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2007年11月30日

街場のアメリカ論

内田樹
NTT出版 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この本も『街場の中国論』と同様、大学での演習を一冊にしたものである。大学では結構面白いことをしているのだなぁと感心する。講義は学校名ではなく教授名できめたほうがいい。

 アメリカ論に入る前に、歴史についての講義がある。アメリカ論自体よりも、この歴史を学ぶときのアドバイスのほうがずっと面白かった。

 今、学校で歴史の授業というと「年号の丸暗記」だと言って生徒さんたちは反発しますね。「年号じゃなくて流れを教えろ」「物語を語れ」と要求する人がいる。でも、歴史を理解するためには、まず出来事と年魚ウを覚えないと話にならないと思うのです。

 基本定理の前に、単語と数値を覚えるようなもの。いろいろなところでいろいろなことが起きるが、それらが互いにどういう位置づけになっているのかをまず知る必要がある。

 大事なことなので、最初の最初に言っておきますけど、歴史における「因果関係」というか、歴史に限らず「原因と結果」を口するに人間を軽々しく信じてはいけません。

 「原因とはうまくいかないものにしかない」。これはジャック・ラカンの至言です。
 

 年号以外にももっと考えることがある。

 歴史には無数の分岐があり、そこで違う道を選んでいれば、今は今とちがったものになっていたということ、これは歴史について考えるときにとても大切なことです。それは歴史を「一本の線」としてではなく、いわば無数の結節で編み上げられた「巨大なひろがり」として思い描くことです。そんなふうに無数の「存在しなかった現在」とのかかわりの中において、はじめて「今ここ」であることの意味も、「今ここ」であることのかけがえなさや取り返しのつかなさもわかってくるのです。

・・・

 ですから、ある歴史的な出来事の意味を理解するためには、「なぜ、この出来事は起きたのか?」と問うだけでは足りません。「なぜ、この出来事は起きたのに、他の出来事は起きなかったのか?」という問いも同時に必要なのです。

 まるほど。前半部分はこのような歴史についての講義があって、後半のアメリカ論よりも私は気に入りました。しかし、こういうことを幼い人に話しても理解してくれるかどうかはわからないので、そのまま歴史の授業で語っても効果がどのくらいあるのかは不明です。

2007年11月29日

街場の中国論

内田樹
ミシマ社 1600円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 大学のゼミ?での講義演習内容をテーマの背景説明とコメントを一冊にまとめた本である。実際、大学生たちがどのような発表をしたのかはわからないが、テーマそのものについての解説はわかりやすい。この本では中国を扱っているが、著者も演習参加者にも中国を専門とする人はいないので、それぞれの「’常識」に照しての中国論になっているのが、市井の私にもとっつきやすい原因であろう。

 内容は、中国の現代史と現代での自治トピックである。文化大革命は国共合作という、言葉だけはきいたことがあるが、それが何を意味するのはよくよくしらべたことがない私にはうってつけのものだった。なるほどと。

 ただし、中国そのものには、ユニクロなどの製造業社やこれらのエネルギーや食料輸入大国としてのポテンシャルということにしか興味がなく、それらも「どうしようもないんだろう」なぁ、程度の理解したもっていない。だから、この本以上に突っ込んで調べてみようとはいまのところなっていない。

 著者は「思い白い本になった」と言っているが、私にはピンとこない。結局、中国に興味をもっていないし、興味もわかなかったということだろう。

2007年11月28日

期間限定の思想

内田樹
晶文社 1890円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 このエッセイでもすこし時事的なものを扱っている。役人の問題だったり、ニートの問題だったり。それはそれで面白いが、こんな話も興味深かった。

 日本の上司は、仕事のできる自立心のある部下より、仕事はあまりできないけど、「課長、おれはどこまでも課長についていきますよぉ」とすがってくるようなバカ社員のほうが部下として好ましいと思っている。

