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2009年8月30日

黄昏のベニス

安野光雅
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 小宮山書店ガレージセール

 安野光雅さんの画集なのだが、全体を透して描かれているエッセイというか説明というか、ベネチアでのことなどの文章がさわやかで、絵を見ながらちらちらと読んでいくのがとても快感だったので、この本もメモとっておくことにした。

 安野さんの絵は淡い水彩画で、鉛筆?の下書きの線がふわふわしているところに置かれている水彩の淡い色合いがなんともやさしい。こういう水彩画ならば描けるかもなどと思って真似をしてもとても無理なことは、素人であるがぼくが自分で試して知っている。

 安野さんの文章はといえば、気取らない調子で現地でのちょっとした思い出が書かれていて、まるで安野さんが椅子に座ってこの絵を写生しているときに、その横に立って話を聞いているような気分になれるものである。絵を描きながら話すことならば難しいことや面倒なことや嫌な気分になったことなどが一切話されない。この絵につけるには一番あった文章である。

 とくにいいなぁと思ったのは塩野七生さんの『海の都の物語』からの話。安野さんはこの本をずいぶんと読み込んだそうだ。滞在先のホテルで忘れたこともあるが、そのたびにあたらしく買ったとか。

 ぼくもヴェネツィアを訪れたとこがあるので、絵を見るとヴェネツィア独特の雰囲気とうか空気というものが思い出され、ページをめくりながら自分の楽しい思い出の中をぶらぶらと歩いているような気分になれた。

 古本で150円程度でこの本を買った。ここ最近あった良いことので一番である。


2009年8月23日

大不況には本を読む

橋本治
中公新書ラクレ
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店

 実に遠回りな説明である。なにせ、1/3は本の話ではなく日本経済の話なのだから。大不況という単語は経済の状況を意味するから経済の記述があってもおかしくないが、著者は経済学者ではない。読者もそう思っている。だから読みはじめて大いに戸惑う。これって、経済の本だったけか?

 じゃぁ、その経済の話はつまらないのかといわっれば、そんなことは全くない。橋本治さんの理解を順に説明してくれるので、とりあえずは聞いてみようと思う。が、長い話になりそうだ。そう思って読んでいると、なるほど経済とはそういうことだったのかと感心するところが多くある。経済に疎い普通の人は今の条ッ今日をこう理解すればいいのか。専門用語、特殊な概念で煙に巻かれるということもない。下手にそんな単語を覚えると、自分でもわかった気になるところが怖いのだが、こほんは単語でななく状況を理解させてくれる。なるほど、この本は「あり」である。

 大不況になると本が売れなくなるらしい。不景気だから本屋も流行らない。お金を使うもの全てが売れない。一般にはそう理解されている。

 しかし、それはうそだろう。不況だろうが何だろうが、流行っている店はある。そういう店は「安くて品質がよい」ものを扱っている。食べ物でも洋服でも同じである。だから本だって同じはず。そもそも本は分厚い単行本ですら二千円しない安い商品である。文庫本は五百円以下のもの結構ある。それが売れないのは不況のせいではないだろう。問題は、本が面白くないことだ。あるいは、好景気でないと売れない本しか出版されていないことによるのだ。

 一理ある考え方である。ところで、好景気でないと売れない本って何? 「いるんだかいらないんだかわからない」ようなものがこのカテゴリーに当てはまるそうである。本もそう。なるほど。でも、それって何さ? どんな内容のことだろうか。

 橋本治さんによれば、本は「どう生きようか」ということを考えるときに読むものであるという。人生論だの哲学だの難しいことを言わないでも、いわゆる小説だって「どう生きるか」を扱っているはずである。となれば、大抵の本はこのカテゴリーに入るはず。経済状況によらず人は生きていくのだから、本だって景気によらずそれなりに売れるはずだ。となれば売れない理由は、どう生きるかに関係ない本が書籍売り上げの主流になっているからだ。

 最近の街の本屋さんはスゴイことになっている。行きつけの本屋が決まっているぼくは、めったに知らない本屋には立ち寄らない。が、それでも待ち合わせのために時間潰しで小さな街の本屋に入る事がある。そして、寒気がするのである。書店に並んでいるのは雑誌と背表紙が白い本ばかりだから。

