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2009年5月30日

「教養」とは何か

阿部謹也
講談社現代新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 教養があるとはどういうことか。
 世界における自分の立ち位置を知っていること。

 なんだ、そうか。そう言ってしまえばいいのか。歴史を知っていることだとか論理的に考え行動できることとだか、そういう知識やスキルに関係することじゃないんだ。「自分とは一体何なのだろうか」という普遍的な問いに答えに対する最適解のようなものじゃないか。

 こんなことを知ったおかげで、知識があるとかないとかあるいは頭が良いとか悪いとかに対するコンプレックスが解消してしまった。
 どんなに知識を身に付けたところで、自分の凄さばかりに目がいっている人というのは、教養がある人とはとても言えない。中世史を知っていても文学に詳しくてもバカだと一刀両断してしまうことだって可能なのだ。
 一方で、自分の置かれた世界、それは歴史的な意味でもいいし、科学的な意味でもいいし、社会的なあるいはコミュニティー的な意味でもいいのだが、その中での自分の立ち位置を理解している人は教養がある人と考えてかまわない。知識の量とは関係がないからだ。だから、年齢や学歴が指標にはならないのだ。
 教養の量を比較することに意味がほとんどないことに気づく。教養を誰かと競うなどということが、もはや勘違いなこと。日本人のほぼ全ての人が教養という言葉の意味を誤って理解しているのだろう。

 本を読む楽しさは、こんな気づきにある。そんな機会を持てることにある。だから、本を読んで勉強することに終わりはない。

2009年5月28日

仕事でいちばん大切なこと

アルボムッレ・スマナサーラ
マガジンハウス
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazonマーケットプレース

 これまで全く思いもしなかった考え方があった。

 たかが仕事ではないか。

 そうか、そんなことを口にしてもいいのか。

 生きるとは何かを本気で考えはじめ、幸せとは何かをあれこれ考察し、どうやって生きていこうかという問題と正面から対峙するようになれば、仕事という言葉が持つ価値観の「社会からの押し付けられた側面」に気づくはず。社会という生き方では、個人がもつべき「仕事に対する勤勉性」が需要な要素であるから、「たかが仕事ではないか」などということは決して人々に肯定されてよいはずはない。ところが仏教という「社会の外」ならば、そういう発言はあり得るのか。なるほど。

 ほぼすべての人にとって、仕事は生きていくための手段である。ならば、仕事が生きることよりも大切なわけがない。ところが「仕事が大事」という命題が人々がもつべき信念や価値観である。他人の信念を曲げさせるつもりはないけれど、でも多くの人はそれを信念として持っているのではなく、手段が目的になってしまうという、よくある勘違いをしているだけではないのだろうか。

 仕事が大切だ、と主張する人は一体誰なのか。雇用者だったりしないか。やみくもに「仕事=人生」的なことを口にする人をよく見てみよう。

 職人がそう口にすることに違和感はない。ただし職人は「自分のこと」についてのみ言及しているはずである。自分はそうなんですよね。こう言っているはずで、他人に対して仕事=生きるという考えを押し付けたりはしない。そんなことをいう人は、奴隷にむち打つ気分に違いない。

 社会から暗に要請された価値を無批判で自分のなかに入れてしまうと、自分の境遇あるいは不幸に対しての恨みを気分的に消化できなくなるだろう。

 生きることと生きる手段とはちゃんと分けて考えないといけない。簡単なことだが、この本を読まなければ気づかなかっただろう。スマナサーラ長老にはとても感謝いるのである。
 


2009年5月22日

英語は多読が一番!

