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2009年7月28日

ハプスブルグ歴史物語

倉田稔
NHKブックス
お勧め指数 □□■■■ (2)

 ハプスブルグについて調べている。難しい本や事実の羅列だけの本はなかなか読み通せないので、入門書であり記述に一定の視点があるものを探している。

 読む前にどうやってそういう内容の本を探すのか。ハプスブルグについてよく知っている友人はいないので、インターネットでの評判か、過去読んだ本のうち面白いと思ったものの巻末にある参考文献をみて探すよりない。アマゾンで「ハプスブルグ」で検索し、その評価をみて選んだ一冊としてこの本がある。

 歴史書を書くには、人に着目する、時間順に出来事を書く、地政学的に成り行きを解釈するという方法が挙げられる。世界史に場合、地政学的な視点が欲しい。なぜそんなことが起きたのか。この疑問について最終的な回答の骨子は環境適応になるであろうとぼくは思っている。

 ハプスブルグは歴史の一とピックにすぎなくとも、そんな構成は可能であろう。「それはなぜか、どのようにして実現されたのか。」こういった問いを感じない歴史の本は面白くない。同一のテーマを扱ったらでてくるであろう安直さはこの本にはない。しかし、テーマは同じだから仕方ないが、どの本でも書いてあるようなことばかり書いてあるような気がする。

 読んでいるときに気をつけたことは、著者はどいうところに立って何を知りたがって、結局何を知り得たのか、である。ただ、この本ではそれが今一つはっきりしていない。その意味で実はあまり良い本とは思えなかった。NHKブックスには良い本が多いと思うが、最近の新書と同様に玉石混合になってきたのかもしれない。選書にもおいそれと手が出せない。NHKブックスだからということで購入したが、なかなか厳しい時代になったものである。
 

2009年7月25日

青春ピカソ

岡本太郎
新潮文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 岡本太郎さんのしゃべりは長嶋茂雄さんと同じようなものだから、言葉が表現手段である著作は読めたものではないだろうと思っていた。が、読んでみるとその語り口はいたって分かりやすく、知性を感じられるものだった。

 普通の人が抱く岡本太郎のイメージは、晩年のテレビCMをみた映像作家たちが、偉大な芸術家の偶像として作り上げたキャラクターを演じさせていたのかもしれない。なんだ、ちゃんとした、立派な人じゃん。

 この本では、岡本太郎が若くして留学したフランスでの経験を語ったものである。芸術とは何か、どんな芸術に感動するのだろうか。そんな芸術の対象としての絵画に目覚めた様子と、その街で出会った真の芸術家像であるピカソについて語っている。

 絵画に感動して涙を流す。そんなことあるのだろうか。よくわからない。絵を見てすごいなぁと思ったことはぼくにもあるが、涙を流したことはない。岡本太郎さんも初めはそうだったようだ。

 フランスのルーブルでみたセザンヌに感動し、いいなぁと思ったのが始まりだそうだが、涙を流して歩いて帰ったのは、ある画廊にあったピカソの絵が原因だった。

 ピカソの絵が名画だといわれるが、一方で普通の人が名画だとは思わないだろう。岡本さんの解説を聞いても、なるほどそうかもしれないが、だからといって自分もピカソを好きになってしまうことはない。

 どうしてそうなのか。その理由をぼくは知っている。体験として知っているのである。それは、どのくらい絵を見たのかである。つ多くの絵を見ると自然と「カテゴリー」分類するようになる。単純には好き嫌い、いい感じ、もうひとつ。そいう感情的な反応が集積して、自分なりに「良い悪い」という判断基準ができあがる。そして、自分の経験のなかで見ることができる絵の種類は限れているので、でき上がった判断基準も限られることになる。そこに、これまで内容な絵を見るとどうなるか。判断ができない。どうしていいかわからないという混乱が起きる。その混乱を勘違いすることで、感動になる。

 まぁ、そんな見解はどうでもいい。岡本太郎さんの言う芸術とは、おそらく泣いてしまうようなくらい感情を震わせるものなのだろう。おそらくそれは、美ではない。そんなことをぼやっと思った。

2009年7月22日

世界が愛した日本

四条たか子
竹書房
お勧め指数 □□□□□ (5)

 自分でもびっくりするくらい泣けしまった。10ページ毎に涙が溢れそうで、読むのを中断するしかなかった。何せ、読んでいるのは通勤電車の中だから、へんな乗客になってしまう。とはいえ、誰にも迷惑をかけていないのならば、べつのどうだっていいような気はする。

 pya!というサイトでフラッシュの映画をみたことがある。明治草創期にトルコの船が日本近海で沈没し、それを周辺の人が総出で助け、生存者を軍艦でトルコまで送ったという事件。その後、この行為のお礼が湾岸戦争のときにイランから脱出し遅れた人に対しての突然トルコ政府からの支援という形で行われたというものである。人類の行為として、時間が経っても朽ちない感謝の連鎖というものにぼくは感動してしまうのである。

