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2009年9月27日

環境を知るとはどういうことか

養老孟司+岸由二
PHPサイエンス・ワールド新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 正直、この対談での中心となる岸という人の発言に本能的に嫌なものを感じた。発言内容やこれまで行動してきた事柄は立派なものだろうし、それはこの対談者全員がそう評価しているから実際そうなんだろう。しかし、この人の考えの背後にあるのは、普通の人を心底見下した目のような気がする。発言を読むほどにそういうところを強く感じる。

 昭和四十年代に都内で生まれたごく普通の子供が育っていく環境を想像してみる。昭和十年代に鎌倉に生まれた人や昭和二十年代に鶴見川沿いに育った人と同じ感覚を持っているわけがない。少年期に育っていく環境はその人の選択ではない。少なくとも多く子供は育つ環境を選べない。その選べない環境において感覚が最適化する。成長するときに何の感覚を大事にするのかは、育った環境に依存する。その結果として普通の人ができあがる。つまり、自分の感覚を育てることは、育つ環境と同じで、選択できないのである。

 環境によって人が違ってくるのは当然である。その違いはその人の責任ではない。だから、その人を攻めても意味がない。逆に、自然がある場所で育った人もその人の責任ではない。たまたまそうだったというだけだ。お金持ちや貴族に生まれるか貧乏な人に生まれるかは、その人の選択しではないのと同じだ。生まれ育った場所がその人なりに郷愁を持つはずだし、それによって関心・無関心が決まる。そういうものである。

 しかし、この本の著者たちはそうは思っていない。都市に生まれ育った多くの人を宇宙人だとし、日本はこういう人に一票を与えるべきではないと考えているのである。自然の中で育った人が日本を司ればいい。口に出しては言わないのだが、この本での議論においては、どうにもならないくらいその思いが溢れでてしまっている。

 彼らの話していることを聞くに、要するに日本を昔の姿に戻すのだということだろう。そんなのは簡単である。人口を1/3くらいにしてしまえばいい。人が減れば開発しようにも国力がない。江戸期の人口に戻せばいい。人の活動も戻せばいい。ただし、その場合、中国やアメリカの一部になるだけだろうけど。

 現実を直視する。すると理想と現実のとのギャップを見る事ができる。その間を埋める方法はいろいろ考えられようが、エネルギー的、コスト的、技術的という制約からできるできないが決まってくる。あるべき姿と現状とのギャップを合法的な方法で繋ごうとすれば解なしなることも多い。じゃぁといって強引に線を引こうとすればやろうとした人が抹殺されることになるかもしれない。要するに、できないこともあるのだが。

 普通に暮らしていると自然の中で生きていない。だから、自然の知識は獲得できない。当然知らないことばかりになる。植物のこと、河のこと、昆虫のこと、土のこと、海のこと。知らないことばかりである。そういう知識がないとしても、それは当然のことである。今の日本で生きてくときにそういうものは必要ないからである。それを「ばか」と言うのは、まったく的外れというものだ。

 長い目で考えて行動する。実に口当たりの言い言葉だが、これは社会に変化がない状況において効果を発揮する考え方である。たとえ独裁であっても、その独裁がいつまでもつかわからなければ結局は成立しない。長い目でみても未来が読める。未来の着地点に確信がもてる。それが可能な時期、地域でこそ可能だろう。

 しかし、変化が激しく未来が読めないのならば、その話は単なるペテンでしかない。日々の生活ですら一年で大きく変わっていくとしたら、長い目でみて何かをするなどという言葉に説得力はない。
 

2009年9月26日

歴史if物語




井沢元彦



お勧め指数 □□□■■ (3)

購入店 amazonマーケットプレース

 井沢元彦さんの著作には、もしあのとき〜であれば、という話が結構ある。それらは例外なく面白く、できれば続きを読みたいと思うのだが、その本の中での横道としての仮説なのでまとまった記述にならないことが多かった。

 歴史にifを考えるのはいけない。そう歴史学の人は教わるそうだが、考えるのは自由なのになので、ダメだろうがなんだろうがやればいいのにと思う。それができる人ならば是非そうしてもらいたい。ifとして話を展開することは学問とは言えないらしい。どんなにもっともらしい話を想像しても学問ではなく小説らしいのだ。ならば是非とも小説家がやればいい。シミュレーションのような枠を設定し、別の時代の別の場所での同じような展開を探せば、なんらかの知見を得る事ができるかもしれない。シミュレーションはやればやっただけいいだろう。ダメな結果はすてればいいし。その意味で小説としていろいろあってもいいような気がする。面白い歴史小説はいろいろ出版されているが、シミュレーション歴史小説のようなものはあまりない。なぜだろうか。いや、ぼくが知らないだけかもしれないが。

 歴史のifを考えると面白いという出来事はどんなものなのだろうか。多くは歴史の転換点に関するものである。ある偶然ようなものが歴史の分かれ目を決め、以後の日本の展開に至った思われている。そういうものがifを考えやすい候補だろう。つまり、以後の歴史の因果関係が明確になっているものほどifを考えると面白い。自分は偶然の上に成り立っているではないかということがはっきりしてくる。偶然が人生を左右するし、ひいては歴史も左右する。こういう考えには魅力を感じる。歴史観だけでなく伝統とか国とか習慣とか、過去から続いているものとの接し方について再考させられる。


2009年9月25日

妄想力

茂木健一郎+関根勤
宝島社新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 久々に痛快な茂木健一郎さんの対談本を読んだ。最近は粗製乱造ぎみで暗雲たれこめてきた茂木本だが、この本はその暗雲のなかにきらりとひかる一条の喜びだった。気軽に読める対談本はこうでなければいけない。

 とはいえ、この本の面白さは関根勤さんの話に寄り掛かっている。この本の2/3はは関根さんの発言で、ぼくが思わず吹き出してしまったところも関根さんのものだった。

 関根さんの発言は自分の妄想についてばかりだが、それなのに不思議と感心したり笑ったり驚いたりバカにしたりと愉快な気持ちになれた。関根さんはそもそも嫌みを言うタイプの人ではないから、否定的な発言がない。あったとしても、後に引く苦味が一切ないのである。

