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2009年1月30日

「知の衰退」からいかに脱出するか?

大前研一
光文社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 大前研一さんの本はずいぶんと読んだ。ここ10年くらいの間に、一般に入手できるものは読み倒した。初期の本はビジネス書としてベストセラーだったから、ブックオフの100円コーナーで買えるものが多い。ブックオフで手に入らないものはアマゾンマーケットプレースで、洋書もアマゾンで注文した。もちろん新刊が発売されればすぐに購入して読んだ。大前研一さんは自らの著書は200冊以上あると発言されているが、ぼくが探せたのは70冊くらいだった。もちろん、全部読んでいる。
 これらの本を読んだからといって、その内容が全部分かったことにはならない。なんでもそうだろうが、わかったからといってできるわけではない。ビジネスマンでなけれは商売にも関係してないぼくには、ビジネスマンの心得について想像するしかない。大前研一さんのような目で社会を見渡せる位置に入る人はほとんどいないのだから、大前研一さんの読者のほとんどは、読んだところでそれを使えないはずである。ある種の畳の上の水練で終わっているのではないかと思う。
 論理的思考や問題解決などのビジネススキル、ボーダレス経済、はたまた、国家戦略問題なでを扱った著書を読むことは、こうていってはなんだが、娯楽でだろう。なぜなら、大前研一さんの著著の場合、読者も大前研一さんの視点に立てることができるが、そんなことはほとんど現実離れしているから。義務教育終了程度の論理力と語彙があれば、大前研一さんの言っていることはわかる。とても簡単なことのような気がしてくる。まるで戦国時代の合戦の様子を上空から眺めようなものだ。これが娯楽でなくてなんであろう。
 大前研一さんは、ご自身の著書が売れたのに人々がその本によって変わらないことを嘆くことがある。しかしちょっと考えれば、変わらないのは当たり前なのだ。素晴らしい音楽に感動したからといって、みんなが楽器を演奏できるようになるわけではないだろう。ビジネスだって同じで、問題解決方法を知ったとしても、身体を使って自分の問題を解くことには練習が必要だ。言葉によって理解できたことがそのまま自分に能力として組み込まれるはずはない。誰かがどんなに面白い本を書いても、またどんなに啓蒙的な本を書いても、すぐに応答があるわけけがない。その辺りをどう理解されているのか、質問したいところである。
 これまで何十冊もの大前研一本を読んできた。今まではそれらに反論するところなどなかったし、そうしようなどと想像すらできなかった。ある種の神に近い対象だったといえるだろう。ぼくはひたすら勉強し、自分も同じ見晴らしの場所へ上がって行きたいものだと望むだけだった。
 が、実に驚くべきことだが、この本を読んでいてぼくは反論したい気持ちを憶えた。そういう箇所がいくつかあったのだ。「いや、違うのではないか」と言いたくなったのだ。特に最後の教養についての章については、「それは全く違うだろう」とクレームを着けたくなった。こんな気持ちになったのは初めてであり、困惑すると同時にうれしい気分ににもなった。大前研一さんの本を読みはじめてから初めて自分が「成長」したのではないかと実感したのである。もちろん、ぼくの反論は全くの誤りである可能性がある。それを承知しても、大前研一さんに対してただ単に平服するよりない状態から自分は脱したような気がする。

 この本の内容は、大前研一さんの従来の主張からの逸脱はない。日本人の集団知能はどうしてここまで低いのかという問題を定義し、低金利時代におえる銀行預金、死ぬまで続く貯蓄傾向、場当たり的に感情的に反応する外交、それらを煽るマスコミ、おっさんでしかない政治家の行動などについて具体例を示している。そして、そういう風潮から抜け出す方法の提案を行い、大前研一さん自信で行っている実験の結果を紹介している。こういう部分を読んでいると、自分でも簡単にできそうな気分になってしまう。さらには、諸外国の新しい動きと、その先にある10年後の未来予想図を提言している。大前研一さんの本でこういうことが紹介されると、真似っこビジネス書がいくつか出版され、テレビでは評論家が自分のアイデアのような顔をして語りだすというところもきっと同じだろう。
 大前研一さんは不思議なくらい凄い人であることは、今現在でも変わっていない。だからこそ、今でも諸外国からのアドバイザー依頼が途絶える事はないのだろう。

