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2008年10月30日

暴走する「地球温暖化」論

武田邦彦+池田清彦+渡辺正+薬師院仁志+山形浩生+伊藤公紀+岩瀬正則
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 地球温暖化論が現実と遊離して暴走している。そういう趣旨の記事や論文がまとめられた本である。

 普通の本は一人の著者が一つの視点から語っている。もしその著者が信頼できるなら、その本を読むのは楽しいだけである。ふむふむ、なるほど、知らなかったわ、とか言いなが読めばいい。その著者が考えるように自分も考えていけば主張は分かるので、楽しいだけである。
 しかし、信用できない著者だと面倒だ。なぜならば、その発言内容は一つの世界で正しいものでしかないから。普通、自分と矛盾する論旨を自分の著作に入れることはないので、読者は批判的に読まなければならないからである。でないと、不本意な結果を招く。
 具体的には、主張される項目それぞれについてその根拠や証拠を見つけ出し、それら採用できるかどうか自分で吟味するのだ。
 いわゆる批判的な読み方である。批判といっても、反対することが目的ではなく、自分で考えながら判断することをさす。
 批判的に読んだ本をもとに行動し失敗したら、それは著作に問題があったのではなく、自分の判断の誤りだったということになる。
 批判的に読むには、ワインを飲みながら楽しく、というわけにはいかない。だからぼくは信頼できる人の本を読む方が好きである。
 ぼくは本を著者で選らんで買うことにしている。まず最初に批判的な読み方をして、この人は信頼できると判断したらその人の著作を順に読んでいくのだ。仲の良い友達になっていく過程と全く同じである。

 この本に収録されいている記事の著者では、武田邦彦、池田清彦、薬師院仁志、山形浩生については信頼できると判断している。これまでこれらの人の著作を何冊も読んでおり、その結果信頼できると判断したのだ。幸い、これらの著者の論文が多数派なので、この本を気楽に読んで見た。

 池田清彦の本を何冊が読んだが、それらで紹介されている根拠はここで紹介されている論文から選んだようである。だから、初めて読むような気がしない。
 とくに、薬師院仁志の主張は分かりやすい。彼は、温暖化がウソであるとは主張しているのではなく、矛盾が多くあることを指摘しており、温暖化を主張する専門家たちにそれを質問しているのである。それらの矛盾が論破されないと地球温暖化論は致命的な理論であると。そしてまた、矛盾を指摘する証拠が明確に並べてある。
 そういう疑問を温暖化問題の専門家は無視するようである。個人的な経験則だが、「儲かっている専門家を信用してはいけない」ものであるから、無視するのは当然であるような気もする。

 どうやら本腰を入れて地球温暖化についての本を読んだほうがよさそうだ。これから年末にかけて、目立った本を買い集めてみることにしよう。

2008年10月29日

赤めだか

立川談春
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 嫁さんがこの本をとても気に入ったらしく、しつこく勧められたので読んで見た。ぼくはさほど落語に興味をもっているわけではないのだが、八重洲ブックセンターでも入り口近くのお勧めコーナーにしつこく平積みされているところをみるとこの本は売れているのだろう。

 立川談春という人を知らない。立川談志ならば知っている。談志の弟子なんだろう。どのくらい上手な人かはしらない。でも、自伝を出すくらいには有名な人なんだろう。

 彼は高校を中退して弟子入りしている。今どきそういう人がちゃんと存在しているのがうれしい。サラリーマンのように落語家になったというのではどうも面白くない。人間国宝もでているような芸能の世界は昔ながらの徒弟制度が残っていてもいいような気がする。

 落語に道を若いうちに決心するのはすごい。普通は結局なんにも道を見出せないで、学校に行くのだから。自分で道を見出せただけでもなんらかの才能はあるだろう。その事実一つで、その人の自伝ならば読む価値はあると判断してもいいだろう。もっとも、落語家の前には競艇選手になるつもりだったそうだ。単にサラリーマンというなんだかよくわからない職種がいやだっただけかもしれないが。 

 立川談志に入門してから、二つ目、真打ちになるまでの物語はおもしろい。笑ったり涙したり。どこで勉強したのか知らないが、立川談春という人の文章が上手い。噺家は言葉を操る技術者なのだと思うが、文章も上手のようだ。どの噺家もそうなのかはしらない。