 茂木健一郎さんの役目は話を引き出すことと、話題の中で脳科学の見地から専門的な注を加えることにある。ただ、専門知識がなくたって話題進行に全く影響はない。編集でカットしてもいいかもしれない。注はむしろ逆効果で、面白い話で蘊蓄を垂れる人が混じっているような感じがしたのだ。この対談のできからいって、脳のことなんてどうでもいいのだから。

 そう思ったら、なんだ茂木健一郎さんの役目は少し違うフェーズに入ったのかも知れないと気がついた。茂木健一郎さんは学者である。脳についてはよく知っている。質問すれば答えてくれるだろう。しかし、そういうものはもうあえてしなくていいのかもしれない。つまり、茂木健一郎さんの雰囲気があるだけで、相手は面白い話をしたくなり、そしてついついしてしまう。そうなったら脳科学からの解説なんて全くなくていい。一人の普通の人として、愉快に笑っていればいいような気がする。茂木健一郎さんの「師匠?」でもある養老孟司さんは、解剖学者であるという肩書きをすでに意識していないでいろいろ発言されているし、その話を聞く方も期待していない。だれも『バカの壁』に脳科学や解剖学の内容を思い出すことがないだろう。もう大学を退官されたからかもしれないが、解剖学的にこうである、なんて注を入れるなんてやっていないかった。それでも、面白い話をいろいろしてくれたし、対談では話者の話を引き出していた。

 面白いとなにか、いい感じの人はどういう人か。その辺りを脳科学の見地から見たらどんなことが言えるのだろうか。必ずしも「蘊蓄」や「注を入れる」という行為は、楽しい話を引き出すことには必要ないだろうなと感じた。

2009年9月22日

ペルセポリスから飛鳥へ

松本清張
NHK出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 小宮山書店ガレージセール

 松本清張さんの文章を初めて読んだ。日本を代表する大御所作家だが、ぼくは推理小説ファンではないので、『点と線』などのタイトルは知っていても読んだことはなかった。勉強しなきゃ、教養を広げなきゃ、という動機で読書に臨んでいたので松本清張さんの本を選択する余裕がなかったのかもしれない。

 この本は古代文明に関する紀行文だろう。そう思って購入した。古本屋のワゴンセールで一冊100円。最初の一ページを読みはじめて、その文章にいたく感心した。内容よりも文章で引き込まれた。日本語というのは、こうかけばいいのか。完結で無駄がない。いってみれば単なる記述。それでも、段落をどう新しくするのか、読点を何処に打つのか、そういったことが見えてくる。何気なく読みはじめたにもかかわらずそういうところに目がいった。内田樹さんのようなフレンドリーさがないから寂しく感じる人もいようが、日本語の論文の文章というのはこうあるといいのではなかと思った。石と石の間に隙間がない構築物のような文章である。

 松本清張さんの小説はどんな日本語になっているのか興味をもった。こんな調子で構築された小説だと逆に面白くないかもしれない。小説は小説、論説は論説と書き分けているのかもしれない。なににせよ、ブックオフで文庫本をあさってみようと思っている。

 本をたくさん読む効用には、いろいろな「書き方」「スタイル」を知ることができるということがある。自分が目標とする人の文章を真似ることから練習を始めるものだと思っているが、あまりにも完成している作家の文章などマネしようとう気分にならない。いつかはこんな感じに上手になりたいな。そんな心に思い描く遥か先の到達点として扱うよりないだろう。司馬遼太郎さんのような文章はマネしよう気にならないし目標にしたいとも思わない。凄すぎるからである。松本清張さんの日本語は論文を書く際のスタイルとして自分に取り入れてみたい。そう思えるくらい、くせがないのである。

 文章に感心しながらも、イランの古代遺跡を巡る紀行文を読んだ。七十年台の話だから今と違って旅行時に不便なことも多かっただろうが、ペルセポリスやイスファンなど有名どころを一通り滞在している。滞在先のホテルは超豪華なタイプだったりして、それなりに観光の気軽さで行けたのかもしれない。その辺りが森本哲郎さんの紀行文とは大分違う。森本哲郎さんの場合は紀行文と地理、歴史、文学などが入り乱れる思索が展開されるところだが、松本清張さんは紀行文に徹している。

 イランを巡る話で終わるのかと思いきや、後半は古代日本とイランの驚くような仮説を提案し、あれこれ思索を展開している。飛鳥時代に中国を経由しないで胡人(イラン人)が日本と南朝鮮に人と文化とが流入していたというのである。ゾロアスター文化圏の人が工人の棟梁のようなことを日本でしていたと。飛鳥地方には亀石など不思議な彫刻された岩がいくつも出土しているが、それらをペルセポリスで多く見られる石像(牛やグリフィスなどの柱頭?のようなもの)とを関連させていろいろ推理し、仮説を展開している。考察だからいくらでもすればいいのであって、その真偽をぼくのような素人が判断する必要はない。ただ楽しんでしまった。この推理をまとめた小説は出版されていないのだろうか。NHKの番組のためにこの本を作ったようだけど、結果的にどのようなものが放映されたのか知りたいところである。
 


2009年9月21日

私家版・ユダヤ文化論

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 ここのところ昔読んだ本のうち気になるものを読み返している。といっても内田樹さんの本が多いのだけど。先日、養老孟司さんと内田樹さんの対談を読み返し、その中でこの本についてが話題になっていた。この本は一昨年の暮れに読んでいるのだが、中身全般について今でも理解しているとは言い難い状態だったので、早速読み返してみた。

 気軽に読めるタイプの本ではないだけに、つっかえつっかえ読み、ところどころ面白いなと思う場所を発見しつつ読み進めた。しかし残念なことに、この本一冊を「うわぁわかった」というレベルで理解することができなかった。というのは、面白くないところはどうしてもじっくり読む気がしないのである。説明の論理も語彙もぼくの理解の範疇内にあるから、文章のレベルでわからないところはない。よくある哲学書や法律文書のような意味不明さは全くない。にもかかわらず、まぁこの部分はぼくはよく知らなくてもいいや、と飛ばしてしまうのである。そんなことをやってるので、この本全体を俯瞰したときに、ところどころに島がぽつぽつ顔を出している程度で、あとは海の底。そんな感じである。