 ぼくも大前研一さんの提言に従い、いろいろと勉強したり、行動したりした。英語・ファイナンス・ITについては一通り勉強したし、リーダ論についてもいろいろ著作を読み、今できることとして自分にリーダー的な行動を取るような試みを仕事のなかで試してみた経験がある。
 しかし、あるときばったりと辞めた。興味がなくなったわけでも、大前研一さんの説く方法の有効性に疑いをもったわけでもない。理由は単純で、結局ぼくは経済活動を「面白い」と思わないのだと分かったからである。人の命はさほど長くないし、日本のために自分があるわけでもない。自分が面白いとも思わないものに、なぜ自分の人生を賭ける必要があるのだろうかと当たり前のことに気がついたのである。それ以後は、大前研一さんの発言は日本の社会に足りないところを知る上でのデータとする程度に取り込んでいる。ぼくはぼくの仕事をするればよいと思っている。
 大前研一さんの発想は、日本の普通の生活者の生活レベルをよくするためのものである。発想には何らかの価値軸が必要で、それを究極の目標として問題可決を行っていく。大前研一さんの話では、最後に全部「経済」になってしまうのである。
 戦前の日本と比較すれば、現代日本の生活は比較にならないほど恵まれている。たいした生活ではないやと思っている人の生活であっても、諸外国の大半よりは遥かに恵まれている。だからもし、現在の生活のままでいいと思っていたとしても、ボーダレスワールドのなかで今の日本の位置をキープするには経済を今以上に拡大させていく必要がある。
 こういう考えがあるのだろう。だから、1にも2にも経済なのである。
 確かにそうでなのかもしれない。現在の生活レベルを維持するには、経済活動を活発にする必要があるのかもしれない。そして、みなが「リーダー」として高給をとれる仕事をしなければならないのかもしれない。
 しかし、だからといって、ぼくは生活レベルを維持するために生きているのではない。現在の日本の状況は世界史のある状態の中で、そしてこれまでの日本人の活動の結果としてある。それには感謝するとともに、敬意を評している。しかし、それと何のために生きているのかという個人の究極的な価値観とは関係しないとぼくは思う。
 経済は大切である。まったくそうであるが、ぼくは金利が5%だの7%だのということに常に注意を払い、どっちに投資するのかなどを考えるつもりは全くない。それは金利という数値の意味するところが分かっていないからではない。73を金利で割った数値が、投資した資金が倍になるまでの年数であることくらい知っている。しかし、10年20年たって倍になる喜びよりも、今自分にできることをする方に時間を投資する。それは借金をして車を買うための理由付けではない。金融について感心をもったり、勉強や実施のために時間をつぎ込んだりすることが「もったいない」のである。もっとやる事がある。5%くらいの金利ならば、ぼくはその時間で本を読むか、音楽を効くなどに時間を使いたい。そういう意味である。
 もちろんこういう発想がでてくるのは、日本が今のような経済状態にあるから。それは承知している。とはいえ、ならばそこで何をするべきかという問題はその状態を維持するためにあるのではないと思う。現在の生活レベルを維持したところで、人は確実に老いて死ぬのだ。

 この視点からみて、この本の提言にはいくつか反論がある。
 例えば教育問題については、大前研一さんの提案は的外れである。ぼくは内田樹さんの提案をとる。骨の髄からのビジネスパーソンである大前研一さんに、教育はできない。大前研一さん自身は社会人向けの学校を開校しており、それなりの成果を得ているのだろうけど、日本人全部がそんな人になる必要はない。
 ぼくが最もおかしいと思ったのは、21世紀の教養である。そもそもからして定義がおかしい。時間や場所という制約を越えて人に価値をもたらすものが教養と言われるものであろうと思っているから、「YouTubeは次になにをやるのか」とか「Googleはどうなるのか」、「アフリカのエイズ対策何をすべきか」、「環境を守るために何をするべきか」という話題について発言できることを教養と呼ぶつもりはない。それは時事問題でしかない。大前研一さんのおつきあいのあるセレブや世界企業の偉い人たちがそのようなことについて興味をもち、雑談のようなときにこういう話ができないと相手にされないと教えてくれている。しかし、YouTubeやGoogleは時間的は進化はバカみたいに早いし、環境にも大きく影響されるし、そんなものを予想したところで「的外れ」でしかない。ましてや数年たてばどうでもいいゴミみたいな話題に成り下がるであろう。要するに、世界のセレブやトップ経営者が興味を持っている事が教養になるではない。なのに、大前研一さんはそう言わない。
 そもそもgoogleがどうなるのかなど、セルゲイ・ブリンにも分からないだろうし、技術屋でもない人の噂についての議論など、時間を捨てること以外の何のもでもない。そういう勘違いがセレブやトップに蔓延しているのならばそれはそれで構わないが、自分の人生をそういう人に合わせて捨ててしまうことはないだろう。結局、人の方向を見つめるだけで自分についてを見失ってしまうというよくある例の一つでしかない。

