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2009年4月28日

美女の骨格

宮永美知代
青春新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 養老孟司さんの推薦文が帯にあったから衝動買いしてみたのだけど、あまり面白くなかった。著者は美術専攻の人で、後に医学博士をとったようなので、骨格についても美術についても玄人なのだけど、どうも説明方法が気になる。知識やその人の見方についてどうのこうの言いたくなるのではない。単に、「というのは私だけであろうか」的な表現が随所に見られ、心の底にあるであろう「私ってすごいでしょう感」が放つ嫌み感が目立っているのだ。編集の段階でもうちょっとどうにかならんもんなのだろうか、と思うのだけど。それが気になると、本文中随所にみられる「〜に携わった経験から」の発言にもちょっとヘキヘキしてくる。単純な「根拠の提示」であればいいのに、ある種の自慢臭がとれない。総じて、この手の本は他にもあるのであえてこの本を読む積極的な理由をぼくは見出せなかった。有名著者の推薦文の判断でついつい買ってしまうことで失敗することは多々あるし、多くの場合、それで面白い本に巡り合える。だから今後も止めはしないのだけど、それでも失敗すると結構哀しい気分になる。

2009年4月26日

ハーメルンの笛吹き男

阿部謹也
ちくま文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 ハーメルンの笛吹き男の童話は、おそらくはグリム童話で読んだのだと思うが、ハーメルンという街の名前と結びついている唯一の情報だ。普通の日本人ならばそうだろう。笛を吹いてネズミの大群を河に引き出して退治し、退治料を街から拒否された復習に街の子どもたちをねずみと同じ要領で笛を吹いて集めて集め、どこかへ引き連れて行ってしまうというお話。教訓とといえそうなものは、正直であれとか約束は守れとか、そういうたぐいのことしか思い浮かばない。もっとも、童話が必ずしも子供への教えから生まれたものではない。単に面白い話なだけかもしれないし、実話がもとネタとしてあるのかもしれない。この話を聞いたとき、笛を吹くだけで子供を集められるだろうかが気にかかった。でも娯楽がない時代ならばありえるのかもしれない。日本にだって戦後しばらくまではちんどん屋があったのだから、子供が歩く距離にもよるが、子供を集めて引き連れることは可能だったのかもしれない。まぁ、ぼくを含めてたいての人の感想はこんなところではないだろうか。
 ヨーロッパは凄いところだ。こういう童話についての考察が、これまで研究として多く残されているのだから。だれでもが抱く疑問を追求するタイプの研究はありえるだろう。例えば、子供が連れ去れたのは事実なのか、だとすれば子供は何処へ消えたのか。あるいは、少し視点を変えて、そもそもこんな話が700年も昔から伝わって残っているのは何故か。これらの疑問についての完全解明はそもそも不可能だ。13世紀の出来事なのだから。しかし、なぜそういう言い伝えが残ったのかという視点からならば、宗教的な解釈や政治的な解釈、社会的な必要性などからいろいろ理由を提案することはできる。いろいろな解釈が可能であり、かつ、正解は絶対に泡からないという枠組みの問題ならば、いろいろいう人は多いだろうから、研究も多いというだけなのかもしれない。

 この本は読み物というよりも論文のような内容である。この本を読む人がまず惹きつけられるのは「子供は何処へ消えた」というミステリーの面白さだろう。著者の最初の動機もそうなはず。ただし、単なる謎解きではしつこく考えることはないだろう。その人の代表的な研究成果というものは、単なる興味が動機ではなく、研究者自身の存在を問うような問題であるはずだ。例えば、このハーメルンの問題について東ヨーロッパ移住説を唱えている人がいる。それらの研究成果のうち代表的なものを考察した人は研究者自身が東ヨーロッパ出身であり、その人がハーメルンから移住してきた人たちの子孫かもしれないと考えられる人だったりする。自分の問題だから、どういう結果になろうと考えてしまうのだろう。頭がいい人が調べ考えた結論よりも、自分の問題として探究した人の結果のほうが、魅力を感じてしまうことがあるようだ。
ぼくはこの本を最初興味から読みはじめたのだけど、途中で「研究とはこうやるんだろうな」という想いを持って読むようになった。良い研究の実例に接することで、自分も研究上手になりたいと思ったから。