クリストファー ベルトン
ちくまプリーマー新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 英文の原著を読んでいて、その本の内容について続きが知りたくなっていたら、英文で本を読めてきたのだとある。ナルホドそうかもしれない。まず「英語」があるのではなく、内容に意識が向かっているのならば、伝達の手段としての英語はすでに消えている。つまり、道具と化したということなのだから。

 そんな状態に達する一番良い方法は、とにかく英文を読むこと。この本のタイトルはそういう意図をストレートに表現しており、裏も意外性もない。直球の主張であるだけに分かりやすいけど、これで一冊作っていいのだろうかという疑問も抱く。英語は勉強するな、というようなタイトルを付けて売り出した本もあったが、あれは半分引っかけでだったので、この本のタイトルの方がいくぶん正直ではある。しかし、正直であるがゆえ、面白みがない。

 本を読むという努力を最小限にしたいからこういう本を読むのである。そういう本に、とにかく努力しろという正論をぶつけても、読者の期待と内容がかみ合わない。読者としては、そりゃそうだろうよ、と思うだけである。皆さんこの本を読んで英語の本を多読するのであろうか。それはないだろう。言われんでもわかっているから。「なるほど、多読しなければダメか」と驚く人はあまりいない。物事で上手になるには数をこなすことが近道であり、それは経験則として大抵の人は理解しているからだ。水泳や陸上の本を新書で読んでも無意味であることを知っている。

 そういうことを考慮しないこの本は、新説にも参考文献をリスト化して提示してくれている。使われている語彙やストーリーの面白さで推薦書を挙げてくれている。やさしい先生のような行為である。生身の人間でなければこういう教え方もありだろう。しかし、読者は現代人である。しょーもない人ばかりである。この本を読む人が、つまり新書を読んでいる人が、そういう地道な努力の指針を求めていないだろう。地道にできる人は学生時代にそれをやっているはずで、そういうことができない人だから新書を読んでいるのである。英語を含む外国語の本はかなり出版されているが、それが効いたという話を耳にしないのがその証左である。著者が悪いわけではないが、編集者のセンスが相当悪いよなぁ。

 そう思っていたが、勘違いも甚だしいのは自分であった。この新書は子供向けであった。だから、数をこなすという必然を知らない人向けの本なのだ。だから、これでいいのかもしれない。いままでプリマー新書は、内容として年齢を問わないものが多かったのだが、この本はこの本の内容通りシリーズのコンセプトを直球で受け止めて書いたものなのだろう。


2009年5月15日

たいした問題じゃないが

行方昭夫
岩波文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 英語の長文読解で読んだようなエッセイを再編した小冊である。岩波文庫の新刊だけど、中身は100年前のもの。いいものは長生きするのだ。それも、ただ長生きするのではなく、それを初めて読んだ人の喫緊の問題がその本で扱われていたりする。今読んでも新鮮とは、単に自分が不勉強だと言うのと同時に、時代が違っても、多くの人が抱えている変わらない問題を扱っているということだ。

 この本の内容は難しくない。Oヘンリの短編は小説で、この本はエッセイなのだが、おなじような印象を受ける。日々の生活で「そうそう、そういうことあるよ」ということが話の発端になっている。高所から訓示を垂れる本ではない。だから寝っころがって読んでもいい。


 読んでいて、こういう内容が大学受験の試験問題だったのかと思うと、だんだん腹立たしくなる。受験問題というのは、気分よく文章を読めない。内容ではなく、解析をする必要があるから。その文章の内容を自分の問題として考えることなどありえない。さっさと前置詞のパターンや関係代名詞や不定詞の意味を取るように訓練されていたのだ。だからだろう、読み終われば中身は頭から消えてしまう。いや、そもそも頭に一度も入れなかったと思う。こんなに味わい深い、人の世についての見識が書かれていのか。あの頃に我が身に置換えて読んでいればなぁ。

 母国語の人はこういうエッセイをどのくらい読むのだろう。中学高校の教科書に載っているのだろうか。決めの文句などは、だれでも口ずさめるのだろうか。日本で言えば小林秀雄や加藤周一のようなものか。いや、難しい内容ではないから、新聞のエッセイなのだろう。日本語で描かれた新聞のエッセイに、こういう読み物はあるんだろうか。