 白い装丁の本は基本的に「実用書」である。何々の仕方。昔から定常的に売れるのだろう。いわゆる「知識」が本棚に並んでいると思えば良い。そして、そういう本は100%つまらない。こういう本を読んで「面白かった」などという感想を持つことはあり得ない。

 もし多くの書店がこんな感じの品揃えだとしたら、なるほど出版業界は不況の影響を受けるはずだ。そして今後はますます斜陽化するだろう。ネット情報はただだから、品質をとわないようなやっつけ仕事のために実用本を買う人は減る。それにこういう本屋で本を買っても「面白い」ものに巡り合えないだろうから、「本好き」の人は育たない。となると、今後も本を買う人は減る。売れないからつまらない本しか出版されなうなり、さらに本を買う人が減る。こういうデフレスパイラルのなかにあるらしい。

 しかし一方で、大型書店が近所にある人はそんな思いですむ。いろんな本を見て取れるから。とはいえ、最近の大型書店であっても例えば1Fの新刊展示の方法をみていると売れる白い装幀の本が増えつつあるようだ。ぼくのお気に入りだった八重洲ブックセンターも最近の展示替えでつまらな本が全面に展示されるようになった。本のデフレは本格的のようだ。

 読む本の傾向を少しずつでいいから変えていこうかと思っている。この先の社会、お金がなくとも「愉快」で「学べる」娯楽は読書しかないから。生きている間は感動する機会を増やしたい。それには歴史に耐えた「良い本」を自分なりにしぼっていきたい。


2009年8月15日

ウィーン

森本哲郎
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 ハプスブルグについて調べる必要があり、これまで何冊か関連の本を読んでみたが、これといってしっくりきたものはなかった。かろうじて加藤雅彦さんの著作が気に入ったくらい。さてどうしようと試案していたら、そういえば自宅に森本哲郎さんの『ウィーン』があったっけと思い出し、まだ読んでない本がつまれているコーナーの下の方から引き抜いた。ウィーンという都市自体にさほど興味はないが、森本哲郎さんの著作だからということで以前購入した本だ。ウィーンはマルクス・アウレリウスが没した場所であるし、そもそも古代ローマがつくった都市。ローマ史にも関係しているし、ちょっと勉強してみるかという気分で本書をめくってみた。

 この本はウィーンの観光案内ではない。ショッピングや博物館、絵になる場所が記載されているわけではない。まったくの森本哲郎本である。街を歩きながら、この街の歴史と地理を題材に思索。哲学、心理学、そしてパプスルブルグと戦争と。どの部分を読んでも森本哲郎さんの本なので、見知らぬ街を歩いたような気分になってしまった。

 興味深い話があった。ウィーンの哲学者ヴィトゲンシュタインとアドルフヒットラーの対比。両者は同時代の人であり、同時期にこの街で生きていた。ヴィトゲンシュタインはこの街の資産家の生まれ、ヒットラーはウィーンに近いリンツ出身で、若い頃にウィーンに来ている。両者ともに世界に大きな影響を与えた。ヴィトゲンシュタインは哲学という分野において、ヒットラーは戦争という分野において。この両者と同列に扱った例が他にどの程度あるのか知らないが、普通の人が興味深く読み通せる文章ということならば森本哲郎さんくらいなものだろう。人の世の不思議を堪能できる一編である。

 この本には森本哲郎さんが撮影した街の風景がいくつか掲載されている。プロの写真ではないが、森本哲郎さんの目からみたウィーンをぼくも見ることができる。印象深いのはウィーンのカフェ。広々とした店内にきちっとした身なりの給仕さんが立ち働いている。なるほどこれがウィーンの雰囲気なのか。この本の思索はこういう店内でコーヒーを飲みながら、タバコをくゆらせながら生まれたものなのか。森本哲郎さんの頭には歴史も哲学も文学も入っている。ぼくもこんな場所で思索してみたいなぁと思う。作家の恩田陸さんもそういう期待を持って南米を回ったみたが、全くダメだったみたいだ。当然僕も無理だろう。とはいえ、無理だとわかっていても、いつかそんなことができればいい。今からでもいいから勉強しているのである。中年になったぼくの夢は、あと十年したら森本哲郎さんのような思索が街の喫茶店できるようになること。そうなればお金はあろうがなかろうが一生楽しんでいけるはずだ。

