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2008年12月31日

街場の教育論

内田樹
ミシマ社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 この本は二回読んだ。発売直後に読んで、年末にもう一度。最初に読んだとき読書メモをすぐにつけなかったたら、頭の中にあるこの本の印象がぼんやりしてきてしまった。だから大晦日にもう一度読んだのだ。この本の印象が薄いからではない。内容は刺激的で、ぼくは身につまされて悲しくなったくらい印象深い本である。それでも印象がぼけてしまったのは、この本の内容を無意識に忘れたかったからだと思う。それくらい、自分の嫌な面が醸造されたメカニズムをずばりと解説してくれている。
 教育をビジネスの言葉で語り、教育機関をビジネスの運営するのは間違いである。そう内田樹は主張する。もしビジネスとして教育をしたらどうなるのか。ほぼ教育というものが存在できなくなり、関係者おろか国民すべてにとって得にならない悲惨な結末を迎えるだろう。なぜか。
 教育にはそもそもが時間がかかり、その効果は定量的にとらえることができないからだ。そもそもそういうものを対象としてビジネスは成立しない。だから無理をする。すぐに結果を求めるマインドをもって、投資と結果の定量的関係を常に注意しながらの日々の作業として人を教える事になる。人にものを教えた経験があれば、こんな方法で先生は成立しないと思うだろう。ビジネスとうい考え方は教育とは全く無関係、いや真逆のことを行うことになる。だから、そんな教育は絶対に失敗すし、ビジネス側も失敗する。
 こういう趣旨の本である。また、最近はやりのビジネスとしての教育の失敗シナリオを提示し、過去の事例を思いださせてくれる。

 こんな趣旨の発言をビジネス経験がない人がしたら、ぼくは半分納得半分疑いの気分になるだろう。しかし、内田樹は教職に着く前は今でいうベンチャー企業で働き、ビジネスのタームで語ること行動することを実施し、そして一定の成功を収めた経験をもっている。普通のサラリーマンや大学教授がもつ視野が半分しかない人の発言ではない。この本は、事実を教えてくれているのだから。
 この本でぼくが一番苦手とする箇所は、現代の若者の行動性向についての解説である。なぜ会社に3年しか勤められないのか、なぜ自分探しなどするのか。その根底にあるその世代の価値観を消費経済の世界で人生に登場してしまった子供の悲劇として語ってくれている。この解説は『下流思考』に詳しく書かれている。期せずして自分がその世代のトップバッターであることを思い知るのは実に嫌な気分になるが、反省してみると自分に当てはまることが多いので事実を語ってくれているのだろう。こんなことは、自分で思索したところで気付くはずはない。
 この本ではさらに、最近の若者が口にする「やりがいのある仕事」についてとその発生メカニズムについての解説がある。なぜ、そういうものを求めてしまうのか。いまま何人かの人が語っているものを聞いた事があるが、内田樹の解説が一番良い。心底理解できるものである。この解説は感心するを越えて感動的である。自分の心の底にある考え方の基準が著者によって言葉にされてしまった。そんな驚きである。一方で、できればそれを読みたくは無かった気もする。欠点をずばっと言われたようなものだから。こんなことが理由で、この本について、良い本だと評価する一方で忘れてしまいたい思いが無意識にあったのだと思う。
 
 「やりがいのある仕事」とは何か。それは、モジュール化された仕事であり、自分に割り当てられた単位の決裁権が自分にあるものだ。そして、その成果全てが自分に排他的に帰属するもの。そう、この本では解説されている。いわゆるクリエイティブな仕事と呼ばれるものはこの条件を満たしている。裏を返すと、決裁権が自分になく、かつその成果があったとしても関係者全体のものになるものは該当しない。たとえ自分が行動主体としてがんばってもその成果を独占的に主張できないものは「やりがいのない仕事」になる。実に明解な説明である。チームでの行いに対してももある種の成果独占権が主張されていることに注目したい。要するに、一人でやれること、結果がすぐにでること、何よりもまして、自分の世界は自分のものだと主張できる仕事が若者が求めている仕事なのである。
 社会における仕事のなかでそのような性質を持つものはレアであろう。いわゆる芸術家くらいなものである。そういった仕事はつこうと思ってつけるものではない。ほぼ全ての人は失敗するはずである。それに、不思議なことだが、そういう道の人は職業選択の段階においてそういう仕事を既にしているのが普通なのである。学生の頃からそういった種類の仕事をアルバイトしているような人は実際たくさんおり、何を職業にするかなどと迷う段階がなかったりする。芸術家はある種の倶楽部であり、本人の努力でそのメンバーになれるわけではない。
 自分で何をするのか決められ、その成果は自分で排他的に独占できる。こういう仕事はそもそもが「モジュール化」されている。モジュール化とは周りとのリンクが少なく、また機能が明確に定義されている。だから仕事をする人は誰でもよく、人材の交換は簡単になる。
 モジュール化された仕事を求めるのは誰でもやれる仕事を選択することになる。そもそもが、余人を以て代えがたい仕事ではない。また、うまくいった場合の成果が独占できるのならば、失敗したときの成果も独占することになる。つまり、失敗したらその場で破綻してしまう。なんといっても「交換」はいくらでもいるから、その場で立ち去ることになってしまう。だから、モジュール化された仕事は非常にリスキーなのだ。

 やりがいのある仕事の意味がぼくの世代前後で変わってしまったようである。以前は、やりがいのある仕事とは喜んでくれる人が多いものだった。自分の知らない場所で知らない人が感謝してくれるものだった。今は自分に決裁権があり成果を排他的に独占できるものである。ぼくはこの両者の意味や良さが直感的に理解できるので、ちょうど過渡期の世代なのだろう。
 内田樹に指摘されなければ、後者の意味で「やりがいのある仕事」を定義してしまいそうである。誰が喜ぶのかなど全く分からない仕事であっても、自分一人で進められるものならばやりがいのある仕事ではないか。そういってしまいそうである。今の大学生ぐらいならば、やりがいの意味は後者だけになっているはずだ。
 前者の意味でのやりがいは、なぜよいのだろうか。内田樹によれば、それは「生き残る可能性が高まる」からだそうだ。誰のためにやるってるのかよく分からない状態であれば、自分のした事は直接自分のためにならなくても「自分たち」のためになっているはずである。ならば、他人の仕事も自分のためになっている。もし大勢でそういう仕事をやれば、自分の成果がぱっとしない時期があっても周りの人の恩恵に預かれるだろう。つまりは、生き延びる可能性を高まるだろうというのである。
 なるほど。つまりは、なぜ働くのか、その目的に関わってくるのだ。なぜ働くのかといえば、現代ならば自己実現のためであろう。しかし、しばらく前までは生き延びるためであったろう。その辺りの感覚のずれがある。そこでピンとくるものがある。
 モジュール化された仕事といえばクリエイティブな仕事だけではない。今社会問題になっている「派遣」も機能からみればその一つである。ジョブ・ディスクリプションが定義されているからこそ交換可能な仕事であり、だからこそ「派遣」という形の仕事にできる。必要なときは人を増やし、必要なくなれば人を減らす。これは、モジュール化の結果なのである。そもそもクリエイティブな仕事も同じで、ほんの一握りの先頭グループ以外の人の生活は不安定であり、生活水準はサラリーマンよりも低いだろう。幸せという言葉の定義として何を採用するかで、その仕事の評価が関わるが、クリエイティブな仕事は生き延びることは相当難しいことは確かである。クリエイティブな仕事に人気が集まる理由は宝くじと同じで、当たったときがでか過ぎるからであり、それに群がるほぼ全ての人は単に損するだけだというとも同じであろう。夢があるかもしれないが生き延びるには損である。

