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2010年3月25日

美術で読み解く聖母マリアとキリスト教伝説

秦剛平
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 新約、旧約と読んだので、シリーズ最後のマリア伝説編に手をだした。ヨーロッパに旅行して現地で気づくのは、街中にあるマリヤ信仰の場所である。お地蔵さんは道祖神のようにマリヤさんの祠があり、イコンのようなものがかざってあるタベルナコロがあり、教会にかかげてある祭壇画がある。キリスト教じゃなくてマリヤ教なんじゃないか。そう思うくらいにある。この本は、そのあたりについて教えてくれるのかなと思って読んでみた。

 しかし残念なことに、マリヤ信仰についての解説は結局のところほんどなかった。原ヤコブ福音書にある、という情報提供があるだけで、それがどうしてキリストよりもマリヤの方に人気がある(ように見える)のかについては、結局知ることが出来なかった。もっとも、美術についていの解説書だから、それでもいいのかもしれないが、がっかり感はがっかり感である。

 著者がこの本を書いた動機は、マリヤ信仰よりも古代ローマ帝国時代のキリスト教信者の地下墓地であるカタコンベに書かれた絵を解説することにあったのかもしれない。そして、反ユダヤ主義について。気合いが入っているところは、どの2テーマだったようなきがする。

 ローマのカタコンベには見学コースを回った事がある。すっかりと観光地化しており、不気味さなどまったくなかったが、まぁ、へんな場所であり、どんなに照明が整備されようとも薄気味悪さがただよう地下迷路ではあった。

 カタコンベには壁画がいくつもあった。腐敗した死体が並んでいるなかで絵を描くなんてことをよくやったものだとは思う。秦先生は、カタコンベという異様な状況で書かれた絵にはどんなものがあり、何を主題にしているのかという解説してくれている。絵のテーマ解説は、以前朝カルでの講義で使っていたものだったけど。「これはダニエル記だ」とかいわれれば、なるほどとは思うが、でも実際のところを知りたいことはそうではない。なぜ、その絵なのか、その絵は何を意味しているか、人気があったのか、流行だったのか。残念なことにそんな視点からの解説はなかった。

 こういう本を読めば一応は知識を知ることになる(すぐに忘れてしまうだろうが)。なるほど、そんな背景があったのか。そんなことを知るわけだ。

 しかし、そんな知識を何かに役立てる予定はいまのところない。予定がないのに知りたくなるのだから、この本を読むには完全なる道楽である。一方で、この本は学者の研究資料としては不完全であり、たぶんそういう使い方を想定して書かれていない。だから、道楽のための本ということに何の問題もない。

 自分でいうのもなんだが、休日の読書なんてのは、そういう道楽であるほうが楽しい。そして、日本にはそいう本には事欠かない。なんともよい国である。

2010年3月23日

美術で読み解く 旧約聖書の真実

秦剛平
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 『新約編』を読んだが、もうひとつの感があったこともあり、この本は読まないできた。ところがamazonでぶらぶらしていたとき、購入履歴から計算される「お勧め」にこの本が混じる頻度があがり、なにかと目に付くようになった。まだ読んでいない本は沢山あるのだが、秦剛平先生の本が読みたいなぁという気分になったこともあり、高価な文庫本だけど購入してしまった。適切な広告をちらちら(目立たないように)出すことは、かなり効果がある、と実感した。アマゾンの勝ちである。

 「新約聖書の真実」なんてほどの内容ではないし、美術の解説になっていないような気がする。その展は「新約編」と同じ。だから面白くない、というのではない。単に、内容は秦先生の本だなぁという感想であり、先生の(いつもの?)論点を強調するために、視覚的な証拠として絵をつかわれている、という本だ。

