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2009年3月27日

洞窟の壁画

H.キューン
山本書店
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 日本の古本屋

 山本書店の本に、先史時代の洞窟の壁画についての本がある。別の山本書店の本の後ろに宣伝が載っていて、なんだか気になったので購入した。日本の古本屋で1500円だった。届いた本は、カバーこそ付いているけどまさに「古本」という感じもので、神経質な人ならば手にとらないだろう。もっとも、ぼくは全く何ともないが、ベッドの上で読むにはどうかなと思うかな。ただし、本文には書き込みなどなく、読書にはなんの問題もない。こういう本でも1500円で売れるんだなぁ、ぼくは買うけどね。とまぁ、久々に古本の不思議さを感じた。
 内容は、ラスコーやアルタミラ洞窟にある壁画についての本で、ドイツの学者が一般の人に向けて書いたものである。専門書ではないから、ぼくでも寝っ転がって読める。絵についての解説ではなく、どちらかといえば壁画のある場所へ行く旅行記だと思えば良い。
 第一次大戦後と第二次大戦後に、ドイツから南フランスやスペインへ行くことがどんなに珍しいかが意図せずして描かれている。壁画あある洞窟はそもそも辺鄙な場所であるために、たとえばスペインの洞窟へ出向いたとき、ドイツ人などはその村の人の興味の対象になってシーンがある。「わざわざドイツからいらっしゃった」という形で歓迎?されている。ぼくからみれば、同じヨーロッパ人なんだからそんなに驚くことはないと思うのだけど、マスコミも交通手段もたかが100年前なのに発達していなかったのだと、期せずして思い出して驚いた。現代の生活が石油に支えられた実に危うい物なのだと再度考え込んでしまった。
 壁画の解説書がなぜ山本書店で刊行されているのか、少し分かったことがある。それは、この人がある壁画を見に行った場所で案内をしてくれた司祭との会話にあるのかもしれない。
 著者は壁画が人間の紀元、芸術の紀元に迫ろうとしている研究者で、人類学についてもよく知っている。一方、司祭はキリスト教の新約・旧約の世界における創造説に信頼を置いている。その司祭が著者に対して人の紀元についてやたら質問してくるシーンがある。人はサルから進化したのか、という問いである。著者は対決をしたくないでの話を反らしていたのだが、氷河時代(あるいは旧石器時代)の壁画を前にして、司祭に人類史を語り出す。もちろん、著者はキリスト教圏の人だから聖書については詳しく知っている。だから、相手に分かるように人類史を説明しているのだ。そして、これがかなり見事な説明になっていると思う。おそらく、この辺りが山本書店としての発刊を実施した理由なのではないかと勝手に創造してしまう。
 1960年頃発行の本で、内容は1900年初頭のことが描かれている本を読んだことはあまりない。ただ、表現などが少し古いかなと思う箇所があるけれど、話の進め方は今でも十分で、ぼくでも興味深く読める。本はぼろぼろで、写真などもキレイなものではないけれど、読む価値がある本である。現在書店に並んでいるものよりも、古本としてどこかでひっそり売られている本の方が、ぼくにあっている本としては多いのかもしれない。
山本書店の本は、著者ではなく出版社の名前で本を選んでいけるので、埋もれた本を探すための良き指標になってくれて、ずいぶんと助かっている。

2009年3月24日

ニッポンの名随筆別巻44記憶

養老孟司編
作品社
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 上手なエッセイを読みたいなと思っていたところ、日本の名随筆集というシリーズの存在を知った。数十冊のシリーズであり、一冊毎にテーマが決まっており、そのテーマにあった名随筆をそのテーマの一人者が選定して編んである。タイトルと著者とから判断すれば、この本は相当すばらしくうなってしまうようなエッセイがありそうだと思ってしまう。だから古本で購入してみた。
 が、しかし、時代が合わないのだろうか、ぼくがばかのか、どれひとつ面白くないし、日本語として感心するようなものもなかった。選者は養老孟司さんなので、おかしなことになりようはないはずだ。きっと、数十年前の文章やその当時の生活様式、人々の興味の対象が現在のぼくとはあまり重なるところがないのだろう。つまり、随筆の対象となる物事に関心が持てないのだ。ならば、面白い文章として読めるはずはない。仕方ないだろう。
 これはこれで一つの発見だった。古い日本の文章を読むための障害は送り仮名や漢字の違いだけでなく、随筆の対象となる物事にもあるのだとわかったから。
 となれば、当時の人々はそもそもぼくとは別の人たちということになる。たった数十年の違いなのに、えらく違う人たちに思えてくる。人はあまり変わらないと言われている。科学による知識、技術による生活道具の変遷はあるかもしれないが、所詮人は同じようなことを考えているという意味だ。でも、違うんだなぁ。
 名随筆と言われるものは、どうやらぼくにはあまり合わないらしい。日本語能力の貧困さが原因なのか、生活様式の違いが原因なのかははっきりしないが、過去の資産の一部である名随筆は、ぼくにとってあまり意味がないものだとわかり、かなりがっかりしている。