 この本は売れたのだろう。気がつくと、落語家の本が新刊で出版されているようだ。落語ブームでもくるのだろうか。


2008年10月28日

正義で地球は救えない

池田清彦+養老孟司
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 池田清彦が地球温暖化とその対応について声明文のような本を出している。養老孟司の影響力をつかって一般の人に広く訴えることを目論んでいるのだろう。
 前半は池田清彦の解説。地球温暖化問題はウソであると主張している。アナウンサーのような冷静な語り口ではなく、どちらかといえばべらんめい的な調子ですすむ。よっぽど腹にすえかねるのか、憂いが深くて怒りに転じているのか、あるいはその両者の混合か。本気なところが伝わってくるので、ぼくは分かりやすい。
 だだし、内容はこの本で初耳というものはない。これまでに出版された本や論文の主張を紹介し、だれにでもわかるようにまとめることが目的だから。温暖化問題の切り口はたくさんあるが、古本で紹介されている全ての切り口から考えても温暖化問題はペテンのようである。なるほど、それならぼくにもわかる。そう、言いたくなる解説である。

 後半は養老孟司との対談。少し前に同じようなテーマの対談本を出版したばかりなのに、また対談しているから重複が多いかとおもいきや、そうでもなかった。
 石油の代替エネルギーはどうすんだよ、ということに比重が移っている。温暖化問題などどうだっていい。問題はエネルギーなのだ、ということらしい。
 ただし、怒りの主張しているわりには、両者は焦ってはいない。なぜなら、温暖化問題にしても、石油枯渇問題にしても、もう彼らの問題ではないからだ。彼らはリタイア組だ。
 この本の内容を知らされるべきは小学生なんだと思う。その意味で小学生の教師の人がこの本をどれだけ読んでいるのだろうかが気になる。このメモを書いたときamazonでの売り上げ順位は102位だった。どんな人が買っているのだろうか。

2008年10月27日

環境問題はなぜウソがまかり通るのか3

武田邦彦
洋泉社ぺーバーバック
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 武田邦彦のこのシリーズは目から鱗を体感させてくれる本の代表例である。そのシリーズの最新刊が出版された。三冊目ということで、これで完結するようだ。まだ言い足りない事があるのかという驚きと、もうこれで終わりなのかという寂しさが交差する。ともかく、買って読んでみなければならないだろう。

 内容はこれまでと同様、なぜ環境問題が政治問題であって、科学的な結論とは言えないのかをきっちり説明してくれる。おそらくだが、中学生であってもマスコミの報道や政府の環境についての対応は「おかしい」のだとと理解することができるはずである。
 これは大切なことだが、こういうことは学校において教師が自ら考えた結果をきちっと自分と関係がある生徒には伝える必要がある。マスコミや政府の発言を止めることができるのは、いわゆる教師が最後の防火壁なのだ。
 子供であればあるほど、子供の頃に耳にした教師の本気の発言は覚えている。ただし、子供は納得したという表情で答えてくれたり、言葉で理解した事を表現してくれたりはしないかもしれない。しかし、本気の発言は子供であてもわかる。自然と印象づけられてしまうのだ。
 問題はオトナである。まじめなオトナは科学的な結果だと言われると素直に受け入れてしまう。もちろん、大坂商人のような人ならばいざしらず、サラリーマンや主婦などは、権威や人気者の発言を是とするはずで、自ら考えることなどしない。
 いったん原理主義になってしまうと思考停止状態におちる。そうなると、お上の発表を絶対してしまう人が多い。あるいは、周りも自分と同じように行動するよう指示することもある。赤の他人にも指示しようとするくらいなので、自分の子供には強制するだろう。こういう人の子供は災難である。
 現在子供でも十年すればオトナである。ならば、今地球温暖化が絶対だと思っている人を相手にしても仕方ない。
 こんなことを考えると、環境問題は単なる宗教問題なのだということが分かる。

 環境問題において、自分でできることはない。密度とスケールということを考えれば、個人できることは効果がないのである。人一人一人の行動など対した結果を生む事はないという典型例になっている。
 もちろん、大勢の人で協力すれば何がしらのことができると考える人もいるだろう。しかし、いわゆる政府の行動とはこの原理に従ったものである。
 しかし、絶対的なエネルギーを消費する産業なりが対応しなければ、全体的に意味がないのである。
 局所最適なことが全体最適に繋がることはほとんどないという例である。世界は線形ではない。

 環境問題を煽る人がいる。そうする人の動機はなんなのだろうか。
 これには一つの答えはない。研究者はつまるところ研究予算を増額するためである。研究者でない人は、自らの存在意義を確立するためである。あるいは、その方が売れるからとう企業もいるだろう。さらには、悪い事ではないことを主張することに賛成という人もいるだろう。

 賛成派の多くはそれぞれのために賛成しているのである。ここの人々にとってはとても大切なことであって、誰からも文句を言われる筋合いはない。
 資本主義が蔓延すると、マーケットの判断は常に正しいことになる。多く人が温暖化に憂慮し、それに対して対応をとるのならば、それはそれで仕方ないではないか。ある意味仕方ないことである。
 しかし、マーケットの答えも常に正しいわけではない。それで多くの被害を被る人もいるし、実際金融危機などはマーケットが正しいわけではないことを証明しているようなものである。