 この話がこの本の冒頭にあった。その他にも杉浦千畝のビザのことがのっている。ナチに捕らえられる前に日本経由で国外へ脱出するためのビザを個人の判断で発行し続けたというものである。シンドラーのリストのようなもの。

 この本のタイトルにある「世界」は文字通りの世界ではないかもしれないし、愛されているというわけでもないかもしれない。それでも、日本にも個人としてまともな判断ができる人々は結構いるなぁとあらためて感心する。それはどの国であっても同じだろうが、こういうことがきちんと報道されないし、また、教えられないからこそ、こういう本の役割は大きいだろうなと思う。ある種の司馬遼太郎が書く世界を外側から覗いたようなものだと思えばいいのかもしれない。

2009年7月20日

大麻ヒステリー

武田邦彦
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 武田邦彦さんといえば環境問題、とくにリサイクルを論じる人だと思っていた。が、大麻についての著作があった。何でまた麻薬について語っているのだろうか。この本のタイトルが何かを主張しているようでもある。興味にまけて購入したのだが、多少無駄遣いの感もないではない。

 一読して納得した。要するに、大麻=麻薬ではない。にも関わらず、最近多くの人が大麻草の扱いによって吊るし上げられている。それを見ちゃいられなくなった。そんな動機からの執筆のようだ。ホント、マスコミの報道が多いから最近。

 この本で著者の考える過程を見る事で、「考える技を見つけた人はどうやって主張するのか」を学べた。疑問から仮説をつくり、それを現実に照らし合わせて検証する。口では流暢に行程を説明できるけど、経験が豊富な人でないと実際に実行できないであろう。
それに、世間で流布している主張には根拠がないことや誤りが多いことを知っている人でないと、あえて実行する動機がないだろう。

 科学を身に付けた人が社会にどんだけ正当な提言ができるのか、その凄さにあらためて感心した。現実をきちっと把握できる科学者の数がその社会の今後を示している。そう考えても大げさではないだろう。決してマスコミ報道の量はその国の知性の指標にはならない。

 最近は麻薬関係で逮捕される有名人の報道を多く耳にするが、そのうちで大麻がらみで逮捕される人についてはもうちょっとなんとかならんのだろうかという疑問をこの本は発してる。現行の法律で大麻草を所持しているだけで逮捕されることになっているが、近代史をちょっと振り返えり、そして普通に考察するにつけ、大麻草くらいでその人の人生を全損させる必要があるほどの犯罪なのだろうか、という提言なのである。そして、否、そんなことはない、が結論。

 大麻草というものは戦前の日本には普通にあった植物だそうだ。麻がつく地名には、大麻がたくさん樹勢していたということだそうだ。

 一口に大麻といってもいろいろあり、日本にある大麻からはそもそも薬物成分がとれないそうだ。それに、大麻の薬物成分は身体に残らないということだ。タバコの方が問題だろうし、交通が激しい街道沿いに済んでいるこがよっぽど身体によろしくない成分を吸い続けているのだろう。

 いわゆる「常識」には、歴史的な理由によって誤りがあるものである。それが生きていく上で不利になることもある。それに気づき、その妥当性を判断するためのプロセスはこの本での著者のような方法を使うのだろう。科学的な思考をマスターするってのは、生きていく上で有利なんだ。よくわかった。

 とはいえ、それが世間の常識にあらがうものであれば、一悶着しないではすまない。社会を変えるための方法としては、扇動や恐怖を利用するほうが効果が絶大なのも事実である。

 地球温暖化もこの大麻問題のように、科学的根拠からの提言ではなく、政治的なアジテーションが科学を装っている。そういうのからどうやって距離をとればいいのか。まぁ、この著者の本をもうちょっと読み込んでみよう。

2009年7月16日

その「エコ常識」が世界を破壊する

武田邦彦
青春新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
bk1

 ecoという活動に対してのぼくの感想はは、基本的に武田邦彦さんの本から学んだことがベースにある。だから普通の人が抱くeco活動については疑問を抱いている。

 マスコミの呼びかけというものは、そのまま信じるとろくなことにならない。それは歴史も証明している。例えば夜のニュース番組を見ればいい。不思議な主張をそれぞれのキャスターたちが真顔でしている。物事の背景をちょっとでも自分で学べば、あるいは述べられていることに対する根拠を自分も探してみれば、あるいは、自分がよく知っている分野の状態に対する解説と提案を聞けば、ニュース番組をみるために自分の限りある時間を使うことはもったいないと感じるだろう。

