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2009年6月28日

メガロマニア

恩田陸
日本放送出版協会
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 古代遺跡に興味がある。とくに、中東やヨーロッパのものは大好きで、それらに訪れてそこで時間を過ごし、何かを考えるというのがぼくの人生の後半の楽しみでもある。まぁ実際のところ相当難しいだろうけれど。
 中南米の遺跡など、現地へ行くことはそうそう簡単ではない以上、なにはともあれ本を読むことが行動の初めである。写真集やTV番組は、本で仕入れた情報を整理する手段として使う方が良く、最初から映像をみるとどうもその場所の印象が散漫になってしまうでぼくは避けている。映像は自分の中に思い描いた線画に淡く色をつける作業のようなものだと言えよう。まずは、線画が大切。だから旅行記である。
 こんな具合で得た印象を先入観と呼ぶ。そして、先入観を持つことは悪いことだと言われている。確かに、先入観があるおかげで物を見る目が狭くなったり、先入観と違うことを無意識で無視しようとする傾向が人にはある。とはいへ、先入観は使い方によっては「学習の基盤」になるものなのだ。
 先入観を物事を頭にいれるための線画の役割をもたせるには、次のことを熟知していればよい。それは、現実が違っていたら先入観をその場ですぐに書き換えること。間違っていたらさっさと新しい線を引き直せば良い。たったこれだけで、先入観はドグマとはならず、むしろ知識や印象を頭に整理するための使いやすい器になるのである。
 こんな意味から、興味のある場所の紀行文を読むことが好きなのだ。紀行文を楽しく読む最大のコツは、著者の体験を自分の体験のように「感じる」ことである。ありったけの過去の体験をつかって、著者の記述を自分の経験だったかのように勘違いしてしまうこと。上手な紀行文はそれが簡単にできるような配慮がなされているものである。

 恩田陸さんの文章は読みやすい。ならば紀行文も読みやすいだろう。確かにそうだったが、一方で期待外れなところもあった。というのは、思索がないことだ。それに、なんだかよくわからないような箇所が多数あり、想像のしようがないものがあった。あの場所へ行って、この場所へ行った。そういう記述ならば、むしろ無い方がいい。そんなことよりも、旅の途中のフッとしたことを語ってくれたほうがいいのではないかと思ったりした。
 あるいは、目の前に見えているものと頭の中で考えていることに直接の関係はなくていい。見たものを聞いたものをきっかけとして「思索」がはじまるようなもものを期待していた。あるいは、妄想が立ち上がり物語が始まるのでも良い。
 蚊に刺されたといったことは、その旅に同行したような印象を与えてくれる。水曜どうでしょうが面白い理由は、旅の車中でのどうでもいい会話を聞くことにあるのと同じあろう。まるで自分もそこにいたかのような「どうでもいい会話」が聞ける。ただし、これでは読んだ後に何も残らない。エンタメに徹するのならばそれでいいが、この本はどっちともつかずのまま不発に終わってしまったようだ。

 この本を読んで良かったことは、本文中にNHKの『未来への遺産』について言及してくれたところと、森本哲郎の愛読者だったことを教えてくれたところだ。ぼくも大の森本哲郎さんのファンである。その紀行文を読むのが大好きなのだが、なんと恩田陸さんもそうだったとは。なんともうれしい。それとNHKのDVDは早速アマゾンで購入して見たのが、本の中で説明しているように確かに素晴らしいできの番組である。
 とはいえ、どうもぼくの古代史の範疇に中南米は含まれてないようだ。全体的な感想として、どうも中南米の遺跡に興味は持てないままである。

