« 2010年3月 | メイン | 2010年5月 »

2010年4月30日

葬られた王朝

梅原猛
新潮社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 梅原猛さんって、もう84歳なんだそうだ。結構な高齢なのにまだまだ新説を発表する活力がある。すごい。

 今回のテーマは古代日本にあっただろう出雲大国について。オオクニヌシたちが出雲を中心とした国をもっており、そこを現在の天皇系の人たちが奪いとったという話。関裕二さんや井沢元彦さんと同じ方向に梅原猛さんも行くことになったというわけだ。

 梅原猛さんが学問としての日本史の定説に意義を唱えることはこれで初めてではない。それどころか、梅原さんの業績は「定説批判」にあったようだ(ぼくは不勉強な読者なので、梅原さんの著作は数冊しか読んでいない)。高齢にになっても、定説を批判し、自分の説を唱えるのはそれなりにバイタリティーが必要なことで、よくやるなぁ。批判される説には、ご自身が唱えた説も含まれているのだからすごい。

 定説の批判が社会に広まるためには、著者が有名であることが実際のところ必要だろう。単に有名な人というだけではだめで、「この人ならば言いそうだな」という印象を持たれている有名人でないとだめ。なんでも自分で考え、論理で進んで結論に至ることをやるタイプの野蛮人的な人。梅原猛さんは、そんなキャラクターだから、ずっとやっていられる。

 これまで関裕二さんや井沢元彦さんの著作で読んだものよりも説得力があった。視野が広いから。例えば井沢元彦さんの本では、出雲大社の構造や配置だけから「オオクニヌシは争いに敗れて死んだが、その怨霊を恐れたヤマト朝廷は大きな神社をつくった」ということに焦点があっていて、それで終わっていたが、この本ではいくつかの風土記の記述や地名、近隣の伝承などとの整合性もあわせていっている。ある種の推理小説を読むような気分が味湧けた。

2010年4月28日

日出る国の工場

村上春樹+安西水丸
新潮文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

 なんだか不思議な本だった。村上春樹さんが社会見学をして、そこで知ったことなり感想なりをつづるという本で、読んでも得にも損にもならない行動記録ような記がする。つまらないわけではない。消しゴムやデザイナー・ブランドの服がどういうところで創られていくのかを初めて知ったから、僕にといっては面白かったけれど、興味がない人にはさっぱりかもしれない。

 すでに社会にシステムとして確立しているものは、商品を社会に安定して供給できるような仕組みがある。それは人体模型の工場でもそうだし、結婚式場のサービスもそう。お客さんという立場からみると「商品」という完成形しか見る事ができない。だから、なんだかしらないが「そういうものがある」ということに不思議さを感じないでいる。しかし、それを生み出す側に回ってみる、誰かが「作っている」という事実を知ることが出来る。逆に言えば、この人たちが付く慣れなければ消えてなくなってしまう、ということなのだ。どんなものでも誰かが作っているということに気づく。魚が切り身の形で泳いでいると思っていることどもをバカにすることは、社会全体でみると果たして可能なのか。もやは誰も全体を認識しているわけではない、ということに気づく良いきっかけになる本だろうと思う。

2010年4月26日

ぼくの旅の手帖

森本哲郎
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 この本の装幀はとても良い。手触り感の暖かい和紙がふんだんに使われ、同じ紙質のしおりがはさんである。今どき珍しい箱入りのエッセイ集。古本で購入した。30年前の本のようだ。今ではもう出版されていないタイプの本だろう。

 安野光雅さんや永沢まことさんような印象の挿し絵がついている。ダイヤモンド社はビジネス書しか出版しないのかと思っていたが、昔は「良い本」を出版していたようだ。ちょっとした発見。

 この本の内容自体は、森本哲郎さんの作品集で読んだことがある。だが、この本の方がずっと良い気分でエッセイを味わえる。

 本あるいは文章を情報として扱うだけならば装幀なんてどうでもいいと考えるのも無理はない。しかし、本を読む行為の目的にアートにたいする憧れがあるならば、つまり、気持ちを揺さぶるかどうかを目的としているならば、装幀は大切だろう。本を読むときに直接触るの「紙」だし、紙質は手触りだけでなく常に見えているものだから。

 コンピュータなどの電子媒体で本を読もうとする人は、作品というものを「情報」としてしか考えていないのだろう。映画をYouTubeでみて事足りると「信じている」ような人みたいに。