 この本を読むと、事実を知って驚くと同時に嫌な気分を味わうことになる。そしてそのほとんどは役所とマスコミに対する不信感と嫌悪感になる。自衛のために学ぶことは必要だと思うが、一方でなにも嫌な気分を自分から進んで味わう必要もないだろうにという気分もする。

 いわゆる普通の人が始める「eco活動」の代表的なものに、ペットボトルの分別回収とレジ袋の廃止がある。ぼくはこんなことをやらない。ぼくはマイカーを使っていない。それだけで、マイカーを持っている人と同じ事をやる必然を感じない。自動車のガソリンのような高品質な石油生成物を使えば、いったいどのくらいのレジ袋ができるのだろうか。マイカーで五十キロも走ったら、ひょっとしたらレジ袋一生分くらいあるかもしれない。そう考えると、ペットボトルとレジ袋をどんなにリサイクルしても無駄だと感じるのだ。トータルの節約でいうのならば、自家用車ナンバーを持つ人がまずやればいい。

 普通の人ができるCO2削減方法はない。そう武田邦彦さんの著作にある。国のレベルで初めて意味をものを個人でやっても意味がない。工学という学問を学ぶとその感覚になっとくがいく。なにか良いアイディアを出したときにまず検討するのはエネルギー密度である。このオーダー計算(だいたいの量の計算)を行い、アイディアをふるいにかける。そして、たいていのアイディアは残らない。この観点から言えば、エネルギーを大量に使っているところに処置をすることがなによりも大切であって、一般家庭が束になってやっても効果がない。本当に削減するのならば、石油の値段を倍にすればいい。生活が苦しくなるはずだが、それで一発で削減できるはずである。マイカーに載っているひとが口うるさくレジ袋ゼロ運動をやっいたりする。そもそも、レジ袋を使わない運動を促進する人は、マイカーを乗り続け、クーラーをつけ付ける。自分が嫌な思いをすることは、実はやらないのである。いわゆる普通の人とはこういう人なのである。何かができるわけではない。

 本当に何かをするためには、個人の努力などを期待しても仕方がない。人にやらす事しか頭にない連中が、ガンなんだよなぁ。そういう落ちなのだ。果たして、どれくらいの人がそのことに気づくものなんだろうか。

2009年7月14日

スティーブジョブズ成功を導く言葉

林信行
青春新書INTELLIGENCE
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 スティーブジョブズについての本は最近何冊も出版されており、ぼくも何冊か読んでいる。有名な言葉やエピソードが数多くある人でも、さすがに何冊分もの本にはならないだろうから、この本で語られるであろうエピソードはすでに聴いたことがあるものばかりになるだろう。なのにこの本は新刊だからといって買ってまで読むべきだろうか。普通ならば読まない。しかし、著者が林信行さんならば、さすがに自分の本と重複することは書かないだろうし、新たに出版する意味がある切り口が見つかったから新刊で出したのだろうと思うから買ってみた。

 面白い。ジョブズのことを書いているのに、なんだから人生論になっている。というか、これは林信行さんの人生論なのだろう。その題材はジョブズのエピソードと言葉から取ってきている。確かにジョブズには感動的な実例にはことかかない。ただし、著者に冷静さがないと教祖礼賛におちるが、この本はそうではない。あくまでも理想的な生き方の一つとしてジョブズを探っており、それを読者に語りかけることで止めている。下手な人生論よりジョブズの名言集ということである。

 カリスマはカッコいい方がよい。若い時よりも中年の渋さの方がよりカリスマ性が大勢の人に受け入れられるだろう。若々しさよりも、きれい事よりも、スマートな探究者として多くの人のロールモデルとなれば、崇めることよりも目標となる。ところが日本でのカリスマは、「俺は偉い」ということを示す人だったりする。その違いは注意が必要だ。外見的には偉そうにしようとする、他人を威圧する、そういう態度や言葉を取りがちだから、よくみればすぐに見分けられる。具体的にはその人が誰を見ているのかをみるのである。日本のカリスマは周りの視線をつねに追っている。

 何かを目指した探究者の目線は外に向けられている。その人を見ていると自然にこちらの視線もその先にあるものに向けられる。そして、そこにはいわゆる理想的な物が見えてくる。理想は人によって様々だが、その先にあるものは言葉で表現されることが多いので、見る人それぞれが適当に思い浮かべることができる。ならば見ている人みな楽しい。ジョブズにはそれがあるようだ。