2009年6月27日

1Q84 Book1, Book2

村上春樹
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 発売直後から売り切れ、普通の書店ではいまだに店頭に並ぶことがないくらいに売れている小説である。新潮社の情報管制というマーケッティング方法が成功したために、普段本を読まない人まで買っているのだ。村上春樹さんなの長編新刊ならば、なにもしなくったってベストセラーになるのは自明なのに、あえて売る側が目論んだ「嫌な感じ」の売り方。出版社はビジネスありきだからな、と少し残念だ。売れている理由のいくぶんかは映画になる『ノルウェーの森』効果かも知れないが。
 1000ページの小説など読むのは久しぶりである。通勤電車の中で読んでいたが、一週間かかってしまった。内容についてはネタバレするので書かないが、ミステリーというかサスペンスなのだろうか。明るいタッチの『ダンス・ダンス・ダンス』的なものではなく、かといって初期の頃の乾いた寂寥感満載の話でもなく、どちらかといえば『ノルウェーの森』の部類に入るのではないか。まぁ、小説であり、フィクションなのだから何が書かれていてもかまわないのだけど、通勤電車の中や晴れた土曜日の朝日を受けて輝いているベランダの花を見ながら読むような本では決してないだろう。
 読み終わった後、ドッと疲れがでた。これ、本当に日本人の100人に一人が読むようなお話なんだろうか、と疑問に思う。ぼくの意見は、もっとほかにあるだろう、だ。
 小説は、何かの事件を下敷きにして作家の思索を物語として表現したもの、という考え方がある。それはそれで、そういうこともあるだろうと同意する。しかしだからといって、この本が実際の事件を下敷きにしているとか、作家が言わんとしていることはその事件と関係があるようには思えない。
 この小説を読んで良かったなと思ったことがある。それは、本編の流れと関係がないだろうし、気に留めない人も多いかもしれない言葉である。それは人の習性の根深いところにある事実であり、この本でのように明確な言葉によって語られるのをこれまでに目にしたことがなかった。
 それは、人は自分の存在価値を高めるような社会の見方を「事実」として受けれ入るものだ、というような内容である。

 人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。

 Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人々を恨み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。

 なるほど、そうか。これだけのことなのだが、今までよくわからなかったことや自分の行動についてまで一気に理解できてしまう補助線だと思う。この言葉を知ることができたので、この本を読んだかいがあった。
 ベストセラーとして売れる本はつねに「今の自分は本当の自分ではない、ぼくはもっと価値のある人間で、ぼくこそがもっと幸せになるべきなんだ」ということを伝える話である。子供の間で人気がでるのはこのタイプの話である。ハリーポッターからガンダムまで、全部この類である。
 それがなぜだろうか、も理解できる。ついでに古代から紛争の元になっている宗教についても理解できてしまう。人の世界を理解するための素晴らしい補助線をぼくは得たのだ。
 この小説で印象にのこったのはこの言葉であり、それ以外の主題はテーマについてはとくにピント来なかった。ぼくが感心した言葉は、果たしてこの本の中においてどの程度の重要どを占めるものなのか、著者の意図を聞いて見たい気がする。まぁおそらく、あまり重要ではないのかもしれない。
 社会ではこの本の読み方なるものがゾクゾクと発表されているが、そんなもんあんまり意味がないのではないかと思う。なぜなら、これって小説であって思索を広めようとしているようなものではないだろうから。正解はないのに、成果を探っても仕方がない。TV番組でマイケルジャクソンさんの死因を解説しているようなものだ。
 こんなことを言うと文科系の人からはバカ野郎呼ばわりされるかもしれない。が、小説として成立しており、人によっては面白いと絶賛される内容であるが、だからと言ってそれ以上のものは含んでいないのだから(悪と戦うとか、父親からひどい目にあった子供たちだとか)、あれこれ無理やり解説する必要なんてないだろう。読んで面白けりゃそれでいい。
 書店では下巻のみが大量に並んでいることがある。つまりは、流行にのるために上巻だけ買う人が多いということだ。想像だが、上巻だけしか読まないのだとすれば、一体この本は何ナノだろうかと頭を抱えるのではないか。ちょっと心配になる。これが文学なのかと思ったら、そういう人は実にお気の毒なものだ。じゃぁ、下巻の最後まで読んだからといって、何かが良くなるわけではないのだけど。
 事前情報は知りたくななったので、1Q84の書評については全く読んでいない。だけど、一体皆さん何を評論しているのだろうかと興味がでる。