 この本を読んで、自分の方針について揺らいでしまった。というのは、「さぁ、みんなのためにやろう」と気分を入れ替えて仕事をしたとしても、周りの人もそう思ってくれないと他人に食われるだけだろうと思うから。周りがジャイアンばかりだったら、他人のためにがんばれば即死だろう。これが単に被害妄想ならばよいが、若い人だけならば妄想とは言ってられない。50歳以上の人がいないと、脱モジュール化は行えないかもしれない。つまり、今のままだと不幸になると理解できても、社会がモジュール化に向かった段階では個人にはどうにもならないということだ。逆に生き残りのためには後者の道を選択するしかないかもしれない。

 こんな不幸な考え方がなぜ発生したのだろうか。なぜクリエイティブな仕事やモジュール化できる仕事が望まれるようになったのだろうか。内田樹は受験とバイトにあると指摘する。そもそも、どんなに仲が良い人同士でも、受験とバイトは助け合いようがない。これらは、自分ががんばればがんばった分だけ成果があがり、自分の成功は自分のものであり、自分の失敗は自分のものであることがはっきりしている。誰かの失敗と自分の結果とはあまり関係がない。
 受験とバイトが世界のあり方の見本であるとして人格を形成してしまった人に、助け合いなど求めてもムダである。なぜ自分が働いたのに他人にバイト量が振り込まれることをよしとするはずはないし、他人が勉強しなかったことの付けが自分の受験失敗という形で現れる可能性を喜ぶ人がいるはずもない。この種のことは感情的なもので、勉強したり諭されたりしても納得することはできないものである。だから、もうダメなのである。

 最近、自分の行動を観察していても、他人への信頼が持てなくなりつつあることを前提としていることに気付く。だから、他人のために何かをせよ、ということに行動を起こせないでいる。頭では内田樹の言うことを理解できて本当にそうだなと思っても、感情の湧き上がりかたは「なぜ、自分の仕事ではないことをして損をする必要があるのか」と自然に疑問に思う。その一番の理由は、そもそも他人が信用できないから、である。
 これって、治り得るのかどうかぼくはわからない。

2008年12月30日

クオリア立国論

茂木健一郎
ウェッ
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 なんだかまた新刊がでていたので買ってしまった。嫁さんが「いい加減にしたら」という目で見ている。そりゃそうだ、いつも読んだ感想として「もうひとつだった」と言っているのだから、何もまた新刊で買う事はないではないかと思うのも無理はない。
 しかし、ここまでくると10年前の中谷彰宏さん状態に突入している気がするから、逆の意味で面白い。つまり、どの段階で「全く同じ事を別の本で書いてしまうのだろうか」ということ。これを発見した段間で、その作家は終了する。
 クオリア立国論。意味は分かる。要するに見れば、量より質の生活を支える基盤を志向する(意訳しすぎかもしれないが)。
 しかし、この本を読む限り、立国論にはなっていない。1億の人が生きていくためのメカニズムにはなっていない。加工貿易立国という言葉の意味するところは違い、クオリア立国論はこのタイトルが示す通りのある種のクオリアを表明しているに過ぎないみたい。

2008年12月29日

生物が生物である理由

爆笑問題+福岡伸一
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 この本のシリーズは、ちょっとした時間の合間に読むとよい。なにせ1時間くらいで読めてしまうのだから。フォントは大きいし、行間も広い。それでいて800円もする。一冊の本としては全く腹立たしい限り。読者としては3冊まとめて新書サイズで出版してくれたほうがいい。値段は1300円くらい。そしたら数年は残る本になると思うのだけど。

 今回のインタビュー相手は福岡伸一という生物学者。狂牛病のときに名前を聞いた学者さんで、マスコミの体制的な意見とは少し違った確度から発言されていたことを記憶している。そんなことよりも『生物と無生物のあいだ』という本がバカ売れしたので名前は覚えている。ぼくも読んだ。それと、失礼だが「ちょっとかっこ悪い風采」からもよい印象をうける。カッコいい人って、あまり考えないような気がするから。ぼくの経験則による偏見だけど。

 この本に生物と無生物についての深い話があるのかといえば、多分ない。というのは、生物の話をしているはずだったのに、太田が宇宙論についてちょうど興味をもっていたのだろう、そっちに話を持っていこうとして少し話の流れがおかしくなっているから。太田としては「生命とはなにか」を根源的に考えるという意味で考えたのだろうけど、成功していない。そして、福岡先生が黙ってしまうところがある。

 普段ならば自分の本音から発せられる疑問をぶつける態度は、ただのインタビュー記事を対談にまで高める起爆剤になることが多いのだが、今回は不発に終わっっている。それが残念だった。
 なんともさっぱりしない後味の本になっている。テレビ番組は出来はどうだったのだろうか。

ひきこもりでセカイが開く時

爆笑問題+斉藤環
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 年末だからということで(いや年末でなくてもなのだが)本屋に行っていろいろと物色した。最近新書はブックオフで買うことが多くなったせいで、ブックオフにない新書には目が届かなくなっている。新書でおもしろいのないかな、と思って選んだのがこの本。

 爆笑問題の太田は賢い人である。本人はそれを全面に出そうとはしてないが、才能はいろいろなところで発揮されている。もっとも、テレビはある種のファンタジーだから、マスコミに流布している太田像をそのまま受け入れていいのかはわからないけれど。そんな真実などぼくとは無関係な話だからどうでもいいのだけど、単に、こういう人がぼろを出すということはあるのか、あるとすればどんなところなのかという視点で太田の言動を読むのも楽しいだろうと思って読んだ。
 この本は番組を書籍化したもの。番組内容は専門家へのインタビューである。
 普通、インタビュー役は聞き役に徹して相手の話を引き出すことが仕事なのだが、太田は自分の興味や考えていること疑問などをそのままぶつけてしまっている。だから、インタビュー番組ではなく、ある種の対談番組になってしまう面白さがあった。
 前もってシナリオが決まっていないときの発言は、その人の思想が出てしまう。何を正しいと考えているのかが、発する質問やテーマの選定で分かってしまうのだ。だから、こういう場面で太田の才能が裏打ちされるかどうかが見えるはずである。

