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2008年11月28日

思考の補助線

茂木健一郎
PHP新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 エッセイをまとめたものである。茂木健一郎が売れはじめてから出版されているので、最近のエッセイかと思っていたが、内容はすこし4,5年前くらいのものだろう。どちらかというと「めんどうくさい」タイプのエッセイ。哲学というか思想というか、そういう読者に向けての文章である。内容が高度かというと、とくにそんなことはない。扱っているテーマは茂木健一郎自身だから、難しくなりようがない。いつになく、面倒な口調なのでめんくらってしまう。連載された場所が知識人が好んで読む硬派なものなのだろう。
 要するに面白くない。お笑いを求めているわけではないが、この内容は自分の内部にしか目が向けられていないので、読んでいて距離がある。そして、意味が分からない箇所が多い。
 例えば、「自分一人で世界を引き受ける」という言葉が語られている。若い頃の茂木健一郎の目的だったのだろう。大きな気概が感じられる表現である。しかし、ぼくにはその意味がわからない。世界を引き受けるとは何をいっているのだろう。本人は文系や理系といった区別なくどのような分野も自分で考えられるようにしたいと言っているようだ。要するに理解したいということ。しかしだ。それが「世界を引き受ける」ということなのだろうか。そもそも、一人で世界をなんとかしようというのは愚かなことであろうし、それくらい茂木健一郎ならば分かっていたはずだ。だから別の意味なのだろうけど、ぼくにはわからない。
 最近にはあまり見かけない、分かりやすく言えば自己陶酔の中にある文章である。茂木健一郎のシンパならば喜んで読むのかもしれないが、普通の人は「結構です」だろう。売れれば何でもいいという出版社ならばともかく、PHPがやる事ではない。
 ただし、この本をそう評価をするのは単にぼくがバカなだけかもしれない。少なくとも著者や編集者はそう主張するだろう。もしそうならば、意味不明な箇所がふんだんにあるので、質問する機会があるといいな。

2008年11月24日

茂木健一郎の脳科学講義

茂木健一郎
ちくま文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA長津田店

 帰宅時の電車内で読む本がない。仕方ないので乗り換え駅の本屋でささっと選んだのがこの本である。初めて目にしたタイトルで、インタビュー本ような感じがしたので買った。帰りの電車では集中力を必要とするタイプの本はちょとしんどいので。
 のっけから最近の茂木健一郎とは違うトークである。いや、これはぼくが非常に注目していたころの茂木だ。一途に「クオリア」を追いかけている研究者の匂いがする。言葉の端にもクオリアの探究への思いが読み取れる。あぁ、これは言い本だぞ。そう思いながら読みふけった。
 読んでいたら「そうそう」と頷づくところが多いことに気がついた。そして「あれ、この話は以前茂木の本で読んだな」という箇所が現れた。例えば、絵画展に行ったときはお気に入りの一枚の前で1時間くらいずっと立って見るようにしているという話である。確か「頭のモードが切り替わるのには30分から一時間必要だから」という説明だった。
 大分前の話だが、そんな説明を読んだあとぼくは素直にそれに従い、名画の前に30分くらいは立ち止まることにしたおかげで絵画観賞の良さを知ったのだ。この一例でだけで、ぼくは茂木に感謝しているし、この人の研究者としての態度が好きになったのだ。
 今読んでいる本の中で再び語られたとしても、まぁ、本人の主張は同じものだろうから話題になるのは無理はない。それにしても、説明がぼくの記憶と酷似しているので違和感を覚えた。
 最後まで読んだ後で、この本は単行本からの解題であることを知った。あぁ、やっちまった。この本、昔読んだわ。そう、ぼくが読んで感心したあの一冊だ。それだったのだ。最近やらと過去読んだ本を文庫本で買ってしまう。ただし、昔読んだ本であってもすっかり忘れてしまっているので「失敗」とはいえないのだが、なんだか損した気分になる。持っている本をわざわざ買ってしまったのだから。
 ふぅ、とため息。しかしだ。もしここで文庫本として読まなかったら、この本は二度と読む事はなかったかもしれないではないか。自宅の本箱にかなりの本があるが、それはおそらくもう二度と読まないものだろう。その時間はない。だからといって捨てたりしはしない。持っているのである。自分の記憶というか、自分の過去を体現しているものだから、なにかいとおしさを感じる。何かのときに読み返せるようにと整然と並んでる。
 文庫本ならば500円で買える。ならば、500円で「読むチャンス」を買ったと思えばいい。お金は本という物質に対して支払われているのだが、ぼくにとっては学びのチャンスに対して支払ったと思えばいいではないか。そう思ってしまえば同じ本が自宅に二冊あることに何の問題もないではない。二度も読む機会があった本ということだ。生きているうちに良い本を読めむという幸運は、お金を積めばかならず手にいられるわけではない。今回はそれが単行本価格で買えたののだから、喜ばしきこと。そう考えるようにした。

