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2008年6月28日

そしてーぼくは迷宮へ行った。

森本哲郎
芸術生活社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amzon.co.jpマーケットプレース

 旅がしたくなる。砂漠とか古代遺跡とか。そういうところを歩き回る。暑くて外にでれないときは昼寝をし、寒くてくらい場所では凍えないがら風景をみる。その場所にあるものを見ながら、世界史や文学について学んだことを思い出す。あぁ、それはここだったのか。

 なんてことはない、街道をゆく、みたいなものである。日本史に興味があるならばそれもいい。読むことがおいしい飲み物を飲むかのような気分になれる司馬遼太郎の文章もよいだろう。

 しかし、ぼくは砂漠や遺跡のほうに興味を持ち続けている。だから、森本哲郎の方が断然好きである。砂漠の場面では風紋が海岸では波の音が聞こえてくる。自宅でねっ転がっているのに、古代遺跡を前に佇んでいる気分になれる。アクロポリスやモヘンジョ=ダロにいるような気分になれる。今ではレバノンやイラクには行けないから、想像の中で楽しむよりない。

 この本で訪れる場所は、サハラ、クノッソス、インダス、ペルセポリス、ピラミッド、イースター、クメールというキーワードでかたれる場所。「謎」というテーマのテレビ番組で放送されつくしている感があるので、今どきの人は「もういいよ」というのかもしれない。実際、激しく観光地化されているだろうし。だから、実際行ったところで楽しくないだろう。

 しかし、森本哲郎が訪れているのは60年代、70年代、そして80年代。いまみたいにディスティネーションツーリズムが儲かるビジネスとしてはさほど認識されていなかった時代。だから、廃虚が廃虚なりにわびしい感がただよっている。そういうものを読むのが、なんともわびしい気分になれて、つい読んてしまう。

 読んでいて楽しいけれど、一方で勉強しなくっちゃとも思う。今から勉強してもなぁと思っているくらいだったら勉強したほうがいいや。世界史や世界文学を知らなすぎるのだ、だいたいぼくは。そういう蓄積があるから、旅をしても楽しいんだろうな。

 ただ、そういう旅は頭の中の旅になってしまうような気がする。現物をみいるのに、頭の中の知識を参照してばかりになってしまうかも。そういうときはどうするか。

 現地の普通の人がいく食堂で飯を食うことだ。現実にそこで「接地」することになるから。

 まだ、森本節郎の本で読んでいないものはある。そういうものを古本でちまちま探していく。今はネットがるから簡単に入手できるし。 


2008年6月27日

世間も他人も気にしない

ひろさちや
文春文庫 640
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックスサガ長津田駅

鯉をバケツに入れて火にかけます。鯉はじっと我慢して、ついに茹だってしまいます。だが、鯉を熱湯に入れると、ぴょんと飛び出します。

 新書の帯にある言葉が目についた。これって、「湯で蛙」の話じゃないの? いろんなバリエーションがあるもんだ。蛙も鯉も、実際にそうなのかな? 実験したくわない気分だ。

 ぼくはひろさちやの本が好きである。これまでも何冊か読んだ。その主張はぼくも納得がいくし、部分的には実践もしている。もう70過ぎの爺さんだが、だからといって主張する内容が古いともピントが外れているとも思わない。本はいいな。電車で説教されたはら聞く気分にはならないが、本をかえしての対話ならばぼくは喜んでしたいし、実際買って読んでいる。ということで、内容は買う前にだいたい予想が付く。でも、買ってしまうのだ。好きになるとはそういうものなのだと思う。

 書店で見かけて、迷わず買ってしまった。帰宅途中だった。どうにも疲れていた。自分の力の足りなさに悲しくなっていて、なんでこんな面倒なことをやっているのだろうと疲弊していた。そういうときには、ひろさちやである。ものごとをそれ以上悪く考えることをしなくなる。その場で止まる。では、それで明るく生きるようになるのかといえばそうではない。この本の効用がへんな新興宗教とちがうのは「治す」ということを公言しないところだ。あくまでも、立ち止まって、自分を後方上空から見えるようにしてくれる程度に気分を開放させてくれるだけだ。しかし、それがあるのとないのとでは、大違いなのだ。