 ジョブズの言葉にはなんだか仏教的な響きをもつものがある。それが仏教に由来するものなのか、どんな社会でも似たような言葉が存在するものなのかはわからないが、例えばこんなものだ。今日が人生最後の日だとしたら、あなたは「それ」をするだろうか?と自分に問うてみる。この言葉はスマナサーラ老師の本で読んだことがあるので、おそらおくは釈迦の言葉にもあるのだろう。一方で、レオナルド・ダ・ビンチも「一日の良き過ごし方」について似たようなことを言っているので、ヨーロッパにも古くからあるのだろう。だから、どこの世界にもあるのかも知れない。

 知識としての格言をたくさん知っている人はたくさんいるけど、実際にそれらを行動に反映させたことがある人は少ないだろう。今日が人生最後の日ならば、という行き方もじゃぁ実際にやっているのかと言われるとほぼ全員やっていないはずだ。実践しない格言など知っていても意味がない。他人に説教するだけの道具でしかない。それはジョブズだって同じことだ。

 とはいへ、ふつうの人の利用方法は、365日そうするのではなく、ここぞというときに実践するというものだろう。この本にはジョブズのそんなエピソードが紹介されていた。今の奥さんとは、スタンフォード大へ講演か何かで行った時に知りあったそうだ。感じのいい人だと思ったのだけど、その日はビジネスミーティングがあるのでそうそうに帰る必要があり、駐車場のところまで行ったのだが、そのときに言葉が頭に浮かんだそうだ。今日が人生最後の日ならば、ビジネスミーティングよりもあの女性と食事でもするべきではないかと。なぁるほど、しかしそれって格言をもっていると胸を張って言えることなんだろうかと躊躇するのだが、ぼくは。

 ジョブズは技術者ではないし、デザイナーでもないけれど、みんながどこへ行くべきかその方向を示せる「ディレクター」ではある。そして、それを実現させる実際的な組織の経営者でもある。さらにそれを「かっこよく」できる。日本で紹介されるカリスマ社長はくちでは色々いうけれど単に高価な服を着ていることがおしゃれだと思っているオッサン経営者ばかりに見える。ビトンのバックを崇めている女子高生と中身は同じなんだろうなぁとぼくに教えてくれているような人ばかりだ。そこいくとジョブズの存在は、ぼくのようなオジサンにも憧れるような人であり、そういう人がいてくれてとてもうれしい。ただ、じゃぁ、ぼくも三宅一生の黒いTシャツを着ようとか思ってしまうところが、ぼくのダメなところ。あの出で立ちはアップル製品のテーストそのものであり、ジョブズこそアップル製品の一つのイコンなのだと納得するのである。


2009年7月12日

世界の旅ぼくのおみやげ図鑑

森本哲郎
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 2005年に刊行された森本哲郎さんの旅行みやげ物の図鑑。いろんなものがあるが、それはみな実用品ではなく観賞品である。写真つきでそれらを購入したときの思い出がエッセイで綴られている。エッセイであっても、かならず文明論とリンクしているところが森本哲郎さんの本なのである。おみやげものを前に文明を思索できるなんて、なんて幸せな能力なのだろう。うらやましく思いながら読んでいると至福の時間を過ごせる。世の中にあまたいる哲学者や文明批評家は机上の空論の世界の人であるが、森本哲郎さんは文字通り世界中を歩いた人であり、だからこそ書き得るエッセイなのだ。この本の出版は森本哲郎が80歳のときのものである。ぼくが昨日まで読んでいた1970年代の文章ととくに変わったところはない。年齢というものが文章に存在していない。森本哲郎さんの思索があるだけ。年齢不詳になれるのが、文章を書くことの素晴らしさの一つなんだと納得する。

 数カ国でいいならば普通の人は旅行したことがあるだろう。ぼくもある。しかしお土産というものをあまり買わないできた。逆に、実用品ではないものを買ってしまう人を「旅慣れていない」と見下してしまうところがあった。だから手元にはデジカメで撮影した画像ファイルがたくさんあるだけ。手で触れることができるおみやげ物は数少ない。これがスマートな旅行なのだと思っていたが、実は間違っていたようだと気がついた。なぜなら、旅のことを思い出すには、いちいちパソコンを立ち上げる必要があるからだ。それがおっくうになったり、ファイルがどこかへ消えてしまったりすると旅の記憶が風化してしまう。いくつか手元に物体が残っていたら、そんなことにはならないだろう。

