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2009年11月28日

美術で読み解く新約聖書の真実

秦剛平
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 この本のタイトルは少し大げさだろう。「真実」というほど何かをつまびらかにしていないし、「読み解く」というほど図像を解析していないからだ。旧約聖書学者である著者が、新約聖書のプロットをネット閲覧できる絵画を用いて解説し、新約聖書の「トンデモ度」をおちょくる本という紹介が一番ぴったりな感じである。なので、真剣にキリスト教と向き合っている人には腹立たしく感じる内容だろう。でも、普通の日本人に対してならば、面白おかしく知識を獲得する手段であろう。

 著者は聖書に書かれた物語のおかしなところをいろいろ挙げてくれる。「信じる」ことからほど遠い人である。学問対象として聖書を選らんでいるからだろう。キリスト教とは無縁の育ち方をした日本人の感覚に近い解説をしてくれる。なので、それはそれで普通の日本人からみればありがたい。

 しかし、それではなぜ聖書を研究するようになったのだろうか。研究の動機は興味であり、もっといえば、好きだからというのが普通であるし、また素直なものである。好きでもないものを探究するなんて、もっと言えば自分がおちょくるような本を研究するなんてことをどうして始めたのだろう、その必要があったのだろうか、不思議である。きっと勉強しはじめたときは好きだったが、勉強していくうちに「聖書」が形成されていくプロセスとその人間臭さのようなものを十分に知ってしまい、とてもじゃないがやってられなくなった。そういうところだろうか。

 西洋絵画のうち、名画と評価されているものは聖書の物語を題材としているものが多い。とくに中世から近代までの長い間、絵といえば聖書物語の一シーンといってもいい。となると、名画を観ると女性と子供が主役なのが意味不明であるはずだ。キレイな女性は絵になるが、この子供はちっとも可愛くない。西洋人の子供は可愛くないものなのだろうか、と疑問が湧いてくる。実際ぼくはそう思っていた。

 わけわからない状態で絵を見続けるのは辛い。だから、絵画なんてつまらんと思ってしまう。だからだろう、日本で名画といえば「印象派」に限定されてしまう。これならばキリスト教の知識ゼロでも楽しめるからだ。

 でも、それじゃぁもったいない。絵画はその意図することを知ることで、味わいが増す。
 例えばフランス名画を考えてみる。意味不明のフランス映画を見続けることは苦痛だ。何言っているかわからない。女優さんがキレイとかしか思い浮かばない。しかし、字幕がでたり吹き替えを聴いたり、あるいはフランス語を学んでから見れば楽しさが増すだろう。それと同じように、聖書物語を知ることで、西洋絵画を見る面白さを発見することができるのだ。

 とはいえ、聖書をゼロから読んでもピントこないものである。というのは、信じる人たちに向けて書いている本を普通の人が読んでいくと、突っ込みを入れたくなる箇所ばかりでとても読み続けられないからである。

 ならば、絵の解釈に必要な部分の聖書物語の解説があればいい。著者である秦剛平さんはそういうコンセプトでこれまで何冊か著作を出版している。それらを読んだが全部愉快なものだった。しかも山本書店の翻訳本がある人だから信頼度は高い。

 この本も面白いだろうなぁという予想を持って読んだのだけど、どうだろう、もうひとつだった。新約物語の進行に合わせて、重要なシーンを挙げ、それの解説を行っているというスタイルは以前の本とかわりない。また、物語全体からみた各シーンの矛盾点などをきちっと?おちょくってくれている。それでも、なにかが足りないのである。はて、どうしてこの本はもうひとつなのだろうか。

 多分だが、『美術で読む〜』という以前の著作をぼくが読んでいるからであろう。つまり、この本はそれらの焼き直しの要素が多いからだと思う。「しってるなぁ」「聴いた事あるなぁ」というところが結構あるのだ。そして、決定的なのは、秦剛平さんのカルチャースクールでの講義をぼくは聴いていることだ。そう、この本はその講義での話題を再構成してまとめたようなものなのだ。だから、面白いはずない。というわけでこの本は秦剛平さんの著作を全く読んだことがない人にお勧め。

2009年11月27日

恋するたなだ君

藤谷治
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『船に乗れ』があまりに良かったので、同じ作家の他の本を漁ってみることにした。