 そんな気分で読み進めたが、あっさりと読み終わってしまった。太田は凄い人だとぼくは思う。その理由は、会話の中で偶然で話題になる人名や作品名などのトリビア的知識量にではなく、彼の中でのそれらが体系をなしているから。そんなことが話を聞いているだけで伝わってくる。
 会話における連想的な話題の発展も、どうなるかは制御していない場当たり的なものではない。太田は、おおまかな方向を考えながら誘導しているようでもある。つまり、話を発展させながら、きちんと着地を見据えているのである。そんなところに、この人は凄い人だと感じる。

 とまぁ、太田だけ持ち上げるとコンビの田中をけなしているような雰囲気になるが、ぼくはそんなつもりはない。田中は常識人だし、その役割をきちんとおさえて発言というか「存在」しているから。そもそもからして、田中は太田が好きなのだろう。昔ッからの友人だしね。コンビの間に軽蔑があったら、その関係は周りの人に透けて見えてしまうだろう。なによりも、嫌な雰囲気が漏れでてしまうはずだ。それがないのだから、彼らはうまくバランスしている良い友達なのだろう。
 さて、主題の齋藤環という人の話であるが、正直ピンとこなかった。「なるほど」という発言がなくはない。そういう発言は、引きこもりの人との関係も人に興味があればこそ思いつくものであって、サラリーマン家業として仕事をしている人の匂いは一切しない。好きでやっている仕事なのだろうなと思う。

2008年12月28日

民主主義という不思議な仕組み

佐々木毅
ちくまプリマー新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 佐々木毅という権威が、ちくまプリマー新書に書いているというアンバランスさに興味をもった。プリマー新書は中高生を想定しているはずで、東大総長は彼らにどういう語り口をとるのだろうか。もちろん、オトナが読んでも遜色がないシリーズなのだが。
 一読し、内容には引き込まれてしまった。さすがだ。こびることもなく、子供相手にいい加減なことをいうわけでもなく。それでいて、民主主義の不思議さと不完全さといい加減さを教えてくれる。また、だからといって、どうしようもないことまで指摘している。民主主義=いいことだ、という信憑を受け入れてはいけないと表明してくれている。
 とはいえ、文章には読み難さが残っている。ぼくも面倒だなぁと思いながら読んだところもある。こういう微妙なところで、つまずく人も結構いるだろう。子供はいろんな選択肢をもっていて、ちょっとでもつまずくと別のことを始めてしまう。無理して子供用にすることなどなく、普通の新書で出してもいいような気がするのだが、どうだろう。

2008年12月27日

科学のクオリア

茂木健一郎
日経ビジネス人文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA長津田店

 日経サイエンスでの対談記事をまとめた本。昔、養老孟司が同じような趣旨でやっていたはずだから、茂木健一郎は養老孟司の後としてはふさわしいだろう。
 こういう対談記事は科学の最前線を「知さらせてくれる」ことよりも、面白いなぁと普通の人が楽しめるように、対談者から話を引き出すことが大切になる。知識を増やすことが目的なら記事を読めばいいし、ネットを調べればいい。それでかなりのことは手に入る。しかし、それはそもそも興味を持った人だけがやること。新規参集者を引き込まないと科学を楽しめる人の数は増えない。日経サイエンスは一般の人向けの雑誌だから、普通の人が科学に興味をもってもらうこと、現代人のもつべき教養の底上げを支援することが役目になる。だからこそ、「面白いなぁ」という記事を対談として入れてある。そう記事の意図を想像してこの本を読むと、なるほど上手な話のもっていきかただと感心してしまう。
 このような対談の場合、話の聞き手は茂木健一郎のように「軸」を持っているほうがよい。茂木健一郎ならば「脳」。だから対談相手の話を理解する軸は「脳」になる。切り口がはっきりしている。だから、話が迷走することはない。また、読者誰もが茂木健一郎には「脳」を期待するので、安心して話を追うことができる。そして、対談相手の分野はできれば脳からすこし離れた分野のほうがよい。茂木が話を聞きながら脳やクオリアとの接点をさがし、思いがけないところで繋がることがあれば、茂木も読者も「おぉ」と一緒になって楽しめる。
 これが、アナウンサーのような「何も知らない普通の人代表」だと、なんだかよくわからないまま終わってしまうことになりがちである。この本は日経サイエンスなのだから、手によって読む段階で読者にはある程度のスクリーニングがかかっている。だから、何も知らない人代表のようなインタビュアーではダメなのだ。
 どの対談相手も面白いのだが、ぼくは動物の解剖をする人と宇宙論の人との話が気に入っている。すこし勉強して見たいなぁと思わせてくれた。だから、この本の目論みは成功しているし、ぼくも気分が良くなったのでこの本は「買い」である。

2008年12月25日

昭和のエートス

内田樹
バジリコ
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 例によってブログのコンピレーションブックである。著者が主張している内容はこれまでの路線から大きく外れることはなく、それでいて読みながらふんふんと頷きながら頁をめくった。
 内田樹さんの思考経路にぼくは尊敬と憧れが入り交じったものを感じる。ぼくも人からコメントを求められたとき、こんな風に答えられたらなと思う。そんな意味でぼくのロールモデルとしたいと思っている。無理だとわかっていても、そう思ってしまう。
 内田樹さんのように考えるにはどうすればいいのだろうか。フランス文学を勉強しなければいけなかったのか、学生運動をしなければならなかったのか、あるいは日比谷高校で優れた友人との対話がなければならなかったのか。まぁ、それらどれとれをとってもぼくは関係がない。内田樹さんの出身(とうか中退)の高校は日比谷高校である。立派な人をたくさん輩出している名門である。日比谷高校が一高であるならば、ぼくは三高卒ということになる。先輩には芥川などもいるのに、まったくさえない人生を送っているのだから泣けてくる。まぁ、通った学校は昔のことだからどうでもいいかな。どうすることもできないし。
 最近の内田樹さんのエッセイで気に入っているものはだいたい次を主題にしている。一つは消費者メンタリティーがもたらした現代社会での人々の行動。それは、下流志向だったりモンスターペアレンツだったり。二つ目は株式会社としての学校は成立しないということ。学ぶとはの本質についての内田樹さん流の解説にいたく感心する。三つ目は、物事についての単純な解説に対する疑い。社会問題に対するコメンテーターの発言などでよく見かけるような、「原因はあれです」という実に単純素朴でナイーブな説を唱えることへの注意である。
 内田樹さんのブログについてもこの三つの話題がおもだったものだ。著者が大切だと思っている事柄だからだろう。
 こう言ったことをこの本でまとめて読むことになる。なるほど、そうだよな。と思いながら頁をめくる。自分で考えたことでもないのに、自分で考えたかのような錯覚を抱いてしまうのは、説得力のある文章のなる技である。自分すら騙さないように考えることは、おそらくこう言ったものをいうのだろう。
 今のぼくには、こういう内容のないメモしか残せない。なんとも悔しい思いだ。
 