 初めて海外旅行に行ったときは無分別にいろいろとおみやげを購入した。置物が多かった。自宅に戻ると置き場所にこまった。陳列棚などを用意できないし。かさばるだけで面倒なものだ、これは無駄遣いだったのだと反省し、それ以後あまり買わなくなった。しかし、この本を読んで見ると、この分別がぼくの人生を実につまらないものにしてくれたようだ。ちょっと値段がはっても、品質が良くなくても、おみやげものを買うときに躊躇してはいけない。品質などおみやげものの「機能」とは関係がないからだ。
 おみやげものは自分の記憶のタグである。物質として存在するおみやげものならば、それらを見たり触ったりすることで購入したときのことを鮮やかに思い出すことができる。そのときの旅の行程など忘れてしまったとしても、みやげものを買った店やそのときに気温やどうしようか迷った気持ちなどはすぐに蘇ってくる。不思議なことだ。おそらく、お金を払って買ったから印象深いのだろう。しかも値段が高くて悩んだときほどその心情まで鮮明に覚えていたりする。そして、それが記憶のタグとなり、その前後のことを記憶の底から引っ張り出してくれる。そうそう、あのときはこんなことがあったのだと。写真もよいが物もよい。結局、生きているうえで身に付けられるものは生きてきた記憶だけなのだとすれば、おみやげこそ大切なものだ。生活の利便をはかる機能など全く必要ないではないか。

 この本を眺めていたら、ここ15年くらいの旅でほとんどみやげを買っていないことに気づき、ひどく後悔した。なんで土産を買わなかったのだろうか!! 他人に「なんでそんなもの買うの?」と言われても、全部無視しなければならない。どこへ置こうか、などと考える必要はない。置くところは工夫すれば必ずある。しかし記憶は失ったらどうにもならない。みやげものがあれば(それはなんでもいい)記憶どんどんたぐり寄せることができる。そして、それこそが本当の人生の資産なのだ。みやげものを買わないほうが一見旅慣れたスマートな振るまいに思えるが、自分の記憶を過信しすぎた愚かな行いだったと後々後悔することになるだろう。食べ物は消えてしまうが、使い道がないおみやげものでも「これはいい」と思ったものを苦労して手に入れること。これが旅を自分の人生の資産にするコツだと言えるのだろう。

 ぼくの手元にはソクラテスのミニチュア胸像がある。アテネに行ったときに小ぶりのものを購入したのだ。普段ならば買うことはなかったはずだが、森本哲郎さんの何かの文章で、書斎の机にはアテネで買ったソクラテスの石像の土産が置いてある、というもの読み、いいなぁと思ってマネしたのだ。アテネに一泊だけしたとき何はさておきソクラテス像を探して回って買い求めた。
 お土産物屋に群がるのはバカな人がやることだと思っていた。が、そう思っている人こそ旅について考えたことがないのだと悟った。旅は結局ところ人生の思い出を作ることであり、そのために記憶のカケラを必要とする。ならば旅先でお土産物を見て回るのこそ王道なのではないか。その店が老舗でなくとも、露天商でもホテルでも空港でもいい。どこだっていい。じっくりと見て買う。土産物屋で身銭を切る分、無感動に観光をつづけるよりも記憶が鮮明になるのだ。

 なんだか旅にでたくなった。土産物屋を漁って見たくなった。よし、今年も旅行に行こう。そして、じっくりと土産物を見て回ることにしよう。アテネとイタリア、そして南フランスあたりがいい。各都市に2日くらいずついて、うろうろし、土産を漁る。ワクワクしてきた。こういう気分にさせてくれるから森本哲郎さんの本は大好きなのである。

2009年7月11日

あしたへの旅

森本哲郎
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 小宮山書店ガレージセール

 気がつくと森本哲郎の本を読んでいる。それも古い本。古びた本だとブックオフには並ばないので、神田にある古本屋のワゴンセールス品の中から見つけてくるか、アマゾンマーケットプレースかで手に入れる。偶然に出会うとその日は一日ニコニコできる。

 この本の内容は旅での思索である。巡る場所は有名な観光地のときもあるし、60年代、70年代ではおいそれとはいけなかったような中東やアフリカの街のこともある。今ではマラケシュやカサブランカといった場所は森本哲郎さんの読者であるぼくには気がしれた場所になっている。フランス語ができないから、実際行ったらひどい目にあうだろうけど。それでもダマスカスの宿や砂漠を走るバスのなかで風景を見ながらぼんやりと考える、なんてことはいつかはやって見たいのだ。森本哲郎さんのように、そんな場所で歴史であり哲学や文明論をずっと思索してみたい。
 森本哲郎さんの語る知識は、教科書や学者の書く本から学んだに違いない。しかしそれを森本哲郎さんが語ると普通の人のなじめる言葉になっているから不思議である。哲学とは自分で考えることであるから、考える人が旅という現実の中で行動していさえすれば抽象的な結論などはでてこない。そして、その結果を旅の風景からの連想によって読むことができる。旅での風景やその街の空気を感じながらの言葉には、ある種のルポルタージュ感がある。現代では行きやすくなった場所もあるし、逆に紛争地帯になって入れなくなったところもある。そんな場所を思い出しながらの書斎にて執筆しているのだろうが、それを読む愉快さは森本哲郎さん以外の本では読むことは不可能なのだ。どうしてだろう。

