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2009年12月31日

すばらしき旅

森本哲郎
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 旅の思い出を数ページの短編でまとめてある読み物なので、たぶん雑誌などの連載だったものだろう。単行本なので挿し絵が入っており、それがなんとも味のある線画で、ちょっとレトロな趣がある。寝る前の静かな時間、紅茶をすすりながら読み進めると「今」の束縛をすっかり忘れてしまう。

 それぞれの話は、以前どこかで読んだことがあるものがいくつかある。ぼくは森本哲郎さんの出版されている本ならば3/4は読破したはず。これはバクダットのホテルの話だとか、ヘッセの通った学校のエッセイを読んだことがあるとか、そういう過去のことも思い浮かんできて、なんとも楽しい。

 旅の思い出話は、聞いている人よりもしている人の方が楽しいはずだ。締切りのある原稿を書くことは著者にとって「仕事」なのかもしれないが、書いているときは思い出を語っているに違いなく、思い出しながら楽しんでいるはず。現在のようなお気楽パック旅行が当たり前ではなかった時代、昔はさぞかし大変だったのだろうけど、旅に伴う大変さや不愉快さなどは過ぎてしまえば楽しかった思い出でしかないので、読者には辛さが微塵も伝わってこない。文中たまにイライラして怒ったというような記述があるが、それはそのあとにつづく面白い出来事の前振りでしかない。読んでいる方としては、結局旅っていいなと思うだけである。

 全く単純な思いだが、ぼくも森本哲郎さんのように旅をしたい。いや、したかった。そうするためにはいろんな偶然が必要になるとわかっている。一つ前に読んだ本で森本哲郎さんの生立ちについて知ったけれど、旅を楽しむために必要な「支払い」を前半の人生でしてきたんだとしった。じゃぁ、ぼくはできたかどうか。戦前の教育だし、赤紙で徴兵されたりと、未来がどうなるかわからないで僕は生きられたのかはわかない。そう思うと、結局はこの本をベッドで読み「あぁ、ぼくもこんな旅をしたいなぁ」と思いながら寝てしまうという生活がぼくにはあっているかもしれない。

 友達や家族から旅行の話を聞いたところで、ちっとも楽しくないものだが、どうして森本哲郎さんの旅行記は面白いのだろうか。それは、起きた事をどう理解しているかによるし、不愉快なももの扱い方にあるし、楽しかったことの表現方法にあるだろう。「楽しかった、ビックリしちゃった」という言葉をいくら繋げても相手にその思いは通じない。疑問と回答の連鎖、そして、ある種の運命的な(オーバーだが)偶然をどう放り込み、そして、お話としてどうやって伏線をカバーし、最後に落ちを付けるか。結局、面白い旅行記というのは、思い白い話になっているはずで、森本哲郎さんならば旅行記でなくても面白く物語れる技術をもっているのだろう。

 自分の体験を種にして、いかに面白く物語ればいいのか。旅行に行った時は、どういう行動をとれば楽しいことにぶち当たるのか。そんなことのヒントにしてみようと思いながらしみじみと読んでしまった。

2009年12月30日

学問への旅

森本哲郎
佼成出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 自伝風の思索エッセイ。生立ちから新聞記者、そして物書きになるまでのことが書かれている。にもかかわらず他の本と同じように思索風のエッセイになっている。まるで自分の生立ちをパリのカフェでコーヒーを飲みながら思い返しているような雰囲気である。まぎれもない森本哲郎本である。

 「ぼやっとする」という言葉は普通何も考えていないという意味だが、森本哲郎さんの場合は違う。ぼやっと=思索なのである。つまり、ある出来事をきっかけに世界を旅した記憶をたぐり、文学や哲学の言葉を引用しながらなんらかの疑問を言葉にして、それに対する答えを見出していくことを意味している。

 森本哲郎さんの場合、それをカフェで行う。タバコの煙がふわっと舞い上がるのを眺める時間の中で、頭の中では時間も空間も越えた世界が広がっていく。これが森本哲郎さんの味である。文章が上手だとかいうレベルとは違う感動がある。そんな本を読んでいると、自分でもそんなことを思索しているかのような錯覚を楽しめる。

