« 2005年4月 | メイン | 2005年6月 »

2005年5月21日

存亡の条件

山本七平
講談社学術文庫: 340円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ある民族が勃興し、衰退し、滅亡する。人類史では繰り返し起きる当たり前の現象である。この現象をユダヤの歴史をもとに、日本の戦前戦中の社会の動きを考察したのが本書である。文明衰亡の解説書。

 太平洋戦争へ突入する前の日本の指導者について「悪口」を書いてあるわけではない。物理化学の現象を解説するように、集団心理のダイナミクスを解説している。非合理的な特徴をもつ人間の集団を合理的であろうとすると組織が崩壊していまうのだが、その解説を歴史的な例を用いて説明している。さらに、人が信仰心をもつ契機とその一つの予想される結果についても書いてある。講談社学術文庫だけあって「通勤電車」で読むには苦労する文章である。読者対象そうのレベルが高く設定しるため気楽に読めないが、その分読みごたえがある。

 本書の結論ではないが、次のような一節が痛く気に入ったので引用する。タイトルがおもしろい。「他力本願(ではどうしろというのか)からの脱却」。なるほど、そうルビをふるのか!!


  「では、どうしろと言うのか。」 いうまでもないが、この言葉は全く無意味な言葉であり、それは「私は人間ではなく奴隷である」と宣言しているに等しいのである。といえば、「『どうしろ』といわれたからといって、それに従うわけではない。従うか従わないかの選択の自由は自分にある、したがって、『どうしろと言うのか』と言ったところで、それは奴隷であることにはならない」という反論があるが、実は、これが成り立たないのである。というのは、奴隷にも隷属の自由と反逆の自由はある。したがって、反逆不服従の自由があるという主張は、その人が、自らは奴隷でだと明確に宣言したにすぎないのである。いうまでもなく、奴隷とは、売り渡されて前提を確定され、それによって自らの指向も行動も拘束されている存在である。したがって、明治以来の長い「前提を絶対化」する行き方は、いつしか「では、どうしろと言うのか」という質問がでることを、だれにも不思議に思わない奴隷の世界をつくってしまった。おそらくわれわれにとって現在必要なことの第一は「では、どうしろと言うのか」という世界から、まず脱却することである。それにとどまっている限り、前述の思索も探索も一切あり得ない。

 こういうことをずばっと記述する。山本七平はどういう人だったのだろうか、と実に興味をもってしまう。

 ある事実を指摘する。すると、指摘された人はこう言うだろう。「対案を出せ」。この論理は実は奴隷の理論なのではないか。事実を指摘され、それを事実だと受け入れるのならば、「なるほど、ではこうしたらどうだろうか」と提案する行動を自分から起こすのだろうか。「対案を指摘せよ」というのは「黙れ」と同じ意味なのである。なぜならば、指摘する人間は指摘しているのだって、その瞬間に回答を持っているわけではない。瞬間的にすばらしい対案が思いつかない状況が普通であろう。とすれば、指摘ができないということになる。つまり、「黙れ」ということだ。

 こうして考えると、サラリーマンだけでなく、研究者の世界も奴隷世界ということになる。これが現実なのか。

2005年5月19日

禁忌の聖書学

山本七平
新潮文庫: 476円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 聖書学についての解説書。といっても、トピックを選択して、それについて解説を加える読み切り文章を6編掲載している。

 以前、R・ドーキンスの著者『虹の解体』のなかで「処女降誕」という話しについて読んだことがある。その話しができた原因は誤訳にある。若い女というヘブライ語をギリシャ語に翻訳したとき処女という単語を当ててしまった。それが世界が混乱する一つの原因を作ったというものだった。

 山本七平さんも同じトピックについて解説しているが、数段分かりやすい。アールマーというヘブライ語をパルテノスというギリシャ語にあてた誤訳があるそうだ。ヘブライ語での処女は別の単語があり、ギリシャ語のパルテノスは処女という明確な意味がある。したがって、誤訳だということだ。そして、この処女降誕の話しは、皇帝ネロ時代のローマの社会にも関係していた。