 何かを考えるには、それなりのきっかけが必要である。妄想にだって必要だろう。森本哲郎さんの旅は、そのきっかけを見つけるための行為といえるかもしれない。文献では気づけない「その土地の人の生活」のなかにあるものを求めているのかもしれない。旅先では感受性の感度はギリギリまで高まるだろうし、世界史も世界文学も頭の中にあり、英語とフランス語が日常会話レベルで話すことができれば現地で弾き出せる情報量は普通の人の観光旅行よりも遥かに多いだろう。なにせ、現地の人と話せるのだから。
 この本では、旅の途中で日本の精神とドイツの精神とを探っている。日本については宮本武蔵を例に考察している。ドイツについては、ヒットラーとヴィトゲンシュタインを対比させながら考察している。どちらも最近の雑誌には掲載させることがないようなレベル話である。一昔前は、こんな記事が普通の雑誌に載っていたのかと思うと、なんだか変な時代に生まれたものだと感じてしまう。ただし、この本は旅の本なので、この考察は旅に出たときに感じる「日本とは」とか「ドイツとは」という思索の一つに過ぎない扱いなのだが、対比列伝のようなものがあると近代史も興味深く読めそうだ。

 旅の思い出を綴るのは、自宅の書斎であろう。緊張感などはもう記憶の中であり、感じることは難しいはずだ。それなのに、この本での思索はその場所でなされているような気がするから不思議なのだ。思索についても、書斎で膨らませて図書館で資料を確認したりしているのはと想像する。だから、実際の旅以上に実りの多い旅行記になっているのであろう。こんな旅をして見たい。ハラハラどきどきや冒険などは他の人に任せておき、ぼくは思索の旅をして見たいものだと未来に思いをはせるのである。


2009年7月10日

ブッダが教えた本当のやさしさ

アレボムッレ・スマナサーラ
宝島SUGOI文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 やさしさとは何か。哲学や宗教の面倒な用語なしで解説すると誰にでも簡単に理解できる。なんだ、そういうことか。考えて見れば当たり前ではないか。要するに、自分の望むことをしてくれる人をやさしい人と読んでいるだけなのか。自分が正しかろうが悪かろうか、多数派意見だろうが少数意見だろうが、自分の望むような行動をとってくれることを「やさしさ」と呼ぶのだ。実に簡単なことである。
 やさしさの意味がわかると、やさしさは本当に人にとってプラスのことなのかという問いが頭をもたげる。というのは、人のエゴを許容する環境がやさしさなのだと言えるから。たわいもない要求ならば問題ないのかもしれないが、エゴは必ず成長し、本人にも制御できない欲望へと成長する。やさしさに慣れた人はいずれやさしさが感じられない状況に飲み込まれる。「わがまま」のクセが生きるのに障害となるくらいまで成長してしまったら、もはや本人に為す術がないだろう。つまり、やさしさになびいた人の末路は、破滅になっているわけである。となれば、やさしさを推奨する行為は親切なことなのだろうかと疑問になる。

 スマナサーラさんの本は、漢字だけで構成される仏教概念をもちださないで仏教の神髄を説明してくれる。だから、ごく普通の人にも仏教の知恵の断片の良さを理解できる。スマナサーラさんの本を読む限り、仏教は「宗教」ではなく、「哲学」や「思想」というカテゴリーの活動である。なぜならば、そこには「教義を信じる」という行為がないから。信じるものが救われる、という態度がまったくない。仏教とは、真実とか正義とかに無縁の、いかに気分よく生きていくかという生き方論なのだ。
 この本は大変読みやすい文庫本である。小学生高学年にすら、すらすらと理解をもとめることができるだろう。もっとも、書かれた言葉を理解できたとしても、スマナサーラさんが意図したことを理解できるかとなるとわからない。というのは、理解するためには苦労を体験していないとダメだろうし、言われたことを「自分でできる」状態にないとダメだろうから。やさしさとは何かを理解するには、すくなくともこの本で定義されているやさしさを求めたことがあり、それを自覚したことがあり、それにひどい目にあった体験がないと「なぜそんなことを考えるのか」理解されないだろうということだ。それに、やさしさというものの怖さが理解でき、それを必要としないような考え方を望むようになり、その実践がこの本で示されたとしても、だからといってそれが自分で実践できるわけではないだろう。理解と実践とは次元が異なるから。どんなによい提言であっても、やって見ないことにはどうにもならない。