 ある時代よりも昔の西洋絵画の主題は、ギリシャ神話かキリスト教かになるはずで、その意味で言えば、ある時代よりも昔の美術を解説するには、必然的にキリスト教の解説になるだろう。この場合のキリスト教は新約・旧約を含めたものになるので、どんな美術史家の解説であっても結果的に秦先生と同じことをするはずである。そういう本とこの本との違いは、秦先生の専門ならではの「体系知」に基づいた解説にある。どんな主題をつっついても、関係する別の箇所についての言及や、だいたい似た物語について挙げてくれている。聖書の中を自在に飛び回る自由さを楽しめる反面、ヨーロッパ文明を規定しているものは、こういう物語を束ねたものでしかないことに気づき、あらためて驚く。

 秦剛平先生の本を読むのはとても愉快なのだが、読めば読むほどその対象である聖書そのものには興味が持てなくなる。もはや聖書そのものには興味がないところまあできている。いろんな事、とくに物理や工学、心理学や歴史などをそれなりに知ってしまった状態で聖書を読むのはそもそもからしてつまらないのは仕方ない。ネタバレしたあとのミステリーを読むようなものだから。聖書は2000年前の時代の人々の心情にマッチしたものであって、現代の東洋に住むぼくにはどうでもいいや、という感想をもつのは、かなり当然のことであろうと思っている。

 だから不思議なのである。一体秦先生は何を目的として講義をしているのだろうか。 

2010年3月20日

裏切りの流儀

高田純次+茂木健一郎
青山出版社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 高田純次さんが好きなので、正直期待をしないけど買ってみた。フォントは大きいし行間は広いしで、なんとも損な感じがする本だけど、仕方ない、と諦めて買った。価格が1000円していないのがせめてもの良心なのだろう。

 一回の対談で、表紙の写真撮影までやったのだろう。実に経済的な出版行為である。茂木健一郎さんにかかれば、売れる本になってしまうのだから驚きである。

 じゃぁ内容が悪かったのかと言われると、ビックリするほど良くはないけど、損したと思うほど悪くもない、というところ。いいなぁと思ったのは「高田純次さんの発言の意外さ」で、表題通り「予想とちょっと違う」ところにあった。その発言には、高田純次さんが役者と生きてきて、役者として考えていたことや、横尾忠則好きのアートについての発言などがあり、いわゆる普通のオジサントークで、ちっとも「インチキさ」がうかがえない。そこが「面白い」わけである。

 ぼくの印象に残った高田純次さんの発言はこういうものだった。

 高田 ただね、結果はどうであっても、とりあえず頂点に向かっていかないとだめだとは思っていたんですよ。事業仕分けの連坊さんが「スーパーコンピューターはどうして世界一位じゃなくちゃいけないんですか」と質問していましたよね。あれ、僕は答えられますよ。「一位を目指さないと二位にはなれないからだよ」って。

 この本に期待していなかったのはホントだけど、こんな一言に出会えたのは拾い物だった。この本の白眉だ。というか、これまで高田純次さんの本で読んだものなかでも白眉なコメントだろう。

 物をつくる人(芝居も含む)がそういうことを当然のごとく言えないって、本気で生きていないことの証明なんじゃないかと思う。ぼくはこれから先いろんなことを提案し行動し続けるつもりだけど、世界一を目指すと必ず言うことにした。だって、その理由は、この高田純次さんの一言に尽くされているもの。勉強になった、ホント。

2010年3月18日

井沢式新ニッポン風土記

井沢元彦
旅行読売出版社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 風土記という言葉に魅かれた。その地方の地理、歴史、特産物、人々の性格について、あれこれ書かれた本なのだろうと想像した。著者は井沢元彦さんなので、『街道をゆく』とは違った切り口の考察や発見があるだろうと期待していた。

 500ページを越える量で、一応日本全部について語っている。旅雑誌に数年に渡り連載されたものをまとめた本だから、読み切りを束ねて結果的にこのボリュームになったようだが、電車で読むには本が重くてかわない。