2008年12月24日

「気にする自分」が変わる本

生月誠
青春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 またやってしまった。この本は単行本で読んだことがある。その本とはタイトルが違うので別の本だと思って買ってしまった。実際手にとって買うときは巻末をみて「この本は〜を文庫化するにあたって解題しました」という注意書きがないか確かめるが、アマゾンではそれができない。気に入った本があると著者名で検索してアマゾンで購入するという方法をとるので、この失敗をたびたびやらかす。買ってしまったものは仕方ないと思って読むよりない。
 文庫本になるとき多少加筆修正してあるのだあろう、「あれ、これよんだじゃん」的なところがあまりない。大筋は同じだろうけど、この本を本当に以前読んだのかと問われると躊躇する。いや、読んでいる。単にぼくが忘れているだけなのだろう。
 この本のアイデアは単純である。嫌なことが頭から離れないのをどうやって直すのか。簡単に、そのことを考えはじめたら「考えるのをやめる」。ただそれだけ。実際問題それは結構むずかしいのだけど、だれでも試みることはできる方法ではある。
 どうしてそれでいいのか。その理由は人の考え方のクセにある。パブロフの犬という言葉で有名だが、あることとあることが同時に起きると、片方が発生すればもう片方も発生すると期待してしまう。もしあることを考えて嫌な気分になるなら、それを続けているとパブロフの犬になってしまう。因果ではない。そういう心のカラクリを説明してくれる。
 嫌なことを突き詰めて考えてもいかなる結論もでない。ただ、嫌な気分と考える内容が強く結びつくだけ。結論らしきことはでない。だから考えてもムダである。ならば、嫌な気分がすることは考えるのをやめたほうがいい。
 前回単行本を読んだ時、ちょっとこころみてみた。が、なかなかどうして、そうかんたんにはできない。それでも、因果ではなく相関である、という人の心理についてはわかったので過ごしやすくはなった。
 人はあまり因果で動かないものなんだ。相関が心理を支配している。それを因果だと勘違いして行動すると失敗する。そんな一般則めいたものについて、注意が向くようになった。

2008年12月22日

だましだまし人生を生きよう

池田清彦
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 丸善本店

 池田清彦の自伝。池田清彦の本は大好きだけど、自伝がでるほど立派な人だとは知らなかった。おみそれしましたと思いながら読んだ。少年記から現在まで、一貫して昆虫少年であることとはどんなことなのかよくわかった。興味があるんだ、ということをうまいこと自分の職業に結びつける過程に感心すると同時に、そういう生き方はありえるのかと驚いた。こういう話はもっといろんな人に知らせて欲しい。昆虫が好きで、蝶やかみきり虫が好きで、それで立派な人になれる。ぼく自信も今はラッキーな職場にいるけれど、それでも池田清彦ほど浮世離れしてはいない。職業として池田清彦的なものが世の中にありえるのだと中学高校生に知ってもらうといいのに。リーマンになるしかないような指導しかない学校に生きていたら、こんなことが可能だと夢にも思わないで挫折する人が多いはずだから。
 もうひとつ以外だったこと。それは、池田清彦が東大ではないこと。養老孟司と一緒に本を書いたりすることが多いから、茂木健一郎や内田樹などのように「東大倶楽部」の人なのかと思っていたが、そうではないみたい。それでいて自由な世界で生きている。なんだ、そうだったのかと元気がでる。東大倶楽部の連中にはずいぶんと嫌な思いをさせれてきたので、池田清彦の過去を知ってずいぶんと気分が晴れた。
 この本で気に入ったところ面白いところは、学生時代のエピソード。池田清彦が大学生の頃の写真がのっている。へんてこなヒゲをはやしていたりして妖しい、でも面白い。こんな風貌で昆虫捕りばかりやる学生がいたのか。すごい。そしてそのまま職業でもやる。すごい。野原でこんなオッサンと出会ったら後づさりする。どんなに迫力があったことだろう。
 そんな学生時代に結婚された奥さんはなかなかよさそうな人で、よくこんなオッサンと結婚したなぁと思う。生命科学とか医療ならば普通の人から見ても「立派な」感じはするけけど、昆虫に明け暮れる毎日の人というのは、ぼくのような人間ですら「どうなんだろうな」とちょっと躊躇してしまうのだが。

 自伝というのは、この本のように後続のひとを鼓舞するようなものがいい。偉い人の自伝はともすると「おれは偉い」的なものになってしまいがち。あるいは客観視しすぎて「正確なのだろうけど、おもしろくないよ」となる。どっちも、それを読んで後続の人が鼓舞されることはない。ところがこの本は不惑のぼくが読んでも「おれもこういう研究者になりたいなぁ」と思わせるものがある。魅力的な人の生き方は、その人と同じくらい魅力的なものなんだ。そなことがわかった。
 ここで一つ思いついた。今からでも遅くないだろう。これから生きていく上でいろいろな選択肢があるだろうし、いろいろなことを考えたり思ったりするだろうが、自伝を書いたら面白いだろうなぁというエピソードになるように生きて見たら結果的に面白いんじゃないかな。そんな感想をもった。

2008年12月21日

かけがえのないもの

養老孟司
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 丸善本店

 養老孟司の新刊が文庫本で発売されたので、早速読んでみた。内容は講演をまとめたもの。テーマはいかにして都市化・意識化から距離をおいて生きるのか。そのためのアドバイスである。著者が昔から一貫して主張されている脳化、都市化の問題を普通の人でもすんなりと耳を傾けられるようなやさしい語彙で話をしている。養老孟司の講演はこんな感じのものなのかと想像すると、一度は聴いて見たかったと思う。(さすがに、もうあまりされないだろう。)
 全部読んだあとで気がついた。この本は単行本を解題して新潮文庫にしたものだ。ということは、既に一度ぼくは読んでいる。あの本だとハッと気付く。手入れの文化の本だ。読んだのは4年くらい前だから、この読書メモをつけはじめる前だったかもしれない。
 単行本でじっくりと読んだため、本書で指摘されたことは自分のなかに取り込まれている。養老孟司のいうことは自分に取り入れようと努力した結果、それなりに普通の人と考え方が違ってしまうくらいに身についたと自分では思っている。養老孟司のアドバイスを自分の行動に反映させると周りとの調和が乱されることがあるのだ。ぼくが勘違いしているのか、うまくできていないのかはわからないけれど。

 ベランダに鉢植えの花を置き、それをなにとはなしに見るようになった。天気や時間帯によって信じがたいくらい綺麗に見えることがある。慣れない手でプランターの土いじりを初め、虫と格闘したり肥料に頭を悩ませたりしはじめた。歳を取ったことによる心境の変化だと周りには説明していたが、この本の最後にあった「人工物ではないものを一日十分以上みること」というアドバイスに反応してみたのだ。読んだことを実践してみた。すると、人生に深みがでてきてきたような気がする。まったく不思議である。単に花を眺めているだけなのに。現代ではあまり省みられないそういう知恵はぼくにとって貴重である。先輩からアドバスを貰いたいところだけど、不幸なことにぼくには友人関係でも学校関係でも会社関係でも「先輩」という人はない。普通は仕事の上でそういう人に出会うものだが、幸か不幸かぼくは独力でやってきたし、この先もそうみたいだ。だから、養老孟司の本は、ぼくにとっての先生であり先輩の言葉になっている。