 まだ何冊か読んでいない森本本がある。大事に読んでいこう。


2009年8月12日

日本にある世界の名画入門

赤瀬川原平
知恵の森文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 ブリジストン美術館

 八重洲にあるブリジストン美術館によく行く。年間パスポートがお得で、ほぼ毎週末立ち寄っている。喫茶店でお茶を飲むのと同じ感覚で絵を眺める。コローやモネの絵は眺めるだけで気分が楽になる。ルオーの絵は不思議な魅力がある。これといって何をすることもない休日の過ごした方としては最も気に入っている方法である。

 この本はブリジストン美術館で購入した。ぼくは美術愛好家ではないので、全国を渡り歩こうという思いはない。それでも数は少ないとはいえ、過去何度か出張したおりに各地の美術館に立ち寄った経験はあり、良い絵は意外なところにあったすることを知っている。へぇ、こんな絵があるんだ。そんな驚きは意外に面白いものである。箱物の一部としてバブル期に購入しまくったのだろう。この本は、そんな美術館にある絵をピックアップした紹介の本である。

 どのように絵を見るともっと楽しくなれるのだろうか。普通の人はその方法を知らない。ぼくもそう。そもそもそんな方法があるのだろうか。書名よりも著者を見てこの本を手にとった。赤瀬川原平さんならば教えてくれるかも知れないなと思ったのだ。

 ざっと読んでみた。赤瀬川原平さんがどうしてこの本で紹介される絵を好きになったのかについて教えてくれる。絵画の知識や技術を理由とせず、かといって理解不明な感覚にたよるわけでもない説明。なんとか普通の人が理解できそうな、絵の中での注目点を提示するという方法である。とはいえ、果たしてそれが成功しているのかといわれると、もうひとつの感がある。少なくともこの本を読んだことが理由でこれらの絵に興味を持つということはないのであろう。

 絵画の紹介。赤瀬川原平さんですら成功しない試みならば、おそらく不可能なことなのかもしれない。絵をみて、それをどう面白いと思うのか。そんなのは自分で考えるか感じるかしかない。感じ方にまで「正解」があると勘違いしてしまうところに問題があるわけだ。

 紅茶の観賞の仕方などあるわけない。あったとしても人によりまちまちで、多くの人が納得するものはないだろう。ある人が推薦する方法を他の人は絶対にやってはいけない方法とするかもしれない。人によって似ているところもあるが、正反対のところもある。ならば、方法というものが人から離れて存在するはずはない。良いも悪いもそれは方法にたする評価ではなく、人の感じ方の説明でしかないわけである。

 絵をどう見たらいいか。それも同じ。知識をつかって解析してもダメということは確かに思える。たくさんの絵を見ないとまとまった意見なり評価なりをするのは難しいだろうというところも同じ。


2009年8月10日

「常識」の日本史

井沢元彦
PHP
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 また出版されている。書店で見かけたら必ず買う井沢元彦さんの著作であるが、今回の内容もなんだか見たことありそう。徳間ではなくPHP。毎度毎度のお話なのだが、単行本毎に微妙に話題がズレている。それを楽しむことにすればいいやと思って買った。

 今回も、なぜ奈良の大仏が捨てられたのか、怨霊信仰、正史としての文書の内容の信頼性といったものを扱っている。ただし、キーワードをたとえ話している。「社史が信用できるか」と言われれば、そりゃないわな。同じ人がやることなのだから、同じように正史を読むべきだろう。そういう仕事全うな指摘である。いや、「逆説の日本史」以外の本は実は一般の人を対象としていねがら、学会へ向けたメッセージになっている。だったら直接言えばいいのにと言いたいところが、直接言ってだめだからこうして一般の人を巻き込み、その圧力をつかってメッセージを放っている。在野の研究者はそういう方法をとる。