・・・

 多くの上司は、とくに自分の能力に自信のない上司は、「仕事ができて自立心旺盛な部下」を組織的に「バカ」化することにいのちがけになる。

・・・

 社員が仕事を覚えて「使いもの」になりそうな気配がしてくると、ただちに「ふたつのこと」を陰に日向にやんわりとあるいは声高に強制する。それは、「結婚すること」と「家を買うこと」である。

・・・

 妻子とローンを抱えた男性社員は上司にとって、「いくらいびっても、いくらこきを使っても反抗しない」最高につかいやすい部下と化す。

・・・

日本のサラリーマンは半径三メートル以内にいる女性の中から配偶者を見出す。

・・・

企業が既婚女性を排除し、未婚女性を絶えず大量に職場に供給しようと躍起になっていた労務管理上「合理的」な理由はそれだけである。

・・・

つまり「妻子」の重石を男子社員に担わせ、彼らを決して会社に反抗できない「社畜」へと馴致することなのである。

・・・

企業の格が上がるほど、女子社員が美人になる。

 これらのストーリーを古い大前研一さんの本で読んだことがある。内田さんは現代思想の人だから、共通の情報源からの推論ということはなく、単に「本当にそうなんだろう」ということである。

 こういう、身も蓋もないことを言われると社会を見るめが多いに変わる。それが事実かどうかによらず、そう言う発想もあったのかと、「なるほど」とひざをうつ経験が増えるのである。学ぶということが、やめられない。

2007年11月27日

「おじさん」的思考

内田樹
晶文社 1995円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 評論エッセイ集です。まぁ、軽い感じで、読者も普通の人を対象としている。だから、説明は具体的である。例えば、今の日本ついてのくだりで次のような説明をしている。

 明治が起業記で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつもまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、無一文の晩年、というのが近代日本の「人生」である。

 笑ってしまう。もちろん、エッセイだからいろんなテーマがあり、そんなかで若い頃の気付きのような場面にも今の私がいたく共感するようなものもあった。

 というのも、レアルポリティークの場面では私は結局「誰かの尻」についていくことしかできないし、「誰かの尻」についていって、何らかの政治的成果を勝ち得たとしても、それは結局「私のもの」ではないからだ。

 私は「私の政治」というものー私以外の誰によっても構想しえず、私がいなければ決して実現できず、私が完全なる熱狂をもってそのために死ぬことができるような政治行動をーがありうるかどうかをしりかたかったのである。

 結局、全ての人にあるわけではないのだけど、一度はやってみたいという気持ちはある。

 でも、この当時興味をもっていたのは教育の話で、学級崩壊のダイナミクスについても、別の本で紹介していた「消費者」としての子供は学習することができないという話を別の角度から説明している。

 しかし、小学生の段階で「ものを習う」ことを放棄し、「ものを習う」仕方そのものを身に付けずに大きくなってしまった子供は、長じたのちも「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」をうまく習得することができない。対話的、双方向コミュニケーションの仕方が分からないからである。

 彼らは長い時間人の話を注意深く聞くことができない。人にものを教わるときの適切な儀礼(表面上の恭順さの演技)ができない。なによりも、教える相手に「自分が何を理解していないか」を理解させることができない。この子どもたちが「学級崩壊」の主人公たちである。

 要するに、彼らは「自分がしらないこと、自分に出来ないこと」をどうやって知ったり、できたりするようになるのかの「みちすじ」が分からないのである。

 だから彼らには「自分がすでにしっていること、自分がすでにできること」を量的に増大させる道しか残されていない。

 小学校の学級崩壊だけでなく、大学で勉強しない学生や、意味不明な若い社員にも全部に共通することである。かれは、学習する能力が本質的にない。ということは、そもそも教えることはムダなのだ。

 では、どういうものが大人なのか。それを内田さんは「夏目漱石の小説」という切り口から紹介してくれている。どういう人が師匠になるのか、大人になるとはどういう意味か。明治期にどうしていいかわからない若者に対するメッセージとして漱石は小説を書いた。そういう話である。

