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2007年5月27日

Lifehack with Mac

こもりまさあき
BNN新社 2200円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ちょっとおしゃれなMacのアドバイス集。綺麗なグラフィックデザインを仕事としている人だけを対象としているのではなく、Macをつかう人全てが対象であろう。単にMacが好きな中年にも参考になる。いろいろ感心したのだが、とくに次の2点を知ったことには感謝している。quicksilverというランチャーとRSSのアグレゲーターの利用法。とくに、RSSについてはブログを大量に見て回る習慣がない人にはなじみが薄いはずなので、どうしてそれが必要なのかを垣間見ると多いに感心できるでしょう。だから、世間で騒がれる(というか、書店のコンピュータ関係のコーナにRSSの本がたくさんある)わけでだ。

 まず、QuickSilverについて。MacOSXを初めてみたときにDocに感心したせいか、Docを使ってソフトを起動するものだと素直に思い込んでいた。使っていくうちにソフトが増え、Docに格納できなくなるとアイコンサイズを小さくしてなんとか画面に収まるようにしていた。それでも、たまに立ち上げようとしたソフトの隣のソフトを誤ってクリックして「あーぁ」と思うことは結構あって、なにか良い方法はないものか。そう思っていたのでQuickSilverを知って助かった。もっとMacを楽しく利用できる。
 具体的には、このページと同じ程度の知識が掲載されていると思えば良い。

マイコミジャーナル【コラム】クリエイターのためのライフハック

 QuickSilverをちょっと利用してみた結果、今はDocには何もアプリを登録していない。

 つぎに、RSSリーダ。RSSでサマリを含むサイトの更新状況が記載されいているXMLファイル。それを読み込めばそのサイトを読みに行くべきかどうか判断する目安になる。そういう言葉は知っていたが、それがどのように便利なことができるのかまでは想像できなかった。
 最近、特定の単語(技術だったりしますが)を含むサイトを見てまわる機会が増え、なんかよい方法はないかと思っていた。この本を読んでいたら、その解決方法がでていた。なんとありがたい。Technoratiというブログ検索サイトのウォッチリストという機能をつかって検索した結果ページのRSSをハテナのRSSリーダーに登録しておくという方法なのだが、これこそ知りたかった方法なのだ。検索結果のURLではなく、RSSフィードを登録しておくというところに「なるほど」と感心した。そうか、RSSはそうやって使うのか。普段から使っている人には「なにを当たり前な」と思うでしょうけど、知らない人には感心の対象になる。この読書メモにもフィードのリンクを張る機能があったのだけど、削除してある。何につかうかどうかが不明だったからなのだが、復活させてみよう。


 ところで、Lifehackという用語は最近一般的なのかな。中身を分解してその仕組みを理解し、よりよい結果を生み出せるよう改変を行う。もともと機械やシステムを対象とした用語であったはずだが、最近はLife、すなわち「人生」にも適用範囲が広がっている。『〜Hack』というタイトルのコンピュータ関係の洋書シリーズがあるが、あれから持ってきているのだろうか。なんにせよ、分からんことは勉強したほうがいい。それには、調べて理解して使ってみることが早道なのだから、まずはLifehackという単語に注目してみてみよう。

量から質へ転化するか

 一体何冊読んだのだろうか。ちょっとばかり本棚に本がならんでくるとうれしくなる。うれしいから、読んだものを全部思えておこうか。そのためには、記録をとればいい。ノートから、エクセル、データベースへ。素人だから感想程度のメモしか書けない。それでもないよりはましだろう。そうこうしているうちに、500冊目になった。このサイトには最初の100冊分は記録していないけれど。

 amazonでは誰でもレビューを残すことができる。購入しようとしている本にレビューがあれば、一応みる。星がたくさんついてれば、よし買おうという踏ん切りもつきやすい。ただし、その評価は当てにならない。なぜなら、著者など関係者がプラスの評判を書くことがあるだろうし、また、盲目的なファンならば、なんでも良いと評価するから。同じ意味でマイナスの評価も意味がない。ただ、誰かが評価をするほどの本であろう。それは事実なのだが、評価をもとに購入していろいろ失敗すると、どんな評価が信頼できるのかが分かってくるでの、やっぱり読者レビューはあった方が良い。

 どんなレビューが信頼できるのかは難しいのだが、信頼できないのかは一目瞭然。理由抜きの感想であるもの、読んでいて「嫌な気分になる」ものである。冷静な評価ならば「嫌な」気分にはならない。評価者の感情を押し付けてくるか、評価自身が「おれはスゴイ」という結論を遠回しに表現しているものは、要するに無視してよい。現在のところ、そういう結論である。

 さて、この読書ブログはどうか。つい最近まで「やり始めたことはつづけなきゃ」という義務感で綴っていたので、評価記録としては質がわるい。誤字脱字だらけである。どうせ読む人はほとんどいない(1年で300アクセス程度)。また、文章を書くことはほとんどないので、「ですます」にしたほうが良いのか「いる、ある、できる」の論文語尾にしたほうがいいのか揺れていたし、いまでも揺れている。理系の大学をでれば論文は書く機会があるが、それ以外は自分が機会をつくらないと文章など書くことはない。要するに、小学校の読書感想文か遠足日記のような教育しか受けてないである。これは、大抵の日本人と同じ条件であろう。