 この本を読み返して思った。最近と過去とでは茂木健一郎の興味の先が大分違う。昔は研究者だった。クオリアを追いかけていた。今は対談王である。有名人の話を聞くこと、色々な人と知りあうことが目的のようだ。出版される本を読む程度だと、なんか最近変わってきたなぁという程度の違和感を感じるだけだが、4年くらい離れた本を読むとかなり違う路線の人になっていることがはっきりする。
 なぜ変わったのだろう。おそらくだが、彼が追いかけていたクオリアの研究は、いわゆる「研究」という方法では掴めないと悟ったのかもしれない。そして従来の研究とは違う方法を試して現在に至っているのかもしれない。対談王となることが「研究」という従来方法よりもクオリアに近づけるのかどうか。ぼくはわからない。茂木健一郎はどんな考えで今のような探究形態をとっているのだろうか。興味がわいてくる。研究過程の中間報告として、そんな本を読んで見たい。

2008年11月22日

土牛禅図

松原哲明
主婦の友社
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 ブックオフ秋葉原

 土牛禅図について、以前新書で読んだものがある。ひろさちやだったと思う。土牛禅図とは、簡単にいえば自分探しの旅の寓話を10コママンガにしたものである。牛が本来の意味での自分(本当の自分)である。それを探す。
 それが禅と関係があるのか。ある。10コマは修業の過程を示している。自己を探すとは、要するに悟という状態である。ならば、悟までに10段階ある。
 指南書になるくらいなので、人間の心理的変遷は「似たようなもの」をたどるのだろう。現代も中世も違いはないようだ。別の本を読んだ理解ではこんな感じである。
 この本は秋葉原のブックオフで購入した。そんなに安くなったが、つい手にしてしまった。一応読んで見た。以前読んだ新書のほうがずっとよい内容だと思う。題材や意図はこの本も同じだが、その説明方法がいまいちだし、「土牛図」の絵がいまいちだ。その意味でこの本はもうひとつ。

2008年11月20日

英仏百年戦争

佐藤賢一
集英社新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 塩野七生や司馬遼太郎のような作家の作品で、ヨーロッパの歴史を扱ったものが読みたい。そう思っていたら、佐藤賢一という人を知った。朝カルで受講していた茂木健一郎の講義の中で、この人の本を薦めていたのだ。なんでも直木賞を取った人らしいから世間では知られた人なのかと思っていたが、エンタメ系の作家ではないためか書店での扱いが少ない。当然ブックオフでも冊数が少ない。
 アマゾンでヨーロッパの歴史を検索していたら、この新書がリストにあがった。評価は高い。コメントも好意的なものが多い。この手の評価は「工作員」が行っていることが最近増えたのでそのまま信用することはできないが、検索をかけると個人のブログがひっかかるし2chでの喧々囂々やられているのでどうやら信頼できる評価のようである。早速、アマゾンで購入。
 イギリスとフランスとの間であった中世の百年戦争について、フランスもイギリスも自分の国が勝ったという記述で歴史が記録されているのだそうだ。著者によれば実質ははフランスが勝ったのだけど、シェークスピアがイギリスに都合のよい戦局の部分を引っ張り出して戯曲にして有名になってしまい、イギリス人はその戦争のことを勝ったと記憶しているのだそうだ。歴史としては、その後イギリスが破れるのだけど、その事実のイギリスの歴史での扱いは、王家のお家騒動が続いたために国が崩壊したという説明されており、それで人々は納得しているのだそうである。
 なるほど。事実よりも記録が後世には重要で、しかもそれが名作だと事実などは吹き飛んでしまうのだ。などという感想を持ったが、はたしてこれが僕が知りたかった歴史なのだろうかと言えばそれはノーである。ただし、佐藤賢一さんの歴史を見る視点については知る事ができた。文章も上手である。小説にしたときどうなるかは不明だが、そんなにおかしなことにはならないだろう。少し歴史小説を読んでみよう。