 ぼくは読んだ本の感想をWEBにアップしているが、思えばこんなことをしているのも森本哲郎さんのような文章を生み出したいなと思ってのささやかな努力なのである。まぁ、到底見込みはないが、それでもいつの日かという思いからこうして書いている。

 森本哲郎さんの本を読んでいると単純な疑問が浮かんでくる。どうしたらこの本のような思索ができるようになるのだろうか。哲学を専攻しないとだめなんだろうか。世界を旅しないとだめなのだろうか。

 旅をすれば思索ができるわけではない。小説家、つまり、売り物になる文章を書き、想像力も十分ある人でも書けるわけではないからだ。恩田陸さんの南米紀行を読んだことがある。本人は森本哲郎さんのような思索をするつもりだったそうだが、まったくそうなっていなかった(『メガロ・マニア』)。思索本ができそうな条件をそろえてもそれで思索が生まれるわけではないようだ。

 とはいえ、森本哲郎本はどう展開するかはなんとなくわかっている。話の展開に注意してこの本を読んでみると気づくだろうが、要するに「問い」と「答え」が繰り返し立ちあられるところにある。

 思索の発端はなんでもよい。ぼんやりと浮かんだ昔の記憶でもよい。それについて「疑問」を感じることが最初の一撃である。疑問が成立しないところに思索は生じようがない。

 疑問くらい誰でも浮かぶだろう。そう考える人は疑問について考えた事がないはずだ。実際「あぁ、疑問よ出てこい」と念じても出てこない。とくに、読み物になる文章として成立させるには多くの人が共感する疑問でなければならないが、そいう疑問は「あたりまえ」のなかに隠れてしまっているもので、それを見つける方法などないからだ。それこそその作家の資質と言えるだろう。

 疑問についてあれこれ考える。考える材料は自分の体験がとっつきやすいし、具体的なので話が発散しない。だが、日々の生活から材料を集めるとすぐになくなってしまうものである。普通の人には普通のことしか起きないからで、そんなものは大抵面白くない。となれば、非日常的な生活、一番良いのは旅行であり、観光旅行よりも取材旅行や冒険旅行での思い出をたぐることだろう。森本哲郎さんは今ではとても行けないような紛争地帯にも多く旅しているから、普通の人が知りえないレベルでの考える材料をもっている。

 考えた結果を疑問に対する回答として提示する。回答するときには、自分の好き嫌いを根拠にした議論や判断はダメである。他人とは共有できないからだ。そうれではなく、文学や歴史や風土なをもとに、なるべく普遍的と思われるところまで考えてから回答を見出すことだ。そうでないと、オジサンの独りよがりになってしまうし、一歩間違うと説教に落ちてしまうから。森本哲郎さんの独自性は文学と歴史を味方につけていることにあるのだろう。

 そうやって答えを見出したとしても、それで終わりではない。一度到達した回答について「さらに」疑問を見出すのである。「もしそうならば、なぜこんなことになるのか」というように。回答が次の疑問を生じさせる。その連鎖が自然なものならば、読者は引き込まれ、抜け出せなくなる。人は論理に魅かれることはないが、疑問には魅かれるからだ。とくに「自分でもそう思う」というような疑問には必ず着いていく。

 森本哲郎さんの本は疑問と回答のペアが延々と続くが、その連鎖に無理がない。強引さがない。それどころか、途中に文学、歴史、思想史が絡んでくるので読んでいると「勉強」になった気分がする。だから感情的にも理性的にも「この本は面白い」と思ってしまうのである。結果的にいつまでも読み続けてしまう。

 考えることは誰にも出来る。が、文学、歴史、思想史、地理などを総合して頭に入っている人はほとんどいない。いわゆる学者、あるいは並の小説家では絶望的である。だから、森本哲郎さんのような本を書ける人はほとんどいないのだろう。

 疑問と回答の連鎖のパターンは時代によらず人の興味を引く。森本哲郎さんの本を読んでいて「古いなぁ」と思った事はない。たとえ話題が昔のことであっても、興味を引かれていく過程には時代は関係がない。思索(疑問と回答)、文学、歴史、思想史はそもそも過去のものだから、古くなりようがないのである。

2009年12月27日

異教徒ローマ人に語る聖書―創世記を読む

秦剛平
京都大学学術出版会
お勧め指数 □□□■■ (3)

