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2008年1月30日

ゆらぎの世界

武者利光
ブルーバックス 760円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 アラン分散をネットで検索していたらあるブログがひっかかり、この本の引用に目をとめた。本書野タイトルをアマゾンで検索したところ、古いブルーバックスだとわかりとりえずよさげな出店者からマーケットプレースで購入、みごと大失敗。水に濡れてよれよれになった線がたくさん引いてある本が登録されたのだ。リサイクルブックスという店から送られてきたが、今どきこんな店もあるんだなぁと驚いた。即効その本はゴミ箱へすて、別の店で同じ本を取り寄せた。さすがに2階は地雷を踏むことはなった。

 早速一読、要点がよく書かれている。今どきのブルーバックスはへんに入門書になっているので嫌いなのだが、20年も昔へ戻るとよい本がある。数学の知識(アラン分散、ポアソン分布、指数関数分布など)が色あせることはほとんどない。書き手のレベルも高いのだろうか、数理的なものと生活の具体例(しかも、使い古されたベタな例ではない)の取り合わせが興味をそそる。古いブルーバックスほどよいものだ。同じ勉強するなら20−30年昔の教科書の方がお得だ。物理、数学、そして文学、歴史一般もそうだろう。
 

2008年1月28日

理系のための口頭発表術

ロバート・アンホルト
ブルーバックス 880円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 この本は理系の発表術の本だが、理系でなくても必要なことだし、発表ではく研究姿勢も説いており、さらに翻訳も挑戦的な日本語になっている。自分が関係する研究室でのゼミで学生に勧めたのだが、はたして何人が読んでくれるのだろうか。実にもったいないことである。自分も学生のときにこういうことを教えてくれる人があればなと思うし、なにより現在の自分が読んでも研究態度で反省してしまうことが多かった。ブルーバックス、よい本をだすじゃねぇか。

 ほぼ全編にわかってお勧めなのだが、ぼくは2章がとくに気に入った。話を面白くする4つの原則を紹介しているが、そもそも研究しているときにこの4原則を意識的にしろ無意識的にしろ活用しておくほうがよいと思うから。まずは展望を示す、本筋とのりなど聞けば「まぁそうだろう」ということになるかもしれないが、この通りに研究し、発表していたら大抵の研究は面白はずだろう。逆に言えば、学生の面倒を見る際、こういう指標をもとに「ああしろ、こうしろ」というべきなのかもしれない。

 この本は発表術についてしかかかれていない。人に勧めるときは、バーバラ・ミントの本もセットで紹介したほうがいいかもしれない。

2008年1月27日

アイヌは原日本人か

梅原猛+埴原和郎
小学館ライブラリー 760円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 えらい人になると勉強がしやすくなっていいなぁ。なぜならこの本は、アイヌについて勉強したいがためにその道の人と対談したものを本にしており、そんなことが可能なんだと感心してしまった。勉強方法にも自在性があってうらやましい。対談相手は自然人類学者ということで、自然科学をベースにした人類学の人でアイヌについても梅原の印象とちかいものを提唱しているようだ。

 金田一京助という学者がアイヌ語は日本語とは全く関係がない言語であるから、日本人とは違う民族だと提唱していらい、日本においてアイヌは少数民族扱いされてきた。ところが実はそうではないらしい。それは神という言葉を始め、古代の生活において重要なタームが日本語とアイヌ語で同じものがあり、しかも万葉集などにある古語にもアイヌ語だとおもって解釈するタームが無視できないほどあり、また、現代日本語にもアイヌ語から語源をたどれるものがたくさんあるそうだ。同様なことも、自然人類学の見地から言えるらしい。

 そういう発言は偉い先生がご存命中は大抵無視され、抹殺されるのが人の世なのだが、証拠が積み上がるたびに、また、提唱者が偉くなるごとに認められてくるのだから、そのうちアイヌも弥生人も古層としての日本人は共通の縄文人であり、アイヌ文化には縄文文化の香りが残っているという発想が一般にも浸透するであろう。

 ちゃちゃを入れるというが、そのちゃちゃとはアイヌ語で「口」だそうだ。そういう言葉の語源を知ると、歴史を「体感」することができてうれしい。こういう研究がもっと発展し、渡来人がきて大和朝廷を建てる前の日本、古代ローマや古代ギリシャ、あるいは、シュメールが文化をつくっていたときの日本の状況が解明されて欲しい。塩野七生のローマ人を読んで感心しているときに、巻末の年表で日本をみるつけ感じる「寂しい気分」がすこしでもやわらぐといいから。

2008年1月26日

日本の深層

梅原猛
集英社文庫 562円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 アイヌは縄文人の末裔で、結局ところ日本人の起源として重なっているところが多く、万葉集などにのこる意味不明な言葉などもアイヌ語だと思えば意味が通るところが多いという話を聞いて依頼、梅原猛のアイヌ、あるいは、古代日本について知りたくなった。とりあえず、アマゾンで入手できるものをいくつか購入し読んでみた。その一冊目である。

 この本は、東北地方を訪ねた旅行記である。その主題は蝦夷文化の古層としての縄文文化を想う企画で、行く場所で古代日本の文化と関係しているものを訪ねている。なるほど、それも縄文人と関係あるのか。そういうトークなのだが、いかんせん旅行日程が短く訪ねた場所の印象も書かれているので「論」としてはすっきりしない。街道をゆく、というほどの博学を期待しているわけではないし、著者の日常の忙しさについていらないのではないか。要するに、雑誌の記事のようなものだ。