 せっかくだから、この本で紹介されちた著者のペーパーバックを何冊か購入した。読める時間がどれだけあるかわからないが、ここで買わないと一生読む機会がないような気がしたのだ。通勤時にでも読んでみるか。

 岩波文庫はさすが、というのが感想である。


2009年5月10日

グローバルリーダーの条件

大前研一+船川淳志
PHP
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 大前研一さんの対談本なんて初めてな気がする。過去に読んだ大前本を思い出しているが、ちょっと思いあたらない。珍しい、どうしたんだろうか、と思いながら読んでみた。が、結論は残念ならが腹立たしくなってしまった。良い印象を受けない本だった。
 対談相手の船川さんは大前研一フリークで、アメリカに留学してMBAをとって、現地でコンサルタントをやって、それなりに成功したのようである。だからだろう、二人の意見は基本的に一致している。あまりに一致しているので、対談になっていない。
 内容も言ってみれば単純なもので、ふつうの日本人をダメだしである。両者ともに成功した人たちで、一緒になって高見から評論しているわけである。そんなものを普通の人が読んで愉快なわけはない。まぁ、それは極普通の日本人であるぼくがそう思うだけかもしれない。対象読者はこれから未来のある若者に限定されているのかもしれない。
 両者の主張は、といういか、大前研一さんの主張は昔から一貫しているので、とくに新しいことはない。対談相手は、小前研一のような人だから、内容に新しいものがでようはずもない。オリジナリティーという意味からは〇点である。

 この手の本は、結局はリーダー待望論におちる。それ以外の展開をほとんど期待できない。発言者は、すでに成功した人で、自分はリーダーだという自覚を持っている。そういう人たちが、リーダーが何よりも大切だと説く。なんてことはない、要するに俺はなにもよりも大切だと言っているのだ。俺のような人がもっとたくさん出現するべきで、そうでない人は必要ないゴミであると言っている。一般に頭の良い人は、自分こそが大事であると主張することに抵抗がない。そして、成功した人の発言になると、もう誰も止められない。
 しかし、世の中にリーダーなど大勢必要ない。僅かだけいればいい。ピラミッド階層で理解すれば、その頂点がリーダーということになるが、頂点は一つである。全員が全員勉強して、努力して、才能に恵まれたとしてもリーダーは少数になる。人の社会は、そいう形式以外を取らないので、リーダー待望論などを今になって主張する必要などない。人の集団は昔からそうしている。
 実際のところ、リーダーというものを「教育によって」生み出すことができるのであろうか。人の性格が生まれつき決まっているとは思わないが、それでも方法性というものがあるらしいことは自分の経験からもわかる。リーダーというものは、数学者と同じではないかとぼくは考える。原理的にはだれだってリーダになれるかもしれないが、結局は好き好きの問題になってしまう。この本の中で大前研一さんはマッキンゼーで多くの人を採用し教育してきた経験を語っている。そして、どんな人でもたたけばなんとかなるという趣旨の発言をしている。つまり、そうせざるを得ない環境に放り込めば、人間なんとかなる、というのである。数多くの経験を証拠としてあげている。
 こういう例を読むとぼくはため息がでてしまう。そもそもマッキンゼーに入社する人は強烈なセレクションを通過した人のはずで、上澄みのようなものだろう。そんな人たちでも相当しごかないとリーダーにならないのならば、それは、普通の人と関係のないことである。日本人全部を母集団として考えた場合、ほとんど意味をなさない。大前さんを初め、ビジネスで成功したリーダーたちには、普通の人など「人」として見えていないのかもしれない。ぼくをはじめごく普通の人が日本人の圧倒的多数であり、日本人や生活者といった言葉の意味する人々はぼくのような人をさす。ビジネスの成功者からみて「人」といえるような人材でないのである。
 リーダーの存在が大切なのはそうかもしれないが、圧倒的多数の人がどうすればいいかを考えるほうが、実は意味がある。圧倒的多数の人は、一握りにの「リーダー」たちの奴隷ではないのである。こんな簡単なことを、果たしてこの人たちは理解できているのだろうか。大前研一さんは、韓国のある大学のビジョンをひいて賞賛している。その大学のビジョンとは学生達にグローバルカンパニーのアジア支部長のような人として育って欲しいというものである。なるほどそれはそれで明解なゴールかもしれない。しかし、なぜ「部長」なのだろう。それは役職だ。教育のビジョンとして目指すものではない。社会的な取り決めでしかない役ではないか。
 なぜ、リーマンなど目指さなければならないのか。収入が多いからだという、分かりやすい理由かもしれない。しかしそういうもの釣られる人は結局のところ、人が生きるとはなにかということを考えたことがないのだろうと思うのだ。電車の運転が好きな人や文章を書くのが好きな人がいる。こういう人は、それが好きなのであって、なにもリーダーになりたいわけではない。だからといって、リーダーの奴隷になりたいわけでもない。リーダー以外の方法で生きていく人のほうが圧倒的多数である。リーダーになる人は、どんな障害があってリーダを目指すんだから、ほっときゃいいんじゃないか。