 藤谷治さんのデビューは比較的最近で、脱サラして書店を経営を始めたあと、作家活動を開始したみたいだ。年齢からいえば40過ぎのオッさんのはずだ。なんだぼくと同じような年代ではないか。それで『船に乗れ』のような青春恋愛劇を創作でるのか。スゴイ。よくかけるなぁ、と思ってしまう。

 『船に乗れ』は自分の経験がベースになっているのかもしれないが、この『たなだ君』はちがう。奇妙なお話なのだが、一体何からの発想したのだろう。

 この話はある種のファンタジー。さえないギャク的がのっけから連発し、若干ひくが、それでも読み続けるとほんわかした恋愛ものになる。最初から結末を装幀して書きだしたのか、書いていくうちに楽しくなったのか、ちょっと判断できない。ちょっと唐突な出だしと、そんな人いるかなぁというキャラのぎこちなさが、なるほどデビューしてまだ年数が浅い人の作品だという感じが漂ってくる。
それが悪い方向に流れると読み通す気になれないが、さすがに出版されているだけあって、良い方向へ流れていっている。半分あたりから結構一気読みをしてしまった。

 この小説に魅かれた理由は登場してくる「まばさん」なる女性の感じである。その人についてあまり言葉で表現されていないものだから、読む人の好みに想像してしまう。となると、すっごく憧れを抱きつつページをめくることになる。ベールを被った女性のようなものである。 

 そして、主人公のたなださんも、いってみれば「常識人」のような感覚やまっとうな発言のせいで、読者がたなだ君の視点になるのに抵抗はないだろう。

 話に大きな展開はないが、きちんと着地しくれる。後味がよい小説である。なんでだろうか、『鴨川ホルモー』のようなさわやかさを感じた。

2009年11月21日

船に乗れ!〈2〉合奏と協奏、<3>合奏協奏曲

藤谷治
JAVE
お勧め指数 □□□□□ (5+)

 この3部作はすばらしい。本っていいなぁ。そうつくづく思った。あまりに良いので、「人生って素晴らしい」とすら感じた。

 この内容が「小説」だとしたら著者の構想力はスゴイレベルだと思うが、巻末の著者略歴を読むに、要するに自分の青春時代の報告がベースになっているのだろう。本当にこんなことがあったのかどうかはわからない。出来事のタイミングが良すぎるところなどは物語として工夫していあるのだろう。それでも、大きな出来事は体験ベースなんだろうなと感じる。

 記述のところどころに未来の視点から語られているところがある。その語りにはある種の諦観があり、そしてそれが不安感を煽る結果となる。須賀敦子さんの本にあるエッセイはどれも最後に「不安」にぶち当たるのだけど、それと同じような性質をもっているようだ。だからぼくはこの本に魅かれたのかも知れない。

 未来は不安である。そう思っているからこそ、未来の不安を予感させる語りに魅かれるのかもしれない。しかし、同時に、未来にカタストロフがあるわけではないと感じている。なぜなら、未来の視点で語っている人がいるということは、その人はなんとか生きてこれ、過去を語る余裕があるわけだから。不安の結果に不幸が待っているわけでもなさそうだ。ただし、そこには必ずしも「すっごく幸せ」という感情はないかもしれない。が、ごく普通の人の幸せというものを楽しむ時間はありそうだ。

 この物語もそうなっている。1巻を読んだとき、その青春っぽさに魅了され、2巻を読んだのである。普通の人には持てない体験がつづくのかなと思って。ところがビックリして(でないと物語にならないが)、不安のまま3巻に進んだ。そして、そこには、大多数の人の実情とあまり変わらない人生の報告が待っている。ぼくはそう感じた。。いや、それは著者の経歴を侮っているのではなく、見事にこの本の物語が着地したことへの安堵であり、ぼくは納得したということである。見事に物語が閉じた。

 この本を振り返って、まるで自分が目撃したようなイメージが残っているものは、南という女性のまなざしである。ある場面での一瞬の出来事。不安、恐れと同時に懇願とそして諦めと最後に振り絞った勇気とが混じった視線である。これでこの物語は決まったのである。こんな面白い本ならば、誰かが映像化するだろう。2夜連続ドラマのようなもので。その際、このシーンだけは外さないで欲しいなぁと漠然と思う。まぁ、そのドラマは見ないだろうけど。