 ちゃんとした「論」を期待するとがっかりする。

2008年1月25日

討論1 古代史への挑戦

梅原猛+竹内均
徳間文庫 260円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 古代日本人、日本人の起源についてを種に二人が議論している。重厚な感じを受ける。二人に権威を感じるのはなく、専門家の圧倒的な知識に驚くのでもない。研究するという態度に感心してしまうのだ。梅原猛の発言から研究とう態度を思い知る。研究所に勤めている私だが、こういう重厚な人にあったことがない。なんとも、お粗末な自分に恥じ入ってしまう。本はいい。時間と場所を越えた人たちのやり取りから学ぶことができるから。本の偉大な機能の恩恵を体感した。

 学問の楽しさは仮説提案とその検証過程、そこでの意外性の発見にあるということだ。Do More Betterという行為しか「知らない」人には想像もできないかもしれない。なんでもいいから業績を出して、それで生きる糧あるいは出世の種、権威の購入資金にする。しかたないではないか、という人は結構いそうな気がする。ローンを組んだ研究者の研究は、おそらく信用するに値しないのではないか。そんなことを考えたりする。

 竹内均はべっ甲のメガネの先生で、なにか奇妙な感じがするほど丁寧な言葉をつかっての地質の説明をテレビで見たことがある。科学者として梅原猛に話を向けて自説を梅原の節に挟もうとしているが、全く受け入れられない。物理系の科学者の「幼稚さ」というか「ロマンティスト」なところが、モロに見えてしまい情けない気がする。同時に、自分で「考えている」人の強さが感じ取れる。物理という客観におぼれると、くだらないことに固執してしまい、つまんない結果しか導けないということを反面教師として知ることが出来る。

 内田樹の本もそろそろそこをついてきたので、次は梅原猛にしようかと思っている。

2008年1月23日

般若心経入門

ひろさちや
日経ビジネス人文庫 619円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ひろさちやの本は好き。エッセイとして仏教の知恵を語ってくれるからだ。辛気臭くもなく、説教臭くもない。「なるほどなぁ」をおこさせるような話をする。上から下という感じがしないので、素直気に耳を貸せるのだ。それに、仏教の知恵を語る際に他の宗教の知恵で同形のものを示してくれるので、人の考えることは同じだなと思いながら納得できる。

 ブックオフで100円コーナーで目に付いた。なんとはなしに購入した。偶然がおきたのか、購入したその日に大学時代の友人の訃報があった。3日後通夜のために四国へ行った。行きの飛行機のなかでしみじみ読んだ。家族のような「悲しい」感じではなく、なんかもうあえないなぁという無色の感情があるだけだった。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄。なるほど、そういうことか。言葉だけではよくわからんものだが、社会の出来事を言葉にしたことだけあって、ぴったりに事例に遭遇するごとにこの意味が明確になってくる。例えば、青春物語などでは今でも「諦めるな」というメッセージを送っているが、それは自分の側に原因があることと、どうしようもないこととの見分けがつくようになってからでないと「不幸」を増長するだけのような気がする。どうしようも無いときがある。死んでしまう、というときなどに。

 災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬのがよく候。是はこれ災難をのがるるにて候。

 じいさんの慰めだと思っていた良寛さんの言葉も、なるほど人知を超えたものに対する恐れについて理解した後ならば、よくわかる。

 というわけで、この人の本は見かけたら買うことにした。

2008年1月21日

大人は楽しい

内田樹+鈴木晶
ちくま文庫 700円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 内田樹エッセイが読みたいなぁとおもってここのところ大分読んだのだが、そろそろ底を突いてきた。ブログを読むなら新しいものがあるのだろうけど、通勤電車で読むという性格上単行本が好ましい。ということで、アマゾンで評価の高かった単行本を選んでみた。が、ダメだった。

 どうしてだろうか。著者の二人は気があっており、経歴(学歴や職業や家族・環境?)なども似た者通しだというが、発言や発想から言えば差が目に付いて読んでいられない。発言の切り口などや読者への配慮などは内田樹が圧倒的で、わざわざ対談を読む必要ないなと改めて反省させてくれる。実力とうか、面白さというか、そういうものを比較したいわけではないのに、この手の本を読むとバレバレになっていて読むのが心苦しい気がするくらいだ。この対談は「マッチ」していない。といっても、この本は単なる「交換日記」ということで、ゆるい精神状態?でのやり取りだろうから、それをもってその人たちの評価とするのはおかしな結論へ導くかもしれない。でも、つまらんかった。

 あー、対談本はやだ。

2008年1月19日

街場の現代思想

内田樹
NTT出版 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 文化資本のついての記述は衝撃的であり、読んだ後にシュンとなってしまう。ぼくのような普通の人ならばちょっと何かをする気力をすべて失わせるくらいのインパクトがある。これについては『下流志向』の中できちんと語られているので詳細はそちらにゆるずるとしても、でもなお、次のようなことは「はっきり言ってしまったなぁ」というもので、「本当のことを言うもんじゃない」と言われそうな気がする。

 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。
 文化資本は先ほど述べたように、「気がついたら、もう身についていた」ものであり、「気がついたら、身についていなかった」人は、すでにほとんど回復不能の遅れをとっている。というのは、芸術の鑑識眼についても美食についても作法についても、そのようなものを身に付けたいという欲望をもつということは、すでに「文化資本が身体化されている人」と、そうでない人との間に、歴然とした社会的な際が生じていることの効果だからである。
(かなり省略)
 ひどい話だ。
 「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。
 「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会のげんりである。

