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2010年1月29日

心の闇に魔物は棲むか

春日武彦
光文社知恵の森文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 精神病の人が引き起こす負の面に着目した内容で、読んいてさすがにさっぱりした気分にはなれない。どちらかといえば気分が暗くなる。

 というわけで、半分読み飛ばしてしまった。

2010年1月28日

精神のけもの道

春日武彦
アスペクト
お勧め指数 □□□■■ (3)

 けもの道。林や野原のなかにある、人が通る道から少し外れた道のことで、普段は動物しか通らない。ハイキング中うっかりけもの道に入り込むことがある。遊歩道を歩いていたはずが、いつもまにやら薮の中を進んでおり、「あ、けもの道に入ってしまった」という具合に。

 「精神の」とあるのは、その人の行動を決めている考え方を道にたとえているから。それまではふつうの社会人として行動していたはずの人が、気づけば無差別傷害などの動機不明な事件を起こしたりする。多くのケースで殺傷事件に至る。こういう人は病院に連れて来られ、自己の行動責任をとれるかどうか鑑定される。そんな人を診断し、治療する医師でもある著者が、この人はどこで人の道から外れたのかを考える。そのとき「人の道」と「けもの道」という比喩がぴったりするというのだ。ただし、この本は論説文でも教科書でもなくエッセイである。だからだろうか、なんだか面白い。

 精神的に病んで異常な行動をとる人でも、意味なしに行動しないらしい。その人は「その人なりの論理」で動いている。なるほどそうかもしれない。自分でも身に覚えがある。例えばイライラするのは衝動であり、とくに論理的帰結ではないが、自分としては相手の行動にイライラの原因があると信じるようなものである。あいつの目が俺を笑ったとか。そんな場合の論理は冷静な人が聴いたら「おかしい」ものだろう。それでも自分としては論理的に考え、理屈を付けて、イライラしたのだと考えるものである。

 電車のなかでイラっとしたとしよう。ぼくの場合、頭の中でその先を想像してしまうが、行動に及ぶ事はない。その想像のなかでは、「なぜこんなことをしたのか」と問われたときの回答はつねに用意してあり、理屈の上ではイラっとさせた人に否があると断定したうでの行動を想像している。

 テレビを見ていると、おかしな事件を目にすることがある。借金や別れ話かなにかが原因で殺人に至ったニュースは日々起こっている。分かりやすい動機はべつとして、なんでそんなことで事件を起こしたのかと驚き呆れるニュースも意外にある。そういうときにこの「精神のけもの道」を考えるのである。あぁ奴は獣道に迷い込んじゃたのだなという具合に。ある種の神の視点を持って世間を眺めるような気分がある。

 けもの道は人が住んでいる近くにもある(とくに、地方ではだが)。同じように、普通の人の行動から近いところに精神のけもの道もある。あるとき、ある偶然がきっかけでけもの道に迷い込んでしまうこともある。そのまま進むと、「あーぁ」という感想を持つことになる。とはいえ、人はつねに論理的に行動しているはずだから、自分の行動を論理によって「けもの道」かどうかを知ることは難しい。それでも、迷い込んでないかなと周りの風景を見わたすことは必要だな。

 そんな感想を持った。

2010年1月27日

本当は不気味で恐ろしい自分探し

春日武彦
草思社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 書名をもとに選んだ本なのだけど、自分探しについてのあれこれが書かれているわけではなく、雑誌掲載の原稿をまとめて編まれた一冊で、内容はエッセイと短い小説を束ねたものであった。エッセイの内容は、面白いものもあるけど、思弁的過ぎるものも多くて、全体的にいまひとつピントこなかった。毎回のエッセイに関係がある短い小説は、習作のようなものであり、もうひとつ面白くない。

 とはいえ、とても気に入った一片があった。この中で読む価値が一番高い。それは最後の一片である。「空虚なわたし」というタイトルのエッセイである。何冊もの著作がある著者が文章を書かこうとして書けなかったころの体験が綴られている。学生時代、社会人になってからも、文書で表現したいと思っていながら全く書けないでいたそうだ。もちろん、学業や業務に必要だった報告なり論文なりは書けたということだが、自分の頭のなかにある衝動を「表現」するということはできなかったそうなのだ。

