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2009年2月25日

動的平衡

福岡伸一
木楽舎
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 雑誌に掲載されていたエッセイをまとめた本である。新書で人気がでたあとの本なのだろうけど、文章や話題の取り扱いにぎこちなさを感じるところがある。科学者ではなく普通の人との距離を探しながら書いているようで、妙に説明口調で平板な科学話になったり、エッセイでそんな細かいことを言わなくても言い科学記事になったりしているところがある。現在書き方を模索中という感じを受ける。

 ぼくは本書のタイトルにちなんだ解説本かと思って手にしたので、少しがっかりした。とはいえ、この本を読んでいれるといずれそういうものを書いてくれそうな気もする。本書にはライアル・ワトソンの本の翻訳をしたということが書かれてる。エッセイや翻訳本などの活躍があるようだから、とりあえず今後に期待しようと思う。

2009年2月20日

屋上ミサイル

山下貴光
宝島社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 丸善北千住

 『退出ゲーム』の余韻がまだ残っている。あんな感じの小説をもうちょっと読みたい。そういえば今年の「このミス大賞」に学園ものがあったはず。たしか、大森望さんは絶賛していた。さっそく嫁さんの携帯へメールし、パート帰りに買ってきてもらった。
 この小説の視点は快活な女子高生で、内容は学園というよりその外の出来事について。狭い学校世界で人間関係に右往左往するだけの学園小説は嫌いなので、正直ほっとした。あまりぼくとは関係がないことが理由なのだ。物語を読むなら、学園の外の話の方が物語を読んだかいがある。
 登場人物のキャラクターははっきりしていて、会話も面白い。扱っているテーマも楽しく読めるもの。なにひとつ暗いところがない、ルノアールの絵のような小説である。
 キャラクターが明確で会話が面白い高校生ものだと、いわゆるライトノベルにちかいのかもしれない。『涼宮ハルヒの憂鬱』の面白さは「キャラクターありき」の「無意味さ」だったと思うが、こちらはハルヒ読者層よりも多くの人に向けた小説を目指していると思う。うまく表現できないけど。
 この小説の最後が好きだ。いや、そんなにすごいことのない最後の一ページなのだけど、最後を書かないところがよい。書かないから読者の中でその結末が勝手に浮かぶのだ。小説の世界を自分が想像してしまったら、読者とこの作品との距離はぐっと短くなる。
 こういうことは大切なことなんじゃないかと思う。恩田陸さんの『夜のピクニック』も最後の場面は書いていない。同じものを映画で見たときは最後まで映像化してあって、その陳腐さにがっかりしてしまった。
 当然の結末というものはだれが映像化しても同じようなものだけど、映像化しないで読者の頭の中に映像を浮かばせた方が効果としては100倍以上違うだろう。普通の読者や鑑賞者は想像することになれていないけれど、誰が見ても当然という結末ならば適切にその場面を想像できる。結末を自分で想像した方が、その作品全体の印象は格段と増すし、読後の感動の幅も広がる。こういうことは、作る側が意図してやってほしいなぁと思う。

 この小説のように、春の朝日見たいな読後感をもたらす作品をぼくは好きだ。ルノアールの言葉に「世の中嫌なことが多いのだから、なんでまた絵の中にそういうものを持ち込む必要があるのだ」というものがあった。だからルノアールはたくさんの明るい絵を残した。
 ぼくは、小説もそうなんじゃないかと思っている。だから、読者に楽しい思いをさせてくれる小説が好きだ。考えさせられるとか、世の中の暗い一面を見せるようなものに、時間もお金も払いたいとは思わない。

 とはいえ、少しは自分の幅を広げるのも悪くないかなと思う。今年のこのミス大賞のもうひとつは、その対局にある暗い現代社会の問題を扱ったサスペンスらしいから、そちらも一応読んでみて、今までとは違った世界も覗いてみるかな。 