 船川さんが日本のだめな例として英語教育について主張している。アジアでもっとも英語ができない国であると。そして、できない理由を挙げるのをやめて、英語を勉強しろいっている。出来ない人は、もうどうでもいい人間だという主張である。
 こういう意見を聴くと、この人はアホだなぁと思う。日本人が英語が出来ない存在し、単純明解なのだ。それは、日本人の圧倒的多数の人は、幸せに生きていくためは英語が必要ないのだ。普通の人が生活するうえで英語は全く必要ない。そのように日本の社会はできている。単純な例を挙げる。日本語での本の出版は「採算がある」のである。日本語を母国語として読める、あるいは聴ける人は1億人以上いる。だから日本語の本は商売として成立する。これは内田樹さんのブログで主張されていたことで、ぼくはこれで目が醒めた気がした。もしも日本の人口が少ないか、日本人の識字率が低いかすると、日本語での出版がビジネスとして成立しなくなる。そうなれば、例えば教科書などは英語なりフランス語なりで読まなければならなくなる。そいういう国の人は、本を読むために英語を使わざるを得ない。映画だって同じだ。そんな自体は祝福すべきことではなく、単に不幸なことなのだ。過去の日本人が積み上げてきたものがあるので、日本語でやっていけている。そして、あまり使わない英語を必須になる状況を作り出し、自分たちの価値を限界まで高めている。自分じゃぁなにも生産しないのに。
 リーダー論を述べる人たちは、すごく大切な人たちような印象を受けるが、実のところいてもいなくてもいい存在である。農家がいないと困る。工場労働者がいなくても困る。店員をする人がいないと困る。しかし、コンサルタントはいなくても実はこまらない。損はするかもしれないけど、なくなっていい。

 リーダー論の本はリーダーになりたい人たちに向けた本である。何かを生産するための手段ではない。リーダーになれる人は限られている。だから、圧倒的多数の人が目指す必要はない。しかし、大抵のリーダー本は、圧倒的多数の人に読ませようとしている。本を読んでリーダーになろうと努力したとしても、慣れる人は限られている。そして、失敗すればなにもない。仮にその目論みが成功して、日本中の人がリーダーになり、みんながサラリーマンになる世界が、どうして求むべき姿のだろうか。

 大前研一さんの著者句は敬意を払って読んできたのだが、それらの本が作り出した結果がこの対談相手の船川さんような人だったのかもしれない。それはコピーではないか。そんな人を大量生産することが、大前研一さんの目標だったのだろうか。
 ずっと昔に読んだことがあるのだが、大前研一さんが若い頃一緒に仕事していた人は、早期定年退職して家具職人になったのではなかったのか。リーダーが重要で、それが重要な仕事であり、その仕事している人が幸せなのだとしたら、なぜその人は家具職人になどなろうとしたのだろうか。
 リーダー論にはもううんざりしてしまった。グローバルやリーダーなどがタイトルにある本は読むむのは止めにしよう。もっとも、大前研一さんの本はこれからも読み続けるつもりだが、もうこんな本はでてこないことを期待する。