 最後まで読んだ感想は、結論がない、である。ハーメルンの笛吹き男についての背景(社会、歴史、他の研究)についてはとてもよく調べられている。必要なものは原著や原資料を当たっているし、当時の世界についても、歴史的資料がほとんどない普通の人(農家、賎民)のものにいたるまで調べられている。ハーメルンだけでなく、ドイツ全体についても調査が行われている。しかし、それらを検討した結果、「で一体何なのさ?」にあたる結論がない。すくなくとも、ぼくはよみとれなかった。ぼくの期待したものは著者の説である。研究であるからには、なんらかの結論、著者オリジナルの結論がいると思うのだが、それがない。なんだか腑に落ちない。13世紀のしかも記録がないことについての「新説」などは、考えて見れば意味がないかもしれない。子どもたちは何処へいったのか、とか、実は嘘だったとか、そんな説を新たに生み出すことは意味がないということは理解できる。だからといって、著者なりの結論がないというのはどうも受け入れがたい。研究所とよりより、ハーメルンの伝説にまつわる歴史のようなものだとするよりない。そして、それは解説であって、研究ではないような気がする。

2009年4月23日

音楽の捧げ物

茂木健一郎
PHP新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 ラ・フォル・ジュルネ関連の本として出版された旅行記である。茂木健一郎さんは忙しい人だから(本文でも1年間で休みは1日だけだったと言っている)、バッハ、ドイツを巡るこの旅行記も一気に書いているのだろう。だから、フォントは大きくて余枠も広い、ちょっと損した感がある本である。いくら新書とはいえ、これは無いんじゃないかと思うのだが、バッハについて少し知りたい都合から、買ってしまった。当然だが読みやすい。写真は茂木健一郎さんが撮影したものを使っているため、手ブレやあまいピントのものが多い。本というより、良くできたブログという出来である。もうちょっと整理したどうかとも思うが、それだともっと書き足さないとダメで、おそらくはそんな時間はないから出版出来なくなってしまうのだろう。本、とくに新書だから新刊よりも息が長いはずなのだが、あとで出版社も後悔するんじゃないかと思う。

2009年4月21日

自分の中に歴史を読む

阿部謹也
ちくま文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 立派な学者さんの自伝というか、研究へと入っていた道のりを普通の人に、多分高校生くらい、向けた本を読んだ。戦前までの学問の世界は、立派な人たちが行っていたのだなと意外に思った。
 例えば、著者が20歳のとき、卒業論文のテーマについて指導担当教官の自宅!へ相談に行った時の話である。いまならば学内で見かけたら声をかけるか、教授室へ行くか、あるいは電子メールを使う。学生から見れば、どの程度偉い人なのかなど関係なく、教授は教授である。質問したら答えてくれる人、という認識だろう。ぼくはそうだった。ところが、相談は教授の家に行くのである。また、そのための連絡は葉書で書く!! びっくりする。偉い先生は自宅で会議などをしていることがあるらしく、著者が相談に行った時もそうだった。
 そこで、一つエピソードがある。学生として先生の家へ行ったっときに、先生は他の大学の教授達と会議をしていた。そのとき、部屋の隅で会議が終了するまで待っていることになったが、同席していた教授にみな挨拶をしたそうだ。偉い先生方が一人一人、東大の何とかです、といいながら。ずいぶんと謙虚なのだと感心する場面である。著者は、偉い先生は学生にたいしてもきちっと接すると感動している。学問に対する態度もみな真摯な態度である。本当にそうだったのだろうかと疑ってしまうが、そうだったのだろう。ぼくの時代から大分ちがうものになってきたのだろう。