 それにしても、この本の装幀はすばらしい。

2009年2月19日

十頁だけ読んでごらんなさい。

遠藤周作
海竜社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 遠藤周作さんの単行本が2006年に出版されている。書店で平積みされた本を手にして、不思議な気分になる。なぜ今になって遠藤周作さんの新刊があるんだろう。
 遠藤周作さんが素晴らしい作品を残したことは知っている。ネスカフェのCMで整然の映像を見たことがある。何冊か小説を読んだこともある。今度外国の有名な監督が『沈黙』を映画化することも知っている。要するに、今でも人気はあるのだろう。でも、なぜ最近になって単行本で新刊なんだ。
 その本をぺらぺらとめくっていたら意味が分かった。最近になって発見された原稿があり、それを単行本化したのだそうだ。
 なんだ。それは凄い。凄いけど、果たして採算あうのだろうか。タイトルには著者の自信が現れている。ならば買ってみるか。そう思い、購入した。ずいぶんとしっかりした本だけど、フォントは大きいし、行間も広い。なんだかなぁ。
 内容は手紙の書き方。ワープロやインターネットなどが普及よりはるか前の話だ。その時代における手紙の書き方か。実用書とまではいかなが、「手紙を書くということ」から説き起こしている。
 昭和の記録に類する本だとはいえ、手紙についての注意はe-mailの時代になってもさほどかわらないだろう。この本では、手段ではなく意図についての話が多いから。
 とはいえ、ラブレターの書き方が今の人にどれだけ適用可能なのかは怪しい。というか、逆効果なんじゃないか。デートの誘い方や女性の対応など、小津安二郎の世界だ。世間に暮らす人の本質は変わらなくとも、表現方法は時代時代で変わるだろう。その意味で、この本の半分くらいは昔の社会を懐かしむよすがとして読むにとどめるほうがいいだろう。

 さて、この本のタイトルにある10ページといったものは本当に10ページまでにあるのかといぶかしげに読んでいたら、ちょうど40ページで「そろそろ10ページだ」という記述を見かけた。つまりは、昔と今では、本の厚みが4倍違うのか。今は内容が1/4になってしまった本を買わされているということだ。まったく、新刊はぼろい商売だよ。

2009年2月16日

誰が歴史を歪めたか

井沢元彦
祥伝社黄金文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ秋葉原店

 歴史を歪めることは可能なのか。そもそも、歪んでいない歴史などあるのか。
 ぼくはそんな興味からこの本を手にしたのだけど、そういう視点で歴史を語っている人は一人もいなかった。全員、「正しい歴史がある。ただ、それは書かれていないか、だれかが当時のだれかに都合がよいようにフィクションとして書かれているのだ。私は正しい歴史を探している。」こういう発想が根底にあるようだ。対談相手の時代は古代から現代までと幅広いことから、扱う時代による資料の豊富さとは関係なく、みな正しい歴史を追い求めているのだ。
 学者は文字として残っていることを「真実」と受け止める。あるいは「事実」として作業を進める。とくに、日本史の専門家はそうだ。だからおかしな結論になる。梅原猛の論のように、一般の人が読めば「なるほど、そうかもしれない」というものがあっても、学者は一笑に付すような態度にでることができる理由は、文書ではそう書かれていないから、であろう。
 そういう学者たちと闘っている井沢元彦さんならば、そもそも正史は歪められているのだと主張するのは当然である。正史にはない事実を求めている。そういう態度にぼくは魅かれるし、だからこの人の本は好んで読んでいる。
 だけれども、最終的には「歪められていない歴史」などは表現できないとぼくは思っている。つまり、参加した人の数だけ「事実だった」ということがあってもおかしくないと思っている。それらに齟齬や矛盾があっても、絶対的に正しいものが存在するはずはない。そう、芥川龍之介の『薮の中』になる。
 現実は多数の事実の組み合わせである。構成要素は天文学的に多い。ということは、ある歴史の流れというものがあるとしても、それは見かけでしかないということだ。真実があるのではなく、そういう風に見えるということだ。
 歴史を書くということは、結局は誰かの視点で見えたものを文章で残すことになる。ならば、それは歴史ではなく見えたものである。違う人から見れば違うように見える。だから、正しいものなどはあり得ない。
 だれかこういう主張をしている歴史家はいないものだろうか。