 ページ数に比例した読みがいがあるのだろうかと問われると、必ずしもイエスとは言えない。というのは、地方すべてを網羅してはいるが、内容の濃さは明らかにまちまちで、どの地方に興味があるかで読みごたえが変わるから。

 どの地方もそれなりに歴史はあるのだが、日本史のイベント、それもよく知られたものを中心に語れば、面白い地域、そうでもない地域とがでてくるのは当然である。その場合、地理や特産物などでカバーすればよいのだが、いかんせん著者は日本通史どっぷりの人だからから、日本史を話題したときのようにはいかないようで、重複なども結構見受けらる。そんなことから、結果的にはもうひとつの本になっている。なんだかな。

 日本の通史を書くためにいろいろ勉強すると、派生的なものがいろいろでてくるのは確かだ。こうやって、人は物知りになっていくのだろう。

2010年3月16日

さよならドビュッシー

中山七里
宝島社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 このミス大賞受賞作は毎年買って読む。新人なのになんでこんなもんがかけるんだろうか。そういう驚きがあるから。物書きになる人はスタート地点からして普通の人とは違うようだ。どうしてこれが「最初」の本なんだろうか。つくづく不思議な思いがする。信じられない技を軽々とこなす天才少年少女をマのあたりした普通の驚きである。

 職業として物書きを選ぶ。いくつもある選択肢から迷った揚げ句にそれを選ぶ。そういうドラマは実際にはないのかもしれない。単に不安と希望を天秤に架けはしたが、応募した作品が賞をとれたので作家になってしまった、ということで、苦悩なんてないんだろう。要するに、有る技術に秀でるかどうかなどは、自分でどうにかなるものではなく、周りの人がいかに後押しするかで決まってしまうのかもしれない。ある種の運命を帯びた仕事なんだろう。ちょっと、親鸞的な考え方過ぎるだおるか。

 ところでこの著者は音楽にどの程度詳しいのだろう。子供の頃に音楽の教育を受け、途中で違う道に来てしまった人なのだろうか。『船に乗れ』の藤谷治さんのように。それならば話はわかる。でも一方で、『のだめ』の作者のように『平成よっぱらい研究所』を書いていたような人が何かのきっかけで書いたのかもしれない。ぼくにはわからない。

 そもそも音楽家や音楽を学んだ人がどう音楽を聴いているのかは、ぼくのような素人から想像もできない。『のだめ』を見るとそうおもう。凄いなぁと。この作品でも、ドビッシーやショパンの曲の説明がある。曲が生まれた背景、作曲家の自伝、あるいは世界史における位置づけなどを演奏者はまず頭に入れて、それを理解した上でどう演奏するか、どう観賞するかという方法が示されている。いい曲悪い曲好きな曲ぱっとしない曲という心理的な状態で曲を判定してしまうぼくなどには想像すらできないことを裏でやっているわけである。

 音楽の道に進む人はさぞかし大変だろう。ただ好きでピアノが弾けるわけではない。この小説はミステリー小説なのだが、殺人のトリックだけでなく、音楽の道にいる主人公の音楽の捕らえ方も立派にコンテンツになっている。『のだめ』と同じだ。へぇ、そうなんだ、そんなものかな。ミステリーの謎ときよりもこっちのほうに比重を置いてぼくは読んだ。この説明に素人にも想像できるようにリアリティーがあれば、そして、それが説得力をもち読者にそんなもんなんかねと思わせることができれば、ミステリー自体の印象も良い方へと引張あげられるだろう。

 小説はあくまでも「お話」であって、読み終わってしまうとそれで終わりである。もちろん余韻やら面白かった感想やら小説のパターンやらは頭に残るが、かといって「勉強しちゃった」という気分にはならない。