 著者の態度でとても感銘を受けたことがある。それは、「わかる」とはどういうことか。これを正面から考え、格闘している。それを研究にまで高めている。そうそう、それこそが学問だよねと、読みながら頷いた。人によって「わかる」の定義は微妙にことなるようで、著者の先生は「変わるとは、自分がかわることだ」と言っている。著者は、「中世ヨーロッパがわかるとはどういうことか」をずっと考え続けていた。何をしていいのかをそこから考えているのだから、数ヶ月活動を続けても結果はできない。まったくもって、感心する。そうだよそう、と言いたくなる。ぼくだって、今のぼくだってそれと格闘しているのだから。著者は立派な先生であり、ぼくとは大分違うのだけど、それでも学生時代の態度にとても親近感をもってしまう。
 自分のなかに歴史を読む、というタイトルの本であるが、それは自分の来し方を眺めていることだ。著者についてほとんどしらないが、中世ヨーロッパの研究について、著者がどういうとかかかりをしたのか、どうやってテーマを見出し、それにのめり込んでいったのかを、歴史として語ってみたのがこの本なのだ。自伝というものは大抵「自分が以下にスマートにやってきた、偉い人なのか」をそれとなく、あるいは大々的に協調する物が多い。もう、うんざりするものも結構見陰るが、こういう自伝を読むとほっとする。偉い先生にも、立派な人がいるんだと安心する。そうでもないと、なにが学問だと言いたくなってしまう。
 研究というのは、自分に対してなぜと問い、自分が自分を完全になっとくさせようとあれこれ手を尽くすことが基本になる。研究テーマとうものは、かならずしも最初からパッケージとして存在するものではなく、あれこれ何でいているときに、ふとしたことが目に入り、それを糸口に発展させながら、気づくとすでに研究の中にいる。自分の前に研究はなく、自分の後に研究がある、というような行動の結果として定義でそうなものである。もちろん、オリジナルが大事だとか、他の人の研究成果を踏まえるとか、そういう手順があるのは確かだが、そんな面倒なことをやる最大の理由は、自分がこころから疑問に思ったことを自分に教える過程なんだということだ。

 理系、文系という区切りがフレームワークとしてすでに頭に存在し、理系できたぼくには文系のやることの意味がよく理解できないできた。それって、学問なの?研究なの?という思いが常にあった。しかし、学問のそもそもの動機が、自分が抱いた疑問だということであり、それに答えを見つけようとする行為が研究であるとするならば、文系も理系もないだろう。そこには「なるほど」を求めて活動する人がいるだけである。そして、それはかならずしも生き死にに関係しない、平和で幸せな生活の一つの形なんだろう。

2009年4月18日

けちのすすめ

ひろさちや
朝日新聞出版
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 ひろさちやさの本だから読んでみたのだけど、これといって「なるほど」と納得してしまったようなことはなかった。悪い内容ではないと思うけれど、正直とくに感想として言いたいことがない。うーむ。

2009年4月17日

ライン河

加藤雅彦
岩波新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 加藤雅彦さんの本を集中的に読んでみることにした。amazonで古本をかき集めてみた。まずは手軽な新書から。タイトルはライン河。『ドナウ河紀行』という新書もでているが、そちらを後にまわす。
 ヨーロッパの歴史について、ぼくには塩野七生さんのローマ人の物語の印象が強く残っているので、ライン河はガリアというかローマ世界とゲルマン世界との国境というイメージである。カエサルのころから進化してない理解なんだろうけど、仕方がない。高校、大学では世界史をろくに勉強しなかったので、中世から近代、現代にいたる間でライン河の位置づけの変遷を知らない。知らないので未だにローマ世界とゲルマン世界との国境の河という認識のままである。まったくもって、不勉強なことだ。
 この本を読んで、ライン川沿いの国の混乱を知った。なるほど、だからアルザス・ロレーヌ地方の話はややこしいのかと納得した。最後の授業もこの辺りの話なのだろう。歴史のなかで、ドイツになったりフランスになったりを繰り返す地方では、なるほど「複雑」な政治が必要なんだ。それは今でもそうだろうし、戦争技術が進んだ近代になってから、ろくな目にあってない理由もわかる。
 教科書のような歴史本は大抵つまらないけれど、加藤雅彦さんの本はついていけるところが不思議である。なぜだろうか。ぼくの感想だけど、歴史を語るときに話の芯を明確しているところだろう。あれもこれもという事実の羅列をしないで、ある一つのことが理解できるように、その芯について「なぜだろう」と問う姿勢がよい。そこからつかずはなれず歴史を解説してくれる。だから、歴史の本としてめずらしく「人が理解して分かる」内容になっている。こんな本は初めてで、この先巡りあうことはないかもしれない。なので、この本を読んでライン河周辺の歴史を概観してしまったつもりになっておこう。