 この先もずっと読むたび毎にメモを書くと、少しは気の利いた文章を書けるようになるのか。つまり、「量から質へ」と上達してくれるのだろうか。実はそう確信していた。でも、そんなにうまい話でもないようである。『<不良>のための文章術』という本があり、それにはまさに普通の人がおカネがとれるエッセイ程度の記事を書くための方法が論じられていた。努力も気合いも大切であるなどとは一切かかれていない。一番大切のは「視点」。いい人が言いそうなことや常識を諭す、確認するという内容では読むに絶えるものにならない。新聞・雑誌の読者投稿欄を読んでみろ。あったり前のことしか書いてないでしょ。あれはそういうものを掲載しているのだ。良い文章だから掲載されているのではない。あんなものでおカネを撮れると思うのか。そんな内容のものであった。いたく納得した。

 さて、この文章はどうなっているか。実は常識的な範囲でのボヤキになっている。ダメなりに500冊もの本の感想を綴ってきたのだから、普通の体裁の文章ならば綴れるようになれたようだ。誤字脱字は減っていないが、これはどれだけ確認に時間をかけるかどうかでしか減らない。ただし、「全く面白くない」ことが自分ながらに分かってきた。なるほど、良い文章とは日本語の利用方法ではなく、何をどういう視点から書くのか、どんな落ちをもってくるか。それにかかっているようである。若い人でも面白い小説を書くことができるのは、視点が面白いからであり、面白ければちょっとぐらい日本語が整っていなくても大目にみてもらえるのだ。

 本を読んで何を考えるのか。個人的な思い入れなんてどうでもいいことである。ましてや思い出話などくそ食らえ。内容説明や背景説明も出版社にまかせておけば良い。素人ができる情報付加がるとしたら、その人の視点によればこういう点が発見であった、ということであろう。市井の人はそれぞれ仕事も興味も育ちも住んでいるところもばらばらである。ならば、視点をはっきり提示すれば(つまり、〜という視点からは、という話であれば)評価がいくらあっても社会的に無意味ではないだろう。〜が大好きな私からするとこの本はここが良い。そういう個人的な感想であってもいいはずだ。視点が設定されることで、その文章を読む人は「その文章を書いた人は最後まで他人」であるから、読んでいて気持ち悪くなることはないだろう。

 量から質へ転化するか。する、と思いたい。でないと、結構寂しい。2年前はこの程度のことでも書けなかったのだから、少しは正しい信念のようである。

2007年5月25日

まひるの月を追いかけて

恩田陸
文春文庫 500円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 奈良を歩きながらあれこれ考える。初対面の人と自分の異性の兄弟のことについて。コースは奈良の観光名所で、ところどころに印象的な風景をいれてみる。一番良いであろう時間に主人公たちはたたずめるのでうらやましい。行ってみようかとこの本を読みながら考える。『夜ピク』のような味わいがある。

 恩田ワールドは引き込まれると最後までふわふわとその世界にいつづけることになるが、最後が良いもの悪いものがある。夜ピクは良かった。この小説の場合はどうだろうか。私はちょっと物取りない気分がした。恩田ワールドでは最後に落ち無し、という場合もあるのだから、それに比べると良いとは思う。だが、結末はあり得ないでしょ。そういう気分になる。恩田陸、男心は理解していないようである。ただし、編集者はそれを察知したらしく、解説者で落としてくれた。

 『鹿男』も奈良だった。最近奈良が注目されているのか。奈良駅から奈良公園に向かう商店街でなんとなくやられてしまい、あまりよい印象を持っていない土地である。就学旅行はバス移動だろうから、街そのものを歩くことはほとんどないであろう。それでも、小説家にとっての場所設定は大切なことであろうし、読者が雰囲気くらいは知っている場所にすると良いことがあるのかもしれない。

 歩く小説をかく前に、作者は一通りその土地をあるているのだろうか。今日は7時間歩いた。そういうセリフが小説にでてくるが、そんなに歩いた後は、ただ宿で倒れるのみではないのか。想像では移動は一瞬なのだが、体を使うと結構しんどい。この小説が弱いとすれば、落ちそのものよりも、身体的な感覚が伝わってこないことかな。

2007年5月24日

小説を読みながら考えた

養老孟司
双葉社 1600円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 本の紹介エッセイである。まだ小説推理に連載されている。養老孟司の著作を読んでいると昆虫取りとミステリーの話がつづくことがある。どんな雑誌に書こうとも、書く内容は一定の幅に収まっており、それもまた面白いので編集再度も許してくれるのであろう。当然、この本でもそうである。

 たしかにミステリー紹介の話が多いのだが、そのときそのときの評論も結構捨てがたい。科学とは何か、自然とは何かについて時折ずっしりとくる。

銅鉄主義という古い表現があった。外国の研究者が鉄で調べたことを、日本の研究者が銅で調べる。どこが新しいかと訊かれたら、まだだれも銅では調べていませんと答えればいい。いって悪いが、たいていの論文はそれだという気がする。

 はいそうです。論文のようなものを書かないと学生は卒業できないし、職員は評価がさがり首になることがあるからです。背に腹は代えられぬ。そういうことです。ただし、これが蔓延して、研究するとはそういうことだ、と疑っていない人もでてきたりして、せっかくの人生を棒にふる人も多い。
 こんな感じでいちいちどうちょうしながら読んでいると、なんの本だか分からなくなる。それなら、「養老孟司の脱線授業」を受けているのだと思えばよい。

 今回、はっとしたのは佐藤優の『国家の罠』の紹介である。本当にそうだ、とか、外務省はしょうがない、とか、政治は汚い。なんとなくそんな見方しかできなかったのだが、養老孟司は「あれは著者のロマン主義が面白いのだ」という。そんな見方、考えたこともなかった。ドキュメントである以上、その話は本当かどうか、その中での行動は正しいか間違っているかどうか。それを考えることが読者のやるべきことではなく、小説のように「ロマンだなぁ」と思えば良い。