 この本は内田樹さんが教鞭をとられている女子大での講義が元になっているそうである。女子大と一口でいっても、ずいぶんとレベルの高いことをやっているところもあるのだなと感心する。すくなくとも、ぼくがいた理系大学でこういう講義を開講していた先生はいなかった気がする。選択科目として受講できる一般教養には存在しなかった。専門分野の講義としてはあったかもしれないが、それはぼくにはわからない。

 この本を全部が理解できない自分が情けない。人は何にもしなくても歳だけ取っていくが、それと賢くなることとは別だ。勉強しないでも何かの知見を得られるなどメッタに起きないのだ。

 ではこの本の元になったような講義を今から受講すればいいのか。そうでもないだろう。学ぶのに適した年齢と方法があるはずで、単純に受講すればいいというものではない。まぁ仕方ない。しばらくして再度読んでみて、それでも理解できる範囲が限られていたら、自分のアホさ加減を嘆くとしよう。


2009年9月15日

農協の大罪

山下一仁
宝島社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
amazon.co.jp

 マスコミで報道されないけれど、実は日本の大部分の人は知らず知らずに「農協の存在」の被害にあっているのかもしれないのかと知った。こんな本を出版できるのは宝島くらいなものだろう。そんな内容はセンセーショナルなものほど好まれるマスコミでは扱われないから、こういう本で読むよりない。ただし、そいうことを教えてくれる本を読む気分は、勉強になるなという感心もあるが、嫌な気分のほうが強いのだ。沖縄の苦い野菜を食べるような複雑な思いがする。なんでこんなものをわざわざ読まなければならないのだろうか、という気分なのだが。

 非常に腹だたしいという感情的な気分、知ったところで個人としては為す術がないという諦観、ならばこういう被害を自分は受けないようにするにはどうしたよいかという考察。読書するにはいずれもマイナスの気分でであり、読んでいる最中に頭のなかでぐるぐると回る。決して楽しい読書ではない。できれば知らないで(読まないで)過ごしたい。とはいっても知らないと自分も巻き込まれてしまうし、かれらの思うつぼである。

 本書で解説されている「農協の実像」には驚いた。農業人口が減り続けている時代なのだから「農協」という組織は「設立趣旨」のようには機能していないはずだとは思っていたが、ここまでひどい事になっているとは。農協について深刻に考えると暗くなるよりない。どっちにしろお気の毒な人生だ。一度しかないせっかくの人生なのに、人の迷惑しかしてない活動なんだから。

 もっとも、こういうことは農協に限った話ではない。結果的に農協に似たことをやっている組織はいくらでもある。いわゆる特殊法人や独立行政法人も、時代時代の変化とともに変化しなかった組織は存続自体が目的という、ある種の社会的生物になっている。創立当時の組織設計意図と現実とが関係のないものになってしまうのである。それはそれで仕方ない。不思議なことだが、日本人の組織はたいていそういうものなのかもしれない。

 ぼくは根っからの都市生活者である。最近は日本の農家の依存は決して高くない。中国をはじめ世界各国の農家に世話になっている。自分の暮らしから考察するに、べつだん日本の農家には世話になる必要ないのかもしれない。都民はエネルギーから食料まで実質輸入に頼っているのだから。

 いざ、というときに日本の農家に頼ることができるのならばいいのだけど、それは期待できない。しばらく前にあった米不足のときに明らかになった通り、いざと言うときに農家は足元をみて値段を釣り上げるだけである。それはそれで合理的な生き方である。ただし、日常的にもいざというときにも日本の農家は都市生活者にとって頼りにならない。なのに、税金だけ巻き上げようとしている。そして何をやっているのかといえば、パチンコをしているだけである。農村のパチンコ屋はいつも大盛況である。筑波に住んでいたとき、そこから即刻引っ越ししようと決心したのは、そこいら中にあるパチンコ店の大型駐車場がいつでも満車だったのを見たときである。パチンコ代金消える農業助成金などは即刻中止してその分を医療保険に全額つっこんで欲しいところである。

 予想通りだったが、この本を読むにつれ、どうしてもこんな情緒的な反応しか思い浮かばなくなる。そしてこの上なく不機嫌になる。読まなければ良かったと後悔する。

 ダムでも農業でもそうだが、田舎の問題についてぼくがあれこれ考えても無意味なので、考えるだけ損である。彼らは彼らなりに「当然のこと」をしているだけである。悪気があってやっていることではない。当然のことを主張し、行動している。

 大切なのは、この状態を終結させるために自分に何ができるか。実際のところ全くない。敵のことを腹立たしく思ったからといって何かが起きるわけでもない。つまり、腹立たしく思う価値すらないことになる。だったら、そんなものは考えることすら無駄ではないか。一番安上がりなのは、存在を無視するという単純なことになる。これじゃぁ、なにも進まない。

 ぼくのような単純な思考しかしない人は、こういう問題を解決できないだろう。妥協策を考えようとしないからだ。本来であれば、ここで政治家が出動するはずだ。しかし、それも期待できない。だから、しかるべき役所にお鉢がまわってくるが、それこそ期待できない。なんだ、結局日本社会は崩壊いていくだけなのか。

 しかし、内部事情にまで通じているこの著者はどんな仕事を役所でしたのだろうか。わかっていて、何もしなかったのか。あるいは、取ったけど無力だったのか。この本をかけるくらいの人が奮闘してどうにもならなかったのならば、どっちかが倒れたあとのことを予想して準備するより手がないような気がする。

2009年9月13日

スペイン戦争

斎藤孝
中公文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 言葉だけは聞いた事があるスペイン戦争、スペイン内戦。スペイン戦争についてどうしても知りたいと思って読んだわけではない。どちらかといえば無意識に近い状態で本書を購入し、読んでしまったのである。世界史でも日本史も近代史については無知(というか、歴史については無知なんだが)なので、ピカソのゲルニカで表現したものはこういう歴史背景があったのかなどと多くのことを知った。フランコ、ムッソリーニ、ヒットラーという人のやったことは、なるほど「こりゃひでぇや」とわかった。なんと歴史を知らなかったのかと、自分に呆れてしまった。

