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2008年4月29日

ぼくの作文学校

森本哲郎
角川書店 980円
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 Amazonマーケットプレース

 森本哲郎の自伝的文章術獲得の物語。だれも最初は「わからん」ものなのかと思い、大いに共感し、そして、安心した。子供の頃から文才がある人はいるだろうし、どの分野にもそういう人は存在して大いに良いものを残して欲しいと思っているが、そうでない人がどれくらいいるのかも興味を持っていた。森本さんはどちらかといえばどうすれば文章が書けるようになれるのかを大学になってまで思い悩んだ口なのかと知ってうれしくなった。

 動機は単純なものだ。「どうやったら、自分が思っていることをすらすら文章にできるのか」 文章を学び、書きたいと思うようになった動機はこれ以上ないくらい単純明解だ。そして、ぼくもそうなんだ。同じ動機。別に小説家になりたいわけじゃない。だれもが文学者になりたいわけではないけれど、空を飛んでみたいと同じような動機で絵を描いてみたい、楽器を弾いてみたいと思うことがあるだろう。確かに、最終的に歴史にたえる「作品」を残すには長い時間やり続ける必要があり、そのためにプロになるのが普通だろう。でも、まぁまぁのレベルでもすいすいできれば楽しいだろうなと思っているはたくさんいるはず。ブログを始める人だって多くの人が「自分の考えていることを表現できたら面白いだろう」になっているはずだ。

 この本では小学生時代の作文の宿題の思い出から始まっている。学校の宿題。「自分の思ったことを書けばいいんだ」という、あの無責任な宿題である。読書感想文でも「感想を書けばいいんだよ」などと言われた。今でもこうしたインチキ授業が行われているのだろうか。そうでないことを祈りたいものだ。
 さて、思ったことを書こうとして書けないでいた森本少年は結果的にどうしたかというと、

そしてぼくは、作文というヤツは、要するに何かを「思う」ことなんだ、と、おそまきながら気がついたのであった。

 これ、およそモノを表現する人にはすべて当てはまるのじゃないかと思う言葉だ。そうなんだよ、そもそも普段から「考えていない」と何もでてきやしない。占い師に言い当てられたかのようにぼくはビックリしたが、少年時代にそういうことを悟れた森本哲郎はスゴイ。社会の普通の人は毎日毎日いろんなことを考えて生きているような顔をしているけど、さてブログでも書こうかなと思って「ネタがない」という段階になって、「普段は何も思っていなかった」ということがバレるものだ。しかし、それを自覚できないもの。


 通常の感想文というのは、この本が面白かったつまらなかったと書いてしまうところからスタートするものだが、それはよくみると本の紹介ではなくて「書いている自分の紹介」になっていることが多い。

作者はまず、自分がこれから何を書こうとしているのか、それを書きたいわけは何か、どういう側面について書くのか、つまり主題をはっきりとこわっているじゃないか。

 こういう具合に、いろんな人から「文章を書くとは」を教わりながら文章についての思索つづられていき、新聞記者になり、日曜版の記事を書くというところまで進んでいく。読んでいると自分も成長した気分になる。

 そして、文章上達についてはこういう見解のようである。

 英語を勉強するには英文を和訳するのと同時に、和文を英訳する練習をしなければならない。それとおなじで、文章を学ぶには、書くことはもちろん、同時に、読むことに習熟しなければならないのである。読むことは書くことと同様、内言語、外言語(自分の頭のなかだけで使っている理解の道具を内言語、他人とコミュニケーションのために生成する道具を外言語と言っている)の翻訳になれるということだからである。
 面倒がらずに読み、かつ、書くこと ー 作文の秘訣は、やはりこれ以外になさそうである。

 おそらく、そうなんだろう。だから、これ以上「文章術」なるようは本を読むのはやめようかと思っている。もちろん、この本も文章術の本で、だからこそこの文章に出会えたという事実はあるのだが。

