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2005年12月31日

2005年で面白かったものベスト3

 どうでもいい話しですが、一応年末ですし個人的な精算も含めてベスト3を決めてみました。

 今年の大発見はなんといっても山本七平さんという人を知ったことです。自分および日本を見つめる補助線として感動的なくらい助かったと思います。まだ全部を読んだわけではないですが、この人の本から1冊あげるとすれば

(1)日本人とユダヤ人

ですね。山本さんの本からは日本人というよりも、西洋社会を理解するうえでどうしても知らなければならない「キリスト教」についての考えをずいぶんと教わったつもりです。それも「教義」を理解するという方法ではなく、古代オリエント社会の成り立ちからユダヤ的な発想、古代ローマ世界での位置付けを通してみる方法です。だから、クリスティアーノの人とは全く別の理解の仕方をしました。ただ、美術や歴史書を読む際の基本知識は身に付いたのでありがたく思っています。

 次。比較的最近の本ですが、塩野七生さんですね。とくに、

(2)ローマ人の物語12:迷走する帝国

 きっとつまらないのだろうなぁと思ったのですが、全く逆の感想。活劇をみるような面白さはないでしょう。だから、多くの人は気に入らないかもしれない巻ですが、これほど「ローマ衰退のダイナミクス」を暗示している記述はないでしょう。興隆の原因が衰退の原因にもなると良く言われていますが、それともちがう。「ローマ人がローマ人であった理由」がそれと気付かれないうちに、全く他に方法がない状態で失われていく。これはもう、神の視点から見た人間社会の面白さと悲しさの物語を見ているようでした。

 そして、最後は、鯨統一郎ですね。

(3)新・世界の七不思議

かなり、ハッとしました。いまだに、アトランティスは彼の主張がもっとも確からしい。推理ってほどでもないし、なぞ解きというほどでもないです。ただ、証拠と推論だけであんな「おどろき」な発想ができるのだなぁと感心しています、未だに。狩るい本ですけど、本格ミステリーファンじゃない、普通の人にお薦めです。

 番外として、とても気になるのは月並みですが、綿矢りささんです。もっと面白い物を期待しています(が、大学生になったらむりかもなぁという気もしますが)。

ローマの道の物語

藤原武
原書房: 2500円
お勧め指数: ■■□□□ (2)

 古代ローマの道についてのエッセイ集。著者は国土省勤務だったそうで、道の専門家ということです。だからでしょうか、歴史的な記述についてのコメントに間違いが目立ちます。しかし、この人の興味には私も共感するところがあるので、あまりに気になりません。ローマ街道と橋、町、などをセットで紹介しています。紹介している個所は文献によるものではなく、自ら現地に旅行?されて、その場所で考察されたことを書かれていますので、知識自慢ということもないし、ピンとこない発言というものも見当たりません。塩野七生の10巻を読んで、もっと別の本を見たいなぁという人にとってはお勧めできます。時代が古いので掲載されているローマの写真なども古くて結構面白く感じと思います。


2005年12月29日

みんなの手帳

手帳愛好委員会編
大和書房: 1000円
お勧め指数: □■■■■ (1)

 手帳の本です。「夢がかなう」とかなんとかいうタイプの本ではなく、他の人はどんな手帳を使っているのだろうか? そんな興味に応えようとする本ですが、OL向けでした(まいった)。著名人などの女性ビジネスマンの手帳についてインタビューした記事が並んでいます。それを読んでいてつくづく思いました。皆さん、忙しいんですねぇ。私よりは遥かに忙しい。だいたい、手帳がないと管理できない日々なんて、私には想像すらできません。日々の過ごしかたに対して「どん欲」なんですね。なんでプライベートまでそんなに「つめこむ」必要があるのでしょうか?
 手帳についてよりも、OLさんの情熱というかあせりというか、そんなことの方が印象に残りました。

2005年12月28日

クオリア降臨

茂木健一郎
文藝春秋: 1619円
お勧め指数: □□■■■ (2)

文学評論の本なのだと思います、多分。はっきり言い切れないのは、この分野の本をあまり読んだ経験が少ないため、分類するための「よすが」がないので。本文では漱石や小林秀雄などを引きながら、文学を読むということ、書くということ、その意義と意味、人が生きている感覚、あるいは、現代社会における減少とのかかわり合いについて論じられています。「さっぱり分からん」ということはないと思いますが、かといって「さらっと読める」ような気はしません。いや、私の話しですが、結構頭をつかったつもりですが「要するに何がいいたのか」と考えるとはっきり言葉にできない内容も結構ありました。要するに、良く分かっていないです。

 この本の要約を述べることもできないし、文学についての記述をあれこれ議論するほど「文学読破量」を持っていないので、目に付いたとを紹介します。科学論文を議論した章のなかで、「論文のスタイルは時代とともに変わる」という主張の根拠として挙げられたものです。

 スコットランドのハイランドを最近旅行した時、私はネス湖のほとりにある有名な「フォイヤーの滝」を訪れた。その際、次のような現象に気がついた。  私は、しばらくの間、滝のある特定の部分を見ていた。合流し、交差し、絶えず変化する水の幕を観賞した。それから、私は突然目を滝の左に向けた。滝のすぐそばにある、陰鬱な印象の年経た岩の表面を観察しようと思ったのである。私は、岩の表面が、あたかも上に動いているように感じた。その速さは、滝の水の落ちる速さと同じだった。この奇妙な厳格は、私が直前に滝の水を観察することによって準備されたのである。(ロンドン・エディンバラ哲学科学雑誌1834年の号に掲載されたロバート・アダムズによる論文)