 大前研一さんの主張は一貫している。だから、ある程度本を読めば「またか」という内容ばかりになる。実際この本も所見であるといえるところはほとんどない。
 それでも社会に氾濫する情報を自分で処理していく方法を実例から学べる。だから今後もぼくは読者でありつづけるだろう。ただし、今後は反論を抱くことも多くなるのだろうなと思う。


2009年1月28日

古武術からの発想

甲野善紀
PHP文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 甲野善紀さんの本に興味をもったので、とりあえず文庫本の2冊目として手にした。インタビュー形式をとった本である。だからといって武術についてほとんどなにも知らない人がインタビューをしているわけではない。ぼくにとっては「はぁ?」という部分や「だれ、それ?」という箇所も結構あった。ちょっと甲野善紀さんに興味がないと読み進めることができないかもしれない。

 武術についてあれこれ書物にしたとしても、それ読み解き武術として再構成することは難しい。そもそも武術をやっている人でないと、何を言っているのかすら理解できないし、ましてや身体の動きに戻すことは不可能である。そもそも、身体の機能や動きと言葉対応するはずないのだから。
 そういう意味で武術そのものについては書かれていない。武術を巡る甲野善紀さんの考えやこれまでの行動について書かれている。
 例えば、古来からあった武術の達人はどういう形で存在していたのか、現代に一番近い人ではどういう人がいたのか。戦後GHQが県道というか今でいう武道を禁止しようとしたとき、武道というものの凄さを米軍上がりのひとに見せつけた有名な試合があったそうだ。そこでは、今で言うK1のような格闘を仕掛けてる米軍人と戦い、勝つことが武道解禁の条件だったそうで、そこでの試合には柔道や剣道といったようなものをあらかた高い技術で習得している人が必要だった。このときの試合に出た人が「武術の達人」だったそうである。まぁ、こうしてぼくが再話すると面白くもなんともないが、甲野善紀さんの語りで読むとなんとも面白い。ある種、恐竜が現代でも生きていた、というような興奮がある。
 
 何かができる人の話が必ずしも面白いわけではない。何かを追い求めている人の話が面白いのだと思う。甲野善紀さんは武術を探究している。ただ考えているだけではなく、現実に行動している。古い文献を探し、気になる文献を何度も読み返し、自分の身体をつかってためし、そこから発展させて体得していき、それを多くの人に伝えていく。この探究方向に「この人は凄い人だ」と思わせるものがあるのだと思う。
 甲野善紀さんは、単なる武術ができるだけではない。それだったら、社会においての位置づけがもうひとつあいまいになる。武術を求めるだけではなく、介護における身体の使い方など社会の人に還元している。単に「おれはすごい」ということを顕示することが真の動機である人が多い中、「身体の使い方への還元によって探究結果を社会に戻す」という見識に、この人は本当に武術を探究しているのだなと感じるのである。

2009年1月26日

武術の新・人間学

甲野善紀
PHP文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 かつての日本には、小説や映画に登場するような、現代人からみれば超人のような身体能力をもった人がいたようだ。剣術使いならば、現代の剣道家とはまったく異なる次元の達人達が存在していたというのだ。
 忍者や剣術達人話の話はすべてホラであり、超人的な武術使いの伝説はおとぎ話なのだ。そう考えるのが現代人としての条件であり、「いやあれは実在の人だった」と考えるのは子供かアホかだけだから近寄らないほうがいいと考えよ。このことに普通の人の感覚からは大きな意義はないだろう。
 ところがこの本の著者はそう思っていない。武術の超人的な身体能力を持つ人は実在したのではないかという疑問を持ち、それについて調べ、また自分なりにその身体能力の開発方法を探究している。そして、なるほど実在したのかもしれないと人を説得できるにたる技を、身体の使い方を実演してくれている。

 現代の武術の身体の使い方、例えば胸を張った姿勢などを普通のひとは「伝統的な正しい姿勢」だと考える。ところが著者は、あれは明治以後のものであって古来から工夫されてきた身体の使い方ではないと言っている。明治政府が導入したドイツ軍隊のものかなにかが反映しているのだろうと。そして、江戸時代までの身体の使い方をいろいろな証拠となるものを寄せ集めて垣間見せてくれる。これがひどく興味深い。
 例えば有名なナンバ走り。現代日本人の走り方や歩き方は、明治になってからのもの。徴兵制によって普通の人を軍隊として早急に育成する方法が必要になった。そのとき、行進時に手と足を逆に振る歩き方、走り方が一般の人に教育された。現代ではそれが「当たり前」になりすぎて、他の歩き方などは存在し得ないような顔をしているが、日本での歴史は浅い。
 江戸期までは、歩くときや走るときに手は動かさなかった。肩で風をきって歩くときなどですら肩と足がそろってでていた。それをナンバ歩きという。この時代の絵をみると地震で逃げ惑う人々は手を前に挙げて走っている。現代ならばそんな方法で走れないはずだ。

