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2006年3月31日

博士と狂人

サイモン・ウィンチェスター
早川書房: 1800円
お勧め指数: ■■□□□ (2)

 英語の辞書の創製に関わるストーリー。オックスフォード英語辞典(OED)はどのような経緯で誕生し、どのような人が関わったのか。その中でびきり面白いエピソードをつまんで本にしていある。が、この本は半分でいい。無理に話しを延ばしすぎる。内容をかくとネタバレしてしまうので多くは語れないのが残念。

 OEDクラスになると、百科事典をかねれているような気がする。大英帝国というのは、ブリタニカだのOEDだの、時間を資金が必要な事業をいくつも成し遂げている。こういうところは覇権国家だとつくづく思い知る。

2006年3月30日

ある家族の会話

ナタリア・ギンツブルグ
白水Uブックス: 950円
お勧め指数: ■■■■□ (4)

 ある家族の会話。というか、歴史のようなものです。ナタリアの視点で、子供の頃から大人になってまで、自分の家族にまつわる話しを小説風に仕上がっている。読んでみた感想。これは「歴史書」なのか。

 家族にとっては変えようにない事実であり、それは愉快であろうと不愉快であろうとも「仕方ながない」として受け入れるよりない。しかし、時代も国も生活風習も関係がない私から見れば、「なんで、この父親も母親も、こんなしょうもない人なんだろうか?」という気分になる。「なんとういうロバだ!」が口癖の父親など、もう放っておけ、と言いたくなる。親父は選べないのだから、不幸な家族に生まれたものだと主人公に同情してしまう。

 そんな家族のどうでもいいエピソードをたどっていくと、この時代(第一、第二次大戦)が見えてくる。しかも、普通の人が何を考えていたのか、それときイタリアはヨーロッパは、そして、日本は何をしていたのかが気になってくる。著者はそんなことを考えず、たんに自分の家の歴史を書いているだけなのかもしれないが、断片ではなくある期間を通して眺めると、具体的な家族が抽象的な家族となり、その時代のモデルを探す一つの切り口となってくる。不思議である。
 この本の家族は「変だよなぁ、嫌だよなぁ」と思っていたが、良く考えると自分の家族もそうだろうし、自分が作る家族もそうなるのような気がする。結局みんなそれぞれ変なのだろう。

 一つ面白いことに気がついた。子供と自分とを区別しない、あいまいな関係なってしまう傾向は日本人だけではないと知った。ヨーロッパはみな個人の尊重されているものだと思ったが、この時代のイタリアの市民ならば、なんだ家と、日本の人とあまり変わらない感覚があるじゃないかと知って愉快だった。

2006年3月28日

ミラノ 霧の風景

須賀敦子
白水社: 1700円
お勧め指数: ■■■□□ (3)

 不思議な気分になった。私とは関係もなく、時代も違い、しかも職業も趣味も、性別まで違う人の生活の話しを聴いた気分なのだが、どうしたというのだろう。若いときの記憶ならば、良くても悪くても思い出すのは楽しさと哀しさがまざっているものなのだろうけど、ちょっと他人事のようには思えない気がするから不思議なのだ。なんとも、この本の中身については表現しようがないので、この本については別のことをメモしておく。

 本の装幀が綺麗ですね。綺麗なままで取っておきたい気がします。ただ、これ古本でかったので、ちょっと古びているのだが。
 古本を読むとき、新刊にはないおもむきを感じるときがある。本の装幀や文字の大きさについて、最近の本はだめだ、という類いの話しではない。そうではなく、前の所有者の断片がふとしたことからにじみ出るようなこと。そんな古本は新刊本を手にした以上の喜びがある。

 今、須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」という本を読んでる。美しい日本語とはこういうものだろう。文系でもない自分がそう思うほどに、しっとりとしたエッセイ。この本はブックオフで買ったのだが、ちょっと得した気分になる。新刊にはないものが、入っているから。

 表紙の裏に新聞の切り抜きが入っていた。この本についての書評である。余枠なしで切り抜かれている。この本のタイトルにマーカーが魅かれている。前の所有者の性格を感じとることができる。そして、本の奥付の上にえんぴつで「91.10.6 秀太の運動会の日に」と書かれている。綺麗な自体。そんなときに、読んだんだ。と想像を働かせてしまう。ちょっと痩せ気味の美人の人だったりして。想像というより妄想か。