2009年3月21日

がんばらない生き方

池田清彦
中経出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 休日にゆったりした気分で読むとよい。素敵な物語でも癒しでもない。とくにビックリするような内容ではない。今の生活が結構気に入っていると思っている人ならば、いわゆる勝ち組の人でも無い限り、この本で紹介されれる方法を自分なりに実践しているのではないかと思う。「そう言われて見れば、おれもそうしているよね」という具合に頷いてしまう部分が多いので、ついつい一気読みしてしまった。この本は、読むことで何かを学ぶという姿勢で読むのはお勧めできない。なんとはなしに聞こえてきたラジオで池田清彦さんがしゃべっているのを耳にして、ついつい番組の最後まで聴いてしまった。そんな感じの読書がいいだろうと思う。
 NHKのブックナビという番組で南伸坊さんがこの本を紹介してた。そのとき、「よい本です。いや、ぼくは内容わすれちゃったんだけど、読んでいるときには全くそうだなという気分がした」と言っていた。普通ならばこんな紹介ありかよと思うかもしれないけど、この本の紹介ならばこれでいい。
 本にもいろいろ種類があって、読んでいるその時にうれしい気分になるのだけど、読み終わって振り返ってもなんだったけなと思い出せないものがある。音楽のようなもの。「詩」とちがって論理をつかって物事を説いており「よくわかった、記憶しておこう」と思ったとしてもすぐに忘れてしまう。こういうものはノートとっても意味がない。そもそも、だれも試験にださないから。
 人の言葉には、言葉として記憶されることに意味があるものと、理解して考え方や行動に直接影響を与えてしまうものとがある。テストの材料になりうるのは前者である。ところが、学校社会から卒業した後に意味をもつ読書は後者のほうである。それはオトナの読書とも言えるかもしれない。宗教の聖典とは違うのだから、行動と無関係なものは必要ないような気がする。どうせ先が限られていることだし。
 池田清彦さんの本を読むようになったのはここ数年だが、読んだことがぼくの行動を大きく変えている。ぼくの仕事の取り組み方は周りの人とはかなり違うし、その方向もかなり別なものになっている。10年たつと信じがたいくらい軌道修正してしまったことになるだろう。それほどの影響を与えた人の本に大きく頷けるのだから、ぼくはそれなりに学べたのだろう。

2009年3月20日

スプリット

カルメンマキ+甲野 善紀+名越 康文
新曜社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 甲野善紀さんは素直な人だなぁと思う。歌手のカルメン・マキさんの歌に感動し、カルメン・マキさんが昔精神科医に興味をもっていたということから名越康文さんを誘って鼎談を企画し、それを本にまで仕上げている。出会いと気づき、そしてそれを本にまとめるという行動がつながっている。本来であれば、出版社が企画していくようなものを、ご自身で企画され実行に移している。何よりも、甲野善紀さんは武術家なのだから、本筋とは関係がないと思われそうなことをせっせとやっている。
 こういう一連の作業を職業という枠で考えると、この行動の意味がわからなくなる。しかし、甲野善紀さんは人生を賭けてある疑問について身体をつかって探究しているのだと知れば、行動の意味が見えてくる。武術家になることが目的ではないのだから、武術を関係なさこうなことを平気でやるわけだ。いわゆる普通の武道家とは違う。武術家のするべきことなどちう発想とは関係なく行動するのが自然なのだと頷ける。そういう生き方は、どのような人にも学べるところがあると思うのだが、ただ、ほとんどの人はそうする価値を見出せないかもしれない。
 鼎談のなかでは音楽の話が盛んにでてくる。カルメン・マキさんのお勧めの音楽などについて、甲野善紀さんも盛んにいろいろ発言されるが、ずいぶんと音楽を聞き込んでいるようである。ぼくなどはその一つとして知らない。ぼくが住んでいる世界は相当狭いようだ。とはいえ、もうこれで行くよりないなとも思っている。
 まったく月並みな感想だけど、生きていることをよく自覚しながら、日々を工夫していくような生活があれば、それは相当幸せなことなんだろうと思う。ただ、会社に言って給料もらって、パワーゲームに参加してというだけではないものがあるから。