 スマナサーラさんの本はどれもわかりやすい。読んだ時はもやもやした気分の原因を掴むことができるのでさっぱりする。ある種のシャワーを浴びたようで気分がよい。気分が塞いだときには是非読むと良い本である。しかし、だからといって、読んで理解しただけではスマナサーラさんの言うような考え方、感じ方はできないのである。何冊読んでもそうである。
 イライラしたり、腹を立てたり、疑心暗鬼になったするのは非常に辛いことである。そんな状態からは一刻も早く逃げ出したい。そのような気分はすべて感情でしかない。嫌な気分は物理的実在ではないのだから、自分の気持ち一つで完全消去できることも知っている。げんに、少し冷静になれれば「そんなことは考えても感じても無駄なことである」という発想は浮かんでくる。ならば、あとは嫌や感情が発生するまえにエゴをいかににコントロールするかが勝負である。

 優しさは誰にでも求められている。社会においてそれを耳にすることは多い。しかし、他人の思った通りに自分が行動することがなぜ推奨されるのであろうか。困っている人がいたら、こちらが困らない範囲で助けてあげる。自分以外の人もうまくいくように願ってあげる。それだけでいいではないか。それはこの本の結論であると考える。そして、それは数あるスマナサーラさんの著書は同じ結論になっている。他の多くのことがらを扱った本の結論とこのやさしさを扱った本の結論が同じなのだ。ならば、なるほどスマナサーラさんの説く考え方を身に付けることは、生きていく知恵としていきなり自分を助けてくれるのだろうなとうなずける。


2009年7月 3日

ウェブはバカと暇人のもの

中川淳一郎
光文社新書
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1

 書名から想像するのは、「おれって凄い系」の人を罵倒する話だ。だから買うのに抵抗があった。しかし、中身を読んでみたら言葉も出ないくらい感心してしまった。うん、頭のいい人はネットにもちゃんといて、ちゃんとしたことを人にわかる言葉で発言してくれているだ。ただし、そういう人が「ちゃんとした」社会貢献を仕事としているわけではないみたいだけど。著者はネットの人なのだから、こういう話はネットでしてくれてもよさそうなものだ。しかし現実には著者が主張されているように、ちゃんとした人はネットを読まないでお金を払って本を買うだろうから、著者が言いたいことを理解してもらうためにはネットよりも出版のほうが効果的なのだろう。不思議なものである。
 本書の主張は、要するに、繋ぎっぱなしにできるインターネットの大多数のユーザーは地上波テレビと同じで、バカか暇人であり、その目的は暇つぶしなんですよというもので、書名そのものである。それで尽くされている。この本を読んだ後であらためてそう言われると、そう頷くよりない。

 ところが、おそらくだが、こういう物言いだと普通の人は読んでくれないだろう。というのは、この書名に自信を持って対抗できる人は少ないだろうから。おれって頭よいといえる人はすくない。ひょっとしたら自分が罵倒されるかもしれない。そう考えるだろうから。
 この本でさすバカとは、勉強ができないという意味ではないからだ。単語の意味が最初に思い浮かぶものと違う。バカの意味を例えて言うならば、一時電車でよく見かけたドアの前にべしゃと座って人の出入りの邪魔していてもなんとも思っていない高校生のことだ。あるいは背広着て会社に通勤しているが「俺って凄い」という話を他に人も聞こえるように電車で自慢している社会人のような人だ。要するにうざったい人をさす。暇人も同様に、忙しく働くということをあえてしない人や事情によりできない人を指すのではない。実生活では他人と接点がなく、自宅でただインターネットを覗いているような人を言っているのだろう。これはぼくの解釈であって、間違っているのかもしれない。もっとも、こうして読書メモをちまちま付けているぼくような人間をずばり指していると言えなくもない。ちょっと不安ではある。