 一般的に言って、文章を達者に使える人は子供の頃からなにかしら書く訓練しているもので、大人になってから始めても遅く、そういう人は文章を書けるにようにはならないものだ。そう諦めかけていたぼくには朗報だったのだ。

 何がきっかけで書けるようになったのか。それは「片意地はらないこと」にしてからだそうだ。自分が書くものは「優れたもの」「完璧なもの」でなければと思っていたそうで、そう思っているうちは何もかけなかったとか。そんなものを目指していから書けないのであって、文章によって何かを完全に表現することは無理だと認めていなかった。ところが文章には相手がいて、言葉が書かれていない余白などは相手が埋めることで表現が伝わることもあることを理解してから、気負いがなくなって書けるようになったそうである。手始めに、現在の仕事場の風景描写からスタートしたようである。

 なるほど。大いに勉強になる。想像力で面白い話をつくることは相当難しい。普通の人であるぼくに、そういうことは、まぁ無理だろう。だから気負いしないで、できることを淡々とやってみるよりない。こんどは今まで以上に気楽に文章を書いてみるとするか。

2010年1月23日

何をやっても癒されない

春日武彦
角川書店
お勧め指数 □□□□■ (4)

 春日武彦さんの著作、興味があっていろいろと読み進めることにした。この本も古本。内容は精神科医師のエッセイで、日々診療に訪れる患者さんのことについて、自分自身や普通の人のことを考え合わせて考察した思索である。雑誌連載エッセイなので重い内容のものは含まれていない。ごく普通の人が暮らしている日本の社会には、見ようと思えば見えるだろうという例もある一方、医師にでもならないと見えないものが当然あり、そういう「へんな」事例に付き合わなくていい普通の生活を続けていけることは結構なシワセなことなんだとあらためて感じた。

 タイトルにある「何をやっても癒されない」とは内容に直接関係はない。まぁ、ぼくが本書を読んだ動機に「癒されたい」という思いはなかったので、読んだときに違和感やがっかり感はなかった。精神科医の淡々とはいえない日常を垣間見るに、やりがいがある仕事なのかもしれないが、自ら進んでなりたいものではないなと感じた。ただし、お医者さんは必要だし、この本に登場する患者さんのような人を普通の人が相手にするのはとてもじゃないができないだろうから、是非ともいていただかなくてはならないのだけど。

 この本を読むと考えてしまう。ラッキーな一日があれば、ツキがない一日もある。気分がよい悪いは各自のクオリアがなせる技なので、自分を取り巻く状況を仮に制御できたからといって、感情までもが制御できるわけではないだろう。ある人にとって幸せなことが他の人にとって不幸なことになることは多々あるものだから。だから、この本に登場する患者さんの症状を読んでいると、それらの軽微なレベルのものは普通の人ならばだれでももっているんじゃないか。自己嫌悪、ナルシズム、心配、うそつき、思い出し怒りというものは誰でも憶えがあるだろうし、いわゆる「喜怒哀楽」を代表とする人間らしい感情に含まれている。病院にやってくるのは、こういった症状がどれもこれも「ケタ違い」にすごい人のようである。普通の人がマネできるようなレベルではない。だからこそ病気なのだろうけれど、逆に言えば患者さんと普通の人とは「地続き」なのだ。先天性なものか、事故やケガあるいは薬による副作用ということが原因で患者の人もいるのかもしれないが、そうでない人も多いだろう。

 春日武彦さんは、どちらかとえいば「強い」精神科医ではなさそうだ。何が強いのかといえば、絶対に患者さん側にならないという確証である。春日武彦さんの考えなどを読んでいると、何かあったら境界の向こう側に行ってしまいそうな雰囲気がある。実際「発病したかもしれない私」というものを想定しており、患者さんのことを「発病した私」として診ている眼差しがあるようだ。なかには、死んじまえと思うような患者さんもやってくるようだが、そういうことでは「名医」には成り得ないだろうし、名医でなければエッセイの依頼などはなかっただろう。陳腐な表現だけど、患者側にたてる医師がよいなと思う。