 本を読む事=勉強じゃないし、読書で何かの役に立つ勉強をしなければいけない理由などないのだから、音楽を聴くように小説を読めればいいはずだ。

 そう思ったが、ひょっとしたら音楽家が音楽を楽しむためにいろいろ勉強するように、本を書く人、読む人にもいろいろ勉強することがあるのかもしれない。

 この小説はある種の成長ドラマだ。解説に「宗方コーチ」という例えがあったが、見方を変えれば確かにそうで、面白い「話」の方向性はだいたい世の中に知られているものばかりなのかもしれない。単に楽しむだけで済ませてくると、そのうち飽きる。だから、いろいろな勉強があるのだろう。

2010年3月14日

捨てちゃえ、捨てちゃえ

ひろさちや
PHP研究所
お勧め指数 □□□□■ (4)

 タイトルからして仏教の本、内容もうっすら透けて見える。これまでにひろさちやさんの著作を何冊か読んでいて、お気に入りになっており、さらに新刊だからということで購入してみた。ほっとした境地が得られるかもしれない。

 「捨てちゃう」対象は、世間であり、世間からみた自分であり、世間から刷り込まれた自分像、ということのようだ。そういうのは簡単だが「実際問題そんなのできるか」と言ってしまうような悟りの勧めではない。「これなら俺でもできるな」と思える気づき、考え方の変化のきっかけが書かれているだけである。とはいえ、いくつかのトピックには「ちょっとステレオタイプな味方だよなぁ」と感じてしまう説話もあるが、折りにつけ読んでみる本として良いものだろう。人生の楽しみを探すヒントになると思う。

 よい話だなぁと思ったのは、宗教というものの考え方についてである。

 (略)信者になったら金もうけができるとか、入信すれば病気が治るというのは、どうもインチキくさい。ただし、わたしは、信者になっても金儲けできない、病気も治らないと言っているのではない。それらのことはあるかもしれないが、それが宗教の本当の存在理由だとは思えないのである。本物の宗教は、貧しい人は貧しいまま、病気の人は病気のまま、幸福に生きる道を教えてくれるものであろう。少なくともわたしは、宗教をそういうものだと思っている。

 なるほど、と頷く。このような考え方はある程度生きてこないと実感が湧かないだろうし、若い人はこれを認めないだろう。思い通りにならないことと対決しそうな気がする。それでうまくいかないと理不尽さを嘆くような気がする。

 しかし、さすがに不惑の歳にもなれば、そりゃそうだよな理不尽さというものを受け入れられる土壌が心に準備されるようで、ぼくにも不条理の不条理さというもの嫌悪感を感じなくなりつつある。もっとも、それは想像のなかの不条理感であって、リアルな不条理感についてはまだむりだろうけど。

 ひろさちやさんの本を読むと落ち着く。ただ、それでいいと思う反面、少しは工夫して乗り切ろうという気持ちも残っている。まだぼくにも未来を語る余地は残っているようだ。

2010年3月12日

心にとどく英語

マーク・ピーターセン
岩波新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 マーク・ピーターセンさんの本を何冊が読んできたが、話題が他の本と重複しているものをちらちらと見かけるようになった。なかには全く同じものもあった。ピーターセンさんは作家じゃないのだから、そういうこともあるだろうとは思うが、それでもピーターセンさんの本はもういいかなという気分になった。英語のちょっとしたヒントを知るうえでマーク・ピーターセンさんのコラムは面白いし、勉強になるのだが、切りがない感じがする。

 マーク・ピーターセンさんの一連の本を読んできて思った事。それは、ニホン語と英語の違いを知るときには、単語と単語の対応を探すよりも、言葉の意味する内容(あるいは、世界の切り方、現象の名付け方)に注意を向けましょうということだ。日本語と英語とが対応していることなど実は殆どなく、日本語では縦に切れているものが英語では横に切れていたりするから、単語=単語の表層的な神経衰弱をやっている限り互いの相手の言葉を理解する事はないだろう。

