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2009年10月26日

45分でわかる! 新型インフルエンザの基礎知識

池上彰
(MAGAZINE HOUSE 45 MINUTES SERIES
お勧め指数 □□□□■ (4)

 新型インフルエンザについて基本的なことを知っておきたいと感じていたときにアマゾンでこの本の広告が目に入った。著者は「優しく解説すること」に人生を賭けていそうな人だし、そもそもからして「偏りのないような」配慮をたたき込まれたであろう人である。読んでおいて損はないだろう。

 手にして驚いた。まず本が薄い。フォントが大きい。そして、要らないものがないような配慮がなされている。それでいて高齢者向けの本や子供向けの本にありがちなレベルの低さはない。内容は「平均的な日本人」と期待できそうな人たちに向けに設定されているようである。役所が作るような「ちょっとおれらをバカにしすぎてないかい?」といいたくなるほどまで情報を加工したり落としたりしていない。普通の人ならば読んでいれば発見があるだろう。なんだ、それって無意味だったのか、というような。「解説書」というものはこのレベルを保ちたいものである。

 H5N1というインフルエンザのタイプ表示の解説がよかった。鳥インフルエンザのときにニュースに盛んに登場していた言葉だが、その意味についてこの本では完結に解説されていて、なんだそうなのかと知ったのである。Aソ連型や香港型といった、従来から耳にしたインフルエンザ、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザについての整理が頭の中でできた。だからインフルエンザについては従来以上にさっぱりとした気分になれる。もう、変に怖がることなどないであろう。

 本で得たものは知識である。何かを知ったからといって厄介なことに巻き込まれないわけではない。しかし、することで心理的な覚悟はできる。インフルエンザはどういうものなのか。どいう種類があるのか。どういう仕組みで、どんな人に、どんな状況で広がっていくのか。感染したらどんなことになるのか。こういったことを「センセーショナルな味付けないし」で淡々と語ってくれればいい。不安を煽ってお金を手にするマスコミ、情報に不備があったことによる責任追及を逃れるための配慮に余念がない役所には、淡々とした解説などを期待するのは無理である。だからこそこの本のような、読む人を配慮した本が必要なのだ。その意味で、この出版社や著者は日本の常識のまともさを表してくれていて、ちょっとうれしい気がした。

2009年10月23日

差別と日本人

野中広務+辛淑玉
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この新書は書店で平積みされているのを見かけたときから気にはなっていたのだけど、手にする事はなかった。差別についての本なのに結構売れているのはなぜだろうと少し不思議な感じがしていた。
 例によって通勤電車の乗り換え駅で時間がないとき急いで手にしたのはこの本。選択する時間がないときは、以前から気になっていた本を取り上げるものだ。つまりは平積みも宣伝効果があるということである。差別問題を切実に感じる世界にいないぼくにはあまりピンと来ないない内容だろうと思っていたが、読んでみて初めて問題の糸口がわかったような気がする。

 ぼくは東京生まれで東京育ちである。社会科の勉強のなかで差別だの朝鮮だの同和だのの用語を耳にしたことはある。教科書には「やってはいけないことです」などと強調されていたはずだ。いやしかし、ぼくの周りにはそんなものはなかった。だから「一体、何言っているのだろうか。」子供の頃はそうもっていた。成長するにつれ関西にはそういう問題があるらしいと知るようになったが、それでも「一部の右翼的な人」がそうしているに過ぎないことだろうと思っていた。

 ところが現在でも結構あるようである。なぜそんなものが残っているのかはわからない。自分の近くにないからだろう。それにしても、アナクロニズムな世界が未だに残っているのが信じがたい。

 差別は「感情」である。論理ではない。なぜメロンが好きなのか、なぜ生のタマネギが嫌いなのか。そんな理由はいくら自分を探ってもわからない。仮にわかったからといって、好き嫌いがなくなるわけではない。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。これは、子供のときに憶えることであって、どうして憶えたのかの経緯は不明であることが多いだろう。それであってもちゃんと心に刻まれている。万引きが悪い事です。そういうのと同じで、子供の頃からやっている人にはいくら教えても無駄なのだ。差別という感覚も子供の時に憶えたかどうかで決まるのだろうと思っている。