 だが、そうはいっても、文章を書くための根本条件は、やはり第一に、書きたいものを心の中にもつということだ。いくら内言語と外言語の翻訳に自身がついても、かんじんな何を書くか、それが頭になければ文章はつくれまい。じつをいうと、ぼくがこれまで考え続けてきたのは、まさにそのことだった。何を、どう、考えたらいいのかーそのためにぼくは苦闘しつづけてきたのである。しかし、考えは無からは生まれない。考えるには考える材料がいる。その材料とは知識であり、情感であり、さまざまなイメージであり、疑問であり、それらすべてをひっくるめて「関心」といってもよい。つまり、何かに関心がなければべつに考えることもなく、何も考えなければー文章に技術にどれほど通じていようとーひとかけらの文章も書けないのだ。したがって、作文にとって何よりも必要なことは「関心」であり、心のなかになにを書きたいと思うことをいつも持っていることといってよかろう。なんとも迂遠な道のように思えるかもしれないが、「関心」こそが文章をつくりあげるのだ、ということを明記すべきであろう。

 これまでずっと知りたかったことの答えがある。ただし、それは半ば予想通り半ば意外なものだ。ぼくにとってだが。
 何かを始めるとき、道具や技術が「ない」から思った通りのことができないと考えるのは仕方ないことだが、ある程度歳をとると「道具や技術じゃない」と悟る機会はある。
 しかし、道具や技術じゃないと宣言してしまうと、そこで「才能論」になってしまう。そうなったら全てが無に帰すことになる。無責任な人は才能論をいうのだが、才能論は「結果がでたときになって」始めて才能があったといえるものであって、結果がでるまではなんともいえない性質のものだ。だから、これから何かをやろうという人には有効な議論の材料にはならない。

 文章はなぜ存在するのかから考える。自分が関心をもち、それを相手に伝える。その動機があるかぎり、読むこと書くことを訓練すればいい。ただ、それだけなのだ。
 ぼくも文章が上手になりたいと思っている。ならば、ただ読みと書きを工夫しながら続ければいい、ということだ。

 

2008年4月28日

猫と針

恩田陸
新潮社 1200円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ秋葉原

 恩田陸の小説は基本的に思索が中心である。主人公があれこれ考える、それが面白い。高校生が歩いているだけで『夜のピクニック』が成立するくらいなのだ。
 思索は言葉で行っているとはいえ、頭の中で進行していくもので本来他人からは見えないし共有されないものである。それを会話が補うことになる。恩田陸作品では、エピソードの中での行動はさしみのつまであって、本筋は主人公が置かれた環境下での思索が光っているのだとぼくは思っている。だから、映画にしたら大切なことろが全部抜けてしまうだろうし、実際抜けてしまっている。

 では、芝居にしたらどうなるのか。『チョコレート・コスモス』という(ぼくが思うに)最高傑作も主人公の思索が面白いのであって、あれを主人公の外側から見える行動や発言だけで表現したら実につまらないものになってしまうだろうと予想する。となると、この芝居も恩田色をもった作品にしたら何かが抜けてしまうのではないかと思った。ただ、こういう公演はチケットがとれないだろうから、結果的にどうなったのかはわからないままだったのだけど。

 この本を本で見て恩田色があったのでちょっと驚いた。まぁ、短い作品だけど芝居にする以上しかたがない。それに、登場人物がカタカナだったので、発言がだれがだれやらこんがらがってしまったところもある。芝居ならばそうならないのだろうけど。
 で、どうかといわれれば、良いと答える。よいのだけど、もう一踏ん張りなんじゃないかという気もする。恩田作品の結構なものは最後までテンションがもたんかったのかなぁ、というモノがあるから、この作品はそうではなく良かったと思う。
 月並みな感想だが、芝居を見たかった。DVDじゃ、もうひとつだしね。

2008年4月26日

HACKERS & PAINTERS

PAUL GRAHAM
O'REILLY 2223円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 何気に気になっていた本を読んだのだが、いつもとちがうのは原著にしたところ。英語の本を一冊丸ごと読んだ経験は1冊しかない。論文といった10ページ程度のものか、ぶ厚い教科書で該当する章を読むことがあるが、時間がかかってしかたないので敬遠していた。しかし、ぼくも人生を折り返しているし、今そういう経験を積んでおかないと今まで以上に面白い本との出会いを広げていく道が閉ざされるような気がして、これからは例え時間がかかっても英語の本を読むことにした。ただし、気合いが現実に反映されるわけでもなく、200ページのこの本を読むのに、通勤の往復を2週間もつかってしまった。通常ならば5−8冊くらいの本を読めていたはずだから、本の出会いとしては1/5〜1/8になったことになるが、何をやるにしても最初はそういう非効率なもんだろうと納得している。