 著作のなかでも言われているが、日本人が英語を学ぶには、長い時間かけて取り組むよりなく、お手軽で楽な方法はないということだ。実に当たり前な結論だけど、何かを学ぶということはそういうことだ。そんなことを確認できて、ぼくにとっては有り難いことだった。 

2010年3月11日

英語で発見した日本の文学

マーク・ピーターセン
光文社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 日本文学の良さは言葉の響きにあるのだろうか、それとも内容にあるのだろうか。

 内容にあるとしたら「世間」を前提としているはず。多くの人が当たり前と思っていることと微妙にズレたものに気づくから感動するのだろうか。

 だから世間の前提を知らなければ日本文学の良さもわかるわけがない。世界で受け入れられるのは日本文学ではなく世界文学だからで、それをいくら読んでも日本文学の良さをわかったことにはならない(と思う)。となると、どれだけ世間を理解しているのか。子供の頃からの暗黙の了解のようなものの集合が世間であって、言葉を上手に使えるようになっても頭に世間がないならば文学はわからないのではないか、と思ってしまう。

 では、マーク・ピーターセンさんは世間についてどれだけ理解できたのであろうか。まぁ、10年、20年と滞在していればわかるのだろう。ときたま鏡を見て自分が日本人でないことに気づいてビックリするくらいなのだから。

 文学の理解についての考え方は理科系人間であるぼくがそう考えているだけ、それが正しいというわけではないだろう。それに、文学についてあれこれ語るほど文学について情熱を持っているわけでもないし、生きてきた年齢が長いわけでももない。とはいえ、あたらずとも遠からずであろう。

 マーク・ピーターセンさんの日本文学の紹介を読む限り、なんだかすごく理解されていりょうで、ぼくも読んでみようなどと思ってしまった。母国語でないことばの文学を理解することなど不可能だと思っていたが、長い時間ずっと使っていることで慣れてくるのかもしれない。
 

2010年3月10日

身体の文学史

養老孟司
新潮選書
お勧め指数 □□■■■ (2)

 養老孟司さんの本が好きで、読んでいない本を見つけたら即購入する。養老孟司さんといえば『バカの壁』で世間の認知度が上がった。だが、ぼくとしては『唯脳論』の人である。『唯脳論』には大学時代に「なるほどなぁ」といたく感心し、それ以来ずっと養老孟司さんの本(といっても一般向けのエッセイばかりだが)は読んでいる。僕の本棚には120冊以上並んでいる。

 養老孟司さんの本はベストセラー作家になる前からたくさんあったし、近年は出せば売れるからだろうがゾクゾクと出版されていたので、定期的に新刊を楽しめていたが、最近はめっきりと出版数が少なくなり、新刊に出会えるチャンスは貴重になってしまった。だから昔に読んだはずだよな、という本でも新刊ならば買ってしまう。新刊が文庫化されただけでも買ってしまう。実にばかげているとは思うが、もはや趣味なので許されるだろう。そういう人、結構いると思う。

 この本は文学、それも三島由紀夫について語ることが目的のようだ。いきなりミシマについて語るのはなく、歴史にそってミシマに至る方法。時間の流れの主軸は「身体」である。いかにも養老孟司さん風の文学史。

 江戸期以後の日本文学史をなぞるだけでも、知識人の脳裏から「身体」が消えて意識がでしゃばってくる「都市化」の影響をうかがい知ることができる。なるほど。そう頷きたいところが、実際問題本書の内容はそれなりに日本文学への興味がないと取っつき難い。しかも、少々高級な内容になっているので、正直ぼくにはピンと来ないことろだらけであった。この本は、養老孟司さんがまだ一般向けの本をあまり出していない頃のものである。だから、かなり面倒なロジックを使い、それについてこれるレベルの人に向けて書かれているから仕方ないのかもしれない。

 言いたい事は想像できるし(本当か?)、問題意識のポイントも予測がつく(正しいか?)が、だからいってストレートには「なるほど」とは言えない、なんとも自分の教養のなさを自覚させられる本である。読んで少し自分にがっかりした。
 