2008年11月17日

革命のライオン・バステューユの陥落

佐藤賢一
集英社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 茂木健一郎の講義で佐藤賢一の対談についての話があった。雑談のなかでのちょっとした一言に近かった。なんでも、佐藤賢一と対談したときに、フランス革命についての話を聞いたそうだ。そして、その中で歴史を小説として書く理由について教えてもらったと。
 佐藤賢一は大学で歴史学を研究していたのだが、アカデミックな歴史の研究方法に限界を感じていた。歴史の出来事を人間社会の一種の普遍的な型としてとらえることはできないのではないかと思ったからだそうだ。例えば、フランス革命がどのようなプロセスで進んだのかを関係者の「個性」を無視して進めてしまうとそれはフランス革命を記述したことにならなくなってしまうかもしれない。登場人物の個性を出すと、歴史上一回切りのものになってしまうため、普遍性をもとめる学問としての意義が失われしまう。つまり研究にはならない。あれこれ考えた末、個性が歴史をつくった面を書くために「小説」という方法をとったというのだ。茂木健一郎の講義のなかでの話だっため、細かいところはぼくの勘違いがあるかもしれないが、大筋はこうだった。
 なるほど。塩野七生のエッセイにに、高校生だったかの授業でつかった歴史年表の背面に「所詮歴史は人である」と書きつけたメモを付けて懐かしくなったというものを読んだことがある。何十年たった今でもそう思っているということだった。塩野七生のローマ人などを読めば一目瞭然だが、ローマの通史がローマ人として現れる実在の人の「個性」によるものとして書かれている。それが理由で日本のアカデミズムからは無視されているのかもしれないが、塩野七生は紫綬褒章をもらっているし、イタリア共和国勲章を貰っている。歴史の記述方法として、また、イタリアの歴史を財産として日本に紹介した功績を評価されているのである。つまり、個性を全面に押した歴史の記述は十分に可能であるとうことだ。
 そんな思いがあって、とりあえず出版されたフランス革命の小説を読んでみた。意外なほど引き込まれた。これ、小説だ。ミラボーの心の内側など、歴史資料にどこまで残っているのは知らないけど、ここまで残っていないあろう。となれば、著者の理解した人物像である。さすがに学問としては無理がある。
 司馬遼太郎の作品が日本史学者の中でどういう評価を得てるのは知らない。が、小説であるということで、対象外になっているはずである。この著者も同様に歴史学者からの評価は「無視」ということだろう。
 ただし、一般の人からみれば大歓迎である。すくなくともぼくはフランス革命のことについて教科書を読む気はしない。が、佐藤賢一ならば読みたい。そもそも面白し、登場人物の人物像がどの程度「正しい」のかは別として、すくなくともフランス革命の成り行きについては終えることができる。年表にあることはマイルストーンとして正しく記述されているはずである。ある種、学研マンガのようなところである。
 今後何年かかけてつづくようだが、塩野七生のローマ人のように楽しみにしたい。
 

2008年11月16日

ハプスブルクの旗のもとに

池内紀
NTT出版
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 ハプスブルク。もう、さっぱり。学生時代から世界史は基本的に敬遠してきたので、ヨーロッパ史についてはピンと来ない。がために、オトナになってから自分で面白く読めた本の中で扱われた時代以外は、全くの闇の中なのだ。興味があれば自然と単語が頭にへばりつくし、関連する街の映像も心に残る。だから、女の人だとヨーロッパに旅行へ行く人が多い(と思っている)だろうから、この辺りの歴史についてはぼくよりよく知っているだろう。それに、ヨーロッパ王朝のきらびやかなイメージは、色々な機会で映像を目にするので、そういうものを通して親近感を持つ女性が多くてもおかしくない。ぼくにはそういう機会はない。
 ハプスブルク家と音楽の歴史についての年表を作って欲しい。そう、ぼくのチェロの先生に頼まれた。はい、と安請け合いしたはいいが、さてどうやって勉強するか。おそらくは、バッハだのモーツァルトだのシューベルトだのの音楽が生まれ得た背景と世界史との関係を人の系譜でたどれるようにすればいいのだろう。が、それをどうしてよいやら。
 八重洲ブックセンターに行って、世界史の本棚の前に立ち、塩野七生や司馬遼太郎のようなエッセイや小説など「面白い」本がないかと探って見た。が、全くない。著者が大学の先生であればその本は100%つまらない。不思議なことに、つまらないのに3000円とか4000円とかする。だから嫌なのだ。はぁ、というため息ととともに、新書のコーナへ移動する。
 新書コーナーにはそれらしき本がたくさんある。最近発刊された新書は本当に玉石混合なので、自分がよく知らない分野のものを手にするときには注意することにしている。一方で、老舗出版社のしかも発刊が古いものは大丈夫であろう。岩波とか講談社とかそれらしきものを手にしてみる。
 しかし、新品の新書を書店で買うのは少し勇気がいる。なぜなら、ブックオフへ行けば100円で買えるかもしれないから。そうは言ってもまず読まない事には。ちょっと悩んだ末に新書のようなこの本を買った。著者は信頼できるし、文章も内容もハプスブルクへ踏み込むには敷居が低そうだし、なによりブックオフでは売っていないだろう筋の本だから。そういう自分のせこさが気になる。岩波あたりは探せば100円のものがあるだろうから、即効読む必要がない新書は書店で買えない貧乏性になっている。