 第二次世界大戦に関係することは旧日本軍の失敗とリンクしているようなことばかりなので、ある種の自虐感と絶望感を持って読むよりない。だから好きではない。山本七平さんの著作は勉強になるものばかりで多くのものを読んだのだが、日本軍についての考察も結構ある。それらを読めば読むほど日本軍ってろくな存在じゃないと確信するし、今の日本にも当てはまる事が多いと気づく。勉強になるが、読んでも楽しくない。暗い気分は御免なので、近代史については具体的な必要がないかぎりこれまで読まないできた。そういう人は結構いるだろう。

 不思議なことに、知ったら知ったで興味がでてくるものである。楽しくはない内容だが、日本もダメだったがスペインもダメだったのだなという気分である。となると勉強してみようか。

 古代ローマ史や古代文明について、ぼくはこれまで本を結構買って読んでいた。イラクやパキスタンなどの遺跡を訪ねるわけにも行かないから、想像で楽しむよりないが、それでも結構楽しい。

 一方で近代史ならば観光地としてもメジャーなヨーロッパ都市を回るだけでなんとかなる。第二次世界大戦というのはヨーロッパも散々な目にあったのだとわかる。なるほど市民が直接関係しなかった国はアメリカくらいなものか。

 自分は全く知らないと気づき、それに興味をもつ。これはよいことだ。なぜなら興味をもったことについて本を読むことで楽しめる時間を持てるから。勉強ではなく娯楽として楽しい。本の値段など食事や外出と較べれば断然安いから家計が助かる。今年の冬あたりは、第二次世界大戦前後の世界史についていろいろ学んでみたい。ヒットラー、ムッソリーニ、フランコ。あるいは蒋介石や毛沢東。名前と歴史的な評価くらいしか知らないものについて、それらがなぜ権力を持ち、世界史をどう動かしたのか。こんなことを考えてみよう。信頼できる面白い作家の本が見つかればいいけど、ちゃんとした本を上手に探す方法もあるだろう。よくできたマンガでもいいかもしれない。

 そんな活動の入り口として良い本だった。前書きには「スペインへ行ったことがない」と著者が言っているで、大丈夫かと心配したが、入門書としては問題ない。
 


2009年9月11日

セレンディピティの時代

茂木健一郎
講談社文庫
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 BOOKS SAGA 長津田

 通勤の乗り換え駅のコンコースにあった書店でこの本が平積みされているのを見かけた。乗り換え電車までの時間が一分なかったので、これでいいやと思いこの本を購入した。本の装幀、挿し絵は劣悪なもので、普段のぼくならば書店で見かけても買うことはないだろう。ただ、巻末に「文庫オリジナルです」という一文があり、それならばいいかと判断した。最近の茂木健一郎さんはスゴイ活躍をされており、十分に考える時間もないのだろう。さっぱりと良い本が出なくなった。適当な雑誌の連載コラムを集めた新書などもう買うまいと思っているが、書き下ろしならば書きたい内容があるのだろう。締切りのためにやっているわけではないだろうし。面白いかもしれないと期待したのである。

 この本は少年少女向けの自己啓発書である。タイトルからして内容はセレンディプティーについてであり、偶然を許容しよう、偶然を活かそう、自分を変えていこうというような内容である。一応どの読者層にも当てはまるような配慮はされているが、茂木健一郎さんの著作が好きな人でないと受け入れれない本だと思う。茂木健一郎さんの博学(科学、文学、歴史などなど)権威を上手につかった説教なので。セレンディプティーそのものの面白さを解説するような内容ではない。茂木健一郎さんらしい脳科学(ドーパミンだの、偶有性だの)の味付けがしてあるが、それが効果を発揮しているとは言い難い。正直がっかりした。

 茂木健一郎さんの能力(短期間に出版に耐える文章をどんどん書くことができる技術)はスゴイと思うし、大学での研究も普通にやっているのだから立派な研究者であることに疑いはない。科学をベースに多くの分野についての発言ができる人で、一風変わった風貌もマスコミから好かれる理由なのだと思う。しかし、最近は本当に書くものが「つまらなく」なってしまって残念である。茂木健一郎さんの書籍を買うのならば、四年以上前のものか、その時代の内容が再編集されて出版されたものでないと必ず失敗する。同じようなことを言っているからマスコミにもそのうち飽きられるであろう。マスコミに登場しなくなってからの新刊を待つほうがいいのかもしれない。


2009年9月10日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店

 この本を読むのは2回目。なんだか無性に読むたくなって手にした。そして、一気に読んだ。タイトル通りにソファーに寝転がって読んでみた。げらげら笑いながら読めた。内田樹さんの本を読んでいると、ぼくは母国語が日本語でよかったとしみじみ感じる。

 この本をまた読んでみよう。そう思った具体的なきっかけは何だったのか思いつかない。ただ頭の片隅にこの本がちらちら浮かんできて、気になって仕方なかったのだ。集中できないこともあり、その衝動を静めるために読み返した。ぼくの意識が知り得ない無意識が「この本に書いてあったことが重要だから読み直せ」とばかりに指令したのだろう。既に読んだ本が気になって仕方ないという体験は初めてだ。そもそも一度読んだ本を読み返すこと自体がぼくには珍しい。

 この本を一気読みした後は満足したので、別の本を読んだ。しかし、その本を読み終わったあと再度この本を一気読みしてしまった。ここ3日間で二回も読んだことになる。一体どうしてなんだろうか。自分が何に興味を持つのか、その本心を理解できない。その衝動を自分では制御できないから従うよりなのだけど。

 この本を合計三回読んだ。だからといって「構造主義」とは何かを知ったわけではない。マルクスもソシュールもニーチェも、フーコーもバルトもレヴィ=ストロースも凄いなぁと感心した(ラカンについてはもう一つピンとこない)。ただし彼らの名前を記憶しただけではあまり意味はない。何かを理解したとは、自分でそれをゼロから構築でき、実生活のなかで使えるかどうかだ。それくらいできないとダメだろう。さしあたって、これまで考えてきたいくつかの問題を見つめ直せば「あれ、なんでこんなこと気づかなかったのだろうか」と言えるようなものがないとこほんを理解できたとは言えないだろう。