書かれたことが「真実」であるかどうか、それは本の面白さと関係がない。ウソはウソなりに面白いのである。
真実は追究するものだとうことは、あまりのも当然である。しかしそう表現したとたんに、「追求すれば、手に入る」という錯覚に陥る人が出る。なぜなら人にはけちな性質があって、手に入らないものを追求するのはムダだと思うからである。しかし人生には、手に入ろうが入るまいが、ついきゅうするものがある。それを追うことを、私は右にロマン主義と呼んだのである。
佐藤氏の主題は政治と外交である。そうした分野に事実なんぞというものはない。あったとしても、それを人は限られた人生のあいだで、完全に知ることはできない。

 この本はミステリー紹介である。しかし、ミステリーだけでなく、ある種のホントの付き合いかたまで教えてくれる。だから私は養老孟司の本は店頭で見かけたら即買するのである。

2007年5月23日

名もなき孤児たちの墓

中原昌也
新潮社 1500円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 先日読んだ『文学賞メッタ斬り』にも評価が高かった本だけど、私はよいとは思わなかった。良くないでも、普通でもない。ちょっとぱっとしない、でも好きな人が結構いるのだろう、でもない。ダメであり、損したという評価である。不愉快になった、腹が立ったということはない。無害だけでも何がいいのかさっぱりであった。

 言ってみれば「現代美術」のような感じがする。抽象画には意味はないが、雰囲気はある。そもそも好きな色というものが存在するし、模様にも感じが良い悪いはある。一方、便器がおいてありこれがアートだというような物は、詐欺と紙一重である。構成すら放棄して全くコストがかかっていないものを「大切にするべき価値がある」と主張されても困る。素人だから仕方ないと言われても、裸の大様ではないのだから、感じたことを評価するよりない。そして、この本も私にはそれと同じにしか見えないのだ。

 しかし、野間文芸新人賞をとっているし、芥川賞の候補にもなっている。そして、わたしも尊敬する書評ができる人たちが推しているのだから、きっと良い本なのだろう。であるはずだ。しかし、私は価値を感じなかった。私にはこの良さがわかるまで掛かるであろう時間がもったいない。別の本が山ほどあるのだし。小説という形式が好きな人はこういう「だらだら煩い言葉の垂れ流し」に価値を見出すのだろう。これまで普通に本好きなのだろうと思っていたが勘違いだったのかもしれない。普通に小説の中身が好きだったのだ。この本を読んでみてはっきりした。

 自分が全く理解できないことが平然と転がっている。当たり前なのだが、それに気がついた。ただし、不愉快な気分にはならない。冒険したい人は読んでみてもよい。ただし、まずは書店で立ち読みしてからのほうがよいだろう。

2007年5月22日

ザ・ゴール2

エリヤフ・ゴールドラット
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 ビジネス書を読む動機はなにか。目前に困ったことがある人が参考にする、ではない。それでは間に合わない。おそらく、困ったことが起きたときに対応できるような知識・行動様式を身に付け、その時点で活躍できるように準備する。社会人になってから、ひとから強要されずに本を読むのだから勉強の意味合いが強いはずである。しかし、ビジネス書というのは「ファンタジー」みたいなものや「床屋談義」、あるいは、「説教」のようなものが少なくない。サラリーマンの職種は多種多様であるから、全部に当てはまるような表現や教えは、どれもこれもつかみ所がなくなる。それが原因であろう。かといって、つまらない本がよい本だということにはならないのだが。トム・デ・マルコの「デッドライン」のような、小説形式の教えは成功するといかなる教科書よりも面白い。そして、そこで知ったことを元手に、専門書にわけいる勇気が持てることがある。本は読んでいる途中の面白さ、そして、読後に抱く自分の変化の認識具合で評価できる。小説だからということで、読まないのはもったない。

 一連のゴールドラットの本は、まさに良質の教科書である。もともと、著者自身の理論であるTOCの考え方を普及させる起爆剤として小説を書いたのだから内容が的外れであるはずない。なるほど、TOCにはそんな内容も含まれているのか。論理的だけでなく、感情的にも納得できる。第2巻は、思考プロセスについてが主題である。困ったことが起きているときには、まず何をすればよいのか。いかなる分野にも適応できる具体的な行動をステップずつ解説している。問題を把握する、ということ一つとっても具体的な方法はないものだと思い込んでいたが、実は成功する考え方はちゃんと存在しているのだ。なんで、だれも教えてくれないのだろうかと不思議に思うのだが。問題を「2つの命題(あるいは要望)の衝突(コンフリクト)とみる」方法は、はっきりいっていかなる分野、日常の些細な口論や諍いにも適用できる。実際、この小説では子供との言い争いで実践してみせてくれている。「思考プロセス」を意識的に身に付けることは、楽しく生きるコツ、ということだ。

 思考プロセスの内容は本書を読んでみればいい。この本では、その方法の結果として最後に議論される「会社」の存在意義についての議論がユニークに描かれている。まず、会社がうまくいっているときといっていないときがある。うまくいっていないときは、従業員を解雇するのが普通である。それを、この小説の主人公は全く愚かな行為だと断言している。これは、思考プロセスの結果から導き出される結論なのだ。会社が存続する必要条件とは何か。それを次のように定義する。


 (1) 現在から将来にわたって、お金を儲ける
 (2) 現在から将来にわたって、従業員に対して安心で満足できる環境を与える
 (3) 現在から将来にわたって、市場を満足させる


 それに異論はないだろう。そこで注意しなければならないのは、これらは目標ではなく「必要条件」なのだということだ。ほとんどの会社は希望的状態程度としか考えていないだからだめなのだ。