 なぜ、この本をブックオフに出したのか? 今は2006年。となれば、15年たったことになる。運動会という響きは幼稚園から小学生までだろう。高学年というより低学年か。となると、5ー10歳の頃に読んだ本になる。ひょっとしたら、秀太くんは大学を卒業して就職したとか、あるいは、高校卒業後プロフェッショナルな職業に就き、結婚したとか。あるいは、子供が家を出ていき、夫も定年になり、前所有者が住み慣れた家を引っ越しすることになったとか。

 本の中の世界と本の外の世界。丁寧に読まれた本ならば、二つの世界を同時に受け取ることができる。そのよさは、新刊にはない。

2006年3月24日

ヴェネツィアの宿

須賀敦子
文春文庫: 533円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 なぜ、須賀敦子という人の評価は高いのだろうか? その疑問が一発で吹き飛びました。確かに、この本は忘れられない本です。これならば、日本の文芸誌に残ります。読んで良かった。

 過去の自分の視点、現在の自分の視点、子供の自分の視点と話しごとに縦横無尽に飛び回ります。だから、少しばかりの須賀さんの経歴というか生活を過ごした場所や時代を知らないと読んでいて戸惑うと思います。私は「コルシア書店の仲間たち」という別の本を読んでいたので、おぼろげに須賀さんの過去を知ったのですが、どの本でもいいのかもしれない。
 子供の頃は戦争時代、学校はミッションスクール。生活には困っていない。パリ、ローマに留学。帰国後職についたのだが、チャンスを得てイタリアに留学。ひょんなことからミラノに滞在。60年代から70年代にかけてミラノの書店に関わり、そこで働いていた人と結婚。旦那さんが病気でなくなり、数年後日本へ帰国。こんな感じであろうと思います。
 須賀さんの本に登場するのは実在の友人たち。うるさくない描写ですが、その友人の雰囲気が伝わってきます。もちろん、話しの中での著者の感じも。

 ”カティアが歩いた道”、”オリエント・エクスプレス”。この2編は一生私の記憶に残ると思います。若い頃の何気ないけれども人生の分岐点だった出会いとか、楽しかった人生で最後に残るものは何かとか。著者自ら「あの四冊は書けてよかった」という作品はすべて60歳を過ぎてからのものです。なるほど、だからストーリーの結末が物悲しいのでしょう。未来から過去を見ると、「あぁ」という哀しさが溢れてしまうのでしょうか。私にはまだわからないですが。

 合間をみて、須賀敦子さんの作品は全部読んでみようかなと思います。そう、思わせる一冊です。

2006年3月23日

イーグルに訊け

天外伺郎・衛藤信之
飛鳥新社: 1800円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 アメリカインディアンの生活から人生哲学を学んでみよう。インディアン古来の生活習慣を守っているインディアンの人たちの生活空間に滞在し、かれらの発想、人との接し方、人生の所作のようなものをカウンセラーの衛藤さんの体験記的なエッセイと天外さんの体験から編まれている本。ああしろ、こうしろ、という類いの本ではなく、へぇ、そうなんだという気持ちでよめるように書かれている。

 以前購入した本なのだが全然読んでいなかった。ヒマなときにTVをザッピングしていて放送大学の法律の講義のようなものをちらっと見ていたら「アメリカ憲法の民主制にはヨーロッパ、古代ギリシャ起源のものではない、アメリカインディアンの考え方が大きく反映されているところがある」という説明が頭に残った。たまたま本箱をのぞいたたら、目次に「合衆国憲法に大きく影響を与えたイロコイ文化」という節が目に飛び込んできた。それがきっかけで読んだ。

 結果的に本書の内容は「道徳」を説明したことになっている。守らなければならないこと、ではなく、そうするのが一番気持ちよく生きられるというのがインディアンが1万年かって得た方法論というものを語っている。

2006年3月22日

ウンコな議論

ハリー・G・フランクファート
筑摩書房: 1300円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 表紙からしてどうかなぁ。山形浩生でなかったら、かわなかったかもしれない。それぐらい、強いインパクトを与えたい意図があるのだと思うが、ちょっとやり過ぎな気がする。