 この人に期待しているのは、精神科の患者さんと普通の人をつなぐ境界のようなものがどうなっているかである。精神科に対しては、なにか怖いものを感じるが、本当の境界はどういうものかを教えて欲しい。そうすれば、街や電車のなかで出会う「おかしな」感じの人との間合いのとりかたをもう少し上手にとれるようになるのではなかいかと思うから。

2010年1月17日

「狂い」の構造

春日武彦+平山夢明
桑社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 気になっていたこの本を一気読みした。内容はさわやかとは全く逆方向のおぞましいものであり、狂った人が世の中そんなに溢れているのならば生きていくのが嫌になってしまうよ、というような人たちの話も満載で、面白くもあり不気味であった。そうか、これがホラーの魅力というものなのかもしれない。

 春日武彦さんについては、曖昧なものいいなしで精神病の人たちやその症状について教えてくれる著作がある人である。なかなか読むのをたじろいでしまうくらいで、できれば読まないで済ませたほうがいい。とはいっても、人は妙なことに興味を持つもので、ついつい買ってしまう。ということで、ぼくの本だなには買ったいいが読んでないこの人の本が溢れているわけである。

 もう一人の平山夢明さんは作家さんということなのだが、ぼくは著者を読んだこと画はない。『ダイナー』という小説の作家だよ、と嫁さんに言われた。年末の「闘うベストテン」というミステリー番付の番組のなかでベストテン入りするかどうかでもめていたあの『ダイナー』の作家なのか。内容はとっても面倒なものだということなので、なるほど「狂い」の放談をするにはちょうどよい人なのだろう。フィクションでは多くのこわい人を書いてきたのだろうけど、実際の怖い人を相手に仕事をしている春日武彦さんとはどんな話になるのだろうか。そんなワクワク感がないわけではなかった。

 で、実際「狂った」人の話を聞いている家に、薄ら寒い思いがしてきて困った。そこでの事例を希釈したものであれば普通の人にもあるということだが、大抵は犯罪絡みになっているのである。というか、自分の知人やまったく無縁の人を含めて死んでしまうからである。そこまで行かなくても不幸になったことは明らかで、もうたいへんな被害。幸せになるための条件があるとしたら、自分も自分と関係を持つ人にも、「狂い」の構造をもった人がない事ということになると思う。

 パチンコをするために赤ちゃんをバイクのヘルメット入れに入れて死なせた人は、ごく普通の市井の人ということになっているが、本当にそうなんだろうかと疑問になる。給食代金を支払わない人と同様に、「狂っている」人は殺人と関係しないまでも世の中に蔓延しているということである。別の都市に多いわけでもないだろう。ニュースを見ているとどこでだって起きているようだし、単に人口比に事件数が比例しているだけのような気がする。

 しかし、現代社会に生きてくのは面倒なことがおおいなぁとため息がでる。仕事だとかストレスフルな人間関係とか、生きていくには面倒なことはいろいろあるけれど、どうやら少なくない数の「狂った」人の中で生きていくのもあまりうれしい気分がしないものである。もちろん、状況によっては自分だってそうなるかもしれないし、自分の家族や知人がそうなるかもしれないという可能性はつねにありつづけることからくる不安もある。

 面白かったけれど後味もよくない、というかそれが事実なんだろうから仕方ないなと諦めを誘う本だった。

2010年1月16日

絶滅した奇妙な生物

川崎悟司
ブックマン社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 昔の動物のイラスト集で、たぶん子供向きに作られている本だろう。漢字にはすべて読みがなが振られている。動物の絵もどちらかといえば可愛らしく、ユーモアがある。怖いあるいは気持ち悪いタイプの生物が描かれていても、まぁ人前で見る事も可能なものである。気持ち悪いようなリアルさはない。