2009年3月19日

賢い身体バカな身体

桜井章一+甲野善紀
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 bk1

 マージャンの世界ではとても知られた通称雀鬼と甲野善紀さんとの対談。
 いかなる物事でもその道を究めた人というのは魅力的であり、その人から学ぶことも多い。確かにそうだろう。
 しかし、マージャンを極めるとどんなことになるのだろうか、ぼくには想像ができない。マージャンを賭事とみるか、ある種のスポーツのようなものと見るかで、思い込みの内容が変わってくると思うが。
 この本を読むだけでは、なんとなく凄い人なんだろうなという想像はできるが、残念ながらその実感にまで至らない。当たり前だろう。本で実感はできない。甲野善紀さんがべた褒めする人なのだからよっぽど凄い人なんだろうけど、やはり見たことがないとなんともいえないよな、と思ってしまう。それが自然だろう。
 となると、この対談の内容もどんな人か分かってからになるだろう。それまではペンディングということで、よかったのか悪かったのかは判断できない。
 ただし、こういう本でも読まないと世の中の凄い人の存在を知る機会はあまりないから、読んで良かったことは確かだろう。

2009年3月18日

人生の短さについて

セネカ
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon

 岩波文庫版を読んだのは、自分の動機からもっとも離れた仕事をしていた時期である。今にして思えば、その仕事は良い経験だったと思うが、それでも当時はつらかったのだ。だからこういう本を読みたくなっていたのだろう。
 その後『ローマ人の物語』など古代ローマ史について少し学び、この本が生まれた時代背景やセネカについて少し知ることができたために、今読んでみると昔とは少し違う味わいがあった。
 この本の内容はセネカの友人へむけた手紙である。そんな仕事している場合なのか、人生は短いぞ。今でも日々誰かが誰かに向けて言っているような言葉が並んでいる。まったく、2000年前でも今でも、さして人の世は変わらないものなんだなと実感する。
 さぁ、今から人生をスタートさせよう、と思った時にはもう人生の最後の曲がり角をまがったときなんだというような警句はどこにでも転がっているし、自分にも別の意味で経験則として持っている(学校卒業が近づくと勉強がしたくなるとかね)。
 ということは、どんなにこういう本を出版して、学校で言い聞かせても「無駄」なことなんだ。つまり、人生の短さを実感するには、人生の最後にならないと原理的に無理なんだろう。青春期にこういう本を読ませても読まないだろう。
 よく、歳を取らないと意味のわからない事がある、という言葉を聞く。爺さんの戯言と思っていたとしても、自分が爺さんになるとその言葉の意味が分かるということだ。子供や少年には分からない。セネカのこの本には、そういうことだけが書かれている。ならば、この本はこれからもずっと、つかれた中年から爺さんたちに愛され続ける本なのだろう。あと、年齢とは別に、精神的にも肉体的にも疲弊して、死を身近に感るようになった人も好まれるのかもしれない。
 どんなに論理的に説明されても理解できないことの代表として、この本の内容がある。この理解出来ない理由は人の性質の一部なんだろうか。人生は短いぞ、と思っている生命体は人だけなんだろうか、という疑問をもつ。ありとキリギリスの童話にでてくるキリギリスは、人生が短いと知っていたからではないから夏を楽しんだのではないかとぼんやり空想してしまう。
 それにしても、セネカの文章力には頭が下がる。人間の能力やできることという基準で人を評価するならば、2000年はなんの変化も人にもたらしていないような気がする。

2009年3月17日

さらばアメリカ

大前研一
小学館
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 なんでまたここでアメリカ論など出版するんだろう。そう思って手に取った。
 読んだところ、なんだか勢いがある。書き下ろし部分はほぼ一気に書き上げたのではないだろうか。何かの雑誌記事をまとめたというよりも、どうしても言っておきたかったことを書いたように思える。大前研一さんだからなのか、ですらなのか、ブッシュのアメリカやAIGのボーナス持ち逃げのようなアメリカが許せないのだろう。大前研一さんの目から見ても、今のアメリカはそうとうおかしなものになっているようだ。
 とはいえ、記述方法はいつもの分析と考察という論理思考をつかったアウトプットで、ある種の見本のようなものである。一般向けの本だから、内容は平易な語彙でとどまるようにしてあり、概念からして複雑な説明が必要になるようなものは記載していない。なんとしてでも日本の普通の人に聴いてもらいかったことが書かれているのだろう。本格的な主張は英語で書くはずだ。
 ただし、ごく普通の人がこの本を読んだとしても、どんな行動がおこせるのかといえば、それはほとんどないだろう。著者も行動などを期待していないのだろうし。なんとういか、ある種のアメリカに対する祈りのようなものだろう。