 小説の起源の一端を知った気がした。内田さんの本が何故面白いのか。それは、ものごとの「起源」を真摯に問い、それを考察してくれるからであろう。結構忍耐ずよい「哲学能力」がないとなかなかたどりつかないものだ。そういうものを読める自分は幸せであるが、一方でそれでは自分の哲学にならないとも思ったりする。最後は自分で考えないとだめだ。この人の方法をつかって、自分の身時かなことについて考えてみたい。そう、思った。

2007年11月26日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春新書 690円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 なるほど、構造主義とはそういものだったのか。大学生のときは現代思想なるものに少しは興味をもち、本など読んで見たのだが「さっぱり」わからんかった。私は理科系だから、文系の人のように考えることができないからなんだろうなと割り切っていた。頭が悪いと言われるのがしゃくだったから。

 でも、この本を読んでなるほどなと。オレにも分かるじゃないか。

 世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっています。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたは四十年ほど前、一九六〇年代のことです。

 これ、ひょっとしたら「わかるかも」と思わせてくれます。構造主義は、マルクス、フロイト、ニーチェ、それから、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンと続いていきます。聞いたことある名前が多い。高校、大学で読んで見たがさっぱりという人の名前が躍っています。

 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。

 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけでない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

 あー、わかった。なんだ、構造というのは私の思考の舞台を取り巻く「構造」だったんですね。すでに構造があって、そのなかで考えている。だから、そこでの考えは、その構造のなかで「ありえる」考え方でしかないわけだ。なんだか、宇宙論のような考え方です。

 この考えは、人が「考える」場面の至るところで顔をだすはずで、すでに部分的に気がついた人もたくさんいるのでしょう。別の名前がついているかもしれない。なるほど、構造主義というのは一時代を形成したわけで、今は「それ以後」という意味になっている。理解できました。

 内田さんの本を読めば、もっといろいろ分かるかもしれない。

2007年11月25日

下流志向

内田樹
講談社 1400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 長年気になっていたことが解けました。人生に消費者として登場する子供の悲しさですね。私はこの本で懸念される世代ではないと思っていますが、間違いなく片足を突っ込んでいることは確かです。自分が「買い手:お客」になったら、年齢を問わず大切に自分を扱えと要求できることで、また、実際そうされる。ころを幼時のときに経験したら、人格の成長はそこでストップし、もう復帰する見込みはない。

 「ぼくは買い手である」と名乗りさえすれば、どんな子どもでもマーケットに一人前のプレイヤーとして参入することが許される。その経験のもたらす痺れるような快感が重要なのです。
 幼い子供がこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子供たちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子供たちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取りしようとします。彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、ふところ手をして、教団の教師をながめます。
 「で、キミは何を売る気なのかね? 気に入ったら買わないでもないよ」
 それを教室の用語に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」
という言葉になるわけです。

 なんと、そうだったのか。それが、「なぜ、勉強するのですか?」という問いが発生するメカニズムなのだ。昔、金八先生という番組で「女がなぜ勉強するのか」ということで騒ぎを起こすという話があった。当時、私も中学生か高校生だったが、「そんなことを考えたことなかった」のである。その質問をしている学生は「要するに、勉強したくないということを言っているのだろう」と思っていた。まぁ、だいたい当たっていたのだが。

 この質問にはどう答えるべきか。いろいろ工夫して、「〜だから勉強した方がいい」と答えるのは絶対にダメ、なのだそうだ。

 学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。

 しかし、このような学びのプロセスは、「教育サービス」を購入するために「教育投資」を行う消費主体としての自らを確定した子供には理解不能です。

 そうだ、まったくそうだ。なぜ、学ぶ前に学ぶことに「意味」を知ることができるのか。学んだあらその人は「変わってしまう」とことを知っていれば、学んだ後のことを学ぶ前に評価できるはずはないではないか。