 プログラムとプログラマーについて語れたエッセイで、読みごたえがあった。高邁な信念を語るのではなく、本音ベースの「だって、そうでしょ?」というプログラマーの視点での発言で、そういう風に考えるのかと勉強することが多かった。少なくとも、他人をバカにする見下すことしかしないプログラマーやデザイナーのような発言がなく、すご腕の人だってぼくにもわかるような美学や動機から行動しているのだと知ってほっとした。

 著者はプログラマーであり、社会で多くの人に使われているシステムをベンチャーとして成功させた人である。一方で、芸術というか美しさとは何かについてもちゃんとした哲学を持っている。パソコンスペック競争やアイドル好きの特質を伴う人とは違って、ぼくは尊敬の念を抱く。こういう人、日本のシーンのなかでもたくさんいるのだろうと思って、もっと活躍してくれないかなと思っている。

At an art school where I once studied, the students wanted most of all to develop a personal style. But if you just try to make good things, you'll inevitably do it in a distinctive way, just as each person walks in distinctive way. Michelangelo was not trying to paint like Michelangelo. He was just trying to paint well: he couldn't help painting like Michelangelo.

 そうだよね、まったく。技術なり知識なりを動員して良いものを作るということに力を尽くすと自然にその人なりの方法になっていくだろう。なにも、自分なりの方法を探すことが芸術をするもくてきではない。なんでそんな「自意識過剰」な活動が人を感動させるのだろうと考える人が多いのだろうか。こういう内容って、その活動の意味する先を目的に活動している人が言えることで、だからこそこの人が語るプログラミングやプログラミング言語についての考えは信用できると思う。こういう、きちんとした感覚をもった人が、計算機好きの中にたくさん出て欲しいなと思う。

2008年4月20日

神の旅人

森本哲郎
新潮社 1600円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 キリストを世界宗教へと押上げたといわれているパオロが旅した道を歩きながら思索する森本本。キリスト教の内容についてどうこういうのではなく、古代ローマという時代、ヘブライ、ユダヤ人の特殊な宗教がどうやって世界化していったのか、どのような状態でどういうことをパオロはしたのだろうか。それをなるべくパオロが歩いたと言われる道をたどりながら考えていく。

 キリスト教徒の人とキリスト教徒に反対する人にはこの本を楽しめないだろう。砂漠に心魅かれる人、古代オリエント(今でいう中東)、古代ローマについて興味を持っている人ならばのめり込むだろう。あるいは、旅行に興味がある人もこういう旅行者のような行動に憧れるかもしれない。ぼくは、たいして旅行経験もない普通の社会人であって、森本哲郎の本と古代ローマ・オリエント史に興味を持っている人である。その視点からみれば、いつか自分もこのような旅をしてみたいなとため息をつくだろう。もっとも、旅は可能だろうがその行程で思索が行えるのかと言われれば多分無理だろうから、結果的にはこの本をソファーに座ってゆったり読みながら想像する方がずっと幸せ度が高いことは間違いない。

 この本を読むのは2度目なのだが、内容は忘れてしまったことが多く、初めて読むような気分がした。ただし、初めて読んだ時よりも古代ローマ・オリエントについて何冊か(実は何十冊だが・・)素人として楽しみながら本を読んでいるので、背景となる場所や出来事について思い当たることが多いので、より楽しく読めた。勉強はしたもんがちだとつくづく思う。

 宗教が世界化するとはどういうことか。ナルホドと思う記述がある。通常の宗教であれば何らかの掟があり、ともかくもそれを守るということが必要になる。その宗教に帰依している場合の最低条件であろうと思うことがあるだろう。そういうルールは、その地域に住んでいる人が歴史的に得たモノであることが多く、その地域にいれば当然であるものだが、そうではない人から見れば「意味不明」なものに見える。なんで安息日に働いてはいけないのか。割礼がなぜ必要なのか。これは「決まっているものは守れ」という態度が、その掟の発祥の地にいれば当然に感じる。つまり、大抵の宗教はそういう「個別性・特殊性」がある。一方で、世界化するにはその掟の特殊性を外の世界に納得してもらう必要があるが、当然無理である。住んでいる場所が違うのだから。住んでいる場所が違えば考え方が違ってくるのだから。だから、普通宗教は世界化しない。では、キリスト教はどうして世界化したのか。