 一般の人がこの本を読めば、ナルホドと思うはずである。日本史研究者と何の関係もない人であれば、学会というのはむしろおかしなところであるとすら感じる。権威というものの馬鹿馬鹿しさを知ってしまう。その意味で、こ本が一般の人に指示さればされるほど、学会関係者は少し足元をみてもいいと思う。しかし、まぁ権威というものは一般の人をバカだと思っているので、なにも変わらないだろう。それはそれで仕方ない。むしろ、学会とは関係ないところにまともな考察が残っていくことが日本語の本の蓄積としては有益だ。その国のレベルを知るのに学会の論文などはどうでもよく、どのくらいまともな本が世間で通用しているのかの方が大切であろうから。

 それにしても、学者というのは本当に学問の徒なのだろうかと疑ってしまう。身の回りにも教授と呼ばれる人がたくさんいるが、彼らの発言よりも行動を観察していると、彼らの主張したいことは「おれは偉い」だけであるのと気づく。ほぼ全部そうだろう。なんでこんなやつらばかりなのだろうか。その理由は、彼らの幼少時代からの経過にあると推測する。子供の頃から「頭がいいね」と言われて育ってきた人々なので、「おれは頭がいい」ということしか「頭にない」のであり、それを主張することが彼らの生きる道なのだろう。えらく人間臭い話である。井沢元彦さんもおそらくはそういうことに気がついているだろうな、と思うのだが。

2009年8月 9日

遺跡の旅


学研
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 波多野書店


 恩田陸さんの『メガロマニア』を読んでいたときに、昔HNKで放映されていた「未来への遺産」という番組について言及されていたのを読み、早速そのDVDをアマゾンで注文した。ぼくが幼児だったときに放映されていたものだから当然見たことがない。ただし、番組を見ているとスタッフにはぼくが学生のときに繰り返し見た司馬遼太郎さんの明治時代の話を番組したNHK特集での人と同じだったようで、ぐぐっと興味が湧いた。何かの縁があるようだと。
 未来への遺産全六巻のDVDを大切に見ているのだが、最近神田の古本屋で物色しているときに、ぼくの目の前に「未来への遺産の姉妹編」というこの本がそろい組で置かれいたのに目に入り驚いた。この神田神保町には色々な人が本を物色しているだろうが、DVDで「未来への遺産」を見ている最中の人がこの本を手にすることなど僕以外にはあり得ないだろう。そう思って、ちょっと高かったけど購入し、ぱらぱらと見てみると(購入前はヒモで縛って合ったので中は見れなかった)、なんと森本哲郎さんの対談がどの本にもあるではないか!! ふふふ、自分の引きの強さを感じながら一気読みをした。

 内容は、正直なところこれといって「新しい」というところはない。どころか、70年代の本なのだからむしろ古いようなところもあるだろう。ぼくは専門家でもマニアでもないので、これといって「この情報は間違っている」というところは見極められなかった。ただ、取材場所は2度の湾岸戦争の後の現在からみれば、危なくていけないところが増えたのだろうというものばかりで、あぁ行って見たなぁというため息ができることばかりであった。
 そして、ぼくが幸せな気分で読んだ森本哲郎さんと吉田直哉さんの対談。これも、すでにエッセイで読んだものの採話となるものが多いので、昔のように感動するようなものはないのだが、ただし聞きなれた曲をしみじみと聴くというような味わいを楽しむがごとく、どの話も楽しく読めてしまった。写真も古いのだよなぁ。

 こんな具合でこの本を読み、そして「未来への遺産」のDVDを見る。まったくもって、ぼくは一体いつを生きているのだろうかと思ってしまう。ちょうど自分の父親がそうしていたかもしれないのだよなぁと考えてしまう。題材が古代遺跡だから、数年、数十年経ったからといって何が変わるわけでもない。新しいとか古いとかあまり関係がない。ただ、昔の人の「工夫」に関心し、ぼくがその時代にいたらどうやっていただろうか、という想像を楽しむだけである。
 こういう行為を嫁さんは好奇な目でみることはない。最初は戸惑っていたが、今は「無害で安上がりな趣味」だと理解してくれているので、むしろ積極的に付き合ってくれる。とはいっても、DVD見ながら読んでウツラウツラしてるのだけど・・・。