 この本はいわゆる旅行記である。ハプスブルクの歴史において事件があったり、関係者の出身地だったりする、どちらかといえば田舎の場所を淡々と訪ねたときのエッセイである。ぼくはこの著者の訳でカフカを読んでいるので、文章そのものにも取っつきやすい。旅をするときの視点もぼくには親しみやすい。ただし、読んだからといってぼくの本来の目的を果たす事にはならなかった。オーストリア帝国というものが栄え、そして消えていき、突然に近いかたちで消えてしまったために帝国のあったところの人々も文化も、スパッと切り替えができないままずるずると現在に至る。そういう、土地なんだなということしか分からなかった。しかし、まぁ、ハプスブルクの最初の入門としてはこれでいいかな。

2008年11月15日

アースダイバー

中沢新一
講談社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 東京に古くからある神社や寺がある場所は、縄文時代東京の低地が海だったとき、岬や海岸線だったところなのだそうだ。古い神社は、縄文時代を記憶している。そう、内田樹の本のなかでこの本が引用されていた。ひどく興味をもったので、ぼくはこれまで手にした事がない中沢新一の著作を読んでみようと思った。
 この本には一枚の地図がついている。東京近郊までをカバーする地図で、現在の東京の主な神社や寺、墓の場所と縄文海進時の海岸線とが重ね合わせてある。東京の下町部分は下町というくらいすべて海の底である。また、上野やもっと新宿よりのあたりは陸地でその近くには貝塚の遺跡があったりする。なるほど、確かに海岸が東京の奥にあったのだ。
 現在でも上野やお茶の水の辺りを歩くと道路が登ったり下ったりしていることに気がつくが、それは縄文時代ならば海と陸を出たり入ったりしていることになる。
 この地図を眺めながら、街を歩くと海岸線が想像しやすいのだそうだ。著者はそういう散歩をしているそうだ。そして、その時代の岬の部分では本当に神社があるのだそうだ。歩いていると、ひょっとしてこの辺りはとなんとなく雰囲気がしてきて、実際神社があるという経験を何度もしたということだ。
 面白い。実際のところその地図を眺めてみると岬に神社が必ずあるというわけではない。そういう神社もあるというところだ。もっと素直に言うならば、「そりゃ言い過ぎだろう」という部分もある。怖くなるくらい、神社が縄文時代の岬にあるわけではない。だから、ちょっと煮え切らない。もちろん、そういう事実もあるし、実際そういうところは面白いし、ワクワクする。学説という程の説得力はないかもしれない。
 この本の著者はすごくロマンチストのようである。もちろん、実際に縄文期の土地利用の記憶を今でもとどめていることはあるだろう。また、人が住むというときに「住みやすい」という場所は心理的に良い悪いがあるだろうから、そういうところは縄文時代から変わっていないということも認める。それにしてもだ、ちょっと夢がありすぎる仮説ではないだろうか。
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。理論ならば反例があると崩れてしまう。「古代の海岸線沿いや岬に神社がある」という主張は、当然だが現在の東京からは証明できない。ただでさえ古代のことであるからその証拠が残っていることは非常に珍しいのだし、これまで絶えず新しいものを人が作り出してきたのだから「必ずしも」それに合致しないところに神社を造ったこともあるだろうし。そもそも、全部がそんな意識の下で作ったことでもないだろう。要するに、そうかもしれないし、そうでないかもしれないということでしかない。
 学説の場合、こういう状態の取り扱いはどうするのだろうか。なるほどそうかもしれない学説であったとしたら。ぼく個人は満足するし、ワクワクもするから好きな説だから、それが「説」として登場ずるのは構わない。でも、それ以上のモノにはなり得ない。となると、なるほど一つの説明になるという段階でOKになるのならばそれでいいが、それは一種の面白い物語を語るということなのではないかと思う。理科系の感覚ではそういう評価しか下せない。文科系の世界は、面白いけどずいぶんと心もとないもののようだ。