 秦剛平さんの新刊ラッシュがつづいている。ちくまの文庫本はいまひとつ「おちょくり」が多いので、好きになれないでいる。おちょくりが嫌いなわけではない。信者の人に対する申し訳なさが原因なわけでもない。単におちょくりのレベルが低いと思ったからである。従来の秦剛平さんの本ならば、聖書関係の文献をネタにしておちょくるとき、聖書自身にある「どうにもならない内部矛盾」をからかっていた。だから面白かった。しかし、最近の本では、表面的な「おかしさ」を的にしているので、なんだかひく。何をそんなにあせっているのだろうか、と読者ながらに心配になってしまう。

 この本ではヨセフスが中心に語られている。ヨセフスは当時のローマ人にも理解できるようにユダヤ教の聖書やユダヤ民族の考え方を語る著作があり、この本はその本の解説である。

 古代ローマについてを塩野七生さんの著作を通じて知った人ならば、ヨセフスについてもいくぶん知っているところがあるだろう。ぼくはそうだ。あるいは、山本七平さんの著作をいろいろと読んできた人ならば、もうちょっといろいろ知っているだろう。さらにヨセフスを研究されている秦剛平さんの著作を読んだ人ならば、かなり知っているだろう。その流れにこの本はある。決してキリスト教向けにも、歴史の専門家向けにも書かれたものではない。

 ヨセフスの本を理解する必要など、いま普通に生きてくのに必要はない。それでも読んでしまうのは、知る必要があるからではなく知っていく過程が楽しいからである。「へぇ、そんな人だったんだ」とか「古代ローマ人がユダヤ人を怪しく思った気持ちもわからんではないな」と驚くのは結構楽しい。もっといえば、過去と現代とを「混乱」させることが目的で読んでいる。過去の人、それも古代ローマの人に共感できるのは面白い。通勤電車で読んでいるぼくの世界が古代まで広がったような感じがして、それは愉快なことだから。

 ヨセフスの著作はすでに古書で購入してある。この本をすらすらと読めたので、じゃぁヨセフスの本(翻訳)を読もうかとも思うが、すらすらと読めるかどうかは疑問である。というのは、気軽に楽しくヨセフスを読んだり、聖書成立の背景について知ることができるのは秦剛平さんの本だからだ。

 秦剛平さんの本を読むと、ばかばかしくて聖書なんて読めるかという気分になる。それはそうだ、あれだけ聖書の矛盾やおかしなところをおちょくっているものを読んだ後で、さすがにその対象を時間をかけて読む気はしな。

 それだけ秦剛平さんの本は面白いのだけど、ふと考えるとその目的は一体何なのか気ににある。自分の専門分野の普及を目指しているのか、それとも馬鹿馬鹿しいことをばらして寂れていくことを目指しているのか。なんともわからない。結構矛盾した人なんだろうなぁと想像するが、実際のところどうなんだろう。
 

2009年12月26日

ぼくたちが聖書について知りたかったこと

池澤夏樹
小学館
お勧め指数 □□■■■ (2)

 池澤夏樹さんが聖書についての本をだしたようで、内容は対談、対象は普通の人というもの。ぼくは古代ローマについていろいろと読んでいくなかで聖書の成立についても何冊か読んだこともあり、ちっぴりだがキリスト教の成立については知っているつもり。その後も世界史を背景した「宗教とはなにか」を考える本ならば見つけたら読むようにしている。この本は、そんな動機から手にした。

 対談相手は秋吉輝雄さんという聖書学者であり、池澤夏樹さんの親戚でもある人。池澤さんが聖書について質問し、秋吉さんが答えるという問答と雑談の本である。日本人ならば知らなくて当然(日本で生きていくならば知らないままでも不都合がない)キリスト教について、なるほどなぁ的な語りがある。ただし、両者ともに文化としてキリスト教を捕らえているので、宗教臭は完全に脱臭されており、とても読みやすい。

 キリスト教について知らないと困るのは、ヨーロッパ文明(アメリカも含む)のいろいろな作品を観賞するときに、それらの背後にある文脈(それぞれの価値を意味付けるもの)を知りたいときである。それがキリスト教だから。もちろん、風景画や音楽のような感覚的なものを楽しむだけなら必要ないが、作家の背景や生活環境を知るにつけ、あるいは価値観を知るつけどうしても避けて通れない。アメリカ人はその半分くらいはキリスト教徒だから、キリスト教を知らないと彼らの行動に違和感を感じっぱなしになってしまう。それは文化面だけに限らず、経済や政治についてのニュースを理解するときにも必要なのだ。