 ならば、子供の時にこの本で取り上げられた差別が身の回りになかった人は、大人になっても「差別する感覚」は存在しない。ある種の演技は可能かもしれないが、心情としては湧いてこないだろう。一方で、子供の時にあった人は、大人になってもあるだろう。それは論理で教えても無駄なものである。つまり、関西で育った人は「お気の毒様」ということである。日本人が反ユダヤ主義と無縁なように、関東人はこの種の差別とは無縁なのである。

 東京に生まれて良かったことはなにか。それは、この本にある差別は現代の関東にいれば関わらないですむということだ。関東人ならば差別がないのかといえば、そうではない。その対象が違う。差別と同根のいじめは東京でも盛んに行われている。

 人というハードウエアは日本全国どこでも同じだ。差別には物理的実体はない。いわばソフトウエアだ。ハードウエアとは関係がない。ならば差別の理由などない。差別しなければならない環境があるだけだ。環境がないところには差別も存在しない。この本のタイトルの「日本人」は言い過ぎだろう。差別の種類によって地域性があり限定的なことでしかないのに、まるで日本全国この問題があるような雰囲気になってしまう。もっとも、対象は変われどなんらかの差別は程度の違いはあれ必ず存在するものである。違いが「ある」のだから。

2009年10月22日

須賀敦子のフランス

稲葉 由紀子+稲葉 宏爾
河出書房新社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 フランスに旅行に出掛けることにしたので、そのまえにこの本を読んでみた。ちょうど『ヴェネツィアの宿』を読んだ直後だったので、その本にあったフランス留学時代の話の引用がこの本に写真で紹介されていて、なんだかうれしくなった。そうか、こういうところに学生寮があったのか。パリにはこれから訪れるとはいえ、とても須賀敦子さんの足跡を訪ねることなどできないので、この本を読んで現地においてイメージを重ねて楽しむことにしよう。

 フランスというとパリが思い出され、おしゃれでファッションな街だと連想される。ところが実際歩いてみると、パリは楽しい街ではなく、むしろ最悪かもしれない。とくに中心部は車の騒音が非常に耳に付く。建物が道路を隙間なく囲んでいるから残響のせいかもしれない。ローマやロンドンはこんなにうるさくない。パリを歩くと心理的に疲弊する。だからフランスはパリを中心にイメージしないほうがいいんだろう。

 なるほど、この本の表紙は田園である。田舎の緑。ブドウ畑。そういう風景の方がよっぽどフランスらしいのかもしれない。国土の本土はこういう風景なのかもしれない。パリから三十分も電車にるとこんな風景に変わるのだ。建築はさておき、パリの喧騒などはお金をかければ中東にだってできるだろう。しかし、この畑は何処にでもできるわけではない。表紙と口絵の写真を眺めながらつくづく理解した。TGVの車窓で一番よかったのは、中仏から南仏にかけての畑だ。本当に山がない国なんだ。どこまでも畑という風景がことに美しかった。

 そんなことを思い返しながらこの本をしげしげ眺めると、なるほど上手に編まれた本だなと思い、旅行を思い出すのであった。

2009年10月10日

すべての道はローマに通ず<上><下>

塩野七生
新潮文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 ヨーロッパへ行く飛行機の中では、塩野七生さんの作品を読むことに決めている。ぼくは生きている間はそうしようと思っている。いいんですよ、これ。これから行くヨーロッパにワクワクしながら読むのが。狭くて暗くて、たまに子供が泣きわめく地獄絵図のようなエコノミー席で生き延びるためには、こういう強い本でないといけない。

 今回のフライトは南フランスのニームにあるポンデュガールという古代ローマの水道が目的のもの。古代ローマでは最大級の水道橋で、いつかその大きさを体感したいと思っていた。ついに見れるというわけ。そしたら読むのはこの本でしょう。

 この本は、古代ローマが作った公共建築の物語である。シリーズの他の巻とはちょっと感じが違うが、読者に語るスタンスは同じ。専門家向けではないし、また、それを意図もしてない。視点はイベントの記述ではなく、そもそも街道なり水道なりという社会のインフラストラクチャーというものはどんな人がどんな発想ででき上がってきたのか。そのイメージを紹介する。