 ぼくは向島育ちである。隅田川の対岸は浅草。住んでいる街の道は比較的まっすぐなものが多く、それは直行していて、なにより平ら。坂道はない。自転車で走るとわかる。自転車で大変な思いをするのは大きな橋である。それが当たり前であった。ところが、世田谷だとかの西の方へ行くと、道はぐちゃぐちゃだし、アップダウンが激しいし、こんなところによく住むなと感心してしまうことしきりで、できれば住みたいなんて思っていなかったし、今でもそう思っている。そう考えると、ぼくは非常に狭い世界に生きてきたのだ。まぁ、それはぼくのせいではないのだけど。
 そういうわけで、東京の土地に海岸線だの岬だのが隠れていると聴いて驚いた。考えて見れば、昇平橋からお茶の水は結構な坂を上がるし、上野は本当に山だ。それは知識として持っている。ここで、全く別の系統の知識にそれが繋がると驚いてしまう。と同時に妙に面白くも感じる。これが「発想」であり、脳も喜ぶ現象、新しいネットワークができたときの快感なのだろう。最近所用で訪れた東大赤門前の通りを眺めていたら道路が上って下る様子が見えてきて、なにやら現在と過去とを同時に想像できて、その場所にいること自体が楽しくなった。東京の生活に地味な楽しみを覚えた。
 東京にも地形というものがあるのか。素朴だがそれが一番の収穫である。そんなことも知らんかったのかと言われると、ハイそうですと応えざるを得ない。ぼくには地面が盛り上がっているところは「橋」であるという世界で育ったために、現実には坂があってもその重要性を「まったく意識しない」できたし、意識せざるをえない世田谷あたりは、こんなの東京じゃねぇだろうと思ってきたのである。まったく狭い了見だったと反省する。この歳になっても学問する意味があるのだとすれば、それはこういう「モノの見方」を広げてくれるものであるだろう。知識など増やしても仕方ない。それが若干「ロマンチック」なものであっても、新しい見方ならば歓迎するべきことであるし、一生を通じて勉強していくことって、こういうことなんだろうなと思う。
 中沢新一という人が他にどういう本を書いているのは知らないが、ちょっと外にも読んで見ようかな。

2008年11月11日

異次元の刻印

グラハム・ハンコック
バジリコ
お勧め指数 ----- (-)
購入店 八重洲ブックセンター

 ハンコックの新作だし、精神や宗教の起源を探究する本だということで購入してみた。ハンコックの本は書店ならばトンデモ本と同じような位置に置かれている。だから、この本もトンデモ本として認識されているのかと思っていたが、大手書店でも結構平積みされていたりして、扱いはトンデモ本ではないみたい。ちょっとうれしく思った。ハンコックの古代文明探究は、ぼくはオーソドックスな学問が欠落している発想を補ってくれるものだと考えるので、この本もそういうものであることを期待した。
 が、上巻を読んだ段階では、いやこれは「やり過ぎ」の感があり、トンデモ本の領域にぐっと近づいてしまったのではないかという感想をもった。ただ、一冊全部に違和感を感じることではない。中盤までは非常に面白いし、学ぶことも多い。ぼくは自分では理系の勉強を積んだと思っており、そのぼくの視点からみても本書の前半まではこの探究方法はありだと思っている。しかし、後半はどうやらまずい気がする。ウソだとかペテンだという意味ではない。そう主張するつもりもない。ただ、余りにも「ある種の仮説」に突っ走ってしまっており、しかもその仮説を「仮説だ」とわかって進んでいくのではく、もう信じて進んでしまっている感がある。悪いことに、その仮説は「どうにも証明できない」たぐいのものである。
 ポパーだったかが、反証できない仮説は科学で扱えないと言っていたと思う。これまでのハンコックの説は反証可能性があった。この本の前半部分の説は十分に反証可能性をもっている。ある種の脳内物質によるトランス状態での意識のありかた、それに絡めたアブダクション現象や日本で言えば金縛りのような現象を結びつけるのは、仮説としてはありだろう。
 しかしどうだろう、この本のスピリチュアルなところの扱いは反証可能性がないように思える。後半以後の展開はトンデモ系すれすれである。では、下巻は全部そうなってしまうのだろうか。とすると、新刊で下巻を買うのは忍びない気がする。しかし、新たな展開がないとも限らない。となると古本で見かけたら購入するというのが妥当な線であろう。ハンコックの本はそこそこ人気があるので、ブックオフに登場するのも時間の問題であろう。そこで購入し、下巻を読んでからこのシリーズの評価を考えたい。

2008年11月10日

こころと脳の対話

河合隼雄+茂木健一郎
潮出版社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 東京堂書店

 河合隼雄との対談。少し前に対談していたようで、最近になって出版されたそうだ。出版された時、茂木健一郎は朝カルでの講義でこの本についてコメントしていた。最後の対談では茂木のことを立花君橘君って呼ぶので困ったそうだ。
 河合隼雄の対談本は不思議と気分が休まる。休日の午後に読むには都合がよいので、古本屋で見かけたら買う事にしている。対談相手がどんな人でも構わない。知らず知らずに治療されているのかもしれない。

 出だしでお互いの研究分野のことを語り合い、両者の話がかみ合いそうなところを探している。脳学者からみた心理治療についての興味など。ただ、そういう話は一般の人からは距離がある。
 次に、茂木健一郎が大学生のころ箱庭をやったことがあると話を切り出す。どんな箱庭になったのかということで話が盛り上がる。箱庭で茂木健一郎がどういう人なのか、河合隼雄はわかってしまうのだろう。是非、京都の河合隼雄の研究室に来て箱庭をやろうという話になる。
 そして、京都の研究室で実際に茂木が箱庭をやり、その結果を見ながらあれこれ話をする。なんだか、茂木健一郎にたいする治療を後ろから眺めているような気分がする。