 昔は旅に出るという感覚が大分ちがっていたようだ。よく、世界を股にかけるという表現があるが、それはスーツケース片手に商用で世界各国に出張する商社マンに当てはまる。そういう人と森本哲郎さんとはまったく別のタイプの人。もっとも森本哲郎さんが世界各地を出掛けるようになった要因は、新聞記者として「記事」を書くためだったらしい。しかしその後の放浪癖は仕事としてではなく、漂白の想いに誘われているとしか思えない。中東やサハラの砂漠、世界名作文学の舞台や世界史の中でのビックイベントが起きた現場に佇み、思索ことなどは、ぼくのような学もチャンスもない人からみれると夢そのものである。ため息をつくよりない。

 そんな森本哲郎さんの行動のなかで唯一マネできそうなのは、外国にでかけ街中のカフェでお茶を飲むことである。タバコを吸わないぼくとしては、そんなことをしても間が持たないのだが。

 実際にカフェで時間をつぶす機会は何度もあるのだが、なかなかカフェでお茶を飲むことはしない。なんだかこっぱずあしいし、高そうだし、ぼくみたいな言葉も不自由な人はウェーターさんに相手にされないか、カモられるかのどっちかのような気がする。それでも楽しく時間を過ごす事ができたカフェでお茶を飲んだ経験は、今でも宝の物のように輝いている思い出になっている。

 英語とフランス語が話せるといいだろうなと思う。あるいはイタリア語。どんなとこおでも言葉の不安なしに旅したいよ、ホント。あるいは中東もいいし、北アフリカもいいな。夢だけは広がっていく。

 それが実現できるかどうかはどうでもよく、たんに旅情をかき立てられるような本、ぼくにとっては宝物である。それはいつも森本哲郎さんの本なんだけど。

2010年4月25日

砂漠の修道院

山形孝夫
平凡社ライブラリー
お勧め指数 □□□□□ (5)

 砂漠の修道院。空想が広がっていく。砂漠だから暑くて水がなくて風が吹いていて、見わたす限り砂なんだろう。夜は寒いんだろう。生きていくための水が確保されれば、自給自足の生活ができればだが、生活はシンプルになるはずだ。そんな場所では欲望を持とうにもその対象がないし、そもそも修道院なんだから。きっと、思い煩うことが減って、生きていることを確認するだけの毎日になる。そんなことを考えて、ちょっぴりだが憧れる。

 今自分が生活しているところと全く別の環境には、まったく別の論理やまったく別の当たり前があるんだろう。奇妙に思えるような習慣があるとしても、それはその場所、その環境、その週間に根ざしているものだから、自分がそういう場所で生活すれば「なるほど、それは当たり前だ」と気づくはず。そして、今現在の自分の「当たり前」が実に奇妙に思えてくる。そんな心境の変化があるかもしれない。

 宗教とは関係なく、幸せな生活をしている人でも「違う自分」について思い浮かべることがあるだろう。中国には仙人がいたし、日本にだって岩山の上の修業場というものは存在していたし。要するに、砂漠に行きたいと思っている人は、何らかの意味で一端死に、そして、生まれ変わることを希望しているのかもしれない。ただし、死ぬ前後の記憶はすべて保持したままという条件つきなんだろうけど。

 砂漠のなかの修道院の生活がどういうものか、どんな人がどういう動機で修道士になるのか。この本はエッセイの形を借りた実地調査のメモ書きである。実際に取材したことが書かれている。コプト教を信じるエジプト人という、およそぼくには想像できない習慣や基準のなかで生きている人たちが語る修道士になった理由を読むに、日本人とたいして変わらない、想像できる範囲のものだなと思う。人って、同じように考えるものなんだなと実感した。

2010年4月22日

知をみがく言葉

ウイリアム・レイ編
青志社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 レオナルド・ダ・ビンチは偉大な人だったんだ、と今更何をという気は百も承知でそう確認してしまった。彼の言葉の断片的を彼のノートから抜き出して並べた本なのだが、ただそれだけなのに、感心しながら読んでしまった。言葉の意味することは「極めてまっとう」なのに驚いた。こういう本は商売上の工夫として、意外な言葉や過激な言葉が並ぶもの。当たり前のことを言っても商品として面白くないから売れないもので、それはオッサンの説教のようなものをわざわざ買う人がいないから。ところがダ・ビンチのことはだれでも受け入れやすい。