 状況と全く関係なく、発言内容も価値がない、くだらない議論を「ウンコ」な議論と呼ぶ。なんでかしらないが、そんな議論が世の中あふれている。一体、どうしたらよいのか? 著者はプリンストンの著名な教授である。このようなテーマを、しかも、相当刺激的なタイトルの本を出版すると、ある意味本にはマイナスなはず。しかも、この小論はずいぶんと昔にかいたものだそうである。それを、今だすのは、アメリカ社会にもこの手の議論があふれているからなのだろう。

 それを翻訳して、本編と同じ分量の解説をつけている山形さんも、そうとう個人的に頭にきているのだろう。山形さんは道路公団民営化の委員に参加して、いろいろ取りまとめの文書(提言だの)を作成したらしい。その上での、いわゆる偉い人(政治家・役人)のウンコな議論に泣かされたそうである。自分が知らない、感心がないものについて高尚なことを言わなければならない立場にあるのには同情の余地があるが、その人の発言で社会がどれほど迷惑を被るのか全く理解していない偉い人に対する、あるいは、役所に対するばかばかしさを本の形で伝えたかったのだろう。もし、そうならば痛いほどよくわかる。

 人の脳は同じ性能を持ちえない。結局、ある瞬間に素晴らしい人が構成した組織でも、時間と共に変容する。環境に適用するのだ。そして、頭の良さとは環境に適用する能力にも当てはめることができるだろう。だから、ウンコな議論をする人たちが多数を占めるのは、自然の成り行きなのだ。ただ、それは、自然な成り行きであってもウンコであることにはかわりはない。散歩道に犬のウンコがある。さて、どうしようかというのがその人の生き方に現われるはず。そう思って、世の中のウンコな議論への感度を上げて、ケースバイケースで処置をしていこう。そう、考えるようになった。

2006年3月21日

陰日向に咲く

劇団ひとり
幻冬舎: 1470円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 へぇ、という面白さがあります。5話の短編がチェーンのようにつながっています。だから、時間的にも空間的にも広がっている。きてれつな設定がないため、想像しやすいです。それぞれの話は、くすっと笑えるおかしさ、ちょっと哀しい気分と懐かしさにあふれています。自分の周りにいるタイプの人、全くいないタイプの人。それそれが自然に「ワールド」に組み込まれているんです。読み終えると、全く架空の一つの世界を感じます。劇団ひとりって、こっちのほうでも十分作品を残してくれるとお思います。

 個人的に嬉しかったのは、浅草の細かい場所の描写が正確なので、ありありとその風景を思い浮かべられるところです。浅草寺裏のバスが何台かとまれる駐車場でのシーン。良く知っているなぁ。子供の頃に遊んだことがある場所だけに、ちょっと好印象をもっていしまします。私としては、アイドルの話しが感動的なくらいうまくできていると思いました。行動が理解できない変な人の話しではなく、完全な動機があり、それが形をかえると「意味不明」な行動に結びついてしまう。思い込みがどんでもない方向へ発展する人の弱い部分をよくぞ表現した、と思いました。お勧めす。

2006年3月20日

ケータイを持ったサル

正高信男
中公新書: 700円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 近ごろの若い連中には腹が立つ。なんでこんな変な行動をするのか。サルの行動を長いこと研究してきた学者がふと思った。そうだ、こいつらサルだと思って研究したら、腹も立たなくなるのではないか。そんな動機で若者の行動を観察した結果をまとめた新書である。ただし、学術レベルまでは達していない。まぁ、あるある大辞典だと思ってお読みください。そんな感じの本である。

 中身のないメッセージを頻繁に交換しあうメル友は一体何を意味するのか? それは、群れをなす猿によくみられる行動である。相手が自分のメッセージに応答するかどうかを確認することで、森の中での集団の広がりを確認する。これとなじだ。あるいは、かわいいを連発するのも、相手を弱いもの幼いものとして扱うことで自分のポジションを確認している動物の習性だとか。子供や老人に向かって話しをするとき、声のピッチが高くなるが、それを同じ行動をとっているとか。それ以外にもいくつか議論されている。要するに、大人になれない人たち、ということで話しを結んでる。

 しかしだ。人間のハードウエアとしての能力は数万年代っていない。だとすれば、若者の世代は劣っているわけではなく、環境に社会に適応しているだけだといえるだろう。かれも生物である。生き延びようとしている。その結果、今の若者の風俗になっているのである。そういう視点で淡々と語る解説書はないものだろうか。オヤジの愚痴ではなく。