2009年5月 6日

中世賎民の宇宙

阿部謹也
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 ここ一月ほど阿部謹也さんの本を何冊か読んだ。中世のヨーロッパについてぼくにとっては新しい発見がつづいた。そんなことはこれまでなーんにも勉強してこなかったので、読めば読んだだけ「へぇ」を発する連続だった。研究論文に近い本だと、難しい内容が多くなるせいでちょっと辛くなる。そしてこの本は研究論文的なものが束ねられているので読むのに時間がかかってしまった。そして、なんだかもう中世はいいかな、という気分になった。
 阿部謹也さんの著書を学んだなぁという達成感があるのだが、冷静に考えるとたった4冊である。たいした量ではない。しかしそんな量でも読んでいる本の内容は重複してくる。テーマは重複しても解説は入門から論文まで掘り下げ方が違っているから、損した気分にはならない。例えば、賎民という認識が発生してくるメカニズムを扱ったとしても、農民の生活からみるか、経済からみるか、伝承探究からみるか違ったものになる。ただし、ぼくは学問をしたいわけではないので、だんだん飽きてくる。阿部謹也さんの本もそろそろいいかなと思っている。

 本を読むこことで知識は増えるが、それが楽しみなのではない。知識ではなく、新しい視点が獲得が楽しいのだ。たとえば中世ヨーロッパの普通の人についていろいろな知識を得たが、そのなかで次の事実は、中世や過去の人々についていろいろなことが想像できるようになる。それは、中世の人がもっていた人体についての知識である。現代ならば人体の基本的な構造やメカニズムについて概略知っている。理科が大嫌いだった人でも、人体について「未知で恐れ多きもの」という感覚を持ってないだろう。人の骨格や内蔵について絵を見たことがあるだろうし、食べ物を消化してエネルギーを得ることや、呼吸について栄養分についてなど、断片的であったとしても「人体にはメカニズムがある」という考え方に違和感はないはずだ。
 しかし、中世ではどうだろうか。ルネッサンスを迎えるまで、人体について探究されてこなかったし、解剖学的な知識はないか、あったとしても一般には流布していない。ましてや栄養という概念などまったくない。だから人の身体は「不可思議」の対象でしかない。中世の人は、食べ物が胃、小腸、大腸を通過し、最後に排泄されるという事実を知らない。メカニズム的な発想がないのだ。人の存在は「宇宙」と同じくらいの不可思議で未知で、かつ恐れの対象であったのだ。食べ物がなぜ便になるのか。それを見るにつけ、汚さというよりは疑問や恐怖が沸き起こっていたのである。

 なるほど、言われて見ればそうだろう。ぼくはそんな発想をぼくはしたことがなった。ならば、当時の人の考えたこと(伝説なり、風習なり)について、その当時の感情的な根拠や必然性を全く理解できるはずはない。指揮者の概説を聴いてそんなもんかなと思うだけで、それは自分とは関係のないものでしかなった。自分の「当たり前だろう、それ」ということに気づかなければ、過去について知ったとしても意味がない。「当たり前だろう」と思っている知識や前提は、それがない状況での考え方や感じ方を想像することは難しい。だからだろう、大抵のの人は過去の人たちのことを「幼稚な」人たちのこととしか思ってない。

 現時点の自分が当然のことだと思っていることを知らないとしたら、自分は何を考え何を感じるのだろうか。この気づき、それにつづく想像なくして過去を学ぶことは不毛である。
 気づきは知識の問題ではないし、質の問題でもない。気づきの前後においてぼくの持っている知識は変化してない。しかし、知っていることの組み合わせがかわり、その意味するところが新しく増えるのである。