2009年3月16日

日本人ならこう考える

渡部昇一+養老孟司
PHP研究所
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 養老孟司さんの本なので、迷わず購入し、すぐに読んだ。ぼくは渡部昇一という人にはどちらかといえば嫌悪感があるのであまり近寄りたくないのだが、まぁ仕方がない。
 一読したが、これといって養老孟司さん側の発言に「初めて聞いた」というものはなく、もうひとつ面白くなかった。ぼくの好き嫌いが大きく反映しているわけだが、渡部色が強い本になっている。なんだかな、という気分である。

2009年3月15日

薄氷の踏み方

甲野善紀+名越康文
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 甲野善紀さんの対談本である。この本はネット注文して自宅に届いていたのだけど、読めないから開封しないで数週間ほったらかしにしておいたところ、購入したことをすっかり忘れてしまい、こんどはアマゾン・マーケットプレースで同じ本を買ってしまった。ということで、この本は手元に2冊ある。
 対談の内容をあれこれ言ったところで仕方ない。というのは、対談は音楽を聴くような気分でもあるし、何が話されるのかはその場の雰囲気に大きく依存していて、よく練られた意図を読者に伝えるようなものではないと思うから。読んでいる最中に楽しければそれでいい。逆に、読まないと意味がない。ダイジェスト版、あるいは何かの知識として本書の内容を記憶することにはほとんど意味がないだろう。
 名越康文さんと甲野善紀さんとは年齢が結構離れているのだけど、両者は親友のようで、同じ時代に生きていられて良かったと宣言できるような仲だそうだ。年齢の違いが親友かどうかの壁を作らないということが可能なんだと知ってちょっとうれしい気分になれる。それは無理なことだろうと思っていたから。

2009年3月14日

プリンセス・トヨトミ

万城目学
文藝春秋
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 東京堂書店

 読みはじめてすぐに背筋がゾクゾクした。会計検査院の話で、こんなにワクワクさせるストーリーが作り出せるのか。しかも、これは経済小説ではない。万城目学さんの小説だから、どこまでも明るいとぼけた話になるはずだろう。シリアス小説にはならないはず。一体どういうふうに話を着地させるのか。
 本の内容については言いたいことがたくさんあるが、触れることはできない。また、内容をほのめかすこともできない。だから、感想を書くことは難しい。仕方ないので東京の人からみたこの本の感想を言えばいいだろう。

 まず、現実的どうこうというより、心情的にはありえる話だ。阪神タイガース好きをみてもそうだ。ちょうど先日、道頓堀に投げ込まれたカーネルサンダースの人形が見つかったということでニュースになっていたが、大阪の人の行動は東京の人からみると、奇異である。日本語もかなり違うし。正直違和感を感じる。となると、この本の世界は、心情的には現実なのかもしれない。
 つぎに、歴史をどうとらえるか。歴史上の人物にたいして、誰に親近感を持つのか。東京の人だからといって、江戸に幕府を開いた人に親近感を持つわけではない。江戸八百八町の岡っ引きにそういう気持ちを抱く人もいるかもしれないが、ぼくは誰にも親近感をもてないでいる。これは悲しいことかもしれない。でも、大阪の人はトヨトミに親近感を持っているのかもしれない。そういうところがわかると、登場人物の名前をみてピンとくるのかもしれない。

 ホルモーは映画化し、鹿男は人気ドラマになった。ならばこの話も実写化の動きがあるかもしれない。しかし、これはちょっと難しいのではないかと思う。というのは、実写にしちゃうと、この話の面白さが消し飛んでしまうかからだ。実写の目的には「映像によって、話を現実のことか思わせること」という側面がある。これは本当のことか、と思わせるようにセットを作ったりする。ところが、この話でそれをやるとなんだかおかしなことになる。現実ではないという約束のもとで話を展開しているから、現実にしてしまうと面白さがなくなってしまうような気がする。うまく説明できないのだけど。
 ともかく、京都、奈良、大阪と舞台を変えてきた。次の作品は神戸あたりなるのだろうか。待ち遠しい。 