2009年4月16日

日本列島プチ改造論

パオロ ・マッツァリーノ
大和書房
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 パオロさんの新刊が出たので購入してみる。前作の『コドモダマシ』がもう一つだったけに少し不安だったが、この本もダメだったら次は読まないことにしよう。また面白さが復活していることを期待して読み進める。
 出版社のWEBマガジンに毎月掲載されていたコラムのようなもので、エッセイというよりも、現代の日本社会に対する提案が書かれている。連載当初は気合いが入っていて面白いけど、時間が経つにつれてネタが尽きていくためかテーマ選びに芯がなくなり、内容もおなざりになっている。ただし、最初の1/4くらいはめちゃくちゃ感心する内容で、この部分だけでもこの本を買ったかいはあるなととは思う。
 この本では、日本を面白くするためのちょっとした工夫のような提案をパオロさんがしている。もちろん、物知り気な態度で説教するような人とは異なり、あぁそうか、というアイデアをぽこっとだしてくれる。それが面白い。
 例えば、最近の若者はどうして地べたに座るんだろうか、という社会問題に対する提案。一頃は電車のなかでもドア付近でしゃがんでいる邪魔くさい高校生がたくさんいたが、最近は見なくなっている。また、コンビニ前でたむろって入る中学生もいない。もっとも、ぼくの電車利用やコンビニへの立ち寄りなどは彼らの時間と重ならないからそうみえるだけで、今でもひどいことになっているのかもしれないが、それは分からない。この問題にたいしてパオロさんはこういう。なぜ、地べたに座るのか。それは、椅子がないからだ。
 はー、あー、そうかぁ。確かにそうだよ。電車は混んでいるし、商店の前にベンチなんてないからか。確かに、もしあったらそれを利用するね。そういわれてみれば、コンビニ前にベンチがある気がする。あれは、そういう理由だったのか。
 ヨーロッパの町には、わりとベンチがあるような気がする。有料でいいならばカフェがたくさんあるし、街歩きの人のためのベンチもそれなりにある。でも、日本の道路はそもそもごみごみしてるし、駅前は自転車だらけだし、そもそも街を歩く人のための「街が提案する演出」のような発想はそもそもない。
 ぼくが週末かならず立ち寄る神田神保町のすずらんどうりには通りに床几がでている。商店街の企画なのだと思う。それは必ずしも有効に使われていないかもしれないけど、そ通りの心意気はしっかりと感じる。提供されているものが即お役立ちにならなくても、道行く人に対する無償のサービスにはなんとも言えない感謝の念が湧いてきて、感情的にその街が好きになってしまうものだと思う。ならばベンチ一つ店の前に出すサービスは、地べたリアン対策だけでなく、長い目で見るとお店のためになる行為なんじゃないと思ったりする。
 などということをぼやぼやと考えているうちに全部読めてしまった。しかし、この本の半分以降は、なんだかダレダレになっているようでもうひとつだった。