 よいわるいといった能力の違いの話ではない。文化的なものに対する「感度」の問題なのだ。それは、育ちで決まる。なぜなら、そういう環境に住んでいれば「感度」が自然とあがる。努力しないでも感度が合ってしまう。一方、そうでない生活をした人ならば「勉強」して身に付けるよりない。でもしれは知識なのだ。その違いは、決定的だ。

 この本で、ぼくが学んだことは次の方だ。それはいわゆる「決心」に関するなのだ。ある人が「社内改革をするべきか、ベンチャーなどをおこすほうが良いのか」といった、今後の仕事の上での決心を相談しているくだりである。内田樹はこう言う。

 (略)職場を自分にとって気分の良い場所に自らの手で作り変えようという「社内改革」は、もちろん「転職」するよりもずっと積極的な選択である。このことに異論がある方はおられないだろう。
 だが、多くの人が見落としていることがある。
 それは何かの計画について「可能性があるか否か」が論じられるのは、すでにその可能性がある程度まで経験的に確証された」場合に限られる、ということである。
 例えば、君がプロのピアニストとしてやっていけるかどうかという可能性について検討する場合、少なくとも君はピアノが弾けなければならない。「ピアノは弾けないのですが、プロのピアニストとしてやっていけるでしょうか?」というような問いにまじめに答えてくれる人間はどこにもいない。
 社内改革もそれと同じである。
 (略)
 社内改革の運動というものは、「もう始まっていて、君がすでにコミットしており、それゆえ会社に行く毎日がたいへん愉快である」というかたちでしか存在しない。「あぁ、会社行くのがつまんねーな。いっそ、社内改革しちゃおうかな」というような発言というのは原理的にありえないのである。

 こういう発言をしてくれる人が身近にいたらラッキーだ。普通は「がんばれよ、気になら出来る」というようなことか言われない。しかし、現実的に考えたら内田樹のいう通りだ。何かを始める前に決心する。その際に、出来るか出来ないかを問うのは無意味なんだ。その質問は「とりえず始めてみて、なんらかの応答を得られた人、感触をつかんだ人」がするものだ。

 これは別の問題にも応用できる。「その仕事に向いているでしょうか?」「なになにになりたいのですが、できるでしょうか?」というあまたあるものに責任を持って答えるには、「聞く前にその作業をしてみろ。その作業のとば口につけたら、すこしつづけてみろ。そうでないかぎり、無意味だ。」つまり、寝言は寝て言え、的な指摘をすればいいのだ。

 こう言う指摘をしてくれる人こそ教師なんだな。
 
 

2008年1月18日

国家の品格

藤原正彦
新潮新書 680円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 このベストセラーには賛否両論つきまといっていた。ぼくよりも5歳くらい若い身近な人が「数ページ読んでいてむかむかしてやめた」ということを言っていた。アマゾンの書評にもえらい評判が悪かった。「これからの日本に必要なのは情緒だって、バカじゃない」というような言い分だった。「若き数学者のアメリカ」など昔のエッセイはずいぶんと読んでいたので、年を取ってから発想が変わったのかな?」と思い、また、ベストセラーだったので読まないでいた。ところが、ブックオフに100円でていたので買ってみた。読んでみたのだが、どこも悪くないので拍子抜けをした。

 なぜ、気にくわない人が多いのか。ぼくが感想を聞いた人はすごい優秀な人だから、「年功序列にするべきである」というようなところが気に触ったのか、論理よりも情緒を大切にするべきだというところに腹を立てたのか、たぶんそういうことだろうと思う。

 この本で言いたいことは割りと単純で、「論理的志向が正解にたどり着けるなんてのはウソで、そもそも公理は外から与えられるものであるし、さらり数学でいえばゲーデルの証明にあったようにそもそも論理をつきつめていくと論理で考えていたことが矛盾するという事実もある。結局、人の集団にとっての長期的な生き残り戦略は歴史的な作業で身に付けてきた「品格」だし、それを良いものだとする価値観は情緒の感度を与えるものなのだ。グローバルスタンダードなんて所詮はアメリカのローカルスタンダードだから後生大事に祭り上げる必要などなく、そもそも日本には部指導的な精神からなる品というものが明治期にはあったのだから、それを学び直せばいい。」ということだろうと思う。ぼくはそう解釈した。

 この本は講演内容を文字におこしたものだ。内容に「冗談」も入っているが、活字の仕方が直接すぎるので、ひょっとしたら「冗談をまともにうけとったことで立った」という人もいるのかもしれない。それでもだ。ぼくはこの本は普通にいい本だと思う。

2008年1月17日

私の身体は頭がいい

内田樹
文春文庫 571円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田樹は武道家だそうである。自身が武道家ならば、身体について考えることが普通の人よりもあるだろう。体調がよい悪いや体に良い、という軸以外にいろいろな味方をもっているはずである。

 武道の経験はない。だから、体の動きに関しての記述に同感することがなかなかできない。やっぱりこの本はぼくには向かないのかなと思っていたら、次のような記述にであった。