2009年2月13日

ハチはなぜ大量死したのか

ローワン・ジェイコブセン
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 極東ブログで書評が掲載されていたので、そのままアマゾンで購入した。
 2006、2007と原因不明のまま養蜂業者が育成しているミツバチが大量に死んだ。昆虫の世界でいう数の感覚は、ほ乳類の場合の数とは何桁もオーダーが違う話なので、億匹死んだといっても絶滅とかそういう話ではない。しかし、養蜂業者が廃業に追い込まれることが目立つ数ではあるそうだ。とくに、アメリカやヨーロッパではその被害が著しいということだ。
 本書のタイトルへの回答は、はっきりとは紹介されていない。要するに本当のところはわからないのだと思うが、どうなんだろうか。いくつか候補はあげてられているが、なんとなくうやむやに終わっているぞという印象をもった。もっとも、正解を求めて読んだわけではないから、どうでもいいことなのだけど。
 
 ふーん、じゃぁ蜂蜜の値段が高騰するのだろうかといえば、そういう話で終わらない。ミツバチが死んだので蜂蜜の値段が高くなりました。そういう話ではない。
 農薬や抗生物質たっぷりの中国産蜂蜜を食べたくない人には蜂蜜の値段が気になるかもしれないが、養蜂業者の恩恵は蜂蜜だけでない。普通の農業も多いに受けているのだ。それは「受粉」のために。
 風媒花や虫媒花という言葉を小学校でならった。ハチが花の蜜を吸うために花を行き交うときに受粉するというあれである。現代では意図的に受粉作業を農業にシステムとして組み込んでいる。もし、ハチがいなくなったら人が受粉作業させる必要がある。しかし、そんなことは大規模農業では不可能なのだ。人が制御できなくらい大規模化させてしまっている。この意味で、ハチがいなくなると、オレンジやアーモンド農家が間接的に被害を受けてしまうのだそうだ。

 欧米の科学読み物は本当に構成がしっかりしている。話の発端、扱う分野の科学的な基礎知識、社会における位置付け、そして、その周りの分野との関係と未来予想。こういったものをきちっと書き込んでいる。ハチの大量死についての本であってもしっかり書かれている。だから、養蜂業者の社会的な役割やミツバチの生態や害虫の問題、そして、中国における関係する問題点まで知ることが出来る。まことに便利である。だからとって、その挿入部分が常に面白いわけではないところに問題はあるのだが。

 結局、これだという原因は確定されていなく、いろいろな小さな問題の連鎖によってハチが大量死してしまうところが正解のようである。風が吹けば桶屋が儲かるような長い連鎖ではなく、3段階くらいの問題である。
 基本的には、商業主義の都合に合わせるために自然のシステムに無理を加えようとして、それが原因でハチのシステムが崩壊してしまったということなのだ。ダニだの農薬だのの問題がないわけではないが、より大量に「儲ける」ための工夫が、ある閾値を越え、ハチのシステムが維持再生していくのに必要な連鎖が切れてしまったのだ。そしてあるときにを栄えにしてばったりとハチの数が激減してしまうのだ。一端連鎖が切れてしまったものは、人が反省してハチのおかれた状況をもとに戻してもシステム自体が再起動しないのだ。
 犯人は誰だ。そういう発想をしている限りこの問題は原因すら分からないだろう。関係者全員がそれぞれ悪いが、それらのタイミングによってはトンデモなく悪いという結果を生む。自然界の非線形性を見せつけられた気がする。推薦の言葉として福岡伸一さんが「動的平衡」という概念をつかってこの話の解説を試みている。この概念を知れば一発で理解できる出来事なのだが、普通の人がどれだけ理解してくるのか心もとない。だからだろうか、福岡伸一さんは動的平衡を扱った新刊を出版されるそうだ。

2009年2月10日

橋本治と内田樹

橋本治+内田樹
筑摩書房
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazon.co.jp

 長いことかかって読み終わった。そもそも橋本治さんの作品を読んだことがないので、代表作にまつわる話にはまったくピンと来ないのだ。ただ、橋本治さんの作品は好きな人にはそうとう好きなんだろうな、ということが内田樹さんの発言で推測できるのみ。でも、だけではなぁ・・・。
 暮れから読みはじめたのだから、ずいぶんと時間がかかった。要するに、ぼくには面白くない。橋本治さんの本を読んでから、またこの本を読んでみるか。