2009年8月 6日

断る力

勝間和代
文春新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 勝間和代さんの思索がいろいろとつまっているが、その断片どれもが面白くないので驚いた。この本なぜ売れるの? 要するに勝間さんがビジネス書で学んだことの「総合テスト」の模範解答になっているからだろう。典型的な良い娘の考えそうなことだし、だれも反論しないようなものなのだ。もちろん、一つ一つはきちんと考えられているし、これまでのビジネス本的なアイデアを踏まえて各論を展開しているから、決して胃いい加減な本ではない。おそらく間違ってもいない。だからと言って、面白いわけではない。人間の感想なんて実に不思議なものだ。勝間和代さんがそういうタイプの著作をもつ人だと知っていたら絶対に買わなかったのに、とがっかり。

 面白い本というのは、正確な知識をもとにした記述や豊富な引用にあるのではない。独自の切り口で考察し、今までにない新しい見方を提示してくれるものだ。そういものとは大局的な模範解答には、好きではないというよりも反発すら覚えてしまう。

 この本がビジネス書として売れたらしい。その理由は、ひょっとしたらビジネス本を読読破したい人のショートカットとしてなのかもしれない。いわゆる売れているビジネス書を読み込み丁寧にまとめ、そして「依頼を断る」を具体例としてつけてある新書。理想的な手っ取り早いサラリーマン通勤時の教科書といえなくもない。一冊読めばいろんなビジネス書を読んだのと同じなんじゃないか、というお気楽な期待ももてる。もちろん、著者のキャラクターに魅かれてというのが一番の理由だろうけど。

 しかし考えてみると、こういうビジネス書はあまり無かったような気がする。ビジネス書好きな人たちの到達点だから。ビジネス書を読んでいけば、いつかこういうことを考えられるかもしれないという希望。でも、全く面白くない、としか言い様がない。面白い模範解答なんてあるわけないのだから。

 これまでにないような視点を提示してくれないならわざわざ読む必要がない。問題は人それぞれ違うのだから、そうなると見方考え方くらいしかそれぞれの人には実際役立たない。大前研一さんの古い本を読むほうが、よっぽど勉強になるよな。勝間本は以後手を出さないことにする。


2009年8月 4日

匂いの記憶

ライアル・ワトソン
光文社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 日本の古本屋

 ライアルワトソンの本が読みたいと思って、中古本をさがし、この本を購入した。amazonマーケットプレースでは結構高価だったが、日本の古本屋のサイトで1000円で売っていた。即購入。

 ライアルワトソンの本が日本でどの程度人気があるのか知らない。しかし著作のほとんどが翻訳されているから、根強いファンはそれなりにいるようだ。ぼくがこの人を知ったのは茂木健一郎さんの著作で言及されていたから。だが、そういう人も結構いるのかもしれない。最近は福岡伸一さんにが宣伝している。amazonで調べると、茂木健一郎さんや福岡伸一さんの本を購入した人の関連サーチにワトソンの本が挙がってくるから。

 この本は、匂いの機能を侮ってはいけないという内容である。匂いが記憶に与えている影響なら誰でも経験あるだろう。ふっと何かの匂いを嗅ぎ、それが懐かしい匂いだったりすると、その瞬間に過去の自分に戻ってしまう。誰でもそんな体験があるはずだ。昔を思いだすのではない。身体の内部が「昔に戻ってしまう」という思い出し方である。それも一瞬で。しかも当時の周辺記憶も一緒に再生してくれる。

 匂いについて僕が覚えていることは次のような感じだ。匂いの処理は脳の古い部分(新皮質ではない)部分で行われる。知識だの論理だのを越えて、動物的な意味で過去に戻る。本能という感じで。

 この本を読みながら、匂いの機能を利用すれば自分の感情を制御できるんじゃないかと考えた。この本を読んでいる最中、電車の中での出来事がヒントになっている。

 通勤電車でこの本を読んでいた。たまたま隣に座ったOLさんから香水が香ってきた。次の瞬間、ぼくは成田の出発ゲートに向かう絨毯を歩いていた。そう錯覚した。一瞬だが完全に電車の席で座っていることを忘れ、ウォーキングベルトの脇を歩いてゲートにいたのだ。なぜそんな錯覚したのだろうか。隣の人の香水が免税店に充満するタイプのものだったからだ。