 私はその後もいくつかの武道を経験したが、稽古している現時的な技術上の課題の「意味」と、修業の究極の「目的」とを統一的な枠組みのうちで語ってくれる指導者に出会うことはできなかった。ときには「不動心」とか「心技体の一致」とか「剣禅一如」とかいう言葉で包括的な解答を試みようとする人もいたけれど、その言葉が技術的に何を意味するのか、人間としての生き方にどうかかわるのかについては私ははっきりしたことはわからなかった。
 ここに欠けていたのは、私たちが「私は今修業上のどの段階にいて、どこへむかっているのか」を理解させてくれる「マッピング」の言語である。

 教育法の一つとしてだろうけど、「いいから黙ってやれ」という指導者がいる。どうせ、説明しても生徒に理解できるはずもない。理解できないのだから、指導していることに意味をいちいち納得させるひつようがないからだ。だまって師匠に従えばいい。『先生はえらい』で内田樹が主張していることだ。何処へ向かっているのかについて師匠が語る必要はない。生徒はいろいろ修業をこなすうちに「気付く」はずである。そういう主張だったのだ。なにか、ぼくが勘違いをしているのだろうか。

 そう思ってい読んでいくと、どうやら「マッピング」で意味するところは、技術などといった局所的なことではなく、ほぼ人生論のようなもののようだ。「武道について」を語ってくれ。そういうことのようだ。人生として関わる人探しには、「オレはいま何処にいて、何処へ目指そうとしている」ということを語ってくれる人がいい。そういう結論のようだが、私の読みか違いかもしれない。


2008年1月16日

インターネット持仏堂

内田樹+釈徹宗
本願寺出版社 各740円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田樹のウェッブに設けられた「お堂」ようなコーナで浄土真宗についてのやりとりをまとめた往復書簡のような対談のような本。コアは浄土真宗についてということなのだが、教義がどうのこうのいうことよりも社会における人の行動や性質と宗教についての関係についてのやり取りがつづいている。私は浄土真宗に「すっごく」興味がるわけではないので、教義そのものは程々でいい。読んでいていて思うが、もうちょっと編集したほうが読み物としてはいいだろうが、二人のやり取りを感じさせる本でありたいということだから余り手がはっていないのだろう。

 のっけからうなったのは「勧善懲悪」についてのくだり。勧善懲悪が社会に補償されたいたら、人は成長しないし、倫理も生まれないのではないか。そういう疑問である。普通、逆だろう。倫理があるから勧善懲悪でなければならないと考えるのではないのだろうかと思うのが普通だろう。

 むしろ、そういう完全懲悪な社会では、人々は倫理的にふるまう必要を感じなくなります。自分の目の前で犯罪が行われていた場合でも、身体を張って犯罪を阻止したり、被害者を命がけで教護したりする使命感をあまりかんじていないようになるということです。
 だって、そうですよね。すぐに警察がやってきて犯人を逮捕してくれるんですから。何も好きこのんで窮地に飛び込む必要はありません。

 「こんな理不尽な目にあっている自分たちを見てくれている人はかならずいて、その存在がやつらをこらしめてくれるはずだ」という感情はどんな宗教を辛抱していても、いや宗教なんてなくても「感情」として人ならば自然発生的に抱くものだろうと思う。それが、まさに宗教の発生であろう。実際問題現実でそう旨いことはいかない。だから死後の世界にこだわるし、最後の審判だってあってほしい。自分が被害者だと信じている人ならば、もっというと「不当な仕打ちをうけた」と考えている不満がある人ならば、宗教は信じるだろう。蛮族があれくるう古代ローマの末期からキリスト教がヨーロッパを斡旋しった心情的な理由は、今の人にも理解できるはずだし、ぼくはわかる。

 神様の代役のような「月光仮面」が存在していたら、人は幼時の段階にとどまるということか。成長しないはずだという。なぜだろうか。

 ほんらい、悪事がなされると、月光仮面はすぐに登場して、悪を滅ぼすことになっていますが、うっかり事件解決に「遅刻」したりすると、こどもたちはまるで掌を返したように月光仮面を面罵します。
 「なんだ、ぜんぜん正義の味方として役に立たないじゃないか。もう、要らないよ、あんたなんか。月光仮面のバカ!」
 ほんとうなんです。「万能の正義の味方」をめぐるすべての説話に共通するのは、「正義の味方」の勧善懲悪仕事が少しでも遅滞すると、少し前まで「正義の味方」に喝采を送っていた人々が、たちまち態度を一変させて、罵倒の限りを尽くす、というエピソードが盛り込まれていることです。

 そうなんだよ、本当に。自分でもそう思うときがある。相手がサービス業の人だったりすと、怒りすら覚える。「なんだって、金をはらっているのにダメなんだ」という具合に。当然、行政サービスやいわゆる事務作業一般についてもそういう感情を抱く。役所は「そもそもサービスをする動機」がありえないので構造的に仕方ないのだけど、警察や消防、自衛隊のような存在までこの理不尽な「不満の矛先になる」という現象には申し訳なく思う。仕方ないんだよ、そういう時は。

 ネットワークの管理を仕事にしている人はかわいそうだ。技術職なのに、クレーマーのターゲットになるよりないから。そう考えると、ヒーローはもちろんのことだが、インフラに従事する人もこの理不尽な怒りの標的になることになる。

 月光仮面が社会に「安定的に存在しない」理由はここにある。これは、もっと広げて「困っている人を助ける」というタスクはかならず割に合わなくなるので、安定的に存在し得ない、ということを意味しているのだろう。結局、一人一人の中にどれだけ「倫理」を持つのかが気持ちよく暮らすために必要な方法論だろう。宗教がなくなると、面倒な世の中になるということだ。



 

2008年1月15日

態度が悪くてすみません

内田樹
角川oneテーマ21 724円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この本もブログをもとに一冊の本をまとめたということだ。長さがまちまちだし、テーマもばらつきがある。何かを述べたくて書かれたものではない。それでも、編集者がうまいことピックアップしているので、まとまっている。

 この本も勉強になることがたくさん書かれているが、個人的に感じ入ったことを少しピックアップしてみる。一般的には同とらえられるのかはわからない。

 国が滅びる、ということばを耳にすることがあるが、それはいったいどういう状態なのだろうか?