 不思議なところなのだけど、河合隼雄の本は知識のようなものが意識に残らない。全体としてどんな本だったのかは覚えているし、個別にあれこれトピックを思い出して語ることはできる。しかし、「勉強になったことは?」と問われると両手にはなにも持っていないことに気付く。
 たぶん対談本を読んでいる最中には頭にいろいろ浮かんでいるが、それらは雨が地面に吸い込まれるように無意識へと沈んでしまったのだろう。本から直接「癒し」が行われているのかもしれない。河合隼雄くらいになると、そんなことが起きてもおかしくない気がする。

2008年11月 7日

恐怖の存在

マイケル・クライトン
ハヤカワ文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 ブックオフ・オンライン

 マイケル・クライトンが人間活動の結果による地球温暖化について反対の考えを表明する小説を書いた。しかも、CO2増加による地球温暖化論はある種の扇動だと切り捨てている。ぼく自身、昨今マスコミを騒がしている地球温暖化論はウソだということがよく分かってきたので、この本を楽しく読めた。読みながら、そうそう、と頷くことしきり。さすがにクライトンである。冒険やサスペンスといったハリウッド要素をふんだんに取り入れているにも関わらず科学を勉強した人ですら安心できる「温暖化論はおかしい」と説明するロジックをきちんと展開している。エンタメと科学とが同時に入っている小説はとてもめずらしいであろう。この小説、ぼくは一押しである。
 ただし、万人が楽しく読めるかどうかはわわからない。とくに、地球温暖化が「当然であり、われわれは地球を守らなければならないし、みんやでやればそれができる」と思っている人が読んだらどういう反応をするのかわからない。が、おそらく、怒るか、非科学的なデタラメだと主張し、クライトンやこの小説を虚仮脅すであろう。
 というわけで、この本の評価は、人によって180度ちがってくる。だからだろうか、この小説は映画化されていないんじゃないかな。(よく知らない)
 なぜ、人間活動に伴うCO2増加による地球温暖化論を否定できるのか。この小説では、小学校卒業レベルの知識があればわかるよう試みている。温暖化の証拠とされる都市の平均気温の上昇はコンクリートを多用することによるヒートアイランド現象であろうし、そもそも地球レベルの平均気温の変動は数万年という周期で起きているといった説明はいろいろな本で学ぶ事ができる。東京なりニューヨークなりの平均気温上昇グラフを見せて「地球温暖化」と主張すること自体は、今では誤りであることがはっきりしている説明である。二酸化炭素が増加しているとうハワイあたりの観測結果があるなら、場所によっては気温が下がっているという事実がある以上、地球温暖化とは関係がないということもできるのだ。頭を空にして、そういう説明を聞けば誰でも「あ、あれってウソなんだ」とわかる。それをこの小説の登場人物に語らせている。もっとも、主人公の一人は従来のマスコミ報道に洗脳されているため、そうだからといって簡単に寝返ることができないではあるが。
 この小説では、地球温暖化論を支持する人の代表として「セレブ」が登場する。地球を守れと口にするわりには、自分はプライベートジェットで移動しているような人たちである。まるで、GMの会長のような人種のモラルを醜いままえがいている。当然、そういう人は「悪役」である。少しベタ過ぎる。一種の勧善懲悪的なところが、この小説の弱いところかもしれない。
 この小説は普通に読んでも面白いが、ハリウッド的なところも多いので、SF小説として歴史に残るかどうはわからない。また、SF好きの人からの評価が高いかどうかもわからない(多分、低いだろう)。とはいえ、クライトンのモチーフは別のところにあるのだから、それはそれで仕方がない。面白いかどうかは別としても、この小説を一度読めばCO2増加による地球温暖化がペテンであるのではないかと疑うをもつはずである。
 ここで疑問がわく。地球温暖化論に反論する本は、色々な国で出版されいているようである。ならば、そういう地球温暖化論に対するアンチキャンペーンがあってもよさそうである。しかし、これまで一度もマスコミでそのようなものが報道されているところを見たことがないし、耳にしたこともない。なぜだろうか。日本でこの小説がどの程度売れたのはわからないが、パッとしなかったとしたら、政治が働いているのだろうかと想像してしまう。