 この本では、主に旧約について語られている。失礼かもしれないが、聖書物語というものは、知れば知るほど「つまらんなぁ」と感じる。安いファンタジーのようなものだし、人を脅して何かをさせようというタイプのものだから、楽しいはずはない。旧約の舞台である砂漠地方の自然は厳しいから神も厳しいのだろう。そうでないと生きていけない。ものだが、日本と中東とは気候が違うので神の性質も違うのだろう。まぁ、これはぼくの感想に過ぎないけど。

 最後まで読んだのだが、なんだか途中で終わってしまった感がある。宙ぶらりんだ。ということは、続きがあるのかもしれない。

2009年12月25日

幸福論

春日武彦
講談社現代新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 タイトルがベタなだけに内容が気になって購入した。著者の春日武彦さんは精神科の医師で、いろんな著作があり、だから物書きでもあるようだ。内田樹さんのブログに名前が上がっていたので、試しに読んでみようかなと思い選択した。いろいろ著作があるけれど、お休みの日に精神病の話をされてもかなわない。とりあえず万人向けの内容だと思われるものを選んでみた。

 たいていの幸福論は「気持ちにありよう、心構え」になってしまうものだが、著者はそういうものを書くつもりはない、と言っている。冒頭に、著者自身が幸福だなと思った「具体的な状態」をその場所や出来事を12個ほど列挙することから始まっている。その話一つ一つは、1ページ程度のちょっとした短編物語になっていて、いずれも「ふーん」と思わず言ってしまうようなものであった。

 著者が考える幸福とは、宝くじが当たったぞ、というような「ラッキー」ではなく、静かな気分で「いい感じがするなぁ」という感覚を味わうことのようである。感動したぞぉというような、心が揺さぶられるようなものは幸福感の範疇にない。どちらかといえば、自分は社会の中の一人なんだな、とか、他人の事を考えくれる人がいてほっとするな、という感想を持ったときが幸福なんだということである。

 じつはその気持ち、ぼくもわかる。ごく普通の出来事であっても「へぇ、いい感じだなぁ」と思えることには毎日の生活で遭遇するものである。そんなことはない、と思っている人は「自分の内面」しか見ていないからだと思う。社会の中でぼくは生きているなぁ、と自覚することができると、意味なく楽しい気分になれるものなのだ。それに気づくと、普通の一日であっても結構愛おしく思うものだ。

 こんな気分を楽しめるようになったのは、ここ一、二年のことである。向上心に絶対価値がなくなり、立派なことをしなければという焦りから解放されたときからである。おいしい御飯を毎日食べられて、なんて幸せなんだろうかと思えるようになってからのことだ。

 この幸福論に頷ける人は、おそらくそういう人であろうと思う。

2009年12月11日

キラークエスチョン

山田玲司
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 何を話していいかわからないならば、話す必要はないだろう。そもそも、自分のことをすすんで話す必要などあるのだろうか。自分が有名人でもない限り、自分のことを知りたいなどと誰も思いはしない。それよりも相手にしゃべってもらえばいい。自分は聞き役にまわるほうがずっと良い。こう考えるのがこの本のテーマである。

 他人とコミュニケーションをとるとき、自分が話すよりも相手にしゃべってもらった方が良い結果を得る。これは経験則である。自分のささやかな経験を振り返ってみても、ついつい話してしまったときは自分にとって楽しい思い出になっている。誰でもそういう記憶を持っているはずだと思う。それが飲み会ではなく会議の席であっても自分の話を相手が聴いてくれたら結果的に気持ちがよいものである。会話の内容は自慢話、つまり、いかに自分が立派であることを話したとしてもそうである。単に雑談ならば、相手はずっとらくだろうけど。

 そして、不思議なことに、自分の話を聞いてくれた人を自分は信頼してしまうのである。あぁ、この人はいい人であると。なぜなんだろうか。

 これは特別な人だけ当てはまることではない。この本を読んで、人というものはそういうものなんだと思うようになった。言葉を発することができ、それを理解することができる。それを可能にするハードウエアをもった生物なのだから、会話が成立すると信頼してしまうのだろう。そうぼんやり思っている。