 環境問題についてはもう少し自分で調べてみたい。科学的にどこまで結果が妥当なのかを知るためではなく、数値計算での予測に社会がどこまで投資をしていいものなのかを判断するためである。この本の主張に同意するのではなく、以前から温暖化対策を叫ぶ人立ちに疑問に感じていたのである。
 温暖化は政治問題であると直観的にも理解できる。温暖化の証拠とされる観測結果といわれる証拠を見ても、スーパーコンピューターの計算結果を見ても疑問を感じる。
 例えば、観測結果については、サンプリングポイントが地球表面一様ではないことと、精度のばらつきに対する補償がどこまで考察されているのかに疑問を持っている。
 一方、計算結果については、複雑系の計算をするための初期値をどうしたのか、それと計算結果が正常であると言い切る指標としてどういうものを使ったのか知りたいのである。単に計算した結果などというものは、相手にされないものなのだが、なぜ地球温暖化ではそれが許されるのか。それを知りたい。
 

2008年10月26日

「イヤなことがなかなか忘れない人」のための本

生月誠
青春出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 ぼくはイヤな気分を長く引きずるほうで、思い出し笑いならぬ思い出し怒りをすることも結構ある。いったん腹がたつとなかなか普通の気分に戻ることができない。もちろん、オトナなので八つ当たりをすることはないのだが、とはいえ腹が立つ事を思い出しているときは顔つきが悪くなる。いつも嫁さんが心配そうな顔でのぞき込んでくるので、そういうときはなんとも申し訳ない気分がしていた。    この本にはいやーな気分をどう扱うかのコツが書かれている。しかもかなり簡単なことで、頭で考えると簡単にできそうだ。なぜなら、単にイヤなことを考え始めたら、それを止めればいいということだから。目から鱗の本である。

 イヤな事をついつい考えてしまう人は、なぜイヤな気分になるのか、どうして自分はこんなことになるのかを極限まで考えようとする性質があるということだ。まじめな人ほど自分のなかでイヤな気分をため込み、さらにそれを増幅させてしまうとか。
 少しはまじめなところがあるぼくも「なぜなんだろうか」とずっと考え続けてしまう事がある。しかし、なんらかの答えがでたとしても、それで腑に落ちるということはない。答えが出てもまた最初から考え始めてしまう。歩いているときや電車の中にいるときにイヤなことばかり考えていると、涙がでそうなくらいイヤな気分に漬かってしまうことがあり、自分でも困っていた。

 この本が教えてくれるには、考えてもムダだということだ。そして、ある事柄とイヤな気分というものをセットで扱うと、それは深く結びついてしまうという。例えば、ある人を見ていやな気分になるのを続けていると、イヤな理由がなくてもその人を見るとイヤな気分になってしまうそうだ。
 人の感情の発生メカニズムは論理ではない。そうなるのだから仕方ない、と言うたぐいのものである。イヤな事とイヤな人との間に相関が生まれてしまったら、不条理だろうかなんだろうか、そういう感情が湧いてしまうのが人だとうことだ。同じような状況を長くつづけると相関は更に強くなる。原因追求など意味がない。
 ならば解決方法も簡単で、相関させなければいい。実に単純だ。
 
 イヤな気分になったときに、イヤな気分を感じる自分の注意をそらす方法が書かれている。
 まず、首を回す運動だとか、肩を回すことだとか、いわゆる身体を使う方法を推奨している。そして、ウソだと思ってやってご覧と言っている。
 あるいは、言葉による暗示。なるべく「できる」ということを言葉にしながら言葉が行動を誘うようにする。これも、言葉と身体の相関を意図しているのだろう。

 ぼくが一番気に入った方法は、イヤな気分を感じるようなことを考えるのを後回しにするという方法である。
 例えば歩いているときにイヤな事を思い出すことがあるが、そういうときは、「あとで考える、今は考えない」といってイヤことを考えないだけでいい。実に簡単なことだ。これ以上簡単な方法はない。

 イヤな事をなぜ考えるのかといえば、それは自分にとってはもはやある種の探究であり原因究明であるからだ。
 「なぜ、そんなイヤな結論になるのだろうか。」
 このように、ある種の不条理さを頭の中で探究しているのである。そして、その原因が明らかになった暁にはイヤな事が綺麗サッパり消えてなくなると自分では期待しているのだ。
 しかし、そんなことはない。イヤな気分が強化されるだけ。また、イヤな気分を抱えているときはストレスが頭の中に満ちているので、それは身体を蝕んでいる。そういうことなのだ。