 当時のローマではエジプトのイシス信仰、オリエントのミトラス信仰、あるいは、ポンペイ壁画にもある密儀信仰というものがありふれていた。神が人に子供を産ませるというのことは、そのような信仰のなかでは受け入れられていた。そもそも、ギリシャ神話は神が美人に惚込み子供を産ますという話しはたくさんある。結局、ユダヤ世界ではあり得ないことでも、当時のローマでは一つの教義に紛れ混んでしまうことはあるということ。本書では、より詳しい説明があげられている。

 その他にも「旧約聖書」の話しは「要するに小説なのだ」という説明が上げられている。ヨセフやヨブの話しは、読み通してみると「なるほど、言われてみれば小説以外のなにものでもない」とわかる。聖書という枠を忘れて、内容だけみ読めば「面白い小説」である。そして、そのテーマは今でも全く変わらない。扱っている材料は悲しいくらい今と同じ。

 なぜ、聖書が今でも世界的な影響力をもっているか不思議であった。聖書という「権威」あるいは「聖なるもの」という意識を外してみると、なるほどこれは面白い小説であることが分かった。もちろん、信仰している人はこういう見方はできないだろうけど。

2005年5月17日

「あたりまえ」の研究

山本七平
文春文庫: 340円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 「あたりまえ」と思える時事・社会評論。当たり前といえる基準は感情ではない。人類史を外観した上での現代の日本の基準を通しての評価である。だから、説得力がある。そして、なぜか「あたりまえだろう」と思ってしまうこと(常々疑問に思っていたのだが)に対する違和感について、解き明かしてくれる。


啓蒙主義を権威として受け入れたという伝統はわれわれももっている。「である」と「であらねばならなぬ」の違い、いわば思想・信条の選択権を等しく個人がもつか、同一の思想・信条をもたねばならぬとされるのかは、基本が違う。

この世代の受けた教育はまず平等の立場に立つ無条件の話合いであり、そのことは強者や優者の否定であって、同時の弱者の権利の保障であり、最終的にはそれによってもたらされる「結果の平等」の追及だからである。

平等の立場による話しあいの結果は平等を招来させず、逆に排除を生み出すからである。・・・成員間の完全な平等を指向すれば、能力に応じた収入の格差をみとめることはできない。となるとこれは能力の平均した人間で構成されねばならず、その水準を維持できないとキブツ自体が倒産してしまう。となるとキブツ内ではあくまでも結果の平等が保証させるかわりに、不適格者は除名されるという結果にならざるをえない。

 日本では露骨な表現がきらわれる。だから、言葉にならない「あたりまえ」なことが隠されている。そして、当たり前と思われていることの前提をよく見てみると、当たり前とは言えないことが多いようである。常識を持ち出して判断する場合、その常識よりも常識を常識たらしめてりいる「前提」をよく考えてみると、意外なほど自分が何にとらわれているのかを知ることができる。

 そういうことを気づかせてくれる本。

2005年5月14日

聖書の旅

山本七平
文芸春秋社: 2300円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 旧約聖書の世界、つまり現在のイスラエル・シリアの旅行記。ゆく先々の風土を紹介することが目的ではない。ユダヤの歴史をその場所に立ってみて考え、それを随想録としてまとめている。それも、個人的な想いを文章にするのではなく、その場所場所で起きた事件を「ユダヤ史のなかでの意味」を探り、現代にも通じる一つの「知恵」としてまとめている。

 言って見れば、イスラエルでの「街道をゆく」とった感じの本です。著者にある「強烈な量の、かつ体系的にまとめられた、意味づけされたユダヤ史」をもってして、初めて眺められるイスラエルの風景が味わえます。私はこの旅のドライバーでも買って出たいくらい。