 どうやったら人と上手にコミュニケーションをとれるのだろうか。その技術について興味があるから読むわけである。そして、この本はそれに十分答えてくれる。しかし、それで終わったら普通の本であり、単なるビジネス本の一つでしかない。だから、そのうち忘れてしまう。kの本は印象に残る理由は一つある。

 どうしてコミュニケーションを取りたいと思うようになったのか。その動機に目をむけたらどうだろうか。いったい誰とコミュニケーションをとりたいのでしょうか。今までコミュニケーションを上手にとれなかった人に対して、どうしてまた気分が変わったのでしょうか。

 こんな問いが最後に書かれている。ちょっと面食らったのである。問われてから口ごもってしまった。その問いに答えようとするにつけ、自分を自分で眺めている自分をはっきり意識するようになった。そんな気がする。

2009年12月 9日

木曜組曲

恩田陸
徳間文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

 恩田陸さんのなかで好きなこの小説を読み返した。ずいぶんと昔に読んだと思うのだけど結末をすっかり忘れてしまっていたので、これ幸いと出張生活のささやかな楽しみとしてカバンに詰めてあった。それを今日読んだ。もう明日で出張先のでの作業が終わるから、今日中に読み終えないと。緩んだ気分によくあう小説。

 女の人が5人あつまってご飯を食べながらぺちゃくちゃ話す。彼女達は物書きか編集者で、そういう人たちが普段考えているようなことが雑談の中で語れている。何気ない感想や愚痴のようなものはきっと著者である恩田陸さんの本音なのだろう。

 この女性達、年齢や性格はある程度ばらけているが、おそらく著者の分身だろう。一人の人のなかにはいろいろな性格が混じっているもので、どんな人でもちょっと注意すればそれに気づく。気が強い人だって弱くなるときがあるし、緻密な人であっても話題や気分によって大味なことしか考えられないときがある。5人でいろいろおしゃべりしているのは、著者がぼやっとしたときに頭の中で起きていることなのかもしれない。

 読みながらそう感じたのだが、しかしこのは小説である。しかも、推理小説。だから人が死んで、謎解きがあり、結末が存在する。しかも心理的な格闘が読ませるポイントになっている。

 確かにそうなのだが、実際描かれているのはご馳走を前にした女性達の行動。一般的な女性がどうなのかは知らないが、この小説での行動は著者である恩田陸さんの妄想で、多くの人から「そうそう、こんな感じになるよ」といわれるものだろう。だから、食べ物の準備、買いだし、調理と、食べて飲んでタバコ吸ってという様子が、そんなものをぼくは見た事がないのにありありと目に浮かんでくる。ほんと、こういうの書かせると上手だ。

 しかしこの本は推理小説なんだろうかねぇ。本の表紙や帯などで確認してみるが、間違いなく推理小説・ミステリーとある。しかし読んでいると食べ物の本のような気がしてくる。だって美味そうなのだ。どの料理もお酒も、なるほどこうやって食べたり飲んだりするとおいしいし、さぞかし楽しいだろうな。いいなぁ。結局はそんなところが印象に残ってしまう。読み終わったあともその思いが残る。だから記憶の中にあるのは食になってしまう。

 恩田陸さんはつくづく面白いことを書く作家さんだ。この本は、要するに恩田陸さんの好きなことを集めた物語であって、書いていて楽しかっただろう。トリックがどうのこうのという発想はない。不思議なミステリー。

2009年12月 5日

興亡の世界史00人類文明の黎明と暮れ方

青柳正規
講談社
お勧め指数 □□■■■ (2)

 気になっていた興亡の世界史シリーズに青柳正規さんの巻が出版されていた。人類文明の始原を扱っているようで、となるとラスコー洞窟絵画やシュメールなんかが書かれているはず。そのあたりは世界史のなかでぼくが一番興味のあるところ。

 出張先での楽しみとしてホテルで読んだのだが、実にがっかりするできであった。というのは「黎明と暮れ方」というわりにその説明がなかったからだ。

 ある文明がなぜ栄え、なぜ衰退するのかについての記述が明確でないのは、そもそも明確に語れるものではないのかもしれないが、だとしても「反映した理由が衰退の原因になる」という一般的な主張だけしないのであれば、なにも一冊かくことないじゃんと思うのは仕方ないだろう。それってここであえて持ち出さなくてもいいようなことじゃないか。