 とうことで、これをしばらく続けてみる事にする。

2008年10月25日

イエスの生涯




遠藤周作
新潮文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 ブックオフ

 遠藤周作という作家はベタのクリスチャンなんだろうけど、その作品からは宗教につかっている人特有の臭さがないのが不思議である。多分宗教を自分自身の生き方指針のようにとらえているのだろう。宗教を他人に押し付けて自分を実際以上の人に見せようという魂胆やあらたな信者獲得による自分の貢献度をあげようという意図がないから、変な人だと感じないのだと思う。
 その人が考えるイエスの生涯はどんなものか。聖書については普通の感覚で考えても、あるいは現代での生活を普通ととられていることを客観視したとしても、おかしなところがやまほどある。
 いわゆる軌跡の話である。古代の人は現実とおとぎ話の区別がつかないバカな人なのかもしれない。そう思っていたのだが、ローマ史だのを読んで見るとそんなことは決してないのだと学んだ。いや、現代人よりもよっとどリアルな考えを持っている人もいるのだ。
 だから、古代の当時の人でさえも疑いを持ったような聖書の内容を遠藤周作がどう考えているか。そこに興味を覚えた。
 この本を読むとそれがわかる。なるほど、そういう理解なのかと。事実と真実という言い方をしている。物理的に起きた事実を記述したのではなく、イエスの意図はこういうことだったという真実を書いているのだ、という考え方である。それならば、工学を学んだぼくでもその理解を耳にしても拒否反応は起きないし、それを自分の軸として生きている人を尊敬することはできる。
 遠藤周作は山本七平と同じように、ぼくにとっては尊敬できるであったのだ。もっとも、それ以外で尊敬できる宗教の信者という人を余り知らないのだが。

 さて、内容である。この本は全編遠藤周作の考える聖書成立のベースになった出来事についての想像である。歴史的な背景、当時の政治状況、民衆の感情、人々の生活状況などを考慮して、新約聖書の元になったことはこんな感じではなかったのかという仮説がかかれている。
 その真偽を判断することは不可能なのだが、ぼくの感覚では「ありえるだろうな」というところだろう。
 物語が成立するには何らかの印象深い事実がコアとして存在するはずで、それが実際はどのようなものだったのか推理することは楽しい。言葉で書かれた物語は言葉で書かれるということから事実全体ではありえない。聖書に書いていることは全部真実だなどという人からは遠く離れていたいものである。
 
 この本にもあるが、一つ重大なそして信念な未解決な疑問が残っている。それは最終章である。なぜ、当時のエルサレムには色々な救世主と称される人が何人もいただろうに、キリスト教だけが歴史に方向を与えるようなところまで立ち上がってきたのだろうか。それも、一地方一時代の熱狂ということで消滅せず、ローマを飲み込み現代にまで影響力を持っているのだから不思議である。その辺りの仮説もいくつか提示されているはいるが、著者も謎だと結論づけている。
 遠藤周作さんに、塩野七生の『キリスト教の勝利』を読んでもらって感想を残してもらいかたかったなと思う。あるいは、山本七平との議論でもいい。
 そんなことをぼんやり考えた。
 

2008年10月24日

どこにでもいる「イヤな奴」とのつきあい方

ジェイ・カーター
集英社インターナショナル
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 いかにもアメリカらしい本である。奥さんや上司とうまくいくはずないという前提で書かれているんじゃないかと疑ってしまう。読んでいるときにそんなことが浮かんだ。
 アメリカ人は幸せな人がたくさんいるのだろうけど、普通の人は幸せではないんだろう。

 この本には心理学のバックグラウンドを持った人のアドバイスが書かれている。そして、著者自身が体験したエピソードが具体例としてひかれている。
 しかし、日本で普通の生活をしているぼくからみると、そのエピソード自体がアメリカの映画やドラマのワンシーンのようで、自分の身に置換えて考えるのに抵抗をもってしまう。アメリカのドラマの中の世界に自分がいるって、普通の人ならば違和感があるんじゃないか? 日本のドラマだったら、まぁなくはないと思えるかもしれないけど。
 だからだと思うが、この本全体に説得力がない。そして、結局のところ医者に行けというようなメッセージを受け取ってしまう。
 まったく無意味だったかといえば、そんあことはない。例えば、イヤな人との対処法として紹介されていた次の助言には感心した。

 その人の発言についてその人に責任をとってもらうと断言すると、その人は離れていく。イヤな発言をしてくる人は、無責任なポジションにいるから好きなだけイヤな事をいえるのであって、リスクをとってまでイヤな事を人に言ったりしないからだ。