 子供は大人と対等ではない。対等ではないから学ぶのであって、年をとれば対等になるわけではない。実際、学べなかった人がたくさんいるではないか。モンスター・ペアレンツなどはその典型なのだ。

 ここで、一つのことが理解できる。買うという経験をする前に、学ぶという経験をしておく必要がある。これは、絶対だ。数十年前は社会的に当然そうなっていた。お小遣いを貰って何かを買うよりも前に、いろいろなことを教わっていたのだ。学ぶ経験が一つであれば、その後「学ぶって、どうやったっけ」と思い出すことができる。

 しかし、一度も学んだ経験がないと、学びようなどないだ。消費者が学ぶことは、もう出来ないのだ。

 この事実を知った。私はどうだったのだろうか。そして、なぜ、今の学生さんは退廃しているのかよくわかったし、教えるには教えることが可能な人を選定する作業が必要になることも分かった。実に示唆的な本だった。

2007年11月23日

ためらいの倫理学

内田樹
角川文庫 629円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ウェブに発表された論文(エッセイ)を出版したもので、内容は戦争について、性(というはフェミニズムは嫌いということ)について、そして、教育について。読書メモを備忘録として載せている私からみると、すごい質のものをのせているのだなぁと驚いてしまう。結局、ウェブの質は物書きレベルの人がどれだけ好意でのせてくれるかによって大きく変わるんだろうということを思い知った。

 著者は現代思想の研究者であるから、さすがに評論も「哲学」になっている。私の意味では、語るテーマについての起源を考察し、そこから演繹的に良いこと悪いことを導き出しているということである。こういう行為は、私は畏敬の念を持ってながめるよりない。だって、オレじゃできんもん。

2007年11月22日

バカにならない読書術

養老孟司+池田清彦+吉岡忍
朝日新書 740円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 かなりつまらない鼎談。メンツはいいのだけど、紹介された本を読んでみようという気分には私はならなかった。もし、この鼎談だけが出版されたら売れないです。だからこそ、前半に養老先生のエッセイが入っているのだろうと想像する。

2007年11月21日

養老訓

養老孟司
新潮社 1200円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 しばらく養老先生の本は出版されないのかと思っていたら、店頭で見かけたので買った。どうやら講演をおこしたもののようだ。

 講演を聞いている人には、なぜか苦虫をつぶしたような表情のじいさんがいるそうだ。みんながわらってもぴくりともしない。なんで、いるんだろう。そういう人。講演だけでなく、社会にはそういう人結構いる。だから、私は電車などではじいさんからは「なるべく離れる」ようにしている。

 そういう人の不機嫌の原因は、私の想像だが、自分が尊敬されていないからだと思う。赤の他人に尊敬を求めるのはかなり苦しいことだと思うのだが、しかし彼らは「年上なのだから尊敬しろ」ということを不機嫌な表情で私たちに迫っているのではないかと思うのだ。

 その種の不機嫌さは、じつは老人に限らない。自分の周りにいるひとを「奴隷」と勘違いしている人もけっこういるのものだ。この本には、こんな例があった。グリーン車でパソコンをつかっていたら、車掌経由で「キーボードの音がうるさい」という非難があったそうだ。

 世の中は思い通りにならないもの

 ほんとうにグリーン車が無音のような静けさだったらどうでしょう。自分の会話がみんなに聞かれそうだから嫌かもしれません。そんなふううにめぐりめぐって、自分も辛くなるはずです。実は一番快適なじょうたいというものは、たいていの人で違わないものです。

 私は電車で無闇に「うるさい」と怒る人については、仕事がうまくいっていない人だろうと思うようにしています。仮にうまくいっていたとしても、それはたまたまであって、「無理して仕事をやっている人なんだな、気の毒だな」と思うのです。