 かりにこの話が実体験ベースであったとしたら、著者が40過ぎまで生きてくるのは結構タフだったことだろう。しかし、なんとか人を感動させる小説を書くまでに至ることができた。いくつか小説を書いた後に、この小説を世に出した。著者の経験は多くの人の頭の中に入り込み、その人たちが生きることを鼓舞するものになったはずである。一個人の青春時代の体験が日本語が理解できる人に共有され、それが人々の財産になったのである。

 この話が実話に基づいているって思いたい。実際のところは知りえないので、もう実話だったということにしてしまおう。そう信じてしまうと、本っていいなぁと思う。ぼくには何の関係もない人の個人的な体験なのだけど、それを通り抜けた後に思うのは、素晴らしき哉人生は、である。ぼくはこういう本をもっと読みたい。

2009年11月20日

初恋ソムリエ

初野晴
角川書店
お勧め指数 □□□□□ (5)

 不思議なミステリー。ただ、学園物の範疇にあるので、発生する事件も謎もその解決法も、普通の高校生活の枠のなかにあるために、嫌な気分になる要素が全くない。だから、安心して楽しめる。一片の曇りもなく晴れの気分で読み終えることができる。前作どうよう、装幀の写真がワクワクする。

 嫌な気分を感じさせないという設定は、ミステリーを書く上で縛りがキツイ。それでは深みがでないということで評価が下がる可能性が高く、下手をするとレベルが低い本のように言われしまうかもしれない。しかし、それは嘘だ。なぜならば、嫌な気分なしでもこれくらいのものはかけるのだから。『カカオ100%の夏』という本があったが、あんな感じなのである。

 読んでいるとすっかりその世界に入り込んでしまう。自分が高校生だったころに精神は戻ってしまう。もう40過ぎなのに。もっとも、ぼくが高校生だったときはもっと「しょうもない」人だったと思うから、この本の登場人物たちの方がよっぽどしっかりしているのだけど。

 登場人物の増やし方が上手である。最初は二人。一つ事件を解決するごとに一人仲間が増えていく。目先の目的は吹奏楽だから、だんだんとメンバをそろえていくことになる。犬、猿、キジと仲間を増やすようなものである。吹奏楽だからフルート、ホルンから始まり一つ一つ楽器が増える。よい意味で自然な友達形成の物語になっている。他人を利用して自分がのし上がろうという嫌な気分がない。仲間になるために「助ける」から。一緒に危機を乗り越えると自然と友達になるもので、だれでも頷けることだ。

 こんな感じの良質な物語をもっともっと青春世代に向けていけばいいのになと思う。感覚がマヒした大人世代に向けたものを子供に向けてもろくな事にならないのに。名作ばかりを学級文庫に入れるという努力も大切だろうが、一方で教養文学という発想とは直行するかもしれないような、この本のようなものを上手いこと読んでもらえるようにしたらどうなのかな。などと妄想する。

2009年11月18日

ヒラメキを、即、行動に移そう。

中谷彰宏
中谷彰宏事務所
お勧め指数 □□□■■ (3)

 やっている事が好きなのかどうかを判定する方法が書かれている。好きなことをすることは、どうやら「ご飯を食べる」ようなものらしい。つまり、「する」こと自体が喜びであって、その先にあるもの(結果)を手にすることは当面の感心の外にある。これをしているときが楽しいんだよ、ということ。

 そうだと認めると、世の中かなり生きやすくなる。好きなことを実行中の人にとって、その他のことは色あせる。言葉としてネガティブであるが、一方で嫌な事も色あせるのだからポジティブとも言える。仮にやっていることが非常に面倒な作業であっても、結果的にうまくいかなくて高くついても、人から認められなくても好きな事ならやってしまう。損得というロジックがない。あるいは、不合理なことのような気がする。

 好きな事をやるとはどういうことかについて、そう言われると納得できる。人から認められない、結果が出せないということをやっている人ならば頷けるだろう。不思議なものなのだ。論理的に説明しても他の人にはわかってもらえないだろう。もし、やるなと言われて止めてしまうようなものならば、「それは好きなことではないんだよ」と判断するよりない。