2010年3月 9日

創るセンス 工作の思考

森博嗣
集英社新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 自分の手でものをつくるのは楽しいなぁと最近ずっと感じているので、この本の書名を見たときにすぐに買おうと決めた。新書なので子供向きのじれったさはないだろうし、プロやマニア向けの狭量さもないだろうから。

 ぱらぱらとめくるに、著者の主張したいことは大筋納得いくし、頷くことも多々あったし、著者の作品に感心したのだけれど、これといって面白い本かと問われれば、そうでもないかもとするよりない。内容が悪いわけではないのだが、ちょこちょこと顔をだす著者の自慢のようなものが読んでいるときに不必要に感じられるからだ。べつに今更自慢もないだろうよ、と思うのだが。もっとも、それは受け取るほうのぼくの問題であって、著者にその意図はないのだろうから、間にたつ編集者がもう少し配慮してくれればなと思う。

 物を創ると大抵失敗するし、材料の加工は取り返しのつかない一発ものであるという主張は、どんな人でも一度は聞いた事があるだろう。ただし、その意味することを体感している人は殆どいないのかもしれない。プラモデルや組立式の模型、あるいは実験キットなどを購入して休日に作ることを「工作」とは言わないと常々思っているのが、この本にも大筋そのようなことが書かれてあった。ぼくよりもずっとずっと工作経験が豊富な著者だから、ぼくが偉そうなことをいうのもおこがましい。この人の経験値は信用できるということは確かである。

 工作を始めても、最初は面白いはずはない。というのは、できないから。普段既製品を購入しているだけならば、身の回りの物はキレイで洗練されていて、便利なものばかりであろう。ところが自分で作ったら、満足に機能を果たせないし、カッコ悪いし、しかもずっと高くつく。いいところがない。子供の頃に工作をした事がない人は、大人になってから工作をするということは「ありえない」と思った方がいい。

 創作とまでいかなくとも、何もしないよりもはなんか考えて創っている方が楽しい。経たくそなのに楽器を練習しているのと同じ動機があるような気がする。それは簡単に言えば「生きてるよね」を感じさせるから。ずいぶんと大層なことに思えるかも知れないが、感激して涙が溢れんばかりの状態が生きている実感を感じるわけではない。ただ、ああしてこうして、と先を想像しながらついついと手が動くような状態。これも立派な充実感であって、工作をすることは常にそれを感じることなのだと言いたい。

 もちろん、アートや工業製品のプロの現場ではそういうことを言ってはいられないだろうし、そういう態度を軽蔑する人も多いはず。だから、この本も現場の人には受けないと思う。ただ、プロだろうがアマチュアだろうが、楽しければなんだっていいじゃん、ということをちょっとでも覗き見してみたい人には良い本だろう。

2010年3月 8日

英語の壁

マーク・ピーターセン
文春新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 マーク・ピーターセンさんの本を続けて読んでいる。英語のちょっとしたことを知るのも面白いけど、日本の不思議なことに気づくのも楽しい。この本でもいろいろ知ったが、英語についてとは関係ない「ブログの普及」についてのコメントが面白かった。

 カラオケが登場した当初、上手な人の歌を仲間はみな聴くようにしていた。普及するにつれ、聴くよりも自分が歌う曲を探すことに夢中になり、他人の歌には最初と終わりに拍手をするだけになった。そして、ついにはカラオケボックスが登場し、たった一人で歌うことが普通のことになった。つまり、歌を聴くという人がいなくなったわけである。そして、これと同じことがブログでも起きている。

 ブログが登場した当初書いている人はすくなかった。エントリーにはそこそこのエッセイがあって人気があった。普通の人がこぞってブログをつけるようになると、多く人のエントリーは他人が読むことに注意が注がれなくなり、「読まれること」が前提とされなくなった記事の割合が増えてきた。そして、多くの人がブログを付けるようになった段階で、読まれることを全く目的としていないものが多く見受けられ、なかには他人のブログの「コピペ」のエントリーすら見かけるようになった。一体何をやっているのかさっぱりとわからなくなったの遷移がカラオケと同じというわけだ。