 この本を読んだ成果は、中世世界を見る視点である。そして、その視点は中世ヨーロッパだけでなく、過去一般にも適用できるし、現在の外国や、自分とは違う感覚の人々の風習理解にも適用できるだろう。世界を想像するときにも見通しが効くようになるかもしれない。

2009年5月 5日

父と息子の往復書簡

山本七平+山本良樹
日本経済新聞社
お勧め指数 □□□□□ (5)
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 金にならないことを一生懸命やっているあいだは、人は堕落しない。 
 山本七平というキーワードで定期的にブログを検索しているが、先日このフレーズがヒットとした。いかにも山本七平さんらしいの含蓄の深い言葉である。もっと読んでみたい。なんの本に載っているのだろうか。これまでそれなりに山本七平さんの著作を読んできたが、このフレーズを目にしたこととはない。どの本にあるのだろうか。インターネットで検索したところ、この本であることがわかった。ほんと、インターネットの検索って便利だ。人生を倍生きられるのではないか。

 この本は父と息子の往復書簡である。20年くらい前、ビジネスマン父がどうのこうのいう往復書簡の翻訳本がベストセラーになったことがあって、それがなんだかフィクションぽく、あまり良くなかった嫌な思い出がある。それ以来往復書簡本は読んでいない。この本の存在は知っていたのだが、敬遠した。ブログで注目したのも何かの縁だと思い、古本で買って読んで見た。
 読んで見て、正直感動した。今年読んだ最高の一冊の候補だろう。こんなによい内容なのだから、ぜひ文庫本化しておいてもいいと思うのだが、ここはひとつちくま文庫あたりががんばってほしい。
 内容は表題の通り往復書簡である。父である山本七平さんは東京、息子さんはニューヨークにいる。息子さんはキリスト教の神学校を卒業したあとアメリカの大学に留学し、ニューヨークで詩人(文筆業もだろう)をしてらしい。なかなか大変な職業で、作品が直接される世界だから、親の七光りは及ばないし、そもそもアメリカだから個人の力量でやっていくよりない。生活しけているのだから、なかなかの腕前なのだろう。

 書簡にはニューヨークやアメリカの出来事、現地で知りあった人などについてを父親に報告しているようなもので、それ自体が興味深いというわけではない。返信として父親が評論をしたり、疑問を投げ掛けたりする。山本七平の書く文章は、息子への手紙であっても、山本七平の評論であって、ため息がでてしまうくらい明晰である。なんでそんな考え方、分析ができるのだろうかと。一方、息子さんは父親にたいして父親に「尊敬」の念をもって接していることが読み取れ、やり取りが父と子のものである。少し前の親子はみなこんな感じだったのだろうか。ぼくとは違う立派な息子である。
 とはいえ、親子で意見の違いも感覚の違いもあり、それがもとで往復書簡がかみ合わなかったりするところがある。音楽でいえば「不安」的な調がある。決して素直な息子ではなく、議論を投げ掛けたり、父親を批判したり、反逆的なところがあったりする。

 なによりもこの本が親子のやり取りの理想型ということで終わらない凄いところは、山本七平さんが途中で病に倒れてしまうところである。親子で意見の違いが露呈し、息子が父親を批判するような挑戦的な手紙を書いたくだりがある。父である山本七平さんがどう対応するのかを息を飲みながらページをめくったら、病気で入院してしまったのだ。手紙からうけたショックなどというものが原因ではなく、単に老齢からくるガンによるものであったらしい。ガンはとにかく痛さとの格闘であり、痛がりつづける闘病についての息子さんの手紙を読むにつけ辛い気持ちになる。良くなったり悪くなったりしながらもやがて父は回復し、往復書簡の続きを書けるまでになる。
 こういうドラマチックな手紙のやり取りなど、作ろうと思って作れるものではない。さすがは山本七平さんだ。この本の最後を読み終えたとき、涙があふれそうになって困った。帰りの通勤電車の中だったから。乗り合わせた乗客はほろ酔い気分のサラリーマン、携帯をいじるOL風の人しかいなかったので、あまりみっともないことにならないでよかったのだが。