 ダ・ビンチの考える方法は、現在の世の中でだれもがまぁそうだろうと合意するような「合理的」ものだということだ。観察して、考えて、結論づける。その行動が極めて合理的。普通の人がダ・ビンチの行動を「合理的だな」と見なすとしたら、ダ・ビンチは現代では異端児ではなし、とんでもない発想する天才でもないといえる。見方を変えれば、現在の日本は、ダ・ビンチの影響が血肉化した社会と言えるのかもしれない。もっとも人々の行動はケースバイケースで変わるだろうけど、表面上は合理性を否定する社会ではないだろう。

 ダ・ビンチが肌身離さず抱えていたノートには、自分の本心が書かれているようだ。それを読むに、この人は「単に知りたいのだなぁ」という気分が伝わってくる。後世の世界で生活する自分はいろいろなところで勉強する機会があり、誰かによって大抵の知識は体系化されている。だから、疑問や気づきから観察して何かを掴み取るという素朴な行為に接する機会は少ない。すでに体系化された知識の末端をさらに掘り進めるようなことしか実際にはなされないので、独力で探していく行為にうらやましさを感じてしまう。

2010年4月20日

描かれた技術科学のかたち

橋本毅彦
東京大学出版会
お勧め指数 □□■■■ (2)

 中世の造船について少し興味を持っていた。この本をぺらぺらとめくったら、船の設計図のようなものが挿し絵に載っていた。結構高い本だけど、じっくりと読んで見たいとおもって購入した。

 しかし、正直これといって面白い本ではない。語り口が軽快でもないし、視野が広がるような面白い切り口があるわけでもない。講義ノートかなにかをまとめたものだろうから、ゼミのようなものには重宝するのかもしれないが、普通の人が読んで面白くという意図はない。出版社が東大出版会だから、そのあたりを事前に察知すればよかったなと思う。

 まぁ一応、知りたかったことの「断片」は知り得たので、がっかりはしなかったかけれど。

2010年4月18日

聖母マリア崇拝の謎

山形孝夫
河出ブックス
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ヨーロッパの街中を歩いていると聖母マリア像やら祠やらに出くわす。狭い路地の角にあったり、通り沿いの家の壁に付いていたりする。それらの像は幼子を抱いているものが多いが、なかにはマリア像だけのもものある。
それらを見ていと、この人たちは一体何教なんだろうかと疑問に思ってしまう。

 考えてみれば、大抵のイコンはマリアさんである。幼子を抱いていても、イコン上での大きさはマリアさんのほうが大きく描かれており、幼子はそのアトリビュートでしかない。おそらく、実際のところも聖母に人気があるのだろう。

 聖母を崇める習慣は、たぶんキリスト教のオリジナルにはない。だって、キリスト教というくらいなのだから。それでも、実際のところは「聖母」の方にお願いする人が多い。なぜなんだろう。

 そのあたりを教えてくれる本はなかなかないもので、これまで山本七平さんや遠藤周作さんや秦剛平さんの本を読んでみたが、もうひとつはっきりしない。あまり触れられてなかった。きっと、大した問題ではない、ということなのかもしれない。

 そんな知識量でこの本を読んで見たところ、かなりマリア問題が見えるようになってきた。なるほど、昔からそういうことが議論されてきたのだ。現在はアタナシウス派の見解が首領だが、アリウス派とかネストリウス派といった「論理的に考えれば、そうだろう」という主張は過去に異端として葬られているのだ。

 アタナシウス派だから、キリストを崇めてもゴッドを崇めても「同じ事」なんだけど、それでもマリアを崇めても「同じ事」という見解にはまだ達していないはずである。マリアを信仰している人は、大きな意味ではキリスト教ではないのかもしれない。結局のところ、信じているのは「母」のようなものである。

 母親をもっとも身近な守り神と見なすのは、人類としてはしごく全うなことである。マリアさんを崇める気持ちは、なんてことはない母親を求めている気持ちと同じだから、あえて宗教という言葉を使う必要もない感情からきている行動なのだろう。

 幼子を抱えるマリア像の原形のようなものが、古代エジプトの神であったイシスにもみられる。これが「マリア信仰の原点だ」ということではないく、世界中どこにでも当たり前なものなのかもしれない。