 すごい。こんなのありか、と私も思うがこんな論文方が現在の論文よりも遥かに読みたい気がする。現在では「私」なんてつかえない。少なくとも、ある特定の人間が書いている、という気配さえけさなければならないのだ。全く、読んでいてつまらない。

  また別のところで、茂木さんは「ブログ」について批判?している。現代で生み出される刊行物のその殆どは「スカ」であり、評論家の評価が高い物であっても「スカ」になっている状態で、とても歴史に耐えるものはでてきていない。その状態のなかで、カラオケのような感じでごく普通の人々も文章を書き、WWWで発表するようになった。ブログである。しかし、どれ一つとっても、10年と残らないであろうものばかり。とまぁ、こんな具合である。

 たしかに、そう私も思う。とおもって、茂木健一郎さんのブログを見ましたが、たしかにご本人のものも「ピン」とは来ませんでした。考えてみれば、ブログをつける人の目的はさまざまですし、その9割以上が読むに堪えない物でもしかたないという気もします。この読書メモもその一つですし。

 特定の作品ではなく文学という行為と人間の感覚質(クオリア)について考えてみたい人にはお勧めできる本ですね。

2005年12月25日

メディチ・インパクト

フランツ・ヨハンソン
ランダムハウス講談社: 2200円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 クリエイティブなアイディア、イノベイティブな結果はどのようにして生じるのか? 方法論とも成功談ともちがうアプローチの本になっている。クリスチャンセンの本ほど論文の体裁を取っていないが、あまたある発想本ほどインチキではない。一応は、ハーバード・ビジネス・スクール・プレスですし。

 クリエイティブなアイディアとは価値のあるアイディアである。イノベイティブなアイディアとは実現させるアイデアである。そして、それらは、いろいろな知識と価値観とを持つ人が遭遇する「交差点」で発生する。言ってしまえばこのような主旨の本である。

 よく、新しいアイディアは組み合わせであって本質的にあたらいものはほとんど生まれていないという話しを耳にする。一方で、組み合わせという言葉をそのままうのみにし、単に機能を「足した」ものが新製品として市場に登場する。カメラつき携帯などは、通信という需要を媒介として、1)カメラを部品にしてしまった、2)画像の新しい使い方を提案したということでJ-Phoneのアイデアが優れていたが、ウォークマン付きの携帯はiPodの前では貧弱なものでしかなかった。組み合わせれば新しいものだという分けではない。

 著者は「全くことなる分野の流れで組み合わせの数を増やす」ことを意図して、交差点でイノベーションが生まれるのだと主張している。ルネッサンス期に哲学やら美術やら政治やらの人々を招いてサロンを興し、中世からの脱却した新しい文化(といっても古代ローマを多いに参考にしているが)をうちたてた「メディチ家」をモデルにしているので「メディチ効果」という言葉を創造的要因として使っている。

 異なる流れを組み合わせることで、全く新しい価値を創造しやすいということは良く言われいる。また、質は量からしか転化しないということも私は知っている。これらのことをおぼろげであるか、私は知っていると自負していたのだが、この著者のように実際の事例研究やインタビューをもとに本の形にまとめてあるので、読んでいて新鮮であった。この本で知った新しいことには次のようなものがある。

・ アイディア実現のために資金を投入する際には、もうあと1,2回試すことが可能な資金を取っておくようにしよう。
・投入するリソースが増えたところで、使うリソースも増えるのだから結果的にリスクは変わらない。

 何かをやるときには、全滅覚悟でやることが日本では推奨される。男らしいとかなんとか言われて。しかし、イノベーションは大抵失敗するという事実を全く認識していないことでもある。逆に言えば、失敗したら全損する覚悟でないならば協力しないという人は、おそらく、「失敗しろ」と思っているのだろう。そのあたりの「人の性」に私は気づいた。個人的な経験を言わせてもらえば、一発で動作するプログラムなんてない。大抵デバッグが必要。下手をすると、書き直しということがある。もし、そのことを考慮しないでプログラムをつ繰り始めたら大抵死にますね。あたしい技術を試すこともコレと同じなのだ。

 本文中で参照されいている本も定評があるものばかりですね。私は引用された本のうち翻訳されていない本を2冊ほど注文しました。とってもいい本です、この本は。

2005年12月24日

脳と創造性

茂木健一郎
PHP: 1400円
お勧め指数: □□□□■ (4)

何かを喋ったり、書いたりするといった運動出力をする大脳皮質の運動野や運動前野を中心として構成される「私」と、その運動出力の結果を知覚する大脳皮質の感覚野を中心とする「私」とは、別の「私」である。日記を書く私と、それを読むほうの私は違う私である。だからこそ、自分が書いた日記を読んでみると、何だか面白い。何かを表現するということは、必ずしも他者とのコミュニケーションだけを目的とするのではない。何かを表現するということは、実は、自分自身とのコミュニケーションでもある。運動出力をする「私」と、感覚入力を受ける「私」は、異なる「私」なのである。