 こんな内容のことが書かれていて、読んだ時に我が身を振り返ってしまった。面白い英語についての本だけど、こっちのコメントのほうがよっぽど印象的であった。読まれる事を前提としていない文章が増殖したことに、自分も手を貸しているかもしれないから。カラオケボックスで一人で歌う人の楽しさをぼくはさっぱりと理解できないでいるが、こうして読まれないブログを付けているのはカラオケをしている人から見れば「意味がないことをしている」と思われていることだろう。まったく。

2010年3月 7日

ゼロからの宗教の授業

釈徹宗
東京書籍
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『現代霊性論』が面白かったこともあり、書店でその本の隣に置いてあったので買ってしまった。この本も一般の人向けの講義であって、実に読みやすい。宗教者といっても、その価値を他人に知らしめてやろうという動機があまり見えないので、ちょっと距離を置いて面白い話をしてくれるのをゆっくりと聴く。そんなスタンスで神道・キリスト教・イスラム教・仏教の話を聞ける。

 著者はお坊さんである。日本の仏教だから結婚して子供もいる。若い頃からいろんな宗教を勉強している。不思議なのは、そんなことしてどうして宗教人のままいられるのであろうということ。家庭をもつ現実からは世間のなかにどっぷりつかっていることがわかるし、宗教の博識さからは自分の寺の宗教的基盤を相対的に評価しているはずである。となれば、どうして住職を生業としていられるのだろうか。説法することもあるのかもしれないが、寺の宗派の教義を語ることに抵抗はないのだろうか。こんな疑問が浮かんでくる。一歩間違えば、なんかヤな感じの人でしかないから。
 

2010年3月 4日

二ホン語、話せますか?

マーク・ピーターセン
新潮社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 「極東ブログ」に『ローマの休日』についての記述があり、引き込まれてついつい読んでしまい、元ネタであるこの本へのリンクをクリックし、表紙を確認しただけでアマゾンでそのまま購入した。大変面白い本であった。

 マーク・ピーターセン。この人名を聞くと大学時代をモいだしてしまう。英語ってよくわからないなぁ、どうやったら話せるようになるのだろうか、と思っていた時期に『日本人の英語』を読んだ。へぇ、と驚いてしまった。英語の解説書でも面白く書けるのかと。University of MEIJIを「明治な大学」という意味になると解説してあった箇所だけは今でも憶えている。もっとも、だからといって英語の上達には関係がなく、当時も今も英語はろくに書けないし話せないままなのだが。

 この本は雑誌連載のエッセイをまとめたもので、原稿は当然マーク・ピーターセンさんが書かれたもの。漢字混じりの日本語も完全なもので、ぼくの日本語など、足元にも及ばない。もっとも文章は、勉強すればよいものが書けるわけではないだろう。大学で日本語をしっかりと勉強したら漢字交じりの日本語の文章は書けるようになるだろうが、それが面白いかどうかは学ぶことで身につくわけではないだろう。

 表現を学ぶことができても、それを自在に適切に使えるかどうかは学ぶことが難しいあろう。なぜなら、とっさに表現できるかどうかが問われるわけで、それは無意識が行うことであって、訓練の対象にはならないような気がする。ならば「逆もまた真なり」ということで、ぼくがいくら英語を学んだところで、適切な英語表現を自在に使えるようになるかどうかは不明ということだろう。もういい歳であり、それで全くダメならば、別の事に時間を注いだほうがいいのかもしれない。