2009年4月14日

ロシア・ショック

大前研一
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 ひさびさに政治経済の本を読んで感動してしまった。ロシアについての本だったのだが、読んでいる最中からプーチンは古代ローマのトラヤヌスような人なんじゃないかという思いが離れなかった。賢帝のトップバッター。怖い顔をしているために、元KBGだとか独裁とか、そういうイメージと結びやすい。プーチンが大統領ということは怖い国なんだろうなぁとこれまでロシアのニュースを見ていたけれど、ぼくは本当のアホだったと思う。プーチンはやるべきとを全部やってロシアを立て直した凄い政治家なんだ。きれい事だとかみんなの意見を聴いてだとか、そういうおかしなことを主張する人手は無い。とても現実的な人だ。どん底にあるロシアを建て直すためには、ときには軍事的なことも必要だし、外交も必要だし、国内政策も必要だし、ということでおよそ考えられる全てのことを処理してきた。そして、今のロシアがある。司馬遼太郎が描いた時期のロシアでもないし、冷静時代のロシアでもない。現在のロシアは、資源として石油と天然ガスがあり、産業も高度なものがあり、人々の教育水準は高く、開発されていない場所も歴史のある場所もある。これ以上ないくらい今後が期待できる国ととして存在している。もちろん、過去の遺物はマフィアやだの汚職役人だのが存在しているという事実はあるにせよ、税制などの工夫し、軍をうまく使うことで8年でどん底から国をピカピカに磨いてしまったプーチンはすごい。
 ただそういうロシア像はプーチンのなし得たことなどについて、日本のマスコミを見ている限りわからない。この本ならば200ページ程度で概観できてしまう。さすがに大前研一さんだ。
 プーチンのなしたことをいちいち孫引きしても仕方ないので、結論だけいうと、彼は古代ギリシャのペリクレスであり、古代ローマのトラヤヌスのような人なんだろう。そうぼくは眺めることにした。歴史上、賢人がリーダになって「良い」と思われる社会を作り上げた人は何人もいる。軍人だから絶対にダメということはない。ただ、人であるかぎり賢い人は少ない。軍人にだって当てはまる。だから、賢い軍人が政治を担ったら、暮らしやすい社会が実現するのだが、そんな人はめったにいない、ということだ。
 政治がで国をよくしてくれた人など、ぼくが知り得る限りにおいていないし、ぼくが生きている間にはでてこないだろう。明治くらいまではいた「らしい」が、過去ならば、いろんな解釈が成立するだろうから、よいと言われた人がどの程度良かったのかはわからない。
 ところがプーチンのなしたことを知って、賢人な政治家というものが存在し得るのだと、理論上明白なことだったが、それを信じることができるようになった。うあぁ、いるんだ、凄い人が国のリーダになるということがあるんだ、という感想である。数世紀経つと歴史上の重要人物になるであろうプーチンをぼくは同時代の人として見ることができる。なるほど、ペリクレスは評判が悪かったという意見もあったのだろうことは現在の報道を見ていればわかる。しかし、そういう判断はたいていその場の感情や自分だけが偉いと思っている学者のものである。歴史の中で現在を捕らえている人には、ちゃんと現在に賢人を見出すことができるのだ。歴史を知るって大切だ。古代も中世も近代も、そして現代史も。

 試験にあまりでないからという理由で敬遠される近代現代の歴史を知っている人は少ないだろう。日本の社会人では皆無なんだろうと思う。だからロシアといえば、未だにソ連と変わらないと思っているかもしれないし、コメントすることとしては北方四島返還しか思いつかない。それが日本人の現状だろう。その理由はマスコミはそれしか放送しないからだと思う。あるいは、司馬遼太郎は日露戦争までを書いてくれたけど、近代の日本、現代の日本についてはあまり書いてくれなかったからかもしれない。佐藤優さんの本を何冊も読んだが、この本にあった視点でロシアを解説したものは無かったかと思う。佐藤優さんは博識であり、ロシアの政治の現場で生きてきた人だから、発言内容の信憑性は高い。しかし、経済という視点の解説は少ない。そもそも、思想史や宗教という観点んからロシアを見るのが仕事であり、好きなのだと思うで、ファシストがどうのこうのという貝瀬牛か書かないのは鵜名付けるが、それでは見えないものがお起き過ぎる気がする。

 日本の未来について、明るい出来事を想像することはぼくはできない。過去のどの時代よりも現代が物理的に生きやすいのは間違いがない。バカみたいにエネルギーが使える時代なんだから当たり前だ。物質的には幸せな生活があるにもかからず、未来については蔵予想しか浮かばない。それは、賢いなぁという行動をとる人が政治家に現れないからだ。いわゆるニュース番組は報道については、解説されるほうも解説する方も、バカに見えて仕方ない。どいつもこいつも、自分の仕事としていることについて、なぜ真摯に現実を見て、足りないところを勉強しようとしないのだろうか。不思議であるし、呆れてしまうこともある。ぼくがみる社会像は、マスコミがつくった風景でしかないから勘違いかもしれない。そうだとしても、役人だろうが政治家だろうが、なんで普通の人がいないんだろうと不思議に思う。だから、この生活が数十年続くとは思えないのだ。
 