 「私」である、というクオリアについて考察している本である。クオリアについては、興味はつきないのだが、日本語ではこの著者の本が圧倒的であるので、出版されるたびに読んでる。今回のテーマは「創造性」ということにある。

 創造的なものは、実は自分の外部との相互作用で生まれる。頭に「創造性のもと」というものがあり、それが飛び出てくるわけではない。ある状況に追いつめられたときに「生き延びる手段」として発想が生まれる。自分の才能がトリガーではなく、その状況の中で考えることが、それ以前の経験や知識を無意識の世界で総動員して発生してくるものなのだ。こう、著者は主張しているようである(私の理解なので、間違っているかもしれない)。

 芸術作品のような創造もあるが、政治や行動というものの中にも創造性は見いだせる。例えば、「決断する」ことである。あるいは、気の利いた会話などにも現れる。人間の行動ならばほとんど全てに「創造性」は発生しうるのだ。日々生きている時間の中で、「一回性の出来事」というものがある。一期一会として、大切に考えるかあるいは流すかで「創造性」の使い道は変わってくる。あらゆる状況は「意識」では制御できないのだから、そこに何かを見いだそうと考えることが創造性へと自然につがなっていく。絵画を見る、という行為にも自分の状況ならではの「感じ方」を積極的に見いだそうとすれば、その感じ方は自然と創造性につながっていく。

 独りよがり、という行為がダメなところは自分の予想に反するものを「捨てる」ことである。創造的であろうとするのならば、「当然こう考えるだろう、こう行動するだろう」というものと実際とのズレを見いだす機会をきちんと観測する必要がある。それは、自分で書いているものを読んだときのズレよりも遥かに大きいのだが、そのズレを確認することができれば、創造的な発想に近づく可能性がある。なにやら弁証法のようではあるが。


 僕がココで読書メモを書く。メモは感じたことを言葉にすることで、「無意識の俺はこう感じたのだが、意識の俺はどうだ?」という会話を促すことが目的なので、この本の主張を読んだとき飛び上がらんばかりに驚いた。読者がいない状態でも「第三者から読まれる」という可能性があるのだから、それなりに論理だてするし、言葉も選択する。緊張感がある。ある意味「ブログなどくだらん」という意見に対する回答である。ある意味、一人弁証法と言えなくもないか。

2005年12月23日

未知の贈りもの

ライアル・ワトソン
ちくま文庫: 680円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 精巧にできたイカの眼球がとらえる光景は、その貧弱な神経系で処理するには豊かすぎる。イカたちは何か他の大きなものの代りにこの世界を観測するカメラ台なのではないか。

 小説の冒頭、主人公はミクロネシアの海で、夜、水面に蛍のように光るイカの目を見ながらそんな妄想をするシーンがある。そして、嵐にあい船は漂流する。やがて、島に漂着する。現地の言葉がわかる主人公は島の英語教師をしながら島の生活を観察する。

 言ってしまえばそれだけの話しなのだが、人間が持つ能力の由来と限界に興味をもつ私は引き込まれてしまった。主人公は医学・生物学といった科学の素養がある合理的論理的思考ができる西洋人である。その人が、島の人がもっている素朴だが正常では超自然現象的な能力を観測し、解釈し、これまで見落としていたものに気づく。ともすればオカルトやトンデモ系の話しなるはずが、そうはなっていかない。むしろ、「人が認識できることが世界の全てであるなどということがあろうか」と私も考えるようになってしまう。それくらい、感動的な書き方で人を引き込んでいく。

 読み初めは体験談かと思っていたが、どうやらファンタジーらしいと途中で私は気づいた。読み終わることを目的として本を読んでいる感がある最近に私にこの本は「もっと、ゆっくりと情景を味わっていこう」と改心させてくれた。私は小説を読まないのだが、すこし世界を見る目を変えさせてくれる本として、お勧めしたいです。

2005年12月18日

大人のための「情報」教科書

坂村健
数研出版: 1500円
お勧め指数: □■■■■ (1)

 別に悪い本ではないのだが、高校生の教科書なので普通の人にはお勧めできない。坂村健の本ならば全部買ったときに読まないでほったらかしになっていた本が目に付いたので読んでみた。確かに高校生用の「教科書」である。一応、社会人向けにアレンジはしてあるのだが。

 知っていると思っていても以外に知らないことがある。そういうことはなかなか普段の生活において気づく機会は少ない。ひょっとしたら「へえ、知らなかった」と思うことがあるかもしれないと思って読んだのだが、あまり面白くなかった。いや、全部知っていたということではない。単に、「あぁ、これは知らなかった」と感嘆することがなかっただけです。


 教科書ならば、その道の一流の人が書くはずである。最近は「情報」という科目があるそうで、その分野の教科書執筆者(の一人)は坂村さんということです。TRONならばOSと思ってしまいますが、その分野は「情報」なんですね。なるほど。

 たしかに、私より20年先輩で、パソコンなんて触らなかった人には今の世の中行きにくいだろう。この教科書を読めば「なるほど」と分かることも多いけど、普段の生活で直面する計算機がらみの問題に対応するにはいささか内容がたりない。ある意味、当たり前なのだが。この教科書は「前提知識」を教えてくれるものなんですね。これを読んで、それぞれの作業に必要な情報源にアクセスすれば「より知識が頭に引っ掛かりやすくなるだろう」。そんな効果は期待できるでしょう。だとしても、実際に触り続けて体得しなければならない事の方が遥かに多いだろうけど。