 今からすると不思議なこともある。江戸期までは一日150キロくらい歩く人は結構いて、有名な早い人になると江戸から仙台まで一日で走ったような人がいたそうだ。現代の感覚でいえば、無理なのだ。マラソンはランナーを見てれば、現代の走行方法には限界があるのは見えている。単に「身体が丈夫な人がいた」ということで済ませることができないレベルの違いである。現代とは違った身体の運用方法があったはずなのだ。

 現代ではそれが失われてしまった。著者はその失われた身体の使い方を探究している。
 この本を読んでいると、著者はある種の考古学をやっているようにみえる。失われた文明を発掘しているような、考察して現代でも可能かを実験しているような、コンチキ号をしたてて航海するようなことをしているのだ。それは、著者の本音のとしての疑問に答えを探そうと工夫している試みなのだ。
 シンプルな動機がその人の人生を駆動し、工夫に満ちた日々を送っている。そんな人にぼくは敬意と憧れをもつ。養老孟司、内田樹、茂木健一郎の対談本でしからこの著者のことを知らなかったのだけど、今では是非ともこの著者の本をいろいろと読んでみようと思っている。とはいえ、ぼくは武道をやっているわけではないから、ピンと来ないことばかりかもしれないけど。

2009年1月24日

進化するグーグル

林信行
青春新書INTELLIGENCE
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 林信行さんの新刊がでた。しかもグーグル。まだマスコミに紹介されていない新しいことはあるんだろうか。
 林信行さんの最近の本はもれなく面白い。アップルの本が多いけど、今度はグーグル。グーグルについては多くの本が店頭に並んでいるけれど、この人ならばちょっと別の見方を教えてくれるだろう。この本はレジに並んでいる間の衝動買いなのだけど、とはいえこのこの程度のことは手に取る瞬間に考えた。
 が、読んでみたら普通の本だった。グーグルの凄さ、グーグルの立ち位置の紹介。この内容は梅田望夫さんの役回りだろう。なにも林信行さんが出版することない。本人の動機で書かれたのかもしれないが、出版社の強い勧めもあったのだろう。
 グーグルがつぎつぎとリリースするサービスにはお驚くし、感心もする。グーグルという会社の自由で闊達な雰囲気は、シリコンバレーを体現していると思っている。シリコンバレーなんて行ったこともないけれど、そういうステレオタイプのイメージをグーグルに抱いている。この本もだいたいそれを裏打ちしてくれている。
 振り返ってかんがみるに、それがグーグルとぼくはどんな関係にあるのかといえば、まったくない。ぼくは単なる一ユーザーである。グーグルのおかげで情報検索の恩恵を受けているは事実だが、文明の利器と言われているものの一つとしてであり、グーグルだけに恩恵を受けているのではない。電気照明やガソリンエンジン一つとっても、グーグルからよりは恩恵を受けている。
 だからグーグルを礼賛するとしても、自分から遠いものを褒め称えるに過ぎない。ミスユニバースは綺麗ですねぇ、という感想と同じものである。だってそうだろう。賢い人たちが、自由に興味あることだけに作業したら、そりゃ凄いものができるだろう。それはそれで感心するが、自分と無関係のものに興奮することはない。だから、この本に紹介されている内容も「ふーん」程度しか興味が持てない。そんなところも、この本がもうひとつだと感じた理由なのだろう。
 