 大前研一さんの本(この本やこれ以前の出版された本)を読むと、日本にもいろんなチャンスが転がっているのだなとつくづく感心する。これでもか、これでもかと日本という国が浮上するきっかけを世界中が与えてくれている。それなのに、マスコミも政治家も、そんなことを考えようともせず、「自分はいかに偉いのか」を主張しているだけである。もったいと思う。逆にいえば、「自分が偉い」ことを周りにわからせたいということが動機ではない人がリーダになれば、あっとういう間に国のレベルでよくなることがおきるかもしれないなとも思う。
 これに気づくと、なるほど国の少し先の姿は、偶然に左右されたものはなく、間違いなく今の人のなした結果なのだとわかる。今の日本でぼくはとても良い生活をさせてもらっている。しかし、ぼくらの世代のやった結果は少し先の日本として現れ、それは間違いなくぼろぼろなものだろう。一人ではどうにもできないし、ぼくには考察力も発言力もないから、その方向を止めることは出来ないだろう。

2009年4月 8日

ウィンナ・ワルツ

加藤雅彦
NHKブックス
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 三省堂神田本店

 ハプスブルグ家と音楽の歴史について知る必要があり、何かよい参考書はないかと探していて、アマゾンで検索結果からよさげなこの本が目にとまった。ワルツの歴史を主題にしているけれど、同時に世界史、とくに中欧について知ることができた。出版社の解説文には、「会議は踊る」や「美しき青いドナウ」というキーワードがあったから決めたのだけど、結果的にこの本はとてもよかった。。
 ハプスブルグについての事前知識はさっぱりないのだけど、それでも当時の東欧諸国の歴史変遷の面倒くささについて知ることができる。知るといっても「テストでいい点画撮れる」ということではない。ワルツの発生と進化という観察視点は明確だけど、もっと広い意味での音楽の発展の様子も概観できる。本のタイトルとぼくが知りたいこととは微妙に違うのだけど、著者の視点がはっきりしている分、話の迷路に迷ってしまうことがなかったから同時に別のことも知ることができたのだと思う。話の流れが明解ならば、わき見をしながらでも付いて行けたのだと思う。

 この本を読んで思ったこと。
 音楽がどうやって発展するかは、音楽家の個性が決め手だとぼんやり思っていた。当然だろう。作曲家が作曲するのならば、どんな曲になるのかは作曲家次第、つまりは、その個性によって音楽が定まるはずだ。
 ところがこの本を読んでいくうちに、音楽を受ける聴衆や音楽家と聴衆を含めた社会の動きも無視できない力を持っているのだと知った。聴衆が演奏家を育てるというような言葉は、ある種のお世辞だと思っていたので、新しい発見だった。聴衆や聴衆を含めた社会が演奏家を育てているのか。
 理由は簡単で、だれが演奏家の生活を支えているのかを考えれば自明だろう。作曲家も人間だから、生活費が必要で、演奏家を抱えるには何よりも収入が必要。より多くの収入が見込める企画を多くだし、音楽そのものも良い人が聴衆の大きな支持をうける。当然、その次もその人だろう。となれば結果的に社会にはその人の音楽が広まっていく。
 要するに、音楽は人のためにあるからだろう。食料を作る人は自分のために働いているといえる。今の農家は自分の食事とはあまり関係なく食べ物をつくるが、原始的な集団であれば自給自足なので、自分の活動は自分が生きるためである。一方で、現代の分業という意味での仕事という意味ではなく、音楽は本質的に他人のためにある。本質的に聴いてもらうためにあるんだと思う。
 だから新しい音楽を考えても、それを人に聴いてもらわないと意味がない。宮廷だけが聴いていても宮廷音楽家でないと生きていけない。居酒屋などでお客さんへのサービスとして音楽を演奏していた時代には、お客さんからの評価が大切で、それがよければ職業として成立することになる。お金を出しても聴きたいという人が増えれば、演奏場所は居酒屋から舞台、そしてコンサートホールへと活動範囲が広まる。外国などの自分が住んでいる地域以外でも興業ができる。そして、人気がある音楽家は多くの作品を試せる機会が与えられ、結果的に良い音楽が生まれることとなる。となるとさらに聴く人が増える。これが繰り返し起きていく。ここまでは、全く当たり前のことである。誰だって知っているというだろう。
 で、本当にそういうことが起きるのだろうか。その「実験」と呼べることが実際ウィーンで起こったのだ。ハプスブルグ帝国で、ナポレオンが登場し、戦争で国の情勢が落ち着かないときに、ウィナー・ワルツという音楽とシュトラウスという人々の生き方を辿ることで、その実験の様子を見ることができるのだ。音楽の歴史は、その社会でどんな音楽が望まれたのかを表しているのだと知ることができる