 ぼくが海外へ行くときは「ワクワク」した気分である。絨毯を踏みしめながら、ちょっとした不安と大きなワクワク。12時間のエコノミー席は地獄だけど、初めての街を見れるかと思うとうれしい。そんな期待する心象風景が現実感を伴って現れる。身体は通勤電車なのに、記憶はどうにでもなる、匂いによって。

 そんなことを考えていたら、本書のヤコブソン器官がどうこういう議論には「味」を感じなくなり、成田の絨毯の感触ばかりが繰り返し思い起こされた。匂い一つで人の意識を「乗っ取れる」可能性があるわけだ。ならば、ある種の「薬」にならないだろうか。

 ただ万人の向けのものはできない。個人用に調合するよりない。匂いには構成要素があり、それをブレンドすることでいろんな匂いを合成できたとしても、どんなことを思い出すのかは、なかなか制御できないし。とはいえ、諦めるにはもったない。継続的に考え続けてみることとしよう。

2009年8月 1日

エレファントム

ライアル・ワトソン
木楽舎
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1.co.jp

 ライアル・ワトソンさんの著者を福岡伸一さんが翻訳されている。なぜだろう。ライアル・ワトソンさんの本は、ものを知らないぼくですら一冊読んだくらいだから無名の人ではない。それどころか有名人である。これまでに何冊も翻訳されている。

 とはいえ、2000年以後は出版されていないから、最近はあまり売れないということで翻訳しなくなったのかもしれない。こんなに良い本なのに翻訳されないのはもったいないよ。そういう意味で福岡伸一さんが力を貸したのではないのか。この本の出版社もあまり目にしないところだから、あながち本当かもしれない。

 前作『未知の贈りもの』は、茂木健一郎さんの著者で引用されていたことばが印象的だったので読んだのだ。

 精巧にできたイカの眼球がとらえる光景は、その貧弱な神経系で処理するには豊かすぎる。イカたちは何か他の大きなものの代りにこの世界を観測するカメラ台なのではないか。

 すごい。こんな見方があるのかと共感してしまった。今回も本も同じテーストの内容であるが、著者の回想録でもある。

 ワトソンさんは幼少期から青年期までを南アフリカで過ごしている。そのときの不思議な体験がこの本のコアになっている。

 アフリカだから野生動物と遭遇する機会は多く、だから自然に動物に興味をもつのだろう。この人は、象に神秘性と威厳を感じたのだ。著者の人生も象への興味がガイドしたようなもので、それは死ぬまでそうだった。こんな生き方を知ると、社会で出世することが目的の生き方なんてくだらないものに見えてくる。

 象は5−25ヘルツという低周波の音が出せるそうだ。そんな低い音はとても人には聞こえない。ただし、感じることはできる。また、低周波であればそれだけ音が遠くに届きやすい(パワーがあればだが)。象の集団はこの音を使って、かなり離れた象同士で群れとしての会話をしているらしい。しかも足の裏の感覚をつかって地面からの振動を感じることで通信を行っているらしいことも最近では明らかなったらしい。普通の人が思っている以上に、像の群れはいろんな情報交換をしているのだ。それに情報を交換するからには、像の知性は高く、自意識も強くもっているのだろう。だからだろう、象は絵を書くなどの芸術的な衝動ももっていることが知られている。

 こういった象の話と同時に、子供の頃の印象的な出来事を語ってくれている。それは、人がいないアフリカの海岸で象とシロナガスクジラが低周波音を使ってコミュニケーションをしている場所に出くわしたというものだ。内容は聞こえないが、低周波音については感じることができる。2頭の巨大な動物が何かを語っているというのだ。こんな幻想的なシーンを想像したことすらなかった。

 人生のガイド役というものは誰にもあるのかもしれないが、こんな人生もいいなぁと感じる。なるほど福岡伸一さんが翻訳するわけだよ。