 この本で印象に残ったこと。それはyouの使い方。youが特定の人(あるいは二人称)をさすのではないということは授業で聞いたことがある。先生がそう話されていた記憶はあるし、知識としてはもっている。だからといって、それを「信用」していたわけではない。指摘されると思い出す、という程度の理解でしかない。典型的なテスト用の知識としてもっているだけだった。ところがこの本でyouの翻訳の例を挙げており、村上春樹まで含まれている。海外で何年も生活している人すら誤訳するのであれば、果たして何が正解なのかわからない。どっちも正しいような気がしてくる。

 ともあれ、マーク・ピーターセンさんの本を何冊か読んでみようと早速アマゾンのページを開いた。

2010年3月 1日

現代霊性論

内田樹
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 釈徹宗さんという浄土真宗の僧侶と内田樹さんとが合同で講義した内容を編集して一冊の本にした。いいよなぁ、こんな授業が大学であるんか。この大学の学生さんはずいぶんとラッキーな。そもそも霊というタームをタイトルに冠した授業が存在する自体がにわかに信じられない。もちろん、それはぼくの常識感からであって、僕自身は「そんなものがあったら絶対受講する」のだけど、ぼくが通っていた大学にはなかったし、今でもないだろうし、あり得ない(だろう)。それって、普通の人の社会(というか、いわゆる世間)の感覚に近いのではないかと思うので、おおかたの人がどんな気持ちで手にするのか知りたいものである。

 「霊を感じる」と発言したとき、そこの運命予測のようなものをイメージするのか。幽霊とは違う。霊である。古い神社の境内の雰囲気を想像すればよい。見えるものは普通のものしかない。でも、なんか雰囲気があるようなぁ。それが霊である(と思っている)。心霊・幽霊の方は雑誌やテレビ番組の人気コーナーにもなる。占いもそれに入るかもししれない。両方ともに宗教に関係があるのは確かだけど、霊は芸術などを論じるにも必要となる。ならば心理学や芸術を調べていけば避けて通れないものが霊であるとすれば、そのテーマで授業は成立する。なるほど。さほどおかしな主張でもない講義になりそうだ。

 本書を読んでいて、なるほど、と合点したものがあった。それはこの本とは直接関係はないが、連想でヒラメキ、そして理解したわけだ。「意志あるところに道は開ける」という言葉について。

 通常であれば「どんな困難であっても、自分のやる気があれば成功するものだよ」という精神的主義の解説がつくだろう。あるいは、困難を乗り越えた勝者の回想をまとめるのに便利かもしれない。要するに、がんばれ、ということである。

 今は違う意味で考えている。それは、対偶を考えてみれば良い。つまり、道が開かなかったならば意志はなかったのだ、ということ。

 意志があるとかないとかは、自分が主張することが普通である。意志があるかないかを唯一知る事ができるのは自分である。そう考えるのは普通の発想。

 しかしそれは誤りで、実は自分に意志があるかないかを知る術はないのかもしれない。やる気といったものは気分でしかなく、意志とは違うものかもしれない。もっといえば、なぜだかわからないが、やってしまうことがあるとしたら、それは自分に意志があるからであり、その意志を直接自分が知覚することはできないがゆえに、自分の意図とは関係なく身体が動くように感じるのかもしれない。
なにかあるようだけど、よくわからない。でも、ありそうだ。それこそがぼくが考える霊性だろう。そう、理解した。

 なんだかわからないけど、何かある。たとえば物理を学んでいない人からみたら、世の中不思議なことが多い。電気工学をしらないと、携帯電話は魔法としか思えないはずだが、それでも使えてるようになってしまう。そして、それに人生を依存してしまうことまである。

 存在することはわかっていて、そのメカニズムについてはさっぱりだけど、自分の人生を賭けてしまうというようなことは、オカルトにかかわらず、古くからある宗教でなくとも、ごく普通に起きていることではないか。なんてことはない、現代霊性論というものは、それでいいような気もする。もっとも、この本にある内容の深さに遠く及ばない妄想でしかないけれど。