 音楽について考えていくと社会の動きを知る必要がでてくるのだ。それは気取って言っているわけでも、頭がよさそうなことを言いたいわけでもなく、そうなってしまうのだ。音楽以外の社会の動きが音楽への要望に関係するから、結果的に世界史や技術史も視野に入れざるを得なくなる。結局、人の活動は人の活動全体に影響を受けているのだと悟のである。
 音楽というのは、作曲家の個人的な思いつきで発展するのではなく、社会に影響される。ならば、音楽以外も同じだろうか。例えば絵画の歴史もそうなんだろうか。世界史とリンクしているのだろうか。今すぐに調べることはできないけれど、今後古本を探すときにそういう視点ももって本選びでもしてみようかと思っている。

2009年4月 5日

小説の読み方

平野啓一郎
PHP新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 前作『スロー・リーディング』はとても良い本だった。読んだ本の冊数を増やすことに気を取られていたぼくには、目から鱗の本だった。本を読むとはどういうことか、今の読み方で何を見落としているのか。こういったことを教えてくれた。著者には感謝している。
 その人の二冊目である。(いや、小説はたくさん著作があるが、ぼくはこの人は新書しか知らないので二冊目といった。)この本も新しいことを教えてくれるだろうあと思って、躊躇せずに購入した。
 今回は「小説の読み方」を教えてくれるようである。しかも明示的に。本文において、何に着目するのかを逐一提示している。
 なんだか参考書のような感じがする。というのは、各章には目的や狙いが示され、例題として小説の断片が引用されているからだ。それを著者のアドバイスにしたがって読むことになる。試験勉強だよ、これだと。

 次の考え方がこの本で一番印象に残った。どんな小説でも「メカニズム、発達、機能、進化」の四つの点にしぼって考えればいい。メカニズムと発達は、個人を対象として注目するべきことで、機能や進化は個人が集まった社会や集団を考えるときに着目するべき指標だというのだ。そして、メカニズムと機能、発達と進化は対象が違うだけで、やっていることは同じなのだと。
 そうか、と納得した。この四つの切り口は小説を考えるときだけでなく、もっといろんなことに適用できそうである。物事を考える上で、具体的な一例を見るときとその集団やクラスを見るときで、何を取っ掛かりにすればいいのかの参考になる。

 そんなことをうれしく思いながらこの本を読んでいたら、あっさり読み終えてしまった。ただし、それは必ずしも「良かった」と言う意味ではない。ぼくは、「四つの着眼点」以上に面白い箇所が見当たらなかった。だから、この本の評価は微妙である。

2009年4月 4日

養老孟司の旅する脳

養老孟司
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 JALの車内誌に連載されていたエッセイがまとめられた本である。結構長いこと続いていたようだ。さすがJALともなれば車内誌に養老孟司が登場するのかと感心する。
 JALだからということか、最初のころは旅にまつわるエッセイを書いている。が、途中から、養老孟司さんの普通のエッセイになっている。昆虫だの都市化だのという、いつもの話題である。不思議と、そういう内容の方が読者としてはあり難いのだけど。

 養老孟司さんのエッセイを何冊も読んでいくうちに、これまでの来歴を何となく知ってしまう。家族のことから、学生時代のこと、就職して教員になり、退職していろんな活動をしはじめるところなど、特に憶えようとしないのに憶えてしまっている。だから、このエッセイを読むと既に知っていることが語られているところに出会う。ただ、そのトピックが挿入されている文脈は色々なので、もう知っているよ、と思うことはない。語れている内容そのものよりも、なぜそのトピックがそこで登場するのか、その繋がりを読んでいるから、それはそれで面白いのだ。文章を楽しむというレベルではなく、文脈を楽しむ読書になっているのかもしれない。たくさん本を読む効用が、こういう現れ方をしているのかもしれない。