2009年3月10日

ユダヤ・キリスト教「世界支配」のカラクリ

ベンジャミン フルフォード+適菜 収
徳間書店
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 アマゾンマーケットプレース

 適菜収さんの『いたこニーチェ』がいたく気に入ったので、別の本はないかと思って見つかったのがこの本。ベンジャミン・フルホードさんの本もこれまでに何冊か読んでいるので、こりゃいいやと思ってアマゾンで購入。2007年出版の本なのに現在書店では売っていない。完売ではなく、たぶん回収したのだろう。この本を読んでいて、クレームがきそうな内容がいくつかあったから。
 最近のフルホードさんは世界の黒幕にしか興味がないようで、すべての本がその論調になってしまっている。黒幕が世界を操るということも大いにあると思うが、ときには別の視点から同じ現象を考察したほうがいいこともあるだろう。そう、アドバイスがしたくなるほど同じ結論になる。残念ながら、この本もフルフォードさんの部分はそうなっている。
 対談本として企画されたのかようだけど、両者の意見はかみ合っていない。両者が話あって展開していく形にはなく、お互い言いたいこと言っているだけの感がある。適菜収さんとフルフォードさんが別々の本を出した方がすっきりするのではないかと思うのだが、それだと分量がたりないかもしれない。だからくっつけたのかもしれない。

 この本は徳間書店的な本の作りで、井沢元彦さん講座のような雰囲気がある。同じ人が編集したのだろうか。
 

2009年3月 7日

読まない力

養老孟司
PHP新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 養老孟司さんの新刊は無条件に買うことにしている。最近はあまり書いていないだろうから、新刊を読める機会はぐっと減っている。いくつかのエッセイで読んだけれど、もう言いたいことは言った感があるということだから、対談か講演録くらいしか今後は期待できないだろう。
 このエッセイの冒頭には圧倒された。エッセイ集となっているこの新書に収められた他のものは少し昔のものなのだけど、冒頭の地球温暖化問題についてはつい最近のものである。本人はそうとう腹を据えかねているような怒りを感じているようだ。とくに、HNKで放送される温暖化問題の報道は、ぼくがみてもおかしな構成になっているから、養老孟司さんさんならばなおさら腹が立つのだろう。要するに、インチキなのだ。
 政治レベルでの温暖化問題煽りについて、まともな発言をする人はあまり多くない。相手が政府になると、相当影響力のある人でないと「それは扇動だ」ということが無意味な結果をもたらすし、そもそも社会に知れ渡ることはないだろう。だから養老孟司さんのような人が、まっとうな意見をことあるごとに表明して欲しいのだ。この国は、戦前において大本営発表を散々やった。今の報道をみていると、また同じことをマスコミと一緒になってやっている感がある。
 また近々養老孟司さんの新刊があるようなので、楽しみに待っていよう。

2009年3月 5日

キリスト教は邪教です

フリードリヒ・ニーチェ
講談社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 ニーチェの本を読んだのは実に久しぶりで、二十年ぶりくらいだろう。さすがに、この翻訳ならばすんなりと読み通せる。本文中に不明な言葉などないので丸ごと分かった感がある。言わんとしたことがわかった。なんだ、そんなことを言っていたのか。いいやつじゃんかよ、ニーチェ。そう言いたいくらいである。
 とはいえ、この翻訳のできはどうなんだろうかと気になる。多少つっかかるところがあったにせよ、著者の意図を受け取れたと思っているのでとてもよい翻訳だけど、正確さは大丈夫なんだろうか。意味が分かってしまう哲学野本というのは少ないから、逆に心配になる。読んだその場から意味がわかる哲学の本はメッタにない。ぼくが知る限り、永井均さんの一般向けの本くらいだ。
 だから気になるのは内容の日本語への変換の精度。昔流行した「超訳」になっているんじゃないかと疑問もないわけではない。

 キリスト教がローマ世界を飲み込んでいく様子は、塩野七生さんの『キリスト教の勝利』に詳しい。蛮族の存在と生活の不安、とくに農業ができなくなり都市へ逃げ込んだ人の不安がキリスト教をコアとして吸い上げ固まっていく様は、どの時代どこの人々に起きてもおかしくはない。初期リスト教の布教者がどうやって人々の心を捕らえていったのかを知れば、宗教としてキリスト教を見る目は違ってくるはずだ。
 そういう成立の歴史を知れば、その宗教がいついかなるときでも意味を持つといことはないと自然に理解できる。社会的な状況が変われば必要なくなるものもある。しかし宗教側の人は流行りすたりで影響をうけると職業として成立しなくなる。だから、時代そって生き延びるために宗教の本来の意味がどんどん変容していく。その過程で、人の気持ちに安定をもたらしていたものが、いつしか人に物を考えさせない毒になってしまう。ヨーロッパにおける中世はそれが蔓延した時代だったのだろう。「そういうの、いつまでやっているんだよ」とニーチェは言いたかったんですね。なるほど。