2009年2月 8日

船に乗れ!〈1〉合奏と協奏

藤谷治
ジャイブ
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 チェリストの話だというので読んでみた。帯には豊崎由美さんが『一瞬の風になれ』と『のだめ』を引き合いに出してこの本を推薦している。だぶん面白いのだろう。この本はミステリーチャンネルの月刊ブックナビという番組内で紹介で知った。知らなかったら店頭で目に止まらなかったかもしれない。本の紹介という好意は、その本の販売を促進していることは間違いないようだな、と自分の行動を観察して納得した。 
 まだ一巻しか読んでいないので、全体像はわからない。とは言え、どういう話ですかと問われれば、恋愛小説ですねと答えるのが適当だろう。それも、憧れの人に声をかけられず、ドキドキしたり、がっかりしたり、喜んだりという心理を楽しむ本。え、チェロの話はないんですか? もちろんそれが物語での出来事の必然性を与えている。ただし、音楽って素晴らしい、なんてことを訴えるのが主題ではない。
 文章や表現や物語が面白のか。そう問われてもわからない。ただ、こういう話を読めば想像力なり経験なりでドキドキ感を思い出せる人には良い本だと断言できる。

 ぼくはいいオッサンになる。だから、こういう本を読んでいていいのだろうか、それで楽しんでいていいのだろうかとフッと我に返ることがある。なにやっているんだろうと。もっと、今後の自分に関わるようなことを読んだ方がいいのではないか。そんな焦りのようなものも感じる。
 本を読むことは勉強ではない。それはよくわかっているけど、子供の頃からの思い込みはなかなか消せない。勉強になる本はつまらないはずだと心の底では感じているから。
 そんなことを考えていると毎日が灰色になりがちである。だから少し考え方を変えて見る。例えばこういう具合に。
 今後の自分の生き方を考えるために音楽を聞いても仕方ない。全く意味はない。なのに、音楽は聞いてしまう。同じように、今後の自分を考えるために、ワインを飲む人もいない。音楽もワインも、今生きていることを楽しむために取っている。ならば本も同じであっていいのではないか。
 この種の本は、今の自分の生活がどうであれ、今後の自分の生き方に参考には無関係であれ、読んでいるときに「うわー、面白い」って言えればそれでよいはずだ。
 ならば読んでいる最中は、自分の視点を作中の視点に完全に重ねてしまうほうがよい。主人公になり切って読むのだ。そして今とは別の世界で時間を過ごすこと。それが小説を読んでいる目的なんだろう。
 そうおもってこの本を読んで見ると、なんだかもう一度高校生になったような気がする。嘘ではなく、人生のレベルで得をした気がする。そうか、こうやって本を読むのか、と今更ではあるが、また一つ本の読み方が分かった。
 ちょっとしたことかもしれないけど、この本を読んだことによって小説との距離の取り方が自分なりに会得できてしまった。ありがたい。
 

2009年2月 6日

ブラザー・サン シスター・ムーン

恩田陸
河出書房新社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 同じ大学へ通った3人の登場人物それぞれの視点から語る大学生時代。なんてことはない、恩田陸さんのご自身の体験をもとにした妄想小説なんだろう。とすれば登場人物の一人は女性で、舞台となる大学は早稲田でしょう。東京からさほど遠くない高校というのは水戸第一高校。
 他の男性二人は高校時代の友人なのか。多分違う。これも全部恩田陸さん。別の人格部分をキャラクター化したもので、3人が考えていたことは全部恩田陸さんが考えていたことなんだろうなと思った。
 そう予想してWikiで確認すると、大学時代の活動から察するに、たぶん正解。まったくさえない大学生活を送ったようなに書かれているが、これが大学生活への感想なのだろうか。
 小説家になる人は子供の頃から文章を書いているものなだと思っていたが、そうでもないようだ。大学時代の恩田陸さんと思われる女性は、小説家希望とすら公言していないし、作品を書いて新人賞に応募するということもしていない。単に文学部の学生さん。
 アルバイト先の飲みやのお客に、「文学部ならば小説家になるのでしょうね、何か書いているのですか?」と聞かれ、「いえ、まだです」と即答するシーンがある。この場面は事実とは少し違うのだろうけど、深層心理としては小説家になりたいと思っており、それがぽっこり表面に浮かび出た瞬間なのだろう。あ、そうだったんだ、やっぱり。そう自覚した瞬間だからよく憶えている。恩田陸さんが誕生した瞬間があるとしたら、こんな場面だったのだろう。