トリエステの坂道

須賀敦子
みすず書房: 1800円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 連想記憶のようにつぎつぎと思い出される著者の回想。若い頃の不安とあかるい風景とが交差することで、印象深く残る。教訓も学習も、悲劇も喜劇もないのだが、なにか自分とは全くちがう人生をあるいている人がいるのだなぁと感慨をもってしまう作品。ようするに著者がイタリアで生活していたときの思いでと現在の生活とが描写されている。トリエステに行ったときの記憶ではないかといえばその通りなのだが、20代のちょっとこころもとない日本の女性が不案内な土地でなんとか立ち回る。ぼんやりとした不安のようなものが、読んでいて美しいと思わせるのかもしれない。うまく、説明でないのだが。

 一つ気になった個所がある。文体についての話。
”あるとき、私は著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った個所を声を出して読んでいたという話を頭なの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族ぐらいにしか考えていなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練り上げる。いまこうして書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようになのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。”
 私はただ単に、文字数最小、理解のための使用メモリ最小、使用ロジック最小、かつ、ちょっと粋を感じさせるものが書きたいだけなので、文系の人の悩みまでは立ち寄らないことにしよう。そんな感想を持った。

2006年3月17日

古代文明と気候大変動

ブライアン・フェイガン
河出書房新社: 2400円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 気候が文明に影響をあたえる。それは、わかりきったことである。そんな番組も見た覚えがある。ただ、氷河時代の変遷と古代文明の時期、場所について調べ上げ、現在にもある気候変動(エルニーニョや季節風という用語でおなじみ)を関連付けて説明してある本なので、知識を概観するにはちょうどよい。もっとも、とても覚えていられる量ではないので、「確か、あの本のこの辺に記述があったはず」という利用がちょうどよいであろう。

 やませという言葉を知っているだろう。東北地方の夏に吹く北風。コメができなくなり、飢饉が起きる。宮沢賢治もこれに悩まされているのだから、古代文明どころか最近まで恐怖の兆候であった。寒いだけではなく、冬を越せない、明日のコメもないという状況になるのだから、当たり前である。

 では、いまなぜ私はそんなに恐怖を感じないのか。それは、「では、別のところから輸入すればいいではないか」と考えているから。大抵の人もそうだろう。だから、二酸化炭素による温室効果程度の用語と気候変動は同じカテゴリーにはいるのだ。でも、古代文明世界に「ロジスティクス」もなければ「情報ネットワーク」もない。そもそも、お金というルールもない。ならば、やませが吹けば「全滅」するか「戦争して隣の文明を滅ぼすか」しかない。それは、ある意味、現代でも同じなのだが。

 古代ローマも末期も気候変動が起きている。北から人がやってくる。ゲルマンはさらに北から追い出されているのだから、世界的に「不作だし、寒いし、はらが減った」のだ。異動して、相手を殲滅して自分が生き残ろう。そう考えるのは当たり前なのだ。なににもまして、これは今でも起きる。結局、リソースの奪いしか人が行動を変える理由はないからだ。

 地球温暖化などのはなしが「実にくだらない」ものに見えてくる。そもそも、人が太刀打ちできる離しではないのだ、気候変動などは。地球軌道の離心率や歳差運動について文句をいっても仕方がないのだ。

2006年3月16日

印欧語の故郷を探る

風間喜代三
岩波新書: 580円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 印欧語の故郷を探る。印欧語が文明の始まりとどう関係あるのか。そんな疑問を持ったので読んだ。

 言葉の使い方で知性を計ることができる。そう考える人には印欧語がどこで発祥したのかを知る必要があり、そして、ドイツ人はそれがヨーロッパではなくゲルマンである必要がある。そういう争いのようなものまで読み取れる。ゲルマン民族は優れている。ナチを後押しするかたちで印欧語の故郷探しが変遷し、反対論をとなる学者が消えていくさまが記述されている。もちろん、そればかりではなく、歴史や考古学の裏付けを求め、純粋な疑問を追求する立場の著者の見解もしめさている。しかし、印象にのこるのは、20初頭のドイツの人たち、インド・ゲルマン語といまだに主張する人たちのメンタリティーである。