 これはそうかもしれない。
 しかし、あとはとくに感心するようなところがないまま、最後になってしまった。
 結局、読んで得たものはアメリカ社会には住みたくないな、ということだけである。

2008年10月22日

ジェネラル・パーパス・テクノロジー




野口由紀雄+遠藤諭
アスキー新書 70
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 共著だけどの野口悠紀雄の本なので買ってみた。この分野での発言は工学側の注意点とは違ったユーザー側の視点から書かれているので、なるほどなと思うことが多い。
 共著ということだが、どの部分をどちらが書いたのか察しがつく。内容は経済とネットの関係、ネットとコンピュータの関係、そして、両者の関係ある。
 ここでいうのもなんだが、取り立てて新しいことが書いてあるとか、説得力があるとか、あるいは、新しい視点から技術が語られているということはない。ちょっとがっかりである。
 ただし、この本のコンセプトとなる一つの視点は明解であり、感銘した。それは、コンピュータという技術は、あらゆることに適用される基幹技術の性質をもっているため一時的な爆発的流行とは別の流れがあり、その流れは、電気を用いた技術の社会への応用にように見えないところでむしろ進行するというようなことである。それをジェネラル・パーパス・テクノロジーと呼ぶのだそうである。
 なるほど。コンピュータ技術の発展は新聞でもテレビでも新商品の広告という形で目にする。しかし、それはコンピュータが与える社会変革の表層でしかなく、どうにもとまらない社会変革の流れは普通の人が見えないところで進行している。
 頷くことはできるが、だからといってそれを見る事ができないために少し怖い思いもある。
 
 また、別の面で気になることもある。今の社会でのコンピュータの利用は、信じがたいくらい多くのコンピュータが電源を付けっぱなしで稼働していることが前提になっている。それはいつまで続けられるのだろうかと、少し疑問である。
 普通の家庭であるぼくの家にも常時稼働しているコンピュータがあるが、これを全世界でやれるものなんだろうか。エネルギーはそんなに使っていいものなんだろうか。
 

2008年10月20日

日本語は死にかかっている




林望
NTT出版ライブラリーレゾナント04
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 不愉快な本であった。内容のレベルが低いとか間違っているとか、そういうことではない。きっと正しい事を主張されているのだと思う。それでも、この人に好感を持てる人はこの人と同等以上の立場にいる人やこの人が認めた人だけだろう。つまり、友達くらいなものではないかと思う。
 嫌な日本語を使う人に対して、ある種の教育を目指している本ではない。指南書でもない。確かに、こういうことをするべきであると巻末に教えが書かれている。その意味では教育的なことを狙っているのかもしれない。
しかしだ。読んでいるとあちらこちらで目に付く「おれは凄い感」が、もう嫌になってしまうくらい漏れ出していて、困ってしまう。読者を見下げている。中国製の食品のように農薬がしみ込んでいる。立派な人なのかもしれないけど、この人の本は残らないだろうなとしみじみ感じる。
 学ぼうとする人に毒を盛るタイプの本である。

2008年10月15日

京都、オトナの修学旅行

赤瀬川原平+山下裕二 ちくま文庫 お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 日本美術について知りたい気がする。あくまでも、気がするという程度のことであって、めらめらと意欲が湧いているようなことはない。知っててもいいかな。そう感じている。正確に言えば、この本を見たときにそう思った。だから衝動買いしたのだ。
 京都へ修学旅行で行った。その後何度か訪れている。といっても、定番コースだけど。だから、よく見てないものが多い。たいていの人もどうだろう。 
 日本美術を観賞することとは、古びた仏像や木造建築を愛でること。とても若者の興味にはなり難い。中年の入り口にいるぼくでさえまだ早いのではないかと躊躇するのだ。
 とはいえ、どうせ歳をとってから興味をもつのが確実ならば、今のうちにぼちぼちを良さを知っておくことも悪くないはずだ。美術の良さを知るのは一朝一夕に身につかないから。書店でのこの本をとったのはそんな理由であろう。、無意識だったが。
 
 この本では、桂離宮だとか清水寺とかメジャーな観光スポットを訪ね、著者の二人が見たものの印象を語ってくれている。おそらく、その場所を訪ねた日の夜に食事でもしながら語ったものを文章におこしているのだろう。まじめな解説文ではないから、寝る前にでも読める。美術に詳しい友人の感想や蘊蓄などを耳にしながらお酒を飲んでいるような雰囲気である。
 