 読んでいて不快になるようなところはない。でも、ミステリーでもないし、恋愛的なドキドキもないし、悲しさもない。エンターテイメント的なところもない。じゃ、なに? そう言いたくなる。普通ならばつまらないものにだけど、全部読ませてしまうのが恩田陸さんの実力。
 登場人物の大学生活には、あまりドラマがない。もっとも、普通の人はそうであるはずで、この本を読んでいるほぼすべての人はそういう大学生活だったであろうと思う。だから、すんなりと読めてしまうのかもしれない。そうそう、期待したわりには何も起きないでおわっちゃうんだよね大学生って。そういうある種の後悔のような共感がよいのかもしれない。青春時期の思い出は、歳をとってくるとどんなものでも「よかったもの」になるものだから。
 では、この本を評価するのか。ぼくはしない。この本はいよいよネタが詰まったのか、あるいは大学生時代を回想してしまったからなのか、大きな動機は見当たらないまま書いていたのだろう。きっと、なぜ私は作家になったのだろうかと、大学時代の生活を思い出していくうちに、この作品が成立した。そいうころだろう。

2009年2月 3日

退出ゲーム

初野晴
角川グループパブリッシング
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 ミステリーチャンネルの番組「ブックナビ」で紹介されていた。ぼくは高校生もの、青春ものは苦手なのだが、「ミステリー」だというので読んだ。消極的な気持ちで読みはじめたのだけど、読み終わったときの評価はびっくりするよい作品。大森望さん豊崎由美さんの推薦は信用できる。さすがだ、と感心した。
 この本は続きものの短編4本から構成されている。1本目はキャラクターの紹介、2本目は「へぇ、面白いじゃん」というミステリー、3本目はこの本の表題作でビックリするほどよい演劇話、最後の一本はぼくが一番好きなジャンルのもので「うあぁ、好きだぁこういうの」と感動してしまった。最初の一編を読み終わった段階では、この本最後まで世無くてもいいかなと思ってしまった。でも、辞めなくて良かった。

 高校生が主人公の話は、恋愛ものであり成長モノである。切ない気分になる話を読んで不愉快になることはないが、だからといってそういうお話を「読む必要」はないだろう。そういう気分になることが好きかどうかの問題である。
 高校生のカップルが電車のなかでいちゃいちゃしているのを見て、うれしいとか楽しいとか思う人はいないだろう。とくにオトナになった人には。そう思う理由は、教育上どうかなとかそういうことではなく、単に自分とは無関係なものであり、うっとうしいからだと思う。 
 同様の感情を青春小説を読んでいて感じる事がある。今になってあだち充を読むのと同じで、もうどうでもいい感が一杯になってしまう。だから最近は読まない。
 しかし、青春小説が全部嫌いなわけではない。何が良くて何が悪いのかの境目ははっきりしている。それは、「そうだよね」と言えるようなキャラクターが登場するかどうか。気分を味わうためではなく、人間観察の意味で読む。
 だから、登場人物が自分と重ね合わせられるか、自分のよく知っている人に見立てられるか、あるいは、そういう人っているよねと言えるかどうか。こういったことで読む読まないを決めている。
 美男美女と天才しかでてこない話に親近感は持てない。かといって、自分の知り合いにいなそうな「おかしな」人ばかりでも、興味が失せる。現実味を持てる人をきちんと表現できるのか。逆に、普通の人ばかりでは面白い話が回せない。したがって、いかにキャラクターを設定するのか、動かすのかに小説の善し悪しがでてしまう。
 
 この小説で登場する人は、きちんとしていそうでいてもおかしなところがある。そこに親しみを感じる。微妙な設定だけど、そんなところで上手だなと感じる。
 一方で不自然な設定も目立つ。例えば、一般にメカ好きの学生さんが登場する。専門分野を深く掘り下げるタイプの人は、社会の出来事をあまり知らないものである。この小説では、近代史や現代史上の出来事を年号から把握するだとか、その出来事が社会的にどう捕らえられていたのかなどを知っている設定なっているが、そんな人は皆無であろう。専門性を深く知っていくことは、興味の範囲を極限まで狭め、まさに「集中」させる。この状態で教養を求めることは無理というものである。そのような、実際の学生像と乖離しすぎている設定がある。そこがまたある種のSF的な雰囲気を醸し出すのかもしれない。

 とはいえ、久々に「面白い」と思う小説に出会った。なんとなく続編も期待できそうだ。今年はいい年になりそうだ。