 ”必要条件を侵したら、目標は達成できないのだ。「必要条件」という意味はそういうことなのだ。”

 でも、会社の業績は変動する。うまくいかないとはレイオフしかないではないのでは?という問いに真っ向から反対する。最大の間違いは、人を仕事に「貼り付ける」ことになる。人はリソースなのだと考えれば、業績悪化に対応できる。それは、市場に適応すればよい、というのだ。

 "もし、もっと儲けの大きいセグメントが現れたら、会社は儲けの少ないセグメントからこのセグメントに乗り換える。リソースが柔軟だから、それができるんだよ。セグメントが悪化したら、別のセグメントへ標準を移す。だから、セグメントを最初からすべて独り占めしてはいけないんだよ。"

 変わるものは変わる。伸びたらかならず減少する。こんな状況に見舞われる可能性があるものには、リソースの柔軟性からくる対応方法は有効である。会社活動にかかわらず、個人の生き方にもつかえる。

 思考プロセスをつかって、上記命題を導きだす様子がこの小説で体験できる。理論や知識を知っていないと手も足も出ない、ダメなミステリーのような筋ではない。だれでも出来そうなことをステップを踏んで導き出す。ならばこの方法が、私がかかえている問題に適応でいないことはないだろう。そう思え、そして行動するように導く良書である。読めて運がよかった。


2007年5月20日

塩野七生『ローマ人の物語』スペシャル・ガイドブック

新潮社出版企画部編
新潮社 2000円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『ローマ人』が終わっても未だに余韻が残っている人は買ってしまうでしょう。これまでの要点をビジュアルに紹介し、対談とインタビューで構成された本です。面白くしようという編集者なりのサービスも含まれているのですが、それはちょっと子供っぽい感じがするものでしたが。

 15巻あったはずですが、この本で印象深いトピックを1,2ページで紹介されると内容を思い出します。ローマ人については1度ずつしか読んでいなくとも結構覚えているものです。数行の引用でもその巻を読んだときを思い出すことができます。そこで思うのです。15巻あって、それの内容をあれこれ考えながら、そして感心しながら、書いてくれた塩野七生に感謝しながら読んでいたらずいぶんと時間がかかりますが、それでも一瞬で思い出せる。頭の中に入ったものは一瞬に前後左右、連想を含めて視点を移動できます。自由に散策することができる、という感じです。すると、15巻あっても短い気がします。あっという間に読んでしまった、という間違った印象すらもってしまう。記憶って面白いです。そして、それが勉強するって面白いという本当の意味です。これで、人生みたいなもんです、多分。一生かかって体験したこと勉強したことを頭の中では一瞬で泳げるのです。そして、最後に「人生はあっという間だった」と感じる。

 もう、塩野七生の物語を読めないのかと思ってすこしがっかり。でも、そんなことないことに気付きました。確かに新しいものは読めませんが、それでも「読み返す」ことができることに気付きました。いや、アホかと言われるでしょうけどが、全体のイメージは覚えていても一行一行は記憶していません。好きな映画は数回程度の繰り返しならば十分面白いです。映画は2時間ですが、本は時間がかかります。塩野さんのローマ人をまだ1から読んだとしても結構時間がかかる。ならば、まだまだ楽しめるということです。

 ローマとフィレンツェへ行った人は結構いるでしょうけど、レプティス・マーニャやティムガットといった北アフリカの遺跡、コンスタンティノープルやパルミラなんかへ行った人は珍しい、というかほとんどいないでしょう。私も行って見たい。行けるかどうか、これは運次第ですが。でも、そしたらもっと面白い気分で本をさらに読み返すことが出来る。要するに、この先でも状況を整えれば「読むものがない」とはならない。

 本との出会いは財産ですね、本当に。


2007年5月18日

プロフェッショナル進化論

田坂広志
PHPビジネス新書 800円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 このタイトルは「ウェッブ進化論」を参考にしたんだろうと思うのだが、内容はこれまでの田坂本と違和感なくつながっています。読み始めの部分のフォントが大きいので失敗したなかと思いましたが、メッセージは明確だし事例も理解しやすいしで心温まるビジネス本だと思います。この人の本でビジネス詩集なる世界が創造されたのですから、生き延びるためには相手をだまして殺せてきな競争がベースにあるような世界にうんざりしている人には是非お勧めです。

 今後のプロフェッショナルはどういう方向に進むのかがテーマです。順序だって未来を予想し、それに適応したプロフェッショナルの姿がこの本で描かれていますが、そのなかで興味を持ったものは「ブログ」というか文章(あるいはメッセージング)のあり方についてです。

 あるアイデアを言葉にして伝えるのは難しいことです。なんで分かってくれないのだろう。そう思うことは誰しもあると思います。そこで、ロジカルシンキングとかロジカルライティングが求められたということですが、それでは足りません。相手が人間である以上、興味をもって貰えないとどんな方法をとっても「無理」というもの。そこで、物語の能力が問われるというわけ。

”すなわち、様々な情報の中から、意味のある「物語」を感じ取り、そして、その「物語」を魅力的に語る能力である。英語で「ストーリーテリング」と呼ばれる能力でもある。”

 そうなんですよね。理科系だろうがなんだろうが、人を相手にするときって物語として語れるかどうかって結果にすごく影響します。だいたい、人が話を理解する時点で物語を無意識に探していますし、それを覚えるときにエピソードとして面白いと残りますから。論理は相手を選ぶから、今一これ味が良くない。