 この本を読んでいて、科学に対する姿勢について考えてしまった。仮説を立ててから証拠を探す、実験を行うという姿勢には、「見つけちゃったもの」に対する真摯な態度が必要だということ。不利な証拠は「見ちゃったら最後」ではなく、「みちゃったら、それを高らかに示す覚悟はあるか」という気概をもてない人は、科学をやると迷惑をかけるということだ。みたくないデータをどう扱うのか。学者というのは、自分の意志よりも感覚よりも、この態度を大切にする人でないとまずい。また、ナチのようなことをして、多くの人に迷惑をかけることの片棒をかつぐことにもなるのだから。

2006年3月14日

言語学の誕生

風間喜代三
岩波新書: 320円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 比較言語学の成り立ちを解説しています。言語学が成立したきっかけ、その後の動きをまとめてあります。おそらく、この分やの勉強を始めるか、ある程度勉強したあとで自分がやっていることの歴史的な成り立ちを知りたいと思った人には最適な本でしょう。逆に言えば、言語学と関連が薄い私には「そこまで知らなくてもいいです」という気もします。

 インドヨーロッパ語族ということば、世界史をやると必ずでてきます。私は違和感をもったまま通りすぎましたが、単語だけは覚えていました。シナントロプスペキネンシス、という言葉と同じような「扱い」でおわりました。そういう人種がいたのだろう、きっと。これが勘違いだということがわかりました。

 あることを勉強すると、その対象のそもそもが知りたくなります。知っていくと、そもそもを問いたくなります。結局、歴史の始まりに行き着き、ある種の感慨をもって想像するよりなくなります。文系でも理系でも同じでしょうね、きっと。

2006年3月13日

コルシア書店の仲間たち

須賀敦子
文春文庫: 437円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 若い頃にイタリアに留学?し、ひょんなことからミラノの書店に関係したことで知った人たちに関するエッセイ集。別の本で見たことがあるのだが、須賀さんの若い頃の写真はとってもかわいいんですよね。キュートという言葉がぴったり。そんな感じではあっても文学要素としては一流のものをお持ちだったので、本も出版している書店で一定の役割があったのでしょう。かわいいけど、頭がいい。しかも、日本人。そんなアンバランスさもあったのかもしれませんけど。

 1960年代から70年代にかけて、若者ではなかった私には、この時代の世界の動きは良く知りませんし、ピンともきません。だから、書店の人たちの社会的な位置づけというのはよくわからない。まぁ、職場の変わった人たち程度の認識しかもてません。それでも、ちょっとほろ苦い感じのする人生の断片を垣間見れた気がしています。

 須賀さんのエッセイって、最後は哀しい感じなんです。しかも、昔話が終わると急に現在に引き戻される感じがします。それが、この人の文章の味わいのあるところなのでしょうか。知識をもとめて本を速読する私には、ちょっと戸惑いと魅惑とを感じる本でした。

2006年3月10日

眼の誕生

アンドリュー・パーカー
草思社: 2200円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 生物の進化、とくに、カンブリア紀の爆発的な進化のトリガーを「眼の誕生」とする解説本。眼から鱗です。

 この本は2つの視点から参考になります。一つは、着想と行動、考え方といった「科学的思考と行動」。もう一つは本の書き方。両者が一体になったので、科学啓蒙書としては歴史に残っていくと思います。 科学啓蒙書なので、科学的な思考をたどる記述であるのは当たり前ですが、仮説のとりかたが大胆で面白いです。そうきたか、と。そして、本文は完全なトピックセンテンス法に従っています。本を読むのに各段落の1文目だけを読んでいっても、問題ないくらいです。なかなか、ここまで徹底した本はないと思います。

 進化のドライバーって、生存です。生存競争が「食うか食われるか」ということなら、捕食者と被捕食者とに別れる必要があります。そして、生き残るためには「食われない」、生きるためには「喰う」ことです。それらは何よりも「視覚」あっての話しです。視覚がなければ、形や色や動きに意味はありません。例えば、トゲがあるのは食べられるときに機能しても遅いです。トゲがあるから、食べるのをやめようか。そう思うには視覚が前提になっています。
 視覚の発達、焦点があう、という目玉の進化、これらがカンブリア紀に発生したという素朴な発想で、一気に進化大爆発のトリガーを説明してしまっています。科学的、ってこういうものを言うのでしょう。
 