2009年6月10日

マンガは哲学する

永井均
岩波現代文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 マンガは哲学する。マンガはストーリが面白いかどうかだけを狙っているのかと思っていたが、確かにマンガの作者は哲学しているんだと知った。へぇ、そうなんだ。言われてみればそうかもしれない。そういう「深読み」もありだろうというのではなく、明らかに哲学的なテーマをマンガという方法で表現している人がいるのだ。


 マンガは子供のための娯楽と言われていた。そう言われ続けていた子供もオッサンになっているはずで、いまでも結構読んでいる人は多いだろう。その人たちは結局どうなったのだろうか。少年ジャンプのテーマは「友情・努力・勝利」だそうだが、そればかりを読んでいたらやっぱり単細胞な世界観しかないだろう。普段の生活においても、自分をマンガの主人公のように勘違いすることで楽しくすごすだけの人になるはずだ。それはそれで悪いわけではないのだが、現実と自分の関係を認識するのにマンガしなかいのは哀しい。とはいっても、教養のために本を読んだだけで、未消化な知識を振り回すインテリオッサンよりもいいのだが。

 もし、自分ってなんだろうか、に代表される答えのない問題を考えるきっかけになるようなマンガや、社会ってなんだろか、国ってなんだろうかを等身大の問題から考えることを教えてくれるマンガに出会った人は、娯楽小説ばかりよんでいた人よりは「哲学」を持っている可能性は高いだろう。マンガだろうが、小説だろうが、結局自分で考えることをすればいいのだ。そのための素材はなんだっていいような気がする。


 この本では、背景に「自分でゆっくりと考えてみる」価値のある問題を提示したマンガがいくつも紹介されている。マンガだけに、見ればわかるような形で表現されているのがよい。哲学の本は意味不明な記述で溢れていて、とても読めたもんじゃなぁい。素材の提示は分かりやすい方が言いではないか。問題はその後なのだから。

 そうかんがえると、大人だってマンガをよくよんでみる価値はあるのだろう。変な哲学の本を読むよりもずっとマシだ。ぼくも勉強してみるか、という気持ちで哲学書に何冊か挑戦したが、意味不明さに耐えられなくて読まないで終わった。当時から科学的なことは勉強していたし、日本語はそれなりに使えていたのだが、読んでも意味不明だったのだ。そのわからなさに絶えて読み続けたとしても、結局は人の名前を列挙するだけでで終わっただろう。(今やってもそうかもしれない)。


 この本の著者である永井均さんの本は、たまたま読んではまったことがある。意味がよくわかる哲学の本だったので、専門書は無理だったけど、新書や普通の人向けの永井均さんの本を続けて読んだ。哲学を扱った本でも「意味明瞭」なものがあるんだと知って、結構うれしかったのだ。ただし、ぼくが興味を持って読みはじめたときに都合よく新刊がでるわけもなく、他の人の哲学本を読めるとも思えないので、それっきりになってしまった。

 永井均さんの本を文庫コーナーでたまたま見かけた。テーマはマンガとある。いくら普通の人にもわかることが書ける人だからといって、なにもマンガで哲学書をつくらなくてもいいではないか。ちょっと嫌な気分もしたのだが、まぁ買ってみた。ぼくの読みが浅はかだった。面白いぞ、これ。

 哲学書は言葉で表現する。何を表現するにしても言葉という制約がある。単語の繋がりで表現するとおそろしく複雑になるものがあり、表現している人がある種の諦めを感じてしまう。いわゆる哲学書の意味不明さは、そういう制約の当然の結果なのだろう。言葉がだめならば、絵を使えばいい。絵ならば表現できる。ストーリーならば論理もつくれる。だからマンガを使うのである。

 この本で紹介されていた藤子F不二雄のマンガに興味を持ったので、早速買って読んでみた。1970年という時代にシュールなマンガを描いているである。スピリッツだから読者層は大人なのだろう。ということは、当時から大人がマンガを読んでいたということだ。学生運動をしていた人の世代のマンガだからか、ずいぶんと哲学的なものを読んでいたのだアと関心する。まぁ、それは言い過ぎかもしれないが。