 インフラストラクチャーという言葉はニュースでも解説ぬきで頻繁に使われている。社会生活を支える基盤、おもに道路や橋の建設を話題で使われる用語である。もはや当たり前の単語。

 インフラ作りは「国」ならば当たり前にやっていると見なされている。だからずっと昔からインフラという考え方があったような気分になるし、誰かが始めたというものでもないように思っている。もっとえば人類が成立したときからありそうな考え方である。が、そうではない。これには始まりがある。

 この本では古代ローマのアッピウスを引き合いに出して、街道も水道もアッピウスが手本を見せたという壮大な話を語っている。なんとも愉快な気分になるが、まぁちょっと盛りすぎな感もある。というのは、インフラづくりのお手本になったにせよ、それに対する何がしかのお手本が先行してあったはずで、それは単に残っていないだけかもしれないからだ。それに、古代ローマの記録には、必ずしもアッピウスが先頭になって構想し実現したということではないようなものもあるそうだ。その真偽についてぼくはわからないし、事実を確定させたいとも思っていないので、アッピウス説を記憶することにしてしまう。

 こういうところが専門家から無視される理由なんだろうけど、専門家の書く本はどれもこれもつまらないのでぼくには必要ない。足しようの間違いがあってもいい。それよりも、過去の人の偉大さを体感でき、自分も前向きに生きていくための手段のような本が好きで、それで塩野七生さんの本が大好きなのである。

2009年10月 8日

世界は分けてもわからない

世界は分けてもわからない
福岡伸一
お勧め指数 □□□■■ (3)
八重洲ブックセンター

 タイトルに期待して購入したのだけど、これはエッセイ集だったためか、ぼくが求めるような考察は書かれていなかった。世界は分けてもわからない。生科学を極めつつあった人が従来の分析・解析手法の行き詰まりを語るとうようなストーリーならば良かったんだけど。

 とはいえ、エッセイは悪くない。それどころか、須賀敦子さんのエッセイを引きながら自分の考察を加え、まして「でもね、須賀さん」などと呼びかけてしまうところがグッとくる。ぼくもそんな風に過去の賢人に話しかけ、質問してみたい。だけど許される雰囲気にない。やっぱり、それなりのことをなした人でないと偉人に話しかけられないような気がするから。

 後半部分は、ある科学者のインチキについての物語である。その科学者があれよあれよという間に成果を挙げていくのを横目で見る同僚?視点からかかれている。ぼくは学者の世界にどっぷり浸かった事はなく、またそういった競争にも興味はないからピンと来ないといえば来ないけれど、それでも不思議な場面に立ち会ったような気分になれた。福岡伸一さんはかなり上手な語り手なんだとわかった。

 今後も研究の合間にいろいろなものを書いてもらいたいと思っているが、気になるのは調子に乗りすぎて対談などのお気楽な方法に走ってしまうことである。斎藤孝さんや茂木健一郎さんのような方向へは走って欲しくない。

2009年10月 6日

ルーブル美術館の楽しみ方

赤瀬川原平
新潮とんぼの本
購入店 日本橋丸善
お勧め指数 □□□■■ (3)

 十月に休暇をとってフランスへ行く。目的地は古代ローマ遺跡であるポン・デュ・ガールの大水道橋。とはいえ、当然パリ市内をうろつく時間もとってある。ルーブル美術館で何日か過ごすつもりである。ならばガイド本が必要。

 大きな美術館や博物館で長い時間を過ごすのはなんとも幸せなひとときである。贅沢というもの。とはいえ、ヨーロッパに行くと実際には時差と疲労とで思ったより楽しくない。これまでの経験からそれを身にしみてわかっている。しかし、そこがどのくらい「良い」美術館なのかで帰国後に旅行を思い返すときに違いがでる。全く何も憶えていないのか、それとも不思議と細部が思い出されるのか。

 ロンドン大英博物館には合計二十四回、ロンドンナショナルギャラリーへも二十回くらい行った。そして、そこで過ごした思い出は大げさではなくぼくの一生の宝になっている。思い返せばそれだけ楽しめるし元気がでてくる。実際に滞在した時間以上の時間、思い出がぼくを励ましてくれる。ならば今度のルーヴルもそれらと同じくらい実りのあるものにしたい。