 「滅びる」といってもべつに革命が起こるとか、国家が解体するというようなドラスティックなことが起こるわけではない。
 ただ、経済が低迷し、文化的発言力が衰え、科学も芸術も精彩を欠き、国際社会での信用が失われ、その発言に誰も真剣に耳を傾けなくなる、ということだけである。

 なんだ、じゃもう滅びてるじゃんといえそうな気がするところが結構思い当たる。これは絶対的な評価ではなく、すべて以前と比べての比較級であろうとおもう。これらの要素が「全部一斉にマイナス」になれば、それは滅びているということなのだろう。国のレベルでなくとも、ある一定の役割をもっている組織にもいえそうな。その組織を特徴づける指標をピックアップし、それが全部マイナスならば衰退というわけだ。

 これは国家の老齢を測る尺度になるということで、アメリカの老齢化の説明している箇所で示されたものだ。他にも、その状態での人々の特徴にも次のようなことが言えるらしい。

 最近のアメリカの外交を見ていると、自ずから醸し出せる威厳に人々が服するというより、すぐに「オレを誰だと思っているんだ!」と怒鳴り出すで、それがうるさいから人々がしぶしぶ「はいはい」と言うことを聞いているような印象がする。
 この「オレを誰だと思っているんだ」症候群は、私たちの周りでも、定年退職後の完了はサラリーマンに顕著に見られるものであるが、それまでごく普通に享受していた社会的敬意が失われてゆき、「身の丈にあった敬意」しか受けられなくなったことに対する苛立ちの表現であり、これまた「ボケ」の最初の兆候としてしられている。  それって、よく知られたものだったのか。「身の丈にあった敬意」というフレーズは大切なものである。人間関係にある「不満」の第一は、人々がそれぞれ「身の丈にあった敬意」を受けていないという思いから発生する。言わば勘違いの一種である。それは、ちょっとした会話などから「敬意」というもの感ずることが誰でもできるのだが、大抵は「そういう扱い?」という侮辱を感じた人からいろいろ問題が起きる。これが「ボケ」の指標だとしたら、夜郎自大な態度は全部それに通ずるのだ。それぞれの人も自戒したほうがいい。

 なぜだろうか。内田樹の本はいつも本筋と関係ないようなところで、社会常識的なことを教えてくれる。本来ならば、だれが注意してくれそうな内容なのだけど、もうそういう人が周りにいないからとても助かる。 
 

2008年1月13日

自分の頭と身体で考える

養老孟司+甲野善紀
PHP文庫 514円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田樹の本を読んでいたら「武道家?甲野善紀」という人の話がでてくる。大層立派な人だということだが、武道をやらないぼくにはピンと来ることがない。しかし、この人の本を実は読んだことがある。昔、養老孟司との対談本を読んだのだ。カッパブックスだったはずだ。なんでも、養老孟司との対談は3冊あるそうだが、1冊しか記憶にない。ということで、アマゾンで探してこの本を買って読んでみた。

 自分で行動しているひとならばいろいろ思い当たるような経験が言葉になっている。いや、全部そうだというのではなく、経験的に知っていることだ。例えば、

 もちろん合う合わない人は、いるとは思うんですけれど、合わない人には、ただ、挨拶だけして、べつにそれ以上近づかなければいいわけですから。

 なるほどなぁ、でも新しい発見はあまりなかったかもしれない。などと思ってこの本を「養老孟司コーナー」にしまおうかと思ったら、この本の単行本があった。1999年のものである。なんてこった。またやってしまった。一度読んだ本を文庫判で買ってしまうことは、意外によある。と同時に、気がついた。なぜこの本に新鮮味を感じなかったのか。なんてことはない、以前読んで偉く感心し、それを自分に取り込んでいたのだろう。自分の学習したことの「そもそもの紀元」は忘れてしまうのだが、これがいい例だなと思った。

2008年1月11日

疲れすぎて眠れぬ夜のために

内田樹
角川文庫 514円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 これまで何度となく「迷って」きた。内田樹とするべきか、内田樹さんとするべきか、内田樹先生とするべきなのか。いわゆる敬称というものとして何を使えばいいのだろうか。知り合いでも師弟関係でもないし、ぼくとはおおよそ無縁の偉い大学の先生だから、ニュートンとか坂本龍馬というような人と同じでいいやと思い、つまり、歴史上の人物と同じ扱いという意味で敬称略でいいやということにしようと今思った。これからはもう悩まないようにしよう。

 さて、この本は内田樹ブログから引っ張って何かの原稿に使ったエッセイをまとめている。この人の本は、きっちりしたものもスゴイが、たんなるブログでもスゴイ。面白い、愉快というのと同時に、なるほどなぁ、おれは今まで何にも考えていなかった部類のバカな人間なんだなぁとしみじみ思わせてくれる。打ちのめされるというよりも、勉強しちゃたという気分にさせてくれる。エッセイなのでとくに「コア」となる話を展開しているわけではない。毎回読みきり。長さはまちまち。