2008年10月14日

サラリーマン「再起動」マニュアル

大前研一 小学館 お勧め指数 □□□□■ (4) 購入店 八重洲ブックセンター

 著者は一昔前に、「Reboot」という本を出版していたはずである。今度の本も「再起動」と日本語を使っているが、Rebootということで、前作とどの程度内容がちがうのだろうか。まぁ、でも同じようなものかなと疑問に思いながらも手に取った。なぜなら大前研一の本は買って損はないから。読んでおいたほうが身のためだろう。
 この本は普通のサラリーマン向けに書かれている。考え込むような論文拡張の話が書かれているのではなく、「大前研一ライブ」のダイジェストのようなものである。普通のニュース番組ではあまり話題にならないが、世界ではこんな企業がある、こんな技術を使った活動がある、というマスコミに取り上げられていない一歩先の情報である。読んで楽しい。

 テーマはこれまでと同様「見えない大陸」での社会ではどんなことが起きているのか。この先の予測、その予測から導かれる萌芽のような会社の紹介である。
 書店に並んでいるこの手の本はだいたい2タイプある。アメリカ礼賛か、あるいは煽りか。しかし、この本はどちらでもない。ITという技術はマスコミで紹介されている以上に浸透しており、それがもとで社会のあり方、国のあり方、会社の利益の出しかたが変わってきている。それを実況中継するがごとく、いち早く「新しい企業」という視点から紹介されている。ZARAの話などはすでに数年前の大前研一ライブで放送していたので、必ずしも最新ということではないが、そこは大前研一の視点からZARAを可能にしている技術や今後の見通し、関連事業のヒントなどがさらりと説かれている。専門家ぶっている他の多くの評論家の本よりは、ちゃんとしている感がある。

 この本は、単に情報を提供することが目的でもないようである。言いたい事の一つとして、はサラリーマンサバイバルがある。このままだと「食えない」状態に陥ってしまうよ、なんとかしたほうがいいよ、という警告である。一昔前に同タイトルの本があったので、主張したことは変わっていないのだろう。
 今後は、普通にサラリーマンやってる、という状態があり得なくなってしまうという。というのは、いま普通のサラリーマンがこなしている仕事はITの更なる利用、国境越えの仕事の再配分などとをしていくうちに消えてなくなってしまうから。
 また、そもそも日本の現在を作ってきた産業が日本を支える事ができなくなるだろうという理由もある。いずれにせよ、大幅にやる事を変えないと職がなくなる人が大勢でるだろうという見通しが前提になっている。

 確かにそうなんだろう。だからといって、今の自分に出来ない事を身に付けるには地道な勉強と訓練しかなく、劇的には生活は変わらないだろう。生き残れないという気もするし、それはそれで仕方ない。人生成功したって死ぬんだから。
 
 こういう本を読むと、勉強しなきゃという気分と同時に、人生ってなんなのだろうかと考え込んでしまう。その答えをきちっと定義できれば、負け組だろうがサバイバルできないだろうか、対して問題ないような気がする。

2008年10月13日

クレオパトラの夢




恩田陸
双葉文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 不明

 この本を読むのは二回目である。途中までの筋は覚えている。だだし、全部ではない。
 海外出張の際に面白く軽い内容の本を探していたときに嫁さんから推薦された。一度読んだことがあるので面白かったことは保証付きなので、イギリスへと携えていった。しかし、出番はなかった。
 帰国後、寝る前に読み始めたら止められなくなった。結果は覚えているような気がするが、あれっ、この先どうなるんだったけかなぁとわからなくなる。小説であっても意外に覚えていないものだ。となると、また楽しめるではないか。時差ボケで眠れない深夜にはちょうどよかった。

 推理小説というか、ミステリーというか、そういうものでちゃんとした本は粗筋を知っていても、再読して問題ないことを知った。恩田陸の本の多くは、途中までは絶対的に面白いが最後に着陸が失敗するものも多い。しかしこの本は最後まで恩田陸の良さがキープされている。
 舞台は函館である。なぜかH市と書かれているのだが、どう考えてもG稜角は函館に決まっている。読んでいると函館の風景を思い出す。
 良い本は感情を引き起こす。この本にあるように、冬の函館で寿司を食べてみたくなる。
 下手な旅番組の映像よりも、想像の方がよっぽど魅力的である。それは後ろ姿はどんな人でも綺麗に想像出来るのと同じかもしれない。
 現在このシリーズが月刊誌で連載されているそうである。早いところそれが読みたいが、いつになったら単行本化されるのかな。

2008年10月12日

超「超」整理法




野口悠起雄
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)