 世間虚仮。世間からは逃げるに限る。なるべく実践している。予想以上に問題は発生しない。


2008年6月21日

小説以外

恩田陸
新潮文庫 590円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 本のタイトル通り、小説以外の書いたものをエッセイ集としてまとめたもの。文庫本で400ページを越える厚さがある。昔といっても97年くらいからのものだ。何かのコメントやら文庫本の解説やらコラムやらをまとめたもので、正直そんなに面白いものではない。エッセイとして面白いものを書こうとしたものではなく、要するにその文章以外の「なにか」の解説をしているものなので、仕方がないといえば仕方がない。ぼくとしては、誰かの文庫本の解説はいらなかったんじゃないか、と思う。

 恩田陸の普段の生活が垣間見れる。売れっ子の作家の生活がどんなものなのかは知らないけれど、ただいそがしいということであって、何か普通の社会人とは違った種類の人々ではないようだ。楽しみが本と酒のようだから、ごく普通の人のようである。そこはちょっと以外。ぼくとしては、いしいひさいちのマンガにでてくる「藤原ひとみ」のようなものなのかと思っていたから、残念な気もする。

 作家というよりも、本好きの人の行動がわかって面白い。「面白い話を読みたい」ということが、その人の人生をドライブしているのだ。かなりさっぱりした動機なのだ。読みたいというは、話を聞きたいということにつながる。いってみれば、お話好きの子供という感じだと思えばいいようだ。文系の人って、あーだこーだうるさいのかと思っていたのだけど、面白い物語を聞きたい、という動機で十分立派な社会人であり、創造者になれるのだということがわって愉快な気分にある。大学教授などはつまるところ「おれは偉い」というのが動機なのだから、それと比べるとやはり実際にモノをつくっている人と違う。ぼくは、実際にモノをつくった人を信じる。

 面白いものを読みたい、という動機で人生を渡っていくという発想をぼくは持っていなかった。もちろん、学生じゃないのだから思った通りの人生など歩めないことは知っているが、それでも自分はあまり不愉快なことをしないでいい仕事についているので、学生のようは人生論を持っているのかもしれない。現実に接地されていないから、ダメな人生論なんだろうけど。

 面白いものを読みたい、そして、できることならばそれを自分でも作ってみたい。そういう動機で人が生活できるのは実に幸せなことである。それで生きていける人は、過去から考えても多くはないはずだ。時代も才能も技術も、じつに色々なものが同時に自分の身の回りに発生しないとだめだから。そして、良い作品というもののいくつかは、本当にそういう動機が原因で生まれてくるものなのだということも確認できてうれしい気がする。そうでもないと、やってられんでしょう。

 下積みがないからとにかく量をこなした。そう、恩田陸の発言があったが、これは小説を書くという作業が「身体」にまつわることなのだとわかる。読んで考えて解説して、あるいは、論文を書いて。文学というものを未だに理解できないでいるぼくだが、やはり自分でも小説を書かない人がいるのならば、深読み、などしても決して文化に貢献しそうもないのに、なぜそれが学問になるのだろうか。小説は、要するに、身体の技術に違いものだ。歌とかと同系統だろう。とすれば、より小説を理解して楽しむためには、こういう感想メモでもいいから自分でも文章をつくってみることなのではないかと思う。すこしはよい作品の偉大さを感じることができるようになると思うので。


2008年6月19日

presentationZen

Garr Reynolds
NewRiders $29.99
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 プレゼンテーションに関する本は何冊か読んできたが、この本はそれらを大きく引き離している。ビックリした。いやはや、こういう本を探すにははやり洋書を漁らないとダメだということを身にしみて感じた。絶対に翻訳されると思う。だから、その時買ってもいいとは思うが、ちょっとしたタイミングの違いで出版を見過ごしたら二度とあえなくなるかもしれないと思うと、はやりアンテナは洋書もカバーしておく方がぜったい良い。なるほど、世界は広いわけだ。

 プレゼンテーションってなんだろうか。そういうところから考えさせられる。もちろん、グラフィックデザインを指向したクリエーターっぽいページをつくれればそれで終わりでもないし、必ずしもそういうものを必要とするわけでもない。もっと根源的なところに素晴らしいプレゼンテーションとは何かを考察している。著書は、「素晴らしく良くできたドキュメンタリー番組」のようなものだと思っている。印象深い写真、映像、そして、ムダのない、また、引き込まれる文章とナレーション。そこには事実とともに物語がある。そうものだ。