 「だって、しょうがねぇじゃねぇか」という説明を受け入れる態度がないと、自然はいらだたしい面ばかり見せてくる。東京に住んでると「美しい自然」などにはメッタにお目にかかれないから。
 歳をとって体調がわるくなるのも仕方ないがない。そんなことも自然の一部。それを当然として受けれられるかどうか。自然について考えていくと、ある種の仏教的なものに近づくような気がする。
 意識ばかりが充満している世界に日々生きていると、なんとも心苦しい。混雑した駅でも、にぎわう繁華街でも、人がたくさんいるオフィスでも。ストレスは不幸だから感じるのではなく、人間関係から発する匂いのようなものではないか。人間関係は「意識的」なものの最たるもの。それを自然を相手にするように、まぁしょうがねぇかという風に流せるようになれれば、いわゆるスストレスから解放される。考え方をかえると、意識に由来する感情的な苦しさは本人がだけがもつ「勘違い」と言えそうだ。寝ているときは忘れているのだから、忘れれば忘れたで何も問題はないはずである。
 脳でも意識でもそうだが、こういうことは身体を動かしていない人が悩まされやすい。会社で会議をしながら一日を過ごす、パソコンのモニタの前に座り続け気がつくと日が暮れているような仕事をしている人には、養老孟司の言葉がある種の薬になるのではないか。ピンとくる人もいれば来ない人もいるだろう。もっとも、ピンと来た人は果たしてその後スムーズに生活しているかといえば、ピンとくるレベルによるだろう。あまりにも理解してしまったら、しばらくは不幸になるはずである。ちょっと反語的だが。

2008年12月20日

レキシントンの幽霊

村上春樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 年末になると大型書店にはお休み期間中に読むといいですよ、という本を平済みにしたコーナーがあらわれる。たいていはミステリー本が「このミスがすごい」と一緒にならぶ。夏休みに勧める本があるように、冬休みに勧められる本もあるのだろう。そういう本としてこの本は平積みされていた。
 村上春樹の作品を読んでいると寂寥感がすごい。なんでこんなに乾いた、そして寂寥感を表現できるのだろうかと感心する。著者はいつもこんな気持ちで過ごしているのだろうか。作家だから読者に感情を引き起こさせるのが仕事であり、村上春樹はその方面が得意ということなのだろうけど、それにしても毎回感心する。そして、その寂寥感はクセになる。
 ところがこの本にはそれがない。短編だからかもしれないが、なんだか普通の短編集になっている。村上春樹はこういう「ふつう」作品もあるんだ。熱心な読者ではないぼくには発見であった。
 ではこの本は面白いのか。ひとつであった。というのは、普通の本であればなにも村上春樹を読む必要がないから。ぼくは、寂寥感満載の「ぼく」という主人公やお話を聴く事がすきな女の人がでてこないと、どうものれない。

2008年12月18日

「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法

茂木健一郎
講談社文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 以前、朝カルの講義でちょっとだけだが赤毛のアンについて茂木健一郎先生が講義したことがある。赤毛のアンのファンなのだそうだ。ぼくも赤毛のアンは子供の頃から好きだったので、内容はほぼ覚えている。ただし、アニメを通じて知ったので、アンは山田栄子の声でしかないのだが。
 時の人である茂木健一郎先生はどんなことを話すのだろうか。先生も子供の頃にはまったそうだ。が、原著で全部読んだそうだ。その辺りがぼくとは大分ちがう。普通はアニメで知ったはずだ。本好きな子は児童文学書、オトナは新潮文庫というのが普通だろう。そのあたりから先生は常人ト違う。慣れない英語で読みはじめたが、シリーズ全巻読破するころには英語に慣れたということだ。まったく、うらやましい出会いである。
 赤毛のアンについての話ならば、想像力についてとか、友人との関係について、恋愛についてなどをテーマにするのが妥当だろう。しかし、そんな赤毛のアン論は内容透けて見えるのであまり興味がもてないでもない。では、我らが茂木先生はどのように赤毛のアン論へと突っ込むのかと思っていたら、「道の曲がり角」をもってきた。すごい。あれは、ぼくも衝撃をうけた箇所である。人生は見通せると思っているけど突然角を曲がるようなことがある、というあれである。この言葉を物語の中で聴くと、悲しさとワクワクとが入り交じった実に不思議な気分を感じる。そんな箇所である。
 ぼくが聴いた先生の赤毛のアン論の講義は、20分くらいの内容で、どちらかといえば講義の中では寄り道ようなものだった。その講義で気を良くしたのか、朝カルで赤毛のアンだけで特別授業をしたそうだ。ぼくは聴講しなかったが。
 朝カルの茂木先生の講座に集まる聴講生は圧倒的にOLだあろう、教室は一杯になるが、そのほとんどは若い女性である。ぼくのようなおじさんは珍しい部類で、むしろ場違いな気がする。
 今でも赤毛のアン人気はつづいているのだろうか。あのお話は子供の時に出会えば、おそらく一生付き合えるはずだから、その世代が子供に赤毛のアンの本を与えれば世代を越えて読まれていくはずである。そもそも赤毛のアンは女性が好きなのだろうから、子供に引き継がれる可能性は高い。

 通勤の乗り換え駅にある本屋に立ち寄った際、この本が平積みされていた。新刊は大抵平積みなるが、この本だけが残り数冊だったので平済みコーナーに穴が空いているで、この本がずばぬけて売れていることが分かった。というわけで帰宅途中に読み始めた。 
 本書の内容の1/4くらいは朝カルの講義で話したことである。ただし、想像力を「仮想」という言葉で言い換えている箇所も多く、アンの話を脳学者らしい解釈をいれている。同時に、先生の子供の時の体験談も交えて語られている。確かに、小学生くらいだと赤毛のアンが好きと公言するのはちょっと恥ずかしいだろう。ぼくもそうだった。
 この本の対象読者はOLである。女性を狙った表現やエピソードを意図的に入れている。もう、嫌になってしまうくらい気をつかっている。これ以上その意図が感じられたら読み続けることができなかっただろう。でも、つまらなくはない。単に抵抗を感じたまで。きっと編集者は女性だろうし、それを意図しているのが見え見えである。