 かなり大胆な物言いだが、ぼくはすっかり納得してしまった。ちょっと待てよ、そうかなぁ、というネガティブな感情は覚えなかった。というのは、今のぼくの生活パターンの根底を支えているのは、好きなことをやり続けるとどうなるだろうか、という疑問に対する探究だから。中谷彰宏本を三百冊近く読んでいると、いかにも中谷彰宏さんが言いそうなことを自分でも考えているから面白い。ここまでくれば、かなり学べたと思いたい。

 中谷彰宏さんの主張には、「やってみる」というメッセージが必ず入っている。本の題材によっては「すぐに」とか「まずは」とか「失敗しても」とか、いろんな副詞がついてくる。しかし、根幹はDOなのである。そのメッセージの内容は否定しようがない。誰も反対しようがない。だから、安心して読んでいられるのである。そして、仮に失敗しても「勉強になった」という捕らえ方をすればいいし、そう推薦されている。やったから一歩進めたのである。そう考えるのだ。

 人によってはうさんくさい物言いに見えるらしく、中谷彰宏さんに否定的な評論をする人も結構見かける。が、ぼくはそうは思わない。全く妥当なことを極端なことをは行っていないし、迷わすようなことしてもいない。宗教かどうかの「ABC判定」でいえば、救済は保証してないし、何かを信じさせようとはしていないし、仲間を増やそうとはしていない。これにより、中谷彰宏さんの著作は宗教ではない。

 読んだ後に「さぁ、がんばろう」という気分がわき出るのだが、じゃぁどうやろうかなと具体的な一歩を考えると??となる。これが中谷彰宏さんの本のいいところでもあるし、限界でもある。その辺りも変わっていないようである。

 タイトルに「。」があるのは変だなぁと思い、出版社をしらべたらご自身の会社であった。そうか、自社で出版するようになったのか。完全なシステムが完成している。おそるべしだ。 

なぜあの人は人前で話すのがうまいのか

中谷彰宏
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ぼやっとビジネス本のコーナーを歩いているとふしぎと目に飛び込んでくるのが中谷彰宏本である。いかんいかん、もう読むのは止めたはずだ。確か276冊読んで、もういいやと思って止めた。読む側が書く側に追い使わないほど出版していた時期があり、妙な対抗意識で出版されたものを全部読んでいたことがあった。当然だが、切りがないので止めた。それに、最近は以前ほどの勢いで中谷本は出版されていないようだ。最近ではほとんど読んでいなかった。

 とはいえ、買ってみようかなと。中田に本を買うとき、まず発行年月日を確認する。題名だけでは読んだかどうかが怪しいから。出版日を見て、その時期には買っていないと言い切れるなら、中身を確認して買う候補に挙げる。立ち読みでぺらぺら読めば内容は推測できるので、今買うべきかどうかを考えて決める。

 来年一月に大学院で授業を二時間受け持つことになっている。九十分を2回。何を話そうかなのおおよそ決め手はいるが、どういう態度で話をするか決めかねていた。学会発表とは違うだろうし、学生になれなれしいのも問題だろう。はて、と考える。そういえばぼくは初めて学生さん相手に授業するのだった。さぁ、どうしようかと少し不安になったが、まぁ、まだ先の話だからと忘れていた。

 そんなことが無意識にあったのだろう、この本に反応したのだ。ということは、反応したからには買う方がいい。そんな出会いで買ってみた。いつも通り、気軽に読みはじめらえるのがこの人の本の良いところである。

 人前で話す方法のヒントが書かれているが、同時に人の話の聞き方が語られている。どれも極端なところはない。シンプルなロジックだから頷いてしまう。そりゃそうだと感心してしまう。もっというと、簡単に出来そうな気がしてくる。

 では、役に立ちそうか。有益ではあるが、ある意味自明な内容でもあるので実践が難しいと思う。「話すときは気を飛ばせ」的なことは心情としては理解できるが、どうやってやんのさ。

 中谷本は変わっていない。相変わらず楽しい。

2009年11月17日

しがみつかない生き方

香山リカ
幻冬舎新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 <勝間和代を目指さない>。この本の帯にそうあって、それを見たら書店で笑ってしまった。幸い人がまばらだからよかったが、しかし面白い帯だ。

 タイトルから内容を想像するに、もっと気楽に生きたらいいんじゃないんですかねぇというものだろう。日々の生活にでも気づけば結構楽しいことはいろいろありますよ。そういう精神科医の先生からの忠告のような本であろう。ぼくにはとりあえず必要ない本である。というのは、ぼくは仕事が忙しすぎるわけでもないし、つまらないわけでもないし、借金もないし、家族と問題なく暮らしているから。この本の結論にありそうな、「普通の幸せ」のまっただ中にいると思っている。