2006年3月 8日

あの戦争は何だったのか

保坂正康
新潮新書: 720円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 塩野七生の推薦文が目に入った。「天国への道を知る最良の方法は地獄への道を探求することである。(マキアベッリ)」そういう意味で、あの戦争を考えることは大切である。自虐的な視点、無責任な視点、事故の体験が全てだという視点、そんなクソ本とは関係がない、Sicenza(サイエンス)の視点で書かれているだろうこの本を読んでみようと思い手に取った。塩野七生が変な本を推薦するはずがないのだ。

 軍隊の仕組みを見れば、自然とイエスマン+精神主義が台頭してくるのがわかる。後知恵ではるが、仕組みがそうなっている。武士でない人が武士道といっても無駄なのだ。自分と他人の区別がつかない人だから、現実と妄想の違いも区別がつかない。そんな人間が指導的地位にいるのだから、ダメになるに決っている。当時の軍幹部は平安時代の思考能力しかなかったように見える。すくなくとも、生まれてくるのに1000年は遅れてきたという感がある。

 同時に、これは過去の話しではない。西武やNHKや読売の有名な首脳陣をみれば、背筋がぞっとする、ことがわかる。彼がひょなな拍子で実権を握ればそれまでだ。実際、金融制裁はそうなっている。

 面白いことに気付く。結局、日本人の集団的レベルでは民主制を機能させるのは無理なのだ。歴史がない。人類的な自然淘汰も進んでいない。そんな中、制度だけ導入してもどうなるわけではない。同時に、イラクに民主制が成立しえないことも見えてしまう。問題は制度の善し悪しでも、指導者の能力でもない。人類の自然淘汰は「不均一」に進んでいるのだと、実感する。

 せめて、現代史は知っておこう。ローマ人とは違うのだ、日本人は。当たり前のこだが、人類は皆同じ、といような妄想にどう打ち勝つか。だめはだめなりに、Scienzaのマインドは身に付けたい。そう思った。

2006年3月 7日

大本営は生きている

保坂正康
光文社新書: 700円
お勧め指数: □□□□■ (4)

  大本営発表。全く信用ならないお上の嘘という意味である。その実態はどんなものであったのか。大本営の仕組み、発表内容、その実態を照らし合わせ、なぜこんなものがまかり通ってしまったのかを考えるための本。

 大本営発表サイドの軍・官僚はそれを媒介していたマスコミは、一部の人が処刑されただけで本質的な変かを遂げることはなかったようだ。戦後の「進歩的民主主義」といった文化人が無責任なことをしていたことを思えば、現在でも大本営はそこいらじゅうにあると言える。実際、ニュースをみればそう。

 自分には関係ない、というスタンスでは何も変わらない。歴史を知らずして権力を握ると、大抵大本営退出になってしまう。オリンピックの報道をみてみば、すぐにわかる。マスコミがおかしいのはその通りなのだが、そんなマスコミが存続できるのはそれを支持する普通の人が多いからだ。

 大本営発表文から構成された新聞記事を見てると興味深いことに気付く。見出し語や論調がスポーツ新聞的なのだ。この事実に気付いてからオリンピック報道の記事を見かけると「薄ら寒い」のだ。大本営は死んでいない。官僚からマスコミに主体が移っただけのようだ。

 学校で教える歴史は「過去から未来」ではなく「現在から過去」へ遡っていく方が良い。そうすれば、直接現在と関係のある歴史から知ることになる。「なぜ、そんなことになっているのか」を因果律を逆に遡及していけるのに。もっと、現代史を知ろう。そう考える。


2006年3月 6日

ロウアーミドルの衝撃

大前研一
講談社: 1600円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 一億総中流から二極化へ。持てるものはさらに富、持てないものはさらに貧しく。これからの日本の社会変動がこうなるので、中流と考えている人はどうなっていくのか。もう、マイホームもマイカーも望むべくもないのではないか。「考える技術」の続編です。「サラリーマンにがんばってもらう」と税調審議会の会長が言うくらいの時代です。ようするに、搾取対象は「大多数のサラリーマン」ということなっていく。さて、どうやって自衛していくべきか。