2005年12月17日

間違いだらけの学習論

西林克彦
新曜社: 1800円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 勉強論。ノートの取り方や記憶の仕方といった「枝葉」議論ではなく、知識を身に付けるという現象の心理学的な解説書。知識が役に立たないという人は、実はある種の知識が足りていないのであるという論説を張るだけあって、読んだらすぐに役立ちます。すくなくとも、大学生4年生の研究を手伝っている私としては、何をどう教えれば良いのかという問いに対する心強い支えを得た気がします。もちろん、私自信の支えにもなっていますし。
 なんを言えば、すこし「面白くない」という気がします。これは編集の仕方で緩和できると思うので、少し残念です。


  「何かを学習する時には、学習対象の量が少なければ少ないほどやさしい」、また「繰り返し経験すればするほど、よくできるようになる」という学習論は、どうも、いつでも成立するわけではなさそうだということになってきます。
 一般に言われていることとは違います。でも、良く考えれば、著者の言っていることが正しい。人間の頭にモノを詰め込むことが簡単なわけがありません。むしろ、良く覚えることができるなと感嘆するくらい学習ができることは不思議な出来事です。一般に流布している伝説は、ある種の前提を落としていることから生じます。学習における上記の伝説は、実際起きる問題については、「おまえは頭が悪い」あるいは「努力がたらん」で無視しているから消えないで残っているのでしょう。

 何かを記憶するときには、下地が必要です。コアになる「前提知識」が必要です。この前提知識があるときは、むしろ量が多いほど記憶しやすいです。なぜなら、「意味」がある事柄は数が多くてもつながり易いから。覚えたことは芋づる式に取り出すことすらできます。一方、数は少なくても意味がない事実をいくつも覚えることはできません。たとえ少なくても「苦痛」には違いありません。それは「意味が」ないから。

 脳はつながりを重視するようです。小説も伏線が一気に「解決」すると快感です。あらゆる学問も同じ。ただ、つながりを無視して「覚える」ならば、苦痛のままです。だから、忘れてしまう。この著者は、教科書は薄いと本質的に分からないもの、関連の無い事実の列挙になり、学習することが苦痛になってしまうということを主張されています。だから、そんなことなら、教科書は厚い方が良い。記載されている事実の関連を詳細に説明されているほうがより記憶しやすく、思い出しやすく、なんといっても面白いということです。

気の毒なのは、本当は理屈がつくのに、理屈のないまま量だけ減らして、丸覚えを強要されている子どもたちです。

 私は全く賛成します。ところが、教師側や親側はこれまでの不幸な教育を受けてきたので、その事実に気づきません。おそらく、学習とは苦痛であるという思いを子供に教え込んでいくのでしょう。すでに、悪魔のサイクルに入り込んでいるのでしょう。せめて、私はこの著者のいう考え方を自分および自分と関連する学生さんに伝えたいと思います。

 


自分が教えようとする知識が、どの領域で、どのように使われるのかを示し、それが有益であると主張する以外には、知識の意義を説明する方法はないかと思います。

 こう主張する著者だけあって、この本は「理解しているとはどういうことか」についての基準を教えてくれます。感嘆なことです。読めばだれでもわかることです。勉強を続けていきたいと考える人にはお勧めの一冊です。

2005年12月16日

「脳」整理法

茂木健一郎
ちくま新書: 700円
お勧め指数: □□■■■ (2)

 頭の使い方についての本ではない。全くデタラメではないが、かといって予測可能ともいえない「日常の出来事(contingency)」について考察している。日本語では偶有性と言う。人の心や毎日の生活を含め、実は「意識が関心を持つ」殆ど全てのことはこの偶有性を備えている。逆に、がっちりと決っている事にはだんだん興味が薄れ、注意の対象ではなくなり、ついには「存在そのものが意識されなくなる」という性質が意識にはあるようである。つまり、自分がどう働き掛けても変化のない物事は、自分には関係がなくなるために関心がなくなる。逆に言えば、人間は、偶有性をもっているものから影響されるからこそ、関心を持つらしい。そういった内容の本である。

 もし、ある友達の挙動が「100%」分かるとしたら、その友達には関心がなくなっていくだろう。あるいは、異性の人を思い浮かべればわかるかもしれない。偶有性があるからこそ、その成り行きについて「予想」を立て、その通りになるかどうを緊張しならが見守ることができる。それによって脳が活性化させる。言い方を変えれば、その活動は脳が外界の情報を「整理」していることを意味するのだ、考える。

 人も「偶有性」をもっている。自分もどうなるか分からないが、かといって全くデタラメな人生にもならないだろう。人の集団を相手にする保険会社ならば、期待値を使った確率の計算が必要になるだろう。ところが、自分自身の未来について確率を当てはめるのはナンセンスだろう。なぜなら、自分の未来におけるある状態が、1/3だけ生きていて2/3だけ死んでいるという状態は存在しないのだから。個人の未来は「どっちか」なのだ。確率が意味を持つのは、繰り返しが可能な場合、似たようなものをたくさん集めてこれる場合に限られる。それ以外では、確率は定義できても現実との対応はない。