 この本を読んでいて、彼らが「神」と呼んでいるものが分かった気がします。私の理解では、ようするに「正義」なんですね。ネブカドネザルやアッシュパニバルのようなオリエントの王に翻弄された人が感じる「なぜ、そんなめにあうのか? 神も仏もあるものか!」という不条理を感じたときに要求する「正義」あるいは「正しいことが行われる世界」が、「神」なんでしょう。

 そう理解すれば、いわゆる「宗教」についても次のように考えられます。
 社会で嫌な気分、悔しい思いをしないで生きていけるようにするための経験的な「ルール」をパッケージ化したもの。それが「宗教」。そして、そのルールのパッケージを個人がすきに選択できる。それが「宗教の自由」というもの。
 なるほど、海外で「お前の宗教はなにか? え、ない? そんなことはあり得ない!」と言われたり、宗教を持たない人間はある種の動物と見られる、ということの理由が理解できます。

 とっても良い本です。私はこの本でたびたび参照される「ヨセフスのユダヤ戦記」を古本で購入しました。楽しみです。(山本書店のユダヤ戦記は、塩野七生もその著書で推薦していましたね)。

2005年5月 9日

一つの教訓・ユダヤの興亡

山本七平
講談社: 1300円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ユダヤは世界史の中でも特徴のある歴史を持っている。文字で書かれた記録が残っているおかげで、2−3千年前からの歴史的出来事だけでなく、人々の特性、周りの人々との関係なども調べることができる。

 著者はそこから一つの試みをもってユダヤ史を語っている。それは、現代世界史における日本立場を日本から離れた視点、現代から離れた視点で読み解けないか。そのための補助線としてユダヤの人々の歴史を使ってみようというもの。この本、私にはそう読めました。

 短絡的な比較(キーワードを比べる)ようなことではなく、人々の「癖」を使っての日本と(古代)ユダヤとの比較である。例えば、古代ローマにおけるユダヤの位置、ユダヤに認められた特権、世界における役割などを現代のアメリカにおける日本のそれと比較してみるのである。「そういえば、おなじだ」というところが各所にあることが分かる。

 別にユダヤにかぎらず、人間の考えること感じることは「似たり寄ったり」なので、時代、場所を越えて「よく見れば、日本ぽい」例を探すことは可能だろう。そして、それは「このまま行くとこうなる」という予言ではなく、どんなファクターが重なると悪い方向へ歴史が動くのか、どんなチャンスに気がつき行動すれば良い方向へ向かうのかのヒントを得るためのもの。歴史は繰り返さないが、「方程式が同じなら、現象は同じ」ということはあるだろう。

2005年5月 6日

書く人

村松恒平
メタ・ブレーン: 1800円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 [プロ編集者による]文章上達<秘伝>スクールの3冊目。前の2冊に続き、読んでみた。巷にある文章読本とはだいぶ違う。言葉のつづり方、テクニック、型といったものの議論ではなく、文章を書く動機を中心に話しあう。読者から送られてくる「質問」に著者が「回答」するQ&Aスタイルの本。「文章」の本なのに、なぜか「言葉について」の考察や「人生相談」がほとんどなのだ。それはそれでおもしろい。

 著者は恐らくこう考えているのだろうと思う。

 言葉になるようなことを教えるのならば、他に本がある。それはやらない。教え方すらよくわからないが、確かに存在する「コツ」を文章で伝えるとしたらどうすればよいのかを考えてみる。書くには、読者が文章を書き始めるまでになんらかを伝えなければならないはずで、その「なんらか」を「どうやって」教えるのか。それをやってみよう。

 しかし、この試みは成功しているとは言い難い。いや、私が理解できないだけかもしれないが、どうも著者と回答者の往復書簡をかいま見ている気がして、正直こそばゆい。とくに、質問者の「回答」に対するお礼は、もう、読むに堪えない。3冊目になって、いよいよカウンセラーの世界に突入してしまったなぁと思う。1冊目、2冊目を読んでいないのならば、3冊目(この本)は勧めない。