 ダメなプレゼンテーションと良いプレゼンテーションとがある。ちなみにぼくが過去感心したことがあるものは、Steve Jobsと坂村健、そして、大前研一である。Steveは内容とビジュアルとが相当高いところにある。彼のプレゼンはマネしようと思ってできるものではない。バイオリンが好きだからといって、世界一の人のように弾けるようになれるは数人なのだろう。練習してなんとかなるレベルは、おそらく、日本人ならば坂村健と大前研一であろう。論理性を鍛える、語る内容を心底信じている、これらをマスターすればなんとかなるだろう。そう、思う。一方、普段目にするプレゼンで良いものは、全くない。普通の人はそうだろう。パワーポイントのテーマをそのままつかったものを平然と使い、細かい字やデカイ字を箇条書きにしていればいいというものしか普通お目にかかれない。当然、だからこそプレゼンテーションの限界というものに接したことがない人がつくるプレゼンは、自分が見たものを越えるはずがない。よりダメなプレゼンを自分は作ってしまうというわけだ。

 良いプレゼンを見ること。悪いプレゼンは見ないこと。そして、なぜ良いプレゼンを良いと思うのか考えること。解剖すること。出来そうなことは自分でマネしてみて、どうなるか試してみること。ある程度はこれで上達する。しかし、この本ような指導があれば、もっともっと高いところへ行けるであろう。メッセージに含まれるもの、そもそも論、ビジュアルの大切さ、これ以上落とすことができないであろうプレゼンマテリアルのチェックリスト。この本は、本として読者のプレゼン力を高めるためのこれ以上ない方法を提示してくれる。おそらく、これ以上のガイドブックは存在しえないだろう。

 僕自身、次のプレゼンからのこの方法を全面的にとりいれる。大きいな変更である。だから、多分うまくいかないだろう。それでも、数を重ねれば、普通の人がたどり着けないところへ上がれるような気がする。この本は、出会えて良かったと思う、数少ない良いガイドブックである。


2008年6月15日

初歩から学ぶ生物学

池田清彦
角川選書 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 明屋書店五反田店

 時間調整のための立ち寄った書店で、新書を眺めていて目に付いた。あれ、池田清彦の本で買っていない本がまだあったんだ、とばかりうれしくなって買ってしまった。内容は生物学の基礎的なお話。学術をねらったものではなく、まぁ、池田清彦がかんがえる普通の人が知っていて欲しい生物学というものの骨格のうち、普通の人が書かないような方法で手短にまとめた導入書。前半は面白いけど、最終章は要らないような気がする。素朴な生物にたいする疑問、生物の仕組み、そして進化。構造主義生物学を標榜する著者なりの思想のいったんが書かれていて良い。もっとも、物議を醸し出すような書き方ではなく、あくまでもそれとなく普通の生物学や進化論の立場を「それはうそだよ」というニュアンスを込めて書かれているので、ちょっと面白い。ただし、これが生物学入門の決定版なのかは不明。いろんな門があっていいと思うけど、これが決定版ではないでしょうね。


2008年6月14日

もうろくの詩

森毅
青土社 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 森毅の新刊がでているとは思ってもいなかったのでビックリして買ってしまった。さすがに最近はマスコミにも登場しないし、エッセイも書く機会がすくなくなったのだろうと思っていたが、数年分の機会を一気にまとめたものようだ。

 本は面白い。読んでいる側からは、著者の年齢を直接感じることができないから。直接あったり、テレビやラジオなどを通すと、年齢は姿勢にも肌やシワにも声にも所作にも受け答えの速度などにもはっきり現れる。しかし、エッセイならばそれがわからない。森毅のエッセイは昔からのんびりしていて、下目線のところが皆無だったからかもしれないが、話題が親しい友人の死の話であっても、くらいものを感じさせるところがない。おそらくだが、本人はくらい生活をしてないのではないかと思う。

 ぼくが浪人しているときときに出会った『サボリ流数学のすすめ』を読んだことが、本というものに興味をもつきっかけとなった。本と、しょうもない浪人で、そんなんで大学行けんのかと思っていたが、高校最後のテストも0点だった数学を得意科目に変化させ、その後数学を道具として普通に使う工学系へすすみ、博士号までとってしまうことになろうとは、あと時は思わなかった。ビックリするような変化を与えてくれた著者の本は、一応全部読んでおり、まだ書かれているということに、おれもがんばろう、などと意味のない張り切りを感じてしまった。