 不確定である世の中の現象を「一般化」して知識に変換する脳の活動について、あれこれ論じたエッセイとして、この本は成功しているのだが、私は少し物足りなさを感じた。

2005年12月13日

脳の中の人生

茂木健一郎

中公新書ラクレ: 700円

お勧め指数: □□□■■ (3)

 週刊誌に連載されていたコラムをまとめたものである。茂木さんの他の本とは少し毛色が違うので、クオリアの話しを期待した人はがっかりするかもしれない。内容は脳科学や日々の生活を通した脳の影響についてのエッセイである。ただし、一般向けになっているので、正直茂木さんが書く必要がないと思うような時事問題と絡めてあったりして、私はイマイチな観がしたが、決してつまらないという分けではない。期待と違っているだけである。

 エッセイのなかで、「ミラーニューロン」について語っているところがあった。チンパンジーの研究がもとで発見された、特殊な機能を持った脳のある部分のことである。他人の行動をまねようとするとき働くニューロン(詳しくはココあたり)のことで、これが人の全般に影響しているのではないかと昨日呼んだ養老さんの本に書いてあったことを思い出した。私だって、本を読みながら少しは想像する。

 人がいると、それをマネする。自分の行為は、相手がマネをすることによって相手に伝わる。言葉もそうではないか? もしも、相手がいなければマネできない。つまり、言葉を発しようがない。無人島で、数年間一人で暮らしていくとどうなるか? 言葉を発しないとその人の自己が消えてなくならないか? つまり、意識が消え、無意識だけになるのではないだろうか? よくよく考えれば、意識は他人がいるから発生しているように見えるだけの実態のない状態ではないのか?

 こう考えると次のような結論を得る。ならば、計算機に意識を載せることはできない。なぜなら、計算機は相手の計算機の存在を情報無くして感じることができないから。少なくとも、計算機にミラーニューロンがなければ、意識が発生しようがないのだ。

 そんな妄想を読みながらでもできる、易しい内容の本です。

2005年12月12日

無思想の発見

養老孟司
ちくま新書: 720円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 養老さんの「思想」のコアに近い部分をあっさりと書いています。


”「本当の自分」が本当にあると思っていれば、いくら自分を変えたって、なんの心配もない。だって、どうやっても「変えようがない」のが、本当の自分なんだから。それを支えているのは、なにか。身体である。自分の身体はどう考えたって自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。”

 よく若者が口にする「自分さがし」などというときの「自分」などは、勘違いであって、そんなものはない。自分とは周りとの関係によって「作られる」ものであって、周りが変われば自分も関わる。毎日「本当の自分」などと考えていると、そんなものがあるかのような錯覚を起こす。変わらない自分などはない。一神教ならば裁きに遭う必要があるから必要なのだろうけど、仏教ならば「一切空」である。

 人はずっと考えていることに「現実感」を持ってしまう。たとえそれが存在しないと分かっていても、考えているうちの「いや、存在している、私には確かにそう思う」と言い出すのだ。長く考えれば考えるほど、存在に疑いをもたなくなる。数学者にとって数学の世界は実在であるし、芸術家にとって美は存在する。

 ほとんどすべての人間にとって、意識はつねに「意識」している。意識が最も意識しているのは(自分の)意識なのだ。とすれば、人は「意識は存在する」と思うに決っている。確かにある、と思うのだ。寝ている間は消えてしまうものでも。まず、これを知っておく必要がある。

 次に、人は状況によって変わる。いかなる状況によっても変わらない人がいるならば、それは聖人であろう。が、そのような人は歴史上僅かしかない。環境が変われば、身体に変化がある。身体を通じて感じるものが大きくかわるから。当然だが、その環境にあうように人も変わる。考え方や感じ方が変わるのだ。それは、本当の自分が見えてきたのではない。単に、周りに合わせただけなのだ。異郷の地に行けば環境が大きくかわる。ならば、自分もそれに合わせて変わる。それは、「本当自分」などとは関係ない。

 どうやらこのメモを書いている自分の正体は「意識」ではなく、身体であることが私にもわかってきた。腹が減っていたさっきはパソコンに向かう気になれなかったが、腹いっぱいになったらこうして書いているのだから。そう考えれば、日々の気なることなどどうでも良くなり、ただ、楽しく生活できるような楽な気分になってくるではないか。なるほどこれが、無常という言葉の意味なのかもしれない。

2005年12月10日

ローマ人の物語〈12〉迷走する帝国

塩野七生
新潮社: 2800円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 カラカラからはじまる皇帝の短期交替時期。途中、生きながらにしてペルシャシャプールに捉えられてしまうヴァレリウスや当面の安定化をはかったアウレリアヌスなどを含め、ディオクレティアヌス前までの皇帝について。

 この時期のローマの記述は「きっと面白くない」だろうと思っていた。結局、「俺が、俺が」の内紛のような状態で皇帝が入れ替わり立ち替わり変わったのだろうとおもったのだ。日本の戦国時代のようなものかと想像していた。ところが、その予想は全く外れ、なるほど、このように入れ替わるの状況にあったのも「これまで、ローマがローマであった理由」を成り立たせていた環境が大きく変化したことにより、大きな考え方の変更をしないで対応したために帝国が迷走したのだと分かった。この巻から得られる洞察は大きい。