 一応、この本を読んだあとで自分の見方に変化はあった。ちょうど総選挙の時期だったのでニュースではいろいろ言われていたが、「誰が」リーダーになるかで日本は変わるというような話ばかりであった。ニュースキャスターも解説者も血相変えてその話をしていた。お前らダメだと。東京都民であるぼくも選挙では一票投じたが、それで社会が変わるとは思っていない。だから何をそんなに主張しているのだろうかと奇異な目でニュースを見ていた。党や総理が変わると政治はかわるのだろうか。役所指導から政治主導に切り替えれば変わるのだろうか。

 ではなぜ今までのような政治がずっと続いてきたのか。戦後の問題というが、戦前はどうだったのか、江戸時代はどうだったのか、その前はどうだったのか。井沢元彦さんの著作を楽しんで読ませていただいている。だから、日本の政治のあり方は日本の状態から生まれており、歴史を通じてそう変わりないという意見をもっている。誰が指導したとしても「空気」みたいなものが意思決定者の周りに立ち上がってくれば結局今まで通りになるだろう。名前ややり方がちょっと変わるかも知れないけど。

 何かがうまくいかないのは誰かが悪いからだ。その原因を消去すればうまくいくようになる。そういう考え方がある。あるいは、この問題の本質はこういう事だ、という発想でもいい。ある特定の原因が存在し、現在の状況はその結果であるという発想は、どんな人でもそれなりに自然に思えるだろう。「本質」という言葉はどの分野にも登場するだろうから、どんな勉強をした人でもこういう考えに落ちるはずである。もちろん、それでうまく場合はそれなりにある。だから、そう考える人が多いのである。

 一方で、状況なり構造なり、特定の原因とは言えないものを考察対象にする技術がある。その場合、議論する対象あるいは疑問点は次元が少し上がる。従来の単一の要因論という考え方を変えないと上の次元に到達できない。この本にあるような説明を聞いて初めて議論の次元を上げるとはどういうことかに気がつくことができるのだ。

 いわゆる犯人探しとは別の次元。そんな議論を実際にどうやるかは状況に依存するから、なかなか日々の生活の問題相手に適用できるものではない。ただし、これまで簡単には解けなかった問題にはこの考え方で接しないとどうにもならなかったものがあるかもしれない。へぇ、構造主義ってすごいなぁ。現代思想というのに少し感心した。といっても、内田樹さん以外の人の本を読んでも、さっぱりなんだけど。


2009年9月 9日

化粧する脳

茂木健一郎
集英社新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 BOOKS SAGA長津田

 茂木健一郎さんの研究室で博士号を取得された人の研究をベースにした新書である。本書をコアになる内容だけにしぼったら1/4の厚さになり、新書としては成立しない。だからだろうけど話を膨らませすぎ。本題の周辺の説明ばかりが目立つ。もちろん、本書のどのトピックも茂木健一郎さんなりにきちっと解説しているのだが、尊敬し得る「良質な考察過程」はもうここにない。知っていることをそれらしく並べてあるだけ。言って見れば広告代理店の仕事である。ビジネスライクな本を掴まされると心底がっかりする。

 この本で展開されている考察はfMRIの結果に基づいている。fMRIは便利な機械である。今まで適用されなかったことに提供すれば発見が得られ、論文が書けるから。機械は考察のための道具の一つでしかないが、機械の出力の解釈次第でいろんな展開が得られてしまう危険なものである。科学は考えた事と実験とをすり合わせる行為なので、実験の質しだいで科学成果の質も変わってくるのである。この研究者には鮭もお化粧が好きなのかもしれないという可能性を考察してもらいたいものである(Dead Salmon's "Brain Activity" Cautions fMRI Researchers)


2009年9月 8日

なぜ、日本は誰でも総理になれるのか

井沢元彦
祥伝社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 そうそう、タイトルを読んで思わず手がてでてしまった。たまたま書店で井沢元彦さんのコーナーを眺めていたが、そのときまでは歴史関係の本を買うつもりはなかったのだけど。ぱらぱらとページをめくり、書かれたのは小渕総理から森総理へと変わった時代のもので、主なテーマは「なんでまたこんな人が総理になれるのだろう」という素朴な疑問だだった。ぼくもその疑問を常々もっていたので購入した。

 総理大臣というよりも、ニュースに登場する政治家の発言におかしなものが多い。そういうものだけをセレクトして放送しているということもあるが、中には小学生だっておかしいのではないのかという感想をもつだろうものもけっこうある。おそらく普通のニュースを日常みている普通の大人で政治家を「賢い」とか「立派」だとか考えているひとはいないだろう。

 政治家がおかしな発言をする。すぐにマスコミが問題にする。すったもんだの揚げ句、大臣が更迭される。この流れは少なくともぼくが子供の頃から変わっていない。もちろんマスコミ側の扱いはまともなものとは言えないし、煽りに満ちていることは承知している。それにしたって人々を言葉で動かすのが政治家たちなのに言葉が下手くそなのが不思議でしょうがなかった。言葉以外にこれといって知識なり技術なりがあるわけもでないのだから、いったい彼らはなぜ代表なんだろうと思っていたし、いまでも思っている。現代の七不思議でもある。

 この本での解答は至極簡単なものである。立派な人がリーダーにならないようになっているのが日本だというのだ。この考え方は井沢元彦さんの別の本で読んだことがある。だから復習ような感じで読めてしまった。

 具体例として聖徳太子の憲法十七条の一条と十七条についてを引いている。日本で一番大切にされているのは、みなで話し合うという考えである、というものである。それは古代の日本においても「そういうものだ」と思われていたというのである。初めて読んだときは「へぇ」と声にだしてしまうくらい納得した。当事者での合意が全てである、という決め方は「まぁ、正しいだろう」と自然に感じるからだ。民主主義だろうがなんだろうが、日本では「角を立てないように、みんなで話しあって」ということがどんな状況でもまず最初にでてくるのは確かなこと。この考えを補助線として政治のごたごた眺めるもめている様子がバカみたいにあっさりと理解できてしまう。

 話し合いが人々の納得を引き出す最初の一歩である。そう納得してから最近のニュースをみると、自分の見方が変わってしまっていることに気づいた。新閣僚の人事報道で新総理の動向が報じられており、そこには常に「話し合い」が強調されている。もちろん話し合いでいいのは確かだ(なるほど、ぼくも日本人だ)が、それでも「こういう政治がやりたい」と主張してきたのだから、粛々と新総理の考えで勧めればいいとも思う。ところが部外者であるマスコミすらそう思っていないようだ。