 遠慮してそういているのかもしれないけど、おそらく、他人からうるさがれている人が怒りやすい。その逆ではない。この話の類はすべて「余裕のなさ」が原因なんでしょうね。世の中、そういう人が多いのならば、世の中には不幸な人があふれているということです。まぁ、離れているに限りますな。

 実に厭世的な気分になってしまうこともあるのだけど、その時はこう思うことにしている。

 なんだかんだいっても、死んでしまうんだからいいじゃねぇか。今の社会は人が作っているのではくて、石油が作っているのだから、石油がなくなれば消えてなくなる。どんなに自分が成功しても、石油が消えれば消えてなくなる。

2007年11月20日

ぼちぼち結論

養老孟司
中公新書 700円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 空港の書店で偶然購入し、飛行機の中で一回、帰ってきてからまた一回読んでしまった。「結論」とあるが、これまでのエッセイと変わることなく聞入ってしまう話が多かったようだ。とくに、教育についてはかなり心配されているようであり、内田樹や諏訪哲二さんの著書をもとに考察されている。「消費者として人生に登場する」子供に対して教育は不可能ではないか、という疑問を話されている。私の年代では学級崩壊は起きていなかったが、「教育を買う」という意識はすでにあったのかもしれいない。

 もうひとつ、科学の研究というか「研究」一般についての「そもそも論」について、いろいろ勉強にあった。大上段から構えるのではなく、ぼそっと発言される内容は良く考えると「オレは全く気にしていなかった」と反省してしまう、というは自分を哀れに思ってしまうものだった。

 私は大学に四十年いた。自分の研究室がいちおうあって、若者たちもいた。でも、その四十年はあまり幸福ではなかった。なぜなら私に必要だったのは情報ではなく、その処理でもなかったからである。そんなもの、著者(これは、ウェブ進化論の梅田望夫さん)の経験どおりウェブでいい。それなのに大学では、ウェブ的なものばかり、私にかぶせてきた。ウェブ的でないものとは、なにか。「まだ情報化されていない世界」である。それを情報化するのが研究だと私は思っていた。いまでも思っている。でもそれをするにしては、大学とは、貧弱きわまるものだった。

 勉強するとは本を読むこと。研究をするとは、難しい問題を設定し、それを解くということ。大学生くらいの私はそんな感じにおもっていた。なかなか幼稚な発想で、時代のせいもあるだろうけど、とても研究者などにはたどり着けない感じがする。が、今では「研究者」の資格を持っている。世の中わからないものである。その私には、分けの分からないものを言葉として定着させるという発想を今まで持てないでいた。工学をやっていたからだろうか。分けの分からないものに立ち向かうことよりも、Do More Betterの流れにのっていた方が来年の予定が立てやすいというものだから。飛行機の中で考え込んでしまった。本当にアホだな、オレはと。

 戦後半世紀上、われわれが「進歩発展」と呼んでいたものは、石油の浪費にほかならない。人間が進歩したわけでもなんでもない。安く大量に、石油がつかえるようになっただけである。古代文明は石油の代わりに木材を利用した。だから森が消えるとともに古代文明は滅びた。石油がやってくれたことを、現代人は「自分がやった」と思い込んでいる。その石油はいずれなくなる。私は本音でそれを待っている。それが人類のためであり、子供たちのためである。

 この言葉をその意味の通りに理解することができた。いや、実感できた。ここ数年古代文明に興味をもっていて、シューメルを知るにつけ「なんもかわっておらんではないか」と思っていたからだ。普通はその変化は「時間」が行ったものだと思うが、なんてことはない「便利なエネルギー源」が行ったのだ。だから、産業革命などというものがあるのだ。実にあっけなく、なぜ昔の人と今の人は同じようなことをしているのかがよく分かった。だって、同じなんだから同じ事をするだろうということだ。