 インターネットを使う人はバカみたいに増えた。携帯電話なども考慮したら、日本人全体だ。となれば、使っているほとんどの人は「優秀」でも「劣悪」でもない普通の人のはずだ。この「普通」という段階は実に色々な人を巻き込んでいる。日本語の読み書きは問題なくできて社会生活も普通の営めるが、「自分のことを正しい人で自分のみなマネするべきだ」と疑う余地なく思っているタイプの人が多数含まれる。そして、この本の主題である「バカ・暇人」と呼ばれる人は、基本的にはそういう「正しい指摘をネット上で行う模範的な常識人」のことである。
 バカと暇人のものという言い方にかちんと来るかもしれない。ここで小学校の時の友達を思い出してみる。30過ぎになって振り返ると、その当時の同窓生達は学校の成績とは関係なく、幅広いキャラクターを持っていたと気づくだろう。大人になった今からその当時の友達を考えれば、高校、大学、職場にいる友達とかなり違うだろう。
 それは、学校に入学するごとに付き合いうる人が「フィルタ」されているからである。頭のいい奴もいるし、ぱっとしないのもいるし、おかしなやつもいる。それでも学校ごとにある範囲にある。ところが小学校や中学校だと今ではとても知りあいになりそうにもない人がたくさんいる。
 ネットで大勢の人が参加しはじめるとなれば、そこには自分の知りあいが多数やってくるのではなく、自分とは世界が違う人が大挙してやってくることを意味する。すると自然に拒否反応をおこす。それは相手も同様。つまり、大勢の人がネットに集まれば、その人々はほとんど「違和感のある人たち」なってしまうのだ。違和感は不信感にかわり、やがて「バカ」であり「暇人」という蔑視に変わっていく。そういう心理的な必然性があるのだとまず理解しないと話が見えなくなる。付き合わん出いい人に出会ってしまう確率が高いがネットであり、コメントやクレームを通じて、そういう人が近寄って来やすい。それを理解していないと、ネットはバカだらけと考えるようになり、自分が常識人だと信じ込み、ネットの人を教育しなければなどと考えてしまい、ネット中に「バカ・暇人」画結果的に溢れてしまうことになる。

 日本人の圧倒的多数は普通の人だ。ならばネット上にいる圧倒的多数も普通の人である。普通の人は他人に感心してもらえるような「作品」を生み出すことはできない。どんな分野においても、それなりに訓練しなければ第三者が気に入ってくれる作品を作れるようにはならない。絵や音楽ならば誰もが頷くはずだ。文章についてもそうなのだ。
 日本語くらい話せるし書けるのが日本人であり、識字率は100%と言っていい国だから、日本人ならばだれでもが文章を書ける。だから、だれもが書き込みやブログができる。問題は、だからといってそれは面白くはないし、興味深くもないということ。訓練よって必要な技術を身に付けていないからだ当然なのだ。この本では、「書く」ことにもそれなりの訓練が必要であるということを認めない人のことを「バカ、暇人」に含めて注意を促しているのだ。

 ここまで理解すると、この本で指摘されている人はインターネット時代に突然現れたわけではないと気づく。クレーマーは昔からいた。新聞の投書欄やテレビ局にクレームをかける人、あるいは、役所に文句をいう人(大抵は、自分の子供に悪い影響がでないよう社会を修正しようとする母親だったりすが)もそうだ。以前からいた人たちが、インターネットが盛んになったおかげでインターネットにもしみ込んできた、というだけの話なのである。そういう人に迷惑してきた人はこれまでのたくさんいたし、それがネット上の普通の人にまで被害が拡大したということなのだ。それを嘆いても意味がない。社会というのは、同類ばかりの人で満ちているのではないのだから。

 自然界の存在する「特質」というものは、ほぼすべて正規分布する。ほぼすべては普通のものであり、優れているものとダメなものは数が少ない。極めて優れたものと際編めてダメなものは極めて数が少ないのである。となれば、ネットを利用する人のある特質についても同じである。
 その分布は注目している「特質」ごとに異なる。例えば書き込みの内容からバカと判断されるとしても、別のことでは優秀となる人もいるだろう。面白いことを書けない人であっても、楽器の演奏は上手だということがあるかもしれない。ただし、これも経験則と一致するが、大多数の人はどれをとっても普通になるはずである。だからこそ安定した世の中になっているのである。食べ物を食べた後でそれらを栄養分にかえる能力という特質は全員できているのだから、生命として合格。生きていく上で、文章書きなどどうでもいいことだ。それが下手でもどうってことないだろう、という程度の違いである。優秀の人だけを集めて集団をつくれば、その集団のなかで分布が発生するために、その社会のなかで結局優秀な人と劣悪な人が生まれる。きりというものがない。優秀になるために生きているのではない、大切なのは、つまらない争いをどうかわすか。そして、それを理解している人は上手いこと逃げていく。

 この本を読み終えて、別のものが見えてきたような気がする。日本人のクセというよなものがネットを通じて垣間見得るし、閉鎖環境で生きている人々(例えば女子高のなかとかね)では、どんな陰湿ないじめがあるのか想像できるし、なぜ日本人がそろって太平洋戦争に突入していったのかわかるような気がするのである。