 この一文が心に残った。

 「人間の心身の力には限界がない」というのは現代人の陥りがちな誤解であるということを先ほど申し上げましたが、そのような誤解のうちもっとも危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つだと思い込むことです。
 これは、若い人に限らず、性別を問わず、あらゆる年代の人に見ることとができる傾向です。
 でも、「不愉快な人間関係に耐える」というのは、ぼくに言わせれば、むしろ有害であり、命を知事メル方向にしか作用しません。

 不愉快な関係に耐えたとしても、それはその人の感覚を摩耗させやがえて自身が不愉快な人になるだけで。がんばると悪い方向にしか行かないということだ。

 全く同意した。ぼくもそう思っていた。嫌な人間には経緯をもって離れていろ、ということを大前研一の本で読んだ以来。もう何年もなる。内田樹は「挨拶だけして、離れていろ」と言っている。同じだ。ちょっとうれしかった。

 嫌なことをずっとやらせていることが「修業」だと思う人がいる。人の適性はスゴイから、嫌な人といることに対応できるようになるのだが、それは「不快感」が自分の内部に沈み込んでしまったからのだろう。そして、それは、自分自身がそういう嫌な人になっているのだ。当然、そういう人はそれを他人に教養する。要するに、ゾンビということだ。

 人間関係のくだらなさは、それが「自然現象」でも「歴史的必然」でもないことだ。そんなのあてもなくても、社会においてはどうでもよいことだ。自分が思っている程効果がない。逃げるべき。

 もうひとつ、目からうろがあった。

 世代についての誤解のもっとも分かりやすい例は「戦後世代」ということばです。「戦後世代」というと、ふつうは「団塊の世代」のことを連想します。昭和二十年から二十五年生まれくらいの人々が戦後社会の基調を決定したのだ、というふうに。(略)
 戦後の復興を担ったのは、明治生まれの人たちです。
 だってそうでしょう。ぼくの父は明治四十五年生まれですが、その父は敗戦の年にようやく三十二歳です。まだ白面の青年です。ということは、敗戦直後において政治経済や文化的な活動を実質的に牽引していたのは、明治二十年代、三十年代生まれの人々だったということです。(略)
 みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興をまずになったのは、漱石が日本の未来を託したあの「坊ちゃん」や「三四郎」の世代だということです。

 坊ちゃんたちに漱石がどういう思いを託したのかは、内田樹の別のエッセイに紹介されているのだが、それよりも重要なことは「団塊の世代」の物語って、意外にそこが浅いということ。すっかり騙されていた。冷静に考えれば当たり前なんだけど、自分たちがやってもいないことを自分の功績のようにいう人は一杯いるどころは「普通そうする」ということに注意しなければならない。偉そうなことは大抵ウソだと思ったほうが、勘違いをしなくてすむといえそうだ。

 内田樹のエッセイは、こういう驚きがたくさんある。原稿依頼がないのにずっとブログに書きためている理由は、個人的な興味を言葉にして自分で見えるようにするためなのだろう。議論する相手無しで考察するためには文章に書いて、自分で読むことなんだろうな。

2008年1月10日

オレ様化する子どもたち

諏訪哲二
中公新書ラクレ 740円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 オレ様化した子どもとはどういうものか。単に生意気というものではない。

 「自分がこう思うこと」が当然「まわり」のみんなにも受け入れられるべきことだと確信するから主張している。

というひとのこと。しかも、

 今や「客観的」と「主観的」の境界はなくなった。主観と客観の近代の二分法はもやは成立しない。

ということだ。なぜ、こうなったのか。それは消費経済を目指した市民社会ならではの特徴なのだ。つまり、

 市民社会では人と人は対等である。

が基本にあり、あらゆる行為は「対等に置かれた主体通しが等価交換を行う」と考えられているからである。子供だろうとなんだうと主体であり、お金によって何かを交換することが生きることであり、交換するもの同士の価値は等価であることが正義である必要があるのだ。つまり、子供は成長する存在ではなく、賢く交換する主体になっていると子供自身が当たり前のようになったのだ。

 自分の年代を考えると、著者が指摘する「最初期」のオレ様の子供のようだ。現在の自分の振り返ってみると、「等価交換」の発想は社会のベースにあるものだと信じている自分に気付く。何かをするから、何かをしてもらう。仕事や人との関係も全てそうあることが普通だと思っている。一方的な「贈与」というものを、大様と奴隷の関係や詐欺師のようなものが関係する負のイメージを持っているし、親と子の関係についても、学校の費用を出してもらったから親の面倒もみないといけないという「等価交換」の発想を持っている。それを自然だと思っている。

 つまりは、自分も「オレ様」なのだ。現在の子供のような重症な状態でもなし、モンスター・ペアレンツのようなものでもないが、ちょと気を許すと単なる「オレ様」になってしまうだろう。そういう意味で、自分の状態をはっきり認識させてくれたこの本にはとても感謝している。

 その他にも、意識と無意識の存在を踏まえての教育だとか、幼時の全能性が根拠のない自信を支え自己を絶対化してくれが、一方で傷つきやすく人との比較には非常に脆いという点などが子供だけではなく、人というものを対象として語られている。実に実に内容が厚い本で、これが新書では「もったいない」と思えてくる。新書でもここまでの内容がある読みごたえがある本が出せる。それを示してくれる一冊だった。