 さて、この本の内容では、同時代の数学者たちのあれころを話しているところが良かった。ぼくは数学者でもなんでもないが、名前が挙がった日本の数学者は全員何かしら教科書を読んだか、別のブルーバックスや読み物を読んだことがあるから。特段憶えようともしなかったのに名前をはっきり憶えているのだから、大学時代もそれなりに興味を持っていた証拠。

 今でも書いているのだろうか。さすがに次のエッセイ集というのはむずかしかろうか。


2008年6月13日

コンスタンティノーブルの渡し守

塩野七生+司修
ポプラ社 1200円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 新刊の棚にでていて、おおと思った。ぼくにとっては幻の一冊。この存在はずっと知っていて、入手したいなぁと思っていたが、できないでいた。塩野七生の本は出せばうれるから、絵本や児童書の出版社であるポプラ社(よく知らないが、小学校のときにポプラ社の本をよく読んだ)が再版してくれた。ありがたい。

 絵本である。内容は恋物語で、どちらかというと寂しいものである。まぁ、塩野七生らしい妄想なのだが、果たして当初の読者は誰を狙ったものなんだろうか??? 若干、対応に困りそうな本で、土地ラかといえばコレクターアイテムなのかと思う。


2008年6月12日

マールティアーリス詩選

藤井昇 訳注
大学書林 1000円
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazon.co.jp

 古代ローマの詩人の皮肉たっぷりの詩が読みたくなり、適当に検索していたらひっかかった本。初版は1964年のものだ。ただし、これはカエサルの『ガリア戦記』をテキストにラテン語を勉強する人のためにつくられたテキストだから、詩の翻訳として読もうとすると結構な無理がある。正直、わらえたのは2,3で、あとは「まぁそうだろうな」という程度のものだった。

 これだけだと、なーんだということになるかもしれない。しかしだ。これは古代ローマ時代(帝政初期)の時代の人の詩なんだ。おおおお、なんだ同じじゃないか。そういうビックリ感がある。人のやることも、考えることも、大筋変わらんのだなぁとつくづく感じる。


2008年6月11日

命と向き合う

中川恵一+養老孟司+和田秀樹
小学館 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 中川+養老のガンについての本ではずいぶんと考えさせられる結果となったので、この本も期待して購入した。まぁ、和田秀樹の部分はご愛嬌かな、と思って(あまり参考になること言わない人だから)。

 

和田 結局、がんも認知症も、つまりはどちらも老化現象なんです。ですから、「この薬を飲めば治る」というような類のものでもない。老化は止められないですからね。

 なんだから、この一言でこの本の内容が全部わかってしまうと思うが、まぁ、そういうことを理解せよという警告を発している本。それが対談形式で、よくいえば分かりやすく、悪く言えばもと足りないく書かれている。

 要するにこの本の著者は、がんになったらどうのこうの考える前に、お金を集めるためにどうこう考える前に、生きろ、と主張している。生きろの意味は色々にとらえられるのだが、お金があったら何をする? の回答を真剣に考え、今出来る範囲で行動することなのではないかとぼくは解釈している。時間はまってくれない。最大の治らない病気は「老化」という気がする。若い若くないということで争ってもしかたがない。時間は進むのだから。

 治せるガンと治せないガンがある。治せないものは何をやっても同じ。そういう対応をとるつもりである。それは誰に対しても。時間には勝てないし、老化にも勝てない。そう納得すると、話がはやい。やれる範囲でやっておこう。もしも、を考えても対応策がないのだったら、それは時間を過ごすだけだ。ガン検診だのなんだのをまめに受診するよりも、ベースとなる知恵を身に付けておいた方がいいだろう。それにはこの本は持って来いであろう。



2008年6月 7日

サロメ

オスカー・ワイルド
岩波文庫 300円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ

 100円だったからという理由で手に取ってみた。薄い本で、しかも戯曲。しかも、元ネタを知っている。それでも面白いのか疑っていたが、実にさっぱりとしかし妖しい雰囲気の内容だった。これをそのまま舞台にしたものも見る機会があるかどうかわからないけど、チャンスがあれば迷わず見たい。