 ローマがローマでなくなっていく理由は一つではない。良くできたミステリー小説のように、そのときの情勢に対応するため「よかれ」と思ってやったことが、じわじわとローマ的な法制、人々のメンタリティーを変え、これまでのローマでは国を維持できなくなるようにしていったようだ。いくつもあるその「要因」を著者はそれとわかるように教えてくれる。

 例えば、カラカラが行った「ローマ帝国にいる人はだれでもローマ市民権を持てる」というようなことがある。ローマの市民であることが実際上の生活で大きなメリットがあったし、ローマ帝国の市民の一人であるという誇りをもたせてくれたローマ市民権。自分の所属する名誉のために、街道や橋、公共設備に私財を投資してくれた裕福な市民、あるいは、住みにくい辺境の地で軍務につく軍隊などがいた。が、だれでもローマ市民ならば、ある意味、誇りを持てようがない。ローマ市民という人々を主役にして統治を行っていたローマの市民が、ローマ市民に魅力を感じなくなれば、だれが公共に投資をしてくれよう。政治を行うのは「無給」の名誉職であったのだが、その魅力がなくなれば有能な人はいなくなる。

 環境の変化に対応し、また、自ら変更していくときに「ローマ的のコア」となるものを失っていけば、ローマはローマでなくなる。これが衰退のものになる。次々と変わった皇帝達も、これまでとは違ってきた「蛮族」の対応に苦戦するようになった。蛮族が騎兵を中心にローマに進入してくるようになったため、対するローマ軍も騎兵に重みを置くようになった。「ローマ軍はつるはしで勝つ」という言葉の通り、重装歩兵があるから市民が中心の軍隊だったのが、騎兵の後ろ盾のような役割にかわっていけば、軍隊の質も変わっていく。そして、あのローマ軍も変貌していく。

 ここまで読むんできて、どうやら塩野七生は何を言いたいのはうっすらと分かってきた。それは、司馬遼太郎が言いたいものと同じではないか。「明治期というのは、一つの時代であって、<過去の日本>というものとして扱わないほうが良い。それは、一つの<国>のようなものであって、もう繰り返されることのない、人類の宝の一つとして数えられるものなのだ」というようなことを「明治という国家」のなかで司馬さんは書かれている。「国家というのは、一種の圧搾空気のようなものの上に乗っている。その圧搾空気をそこ国民が保てなくなったとき、政府は動脈硬化をおこし、やがて滅びる。」

 ローマ人を支えいてのは、Res Publicaという「気概」なのだ。敗者すら自分たちに同化させていく政策をとるローマには、民族主義などない。生まれ持った血が既得権となるものではなく、「自分はローマ人なのだ」という誇りを持てる、自信をもって生きられるブランドを「市民権」というコンセプトで明確化して、その価値を世界が認めている。自分がローマ人ならば、Res Publicaのためと思い、非ローマ人ならば「いつか市民権を」という思いをもつ。そうなれば、社会に活力がでるではないか。

 これが、一気になくなっていく状況を考える。そうなれば、いずれ「ローマ」は崩壊する。ただし、そうなる要因はたくさんあり得る。3世紀以後のローマには「そのような要因の例」が一気に起きるのだ。この本では、いろんな現象が持ち上がり、説明されていく。そして、著者が「これが原因で、こんなことが起きる」と解説してくれる。そして、つまるところ、すべては「ローマがローマである理由」が傷つけられていくことが分かる。だから、なぜローマが滅んだのか、という問いに一言で答えられるわけないのだ。

 蛮族の進入が状態化し、農耕地があれる。物流も安全でなくなる。しかし、軍事費は増加するので税金が上がる。これでは市民経済が破綻していく。耕作地を失い、人々は都市へと集まれど職はない。となれば、人々は不安の時代を生きるよりない。こうなると、「人間の背中を押してくれるローマの神々」よりも「人を導くキリスト教」へ人々はうつる。キリスト教はコミュニティーを形成し、その内部へはいれば歓迎されることから、入信者も増える。どんなにキリスト教とが増えようと、そもそもローマは滅びるべしと考える集団なのだから、ローマはますます悪くなる。こんな感じで崩壊していく。

 いろいろな事情が重なりあい、悪循環に入るところは是非とも学んでおきたい。なぜなら、それはスケールを変えればいかなる人間の集団でも同じ道を踏むから。

 このシリーズは古代ローマの通史を扱っているのだが、私は、以前よりもいっそう明解な「国がすべきことはなにか。人々がすべきことはないか。どうなったら、国の崩壊の兆候があるのか」についての自分なりの考えを持つようになった。

「出来事は繰り返さないが、人の心ならば繰り返す」という著者の言う意味も良く分かるようになってきた。私はこの年にして、この本の意図が分かるようになってきた。歳をとるのは結構楽しいことに思える。

2005年12月 9日

グローバルスタンダードと国家戦略

坂村健
NTT出版: 2300円 お勧め指数: □□□□□ (5)

 グローバルスタンダートと呼ばれるものはアメリカンスタンダードなものが多く、その導入を無批判に主張するマスコミの論調にのってはいけない。グローバルスタンダードにも背景や歴史があり、今後の流動性を含めて考える必要がある。スタンダードの導入ばかりに注目されれば、そこで思考停止がおき、独自のものをつくらなくなる。


"結論を先に言うと、独自技術開発をやめたときがおしまいなのである。日本がまだ生きながらえているのは、このことを勘違いしている人たちにもめげずに、独自技術の開発を進める人々がいたからなのだ。"