 ストーリーテリングをどうやって鍛えるのか。そんなの無理じゃないか。

”「師匠」を見出し、「私淑」し、その仕事から「知恵」を掴み取る。

 やっぱりそれしかないか。書生ができる時代でも、そんな年齢でも、あるいはそういう人もいないのが普通ならば、仮想的に「この人を師匠としよう、弟子入りさせてください」とするよりない。フリークというやつです。この人の作品が好き、ファンになった、いや超はまっている、という具合に特定の作家なり芸術家なり教師なり先輩なりを崇拝することはありますが、その続きということでいいのかどうか。

 まぁ、崇拝するというよりも「研究する」という態度をとるのでしょう。好きな作品を「なぜ、それがよくできているのか」観察する、考える、まねてみる。そういう具合的な行動にでよ。そう理解します。好きな人の本を読んで終わり、ではなく何度も読む、全集を読む、自分でまねてみる、そういう行為なのでしょう。修・破・離。基本はそこにありということ方法は昔から分かっていた。それを個人が再発見すればいいだけです。なにより、やってみるしかないか。

2007年5月16日

文学賞メッタ斬り 受賞作はありません編

大森望・豊崎由美
PARCO出版 1200円
お勧め指数 □□□■■ (3)


 芥川賞と直木賞の候補作を中心とした小説評論。あれやこれやの話は、小説をあまり読まない人にとっても、ふーん、という気がすると思う。なんだか小説でも読んでみようかという気になるだろう。国語の授業のような「解説」のような評論がまじめな小説好きの人には好まれるのだろうと思い込んでいたが、そうではない人の方が多いのかな。あるいは、この2人が普通と変わっているだけで、この論評のスタンスが普通じゃないのかもしれない。

 このシリーズは前のものも読んでいて、そこでお勧めだった小説を買ってみたが、全部あたりだった。だから、今回もお勧めは購入してみた。中原昌也「名もなき孤児たちの墓」、佐藤多佳子「一寸の風になれ」。書店で平積みされていたので、きっとおもしろいのでしょう。だからといってすぐに買うことは普段はないのだけど。

 この本には「小説が読める人」という表現がでてくる。文字を読み、内容を理解するというレベルではなく、言葉で表現されているものの意図のようなものまで自然と感じ取る能力についてなのだろうか。そういえば、須賀敦子かだれかの言葉で「まだ、読めてない!」と生徒を叱ったことについての話があった。読めている、というのはずいぶんと難しいことらしい。クラシック音楽好きの人が演奏家ごとにその違いを聞き分ける能力に近いのだと想像するが、そこまで聞き分けられるとよいのかわるいのか。小説読みも同じではないか。

チェンジ・ザ・ルール

エリヤフ・ゴールドラット
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 メッセージがはっきりしている。

”{新しいテクノロジーが価値をもたらすのはどういう時かな?」スコットが訪ねた。「新しいテクノロジーがメリットをもたらすのは、新しいテクノロジーを用いてこれまでできなかったことができるようになった時、つまり既存の限界を超えることができた時だ。単純な常識だよ。」”

”それまでそこに限界が存在してきたことを意味する。その限界と長い間、共存してきたということだよ。どうやって共存してきたかだが、わかるかい。限界の存在を認識したら、それに合わせて習慣、評価尺度、ルールを作ってきたはずだ。」”

”新しいテクノロジーをインストールして、そのメリットを享受するには、それまでの限界を前提にしたルールも変えなければいけない。常識だよ。”

 著者の考えのコアを登場人物が重要なシーンで口にさえる。劇的な演出であり、また、よいアイディアを授業で聞いたときより印象深くすり込まれる。これ以上のことは体験するしかないであろう。そう、TOCという理論を機能させるERPとうコンピュータシステムをダシにして、組織の活動の問題についての一解法を提示している本なのだ。小説という方法は授業よりは効果がある。

 人間はなにかと適応する。困ったことがあっても、イヤなことがあってもずっとそれが存在しつづけるならば「認識」できないようにしてしまう。あるのだけ、気がつかないようにしてしまうのだ。組織内の問題も同じ。大きな問題であっても、ずっと一緒にいて、それが当たり前だとすると「注意が向かなくなる」のだ。空気のようなものになる。そこに、その問題の根源にメスを入れ、問題でなくなるような処置を新技術によって行ったとしても、人の行動はかわらない。そして、それに気付かない。外部の人が注意しても、そんなのは大切なことではないとされ無視される。

 では、どうすればよいか。答えは冒頭の引用にある。問題がなくなったら、人間の認識、これまで普通とされていた生き方やり方(つまり、ルール)を変える必要がある。とくに、何を善とするのかという価値についても変更しなければ。ただし、そんなに簡単にいくわけないじゃないか。

 そもそも論。なぜ、皆さんは自分の作業の効率を上げようとするのだろうか。プロセス全体から考えると、各自が最善の努力を目の前の仕事にすれば、全体も良くなると考える。それはなぜなのか。この小説に、解答があった。


”こうした限界がある中では、組織ができることにも限りがある。それぞれの部門、部署、ワークセンターごとに、自分の目の届く範囲で最善を尽くす。それ以外に方法はない。要は、部分最適化をベースにしたマネジメントをせざるを得ないということだ。”

 そうだよな。いままでは「仕方なかった」というわけだ。パレート則やオッカムのかみそりという考え方は、TOCの前では色あせますね。

2007年5月14日

クリティカル・チェーン

エリヤフ・ゴールドラット
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)


 生産スケージュール問題におけるTOCの考え方をプロジェクト・マネージメントに適用する活動を例にした小説なのだが、そういう背景を忘れても「小説として」十分成立している。理論を具体的な言葉で説明することに長けた人の話は、聞いているだけで「分かった」気になる。単に、小説を読んだだけに近いのだが、勉強してしまった感じがする。