 「いいこと」を人々に普及させるためには、その「いいこと」を分かりやすく説明することが必要だと言われている。最近ならば、言葉で説明するよりもマンガにしてしまうとか、アイドルを起用したキャンペーンを行うとか、論理ではなく感情に訴えるといった方法である。人々に「いいこと」の良さが分かってもらえない理由は、分かりにくいことが原因だというわけだ。「いいこと」は無条件に「いいこと」であるという考え方である。
 しかし、本当にそうなんだろうか。地球温暖化論に反論する本は今では結構な数があり、読んで見れば良書もいろいろある。そして、そういった反論として、クライトンの言いたいことを登場人物の冒険や成長を追うことで「学んでしまう」ようにこの小説はできている。だから、とてもわかりやすい方法である。これでだめなら映画しかないだろう。しかし、果たしてそれで人々は「分かった」のだろうか。
 分かりやすさを追求したからといって、その主張内容が相手に伝わる成功率が高くなるというわけでないのかもしれない。結局、人は「よいこと」と他人が思われていることを自分にとって「よい」のか「わるい」のかを、説明される以前に感じ取ってしまい、その感じ取った印象をもとに説明を理解しようとしているのではないのだろうか。つまり、相手に伝わるか伝わらないかは、その内容と相手との関係ではじめから決めているではないと思う。であれば、いくら伝えかたを工夫しても、ある種のムダであり、やりすぎなものだった、という落ちがつくかもしれない。
 このクライトンの小説を読んだ後でも、地球温暖化と闘っていくと思っている人がいるのだとしたら、地球温暖化論のトンデモさを多くの人に気付かせようというクライトンの試みは、そもそもが失敗することが決まっていたのかもしれない。

 それにしても、政治的な主張を小説という形で表現してくるアメリカの社会には感心する。同様の試みがこれまで日本であったのか、無かったのかは分からないが、エンターテイメントという意味合いでしか小説が存在していない社会では、こういう試みはどう評価されるのか知りたいとこである。が、結局作者の意図など無視して、人物造形がどうのこうの、トリックがどうのこうのということでしか語られないのだろうなという気もする。
 すでにクラインとンは鬼籍に入ってしまったのが残念である。今後の人の参考になるようなものを残してもらいたかった。