 予算が大型なプロジェクトに身を置いていたことがあると、石油をお金に変更すとそのままいろいろなことが見えてくる。ある人がスゴイと思っていたことは、なんてことはない「単にお金がすごい」のかということだ。私事で恐縮だが、私は本気で「大きな予算のプロジェクト」に一切興味がなくなってしまった。一連の養老先生の本によって、進路を大きく変えてしまったのだ。吉と出るか凶と出るか、それはわからないけど、それでも実によいタイミングで養老先生の一連の本を読めたものだと思っている。


2007年11月18日

モノづくり幻想が日本経済をダメにする

野口悠紀雄
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 理想的に機能している株式市場では、公開されている情報はすべて現在の株価に織り込まれていまっている。だから、将来の株価は、現在は知られていない情報、あるいは現在は公開されていない情報のみによって変動する。
 このため将来の株価を予測することはできず、株式市場で利益を得られるかどうかは、偶然のみによって左右される。ファイナンス理論を勉強すれば、ムダな損失を避けることは出来るが、継続的に巨額の利益を上げることはできないのである。

 これは、著者が大学院のファイナンス基礎論の講義で強調しているないようである。まったくもって、インパクトがある言葉である。

 そして、これが正しいとすれば、村上ファンドはおかしいということになる。素人の私にも「ナルホド」と納得できる説明である。こういうことを堂々と主張する「経済新聞」があってもいいような気がするが、経済の人にそんなことを期待するのは原理的に無理なのだということか。

 この村上ファンドの出資者には日銀総裁もいたということだ。私など「有名人同士だから、うまい話ネットワークがあるんだろうな」程度に考えていたが。しかし、話はそれだけですまない。日銀総裁が出資したということはもっと憂鬱な結論が待っている。

 こう考えてくると、村上ファンドに出資した理由は、論理的に一つしかありえない。それは、「村上ファンドがインサイダ取引などの不正行為を行うと期待していた」ということだ。
 不正行為を行えば、市場の平均利回りを継続的に越える収益を上げることは可能である。しかし、自分で不正行為に手を染めることはできない。ファンドなら投資者の名が明らかになることはないから、安全だ。「だから出資した」というのは、(倫理的な問題は残るにしても)合理的なものである。

 金融財政のトップがそれだから、下っ端の人がちゃんとルールを守るはずもないだろう。ここから普通の人への助言があるとすれば、こうなる。

 そして、ここから導かれる論理的な結論は、じつに重大だ。そうした出資機会を得られるのはごく一部の人たちであることを考えれば、「一般の人びとは株式投資などするべきでない」と結論せざるをえないからだ。

 先生、おっしゃることがよく分かりました。ありがとうございました(深々と頭を下げる)。

 優れた投資方法を知っている人がそれを他人に教えるはずはない

 
 今回の超整理日記は、これ関係のエッセイが際立っていた。私はこの本のタイトルに興味を持って買ったのだけど、それに関する内容は「アイルランドの金融センター」についてなど、5,6年前に大前研一が盛んに紹介してくれていたことだけであった。

 だけどね。日本はモノを作ってなんぼですよ。金融センターだってあってもいい。どうせ、それをやる人とモノを作る人ととは本質的に違うタイプの人が必要ですから、どっちに人が流れてもよいでしょうけどね。

2007年11月16日

論文捏造

村松秀
中公新書ラクレ 860円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 この本は2つの意味で記憶に残った。一つは、本書の内容である「データを捏造した科学論文」がネーチャー、サイエンスにバンバン掲載されていたので、当初疑いを持つ人がほとんどいなかったとこと。もうひとつは、著者の感心は「どうしてそういうことがおきたのか」よりも「どうしても誰も責任をとらないのか」ということのほうが重要と思っているということである。まさに、現在のマスコミの行動癖を見ているようで、どうしもようない不快感と猜疑心をマスコミに対して持つようになった。