 感動的な言葉である。私はプロジェクトXが大嫌いだが、上記の言葉の意味は理解することができる。脚色された物語の根底にあるのは、独自技術を持つことについての使命であることぐらい、技術屋の端くれにいる私にもわかる。


”独自技術の開発を進めるのは、余裕が必要である。あまり競争が激化すると余裕がなくなり、かえって悪い方向に行く場合があるからだ。とくに独創的なものに近づけば近づくほどその傾向がある。
 それでは米国はどうなのか。競争しているではないかと言うかもしれない。それは米国の表面しか見ていない人の意見である。米国の場合はまず軍事研究があり、それが研究開発にもたらしている余裕は非常に大きい。競争が始まるのは、そこで確立された技術が民間転用される段階からだ。米国はそのあたりのサイクルを明らかに戦略的に組み入れている。軍事研究の成果を、偶然どこかのベンチャーが民間転用して大当たり、などという甘い話しではない。なぜなら、米軍の軍事戦略には、平時の経済競争力まで含めての国の安全保障という考え方がしっかり根づいているからだ。”

 感動な方法である。アメリカにはどうやらアウグストゥスがいるらしい。マスコミが批判口調で「パスク・アメリカーナ」と呼ぶが、こんな軍事戦略を企画できる人々が中枢にいるのならば、世界は真の意味で「パクス」の恩恵を受けているといえる。ただ、賢帝の登場も安定もとても短いものであり、いまはコモドゥスの時期なのかもしれないが。

 国防とは何か。そんを実現するための方法はいろいろある。殺人しか考えていないと、軍を悪魔のようにいう人もいるが、その中枢に「平時の経済競争力」まで見据えて、失敗する可能性のコストを受け持つアメリカがあるのだとしたら、日本は到底かなわないだろう。日本など、長い歴史をもちならが、しょせん「ファミリーマター」の歴史しかないのだから。

 技術を獲得、維持するためには、独自技術開発をつづけなければならない。でなければ、何故スタンダードとなった技術がすぐれているのか、「真の意味でわからない」はず。私も、自分の手で行い、頭で理解する、というように「自分でやる」を基本していこうと再確認した。とてもよい本です。流石、坂村健。

2005年12月 7日

反社会学の不埒な研究報告

パオロ・マッツァリーノ
二見書房: 1429円
お勧め指数: □□□□■ (4)

"社会問題として語られる論説の多くは、じつは個人的かつ感情的な意見にすぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために、学者のみなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。注意していただきたいのは、意識調査の結果からなんらかの結果を引き出すのではなく、なんらかの予測を裏付けたいがために、ほとんどの意識調査が実施されている点です。"
 久々の新刊。パオロさんの思わず笑ってしまうような指摘は、統計に向いたようである。新聞や報告書で「証拠」として提示される数値がある。事実を示す定量指標を装っているこれらの数値、本当に意味があるのだろうか?

 答え:おかしなものがいっぱいので、事実を補強する証拠として無批判にうけない方が良いだろう。こんな主旨の反社会学が展開されている。数値を見ても、信用する事なかれ。

 その他、勲章について、博士号についての考察がある。巻末の、中谷彰宏をモデルとした「だれでもビジネス書がかける」は、痛烈な皮肉。中谷本が好きな私としては少し痛いところをつかれているが、かといって、本として世間にでたものの内容に「おかしなことはない」とも思っている。それをどこまで取り入れるかは、その人の人生そのものでしょう。

 

2005年12月 6日

隠された十字架

梅原猛
新潮文庫: 781円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 法隆寺には謎がある。建築にしても、仏像にしても、これまで教科書で教えられていたことは事実と違うかもしれない。あの寺は仏教興隆のためのものではなく、聖徳太子の祟りを静めるための鎮魂寺なのではないか。この仮説が冒頭に出され、残りはこの仮説を支持ずる事実を拾い出し、それらを組み上げてくという著作である。

 哲学者としてこの問題を扱ったのでこう結論づけられた。日本史の専門家ならば無理だったであろう。そのような内容を著作で語っているようである。たしかに、論理的に考えていく姿勢は流石だと思うが、実験ができないために仮説をささえる傍証には「?」とせざるを得ないものもあると私は思う。つまり、この著作の内容は哲学であって、科学ではないのだ。

 古代はどこでもそうだったのかもしれないが、死者に対する恐れは現在では想像できないような実際的なチカラをもっていたようである。井沢元彦さんの「逆説の日本史」のシリーズを読んでいるので、そのあたりの事情は理解できる。不幸な死に方をされた人の「怨霊」は、疫病や天災を引き起こすと当然であったようだ。

 その本を読んで、法隆寺を見たくなった。ついでに、大仏や運慶快慶の阿吽象も見たくなった。少し時期が外れていたが、奈良に行ってみた。法隆寺にたたずみ、怨霊鎮魂の意図を感じられるかとしばらく感慨にふけったが、コンパクトな木造建築だなぁという以外のものは感じかなった。残念。

 日本史にある出来事の根本的な原因は「ファミリーマター」である。誰が後を継ぐ、そんなことばかりである。古代ローマ史とまったくちがう。「国」というコンセプトが成立していない。「人々」とい概念がないのだ、この時代には。読んでいて、ばからしくなる。日本人についての理解を得られるには違いないが、これから社会のなかで生きていこうという前向きの心をもった人には「全く必要ない」ものばかりである。日本史を読むくらいならば、その時間を古代ローマ史を読むことに費やしたほうが良いだろう。