 グーグルの凄いところは、あっという間に成し遂げてしまうところだ。これが50年かかっていいのならば、他の誰かがやってもビックリしない。グーグルは、ある種の「爆発」現象なのだ。今はインターネットの時代だし、Linuxという成功例もあるのだから、ネット上ならば、その成果はこれまでと比較して短期間に成立する。実際できることは凄いけれど、魔法ではない。
 この本を含め、多くのグーグル礼賛者の多くは、この状態が時間的に継続するものだと思っている。少なくとも、読者にはそういう印象を与える文章を書いている。しかし、それはない。「爆発」なのだから、燃料の消費もバカみたいに早い。出てきたのも突然ならば終わるのも突然だろう。今の延長線上にある「やれそうなこと」が尽きたとき、気がつけばいなくなっているのかもしれない。
 悪口として言っているのではない。本来ならば自分一人の人生では目撃できなかったことが、数年で体験までできてしまうのだ。実に愉快なことである。しかしだからといって、人の一生に本質的な変化があるわけではない。すべては「便利になった」ということで括れてしまうインパクトしかない。
 グーグルについて、ぼくが注目しているのは、いつ質が転換するか。今は「多方面」に手をだして、それらのうちいくつかがばか当たりしている状態である。しかし、それらの作品は、これまでのグーグルの作品の隣に陳列できるものである。つまり、違うものではない。ではいつこれまでの作品の隣に陳列できないものがでてくるのだろうか。
 読みながらそんなことを考えた。

2009年1月17日

脳を活かす仕事術

茂木健一郎
PHP研究所
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 シリーズ2冊目。勉強の次は仕事。素直な流れだ。勉強法は面白かった。これも何かの縁だろうと思い、長津田で急行待ちをする数分の間で目に付いたこの本を購入した。帰りの電車で読み切れてしまった。
 へぇと思わず言ってしまう部分が少なかったのだ。本を読むのに時間がかかるときは、著者の文章がぼくの呼吸に合っていないか、意味不明の単語が多いか、あるいは感心することが多いかである。すらすらと読め、内容に違和感がないならばすぐに読めてしまう。それはうれしいことではない。とても残念なことなのだ。発見や驚きや違和感がないならば、読まなくてよかったのだから。
 もちろん、多くの人は面白がっているだろう。この本もそれなりに売れているはずだろうし。しかし一方で、似たようなことをぼくもやっているなと感じる人も多いのではないか。
 じゃぁ、お前も書けばいい。そう非難する人もいるだろう。しかし、とりたてていうほどのことではないこと、みんなそうしているんじゃないと思っていることを本にしたいと思うだろうか。
 こういうと、じゃぁ、なんでお前は茂木健一郎さんのように有名人じゃないのだと反論するかもしれない。それに対する答えは簡単である。茂木健一郎さんが推奨するようなことをしたからといって、茂木健一郎さんのようになれるわけではないからだ。もっというと、優秀な人や成功した人が「これでぼくは成功した」ということと同じ事を別の人が実行したからといって、その人が成功するわけでもなんでもない。成功どころか、その人を不幸にする可能性するらある。
 ぼくは「似たようなこと」であって、同じことといっていない。自分バージョンになっている行動癖のそもそもの理由は、じつは茂木健一郎さんがこの本で語っていることこと同じことが理由にあるのではないのか。そう思ったのである。

 この本は勉強法の紹介である。茂木健一郎さんの才能の一部でもいいから身に付けたいと思って、「マネ」するために読んでみようと買ったのかもしれない。しかし、それは間違いだろう。というのは一般に、「AをすればBになる」ことが、人間に関してはほとんど間違っているから。ある人がある事をできるようになる過程は実に様々な出来事の結果であって、計画して実行するようなものではないのだと思っている。
 例えば、あることを「好きで」やるというアドバイスがあったとしよう。しかしそのアドバイス通りに行動できるものなのか。無理だろう。
 あることを「好きでやる」。これは意志でどうにかなるものではない。好きになろうとがんばった時点で好きでやっていないし、仮に自分を騙す事に成功したとしてもそれは後々心の病というかたちで本人に逆襲をかけるかもしれないから。
 人から学べることは、「なるほど、そういうこともあるかもいれないという気付きである。まずは試して、多分ダメだろうあらその次はどうするか考えてみるか。このくらいがちょうどよい。個人の身体や考え方は、あまりにも多様性が大きいので、万人に共通するアドバイスは「すでに知っているような」ものばかりになるはずなのだ。
 じゃ、なぜこの本を買ったのか。その理由は単純で、『脳を活かす勉強法』が面白かったからであり、茂木健一郎さんの考える「仕事についての姿勢」を少し覗けるかもしれないと思ったからである。
 では、それは分かったのか。少し分かった気がする。茂木健一郎さんはもはや仕事の内容そのものを追いかけてはおらず、何かを成し遂げたいという思いのほうが強くなっているということだ。
 仕事って結局、そういう心理的動機と一体になってしまうのだろう。