 超電導物質を研究していたシェーンという研究者がスゴイ高温超電導物質を発見した。その方法は勘弁して、物質組成もよく、今後も超電導状態を達成する温度がぐんぐんと上がりそうな気配をもっていた。当然、その年にはセンセーションを起こした。
 その後も続々研究成果がでてきて、1年間にネーチャーとサイエンスに10本以上の論文が掲載されるまでになった。

 それはすごい。スゴイ以上に、「それは、本当か」と言いたくなる結果である。普通の人ならそう思うだろうが、シェーンの論文にはその世界で非常に実積のある研究者が共著になっていたため、レフリーも学会も「信じてしまった」のだ。

 なぜ、そんな捏造がまかり通ったのかは、メカニズム的にはたいしたことはない。今一つのセンセーショナルな結果は「疑われる」が、度を超えて、しかも絶え間なく結果がでてくれば、「だれも疑わなくなる」という心理が科学界にある。なるほど、そういうものか。勉強になった。

 しかし、この本の著者はそちらに感心はないのだ。実は「一体誰が責任をとってくれるのだ」ということ。ワイドショー記者から政治記者まで、マスコミ全体の「信念」のようだ。誰が責任をとるのか探しをずっと続けている。この記者は、研究者本人、共著者、学会、論文を掲載した学会誌、捏造をゆるした研究所、果ては博士課程をとった大学にまで、その責任を押し付けようとしている。まったく、アホである。

 科学はその内部に反証可能性をもっている。別の人がやっても同じ結果になる。全く同じ結果がでないならば、それは「却下」される。一時的には生き残っても、数十年というスケールでは捨てられるのだ。だって、誰もその先にいけないのだから。だから、どんなにこの科学者がデータを捏造し、その結果よい思いをしたとしても、結果的にはなくなる。人の判断でどうにでもなる裁判とは次元が異なるものであって、誰が責任だなんてことは科学自体には「どうでもいいはなし」といっていもいい。

 記者が本を書くと、こんなものばかりになるのかもしれない。今度は著者経歴をみてから本を買うほうがよい。

 しかし、こんなにアホな視点の本なのに、「科学ジャーナリスト大賞」というものを受賞したそうだ。マスコミの本質は「誰が責任か」が正しい道なのだろう。
 

先生はえらい

内田樹
ちくまプリマー新書 760円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 先生は、偉い。以上。
 
 そういう突き放したようなタイトルで、年寄りが「我を崇めよ」的な本なのかと思わせるが、内田さんの本なのだからそんな無いような本なはずはない。養老孟司さんの著書で紹介されていたので買ってみた。

 読後の感想。なるほど、「先生は偉い」のだ。偉いから先生になったのではなく、単に先生は偉いのだ。知識を消費財と考え、それを「食べ」て自分のものにするのが学習で、知識を分配してくれる人が先生である。そういう理解をしている人がほとんどだけど、それが完全な誤りだったのだ。
 振り返ってみると、小学校中学校時代は「先生は先生」という感覚しかなかったが、高校生、予備校あたりか「知識の消費者」という視点を自分は持つようになった。とくに、受験が「テクニック」を売るところであり、予備校というところがそれを高額で販売しているという現実に接してしまったからそうおもうようになったのかもしれない。受験は、学習する意味を無にするのか。

 学習とは結局、自分で自分を変える(変わっていく)過程なのだ。知識を売り買いするアナロジーで理解してはいけない。考えてみれば、分配されたものなど結局「忘れてしまう」のだ。
 学習は自分で「問い」を発することで起動される行為にすぎない。とすれば、問いの発生は学習者が自ら行うよりない。先生が教えることなどできない。問いを発しないのであれば、それはそれで仕方がないのだ。

 自分で問いを発するきっかけとして「先生」が必要になる。その存在は最初から「先生」であればいいのだ。だから、先生は偉いのだ。そういう存在を持てれば、学習はスタートする。

 これで学生と接するときの態度で迷うことはなくなった。