 反映の理由が衰退の理由でもある。まぁ、それはそれで正しかろうとは思うので、気分を換えて偉い先生の視点からみた興亡の風景をみてみよう。その見方を感じる事ができればよしとしよう。そう思って読みすすめたのだが、結果的に著者が主張したいところは「多様性の強調」くらいだった。なんとも不完全燃焼。

 なるほど、これだとこのシリーズは売れないだろう。それは読書する人の数の問題でも知的好奇心の衰退でもなく、作る側に問題があるような気がする。

 いや、まぁ、たかだか400ページの本ならば、新書で3冊程度の分量だから、あれこれ集めて、しかも自分のローマの発掘を入れたいとなると、こういう出来になるのは仕方ないのかもしれない。

 本から何を読み取れるか。それは読者次第という考え方がある。いい事が書いてあってもそれを読み取れなければ仕方ない。頭の良い人には良い本であるかもしれないが、普通の人には普通の本であり、ダメな人にはダメな本になるという考え方である。

 この本が良いと思えないならば、それはぼくが出来の悪い人間だということだろう。そう言われればそうかもしれない。ヨーロッパの知識人向けの本ならば、そういう態度もありだと思うが、ここは日本なんだ。

 この本のダメな理由を挙げるとすれば、結局は物語性がないこと。事実を事実として記載することが歴史を研究する人の役目だというスタンスを貫くならばそれはそれで仕方がないが、それではあまり普通の人の役にはたたない。それは、一般の書店で販売する上では問題がある。

 歴史は言葉で語るよりない。ならば原理的に著者の視点や興味に縛られる。客観的という行為は不可能になる。何が事実なのか、などということを求めても語ること語らないことの選択がある以上、事実全体などを求めることは無理な相談である。だから、面白く物語ることは必要だ。そのためには、自分の業績をいちいち挟み込む必要はない。それをするとテーマがぼける。そうしなければならないようならば、その著者である必要はない。もっと適したテーマで書けばいいのに。

 そんなわけで、おそらくこのシリーズはあまり期待できないような気がする。

2009年12月 3日

私にとって神とは

遠藤周作
光文社文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

 そのものずばり、である。そう、遠藤周作さんはこの対象を一体どう考えているのだろうか。興味をもったので買ってみた。

 自分で考える事をしない人の答えならば予想がつく。聖書にそう書いてあるから、とか、誰々がそう言っていたから。そういうものだろう。ぼくはこういうことを真顔で答える人に質問をしたいと思わない。どうしても聞く必要があるならば、本人からではなく情報源である聖書を読むなり、その誰々さんに聞くだろう。

 相手は遠藤周作さんである。この人ならば、考えに考えた結論が聞けるだろう。そう思ってこの本を手にした。

 ぼくは遠藤周作さんの小説『死海』という作品には強く魅かれたことがある。ずいぶんと真摯にキリスト教と向き合って、なんとも言えない苦労をしているなぁと感心した。なんだか大変な感じである。尊敬と同時に、なんでまた日本人が西洋のキリスト教を支えにして生きなければならないのだろうかな、という違和感を感じた。この違和感はおしなべてキリスト教の人に対してぼくは感じる。どうやって聖書の「おかしな」「整合性がとれてないない」「とんでも話」を心の支えにすることができるのだろうか。不思議である。

 この本では、なんでまたそんなもんを信じているんですか? そういうようなぶしつけな質問をいくつか想定し、それらに回答している。質問は著者が実際に問われたことがあるものを整理したのであろう。自問自答の本である。インタビュー記事のような形式なので、あまり込み入った回答をしてない。込み入った回答をすると読まれないし、誤解されるからかもしれない。だからだろう、この本は読みやすい。

 で、それらの回答にぼくは納得したのか。ご本人はそれなりに工夫し、それなりに自分のものにしようとしたということは理解した。西洋生まれの思想であり宗教であるものを「自分の身体に合わない洋服」と表現し、それを自分に合うように仕立て直すという形容をしているからだ。つまり、額面通りに聖書なり教義なりを自分に押し付けるのではなく、自分の経験や感覚に合う異様にどれも際解釈しているのである。それはこう考えるといいのではないですか。そういう具合にである。