 TOCについては、『ゴール』を読んでもらうのが一番よい方法でしょう。単語による定義を記憶するよりも、人の活動を通して「全体として」TOCの意図を理解できます。その、TOCですが、生産管理の現場以外にもいろいろ適用範囲がある、と著者は語りたいようです。というか、いくつかの工程を順番に実施してくか、並列に実施していくか、というモデルに置き換えらるプロセスはTOCが適用できるのですね。それを、「プロジェクト・マネージメント」という問題に適用してみました。「クリティカル・パス」が「クリティカル・チェーン」という概念に拡張されて説明されています。

 あるものごとを見る別の見方が提示されています。物語のなかにふんわりと入れているのですが、著者からの明確なメッセージであろうと思います。例えば、相反する必要条件を解く一つの方法に、オプティマイゼーション(いわゆる最適化)があります。この本では、「あれは、最適化ではなく妥協だ」といっています。よくありますよね、相反する要求を満たすには両者を天秤にかけた「トレードオフ」が必要になる、というような話を。そして、どのようにトレードオフするかは、何かを「最適に」するような方法をとるのがよいというが一般に信じられています。私もそう思っていましたくちです。しかしです、この本ではちがいます。それは、「相反する2つの必要条件を受け入れるのではなく、そもそも2つの必要条件がおかしいのではないか?」と疑ってみよと勧めています。なるほど、よくよく考えると矛盾する必要条件なんてとる必要はない。良く考えれば、べつの必要条件のセットがとれ、それらは矛盾しないものを選べることがあると。

 TOCの考え方に関係するのですが、おかしなものはもう一度前提を疑ってみたほうがよいということです。そもそも、活動の目的は何か? どうすればそれをみたせるのか?(スループットを上げられるのか?)ですね。コストを下げる、競争に勝つとか、そんなのは目的たりえない。ちょっと、自分の普段の行動にも適用したくなります。

2007年5月 9日

NASAを築いた人と技術

佐藤靖
東京大学出版会 4200円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 異なるキャラクターをもつ組織が一緒になると発生する古くて新しい問題についての博士論文を一冊の本として出版されたものである。宇宙開発の組織も他の世界にある組織と同様、人間臭い問題でもめるのだ。人間だって個性はあるのだが、それが集団化すると「自分に個性があるのと同様、他人にもある」という認識をもっているわりに、自分の所属集団の特徴を先鋭化させてお互いもめるという行動に発展する。NASAは発足当時がそうだったし、日本は今やっている。

 少し長いが引用してみる。


 "シェイは、持ち前の工学的才能と情熱で、各センターの関連業務すべてを自らの管理のもとに置こうとした。部下を使って可能な限り多くの情報をセンターから吸い上げ、可能な限り多くの技術判断に参画しようとしたのである。こうした状況があって、フォン・ブラウンは、シェイが「手に余る」仕事を抱え込んで各センターの技術能力を「破滅」させ、各センターをNASA本部の単なる「支援会社」の地位に追いやろうとしている、というようになった。もちろんフォン・ブラウンもNASA本部が各センターを監視する立場にあることは分かっていた。しかし、彼にしてみれば、シェイがマーシャルに割り込んできて、マーシャルの一丸となっての集合的営為を脅かしているように思われた。

 シェイとフォン・ブラウンは、根本的に異なる技術観をもっていた。フォン・ブラウンは、時を経ることによってのみ育つ、言葉や数式では表現しきれない技術実践こそ価値があるものと考えていた。一方シェイは、あらゆる技術アプローチや技術判断は言葉と数式で明示的に表現でき、はっきりと説明・伝達されるべきであり、実際の場面で技術者が技術的内容を説明・伝達できるかどうかはひとえにその人物の優秀さいかんにかかっている、という考え方をとっていた。「君が理解しているなら、僕を理解させることはできるはずだ」といういう彼の格言が、そうした彼の信念を端的に荒らしている。”

 この箇所を読んで気がついた。「バカの壁」である。話せば分かると思っているシェイ。自転車の乗り方やラーメンの微妙な味の違いについても同じなのだろうか? それは技術ではない、という人もいるだろう。しかし、技術のなかにも「言葉表現できない」レベルのものがある。対象が複雑であれば、簡単なモデルにはならない。それでも、その対象を扱うことができるのならば、その人は「言葉で表現できないこと」を用いて作業しているのだ。そして、それが技術的な問題の根底にあったりすることがある。結局、シェイの発想はシェイに理解できることにしか適用でない。真っ暗な道で落とした鍵を探すとき、街頭の下だけを歩き回るのと同じことになる。

 このタイプの問題は、宇宙開発だけに限ったものではないようだ。当事者の回顧録やインタビューなどをいくらよんでもこの本のようなレベルでの把握は無理だろう。部外者の冷静な目。日本もアメリカも、おんなじ事をやっているなぁということに気付けば、もっと科学史や技術史を読みたくなるはず。


2007年5月 8日

<不良>のための文章術

永江 朗
NHKブックス 1218円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 普通に高校・大学を卒業した人が文章を書くと、なぜつまらない、もしくは恥ずかして我慢しがたいものができ上がるのだろうか。書き言葉と話し言葉は違うとはいえ、なぜ新聞雑誌の読者投稿欄やブログの文章は素人っぽいのだろうか。