 大前さんの発言を嫌う人は「すーぺー」と言ったりしてちゃかしていますが、そう言う人はアホなんだから仕方ありません。どう考えようとも、借金は数学の原理で増えていきます。考え方でどうなるものでもない。「前向きに考える」ことですべてよくなるというのは、60年前の日本の「精神主義」です。それを不意調子が軍やマスコミが「一億総自決」まで考え、自らの考えが「悪い」というところにいたらなかったことを思い出しましょう。

 いろいろ書かれていますが、大前さんの本ですから、主張は一貫しています。サラリーマンの人が自衛できるとしたら、その方法は、(1)マイホームを買わない、(2)マイカーを買わない、(3)教育に金をかけないで、自分の時間をそそぐ、というものです。年収の大きなところから手をつけて、それでいて社会的な生活に支障を満たさず、かつ、幸せな気分で生きていくことができるという「解」です。

 これ、良くできた方程式です。上記の(1)ー(3)を実践すること、自動的に政府や業界にお金をむしり取られることになっています。早い話が罠なんです。だから、実はこの程度の工夫で結構楽しく生きていけることがわかります。決して、財テクに走る必要などないのです。収入と支出、最大のファクターに対応すればよい。実に明解。

 さて、こんなメッセージを殆どの人はどう受け取るのでしょうか。それは、ちょっと興味深いです。たぶん、殆どの人はダメなんでしょう。


2006年3月 5日

レット・イット・ビー

若桑みどり
主婦の友社: 1400円
お勧め指数: □□□■■

 美術史家の若桑みどりさんのエッセイ集です。10年以上前のものだし、扱っている話題が自伝につながるものが多いです。若桑さんはずっと美術史教授だろうと思っていたのですが、語学教師として20年以上も生計を立てていたのですね。しかも、二人の息子さんを女手で育てている。そんな環境だったから、嫌らしい感じのしない骨太な美術解説をされるし、フェミニズムについての発言も多いのでしょう。イコノグラフィーの本を読んでいるだけではわからない一面を知ることができました。

 芸大の音楽科で語学教師を20年以上しているのならば、その間に美術史家としての業績を積んだことになります。それはスゴイ。日々の雑事にかまけ、時間がないという言い訳でなにもできないまま歳をとってしまい、あぁ運が悪いなぁ、と現世を恨むのが普通の人です。嫌なことが多い日常だったのでしょうが、それでも結果をしていく。その結果は甘いものになるはずはないでしょう。

 絵は何年も生きてきた人でないと理解できるはずはない。だから、子供にはわからないのだ。そう主張されているところがあります。子供にもわかるのは生物学的な「色彩」の世界でしょう。いわゆるグラフィックデザイン。現在でクリエーターと呼ばれる人たちのつくる雑誌紙面は綺麗ですけど、質量を感じるもものがないのは、子供でも理解できるものだからでしょう。芸術にはならないのかもしれない。

 この本のタイトルは、齢を重ねるときに噛みしめる「生きるコツ」なのかなと思いました。


2006年3月 4日

ラテン語の世界

小林標
中公新書: 860円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ラテン語についての紹介。「そもそも」論。言葉の由来、単語の由来などが紹介されている。英語なんぞ、ゲルマンのアングル族のものではないか、という気分になれる。

 なぜ、α、β、γがa、b、cになるのかよくわかった。γはGに対応するのにCなのはなぜか。KやQと機能が似ているのはなぜかがわかった。普段「そういうものだ」としていたことが、なぞときのように理解できるものだ。結構楽しい。

 「赤毛のアン」がラテン語にぶつくさいっていたことを思い出す。非常に難しいものなんだろうと思っていた。たしかに覚えることがたくさんある。しかし、それは「形式=意味」を保証するための「システマティックな方法」なのだから仕方がない。動詞や名詞の変化は、プログラム言語以上に「WELL-DEFINED」な感じがする。合理的を言語で表現すれば、ラテン語のありようといえるかもしれない。

 ラテン語をもっと知りたい。そんな気にかりてたててくれる本。

2006年3月 3日

神々の沈黙

ジュリアン・ジェインズ
紀伊国屋書店: 3200円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 衝撃的なことを知った。なるほど、確かに古代世界の人は「意識」がなかったといえるのかもしれない。この本は、文字が発明される前、言葉が十分に発達し、使われるようになる前までは「意識」は人に存在しないかったという主張なのだ。そして、その主張はこの本を読むことで「なるほど」と言えるくらい「確からしい」ものに思えてくる。