「道の曲がり角」についての解釈。これが、この本の最後の方で紹介されている。なぜ、道を曲がるのか。というか、なぜ曲がってしまうのか。茂木健一郎先生の指摘は、なるほどと思えるものだった。
 赤毛のアンは、夢と現実とが両方ともに末広がりになっていくことを期待させる。最後には幸せに暮らしましたという希望を抱かせる。が、物語の最後で結果的にはごく普通の人の人生にしぼんでしまう。恐ろしいほど現実的な結末であり、そういう状態でどう生きるかを示唆しているのだ、という話である。
 講義でこう聞いて驚いた。そうなのか。あれは、末広がりが確実に思えた未来が、現実には歳を取ると当時にしぼんでしまい、ごく普通のオトナになってしまうという、誰にも当てはまる現実をモデルにした話なのだ。それを聴いたとき、茂木健一郎を茂木健一郎先生と呼ぶ事にした。立った数回の講義を受講した聴講生の一人に過ぎないが、そう言いたくなった。
 第49話が「道の曲がり角」である。48話の最後にある次週予告のナレーションは、今見ても怖さとドキドキが同居しているクオリアを感じる。YouTubeで全編みれる。ぼくは、小学生であり、毎週日曜日のアニメを楽しみにしていた。アニメではナレーションの男性の声が、世界のフレームを規定していたように思える。神の目を持ったやさしい存在がナレーションの声からうかがえた。もう最終回が近いし、しかもその先に何があるのかわからないでいた。でも、明るい未来ではないのだろうと予測できた。
 最終回を見てしばらくした後、本では続きが出版されているのだと知った。母親にせがんで大きな本屋へつれていってもらった。昔の東京堂書店だった。あの2階にあった背の高い書架と梯と。まぁ、そういう思い出と一緒に赤毛のアンはある。小さい時に本を読むのは大切だし、本を読んだあとでリアクションをとるのはもっと大切なのだなと今にして思う。

 茂木健一郎先生は、人気がでたために変な本が沢山でるようになってしまったが、それでもたまにこういうちゃんとしたものが出版されるところに救いを感じている。赤毛のアンについてどんな本がこれまで出版されてきたのか、文芸研究についてはとんと明るくないのでなんとも言えない。が、それを知らなくとも、この本は単体として「素晴らしきガイド」であろうと自信を持っていえる。ただし、この本は赤毛のアンを知っている人に向けた本である。知らない人が読んで、果たしてどこまで意味をなすのか、ぼくはわからない。たぶん、もったいないことになるだろう。だから、このガイド本を読む前に、本編を読む必要があるという、実に不思議なガイド本である。さて、原作をもう一度読む返して見ようか、それとも村岡花子訳ではないほうをよんでみるか。人生に置いて、なんど読んでも良い本は、結局子供の時に出会っているのであろう。子供の時の読書って、大切なものなんだなとしみじみ感じた。

2008年12月17日

神の子どもたちはみな踊る

村上春樹
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 なにとはなしに村上春樹の短編集を手にした。電車の縦吊り広告に村上春樹の新刊の紹介があった。それが無意識に残り、ぼくの手を動かせたのかもしれない。普段短編も村上春樹も読まないので、突然の思いつきは無意識の指令だろう。
 ぼくは村上春樹フリークではない。とはいえ、大学の頃に「ノルウェーの森」は読んだし、ダンスダンスダンスも好きだ。が、それ以後はただなんとなく読んだという程度なので、短編集があることすら知らなかった。
 で、この本の内容について。表題の一編は村上春樹っぽいものだった。だからといって好きに慣れるわけではない。オッサンが読んでワクワクするたぐいの話ではない。若い頃の生活が全く似ていないから、このお話はへんな話にしか思えない。こういう話に親近感をもつ人は、どんな生活をしていたのだろう。まぁ、理工系大学で勉強していたぼくには親近感が湧かないのである。
 ところが後半の「タイランド」「かえるくん」「蜂蜜パイ」という作品は、自分でもビックリしてしまうほど気に入った。読んでいると寂寞な気分がするところは村上春樹の小説の不思議な味である。そして、ナンセンスすれすれのファンタジーなところもそうだ。こういったお話に対してぼくは拒否反応を起こすのだが、村上春樹ならばなんとか読める。なぜだろう。
 「タイランド」は、アンニュイなオトナの物語である。たとえ人生がうまく回っている人だって、心の底は何かが蠢いている。そういうお話である。世の中には幸せな人なんていないんじゃないかと思ってしまうが、何も考えない方がしあわせなんだろう。
 「かえるくん」はナンセンス物語の見かけをした「ボランティア精神」の話である。だれの仕事でもないことを人知れずこなすことが大切だという寓話である。内田樹の評論でいう「雪かきをすること」である。世の中には人知れず目立たないけど決定的に大切な仕事をした無名の人がいて、そういう人は日に当たらないまま消えていったのだ。そういう寓話である。これって、普通に社会で生活している人ならばいろいろな場面で見たことがあるはずで、一人二人の名前を思い出せないようでは寂しい生活を送ったということだ。この小説でもそうだが、「だからお前もやれ」的な道徳の勧めではない。たんに、記述しているだけのお話である。名もしれない人に対する敬意を感じることも必要だろう。しかし、このような短編が最終的にノーベル文学賞に繋がるのかはわからない。というか、個人的には繋がらないと思う。ただし、こういう作品もある作家の下地の厚さは評価の対象になったりするのかもしれない。なんて、ことなのかもしれない。
 で、最後の「蜂蜜パイ」について。ぼくはこの作品で「お話とは何か」を学んだ。お話が人の生活で何の役に立つのか、なぜ物語が存在するののか。その必然性を納得できた。とはいえ、その解釈は著者の意図にはないぼくの勘違いなのだろうけれど。
 お話の目的は情報伝達と感情励起とがある。情報伝達に説明は入らないだろう。感情伝達は、それを聴いた人が「愉快」とか「怖い」と「腹が立つ」とか、そいういうクオリアを感じさせることが目的である。自分がお話しを読む場合、その動機はいわゆるエンタメであり、快感を求めることである。だから、お話を聞くことは食事をするのと同じ「本能的な欲望充足」のためである。とすれば、小説を読むってなんだろうな、の答えもそこにある。
 情報伝達の比重が小さい、あるいはほとんどないようなお話を読む理由は何か。読んだ後で一体何が得られるのだろうか。あぁ、楽しかった。それで終わりである。エンタメは楽しんでいる過程が目的だから、後に何が残ろうがどうでもいい。そういう態度が、お話が好きだということ。
 そこがぼくが小説や文学に対して疑いを抱く根源がある。本質的に、情報とからまないお話に耐えられない。むしろ損した気がする。ぼくはそもそもからして貧乏性で、お話の後で「賢くなったかどうか」を期待しているからだ。だから論説や評論やエッセイを読むが小説はあまり読まないできた。
 自分のお話嫌いの理由は、情報以外の効用を余り信用できないことにある。とくに、本を読む事が勉強することだと思い込んでいることに原因がある。この不幸は、子供の頃の習慣に原因がある。いわゆる読書習慣がない子供は、大抵そう思ってしまうはずだ。本を読む=勉強する。本を読む=それも遊び、と思えない。マンガを読む=遊び、だから、マンガ=本ではない。だから、小説を読むなんてのは、「子供じゃないんだからお話を聞いてもなぁ。」と自然に思い、むしろ小説をバカにしてしまう。本当に不幸なことなのだ。
 蜂蜜パイを読んでいて、あることに気がついた。小説を読む、いや、そもそもお話を読むという行為は、身の回りの世界で起きる出来事の意味を定めることなのではないか。意味という言葉が不適切ならば、「味を決める」でもいい。その出来事が自分にとってどんな関係を持っているのか。そのタグ付けをしているのだ。蜂蜜パイの物語に登場する女の子の行為がそれを示しているではないか。
 この話は単純である。とくに、おかしなトリックはないし、押しつけがましいメッセージもない。小説の中で女の子が小説家の男にお話しをせがむ場面がある。そのお話は、どこか別の場所で起きたおとぎ話ではない。今この瞬間自分の目の前の出来事についての「解説」なのである。「どうしてあの熊はひとりなの」とか、そういう子供っぽい問い掛けにたいする答えとして「お話」を用いている。考えようによっては、これはある種の神話づくりなのではないか。
 あの熊は何をしているの?という問いに、男がいろいろとお話しを考える。お話というよりも、ある種の童話をその場で生み出し、話して聞かせている。その話に納得すれば、今そこにいる熊の過去と未来と、そして自分との関係が明確になる。関係という、物質ではないものに「タグ」が付けられたおかげで、その関係を頭で理解し記憶できるようになるのだ。しかも、その関係についての説明には教訓があったり、感情を揺さぶる物語があったりする。そのクオリアが生々しければ、それだけで素直に感心したり、喜んだり、同情したりしやすくなる。ひいては頭に入りやすくなる。となれば、お話にすることはある種の記憶術であり、目の前の現実の認識方法とえいえる。説明として物語を使うことは偉大な発明なのだ。あるいは、それが言葉の真の機能なのかもしれない。
 動物園に行って熊を見る。そのとき、ぼくなら何を思うのか。普通の人は何を考えるのか。ある人は熊の行動を見るし、毛並みや泣き声を「教科書で読んだ通りだ」という照合をする人もいる。単に驚く人もいる。人それぞれだろう。ただし、色々思うことがあろうが、それはその人がそのようにして世界を認識している、ということが同じである。熊を見て何かを感じれば、それが熊を見ることによって世界の味を感じたのである。そして、そういう形で人は世界を頭に取り込んでいく。