 なるほどそれならばまぁぼくでも理解できる範疇だろう。が、それって、何かを信じるってそんなことをするものなんだろうかと疑問に思う。

 遠藤周作さんが受け入れられるというものに変容させているならば、信じると行為ではなく、信じられるものを信じているだけであって、なんだか話がちがう。もっというと、なるほど「信じてない」ということなのだ。 一つ疑問が解けたのは、それって信じてないってことですよね、ということだ。つまり、自分の思想にしてしまったのである。オリジナルではなく、キリスト教をベースにして遠藤周作さんの感覚にあう思想になっているのである。そして、それを信じるからカトリック教徒ですと言っている。

 ぼくが判断するに、要するに遠藤周作さんは信じてない。そうではなく、こういうことを考えると生きやすいですよというものを作り出してしまっている。

 それはそれでいいと思う。まさに日本人がずっとやってきたことだから。それに、そういう改変をしているということに少し安心したのである。

 宗教人であるが原理主義とはほど遠い生き方である。ヨーロッパ人が遠藤周作さんのような態度をとっていたならば、世界の年表にある戦争や騒動の数は大分少なかったであろうと思う。

2009年12月 1日

おがたQ、という女

藤谷治
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)

 読み終わって不思議と感動した。哀しさというか切なさというか、なにに感動しているのか、にわかにはわからないのだ。ストーリに驚いたとか、登場人物が可哀相で泣けてくるとかではない。原因不明で感動している。

 この小説のなにに感動したのか。そんなことを分析的に述べたりすると「文学青年」になってしまうような気がする。ぼくは文学的なことを読み解くような訓練もしていないし技もない。そもそもそんなことをする必要も感じていない。単に好きで本を読んでいるだけで、しかも数多くを読みこなしたわけではない。だから文学評論とは無縁である。

 そう思っていても、藤谷治さんが「おがたQ」という女性に託したものについてぼやっと考えてしまうのである。

 主人公のおがたQという女性、この人は著者、藤谷治のことではないか。いや、ちょっとちがう。おがたQ=著者ではなく、著者がながい間考え続けてきた人物=おがたQというべきか。長い時間、ある人のことをずっと考えていると、その人と自分との垣根がぼやけてくるとぼくは思っている。その意味で、おがたQ=著者ではないか。

 あるいは、おがたQは人物ではなく、「心ここにあらず」というときの妄想のようなものか。あるいは、哀しさ切なさの寓意(アレゴリー)としてのキャラクターかもしれない。

 さらに考える。この作品では、男性の小説家が女性の主人公を描き、そのなかで「女心がわらないのね」などと発言させている。小説に夢中で読んでいるときならばとくに気にはならない箇所だが、今こうして考えてみると、なんでそんなことが言えるのか不思議である。だって、おめぇ男だろう。しかも、それ想像上の人じゃないか。そう自然と疑問になる。

 男に女ごごろがわかるのか。知識としての「女ごころ」ではない。その場合は、同じ感情を著者は体験できているのだろうか疑問になる。こう想像する。小説家くらいになれば、想像というものが単なる視覚体験ではなく、感情体験まのでが可能なのだろう。だからこを女心がわかると言えるのだろう。

 あるいは、とさらに想像する。著者はとりあえず男であることを忘れ、「人」という存在になって想像しているのかもしれない。自分が何者かなどは無視し、「女ごごろ」を考えているのではないのか。そんなレベルで考えることができないと、いや感じることができないと、つまり、「自分」という枠から外に出て考えられないととても小説なんてかけないんだろう。

 小説に登場する男性や女性は、あれは人間としての男性や女性ではないと思うようになった。著者が表現したいなぁと思っている感覚、感傷、感情を男性なり女性なりの衣をまとわせた寓意なんだろう。だからその役は、なにか行動の主体であることよりも結果的にそのキャラクターが読者に感じさせたい「感覚」あるいは「心情」なんだ。

 なんでまたこんな感想をもったのだろうか。それくらい、不思議な寓話なのだ。帯に書かれた「逆・シンデレラ」の意味は全くわからないまま読み終えた。この作家には何か不思議なものを感じる。それがいいものなのか、悪いものなのかはわからない。ただ、数年後に『船に乗れ』という傑作を生む事になるのだけど、その作品とはだいぶ感覚が違う。