 ぼくはスノッブぶるつもりないので、ニーチェはこう言った、などと口にすることはない。普通の人ならばそうだろう。だけど、だから関係ない、ということにはならない。学者じゃないのだから、人々に分からせたいのならば、分からせるように話す必要がある。この本のように、こういう態度で翻訳を試みたのは素晴らしいことだ。もっと、難解だからという理由で敬遠されている本もこんな形で再再出版されるといいのに。

2009年3月 3日

いたこニーチェ

適菜収
飛鳥新社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 哲学ファンタジーとでもいうものか。歴史上の人物が現代に蘇り、現代社会で生活を楽しむというストーリはいくつか読んだことがある。それがどんな人であれ、先端的な電気機器を楽しそうに使って喜ぶ姿が描写され、愉快なものが多かったが、この本もその系統にある。
 この本ではニーチェが現代社会に登場する。ただし登場の仕方がちょっと面白い。恐山のいたこを使うところが笑えてしまう。この本の表紙のイラストはインパクトがあってよい。ぼくはこの表紙が気に入って買ってしまったくらいだ。
 内容は『キリスト教は邪教です』の補足・解説を普通の人の生活の中でニーチェに語らせるというものだ。キリスト教の価値観のうち、知らず知らず普通の日本人の価値観にしみ込んだものを取り上げ、具体的な事例を使って説明しようという試みである。面白いし、なおかつ分かりやすい。なんだニーチェってそんなことを言っていたのか。これが現代日本の普通の人の生活目線で分かる。
 過去の人の学業の蓄積を人々に役立てるには、こういう形での「翻訳家」が必要なんだなと実感する。

2009年3月 1日

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか

村上春樹+安西水丸
朝日新聞社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ秋葉原店

 村上春樹さんのエッセイ。ちょっととぼけたおじさんの挿し絵がぴったりで、著者のキャラクターがただよってくるような、気楽な読み物になっている。
 内容は著者の日常の出来事や思い出であって、読むことで何かを学ぶようなものではなく、単におしゃべりを聞いているようなものである。猫が寝言で「そんなこと言ったって」と言ったんだと著者が言い張る話なんだから、楽しまないでどうする。甘いお菓子ような気分が味わえればそれでいい。
 ぼくは村上春樹さんの感覚と重なることがほとんどないのだけど、それでもこのエッセイを読んでいると自分が村上春樹さんの視点になったような気分になれる。好きなんだ。

 このエッセイの中の話でちょっと気になるところがあって、インターネットでそれを調べて見た。差別だの部落だのという話である。神戸育ちの著者はそういう話を中学生になるまでまったく知らなかったという。ぼくは東京向島育ちで、そういう話に全くピント来ないのは同じ。なんかあるらしいけど、今の東京でそんなことを気にしている人はいないだろうし、もし存在するとしてもその人は関西人なのだと思っているくらいだ。知識不足であり、今はインターネットでタブーでも調べられるので、どんな言葉が問題になったのか、ぼくも知りたかったのだ。
 で、結局わからなかった。ただし、それを調べる途中で別のことがわかった。村上春樹さんって、すっごく嫌っている人が多いということ。なんでだろうか。とくに、嫌な気分になるようなことが描かれている小説なんてないのに。村上春樹さんが有名になるなんて許せない。おれのがもっと凄いだぞ。多分、そう言いたい人なんだろうけど、世の中の人にはおかしな人も結構いるんだとあらためて思った。

 この本の魅力は、とぼけた感だろう。そして、小説家として肩ひじ張っていないものいい。「小説家=先生」なはずないと思うのだけど、どうしても偉い存在というコンセンサスがあるようで、小説家の人にはこちらが頭を下げなければならない雰囲気がある。
 しかし、小説家が先生なはずはない。技術は凄いけれど、だからなんだ。
 村上春樹さんの日常はぼくが想像できる範疇にある。生活に自由があり、うらやましくも感じる。とはいえ、その日常は普通の人が抱える問題と同じだし、同じような喜びがあるんだな。