 森本哲郎は哲学の人だから、「アウフヘーベン」という相対立する考え方を止揚することだと見ている。宗教は個別、世界化は普遍。この考えを一つ上のレベルに上がって解決すればよい。感嘆に言えば、パオロはそれをやったのだと言っている。この本では、その過程を色々想像しているのだ。小説という方法ではなく、思索と言う方法で。

 なぜ、キリスト教が世界宗教化したのか。同じテーマを塩野七生もローマ人の物語で扱っている。すこし視点が違うようである。それを社会の人々の必要性にどうマッチさせたかという戦略的な発想で説明されていたと思う。パオロの苦悩というより、エンブロシウスの知性による勝利という物語になっていた。どっちの話も成立するし、お互い矛盾しない。扱っている時期が違うし、いろんな人がいたのだろうし。まぁ、世界化のフェーズが違うのだから当然だろう。

 さて、パオロの考えた止揚だが、つぎのような一文で理解でると思う。

互いに愛し合うことの外は、何人も借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全(まっと)うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣の人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはならない。だから、愛は律法を完成するものである。(「ローマ人への手紙」)

 実に上手にアウフヘーベンしてある。民族の掟だった十戒のいくつかを隣人を愛せよでまとめてしまった。これならば、「そりゃそうだろう」という気になるだろうから、ユダヤ人じゃなくともなっともできるし、キリスト教徒でなくとも「いいこというね」と納得してもえるだろう。お釈迦様だって異論はないだろう。

 もっとも、こっから先は思うように行かないのも歴史を振り返ってみれば理解できる。愛の定義、隣人の定義が状況によって変わるし、生命として自分を守る必要があるだろうし、隣人におかしな人がでてきたらどうするのか、蛮族があれくるってきたらどうなるのか、という色々な「想定外」の環境にさらされるとこの行動指針がどの程度有効なのかがはっきりしてしまう。たぶんそれは、ケースバイケースになるのだろう。まったく、世の中は単純ではないのだ。

 旅をしながらこんなことを考えていく。最後にこういうアイデアにたどり着く。そんな旅は、旅のしがいがありすぎる。大抵は、もっとつまんないことに注意をとられて思索を深めることなどできないものだと思う。ぼくの場合はそうだった。そして、もっと修業をつめば森本哲郎のように考えることができるかもしれないと淡い期待をしながら次の旅の計画をするのが、一つの道楽になっている。


 最近、本を読めていなかったので久々にさっぱりした幸せ感を味わえた。読書は時間も空間も越えられる。想像力だから実際の生活には直接御利益がないかもしれないが、それでも読んでいる時間は実に充実したものになる。さて、また古本をアサリに行くかな。


2008年4月 8日

したたかな生命

北野宏明+竹内薫
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 生命はロバストなんですよ。そういう説明があったとしも、ロバストってなんだろうと疑問に思う人がいるだろう。そういう人が読むと面白い本だ。生命にもロバストという言葉にも興味を魅かれないならば、あまり面白くないだろう。とくに、後半の話は堪え難い。だから、進化とかシステムとか、あるいはメカニズムといったことに漠とした感心がある人ならば最後まで読み通せるだろうと思う。ぼくは、行きの電車で読めてしまった。

 ただし、だからといって濃い内容があるわけではない。フォントが大きいし、余枠も大きい。これ、新書になるんじゃないかと思うようなものだ。悪気があって言っているわけではない。単に、1600円ではなく半額で読めるようにしてくれたほうがいいのに。まぁ、商売だから仕方ないけど。

 書名はロバストを頑健性としないで、むしろ逆のニュアンスを持つしなやかということばを全面にだした。しやなかな生命、という言葉では何をいっているのか一瞬わからないが、状況が変わってもそれになうべく着いていけることで結果的に生き残れるようなメカニズムというもの大抵の生命はもっている、といいたのであろうと思う。

