窓を眺めながら、たいして重要とも思われない設備の警備員や人通りが全く無い自動改札が並んでいる脇に座っている駅員なども実は同じかもしれないと気づいた。彼らは基本的に長時間ぼーっとしているように見える。だから、なんだか可哀想な仕事だよなぁ、成長できなくて、と失礼ながらぼくは感じていた。しかし、ぼくが間違っていたのかもしれない。

夢を追いかけるよう子供はたきつけられている。夢にむかって走れと教えこまれている。それが人ととして正しい行動だと言わんばかりに。そうして誰もが似たような夢を抱き、そして途中でドロップアウトすることになる。そのとき、自分はダメなやつだと認識するわけだ。しかしだ、そもそも「ホントは自分から思いついたわけでもないマスコミが与えたヒーロー・ヒロイン像を夢と定義し、それになれなかっただけ」なんだから、そんなことは考えるだけ野暮ではないのか、一体何をやっているのだろか、と腹立たしくなる。

生きている意味なんて、いちいち確認する必要はないだろう。ただ、あのエンジニアのように普通に「行」をこなしていけけばよい。そうして歳を重ねると気づけばたいへん生きやすくなっている。そういうものではないだろうか。暗闇のなかで流れる蛍光灯の線をみながら考えこんでしまった。



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人の知能の発端を知りたいです。ハードウエアとしての人は二万年は変わっていないらしい。それなのに、文明といわれるものはローマ以前の数千年までしか遡れない。ローマ以後の二千年で海王星の写真を撮れるし、原子も見られるようになった。文明以前の一万年以上、一体全体「人類」は何をやっていたのだろう?それが知りたいんです。



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