 そういう日々の生活にいてもときどき「勝間和代さんを目指さないと行かんのかなぁ」と思うときがあり、漠然とした不安を感じることもある。ぼくの仕事場には勝間本を読んでいそうな人も結構いる。ぼくはそんな人たちと勝負なんぞしていられんとばかりに、大きく方向転換してしまっているので、まぁ気楽な生活なのである。だからぼやっとした不安は、「とはいっても、まぁ普通の生活でいいでしょ」と開き直ることで頭から消えてしまっていた。

 この本でのテーマは、「普通の幸せ」というものを求めることが意外に難しいというものである。世間ではそういう状況になっているようだ。日本にもいろんな人がいるから、「日本人論」とまではいかない。テレビでも書籍でも「リーダーを目指せ」「勝ち組になれ」といったメッセージは溢れている。そんな社会に浸かっていると、リーダになれないならば人の価値は小さいといったような考え方する人は日本にも増えたのかも知れない。

 ちょっと考えてみればすぐにわかる。とんでもなくスゴイ人を目指すことを否定しないけど、とんでもなくスゴイ人というのは数人しかないのだ。勝間和代さんを目指す人は大勢いても、勝間和代さんレベルに達する事ができるのは数人だろう。ところが社会には数百万から数千万という人がいる。要するに、宝くじをどう考えるかと同じ問題のような気がする。みんな目指せば目指すほど挫折する人が増えることになる。社会にとって、それは良い事なのだろうか。

 この本での二番目のメッセージは、「努力は報われる」という信憑についてである。この言葉は「そうだといいよなぁ」という希望であり、昔ッから、人類史と同じくらい昔ッからある、とぼくは思っている。努力しても報われないからこそ、宗教なんてのが生まれるのだと思っている。がんばった人が報われるといいけど、実際はそうじゃない。それが社会なんだよね。この本はそう注意してくれている。

 この注意は別に目新しいものではない。しかし、不思議とこの注意をみな無視する。オリンピックの金メダル選手のような人が、優勝したあとで自分のこれまでを振り返って語るとき自分を物語の主人公にしてしまう衝動にかられるのだろう、「努力すれば報われる」と言い続けるのをよく目にする。そして、それがよい話になっていく。

 しかし、実際問題として、同じような努力をしてもうまくいかなかった人はたくさんいる。金メダルを取った人より努力したけれど、いろんな事情でうまくいかなかった人はたくさんいる。そもそも、スタートラインにすらたてなかった人もいる。そういう人の存在はすべて無視され、うまくいかなかった人は努力が足りなかったと断罪されておわるのである。

 著者がとりあげたことについては、不思議とぼくも同じような意見に着地していた。それは決して「人生を諦めた」という意味ではない。なにをどうやろうとも、人は死ぬんだよなぁとしみじみ考えていると、普通に今生きていられる事がとても幸せに思えるようになった。だから、幸せを得るためにがんばる、ということをしなくなった。ぼくにとってまぁまぁの生活。そんなものを目指すようになったのだ。そういう態度だと少し不安だったのだが、まぁこれもありなんだなと思うようになった。

 日々の生活をとくに楽しめるようになった。そのために自分なりに結論したことは、この本の結論とあまり変わらない。ただし、非常に上手に分かりやすい言葉で語られている。言葉の世界で生きている人は凄いなと思う。
 

2009年11月16日

頂きはどこにある?

スペンサー・ジョンソン
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『チーズはどこへ消えた』を読んだことがある。なるほどなぁ、そうだよなぁ。いたく感心した。ようするに「自分から動け」ということを教えるおとぎ話なのだ。そりゃそうだ、という自明なアドバイスに恐れ入ったのである。

 ただし、ちょっと経ってから考えると、その当たり前のアドバイスは当たり前であるがゆえにアドバイスにならないことに気がついた。「母親の愛情は子供にとって大切なものである」というメッセージと同じで、そりゃそうだろうよ、で終わってしまうたぐいのような気がしたのである。次の一歩を踏み出すアドバイスは書かれていない。もっとも、おとぎ話としては良いものであることに変わりはないのだが。