 この本は、本屋さんの店頭でぶらぶらしていて目に留まった。古生代、中生代、新生代の動物に興味があったというわけではない。生物が進化してきた途上の「実験的な」形態に魅かれたことが理由で手にした。古い生物程不思議な気分がする。なんでまたそんな形をしているのだろうか、という驚きである。仮面ライダーに登場する怪人よりもずっと「挑戦的」なものがいる。というより、人の想像よりもはるかに「想像的」な生物がいたんだなぁと再発見するのは面白い。自分が新しいものを作り出すときは、最初の段階ではこういうきてれつな生物のような実験的なものをつくらないといけないな、などと参考にするつもりなのだ。

 恐竜といえばステゴサウルスやティラノサウルスやプテラノドンを思い浮かべるが、あれは「かっこいいな」と子供の頃のぼくが感じた印象がいまでの更新されず残っているからである。サイや象やトカゲ、鳥などから類推できる動物の形態がもつであろう「許容範囲内」に形態がおさまっているといえなくもくなく、恐竜の姿に気持ち悪さや不気味さを感じない。ところが新生代の生物や中世代の魚類などには違う。へんなものが多いのだ。変なというのは、現代にまでは生き延びなかった形態であり、「許容範囲」に収まっていないという意味である。例えば、歯が「ら旋状」に生えてくるサメなんてものが存在したらしい(化石が残っている)が、そんなものどうやったら想像できるのか。人の想像力よりも自然の想像力が上手である。まぁ、当たり前なことなのだが、昔の生物の姿を見るにつけ、そんなことを再確認してしまう。

 日々の生活では人が作ったものを目にしながら生きている。家具や都市に住んでいる限り、見えるものはすべて人の想像の産物か、想像しうる範囲にある。そして、それが世界だと思ってしまっても不思議ではない。

 古代の生物のイラストを見ていると、いやいやどうして、自然はスゴイなぁと思う。昆虫にはいろんなものがいるし、深海魚にも不思議なものが多いが、そいうものは本物を見る機会が少ないからかもしれないからかもしれないが、よく見慣れたものであってもあらためて考えると生物は良くできているものだと感心する。単純だが、そんなことに気がついた。さらに不思議な生物のイラストをじっくりと見たあとでは、うまくできているものと、うまくできてないものの違いもわかり、どっちかというとうまくいかなかった(つまり、絶滅してしまった)ものほうが面白いことに気がついた。もはや動物園では物足りなさを感じると思う。

 同時に、人が考えるものの限界を感じるようになった。最近何冊か読んでいた宗教論(キリスト教が多かったが)について、ちょっと思い返してみると実に馬鹿馬鹿しいものを読んだなという気分になる。例えば西洋の聖書物語にある想像なんて、所詮は人が考えつくものだとわかる。天地は神が想像されたものだということになっているが、聖書の視野にはたかが数万年程度であり、基準が所詮は人間世界でしかない。ところが、生物の進化というものは3億年前からいろんなものが試されていたことがはっきりしている。だって化石があるんだから。いろんな動物を試してみて、それが環境に適応しながら形態を変え、結局今にいたっている。人間なんてその結果の一つにしか過ぎない。しかも、数万年の歴史しかないし、人の知性の歴史といえるものは1万年程度じゃないか。人は「たまたま」存在しているだけだよね。そんなことがわかるようになった。人が考えた雄大なものなんてのは、生物の歴史を前にすると実にスケールが小さいものだ。

 人の存在を越えるようなものを意識的にしろ無意識的にしろ考えてしまうような人は、この本のようなものをじっくり読んで見たらいいのではないだろうか。

2010年1月15日

はじめての宗教論・右巻

佐藤優
生活人新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 新刊で平積みなっているとつい手にしてしまうタイプの新書である。著者は佐藤優さんだから読みごたえ十分だろう。結構売れているようで、平積みされた本のうちこの本の高さが低くなっていた。