 お話が好きな人は、世の中との折り合いは上手になるだろうし、あるいはうまくいかなくても一人で納得した世界に住んでいけるのではないかと想像したりする。これも、子供の時に身に付けるべき能力だろう。まったくもって、子供の頃に本を読めた人は幸せだなと思う。

2008年12月14日

ハンダの達人

福多利夫
翔泳社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 三省堂本店

 ぼくのハンダ付けの経験は浅い。まだ3年くらいである。仕事上必要になったので、学生さんやその道の資格を持つ人から少し教わった。あとは数をこなしつつ工夫しながら経験値をあげている。決して満足できる技ではないが、それでも人類の9割の人よりは上手であろうと思っている。ハンダ付けの経験をしている人はほとんどいないだろうからそう宣言しているのだけど。
 この本は非常に面白い。単なる知識本ではない。最初から通読すると、著者の人格が見透けてくる感じがする。信頼できる人であろう。その理由は、本文中にでてくる「注意点」の取り上げ方にある。え、そんなことまで気づかってくれるのか、とか、普通そうだよねという点がきちんとくみ取られている。責任を取りたくないという守りの姿勢で書かれた本は、自己責任を徹底させるか、実際やりもしない煩雑や手順や過剰な禁止事項が多くかかれているものである。しかし、この本は「等身大」の人が注意することがかかれているし、おれもそうしているよ、ということが記載さている。だから、信頼できると判断している。
 ただし、専門家からみると心もとないかもれない。ちょっと雑に見えるところもあるかもしれない。それでも、アキバ少年ならば十分だし、研究装置を自作する研究者にも十分な内容である。少なくとも、ぼくは読んでいて「ふんふん」と思ったところが多く、「あぁ、そうやるのか。次からそうしよう」という箇所も何点もあった。もちろんそういうところは、経験上の知恵のようなものであり、先輩の行動をまじかで見る事ができる環境にいる人にとっては感動しないようなところであろう。ただし、ぼくのような先輩がいないところで技術を獲得せざるを得ない人にとっては、良きアドバイスをくれる先輩の経験ノートのような本としてこの本を読める。知っている部分も多く、見返すことはあまりないかもしれないが、作業部屋の本棚で手の届く場所に置いておくつもりである。

2008年12月13日

レンゾ・ピアノ×安藤忠雄建築家の果たす役割

レンゾ・ピアノ×安藤忠雄
NHK出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 三省堂本店

 本屋のレジ近くの平済みコーナーに置いてあった。最近は建築関係者や建築が好きな人という建築に興味を持っている人以外にも安藤忠雄の知名度が上がり、安藤忠雄の名は芸術家としてマスコミに登場することが多くなっている。出過ぎな感もあるくらいだ。
 この本はレンゾピアノと安藤忠雄の対談をNHK番組として製作し、それを書籍化したものである。ぼくが購入した最大の動機は意外に安かったこと。
 簡単な経歴紹介と建築についての対話からスタート。レンゾピアノの安藤忠雄評の断片がちらっと読める。マイナスの部分は口にされず、プラスの部分だけ。本人を前にして和やかに会話を進めるのだから当然である。安藤忠雄のコンクリートについての評価を大御所の口からなされるのは、ある種の意外さがあって面白い。
 この本をフッと手にしたのは、ちょうど今日、乃木坂のギャラリー・間で「住吉の長屋」の実物大模型を見てきたからかもしれない。コンクリートではなく木材でつくられた模型であった。何度も写真で見ているのだが、体感としては天井が低く、住むのは大変そうな家である。見学客はたくさんいた。その中にはフランス語で議論している外人さんもいた。どんなことを話しているのだろうかと興味を持ったが、細部まではわからない。外人さんの評価も聴いて見たいのだが言葉の壁は厚い。ひょっとしたら、この本を手にした動機に外人さんからの安藤忠雄評を聴きたいということがあるのかもしれない。
 もとになった番組が1時間くらいのものだったのだろうか。電車で読み切れる分量だ。ちょっとさわやかな気分がしている。

2008年12月11日

虫捕る子だけが生き残る

養老孟司+池田 清彦+奥本 大三郎
小学館101新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 虫取り仲間3人の放談である。「人工的なものだけを見て育つ子供と自然のものを見て育つ子供とではオトナになってからの発想が大きく違う。自然のものはいくら細部を見ても細部が単調にならない。人工物は拡大するとすぐに単調になる。自然を体験する身近な方法は昆虫を捕り、それを観察することである。思った通りにはことが運ばないことを含め、複雑系の世界である自然を体験してほしい。」というような狙いをもとに対談するはずだったのであろう。もちろん、内容的にはそうなっている。しかし、ある種の飲み会のような雰囲気もある。周りにいる人にメッセージを発しようとしている場面もあるが、単に3人が話が夢中になってしまっているところもある。そうなると、一般人を寄せ付けない。まぁ、三人ともに世間での評判が高い人だからできる放談なのだ。彼らが楽しんでいる気分が読者にも伝わってくる。持つべきものは、同じ趣味をもった昔ッからの仲間である。そう、ある種のうらやましさを感じる本である。