 同じセリフを何度も何度も使う方法は、言葉のリズムの成果、それとも一種の「てんどん」の為か、引き込まれてしまう。それも、何をいっても同じ回答する「強情さ」というか「イライラさ」といったものを発するためではなく、何かテーマをしっかりと読者に植え付けるためにあるようで、繰り返しの言葉が単調であればあるほど、ボレロのような響きがでてくる。不思議だな。しかし、こう言うのは戯曲だから成立するのであって、小説では難しいのだろう。詩が介在する余地がどれだけあるかによって、繰り返しが使えるかどうかがきまるのかもしれない。

 名前だけはしっていたワイルドという人の作品を読んだことになる。もう、2、3物色してみてもいいと思わせる作品だった。


2008年6月 6日

十牛図入門

横山紘一
幻冬舎新書 760円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA

 疲弊した自分のまま帰りの電車で読む本を持ちわすれていたので、駅構内の書店でこの本を購入。いまの自分にはなるほどと学ぶことが多い良い本だった。宗教という過敏になりやすい言葉を忘れれば、仏教は心理学的に落ち着きやすいものになるのは確かなのだから、こういう本がもっと出回ってもいいといいだろう。

 十牛図は自己を探し、飼いならし、自らのものにし、そして周りの困っている人を助けられるようになる様子を10枚の絵によって表現したものだそうで、古くからあるとか。この著者がもともと科学者だったためなのか、ぼくはしみ込むようにその説明を理解することができて、新書ってのはこうあるべきだなぁと感じてしまった。

 日常において避けられないいろいろなことについては、おそらく過去からずっと似たような問題を人は抱えていたのだろうから、今でもこの十牛図の意味するところが理解できるのだろう。人は変わってないなーという思うのか、変わりようがないと諦めるのか。どんなに社会が成熟しようともよい教えがあろうとも、人は生まれてきたときはゼロですから、まぁ、この先も大きく変わることはないのかもしれない。というか、変わるのだったら、とっくに変わっているのだろう。

 たった十枚の絵だけど、それを必要とする人にとっては実に学ぶことが多い。面白いのはこの本が今新刊で出版されていること。おそらく、社会においてこういうものを必要とする人が多い、ということなんだろうと思う。意外に同じような気持ちで世間の人は生活しているのかもしれない。


2008年6月 4日

「わからない」という方法

橋本治
集英社新書 700
お勧め指数 ----- (-)
購入店 ブックオフ

 ブックオフの100円新書のコーナーだけを物色するだけでも、ずいぶんと勉強するための本を仕入れることができる。本当だ。講談社新書は岩波新書は時事問題やハイテク関係のものをよければ、いまでも立派に通用するものばかりだし、最近のものでもしっかりと評判を確認しておけば問題はない。それに、失敗したところで100円なのだから、まぁいいじゃないかで済ますことが出来る。まったく、勉強代もずいぶんと安くなったものだ。ブックオフに感謝せねばなるまい。

 さて、まえまえから気になっていた橋本治のこの本を100円で入手し、ちらちらと読んで見た。これは、いわゆる著者の哲学を買った本というか、自分の過去の「セーターを編む本」を題材に、なぜそんなことを行ったのかを思索している本で、正直読みやすいものではない。疲れているときは苦痛だろう。半分眠い電車でも辛いだろう。意識がしっかりしているときに、しかもそもそも橋本治の文章に価値を見出している人がどっぷりつかれる本だと思う。ぼくは、飛ばし読みになってしまった。だから、評価は保留した。

 考察ってこういう作業をするのだろう。それを学ぶにはとてもよい。言葉で対象を定義し、自分の内面を解説し、行動の理由を探り、事実を論理でもって筋にのせ、人に説明してくのである。なかなかできるもんじゃない。

 中身もちらちら面白いと思った箇所がある。著者は過去作家でありながらセーターを編むための本を出版したのだが、そのいきさつを「わからないからやってみた」というテーマのもとに解説している。著者はセーターが編める。しかし、編めない人がおおい。そういう人にたいする「教本」というのは、信じがたいところから説明をしなければなならない。たとえば、毛糸は何処でうっているのか、ということから紹介しなければならない。こういう部分を手芸を専門にあつかう出版社では気付くはずはない。そもそも、その出版社に全くそういうことに無知な人はいないのだろうから。とまぁ、そういう解説にはうな付くところが多かった。