 別に感動して泣きたいわけではないし、それを本に求めてなどいない。しかし、感動して泣いてしまった本は、一生かかってつくるぼくの本のリストには無条件で加わる。本っていいなぁと本心から思えるかどうかは、そのリストがどれだけ長いかだろうなと思う。まだ入手していない山本七平さんの本をちまちまと集めようかな。

2009年5月 3日

絵解きでわかる聖書の世界

秦剛平
青土社
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 秦剛平先生の新刊がでたので迷わず購入する。この一連のシリーズは、朝カルの講義が元になっているらしく、どの本のあとがきにもそう書いていある。チャンスがあれば是非講義を直接聴きたいと思っていたのだが、金曜日の講義ならば上手に年休をとることで受講できることに気づき、昨年無理してとってみた。そのときの講義ノートがベースになってこの本ができているようだ。これまで秦先生の話は本で読んでいただが、この本の内容(旧約聖書外典)は、本よりも講義の方がおもしろかったと判断する。うん、だから無理して講義を聴いてよかった。だからといって、この本がもうひとつというわけではないのだけど。

 それにしても、現代でも西洋社会の根底にある聖書の話は、ほんとうに信者に都合がいい話しばかりで、知れば知るほど困ったものだとこぼしたくなる。この本の範囲は、旧約の外典だから、キリスト教の人、例えばブッシュ元大統領の行動にはあまり影響しなかったと思いたい。とはいえ、旧約についてもべったりと読み込んでしまうキリスト教徒は今でもたくさんいるし、信仰のためなら他人がどうなろうとも問題ではないという人も大勢いるんだろう。
 ダニエル書の中に、信仰が篤いから処刑のために炎燃えさかる炉のなかに投げ込まれても死なないという話がある。聖書というのは全編に渡ってそういうたぐいの話ばかりである。人の生き死には必ずしも論理的な説明がつくわけではないが、いくらなんでもなぁ。これらの話が書かれた時代は中世よりも前なのだから、現代の科学と同じくらいの説得力があったのだろうと想像できるが、現代社会に生きている人にこれを持ち込まれても困ってしまう。現代人のほとんどは、たとえば携帯電話のソフト・ハードにつてはそのメカニズムを全く知らないのだけど、それでも便利におもってつかっている。メカニズムがわからないのだから、そういう人にとっては単なる魔法の箱でしかない。それでも、それが当たり前だという顔をしてつかっている。聖書に書いていることも、それが書かれた当時には、聖書の世界観で世界が動いていると理解して生きていたのだろう。わからないで受けれいているという面をみれば、それは現代人も2000年前の人も中世の人もかわらない。

 これまで多くの人を魅了してきた?聖書をつらつらと眺めていると、良い本の条件ってなんだろうかと疑問になる。本は結局のところ言葉である。言葉なんだから事実ではない。とすれば、言葉で述べられたことは「情報」になるか、感情を動かす「詩・物語」になるかかのどちらかの形で人に作用する。過去の出来事、現在の出来事、教訓、命令などは情報である。叙情詩、叙事詩、小説は感情を揺さぶるものである。この指標で判断するとしたら、旧約聖書、とくに外典の価値はどのようなものか。
 現在において聖書が提供する「情報」にあまり価値はない。とすれば、詩や小説とおなじような「感情をゆさぶる物語」であろう。そして、それが良いから今でも読み継がれているのだろう。しかし、先のダニエル書のような「信仰心が厚いために炎のなかでも死なない」という話を読んでも全く心が動かされない人は多いだろうから、物語としての価値も普通の人にはないような気がする。つまり、聖書の中身を読んでから良い本だと判断する人は少なく、読む前から「良い本だ」と決まっている人が良い本だといっているだけだろう。
 ただし厄介なことに、人が何に価値を感じるのかなど一概に言えないし、理論解析が有効なわけでもない。この話を「神聖なものだ」と想っている人に対しては、議論などどうにもならない。実際その人にのって価値があることは間違いないのだから。結局、こういう本を読む理由は、この本を大切にしていた人たちがいたし、今もいるのだから、そういう人たちについて自分も理解しようかなという動機ぐらいしなかいないような気がする。キリスト教どっぷりだと中世ヨーロッパ世界がとなるのだが、そういう世界を通らないとルネサンスはなかったのかもしれない。ある一つの視点を取り出して、言い悪いを判断しても意味がない。聖書については、世界史と地理とを同時に読み解く気力がないと、普通の人には時間の無駄で終わってしまう。