 広い博物館は急ぎ足できょろきょろしてしまいがち。しかもあたふたしたわりにはなんにも記憶に残らない。そういうのは避けたい。オリエンテーリングではないのだから、有名な作品の前へ行く事やなるべく多くを見る事などが目的ではない。気に入りそうなものの前で長い時間を過ごせばいい。なるほどなぁ、これはいいかも。そう思う時間を持てれば持てるほど結果として一生ものの思い出が持てることになる。

 ではぼくはルーブルで何を見ればいいのか。モナリザやミロのヴィーナスという超弩級の一品もよいが、その他にもいろいろ見た方がいい。「見てきたよ」という事実を他人に誇ることなどどうでもよく、あくまでも作品に感動できればいいのだ。広いルーブルで何に注意すればいいのだろうか。そんなことを考えながらこの本を手にした。

 結論から言えば、なんてことはない楽しめばいいんじゃないのか。そもそも著者にガイドしようという姿勢はない。この人は自分なりに写真をとって、絵をみて、なにか面白いものを探しているだけである。ここを見なければ、などという気負いはまったくなく、単にルーブル内を「ぶらぶら」しているようである。

 いやぁ、ルーブルなんでまた来れるよ。そう考えてへんな「気負い」を一掃したほうがいいみたいだ。とはいえ子供のようには観賞したらダメ。子供達が美術館で何をやっているのか眺めると、楽しんでいるだけである。もっとも、彼らは(やっぱり)何も見ていないので記憶には何も残っていない。それじゃね。

 ということで、この本では何がどこにあって美術館はどういう雰囲気なのかを知っただけで目的を達成できたと思うことにした。ぼくはぼくなりルーブルの中をぶらぶらしてみよう。

2009年10月 4日

聖者の戦い

佐藤賢一
集英社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 非常に面白い。人が論争し始めると必ず生じる「右」と「左」という立場について、フランス革命の中での実例を描きながら、読者に「本質的に面倒なこと」を「面倒なままの形」で示してくれている本である。いかにして議論すればよいか。このテーマを扱う本は数多く出版されているが、人類史の大イベントのただ中で行動していた人たちをモデルとし、歴史小説の形で提示してくれているものが外にどのくらいあるのだろうか。日本語で、しかも面白いものが読みたいならばこの本しかないはずだろう。

 ぼくは世界史が不勉強のままで、フランス革命については簡単な穴埋め問題程度の知識しかないけれど、知識のありなしなどはこの本を楽しむのに無関係である。また、この本を読んだからといって、世界史の勉強になるとも思えない。この本の目的は、要するにこうだろう。これまでと考え方ががらっと変わるという状況におかれた人々はどんな行動をとるのか。なんだか面倒そうなテーマだが、実際フランス革命ただ中に居合せてしまった人々の行動を渦中で覗き見することで、このテーマについて考えることになる。

 とはいえ、ちょっとしたフランス革命についての蘊蓄も自然と頭に入り込む。例えばこんなこと。どんな話題でもそうだが、何かを変えようとするときに必ず「保守:右」と「革新:左」との意見がでてくる。なぜ右と左となのだろうか。これはこの小説においての中心舞台となる議会における議員の座り方に由来する。向かって左側に座っている議員は「とにかく革命、国民が主権。王侯貴族はどうでもいい」という集団、右側はその逆の王制を懐かしむ人か聖職者であったのだ。そして、その間は意見もその間ということになっている。さらにそれらの席は階段上になっており、上に座る人ほど意見が過激になっている。なるほど、知識も仕入れられる。

 右でも左でも、それらの意見を過激なまでに支持する人は「原理主義者」である。つまり、自分たちが提案している考え方(意見なのだが)が「とにかく素晴らしいもの」であって、それを曲げる必要ないという態度だ。当然、自分の主張が相手に100%受け入れられないということを認めない。右も左もそういう態度であれば、決着はつかない。それどころか、非難合戦、中傷合戦、さらには暴力合戦になり、議会から去るか議会が破綻して終わりになる。そして、中間部にいる人は両者ともに極端だと思って賛同できないと思っているうちに自分の居場所が消えてしまう。原理主義の人たちだけでは議会は機能しないし、そもそも話し合いというものが無意味になる。