 数合わせの少数政党の人がしゃしゃり出てきて面倒なことになっている。自民党時代でも「自民党の中で」やっていたことだから、とくに珍しいものではない。話し合い話し合い。この状況からして、政治がこれまでとは変わったものになるとは思えない。やり方は常に同じだから。役者と演出がちょっと変わった程度である。ひょっとしたら、いかにして「自民党が出現したのか」を民主党が変貌していく様で理解できるかもしれない。そう思ってしまうくらい。

 ぼく個人の意見だけど、現実と直に接するところに話し合いは要らないと思っている。現実は「人」ではないからだ。現実に直に接するのは科学であり工学である。芸術は結局のところ人が評価を下すから、それには含まれない。理解するもの、操作するものが人間以外のものやことだったら、話し合いなんて要らない。むしろ極力排除しないとおかしなことになる。「意見の不一致」から生じる「怨恨」は人にしか生じない。科学と工学には無関係。もっといえば、いわゆる理系に話し合いなど必要ない。現実に働き掛ければ答えが一発でるから。理系のいいところは何か問われてたら、迷わずそれを挙げる。

 では、話し合いが悪いことなのか。それ自体の価値は判断できない。日本はそういう仕組みにある、ということが理解できればよいはずで、あとはその仕組みの中でどう立ち回るかによって幸不幸が決まる。話し合い主義(つまり、角を立てない主義)は日本で組織をつくるときの方法所与の事実である。大事なことはそれを西洋流に変えることではなく、それを完全なまでに理解することである。万有引力なんて嫌いだといっても、f=maという法則は現にある。同じように日本の物事の原理として。日本にいる間は、そのルールの中で考えることである。

 なぜそんなルールを日本は選択してしまったのか。そんなことはわからない。数千年前からのものなのかもしれない。そんな昔の人の工夫が、工夫として日本に住む人たちの間に生き残っているのである。生き延びるには、それを理解し活用するよりない。


2009年9月 4日

宗教なんてこわくない

橋本治
マドラ出版
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 橋本治という不思議な人については、数冊読んだことがあるに過ぎなかったのだけど、なにかと内田樹さんのブログに紹介があり、そのたびに読んでみようと購入していた本が手元に何冊かあった。昨日フッとこの黒い表紙の本を読みはじめたところ、宗教について「わかっちゃった」というところまで連れていかれ、他の作業を中止し最後まで読んでしまった。実に「すっきり」した。正直驚いた。なんだ、宗教ってのはずいぶんと簡単なことじゃないか。なんでこんなことを怖いだのわからないだといって忌避していたんだろうか。そんなことを軽く言ってしまえる自分がここにいる。橋本治さんは、なるほど不思議な人なんだ。

 その道筋は簡単なもので、宗教はism(主義)と同等であり、いや主義そのものであるのだと言う。そして、そんなismが発祥した時期は普通の人が学校へ行くことがままならい古代という時代であり、「自分を認識する」などということがほとんどあり得ない状況。そんななか、物事を自分の頭で考えて決めるという行動をとれない人がほとんどだった社会のなかで生きていく知恵として昇級というismは発明されたということである。そして最後には、自分たちは特別な集団であるという気分、自然や社会そのものに感じる恐怖をやわらげるための錯覚という方法なのだと結論づけている。いや、ちょっと違うかもしれないけれど、ぼくが理解したところを表現するならばそんなところになる。一回しか読んでいない状況で全部理解するのは、まぁ無理であるから仕方ない。

 こう考えると、宗教の役割はすでに終了している。なぜなら、みな自分で自分のことを考えることが原理的にできる環境にあるから。とは言っても人間が一様な環境下にいるわけではないから、できる人もいるし出来ない人もいる。おそらく、永遠にそうなんだろう。日本人に限って言えば、みな自分で自分の事を理解していると信じている。

 鎌倉から江戸までの時代には、宗教にはそれなりの信頼と畏敬の念を感じていたようである。しかし、江戸時代の檀家制度によって宗教が社会システムに組み込まれてしまい、それによって宗教の内実がばれ、普通の人にとっては畏敬ではなく笑いの対象になってしまったようである。幽霊は怖かったが、仏教が怖いということはなかったのだ。それは平和のなせる技、ということなのだろう。そしてそれは現在に至る。

 この本を読むまで、宗教とは人の心に働きける方法だと思っていた。その部分をさらに客観的に分析すれば、宗教は「主義」と違わないとわかる。逆に言えば、主義は宗教みたい。ある人のこだわる価値感を論理で説明されたところで理解できるというものではない。何を良いと思うかは人によって異なるから。主義にどっぷり浸かっている人は、不思議とそれを理解していない。自分の主義は決定的に正しいと信じている。そんなところは宗教と同じだ。自分たちがよいと思うものは、時自分たちにとっては疑いなく良いものであり、その意味で特別である。他の似たいようなものとは一緒にするな。宗教も主義もそれをもっている人の行動は同じになる。

 宗教の価値観は、そもそもが他のものと比較できないようになっている。比較演算ができない。論理というものが適用できない。だから、信じなさい、なのである。信仰をもつとは、要するに考える行為を放棄したこと。古代や中世であれば、普通の人が学ぶということは無理だった。学ぶのは社会生活を営むうえでの身体を使う技術に対するものがだけであったはずだ。

 思索というものは、職業訓練学校では学べない。突き詰めて考えるには、それなりの訓練がいる。学ばなければそうことは出来ない。ならば、それは古代でも現代でも同じ。だから自分で判断しないタイプの人はすぐに宗教にひっかかるのである。主義主張も宗教に経験なのもとくに男性。

 こう考えると、Windowsがいいか、Macがいいかも昔ッから言われるとおり宗教問題である。論理で決着は着かないし、双方自分が正しいと思っているので和解もない。もっといえば、どっちでもいいと思っている人からみるとあほらしい。