2008年1月 7日

すべては音楽から生まれる

茂木健一郎
PHP新書 680円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 あー、だめだ。こういうネタは普通の人向きの本にならない。すくなくとも、さほどクラシックに思い入れがない人には全く得るものがない。どころか、腹が立ってくる。実に、実にいい加減な本を作るようになったなぁ、茂木さんは。といっても、出版社の人が実際は企画してくるのだろうから、仕方ないのだろうけど。「斎藤孝」状態だ。もう、買わん。売れっ子になると、売れるから何でもよくなるのだろう。少なくとも、この著者は自分の本を金を出して買う、という気になっていないだろうなと思う。

 新書は週刊雑誌の埋め草のようなものをのせることしかできない。そう思われたら悲しい。もっと、迫力のある本はたくさんある。こんな本が出版される必要はないないはずだろう。昔の茂木さんだったら、自分で批判しそうなもんだけど・・・。

2008年1月 5日

マリー・アントワネットの生涯

藤本ひとみ
中公文庫 686円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 マリー・アントワネットといえば「パンがなければ、ケーキを食べればいいのに」というセリフ。あとは、断頭台の露と消えたという事実くらい。周辺の歴史などについては、実は知らない。市民革命前夜の世界だから、世界史で勉強したことになっているのかもしれないが、そもそもろくに授業を聞いていなかったので、妙な単語や人名「ロペス・ピエール」というようなものを覚えている。が、それらはストーリーをなさないという人は、実は多いのだろう。

 そう思っていたら、実はちがう。年齢層によるのだろうけど、「オスカルさまぁ」というセリフとともに、少女マンガ風の人を知っている人は結構いて、よく読んでいたらしい。ベルばらである。私は、ちっとも興味はなかった。キャンディ・キャンディーならば読んだのだけど・・・。

 急な新年会の出し物で寸劇をすることになり、ちょっとしたベルばらだった(ズラをかぶったりして・・)。で、さすがに状況をしらないと知ったかぶりがバレると思っていたところ、本箱にあったのをみつけた。「ののちゃん」の藤原ひとみではなく、藤本ひとみが著者だった。嫁さんいわく、「塩野七生を目指したようなところがあるが、でも、めちゃくちゃ軽いからすぐ読めるよ」ということだった。なるほど。新年会の前夜、寝る前に読んだが少し夜更かししたが読めた。週刊誌や新聞向きのレベルの解説だと思えば良い。もうちょっと、読者を楽しませようといているが、いかんせん、底が浅い。調べたのかもしれないけど、どうにもならない「軽い」文章であって、すごみがまったくない。よく言えば、府連ドーリーだ。「じゃ、またね」と言いたくなるような気分がした。

 取りあえず用をなしたので助かった。しかし、別の本を買って読みたいかといえば、そのつもりはない。

2008年1月 4日

スティーブ・ジョブズ

林信行
ASCII 2500円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ジョブズさんの経歴と写真を紹介してくれる本。雑誌の特集記事に手を入れているということで、立ち読みでも充分かもしれないが、手元にあってもよい。アップル製品好きが高じて、そのアイディアの源流に興味を持っている人ならば欲しくなる本だろう。読みやすい。こういう伝説的な人については色々な逸話がついてまわるし、あらゆることの源流にこの人がいたことになってしまう。そんなはずはない。そのあたりをきちんと解説してくれているので、この本はバランスがとれている。アップルファンではない人にも興味がもてるだろう。野球ファンでもないのにイチロー物語の番組は見てしまうような感じだろう。

 でも、不思議だ。もし、アップルがなかったら自分の人生はかなりちがったものになっただろう。そういうものを世の中に送り出していた人は、ずいぶんとはっきりしている。普通はなんだかよくわからないものなのだが。日本の会社で意思決定が最初に見えてくるところは、片手程度しかないのに。それが日本のキャラクターでもあるのだから、無理にアップルを目指す必要はない。よく言われることだけど。足の引っ張り合いになったら見苦しいだけだし。

iPhoneショック

林信行
日経BP社 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 年末に銀座のアップルストアでiPod touchを触った。翌日にはamazonで注文した。あの液晶画面、coverflowというインタフェースにやられてしまったのだ。学生の時に無理してappleを買っていらい、10年前くらいの3年間をのぞき、ぼくのメインPCはAppleである。オタクではないし、クリエーターでもないけど、アップルマシンを買っている。だって、綺麗だし、驚きがあるし、愛着があるし、技術もほれぼれするから。工学に関係する仕事を得た今でも、ロールモデルとしてアップルようなものが作りたいと思っているし、そう思っている人は結構周りにいると思う。もちろん、WindowsやLinuxも用途に応じて使っているバランス感覚もあると自分では思っている。

 「なぜ、日本のメーカーがiPhoneをつくれないのか」という問いは、携帯電話の一ユーザーである自分にもぐさりとくるものがある。AUのデザイン携帯を持っているし、人にも勧めているけれど、どうがんばってもiPhoneは無理だろうな。そう思う。sonyの携帯がつまらなくなってしまった以後、携帯に対する興味はほとんど失せてしまったので、技術的なものはよくわからないけど、Appleようなことはできんだろう。もう、sonyがないんだから。