 それはたぶん、表現方法が未熟だからだ。てにをはをはじめ、主語述語、修飾語被修飾語の関係や言葉のリズムについて素人の人は訓練を受けていないからなのだろう。そう、これまで思ってきた。確かに才能の違いがあることはだれだって分かる。訓練のあるなしで絵の上手下手ははっきりと異なるし、楽器などは旋律どころか音さえ出せないから。そうはいっても、言葉は毎日起きている間はずっと使うものなのだから、プロとアマでの違いはもっと狭くてもよさそうなものだ。

 この本には、なぜ素人さんの文章がダメなのかを教えてくれる。素人が下手くそな最大の理由は、文章を「自己表現の道具」として使っているからというのだ。自分以外の物事を対象としているはずが、実際のところは自己表現のための文章になっている。つまり、「自分はこう感じた、こんな行動をした、こんな自分はめずらしいだろう」というものになっている。そんな事例を挙げて、どうすればおカネと交換できる文章になるのか、そのステップを見せてくれている。

 結局のところ何がいいたのか。それが「自分」についてなら自己表現。自分についてではなくとも「どこかで聞いたことある、知っている」ようなことならば、わざわざ新たに書く必要はない。そんな判断はむずかしくない。その文章をおカネを払って読むかどうか、その文章が掲載される雑誌や新聞を買うかどうかで判断すればよい。大抵は、知りもしない人のことなどどうでもいいことなのだ。なるほど。流れるような文章を書く必要も、美しい表現も普通の人にとって大切なことではない。ないよりマシだという程度なのだ。それより、何について書くか、そして実際何について書かれているか。

 では、なぜ自分の書いた文章の悪いところに気がつかないのだろうか。それは自己表現を目的とした文章を読む機会がほとんどないことが理由だろう。新聞雑誌など社会で流通しているのはプロの文章は情報伝達やエンターテイメントを目的としたものである。素人の文章など、そうとうな事がないぎり読む機会はない。だから、いざ自分で文章を書いてもそれがダメな例と比較できないから、自己表現もまた他人が読むに絶えるものだと勘違いしてしまうのだろう。

 書かれた文章は他人の頭で「考えるステップ」を定義したものだろう。読む行為はすなわち考えるという行為である。著者の思考プロセスが読者の頭中で「再生」されるのだ。主観的なものは嫌われる理由は頭の中を乗っ取られるから、ということなのだと思う。人様に読まれる文章を書きたいならば、文章読本よりも何について実際書いているのかを確認するクセだろう。手っ取り早い方法が「客観」ということで、なんてことはない普通のエッセイの書きかたの正当性にたどり着いてしまった。


2007年5月 6日

旧約聖書を美術で読む

秦剛平
青土社 2400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 あれ、この間新刊がでたばかりなのに、また出ている。しかも美術のコーナーに。手に取ってみると、また「挑発的講義」と帯に書いてある。早速購入。

 旧約聖書のトピックスを有名な絵画をつかってお話してくれる。絵画といっても「何を表現している」とかそういう知識を授ける系のものではなく、トピックの挿し絵として使っているだけ。要するに、旧約の話だと思って間違いない。ただし、そこは秦先生、有り難い話とか聖なる話とか大切な教訓なんかを見いだすのではなく、古代の娯楽もなにもない時代の「民話」として旧約を説明してくれる。最近出版される秦さんの本は、だんだん「ぶっちゃけ」トークが強くなり、いつか消されそうな気がするので心配なのだが。

 ふざけた意味ではなく、旧約は本当に「民話集」なんだということが分かります。なぜそれが「聖なる」ものに転化するのか、なぜそれが「道徳」の規律本(教訓を分かりやすくした本)になるのか、まったくもって不思議です。しかも、内容は冷静に考えるとエロい。紀元前なのですから、人の娯楽なってなかった。お話が娯楽だった。だったら、この類の民話が普通大切にされます。だって、他にないんですから。七十人訳でもなんでもいいですが、文章通りよむと放送禁止になっちゃう内容です。どうやって、この話で説教のタネ本にするのか不思議ですね。

 ヨーロッパ文明の基幹をなす資料です。その基幹について、かれらは深く問わないで生きてきた(あるいは目を背けてきた)ことがよく分かります。なるほど、ダ・ビンチならば馬鹿馬鹿しくなるでしょうね。そう思って、ダ・ビンチの絵なり発明なりを見ていくと、なんとなく驚嘆と同時に同情したい気分になれます。

2007年5月 5日

男は3語であやつれる

伊藤明
PHP研究所 1000円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 あやつる、というより、そんなことを言われたらかわいいなぁと思っちゃうという一言を集めた本です。そんなものあるのかなぁと思っていたのですが、(極東ブログ)に書評がでていたので購入。女性向けの本なのだと思いますが、男女どちらが読んでもいい本です。

 読んでみて思うのは、「どうすれば、言葉によってかわいらしさを刺激することができるか」についての探求結果。よく、かわいらしいしぐさ、という切り口で語られるようなことを、かわいらしい一言、にしたというようなものです。著者は心理学についての著作とセミナーを生業としているようですから、それら一言一言に論理的な裏付けをつけてくれています。まぁ、それはどうでもいいかな。

 女の人と一緒に歩いて向こうから犬がやってきたとき、その女の人が「あぁ、犬だ」と言うだけでよい。男の人は「かわいいなぁ」と思うはず。という記述があったのですが、これには笑いました。想像してみてください、たぶんそう思います。そういうものです。それに理由はあまり要らない。あるいは、何か自分が言ったことにたいして「すごいー」という反応を返してくれる。そんな女の人は絶対もてますよ、いろんな意味で。もてる人、というのはこれを無意識にやっている。