 さて、新作。書店に並んでいるのを見ると欲しくなる。なるほど、という気づきが得られるようなことが書かれているかもしれないから。まぁいいや、と思って購入し、読んでしまう。なるほどなぁ、これもよいおとぎ話である。寓話なのだが、ナルホドという形出完結している。果たしてこれもビジネス書なんだろうかという気分になる。自己啓発というほどでもない。イソップ童話と同じカテゴリーに入れたい物語である。

 話が簡単なゆえに憶えてしまうところがある。ぼくが一番印象深かったのは、「持っているものを自覚しよう」というところである。何かがない、ではなく、今もっているものを知る。ある意味満足を知れ、というメッセージのようなものである。何かが欲しいと思った瞬間、自分は谷底にいる事になる。そして、峠を目指して登りはじめることになる。が、何かを持っていると自覚すると、今要る場所は峠になる。つまり、峠とか谷とかは、自分がどういう欲望をもっているかで変わる。絶対的な峠などない。

 そうだよなぁ。ある種の仏教説話のような気分になる。要するにそういうものなのだが、これをビジネス書として認めるかどうか。反資本主義的な内容でもある。というのは、成長しなければと思ったときに大変な毎日にから。

 よい本で、ぼくは好きである。ただ、それを読んでも何も進まない。というよりむしろ、立ち止まることを求めている。そうだよなぁ、で止まれる人と止まれない人がいるだろう。結局、立ち止まれない人はずっと大変な日々が続くんだろうなぁと想像し、ぼくは面倒なところにいなくて良かったと思ったりした。

2009年11月15日

日本辺境論

内田樹
新潮新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 待望の内田樹さんの著作が出版された。新潮新書なので街中の本屋さんでも平済みされている。早速購入し、日曜日の楽しみとして読んだ。

 いやー、愉快。自分の何気ない、無意識で普通にやってしまうことの根源的理由を解き明かしてくれたような気がする。なるほど、そうだったのか。自分の感情や行動指針の根源に触れた気分。腕のいいセラピストはこんな風に「あなたはこういう人です」と話してくれるのだろうか。

 内容は日本人論である。「真実や文明は日本の外からやって来る。日本の知識人はいかに早くそれを吸収し、そして自分たちの足元をバカにすることで自分たちが高みにあがるのかを考えている」。なんども聞いた事がある命題である。過去にこのテーマはいろいろなところで扱われているが、内田樹さんがそれらと違うところは、その根源的理由を日本の置かれた地政学的な位置にあるとしているところである。そして、それを「ダメなところ」としてあげるのではなく、そういうものだからこれでなんとかやっていきましょうという事実の確認をしているところである。

 内田樹さんは、日本の問題を他人のせいにてしまって終わりにすることはしない。事実がそうならばそれを認めていく人である。ちょっと前に『こんな日本で良かったね』というようなタイトルのエッセイを出版されていることからわかるように、基本的に日本についてはAS/ISのまま受け入れている姿勢を内田樹さんはとる。みんなはアホで自分はそれをわかっているというような、普通の知識人がとる行動をとらない。そこがまた、この人を信頼できるところである。

 一方で、日本の知識人の行為の本質をよく教えてくれる。その箇所には大いに納得した。首を縦に振って「そうだよ、そうだよ」と言ってしまったのだ。ぼくは大学教授がうようよしているところで仕事しているせいで、かれらの本質的な行動パターンを知っている。彼らは詰まるところ「おれは偉い」ということを主張しているだけなのだ。彼らはなぜ研究対象に本当に興味を持ってないのだろうかと不思議に思っていたが、その原因がこの本でわかった。彼らは頭がいいから研究者や教授になっただけだって、対象について知りたいわけでではないからだ。


 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議の番組を見ていると、どちらが「上位者」であるのかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。自分の方が「上位者」であることを誇示するためには、いかにもうんざりしたように相手の質問を鼻先であしらって、「問題はそんなところにあるんじゃないんだ」と議論の設定をひっくり返すことが効果的であるということをみんな知っているので、「誰がいちばん『うんざり』しているように見えるか」を競うようになる。お互いに相手の話の腰を折って、「だから」とか「あのね」とかいう「しかたなしに専門的知見を素人にもわかるように言ってあげる上位者の常套句」を挟もうとする。