 それにしても、小学館新書は後発だったためかしょうもないタイトルの本が多い。この本も養老孟司の名を使ってつくった本であるが、ちょっと安直すぎる企画である。

2008年12月 3日

情報革命バブルの崩壊

山本一郎
文春新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 斬込み隊長の新しい本がでた。早速購入。すごい。相変わらず身も蓋もないことを一気にしゃべり倒している。実際に投資で身を立てている人の視点。マスコミが伝える「物語」とはちがう世界がリアルに見えてくる。なんだかんだ言っても机上の空論でしかない大学の諸先生方、煽る事で儲けている評論家の人たちから素人のぼくが学ぶのはむずかしいだろう。ノイズと情報が分離できないのだな。もっとも、斬込隊長の本だって、表現や比喩は個性が強いので、そういうところには惑わされないよう気をつける必要はあるが。
 前作の中国経済についての新書では、文章がするすると頭に入ってきた。それも笑い付きで。ところが今回の本はちがう。一行一行頭に入れる前に考えないといけない。なにが違うんだろうかと考えたのだが、はっきりしない。文体によるものか、比喩によるものか、あるいはテーマによるものか、それら全部によるものか。実際問題、前作のような読みやすさはない。おもしろい比喩やちゃかしは随所にあるから、きっと内容のせいであろう。ともかく、読み通すのに前作と比較して1.5倍くらいの時間がかかった。
 
 新聞を購読する理由がわからない。ぼくは新聞をすべて読み通すことは新聞が配達されていた自分から無かった。だからWEBに上がっている記事程度で十分に間に合っている。新聞紙を使う機会もほとんどないので、自宅では新聞をとる理由がない。もう10年くらい前に止めてそのままだ。そういう人は結構多いだろう。通勤電車で新聞を読んでいる人はそれなりに見かけるが、以前と比較すれば激減しているのではないだろうか。
 新聞を売る事が基本収入である新聞社がいつまでこの家業をつづけられるのだろう。WEBは広告と記事で人を惹きつけているが、広告に集金力があまりないことがだんだんはっきりしてきたそうで、遅かれ早かれこの手の無料記事は消えてなくなるだろう。今のWEBには無料のコンテンツが多いが、それらは最終的には広告が支えてくれている。しかし、あまり広告に力がいことがバレてくれば、WEBもそのうち有料のものが増えてきて、ある意味適切な状態に落ちるだろう。そんなことが書いてあった。
 ちょっと不思議な気がする。インターネットの収入源は広告だそうだ。テレビも広告収入が基本である。広告にはそんなに効果があるのだろうか。ずいぶんと基本に立ち返ってしまう。
 インターネット以前、広告の効果は推測でしかない。影響力があるのは確かだが、だからといって過剰評価しすぎな気がする。みんなが同じテレビを見るような時代なら広告の効果も大きいだろうが、今では一つ一つの広告の効果はあまり多くないのではないか。インターネットの広告を見て商品を買った経験はない。いつもはいろいろな「評判」をもとに候補をしぼる。通販ならば何件かサイトを当たって候補をしぼり、安くて信頼できそうなところで購入する。広告などはみない。
 もっともブログや評価サイトなどには商品販売のための工作員がいるだろうが、少し時間をかけて評判をさぐればその手のものは見透かせる。だから、広告の効果はテレビ程ではないだろう。
 インターネットはマルチメディアのコンテンスを配信できるが、実際それを受信して利用する人はどのくらいいるか。例えば、サイトに音楽を入れることはほとんどない。音楽入りのページは意味迷惑だ。人の印象を決める要素のうち音は大きい比重を示すはずだが、それが使えていないのだ。こんな感じでは、思ったほどの広告効果がでないはずだ。

 この本を読んで、今までうすうす感じていたことが意識に登るようになった。ネット販売や広告、ネットの未来などの物語は結構ウソで化粧されているようだ。
 インターネット一つとってもマスコミの解説はなんだかおかしいみたい。もちろん、この本もマスコミの一部である。が、本が爆発的に売れても数万から数十万部だろうから、テレビに比べるとインパクトはない。だから、そもそもまともな解説が本で展開されるのだろう。まともさは「面白さ」にかけるから、マスコミの中心軸にくることはない。考えるための材料収集はマイナーなところでやったほうがいいようだ。

2008年12月 2日

「太陽の哲学」を求めて

梅原猛+吉村作治
PHP出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 表紙の写真に魅かれた。吉村作治が両手を使って説明している隣に帽子を被った梅原猛がいる。場所はエジプトのピラミッドかなにかであろう。逆光気味の劇的な場面である。
梅原猛はもう高齢だろう。それなのに、エジプトへ行った。すごい。しかも、ガイドは吉村作治。さすが一流どころである。どんな思いがあったのだろうか。梅原猛は仏教や日本について考えきた哲学者である。単なる「謎」といったことに興味を持つとも思えないし、わざわざ現地まででかける必要があったとも思えない。タイトルが「太陽の哲学」とある。たぶん、天照の神話とエジプトのラーとの関係を探るとかそういうことなんだろうけど、それにしても現地まで行く必要があるのだろうか。まったく元気な爺さんである。頭がさがる。
 八重洲ブックセンターで平済みされていたこの本を見たとき、そんなことをぼやっと考えた。差し迫って購入する理由はないのだが、まぁ、読んで見るかとばかり購入してしまった。日曜日や休日に本屋へ行くと大抵こういうことになる。休日の浮かれた雰囲気に「どれだけ時間があるか」とか「読んでない本は何冊あるのか」といったことは全く考慮されない。無駄使いになるかもしれないが、それでもそれがぼくの人生であろうと思い、楽しく本を読むことで休日の夜は更けていく。今日も多分そうなるだろう。
 読んでみた。エジプトの代表的な遺跡を巡り、その場所に関してあるいはその場所に関連したファラオやその時代、あるいは、政治的な動き、宗教、外国との関係について梅原猛が吉村作治に質問し、それに応えるというかたちで対談が行われている。ただし、その内容は一般的なエジプトについての本で読んだ事のあるものでカバー出来ている感があり、ぼくとしては目新しいものはなかった。太陽を神とする。そんな、自然への恐れの表現を宗教として形付けた人たちの感心は世界中で似たような形式となるであろうから、日本でもエジプトでも太陽神についての神話にはある程度の相似なものが起きておかしくない。それは、学者同士の議論でなくとも予想の範疇にある。だから、そういう議論を読んでも「へぇ」と感心する感情まではわいてこない。だからといって、つまらないということはなく、楽しく読めた。
 ちょっと気になったのは吉村作治のキリスト教のとらえかたである。余りにも平板な気がするし、聖書学については全く感心外なのであろう、キリスト教についての言及あるいは、古代ローマに付いての言及を聴くとTV野解説かと思えるくらい「べた」なものであって、意外であった。明らかに勉強不足である。エジプト学者というのは、エジプト学者なのだなと思った。