 のっけからキリスト教についての解説があるかと思っていたら、まずは現在の日本社会での宗教についての解説から始まっていた。新興宗教についてかなと思っていたがそうではなく、「宗教」とは名のらない宗教についてのことで、オーラの泉とかそういうものが蔓延している今の世の中の風潮について解説されている。スピリチュアルだのなんだのは「女子供」が好きな血液型や星占いのようなものだと考えていたが、いやいやあれは宗教なんだということだ。なるほどわからんではないが、スピリチュアルなるものは宗教の3条件(ABC)が成立していないから、必ずしも宗教とは言えんだろうとぼくは思っている。

 宗教とは、見える世界と見えない世界をつなぐものだという話である。この理解は必ずしもこの本の主張を100%反映していないかもしれない。というか、神学やら哲学やらが関わってくる解説は読み流してしまうところがぼくにはあるで、この理解は間違っているかもしれいない。間違ったとまではいかなくとも、ピントがぼけているかもしれない。それでも、見えない世界が存在していると考え、その世界と見える世界との関係を考えていくと宗教というものが浮かび上がってくるという宗教理解は、さほど外れではないだろう。

 現代社会では見える世界が重要なのは間違いない。見えない世界は「古い」ものあるいは迷信として残っているだけ。そう考えるのは、市井の人の普通の「基準的」な考えであろう。いやそうではないと思っていても、見えない世界について声高に主張することは、その人の社会生活を円滑にすすめていくことに対してリスクを伴うはずである。表層的には見えない世界を語る・信じる=知能が低い・古くさいという図式がまかり通っているから。日本の宗教や仏教の儀式に参列する機会は少なからずあるが、それは「社会性」を考慮してのことであり、仏教なり神社なりの主張を「リスペクト」しての行動ではない。

 実際のところはどうだろうか。占いをはじめ、マスコミでは「見えない世界」への扉をやたら開いている。スピリチュアルは占いの延長や物語として扱われているはずなのだが、実はそのまま宗教効果をもっているとも言える。

 養老孟司さんの本に、現実とはその人の行動に影響を与えるものだ、という定義があった。とすれば、占いやスピリチュアルな行動の勧めを参考にして行動を変える人がいたら、占いの世界やスピリチュアルな世界は「現実」ということになるのである。ウエルカムトゥ宗教ということになる。

 そんなことを思い浮かべならが読み進めた。後半は佐藤優さんらしくキリスト教神学がちらちらしてくる。普通の人ならば、その説明の入り口をちょっと離れたところから観察して終わりにするよりない。佐藤優さんは前提とする知識体系がふつうの人には足りないから、そうするのはまぁ妥当なところだろう。

 左巻が出版されたら続きを読んでみようと思う。

2010年1月 3日

ローマで語る

塩野七生+アントニオ・シモーネ
集英社インターナショナル
お勧め指数 □□□■■ (3)

 塩野七生さんの読者ならば、息子さんはどんなひとなんだろうと興味を持つはずである。塩野七生さんのエッセイには、午前中や執筆に専念し、午後は子供の面倒をみるというような生活の一端が語られていた。また、あれだけ「頬に縦じわの入った男」に女性なのだから、自分の息子をそのような人にしたいと思うのではないかと想像してしまう。厳しい母親なのか甘い母親なのかはわからないが、どっちにしても「普通の人」にはならないのではないか。

 この本は塩野さんとその息子さんの映画にまつわる対談である。内容は映画についての話だから、ぼくのような映画をあまり見ない人にはピンとこないことが多い。ただ、雑誌の連載になった対談だから、毎回読み切りで、しかも門外漢の人もついてこられるよう最低限の配慮はなされている。詳しい脚注があったりする。だからだろう、なるほどなぁと感じであっさりと読んだ。

 著者略歴のところに写真が載っている。アントニオさんの写真から判断するに、ちょっと優しい感じの人のようで、厳しさというものはあまり感じられない。母親がスゴイ人だと息子さんはやさしい人になるのかもしれない。しょうがないなぁという感じで、母親の面倒をみるような。まぁ、想像通りといえば想像通りであるが。