 これ、外国でも通用するのでしょうか。是非、作者に研究してもらいたいものです。世界性があり、時代をも超えることができるならばこの本は超ベストセラーになりますよ。


2007年5月 4日

適当論

高田純次
ソフトバンク新書 700円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 テキトーに作ってある本だなぁ(笑)。本人が本を出そうなんて思っていないけど、テレビ番組のように企画したスタッフがいたんでしょうね。本人のおしゃべりで一冊新書は難しいから、和田秀樹との対談(というか、カウンセリング?)なんか入れて、過去の本から適当にダイジェストを入れて、最後に本人についての語りを入れて、いっちょあがり。コンなのありかよ。本の出だしは”いかにも高田純次らしい”コメントがかかれていて、高田純次が好きな私は買っちゃおうと判断したのだけど、失敗だよなぁ。この企画者にやられた。

 今、新書ブームということだからやたら新書が出版されているけど、ビックりするほど質はまちまち。新書を読むという行為は二十年まえなら「勉強する」「1トピックの知識を得る」というものだったけど、今は雑誌程度のものばかりだもんなぁ。エンタメ本を読むのと対してかわらん、心底思っていれば「新書ならば買う」というクセから抜け出せるのに。困ったものである。

2007年5月 3日

明治大正翻訳ワンダーランド

鴻巣友季子
新潮新書 680円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 明治大正の時期、どんな翻訳書がうれていたのだろうか、また、訳文の質はどの程度なのか。大森望さんの本にこの本が紹介されていたので早速購入したのですが・・・。

 日本は漢文をずっと読んでいたのだから外国語からの翻訳というものがあったんじゃないかな。その考えは間違いですね。翻訳しないで「レ点」で読んでしまっていたので。翻訳しょうという発想すらなかったんじゃないか。そもそも、文章が娯楽になっていないのだから楽しく読むなって発想は明治までなったのでしょう。とすると、明治になって初めて遭遇した翻訳、人によっていろいろ態度がとられたのでしょう。そのあたりの苦闘の一端をこの本は紹介してくれています。

 翻訳者にもいろいろいたようで、感動したのは「一回全部よんで、心に残ったことをベースにかいてみました」というような、それ翻訳?、というものもあったようです。本人も「翻訳だとは思っていないが、創作というわけでもない」というスタンスを表明しています。あるいは、外人の名前は覚え難いうということから、全部日本人名に変更してしまうという方法もあったようです。フランダースの犬の主人公は清、犬はブチであったというのは最初の翻訳書ですが、これは「トリビアの泉」で放送されていました。

 他の国ではどうだったんですかね。例えば、アラビア語からラテン語への翻訳なんかでは問題にならなかったのか。中世で学問的なものはヨーロッパから消えてしまって、アラビア語として残っていたものを再度ラテン語、ギリシャ語に翻訳しなおしたものが現在の学問の基礎にあるはずです。まぁ、数学関係は対して問題ないとしても、『アラビアン・ナイト』なんて、問題ないのか。日本語への翻訳のときだけに、おかしなことが起きているわけでもないだろうに。

2007年5月 2日

ザ・ゴール

エリヤフ・ゴールドラット
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□□□□ (5)


 ”『ザ・ゴール』が日本語で出版されててしまうと、世界経済が破滅してしまうので許可しないのだ。”

 そう著者が発言したというプロセス管理の全体最適化の理論の伝導書がこの本。すっげー、おもしれー。なんで物理学者からスケジューリング理論に転向したオッサンが書けるんだろうかとう本である。トム・デマルコの『デッドライン』という本をご存知ならば、スケジューリング理論に関してのそんな感じの本ですよと言えば分かりやすいですかね。

 ”局所最適”ばかりに目が行く人にはお勧めできないでしょう。TOCという理論が母体なんですが、要するに「一見損なことをなんですけど、実際はその方がもうかるんですよ」という考え方を扱っています。魔法でも数学的なトリックでもないです。効率だとか生産性だとかコストだとか、そういう単語に反射的に感情を抱く人には目からうろこを体験できます。というのは、そもそも効率って何?コスト削減って何?という根本から見直しますから。「さおだけ屋」が好きな人には向かないかもしれませんが、それはそれでいいでしょう。全員が知る必要ないですし。

 あるコンセプトをそもそも論に展開して考えるってのは、哲学ですね。大抵の人はイヤがります。理由は、自分が何をやっているのか実は考えている人は少なくて、それに気付くのがイヤだからです。経営と関係なく、一種の人生論として読んでも以外に面白いかもしれない。


2007年5月 1日

特盛! SF翻訳講座

大森望
研究社 1800円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 どんな本なんだろうと思ってぺらぺらとめくってみたところ、翻訳ってそれなりに深い世界なのだと思ったので、つい買ってしまった。「演出家」という視点で「翻訳」をとらえればいいのか。なぜ翻訳がもとめられるか、どんな翻訳を読むと楽しいのだろうかを芸術として考えれば、逐語訳や超訳でいいはずない、と思うのだ。文章の世界にも「演出家」という人がいるのだ。

 深い本だなぁと思って読み進めるうちに、そういうところは初めの部分だけで、残りは大森さんが若い頃(駆け出しから中堅?)に連載していたエッセイを再編集してあるものだと分かったのだが、その時点ではすでに通勤電車の中。ディーブなSFの話をされても困っちゃうのだが仕方ない。読んでいると「ブログ」っぽいのでどうしようかと迷ったが、最後まで付き合って読んでみた。翻訳家を目指す人には有り難い本なのだろうけど、SFの翻訳って日本に二十人いればいいというようなことだから、世代交代を考えても超狭き門なのか。不思議とそれでもうからないようだから、文化事業のような面があり、結局は好きな人が染まっていく職人の世界のか。