 いわゆる東大あがりの人は大抵こういう人だ。断言できる。そうじゃない人って、いるんだろうか。
 要するに貴族なのだ。そして、ぼくのように、「貴族」でも「東大倶楽部」でもない人があれこれ考察して議論を持ちかけても、ろくに相手にされない。そうなるのもむべなるかな。


 自説への支持者を増やすためのいちばん正統的な方法は、「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論にたっするはずである」というしかたで説得することです。私と聞き手の間に原理的には知的な位階差がないという擬制をもってこないと説得という仕事は始まらない。
 けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたよりも多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。
 「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する。「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。


 こういうロジックで知識人は動いている。知識人のモデルを言葉で知る事ができた。それはそれでとても良かった。常日ごろ感じていたもやもやが晴れたのだ。
 しかし、だからといって、日々の生活が変わるわけではない。コミュニケーションをとることが目的なのに、上位者獲得ゲームにつきあわされるのかと思うと、それはそれで面倒だなと思うのである。

 日本辺境論の結論は、まぁ日本はそういうところだよ、というものである。ならば、ぼくの生活も「まぁ、日本なんだからしかたないだろう」となる。が、それだとしんどい。あとはどやってかわすかである。こうなると面従腹背くらいしか手がないということかもしれない。

2009年11月14日

The Lost Symbol

Dan Brown
Bantam Press
お勧め指数 □□□□□ (5)

 ダン・ブラウンの新刊が出版された。ダ・ビンチコードがあまりにも面白かったので、次回作を心待ちにしていた。ただ、出版されたのは原著であり、翻訳ではない。

 出版すれば必ず売れるとわかっているのですぐにでも翻訳はでるだろう。といっても二,三ヶ月はかかる。角川から越後さんでだろうな。ひょっとしたら年末ギリギリくらいにあるかもしれない。まぁ、順当なところで一月だろう。うん、そんなに待てない。

 丸善に行ったとき、ダン・ブラウンの新刊のハードカバーを見つけ手に取った。不思議なことに表紙が2種類ある。内容は同一。なんでだろうと出版もとをみてわかった。アメリカ本とイギリス本のようである。でかいしぶ厚い。どうしようかと悩んだ結果、買ってしまった。というわけで、この本は原著で読んだ。五百ページちょっとの大作。通勤電車の行き帰りずっと読んでいたが、三週間かかった。ぼくがこれまで読んだ本の中で一番厚い「英文の本」である。といっても、辛く苦しい英文解釈ではない。ワクワクに満ちて、早く次の章を読みたい!と思わせてくれたから途中で投げないで読み通せたのだろう。

 ダ・ビンチコードの最後あたりに次はフィレンツェで事件が起きるというようなことが書かれていた。なので次回作はフィレンツェ中心だろうと思っていたが、ちょっと違う。いや、大分違う。。内容については、まぁ、ラングドンシリーズであり、例によってオカルト的な謎を理性で追いかけるというものである。ダ・ビンチコードでは誰でも知っているダ・ビンチの絵とキリストについて、隠された真実を暴くという仕立てになっていた。途中はどたばたがあって、ピンチがあって、まぁ読者を引っ張る力はすごかった。今回も同じようなテーマが動機にある。が、対象はちょっと違う。どっぷりとアメリカである。

 ダン・ブラウンはマイケルクラインのような作品を書くのかなと思いながら読んでいた。謎とサスペンスの作りはとても上手で、英文で読んでいる事を忘れてしまうくらいである。
 だがしかし、ダン・ブラウンはキリスト教とオカルトから離れられないようだ。だから、グラハム・ハンコック的なところがある。小説を書く動機や本人がもつ本旨的な疑問がそこにあるのならば、それはそれでいいような気もするが、それだと読者も限定されてしまう。それに、僕自身もどこまで読んでいいのやらと頭を傾げる。ぼくは好きだけど。

 最後の章に著者の本当に言いたい事がまとめられている。本書執筆の本当の動機なんだろうけど、その章は必要ないんじゃないか。著者としては、これが書きたくて小説を書いたのに、ダイレクトに主題を言っちゃまずいでしょ。だから、ぼくにはこの部分が空回りしてしるような気がした。

 翻訳者がこの本をどう扱うのか、とても楽しみである。そのまま訳すだけだと、日本の読者に伝わらないことが多い。西洋での常識をどうやって補足するのだろうか。その辺りが楽しみである。