2009年1月16日

脳を活かす勉強法

茂木健一郎
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA長津田店

 JR横浜線の車両の出入り口の扉に、この本の広告シールがあった。こんなところにまで宣伝しているのか。書店に立ち寄るくせがない人にこそ読んでもらいたい。そういう意図があるのだろう。ごく普通の人に向けた、誰でも読めそうな、クイズ番組をみるかような気軽さで勉強ができるようになる、というふれこみなのかもしれない。事実、何万部も売れたベストセラーだと耳にした。帯にある茂木健一郎さんの風貌もボディーブローのように購入しようかなという気持ちを後押していると思う。なぜなら、ぼくも買ってしまったから。
 この手の本は読んだ後で後悔することが多い。というか、後悔しなかった事を思い出すほうが難しい。それでも懲りずに買ってしまうのだから、茂木健一郎さんの風貌には魅力があるだろう。ぼくが広告代理店関係者ならば、茂木健一郎さんには、勉強ができるようになる本の次には、見た目も身体も若返る本、ダイエットに成功する本を書いてもらえるよう工夫するだろう。全部を脳の使い方にからめてしまえば、それなりに理由がたつし、出版すれば絶対に売れるから。

 買った本を手にしながら、しょうもない本なんだろうなと思っていた。電車の中で読んでしまったが、電車から降りるときには、読む前に想定したほどがっかりはしなかった。むしろ面白かった。題名から想定した内容とは少し違ったのた。というのは、この本は茂木健一郎さんの自伝ともいえるから。
 時の人である茂木健一郎さんは子供の頃どういうふうに勉強したのだろうか。教育ママに限らず、だれもが興味を持ってしまうだろう。というのは、学者さんであっても、普通の大学教授と感じがことなり、ひょっとしたら自分も茂木健一郎さんのようになれそうな気がするだろうから。そういう、人の警戒心をとく風貌だから。もちろん、茂木健一郎さんと同じようにやってもだぶんダメなのだけど、参考にはなるかもしれない。そんな期待は誰も持ってしまう。
 茂木健一郎さんは、要するに子供の頃からできたようである。この段階で、なんだぁ、でもまぁそうだろうと言って、本を閉じてしまってもいい。しかしせっかくだから、もうちょっと続けて読んで見た。茂木健一郎さんの勉強法は、特段変わったところがない。さして「めずらしい」ものではない。なんてことはない、要するに本を沢山読むことだといえそうだ。
 本を読むのは自発的な行動である。強制されてやれるものではない。仕事上どうしても読まなければならないと重々承知している本であっても、読めないものはよめない。そういうことは誰でも経験があるだろう。嫌いなものは嫌いなのだ。だから、子供の頃に沢山読むことはのちのちその子にとって良い経験になるのだと分かっていても、読まない子は読まない。そういう子供だからしかたない。それでかたづけるよりないだろう。強制したところで、全く無意味なのだから。
 勉強として、それ以外のことがいくつか提案されている。しかし、結局のところ、そもそも論まで立ち戻れば、本を自発的にどれだ読もうとしたかにかかっている。この事実におちるような。ロジックがものをいう世界で生きるには、結局のところを自発的に本を読む人かどうかで決まるのだな。
 そんな感想を持った。


2009年1月14日

響きあう脳と身体

甲野善紀+茂木健一郎
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 最近の茂木健一郎さんからは、考え抜かれた話を引き出せそうもない。もう、伸び切っている感がある。だから正直期待していない対談だった。しかし、思いのほか甲野善紀さんが話を引っ張ってくれ、面白い方向に転がった。読みごたえは十分。
 甲野善紀さんの趣旨は以下のようなものである。
 言葉は必ずシリアルな表現になる。何かを表現するためには単語をつなげていく必要があり、それを聞き取る方も時間の順番に受け取けとる必要がある。言葉で身体について表現する場合でも、頭で考えたものを表現する場合でも必ず時間的にシリアルなものするよりない。これが言葉の限界である。
 しかし、身体の使い方には、本質的にパラレルなところがある。手の動かし方一つとっても、一つ一つの部位を順番に動かしていくわけではない。多くの筋を「同時」に動かしているのだ。
 だから身体の動きを言葉で表現することは難しい。言葉でもって思考する「意識」も同じようなこところがる。だから、意識で身体の動きを把握することも難しいのである。
 難しい動きを体得するさい、簡単なものから難しいものへと練習することが一般的である。これは身体の動きだけでなく、頭で考えることもそういしている。その理由は意識が直接指令をだして行うにはそうするよりないからであろう。
 しかし、実際問題、あの種の身体の動きは、簡単なものから難しいものへという学習方法では体得できない。つまり、量をこなすことで質に転化することが実質ないものがある。世の中にはそういう性質を持つものが多くあり、その多くは「同時並行的に」何かをする必要がるものである。こういうことを、多くの人に理解されてないのではないか。
 以上、勘違いがあるかもしれないが、ぼくはこう理解した。これは言葉の表現に対して、身体側から境界線を引いたのである。身体であっても脳であっても思考であっても、本質的にパラレルな処理をする必要があるものを論文で表現することはできないのだといっている。それは、茂木健一郎さんへの問い掛けのように思える。
 この挑戦にたいして、茂木健一郎さんははっきりとした応答を示してない。なるほど、という程度である。あるいは、「参考になります」とか「そうか」と言ったりして終わっている。
 もちろん、茂木健一郎さんにとっては、いろいろ考えるヒントにはなっているのだろう。けれど、対談なのだからきちんとその場で「受ける」必要があると思う。両者は知り合いだから長い時間をかけて考えたあとに言葉を交わすことができる。そのほうが良い結果となるかもしれない。しかし、読者はそうはいかない。その場でないものは、永久に分からない。
 売れっ子だから仕方ないのだろうけど、茂木健一郎さんの本では、読者の存在が希薄になっている。仕方ない事とは言え、がっかりすることが多くなっている。