 要するに内容が理解できればいいのならば、そしてそれが大切なことならば、マンガでもいいじゃんということ。漢字に音読みと訓読みがあるという日本語表記のシステムはマンガに向いているのだということを養老孟司さんの本で読んだけど、マンガというのは哲学まで語れる。そして、それをやろうとした人はたくさんいたし、今もいるのだろう。なるほど日本のマンガが世界で売れるわけだ。


2009年6月 5日

ぼくの会話学校

森本哲郎
角川書店
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 森本哲郎さんの小説である。え、小説?紀行文でも思索でもなく? そう、小説。とはいえ、トレンディーなものでも、いわゆる小説家が書くような小説でもない。かなり古い翻訳もののような小説である。こんな感じの小説はこれまで読んだことがない。現代風の小説を読み混んでいた人だと、なんだか恥ずかしくて読み通せないかもしれない。小説の体裁をした絵本といえばいいだろうか。

 だからといって「おとぎ話」ではない。登場する人やストーリーは魔法使いのような幻想物語ではない。会話が下手、口下手な男が主人公で、これじゃいかんと思っているときに会話学校の広告を目にし、そこへ通うことにした。おしゃべり、とくに同世代の女の子と話しができるようになりたいという目的であったが、同級生やおかしな講師陣に翻弄されながら次第に会話というものを学んでいく。そういうストーリーなのである。珍しいわけでもひねりがきいているわけでもない。現実感がないキャラクターが幾人も登場し、そんな学校はねぇだろう、と感じるおかしな話なのだ。言ってみれば昭和のファンタジー。主人公は森本哲郎さんの若い頃なのかなと思ったが、実際はそんなことはないだろうけど。

 だからといって、つまらないわけではない。物語はリアルかどうかが大切なのではない。引き込まれるかどうかだ。スリルもサスペンスもロマンスもないから、寝る前にちびちびと読むにはちょうどよい。安楽である。実際、そういう読み方をした。なので読み終わるのにずいぶんと時間がかかった。それでも、森本哲郎さんの本なんだなぁ、と感じた。森本哲郎さんの旅行記や思索の過程を綴った本を読んだことがない人がどんな反応をするのか全くわからないけれど、ぼくにはいい感じがした本だった。

 ところで森本哲郎さんは実際のところ話し上手なのだろうか。この本で学んだことは箇条書きにまとめらないが、この本で伝えたいこと意図した方法は森本哲郎さん自ら得た教訓なのだろうか。冷ややかな目で見れば、その教訓を身に付けたからといって会話が上手になれるとは思えない。ヒントにはなるかもしれないが、所詮は技術だから実践を積んで、しかもそれらを楽しむようにならないと会話が上手になることはないだろう。そもそもマニュアルなどは成立しないと思う。この小説の登場人物は決して会話が上手になったとは言えないだろうが、自然と言葉をだすような気分は見つけているから、学んでいく道筋のようなものを示すところが本でできる最大限のところであろう。つまり、会話とはなんなのだろうかを思索することが本できる差一杯一杯のところで、それを越えてマニュアルのような説明をしはじめると哲学者がよくやる抽象的な言葉を積み重ねることになり、何をいっているのか意味不明になってしまう。だから、小説のなかの主人公が工夫していく様子を描くのが精いっぱいで、その程が小説になっているのだろう。

 これは主婦の友社の雑誌の連載小説だったようだ。昭和の主婦の読みものだったのか。なんだか安心した。買い物とエステといった、欲望を拡大させるだけの情報しかない雑誌しか日本の普通の主婦層が手にしないだろうけど、ちょっと前の人の人の関心事には、自分が何かをできるようになるということもあったのだ。そう言えば、森本哲郎さんの著作に、『ぼくの作文学校』という小説がある。この本とおなじような若者が文章を学んでいく過程の話である。きっと、一連のシリーズだったのだろう。


2009年6月 3日

ブルー・アイランド氏の クラシック質問帖

東京書籍
青島広志
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 三省堂本店

 表紙を見て買ってしまった。このオジサン、何度かテレビで見たことがある。早口なのに論旨は明解で、ともすれば難解にしゃべることが知性があることに勘違いしている解説者が多い文化教養評論家にもかかわらず、語彙も平易なものを使ってくれる。だから「わかりやすい」ので好きなのだ。