 無意識と意識とにそれぞれ人格があり、意識をもっているの文字通り「意識」をつかさどっていると言われるところであって、それは実は左脳と比較して「大きなことを」をしている部分ではないということ。言葉を理解する(入力)といわれている脳の部位にウェルニッケ野がある。これは左脳にある。では、脳は左右対称になっているため、ウェルニッケに該当する部分の右脳にあるところは何をやっているのだろうか。

 そもそも、右脳と左脳をつなぐラインに疾患が生じると、別々の人格を持ってしまうという臨床例もある。たとえば、靴下を履こうとしている行為と脱がそうとしている行為が「同時」にあらわれてしまうような症状である。それは、右脳だけでも問題なく生きていけることを意味している(筋肉の動作といういみではなく、思考という意味である)。

 もし、言葉がなければ、いわゆる「思考」と呼ばれていることはどこまで可能なのだろうか? ひょっとしたら、ことがない状態で考えていることを「無意識」と読んでいるのではないか? その場合、脳の左と右とは大きく機能分化はすすんでいなかったのではないか。それならば、何かをしようつするとき、「声」として右脳の意図が左脳に伝えられたとしてもなんら不思議はない。この声を「神」とよんだのだろう。

 言葉・文字を獲得し、無意識から意識が生じ、「神」の声が聞こえなくなっていく過程が旧約聖書の成立なのだとする著者の発想は、実にうなづける。言葉を持たないから子供の頃には意識がなかったのかもしれない、などと想像してしまう。意識について考えるときに、一つの柱になる考え方を提示してくれる本である。


木村伊兵衛 昭和を写す 3人物と舞台

木村伊兵衛
ちくま文庫: 840円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 モノクロの写真集。写されているのは昭和。どちからといえば戦後。被写体は画家・作家・俳優・職人・舞台芸人。スナップ写真なのだが、吸い込まれてしまう。文庫本だから画質がどうこういうことはない。夜10時頃渋谷を通過する電車だから、車内は喧騒。だが、木村さんの写真を見ていると、無音になる。

 芸者さんの写真があった。言葉で表現できない。かわいいと美しさ。なんでこんなしぐさをとらえられるのだろうか。一方で、岸恵子や山田五十鈴がいまだにもてはやされる理由もわかった。正直、ときめく。あの時代ならば、私も憧れたであろう。

 ただいま現在に縛られるのはつまらないことだ。そんなことがわった。


2006年3月 2日

喪失と獲得

ニコラス・ハンフリー
紀伊国屋書店: 2500円
お勧め指数: □□■■■ (2)

 言葉をよく話せない自閉症の子供が書いた絵がラスコー洞窟の壁画と同じであるという事実をもとに、言葉を獲得することで喪失したものを考えてみるというエッセイにちなんだ書名である。それ以外にも多くのエッセイが掲載されいている。ところかこの本は、タイトルとなったエッセイ以外は面白くなかった。内容以前に、日本語としておかしいのだ。もっとも、哲学系の本によくありがちなことではあるのだが。

 確かに、自閉症の女の子が書いた絵は、みればみるほど、ほれぼれするほどラスコー壁画と同じカテゴリーにはいる。どうしてなんだろうと、と不思議な気持ちが湧き上がる。ところが、この子は言葉を獲得すると同時に、このような絵を描かなくなってしまったそうだ。頼べば描いてくれるとのことだが、ラスコーの雰囲気は消えてしまったそうだ。

 ラスコー洞窟のような壁画を描いているときは、描くことで完了する好意を行っていたのだが、言葉を獲得したあとは「意図」が入り込んでいるとのこと。象徴するという概念を獲得すると、もう絵が描けなくなったのだ。確かに、言葉を獲得することは、意図を象徴する方法を獲得することの最たることだ。

 それが意識の始まりではないか。言葉を獲得することは象徴する能力を劇的に拡大させるものであるからだ。象徴とは「自分の考えていること」を自分で意識していることにほかならない。記憶がフィードバックされ、意図が意図を有無ループが発生したことで、意識ができるのかもしれない。そのためには、言葉が決定的なのだろう。