 この本で語られるアップルのすごさには憧れというよりも、黄泉の世界の物語に思える。ぼくの仕事の世界にも「品管」の行き過ぎた波が訪れていて、関係者全員の首をしめて終焉に向かっているのから、メーカーさんではもっとスゴイことになっているのだろう。ただの学校にもモンスター・ペアレンツがはびこっているのだから、商品のクレーマーの存在は信じがたいものになっているのだろう。それはもう、仕方がない。その意味で、appleのような会社がでることは、あったとしてもぼくの死後のことだろうな。そう思っている。そう思っていても、自分の手が届く世界の中ではアップルのやり方をマネして、つまり、学んでいきたいと思っている。できるできないに関わらず、勉強したいから。元気がでる目標だから。

 iPhoneについていろいろ知ったのだが、これはDoCoMoでは対応できないだろう。逆に対応できたらDoCoMoもまだスゴイところが残っているのだなぁと思うけど、Appleの要求を飲めるのはSoftbankだろうなと思った。auはあり得ない。夏前にはiPhoneがつかるといいな。

2008年1月 3日

ぼくはいくじなしと、ここに宣言する

森毅
青土社 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ぼくが読書という習慣を身に付けた頃にずいぶんと森さんのエッセイ集を読んだ。同時出版されているものはだいたい読んだと思う。浪人していたとき、多いに励まされた。今のぼくは一連の森さんの本があったならではだろうと思う。しばらく前はずいぶんとテレビにもでていたけど、さすがに高齢だろうから最近はあまり見かけない。それでも新刊を見かけることがあり、つい買ってしまう。

 読む前に内容に察しがついてしまう。読んでみて、やっぱりそうだと思う。それでも、読んでしまう。なぜなら、この人のエッセイから血眼になって何かを発見しようとする気持ちはもうないから。浪人生だった当時、森さんの一連の受験関係のエッセイはぼくには衝撃的だった。数学に対するイメージも多いにかわり、全く数学嫌いの自分だったが、ずいぶんと精進して数学好きにまでなった。人生って、気に入った作家を見つけると大いに変わってしまうものだ。この本も、読んで楽になる。加藤締三さんの本と同じで、一種の薬となっている。どうしようかなと迷いが多い若い頃に、こういう人の気軽なエッセイを読めてよかった。

 書いてあることに察しはつくのだけど、読むたびに自分で理解していた別のことと一致していることに気付く。というか、理解するときはたいていすでにあるフレームワークに落とし込もうとするからだろう。「一丸となってなになにをしよう」という行動に対してアレルギーを持ってしまう自分のクセは、100%森さんの本から得たものなのだろう。このように感情にまで達したクセは、なぜそれを身に付けるに到ったのかの理由を覚えていないものだが、軍隊的なもの、集団一致の志向に対するぼくの嫌悪感は、森さんの「数学のすすめ」シリーズが元ネタだろう。

 ときたま原点に戻ることは、意外に実りがあるもの。ぼくの原点は高校卒業後の2年間にあるのだから、その頃熟読していた本は作家については、一生を通じて定期的に読んでみようと思うし、それを他の人に勧めたいと思っている。

2008年1月 2日

それでも脳はたくらむ

茂木健一郎
中公新書ラクレ 700円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 茂木健一郎さんの本、最近やたらと出版されている。そのせいか、えらく手抜きな対談や解説をつかんでしまうことが多くなり、がっかりしてばかりだった。だから、ここ1年くらいは手を出さないようにしていた。それでもこの本は雑誌のエッセイをまとめたものみたいだし、立ち読みした感じでは大丈夫な気がしたので購入した。

 日常にありふれたことからちょっとばかり考察してました。そういう内容になっている。ソファーに座ってゆっくりとした時間を楽しむお供として、ちょうどよい感じの読み物になっている。ただし、昔の茂木健一郎さんの本にあるような、哲学ような科学ような考察ではなく、時間の埋め草のような感じなので、少し物足りない。読んでいる最中は面白いのだけど、読み終わって思い返すと「なんだっけ?」となってしまう。ぐさりくるものがないということ。

2008年1月 1日

日本語の本質

司馬遼太郎対談集
文春文庫 457円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 司馬遼太郎さんの文章を読みたくなり、エッセイでも読もうかとぶらりと本棚を探していたらこれを手にしていた。日本語についての対談ならば面白いかなと。ところが読んで見たら少し想像していたものと違っていた。この時代の人はどの人も賢い(というか、知識のカバー範囲がかなりちがっている)ので、その対談が「なぜ、おもしろいのか」についてピンとこないところが想像していた以上にあった。これをつまらないというのだろう。本の善し悪しではなく、マッチングの問題なのだ。

 普通の人が使える文章日本語を明治の頃の作家は工夫してつくった。情報伝達ツールとしての現代日本文章語を週刊誌や松本清張さんなどの小説が作っていた。一つのセンテンスには一つの意味しか担わせないというのは、これまでの日本語と真逆をいくことのようで、何気にこうしてメモをつけている言葉もその人たちの工夫の結果なのだなと思う。子供の頃から当然のごとく使われているものは、古代からあるものだと思いがちだから、新しい発見をしてしまったかな。

 対談というのは、それが行われた当時の雰囲気なり問題なりを気付かないようでも反映しているのだから、数十年たつとピンとこなくなるようだ。対談は自分の年齢までの古さがよく、それよりも戻る場合は散文によるよりなく、できれば社会事情や社会の価値観を少しでも多く持っておかないと楽しめないようだ。