 あ、忘れていた。西洋絵画に「何が描かれているのか」、「どうして描かれているのか」などの動機を知るためにも、知識は必要だろう。そして、そのために普通の人は秦先生の講義を聴くのが一番良かろうと思う。

2009年5月 1日

中世を旅する人びと

阿部謹也
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 賎民と呼ばれるひとたちがいる。中世ヨーロッパの歴史には記録にとどめられていないらしい。書き留める理由は価値があるからだろうから、マイナスの価値の人々が記載される可能性は低い。しかし、記録にないからといって、社会に影響を与えなかったわけでもないし、その影響が現在にまで波及していないということはない。いやむしろ、意識の水面下に追いやった人々の存在が、歴史的事件のような形ではなく、通奏低音として社会の方向を決めてきたかもしれない。

 この本を読んだからといって、なにか高尚なことを知ることにはならないが、中世の「世の中」というものはなるほどそいうことなのかと知ることはできる。頭の片隅でもやもやしていることが晴れるかもしれない。中世はなぜ暗黒なのかだ。必ずしも魔女裁判が怖いのではない。恐怖がどういう形で人の生活に影響するかを知ることが出来るのだ。例えば学校でのいじめはいろいろと問題になるし、社会においても下流などという言葉が流行するくらい実質的に差別的な嫌悪は現在でもあるのだから、中世では無知からくる恐怖心のはけ口に賎民史された社会的立場が弱い人たちは、さぞかし損な暮らしぶりだったのだろう。そして、この本を読めば、実際そうだったとわかる。
 どういう人が賎民として扱われたのか。粉ひきやパン屋などと業種リストを並べられても、それでは何かがわかったことにはならない。粉ひきが賎民となってしまう心理的なメカニズムはどんなものかを考えなければ。たとえば、水車を利用するので聚落から孤立した場所に住んでいると、集団行動をしないから。そして、川という自然の中で動力を扱うので、科学的な考えを全くしない人にはある種の疑問から恐れが生まれる。そして、恐怖から猜疑心が生まれ、結果的に差別の的になってしまう。
 また、中世では粉ひきを自分ですることが禁じられていたそうだ。指定された粉ひき助に持っていく必要があり、そこで税金とられる。領主がピンハネするための決まりでしかない。苦労してつくって税金を取られ、さらに自分でもできる粉ひきを強制されることでまた税金をとられる。領主を恨むわけにはいかないから、自然とその作業者である粉ひきが恨まれる。ただせさえ共同体から離れていることで警戒されている粉ひきは、農民から猜疑から生じる恨みや蔑みの対象になるのである。要するに、心理的に起こるベくして起きているのである。そういうことが、この本を読むとわかる。

 この賎民を生み出す心理メカニズムは、中世特有なものではない。現代においても普通に発生しうることである。興味が蔑みに変化することなどよくある。この種のいじめはオトナの社会、たとえば会社内でも適用できるだろう。中世を学ぶことは、もう過ぎ去ってしまった社会についてを知ることでもあるが、表面的にな知識層の下にまで達すれば、今の社会でも十分適用可能な人についても学ぶことができるのである。そのような理解へと達する道筋は、テストで点取りを目標とした学校教育でも誰も教えてくれない。