2009年1月10日

不連続の世界

恩田陸
幻冬舎
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 『きのうの世界』よりも前から家にあったのだけど、どうにも読む気がしなかったのでほっておいてあった。たまに起きるのだけど、無性に恩田陸の本が読たくなって手にし、一気に読んでしまった。
 きのうの世界はバカミスだったけど、この本はどうなんだろうか。そう思って最初の話を読んでから、これってミステリー?と首を傾げた。面白くないとは言わないが、ちょっと難があるだろう。
 この本では、同一人物が登場する短編がまとめられている。が、全体が一本の輪として閉じていく爽快感はない。単に短編が何本か並んでいるだけように思えるのだが、実際のところはどうなのだろう。
 これらの短編は、ホラー?やミステリーに分類されるもの。そして、どれもパンチに欠けている。
 インパクトがあるのは、帯にも紹介がでている最後の話。ちょっと面白い。

 『きのうの世界』とどっちがよいかと問われれば、間違いなく『きのうの世界』をお勧めする。

2009年1月 7日

身体を通して時代を読む

甲野善紀+内田樹
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 アマゾンマーケットプレース

 さすがにこの対談の内容を理解することは、運動不足のぼくにはむずかしい。武術なり合気道なりを相当やってきた人たちが抱く疑問やアイデアを語りあっているのだから、仕方ないのだけど。
 ただし話の方向性はわかっている。これまでに内田樹さんや甲野善紀さんの著作や対談を何冊も読んでいるから、彼らが何に興味があってどんな意見を交わすのか、どういう方向に話が進んでいくのかは予想がつく。また、実際その通りになっている。ある種の予定調和があるといってもいい。そして読者はその流れを百も承知で読むことになる。
 彼らの話を聞いて普通の人が普通の生活で活かせそうなものがないとは言わない。ヒントになりそうなこともあるだろう。
 ただし、それらはすべて「畳の上の水練」でしかない。身体の話は身体で活かすよりない。でも、身体の動かし方は言葉で聞いて実行できるものではない。この本の内容を理解するには、合気道でも初めて10年くらい経ってからでないとダメなんだろうと諦める。

2009年1月 3日

合気道とラグビーを貫くもの

内田樹+平尾剛
朝日新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 朝カルでの講演をもとにまとめた対談本である。ごく普通の人であるぼくにはラグビーについて詳しい友人はいないので、この本を手にする人の多くもラグビーについて知らないだろう。でも、内田樹さんだからなんか面白そうだな、という理由で手にしているはずである。
 内田樹さんとの対談ならば、話の方向はおおむね決まっている。え、そんな話するの?ということはあまりない。身体の使い方の話になる、必ず。そして、トレーニングの仕方とかそうことではなく、身体を全体的に使うような話になってくる。そして、それを聞くのがまた楽しいのである。
自分では武道も運動もしないのだけど。身体の使い方にまつわる話の場合、それを聞いたところで実践に影響することはない。内田樹さんの場合、おっしゃる内容のレベルが、普段から身体を使っている人に向けたものだったりして、普通の人がきいても行動に反映できるようなものではない。
 じゃぁなぜ読むのか。それは、役に立つ経たないに関わらず楽しいから。内田樹さんの考え方を横で見ていると、なるほどそうやって考えるのかと感心することが多く、その技を見て楽しんでいるのだ。だからぼくは、対談本を芸を観賞するようにして読んでいる。読み終わった時点で、その本の価値は終了する。読んだことによって自分はどう変わるかなどは考えない。