 ぼくも編み物ではないが、比較的最近になって電子工作を自分で行う必要にせまられて、全く知らないところからスタートする目にあった。知らない人はとことん知らないものだ、という言葉の通り、自分でも信じられないくらい全くしらないとを自覚して、情けなくなった。だから、一度手をつけはじめると、毎日知識が鈴なりになって身についていく快感を味わったし、今もそうである。

 わからないからやってみる。この方法は、途中放棄をすることなく、思索が好きな人、自分で考えるのは好きな人にはお勧めの方法なんだな。


2008年6月 3日

古代史の秘密を握る人たち

関裕二
PHP文庫 533円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 ブックオフ

 ある人から、井沢元彦の日本史のもと本は関裕二だよ、と教えられた。では、早速読んでみようと思っていたが、なるほどカッパノベルスとかかと少しひるんでしまった。この辺りは、トンデモ本と学会からはじき飛ばされた本がつならなる際どい世界だから用心して読まないといけない。で、用心して一読したが、そんなにおかしなことを言っているようにも思えなかったので、関裕二というひとは学会とは無関係な自由な発言する人なのだろう。

 政府の記録?としてのこっている日本書紀のようなものを「正しい」として作業を始める学者と、そもそも歴史は勝者がつくるのだから、インチキな部分が多分に含まれているはずだというスタンスで作業を始めるひととが土台から折り合わない。疑わない態度から始めるのは学者側である。しかしだ、疑わないのならば哲学が始まらないし、一方では科学ではない。となれば、学者の歴史学っていったいなんなのだろう。と、いう疑問は無視されるだろうな。

 一方で、思いつきや論理的な飛躍をもろともしないトンデモ系もまいったもの。おそらくは、両者の中間を往くのが安全であり、そこから考えると素人のぼくは梅原猛や井沢元彦の本を読んでいるだけで十分なのだ。それに、この本の著者を加えるのかどうかは、もう数冊読んでからにしないとなんとも言えない。期待はできるけど、果たしてこの方の主張がどこまでいい感じなのか、この一冊ではなんとも言えない。


アラビアのロレンスを求めて

牟田口義郎
中公新書 780円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 ブックオフ

 アラビアのロレンスって、一体なんなのだろうか? 昔、映画をちらっとみたことがあるが、対して面白いとは思わなかった。しかし、その映画は評判が高く、生誕100年でなにやらイベントが開催されることもあるらしい。

 この本を購入したのは、サブタイトルに「アラブ・イスラエル紛争前夜をゆく」というものだったからで、中東問題の一エピソードのようなものを期待しからである。もちろん、著者の名を知っているし、たぶん内容におかしなところはないだろうということもあった。何れにせよ、ブックオフで100円だから、迷うくらいならば買ってしまう。

 で、結論だけど、アラビアのロレンスというのは、実在した人だけど、映画で描かれたような活動はしてない、ということらしい。つまり、アラブ側について闘ったというような事実はなく、あれはアメリカ人の何とかいう人がロレンスの話を手がかりに作ったおとぎ話なんだそうだ。それを大々的に持ち上げて生誕100周年なんてのをやっているところが、西洋人のというか普通の人の実におっちょこちょいなところだと思う。

 英雄って欲しいんですよね、だれしも。アラブ側について闘った金髪碧眼の若者ってきいただけでエキゾチックな感じがします。夢がかってに膨らんでしまう。それに、ヨーロッパ側を打ち負かしたような戦術はアラブ人にはできるはずはなく、背後にヨーロッパ人がいるはずだという気分もあったのだと思う。その2つがミックスされ、現実とはかけ離れた「ローレンス像」ができたということだ。実に分かりやすい結論で、歴史家ってのはたまにはそういうことも言わないといけない。

 アラビアのローレンス像は、当然日本の女学生にも人気があるそうで、この著者の大学の学生には、「卒論にはアラビアのローレンスにアタックしたい」という希望をもってやって来る人がいるのだということです。目的意識をもってやって来る学生というのは、本当にメッタにお会いできないので、そういう人がいる学校があると聞いてちょっとほっとした気分になりますが、と同時に、アラビアのローレンスを卒論のテーマにするって、一体どいう卒論なんだろうかという気分もしてきます。まったく、文科系おそるべし。