 養老孟司さんの本を読むようになり、養老孟司さんの対談だの書評だのを読むうちに、気づけば茂木健一郎さん、内田樹さん、池田清彦さん、甲野善紀さんなどの本もよく読むようになった。どの人の本も同じように楽しめる。彼らは現実の世界でも中がいいのだろうと思う。
 この傾向は何もぼくだけではないようだ。ブックオフではない普通の古本屋でセール品を漁るとそれがわかる。三冊五百円というようなガレージセールで販売している本は、仕入れたときの本のまま店頭に並べられていることがある。引っ越しかあるいは持ち主が死んだかして、売られてきた物なのだろう。店頭では段ボールやテーブルにまとめて置いてあるだけの売り方だったりする。そのときの並び方は、たぶん持ち主の本箱にあった状態に近いまま置かれているものがある。
 こういうところで、例えば池田清彦さんの本を見かけるとする。おぉと思ってその周りをみると、茂木健一郎さんや養老孟司さんの著作がごろごろあったりする。ただ、ほとんどぼくは持っているので買うことはほとんどないのだけど、自分の趣味に近いなぁと思って愉快な気分になる。

 もう何冊読んだのだろうか、と思う。でも、新刊がでたらまた買ってしまうだろう。本屋さんにとってはちょろい客になってしまっている。

2009年4月 1日

新・井沢式日本史集中講座―1192作ろう鎌倉幕府編

井沢元彦
徳間書店
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 年末の発行で徳間のシリーズが終了したので少し残念に思っていたが、新シリーズとして井沢本が復活していた。今回は鎌倉時代からスタートする。鎌倉以前は古代、鎌倉以後は中世という括りなのだろう。井沢元彦さんの解説がつまらないはずはないので、早速購入し読んだ。
 第一印象。この本はずいぶんと重複が多い。整理されてないない。その意味でスマートさを感じない。一方で、このまどろっこしさは、まさに目の前で話をしてくれているような気分になれる。かぶり付きで講演を聴いているような感じがする。重複するところは大切なところだから、読んでいる間に憶えてしまう。ヒットラーの演説のようなものだろう。ひょっとしたら、このまとまりの悪さは編集側の狙いなのかもしれない。教科書を狙っているわけでもないし、この分野に詳しくない人に読ませるには良い方法だと思う。感心gが薄い人を引き込むには、筋道が分かりやすい話を色々な事例を持ち出しながら、同じことを何度も何度も聞かせることだ。それが手っ取り早い。
 その効果もあって、さすがに言いたいことが飲み込めた。言いたいことがよく分かったし、憶え得てしまった。狙い通りの反応なのだろうか。

 この本で語られていることは、幕府とはどんな組織で、どういう誕生したのか。それに尽きる。このためには、東国の税制について自分に則して想像することが有効だろう。なぜ自分たちで開拓した土地が無条件に他人のものになってしまうのだろうか。どうやったら、守れるのか。開拓した土地が、京都の帰属たちに奪われるのはおかしい。この悔しさからどうやったら抜け出れるだろうか。
 こんな問題の解答として鎌倉幕府が成立したのだということが分かる。1192を作ろうとしたのではなく、自分で作ったものは自分の物だ、という当然の権利を主張しただけなのだ。それが革命であり、当時の東国の人の気概を吸い上げて鎌倉幕府ができていく。
 この本を読んだおかげで、「幕府」というものがよく分かった。幕府とは、軍隊の前線基地である。戦争をしているときに、いちいち母国に問い合わせをしていられない。軍隊の隊長が全権委任されている。事前報告なども必要ない。となれば、戦闘状態にいるかぎり、軍隊だけで閉じた集団となれる。この仕組みを鎌倉武士の集団に適用したのだ。征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を立てれば、そこで行われることはいちいち朝廷にうかがいを立てる必要はない。それは税制についてもそうで、だからこそ自分たちの土地を自分たちで治めることができる。
 幕府とは、戦闘状態における臨時独立政府ということになる。そして、とくに敵がない状態でも幕府の存続を許すならば、なんてことはない、事実上の独立政府になるのだ。仕組みが分かれば実に簡単なことだ。
 井沢元彦さんの本は、歴史という分野においてこういう納得の仕方をさせてくれるから好きだ。次巻の出版が楽しみである。