購入店 八重洲ブックセンター

 「超」整理法を使っている。いや、紙はなるべく超整理法で整理している、という意味である。整理というか、整理ではなく時間順に並べて棚に置いているのである。
 ファイルにまとめるときにインデックスを整理するのが面倒なので、結局こんがらがってしまっていた。「超」整理法を読んだ以後は単純に時間軸に並べているだけである。それでなんの問題も起きていない。あの本は非常に現実的なことを教えてくれた。
 メールも書類のアナロジーとして置いていた。メーラーの検索はやたら時間がかかるので、時間軸にフォルダを並べておいて、その中にメールを放り込むという方法をとっていた。「超」整理法を軸に整理していたのだから、ぼくの生活にはあの本は非常に貢献してくれていた。

 この本を書店で見かけたとき、「まだまだいろいろ工夫をし続けているのか」と驚いた。結構な歳だろうが、PCのことで本を書けるのだろうかなどと余計な心配をしてしまった。
 しかし、よくよく考えるとぼくよりも長くPCを使っている人である。この人の方が使い方は上手だろう。
 例え文系であっても、勉強の仕方を知っている人なら物事を上手に自分の道具にすることができるものだ。ぼくもきっと学べる事があるかもしれない。そう考えて手に取った本の表紙には「整理するな、検索せよ」とある。あ、そうきたか。言わんとすることが分かった。うれしくなった。

 インターネット上の検索はグーグルを使っている。しかし、自分のPC上では「検索機能」あまりつかっていない。スポットライトもグーグルデスクトップもその効果に疑問を持っていたのだ。メールについても同様だ。
 だから探すときは記憶を頼りにした「超」整理法で整理されたフォルダを漁って済ませていた。それに、ぼくはほとんど「検索」をしないで過ごす事が出来ていたので、あまりこれらの技術に興味を持てないでいた。
 ところが、自分のPC内の情報についての検索についてこの本を読んでいるうちに、あぁと気がついた。メールだ。メールについては、サンダーバードの本文検索が遅いので敬遠していたのだが、なるほどあれをグーグルデスクトップに読ませておけばいいのかと再認識した。となると、マックもスポット・ライトで検索すればいい。
 実際、手元のPCを使ってメールをこれらのツールで探したら「意外」に便利なので驚いた。なんでもっと辛抱強くこのツールを使おうとしなかったのか不思議な気がした。使えるそうだと分かったので、早速過去のメールをすべて一ヶ所に整理し、ウインドウズはグーグルデスクトップで、マックはスポットライトで検索するようにした。
 この作業にたいして時間はかからなかった。もうこれでメールを読んだ後にどのフォルダへ移動しようかと考えないで済む。すっごく楽な気分になった。そうか、検索せよ、か。

 まだまだ野口悠起雄からは学ぶことがあるんだな。いや、たくさんあるのは分かっているが、もう経済についてはいいやという気分になっていたので。コンピュータの基本的な使い方まで教わろうとは思っていなかったから、驚きと感謝と尊敬が入り交じっている気分である。
 PCは道具である。そういう思いに野口悠起雄は微塵も疑いを持っていないんだろう。周りのいるオッサンたちはPCのメンテナンスは爺さんがするものではない、と思っている。普通に生きてきたらそうなるだろう。でも、この人は違うんだ。
 歳をとった人で自分のロールもデルになってくる人がいるとうれしい。いや、ぼくには目標がないとかそういう意味ではなく、ぼくもこういう爺さんになりたいなぁと思う人がいてうれしい。

 グーグルが今のようなレベルでは使えなくなる日がきたらどうなるのだろうか。その不安をグーグル・フォビアというのだそうである。だから、グーグルに依存しないように行動する。それも一つの解ではある。
 でも、今は使えるし、しばらく使えるだろう。五年後に使えなくなったら。その時は環境がいろいろ変わっているだろうから、その時考えばいいかなと思っている。今の延長としての未来はない。きっと想定外のことがある。
 だから、検索というものを水道のように考えて、それを面白く、役に立つように工夫することをぼくも続けようと思う。
 そういう気分になれたコンピュータの本はずいぶんと久しぶりに会った気がする。

2008年10月11日

大人のいない国




鷲田清一+内田樹
プレジデント社
お勧め指数 □□■■■ (2)

購入店 八重洲ブックセンター

 この秋から冬にかけて内田樹の本が何冊も出版されるそうである。人気が急上昇ということで、出せば売れる状態なのだろう。ならば出版社は黙っていない。とにかく出版する、なんでも出版する、短くても出版する。こんな理由でフォントが大きくて行間が広い本が登場するわけである。この本も悲しいことにそうなっている。値段は千円を超えているのに。
 一昔前に斎藤孝の本がブームになったとき、同じ著者の本なのに短期間に品質が劣化していくさまをみた。内田樹の本でもそれを体験するのだろうか。
 よい本が立て続けてだせるわけないのにばかばか出版していると、リピーターだった人が「まだかよ、もうやめろよ」と思うようになる。僕はそうだった。最後には斎藤孝というブランドが逆転し、斎藤孝の名前をみたら「買わないでいい」という行動をとるようになってしまった。今は茂木健一郎がそうなりつつある。そして、内田樹も続くのだろうか。そんな予感を抱かせる本である。
 