 音楽の解説というと、カッコつけたオッサンが知的っぽさを振りまくような物言いが普通なのに。どうして門外漢の人にはさっぱりのことを言うのだろうなといつも音楽番組の解説者を見て思っていたものだ。NHKなどその典型。それじゃぁ普通の人がクラシックに近寄り難く感じるのもむりないよ。

 一方で、このオジサンは逆。偉ぶるところなどない。自分が理解したものを明晰に順序よく語ってくれる。だから、あれ、ぼくにわかりそう、という印象を与えてくれるのだ。なるほど民放の番組でよく登場するのも頷ける。

 内容は普通の人がクラシック音楽に対して抱くであろうことをQ&A形式で列挙している本である。クラシックのコンサートに行くときにの洋服はどんなものを着ればいいのかといった具体的なものから始まっている。そういうことは「本質でない」という人もいるかもしれないけど、いざ自分で行動を起こすときにはこういう「つまらないことが障害となるのだ。そのことを著者はわかっているのだ。普通の人向けの音楽の本なんだな、とうれしくなる構成である。

 本文にはイラストがたくさん入っている。それらはすべて著者のものらしい。オジサンなのにこんなマンガを書くのか。見ているとこちらが恥ずかしくなるような稚拙さや嫌な感じがない。自分で書いた記事に自分でイラストをつけるのが好きなのだろう。趣味ではじめたことでも長いこと続けているとかなりの腕前になるということだ。へぇ、ぼくもやってみようかなと思ってしまう。

 クラシックを今の社会で盛んにするには、大勢の人にコンサートへ来てもらうことがまず必要である。マニアの数は限られているので、普通人を呼び込まなければならない。音楽といえば歌謡曲という普通の人たちにクラシックへ関心を持ってもらうには、普通の人に語りかける言葉を使える人が必要である。「おれは偉い」とか「教養」といったことを言外に述べるような人ではなだめだ。普通の人が疎外感を感じそうなところを取っ払うことにこの本は成功している。

 講義でなく質疑応答形式でも本は成立するのだ。ぼくですら飽きないで最後まで読み通せたのだから、退屈しな本だということだ。こういう方法は音楽以外の分野にも適用可能だろう。問題は、その分野にこういう人がいるかどうか。古典文学にもいないかしら。


2009年6月 1日

バチカン

秦野るり子
中公新書ラクレ
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 最初の数十ページにわたる概要がよくまとまっている。キリスト教の誕生についての古代ローマ、そこから中世への流れ。あっさりと読めて、むしろ驚いた。キリスト教についてのぼくの知識の源泉は山本七平さん、秦剛平さん、塩野七生さんたちの一般向けの本のである。何冊も読んで得たものがこの概要であっさりとまとまっている、とまではいかないが、それでも今まで読んだものを次々と思い起こさせてくれた。著者の説明力に感心する。ここだけでも新書ならば十分にペイしている。

 キリスト教でない人がバチカンにどういう興味を持つのか。いわゆる総本山的なものに対する怪しさと警戒感と、ちょっとした興味というところだろうか。ぼくはこれまえ宗教の教えを信じなければやっていけないほどの不運な目には合わないですんでいるので、バチカンに本気で参拝している人の気持ちは全くわからない。

 東洋から来るお上りさん(観光客)と同じで、美術品や建築が目的である。バチカンが「国」と言われてもピント来ない。これが国です、となるのならばディズニーランドだって国でいいじゃないかなどと不謹慎にも思ってしまう。しかし、そこは純然たる国であり、各国の外交手腕が試される場所でもある。

 へぇ、じゃぁどうやって運営されているのだろうか。その存在そのものが歴史の生き証人なのだから、運営方法は歴代経営者の工夫の産物であるはずだ。どうすれば長生きの組織ができるのか、という興味を片手に読んだのである。

 結局のところ、バチカンも所詮は人がつくった組織であり、なんだか泥臭い世界のようである。とても聖人の集団ではないみたい。まぁ、そりゃそうなんだけど。ということで、2000年を生き長らえた工夫のようなものを知ることはできなかった。

 著者の文章はとても軽く万人向けで、新聞の日曜版のコラムのようだ。