2005年5月 4日

聖書の常識

山本七平
講談社文庫: 450円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 日本ではあまり理解されていない聖書についての解説。古代史や美術史に興味をもつと一番最初の壁になるのは「聖書」の知識である。聖書は旧約が39冊、新訳は27冊の本から構成されている。旧約にしろ新訳にしろ、それを読むためには、それが成立させた人が生きていた自然環境、社会環境、生活様式、価値観をまず知っておく必要がある。でないと、まったくの勘違い的な解釈をすることになるから。

 この本は古代史と人間の考え方の変遷をもとに、聖書の成り立ちを解説するもの。なので、聖書の世界の内部しか見ない人には評判がよくないのも無理はない。amazon.co.jpでこの本を評価している人は「★(星一つ)」という評論をしている。その人が推薦している別の本はキリスト教主義の宗教観の塊のような本である。そのことから考えると、歴史や思想史といったことに興味があり、あるいは美術が好きな、あるいは、少なくとも「宗教心を客観視できる」(心理学的な)分析能力能力を持ちえた人には推薦できるし、読んで面白いと思う。

2005年5月 2日

人間の集団における人望の研究

山本七平
祥伝社黄金文庫: 514円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 人望がないと日本では成功しないことになっている。では、人望とはなにか? 人望について日本での意味することについて説明する。そして、論語と旧約聖書において、「人望」と同様の意義の概念がないかを探ってみる。人望といっても、ビジネス本にある「リーダー」のことではない。一言で言えば「中庸」な態度をとれる人のことである。人が社会を形成し、その中で気持ち良く生活するための方法が時代や地域によって「かわるわけない」ならば、他の国にも他の時代でも同じ単語があるはず。論語と旧約聖書のなかの「教え」をよく読めば、人望と同じ意義のタームがある。見た目上同じものに収斂している。それは、魚のひれと鯨のひれは生物学的に言えば全く別の由来のものであるのに、水の中で泳ぐという環境に長くさらされていくうちに「同じような形、同じような機能」になってしまったのと同じ話し。

 「近思録」は論語において、「ベン・シラの教え」は旧約聖書においての「道徳」「格言」の書である。儒教圏にあった日本は「近思録」が道徳を教える基準となる本であったようだ。一方、同様の役割をはたしたのは歴史的に見れば「ベン・シラの教え」となるらしい。両者ともに「目的」があり、そのための「方法論」の提示がなされている。生活のための知恵というよりも、幼児期から子供になるまでの「論理処理能力が無い」期間の人間に、体で教えるための基準である。これを教わらないで成人になってしまった人は、もう道徳をおしえることはできないので、唯憎むべき対象にしかならないとある。なるほど、そうかもしれない。

 私は道徳という教育をうけたことがあるような気がしない。だから、道徳が身に付いていないのかもしれない。身に付いているものも、必要以上に長い時間がかかっているかもしれない。いずれにせよ、効率的ではなかった。生きていられる時間は限られているので、まったくもって無駄なことだったと思うが、しかし私にはどうしようもなかった。

 中庸といっても理解が難しいわけではない。感情という人間の動物的な「反応」を行動に結びつけなければ良いだけだ。これは私の理解である。世の東西と問わず、結局人間の「動物的なことろ」を以下に制御するか、文脈(置かれた知識、場所、状況)の全体を把握しつつ、前頭葉を駆使した態度をとれるのか。行ってみれば、それができるひとが人望があることになる。簡単だが、なかなかできないだろう。仏教で行く悟りそのもののような気もする。どうすれば、きもちよくいきられるのか?という疑問についてはすでに答が出ているのだ。だだ、実行するのが難しいだけなんだなぁ。いくら歴史が積み重なって、知識が増えても、人間はまっさらな状態で生まれてくるのでいつまでたっても、人類がこの能力を身に付けることはできないのだろう。ここ4万年はそうだった。次の進化した人類に期待するよりない。