 宗教はあほらしいと思う反面、薄気味悪い。巷で跋扈している宗教に対してなんとなく薄気味悪く感じている人は多いだろう。一昔前のオウム事件を初めとした新興宗教も、タリバンなどの古くからある宗教の原理主義も、彼らの行動はその人たちにとっては真剣そのもの。しかし両者ともに日本の一般市民からは阿呆臭く、迷惑以外のなにものでもない。今年の衆院選にも新興宗教の候補のポスターが貼ってあったが、平成初期の頃を思い出した。歴史は繰り返すというが、この人たちにはなんで普通の人の感覚というものがわからんのだろう。主義や宗教のなせる技である。

 いかなる宗教でも、現代ではただの主義、あるいはイデオロギーの一つに過ぎないならば、熱狂的阪神ファンとキリスト教とは構造からして同じに扱っていいのだろう。もちろん、歴史や社会に与えてきた良い影響というものは尊重したほうがいいし、人が大切に思っていることをけなす必要は全くない。普通の人がそれらに対してある種の恐怖のようなものや気味悪さを感じる必要もない。しょうがねぇなぁ、と笑い飛ばすのが一番である。これがこの本の一つの主張であり、主義や宗教にたする処方箋になっている。書名のとおり「宗教なんかこわくない」のである。江戸の町民のように、主義も宗教も笑ってしまえばいいのだ。なんとさっぱりしたものだろうか。

2009年9月 2日

ShallWeダンス?

周防正行
幻冬舎文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 最近ブログで読んだ書評でこの作品に興味をもち、DVDをレンタルで見てからこの小説を読んだ。映画はロードショーのときだからもう10年以上前のこと。所々記憶しているが、完全に忘れいているところも結構あった。ラストは感動で、涙。

 小説の進行も映画通りなので、読んでいるのに頭の中では映画がかかっているという実に便利な体験をした。文を読んだのに映像で理解してるのが面白いのだ。小説を読みまくった人、文学青年、あるいは小説家はこれくらいのことが頭で起きているのかもしれない。だったら実にうらやましい。なぜなら、本を読む楽しさがぼくの千倍以上違うからから。ポータブルDVDのようなものが必要ないだろう。自分の頭を鍛えるれられば、なんと便利な楽しみを持てることか。

 小説版と映画とで違うところはラストシーンのみ。どうしてちがうのだろうか。後書きに理由がある。

知り合いのプロデューサーのH・T氏に、試写を観みた後、「最後はパーティに行かないと思ったんだけど」と言われたのである。「行かないでどうすると思われたんですか」と聞くと、僕より少しだけ人生の先輩であるH氏は「一人で公園で踊ると思ったんだよね」と答え、少し間を空けてから「この歳になるとさ、そんな気がするんだ」と小さく寂しそうな笑みを浮かべた。

 小説ではそれを試みたということである。最初に映画を見たときぼくは20代だったので、役所広司が演じた杉山さんの感情を体感するところまでは不可能だった。ところが今の連例ならば役所広司が演じた役の年齢に近い。だからだろう、この作品が言わんとしていることを肌で感じることができるのだ。もっともぼくは出世もマイホームも子供も持っていないので杉山さんとはあまりにも境遇が違うのだけど。それでもこの年齢の人ならば感じる通奏低音のような感情を理解できる。映画でも小説でもそうだが、自分の年齢が変わるたびに同じ作品を観賞するのは面白い。物語の進行を知っていたとしても、そのシーンの味わいは全く別のものになるから。年代が違うと同じ作品でも別の感覚で観賞できるということはいろんなところで耳にするが、なるほど本当にそうだなと納得できた。知識が知恵へ転換した瞬間である。

 問題のシーンについて。小説の最後の2ページ。小説の方が意外性があり、劇的。こっちのほうが感動があるのではと感じた。物語ならではだし、ラストシーンらしい。深いものがあるように思えたから。それに映画よりもこちらの方が全体として貫かれたテーマがはっきりする。杉山さんの行動は小説の最後の方が「正しい」と思うから。

 じゃぁ映画もそうしたらいいかと言えば、それは違う。なぜか。それは小説では文章によって杉山さんが考えた思索が読めるが、映画は普通の人はわからないから。読者は杉山さんの心の中を文字で読める。映画ではそれができない。人の心の中を憶測するのは映画の楽しみのうちなのだろうけど、大抵の人は理解できないもの。適当に勘違いするのが関の山だ。思索を映像と音楽で表現するのは難しい。思索をナレーションとして入れると「説明」臭い。ある種の嫌みがでるかもしれない。なるほどならば映画は今の映画の終わりでいい。

 最後の2つの結末を知り、その両方の良さを理解し、両方好きになったところで、ふっと気がついた。これがパラレルワールドというものなのか。ああすれば良かった、と過去を思い返すときにパラレルワールドという言葉を思い浮かべる。大抵の後悔は、現在とは違う状況を思い浮かべ、そちらの方が今よりも「いい」と感じるからだろう。ところがその違いについては判断できないはず。なぜなら両方を体験することができないから。比べようがないじゃない。比べられない以上、「もしかしたら」というパラレルワールドの方が「いい」ような気がするのは当然のこと。それを後悔と呼ぶのである。

 この小説を読んで思うだが、仮に2つの選択しがあったとしたら、実は両方とも「あり」であり、つまりどっちを選らんでも同じような結果になっているというのが本当のところではないのだろうか。つまり、選択によって未来の違いというのは、実はたいしたことがないのではないか。はたいしたことがなく、どちらもそれなりに「よい」ということはないのか。パラレルワールド自体によい、悪いの違いなんてないんじゃないか。

 おそらくだが、選択の結果というのは、選択する前の履歴によってほぼ決まって、選択によって結果が天と地に別れるというのは現実否定をしたい心理から来ているだけで、実のところ「勘違い」なんじゃないか。因果を強調することになるけど、選択の違いなんてじつはなくて、それ以前に何やったのかによって、選択の先が決まるだけなんじゃないか。

 なんだか実に不思議な気分のままこの本を読み終えた。映画を見たときの感想は、この映画は「ローマの休日」のような永遠性まではもう一歩だ、というものだった。その理由は「舞さんと踊りたい」という杉山さんの思いが達成されたからだろう。小説にあるように、その思いが達成されないで遠くに行ってしまうという哀しさと向き合うところで終わると、「ローマの休日」にある永遠性を獲得できているのではないかと感じる。なるほど、ならばぼくは、小説版の方が歴史に残ってもらいたい。