 何かスゴイ仕組みを発達させると、その仕組みが「効果を発揮する」状況に生命が進化してしまい、過適応してしまうことになる。地球上の状況などはよく変わるものだ。だからこそ生命はどうころんでも生きていくようになっている。それを参考にして「システム」を考える。つまり、生命のアナロジーでシステムを見ていくと、生き残った良いシステムはロバストな点がいろいろ見えてくる。ここのものよりもモノ、機能との関係を築くことや階層化していくことの意味が見えてくる。そういう視点を教えてくれる。

 この本は共著になっているが、どういう作業をしたのだろうか? 議論を文書にし直したところか? 一般の人向けにするような部分なのか? そういうどうでもいいところが気になった。

2008年4月 7日

「待つ」ということ

鷲田清一
角川選書 1400円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 表題に魅かれて買ったのだけど、ぼくには合わなかった。つまらないのではない。わからないのだ。この本の扱っているテーマには大いに共感するだろうと思って、哲学書の雰囲気があったのだけど買ってみた。最初の1,2章こそエッセイ風で面白く読めたが、途中から哲学書・思想書の引用がでてきて、後半からは一発で理解でるような話をしていない。とても、電車で読めたものではない。ちょっともったい内気がした。

 この本が扱うテーマはごく普通の人も同じように感じていることがあるだろう。なんとなく感じていることを、エッセイとしてはっきり言葉にしてくれれば、「そうだなぁ」と感心しながら読めるのに。結局、哲学の人は哲学の人に訴えるのみで、うまく言葉にできない人たちの側についてくれる人は少ない。残念だと思う。

 感じているけど言葉に表現するほどの気付きとまた論理性と言語能力を持っていない人は多い。本を書ける人って、自分のオリジナルな意見や見方を主張するという方法ではなく、普通の人が感じていることを多くの人がわかるような言葉と論旨展開と物語を考えて、本に定着することに感心もってもよさそうなものだと思う。この本の著者は違っている、というだけの感想しか持てなかった。

2008年4月 3日

生と死の解剖学

養老孟司
マドラ出版 951円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 どういうわけかamazonなどのネット本屋では検索に引っかからない本で、ブログ検索結果で見つけた。とくに出自がおかしな本でもないし、内容に問題があるものでもない。そもそも、「夜の学校」という講演シリーズの一冊として出版されているもので、他の本となんら違いを見出せないのだが。

 内容は養老孟司本である。これまで何冊も読んでいればどこかで読んだ内容だから、新規だというものはないかもしれない。だからといって退屈することはない。面白い興味深い話は何度聞いても面白いのであって、この本も一気に読んでしまった。3人称の死とか九相死絵巻とかの話は、何度聞いてもつい聞いてしまう。

2008年4月 2日

生きがいへの旅

森本哲郎
角川文庫 340円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 また森本哲郎の本を手にしてしまった。定価は安いが30年前以上前の値段。1970年時点で1960年の日本に生きている日本人が日本について思索するというエッセイ集で、旅をしてに出かけるという本ではない。また、自身が主人公のフィクションでもない。こういう風に思索できればいいな、という哲学の見本を見せてくれている。英語とフランス語があれば、大抵の国にでかけそこで友達を持つことができるのだな、とちょっとうらやましくなる。

 4部構成だけで、時を立つのを忘れるくらい面白いのは1部。ベトナム戦争についてはとくに勉強したこともないし、とくに興味をもって調べたわけでもないからよく知らないが、当時ベトナムで記者をやっていた視点からベトナム戦争を語ってくれている。これを読むと、アメリカはいったい何をやっているのかよくわからなくなる。人の家に土足で踏み込んであれこれ指図しようとして、その家の住人とケンカになる、というイラク戦争のようなことをしていたのかと思う。イラク戦争は要するに石油を確保したいがために手の込んだ芝居をしているのだけど、それはベトナム戦争の失敗から学んだこそくな方法なんだなと知った。

 2部から4部までは、純粋な思索である。ちょっと高度な感じがする。お気楽に読んでいたら疲れてしまった。とくにその自体の日本とつよくリンクしているような気はしない。今でも問題なく議論できるような内容である。ぼくにとってはもうひとつ面白くない。通勤電車では辛い。