2008年11月 3日

地球最後のオイルショック

デイヴィッド ストローン
新潮選書
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 考え込んでしまった。なるほど、そういうからくりだったのか。アメリカ発の国際情勢、紛争の原因はピーク・オイルを睨んだ政治的な行動なのか。だから、普通の人がどんなに犠牲になろうともアメリカは「正しい事」をしていると主張するし、良心の呵責にさいなまれることもない。ピーク・オイルの問題は他人が本腰を入れる前にやらなければいけないことだし。世界情勢についての解説をただ聴くだけでは目くらましにあってしまう。ピークオイルが補助線になる。
 考えてみれば、毎日の生活において、手で直接触れる「物体」から手で直接ふれられない「放送」などのという概念の普及ということまで石油が大きく貢献している。今はそういう世の中に住んでいる。人やモノの輸送に必要な「力」の源泉であるエネルギーも石油であるし、生活材からビルにいたるまで、多くの物質の原料にも石油が使われてる。さらに、それを作り出すとき時にもかなりの石油が必要になる。つまり、どんな切り口で考えても、今の世の中は石油が支えてくれているのである。
 このような世の中になったのは、ほんの100年というスケールである。歴史においては短期間にも関わらず、ずっと昔からそういう社会であったような気がするから不思議である。人は、自分の経験を「あたりまえ」として考えているので、生まれたときからある世界は過去から未来までそういうものだと思い続けてしまうからである。
 明治や江戸の時代より昔になると日々の風景は全く変わる。いや、石油に依存する直前の状態、たとえば戦前くらいであっても日本は違う風景であったろう。
 電気は結局のところ石油が支えているし、物質の移動(トラックや電車)はほぼ百パーセント石油(ガソリン)による。プラスティックや樹脂なども石油なのである。あらためて考えるといやになってしまうくらい、石油が使われてることに気付いてしまう。
 こんなにまで石油の潜在を前提としているのならば、石油はずっと「ある」のが当然と思うものである。例えばボーナス月が毎月でないことを知っているのは当然のようなもので、一時的に使えるだけのものだったら誰も石油に頼らない。ずっと石油はあると社会は同意していることになる。
 しかし、石油は掘り出してくるものである。しかも、水とちがって地球上で循環しているものではない。一方的に消費するだけ。産み出されることはない。石油を使うことは、貯金を食っているようなもの。ならばどうして社会は不安にならないのだろうか。
 石油が枯渇する。このフレーズは恐怖を呼び起こす。しかし一般的には狼少年の警告なのである。いずれなくなるだろうけど、すぐには来ないだろう。ぼくが子供の頃からそう言われている。現に、石油がなくなるなどという報道は現在でもない。だから、石油枯渇という話や警告はデマということで世の中に了解されている。
 この本は石油の枯渇を訴えていない。枯渇についてを全く問題にしていない。枯渇などはどうでもよい。もっと大切なことがある。それは、石油産出量がピークを迎えることだ。これが問題だといっている。
 石油は掘り出してくるものである。需要が高まれば、新しい油田を掘り出すことでそれに応える。石油は生活必需品であるので、必ず売れる。だから必ず儲かる。必ず儲かることならば多くの人が油田を探す。だから、今も日々新しい油田を探しているし、実際見つけて掘り出している。
 しかし、地球が有限なかぎり出てくる量に限りがある。ゼロから増えていった石油生産量はいつか生産量がピークになり、やがて原産していき、最後は枯渇する。この事実で注目すべきなのは、最後ではなく、途中のピークである。
 経済学で重要な概念に需要と供給のバランスがある。あるものを欲しい人がたくさんいれば、その値段は上がる。そして、値段が上がると買える人は少なくなり、需要はへる。そして、需要と供給ががバランスする。ものの値段はそこで決まるという考え方である。
 石油は欲しい人がたくさんいる。発展途上国の人も欲しいだろうし、中国やインドなど猛烈に発達している国もエネルギー源としての石油はどうしても必要である。だから、需要が増ええている。その需要の増加分は現在は生産量の増加で補っている。だから、石油の価格が現在のレベルで落ち着いている。
 ところが、何かの拍子に石油増産ができなくなると、石油価格が高騰する。すると、世界中にいろいろな問題を引き起こす。なにせ、現在の石油価格水準を前提として社会がつくられているのである。一割価格高騰でもいろいろな問題がでる。それくらい、石油を前提とした社会においては、石油価格、ひいては石油精製量が重要なのである。
 ここで、ピーク・オイルを迎えたとする。これ以上石油精製量が増えない状態になるということだ。まず、すぐに石油価格が上昇する。二割、三割、四割と上昇する。社会に混乱が起きる。
 石油が他の商品と違うところは、価格弾性が低いことである。価格が上がったからといって、それが贅沢品になるということはなく、上がっても必要なものは必要である。すると、需要と供給とがバランスする価格がるが他の商品とくらべてずっと高い。今では考えられないような高い値段になっても売れることになる。
 石油価格が高騰すると、社会生活においてあらゆるものの値段が高騰する。贅沢品がたかくなるのではない。電気や輸送にかかる値段が高騰していく。要するに、エネルギーを使うことはすべて高くなる。
 値段が上がると量を少なくしてバランスをとるものがある一方で、存在そのものが消えるものがある。例えば、普通の人の海外旅行はお客さんがある量を下回ると「ジャンボジェット」が維持できなくなるので、いわゆる海外旅行という概念が成立しなくなるかもしれない。
 当たり前である。社会の前提が変わるのだから、社会そのものがかわってくる。明治人が現代の日本の生活を想像できなかったのと同じように、現代人もピーク・オイル以後の世の中を想像できないだろう。
 人は見たくないもは見ない、というクセをもっている。ピーク・オイルの話は当然見たくない部類のものである。だから、ピーク・オイルという問題は枯渇の問題にすり替えられてしまう。そして、それは狼少年の例だろうという結論になり、ピーク・オイルの問題は無視されることになる。
 いや、そもそもピーク・オイルの問題を知ったところでどうにかなるようなものがあるのだろうかという気がする。実際のところ、どうにもならない。一人でできることが全くないのである。一人一人が節約しても、その分を他の誰かが使うだけであって、トータルのはなにも変わらないのである。
 ぼくが生きている間にその変化を目にすることがあるかもしれない。いや、その変化の影響でぼくは死ぬのかもしれない。まぁ、でもそれはしょうがない。
 古代ローマの賢帝の一人トラヤヌスの時代、ユーフラテス側の東には「燃える水」がわき出すところがあるという記録が残っているらしい。素晴らしい建造物を作れた古代ローマでも石油を使うことを思い至らなかった。ぼくの時代よりも100年くらい前から、石油を使う知識を得たわわけだ。そして、それが原因で社会は繁栄することがあった。
 この時代が異常だったのだろう。よく、文明は加速的に発展しているので、そのうち人類は滅びるなどと主張する人がいる。今でもいるのかもしれない。あるいは、地球温暖化などといって百年、二〇〇年先の世界を騙る人がいる。しかし、その人たちは、このピーク・オイルを知らないでいる。
 オイルが消えるとビックリするくらい人類社会は後戻りする。そして、後戻るするだけでなく、そのときから進む方法は違うものになるだろう。というのも、エネルギー源がなくなってしまったのだから、もう一度石油社会へ進めることはできないのだ。違う歴史になるのだろう。というか、そのまま数億年経って、人間ではない違うものの世の中になっているのかもしれない。
 ドレイク方程式では、このエネルギーの影響を含めているのだろうかなどと思いつく。 
 そんなことを知ってしまった。未来を想像する方向が自分でも少し変わってしまったようである。