2009年9月 1日

中国 地球人類の難題

井沢元彦
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 井沢元彦さんの本はどの本も歴史に疎いぼくにすら「なるほど」を与えてくれる。歴史などろくに勉強しなかった人には貴重な学習の機会になるはずで、これまで読んだ日本史や宗教講座を扱ったもの以外にも読んでみたかった。歴史談義をするための歴史の知識などは普通の人にはどうでもいい。そんなことより日々のニュースを聞くときに補助線となってくれるような題材の本があるといい。ニュースキャスターの解説やら大学教授をはじめとした識者の発言は、なんでこんなに意味がないかあるいはピンボケの発言ばかり。発言者の「べきだ」論などどうでもよい。日々の生活には役に立たない。そんなものより、ニュースの構成するおおもと、つまりは地域や歴史、それらがどう変化し複雑化したのかを普通の人が把握しやすいように解説してくれる井沢元彦さんの本が読みたかったのだ。

 そういう期待で手にしたこの本のテーマは「中国」について。何やら敵対的な内容である。中立であろうとする知識人やある種の中国利権者からは白い目で見られる本であろう。もちろん普通の中国人から嫌われるのも間違いない。本書の主張は要するに、現代の中国にはいろいろな問題がある、ということ。出版された時期は北京オリンピック前。ボイコットするしないといったことは本書でもふれられているけれど、今となっては「ボイコットはなかった」ことがはっきりしていて、些細なことだがこの本に古さを感じさせているが、それ以外は別段古びていない。

 内容としては予想の範囲内である。要するに、今の中国の普通の人はどえらい苦労を背負わされているというもの。そのこと自体はいろいろなメディアでの報道とそう違いはない。住めば都と言われるが、中国で暮らす人もそうなんだろうか。家庭のレベルでは家は楽しいのだろうけど、社会や国というレベルになると必ずしも「良いことろだ」とは思っていないだろう。どんな人もそういう感覚はあるかもしれないから、程度の問題なのだろうけれど。

 なぜ井沢元彦さんは中国(政府?)について否定的な主張するのか。それはナチスに対してどう考えどう対応したらよいかという意味である。迷惑な隣人が出現し、その数が増え、やがて周りの国に災害をもたらすであろうということ。ナチスは過去のことで、しかもドイツ。その組織の発生、興隆、その結果は既に確定している。人類史に残る災いが生じた理由については多くの研究対象になっている。その成果を踏まえると、どうやら中国政府には危険なものを感じるということだ。そういう主張のようである。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。住んだこともないので、ぼくには判断しかねる。それに人によって判断はいろいろかわるだろうし。少し前の日本も結果的には似たようなところがあったし。

 政府レベルではろくでもないとしても、その構成員である普通の人の評価は別である。普通の人が寄り集まって組織をつくると、その結果できてくる政府にはいろんなタイプのものができる。構成員一人一人の性質ならば、人類はそれほど違わないだろうは思っている。個人としては、いい人もいれば悪い人もいるという、どの国でも同じことだろうと思うんだ。

 ただし、この本を読んでいて、やっぱり怖いなと思ったことがある。それは、すさまじい格差の問題である。

 中国製の商品は安い。質がいいものもあるし、悪いものもある。食品などは農薬などでリスクが大きい。ただし、そういう点はどの国も同じだったはずで、人々の認識はだいたい似たように発生し発展するはずなので、時間がたてば世界的な基準に収まってくるだろう。なので、中国製品に対する不安は時間が解決するはずである。

 なぜ中国の製品は安いのか。安全性への配慮が弱いからではない。人件費の安さである。職人技を期待しないならば、あるいは「工夫する」「我慢する」というような、製品を作るために必要なメンタリティーが必須でないような工場システムを作ることができれば、中国には大勢の人がいる。言葉の上ではうまく表現できないが、信じがたいくらいの人がいる。当然、農村部に多くの人がいる。大抵の国の人口よりは遥かに多い人々がいる。だから人件費という面で中国は世界で飛び抜けて安い。その安い実験費のために中国は経済発展している。

 ということは逆にいえば、人件費が高騰したら他の国と条件は変わらない。教育なり訓練なり、インフラなりによってコストは上昇する。中国がなぜ経済発展しているのか。はっきり言えば、中国には「奴隷」のような状況の人が数億人いるからだ、と考えるといいのかもしれない。なるほど、そりゃ、一人勝ちできるだろうけど、発展すればすると危険な状況に国が置かれるのは明らかだ。

 国全体が似たような状況にあった時代ならば問題はないだろう。ところが現在のように都市と農村との違いが過激になると、都市の人は農村の人を「奴隷」のように考えるのではないだろうか。自分たちとは違う人々、のような感覚を抱き始めるのではないかと思う。そりゃそうだろう、あまりにも生活が違い過ぎる。同じ国の人だといっても、上海の高層マンションに住んでいる人と農村部の人とでは「同じ中国人」などと思えるはずはないのではないか。日本がそうなっていないのは、バカみたいな金持ちは別として、大多数は似たような暮らしをしているからだろう。

 オリンピック前後で、中国国内の人々の身分ようなものが確定してしまったのではないかと漠然と想像する。中国としての行動が、中国人というが都市の人であり、それ以外の人は中国人ではないというものが都市部で膾炙されるようになったりしているのではいか。金持ちは貧乏人の姿をみようとはしないし、手を差し出すことはしない。国内の貧富の差による不満は国を揺るがすことになる。そんなことは世界史の教科書を読めば、どの時代のどの国にもあったと知ることができる。人の基本的な性質から起きる現象のはずだ。だから時間の問題。

 中国製品は安いなぁと単に思っていたけれど、その背後にある貧富差の拡大と実質的な奴隷制、そして大勢の崩壊という筋が見えているだけに、この本を読んでいてそら恐ろしい気分になった。何も他人の不幸を願うつもりないので、うまくやってれればそれに越したことはない。助けられるところは助ければいいだけだ。だから、この本のタイトルも「地球人類の難題」ということになっているのだろう。