 さて感想だけど、ぼくは面白くないという判定。短い対談が一章あって、そのあとは二人の短いエッセイを束ねてあるだけ。テーマが重複するからお互いの考えているところを理解することはできるかもしれないけど、これ、一冊にまとめて読むようなものではない。
 それに、例によって内田樹のエッセイは過去の本を読んでいるかブログを読んでいればわざわざこのコンテキストで読む必要はないだろう。つまり、この本は出版社のための本である。買わなくていいかなと思う。

 出版社がプレジデントだから仕方ないのかもしれないけど、こういう編集されるとこの出版社について「嫌な」印象を持ってしまう。この本はそこそこ売れるかもしれないけど、長くは売れないだろう。そして記憶にも残らない。残るのは嫌な商売するプレジデント社という経験知だけかもしれない。

2008年10月 8日

ローマから日本が見える




塩野七生
集英社文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 飛行機の中で読む本は塩野七生と決めている。今回のイギリス出張ではこの本を選定した。ちょうど一週間前に発売されたからだ。
 
 この本は『痛快・ローマ学』を再編集した単行本の文庫本である。なのでこれまで二回は読んでいる。内容もおぼろげに記憶に残っている。それでもまた買って読むことにした。
 著者がローマ人を書き始めて中盤に入った頃に書き下ろした本なので、ローマ建国からネロまでいかないくらいの話である。ローマと言う国の成立、発展・挫折・発展・挫折という繰り返しを語るなかで、それらの原因が刻々と変化していくところが面白いのだ。ある方法が原因で成功しても、まったく同じ方法が原因で失敗してしまう。別のだれかが工夫してうまく国を発展させたとしても、その工夫が仇となって国が停滞する。この過程がいちいち解説されている、世にも面白い物語である。
 歴史の授業であるような大ざっぱなものでも、学者の著作のような微視的なものでもない。普通の人がローマ史を自分のために役立てるとしたらどんなものになるだろうか、という問いがあるとしたら、その問いに対する塩野七生流の解答なのだ。ぼくはこれに感動する。何度読んでも感動する。
 
 「それはなぜか、どのような状態においてか」という質問を先生に投げ掛け続けたという塩野七生の学生時代の思い出話があるが、その疑問の著者なりの解答が結果的に本になっているのだ。質問を発したのが中学生・高校生あるいは大学生の頃の著者なのだから、その質問の解答も中学生・高校生・大学生で理解できる範囲にまとまっている。あるいは、市井の人ならば十分理解できる語彙と例えと物語で解答が構成されている。だから、一般の人が読めばこそ面白いのだ。
 なぜ、学者の書くものは面白くないのか。その理由はある意味簡単である。学者は自分の研究のために問題をひねり出し、それにもっともらしいことを答えているからだ。それが「学問」していることになっている。しかし、それは市井の人とは関係がない。問題設定も解答も市井の人とは関係がない。だから学者の書くものはつまらない。もっといえば、市井の人にとって学問なぞゴミである。
 塩野七生のやり方は、問題を自分の分かるところまで追い込み、勉強をし、それを市井の人の想像可能な範囲で想像しながら解答をつくっている。もちろん、普通の人が皇帝の気持ちなどわかるはずもないが、それを上手い具合に架橋している。その方法の一つが「物語」を使っているところである。

 あらゆる知識は物語として脳にインプットされるのだとぼくは思っている。だから、いかにして知りたい対象を物語の形式に翻訳するかで理解できるかどうか決まる。学者や知識人は物語を嫌う理由は、物語だと皆が理解できてしまうところにある。「どうだ、おれは偉いんだ感」が薄れるからである。
 記憶はつまるところ物語だと思うので、塩野七生のような姿勢には心底感謝している。すくなくとも、僕の人生を隆にしてくれたから。

 成功しては失敗し、成功しては失敗し。その繰り返しを読んでいると、人って絶えず環境に適応していく必要があるのだなと理解できる。
 あるときうまくいった方法であっても、それをずっと使っているとうまくいかなくなる。
 それはどんなことにでも適用できる知恵だけど、この不思議な法則を「人の法則」として理解できたのはこのローマ人シリーズのおかげである。
 すでに終了しているローマ人のシリーズだが、今度は文庫本で一から読み直してみようかという気になる。あるいは単行本を再び読むか。そんなことを考えたのだが、それが辛い機中の時間を少しでも忘れさせてくれたので、またまたこの本に感謝してしまった。