 タイトルにある「聖者」とはキリスト教の僧侶のことである。中世において力をもちつづけていたキリスト教聖職者はフランス革命後にどう扱われるようになるのか、国家の大権である戦争開始の権限は誰にあるのかということで議会がもめにもめる。とくに右の集団は既得権確保、左の集団は革命が革命であることの意味を追求することになる。両者ともに妥協せず、かつ譲らないのであれば、なんてことはない、議会が破綻する。

 こういう状況は世間によくある話である。互いに相手をバカだといいくるめるか、それとも二度と会わないようにするか。ぼくだってそのどちらかを選ぶが「自然」な心の方法なのだ。この本でぼくが唸ったのはミラボーの解決案と議論の着地の仕方である。右と左の間で平行線を辿るような話し合いのなかで着地の模索する。よくよく考えてみれば自分の身の回りにもよくある風景ではないかと気づく。仕事上での議論や政治ニュースでは、この繰り返しなのだ。そんなことに気づくと、俄然この小説が面白くなる。フランス革命はある意味、「ひとごと」ではないのだ。

 こういう場合、どうやってものごとを収集するか。フランス革命では一番上手に立ち回る役にミラボーがいた。なるほど、彼は右と左との妥協点を探し、それに向けて根回しをし、みんなを着地させようとする。右の人も左の人も不満ながらも受け入れるよりないと気づき、どちらでもない人は妥協案に賛成することになる。そう、なんてことはない、痛み分けの構図なのである。結論だけ聞くと当たり前で面白みがない。それに原理主義者たちは妥協するくらいならば放棄するのではないかという疑問も残る。この小説はミラボーの視点、右や左の人物の視点になることで、なぜ彼らが「妥協に至ることができたのか」、その過程を体験できる。それは論理ではなく心情、心境の変化からの理解なのだ。「なるほど、そういうわけか。」読みながら何度もつぶやいてしまった。

 妥協という言葉に嫌悪感を持つ人はこの小説を読むとよい。おそらくそれで未来が読めるから。例えば、先日の選挙での論点、八ッ場ダムでの争いなどは一体どうやって着地させるのか。両者の妥協点はどこか。どちらかが一方的に勝利すれば、その場は決着したかのように見えてもいずれ氾濫が起きる。長期的に見れば失敗案になっているのである。

 妥協案を探すことは、両者を足して2で割るというものではない。どんな妥協を探すのかは、ある種の芸術ではないかと思ってしまう。

2009年10月 1日

逆立ち日本人論

養老孟司+内田樹
新潮選書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 最近、昔読んだ本を読み返す機会が何度かあった。新刊だとがっかりすることも多いので、より確実に面白い本を読む方法として結構気に入った。どんなに感心し、そこから学んだ本であっても、一回しか読んでいないならまだまだ読んでみると発見はある。数年も経てばかなり内容を忘れてしまうもので、それならば新規に購入することを控え、過去に読んだ本を読み返すキャンペーンをやろうかとすら思っている。とはいえ、買った本のうち半分は読んでいないので、正直新刊を買う必要はないのだが、それでも買ってしまうという悪癖をなんとかする方法ともいえそうだ。

 この本は、大好きな両氏の対談であるから、どきどきしながら読んだことを憶えている。表題の「逆立ち」とは対偶のことを指しているようである。論理学か数学を学ぶと命題証明について学ぶが、対偶とはそこで用いられる考え方である。AならばB。もしこれが正しければ、BでないならばAでない。これも正しい。後者を対偶と呼ぶ。

 日本人を定義する方法に、日本人ならばこういう人である、記述するとする。ところが実際この方法で定義することは難しい。だからこの対偶を使うのである。こういう人でないならば日本人ではない。ちょっとじれったい表現方法である。知りたいことは日本人とは何か、なのに、日本人でないとはどういうことかを考えるのだから。

 内田樹さんはこのロジックでユダヤ人についての考察をしている。なるほど、と思える。なにか別ことにも追うようできそうだ。内田樹さんの問題の捕らえ方を養老孟司さんが高く評価している。そして、それをつかって日本人論になっているのだと思って読めばいいのだ。

 この二人の取り合わせの対談、別の機会に出版されないだろうか。新書サイズでもいいので。