 梅原猛の著者であっても、日本史のくだらなさを実感するだけに終わったような気がする。

2005年12月 5日

使える弁証法

田坂広志
東洋経済新報社: 1500円
お勧め指数: □□□■■ (3)

  久々の田坂本。すこし語り口が変わったようですが、内容は期待した通りでした。明解な論旨を枝葉のない論理で説く。たんだかんだいっても、田坂さん本は「意味が分かりやすい」です。

 今回のテーマは弁証法。なんてことはない、現在ネットワークで騒がれているビジネス方法は横文字であることを忘れてよくよく考えれば「昔あったじゃん」というものだ。そうだ、これ、魚市場の競りと同じだ。そんな問題意識を「らせん的発展」や「テーゼとアンチテーゼをアウフヘーベンする」という言葉にのせて語ってくれます。だから、弁証法。いったんその言葉を使えば、ネットビジネスで新しいと騒がれているものは、実は昔からあったのだ、と気づきます。ならば、その問題点も、その次にくる流行も予想できるはず。こんな主旨の本です。

 大きなコミュニティーの間でも情報交換、物流や決済が可能になったからヤフオクや逆オークションは現在の世の中に再び現れました。何が原因でこれらのものが過去すたれたのかを考えれば、それらの問題点は現在の技術で克服されていることがわかります。ならば、過去すたれたサービスでも、その問題を克服する技術を準備すれば新サービスとして復活させることができます。例えば「ご用聞き」。サザエさんの「三河屋の三平さん」ですが、コンシェルジュ、ワンストップという役割をICTの技術をもって持たせれば必ず復活してくるでしょう。そんなことが書かれています。もし、本当にそうならば、田坂さんの「先見力・予見力」は、ある程度モノを考えられる人ならば身に付けることができます。

 物事がらせん的発展をする理由は、もっと単純だと私は思います。要するに、自由度が無限にないので、気づけば同じような状態にいる、ということでしょう。とっても、完全には同じ状態にならないので「らせん的」となるのです。でも、それも、「見方」によってかわるはずですが。

 一見、戦略本の中谷彰宏さんか、という気がしない田坂本ですが、良く読めば本造りの傾向は違います。行間の広さが似ているだけで、他のビジネス本とレベルの違いはないと思います。

2005年12月 3日

Movable Typeで今日から始めるカスタムブログ

岡田庄司
秀和システム: 2800円
お勧め指数: □□□□■ (4)

ブログといえばSix ApartのMovable Typeが定番ということだ。定番ならばフリーではないのだろう。それなのに、結構な量の解説本が出版されている。Movable Typeは相当難しい設定が必要なのだろう。
 ところが違うようだ。ユーザ数を限定すればMovable Typeはフリーだし、個人ユースのライセンスならば8000円で入手できる。また、設定もCGI経由で、しかも日本語化されている。思った以上にすんなりサーバに導入できた。
 すんなりできたのは、実はこの本のおかけ。もし、この本でインストールの基本を読んでいないならば、おそらく導入できなかったか、相当時間がかかったでしょう。だから、この本には感謝しています。

 ブログシステムの全体的な構成、インストール方法(Versionは3.1だから最新とは微妙に違う)、簡単な運用手順、および、Movable Typeのタグ、テンプレート、スタイルシートと必要最小限の内容が手堅くまとまっている。カスタム化といっても、本当に基本的なことしかできないです。私は自分でサーバを立てているので、ある程度の細かい知識は持ち合わせていましたから、それに救われたという面もあり、この本だけでよい、とは言い切れませんが、それでも初めの一歩をアシストする本としては、成功しています。

アルファブロガー

フューチャープラニングネットワーク
翔泳社: 1500円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 アルファブロガーと呼ばれる人気ブログサイトの著者へのインタビュー集。どのような人がいつどれくらいの時間をかけてブログを更新しているのかについて知ることができる。もっとも、インタビューなので、意識的、無意識的に脚色しているところがあるのかもしれないことは当然なので、それは加味して読む。

 まず、これらの人のブログを見た。ブログとは独り言なのかと思っていた(真鍋かをりさんのように)。しかし、完全に個人で立ち上げているものであっても、情報収集も論点もはっきりしている「記事」のようなものが存在するのだ。記者が書いているようなものは「ブログ」とは言えない(それは、記事)けれど、個人の趣味で作成したものとしてならば、質が高い。こんなブログは、どうやって書くのだろうか?

 記者が自分の仕事ではかけないものを個人的なブログにかく、という場合面白いに決っています。公の紙面に出すには、いろいろ政治的な駆け引きや、あまり裏をとれないことは没になるでしょうし、記者もそれがわかっていているから。しかし、読む側からすれば、記者が「公ではかけない」と判断したものの方が断然面白いはずです。もちろん、眉に唾を付けて読むのですが。

 この本に即発され、私もMovable Typeを導入し、ブログを始めることにしました。自分の知っている分野について語るならば、私でも可能だろう。それに、調べることもある程度できますから。今後、ブログを継続させることができたならば、この本との出会いで始めたことになり、とても意味のある本であったと評価できるでしょう。さて、どうなるか。