2009年1月 2日

井沢式「日本史入門」講座 朝幕併存と天皇教の巻

井沢元彦
徳間書店
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 このシリーズは読みやすく、分かりやすく、しかも「あぁそういうことなんだ」という発見を味わえるので出版されるとすぐに買っている。今回が5冊目で、帯には完結編とある。日本史の講座なのだが、この巻ではまだまだ戦国時代にもなっていない。それのに、どうして完結なのだろうかと疑問に思った。しかし、考えて見ればこの著者は小学館で日本通史を出版しつつあるのだから、なにも徳間でもやる必要はない。だからきりのいいところで辞めるのだろう。

 ざっくり読んでみた。幕府というものの意味が明解になった。これでも読んだかいはあった。だからこの本はよい本といえる。
 ところがこの本はどうにも重複が多い。何度も何度も同じところを巡っている。ひょっとしたら、いろいろなところで行った講演やセミナーを編集なしでまとめただけなのかもしれなれない。とくかく、編集がいい加減な印象を受けた。まさか著者が意図的にやったとも思えない。いくら大切だからとはいえ、これほど重複させる必要はないだろう。そもそも著者の本に読む前から好意を抱いていなかったら、途中で嫌気がさしちゃうのではないか。

 それにしても、突然シリーズ終了してしまって、なんだかおかしいなぁ。

2009年1月 1日

呪の思想

白川静+梅原猛
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 丸善本店

 この本はしばらく前に読んでいて、この読書メモブログにエントリーも書いている。それなのにすっかり忘れて新刊でこの本を買ってしまった。内田樹さんの本に引用されていたから無条件で買ったのだ。まったく情けない。悪いクセがついたものである。
 とはいえ、尊敬する爺さんたちたちの本だから何度読んでもいいだろう。それに元旦から読むには縁起がいいではないか。お二人は、ぼくにはまったく近寄れない高い高い山の頂上におられるお方。そこではどんな思索の世界が広がっているのだろう。一市井の人であっても興味がある。それに、達人同士の対話からもひょっとしたら学べることがあるかもしれない。

 白川静といえば漢字の偉い博士。不勉強なぼくでもそのくらいは知っている。逆にいえば、それしか知らないのだけど。すっごく偉い人だ、では一昔前の高校生の解答だな。
 この本のテーマは漢字について。対談だからしばしばテーマから脱線し、興がのってくると何をはなすのやらわらない。そこが面白い。とはいえ、話題は対話する人たちの興味の範疇を超える事はない。このお二人のお話ならば、さしずめ日本文化、あるいは日本史の根っこにある日本的なものに話は収斂するはずである。事実、大和朝廷、弥生文化、縄文文化と遡っていき、アイヌについても語っており、賑やかな日本文化の語らいになっている。
 こういう広がりをもつお話を味わうには、日本史についてきちんと学んでおかないといけない。ぼくはその素養がないから、残念な気がする。今からでも遅くはない。日本史をしっかり勉強しよう。そうすればこの人たちの話は、もっともっと面白く読めるに違いない。
 次に漢字の話。漢字は中国から来ている。ならば漢字を学ぶ前提条件として、古代の中国の歴史について知っている必要があるだろう。殷ってなに?。そうなってしまうと、どんなに面白い本だと推薦したところで、つまらないという感想をもつだろう。
 そこまでひどくはないけれど、ぼくは(というかたいての人は)中国史について多くを知ってない。普通の人に学者を期待しても仕方ない。ただし例外はある。例えば三国志に夢中になった経験があれば、それが小説であれマンガであれドラマであれ、ぼくよりは大きなアドバンテージを持っている。であれば、この本を面白いと思うはずである。
 情けない話だが、ぼくは論語を通して読んだことがない。断片的なフレーズならば2,3知っている。日本社会に生きていれば耳にするから。しかしその程度だ。こうして考えると、小学校中学校高校でいったい何をやっていたんだろうか、と我ながら情けなくなる。

 日本人の考え方の根っこには「言霊信仰」があり、それが日本文化の方向性を決めてきたらしい。井沢元彦の著作を読んで少しは知っている。その言霊は音声である。同じような発想が古代中国にもあったみたいだ。言葉を漢字で表現し、それを神に捧げることで祈祷する。その紙を入れる箱が「サイ」である。
 ぼくにとっての白川静はこれがすべて。ここに梅原猛がはいってきて、元旦の午後を楽しく過ごせた。