 そんなことを読みながら考えた。となると、今度ヨーロッパを旅したときマリア像の前にいったらしげしげと眺めてみたい。キリスト教の習慣に対する奇異の目ではなく、なんだかどこも同じだねという気分で。 

2010年4月16日

原発とプルトニウム

常石敬一
PHPサイエンス・ワールド新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 エネルギー源としての原子力技術史をおもしろく読めた。ちょっとした物理学の解説、原子力の発見から原爆製造を経て原子力発電への発展の物語。そして、現在の日本の原子力発電方針が抱える問題。著者としては、この本の内容を理解できる程度の理科系の素養をもった人に、核保有やプルサーマル計画の問題点を技術的に理解してもらいと思っているのだろうと想像する。

 とにかく、いわゆる理科系の大学を出た人には知っておくべきかなぁという気がする良い本だった。

2010年4月14日

五反田駅はなぜあんなに高いところにあるのか

長谷川裕
草思社
お勧め指数 □□□■■ (3)

 鉄道にはあまり興味がないぼくでも、へぇという気分をのせながら一気読みしてしまった一冊。知識にかたよらず、懐かしさに頼らず、それでいて「いい感じ」のする読み物があるとしたら、この方が筆頭に挙げられる。

 挿し絵もよい。永沢まことさんのお弟子さんかな、という感じの絵である。

2010年4月13日

誰も知らない「危ない日本」

武田邦彦
大和書房
お勧め指数 □□□■■ (3)

 テレビでは発言できないが、本でならば書く事ができる。そう趣旨で実に「全う」なことを話してくる。こういう人の著作は、無理してでも読みたい。

 マスコミや役所ってには、いい人もいるんだろうけど、構造的にしょもないことを仕事としてやり続けるようになっているみたいで、つまんないよなぁ。もちろん、役所がなければ社会は混乱するし、無理になくしたとしても、同じ機能の仕事はすぐに必要になることはわかっている。マスコミもその意味で同じである。生活に密着して、とても大切な仕事なのに、なんでまた面倒なところなのか。

 とはいえ、社会は回っている。おそらくだが、20%の人がいるから社会が回っているのだろう。悪いものはなくすとむしろ悪い事が起きるから、無害化する方向にもっていけばいい。社会的にそれを行うのが難しいならば、個人の生活でそれを目指せば良い。それには、少し損をしてもいいと思う気分と、情報を欲しがらない覚悟が必要なのかなと思っている。

2010年4月 8日

小説フランス革命〈5〉王の逃亡

佐藤賢一
集英社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 半年ぶりにシリーズ続刊が出版され、続きを読んでみた。今回はルイ16世がパリから逃亡する物語。ヴァレンヌ事件について。有名なものなのだろうか、フランス革命についてそもそも知らないので、そんなことがあったのか、へぇという気分で読んだ。

 佐藤賢一さんの小説の特徴だけど、小説の語りの視点はくるくる移動して、へんな気分になる。一体だれの思考過程を読んでいるか、という混乱はしない程に上手に語られているが、気を許すとなんだかわからなくなる。

 今回はルイ16世の話だから、多くはルイ16世の思考をだとっている。彼は「おれは偉いのだ」ということを心の支えにして思考し、行動した。この本はそう伝えている。が、果たして本当はどうだったのかなどは全くっわからんだろう。人の心の中など、現代の人でも家族でもよくわからないもの。ならば、ルイ16世のことについて想像はトンチンカンだろうよ、ということではない。思考の裏付けを行動から追っているから。ルイの思考過程を想像し、感情の起伏を小説にするはありである。当然だが、教科書よりは遥かに面白いし、キーとなるイベントも記憶できてしまう。

 佐藤賢一さんの書くような小説って、面白いけれど、司馬遼太郎さんのものとはまた違った意味で不安になるところもある。なんといえばいいか、人物が「軽く」なっているような気がする。言葉遣いが軽い部分は、考えているなかでのものに限定されているが、実際のところはどうなんだろう。言葉遣いがキレイな人の思考もキレイな言葉で構成され、進行しているのだろうか。
 

2010年4月 5日

ぶれない

平山郁夫
三笠書房
お勧め指数 □□□□■ (4)

 「美の巨人達」という番組のなかでこの本の紹介があった。平山郁夫さんの絵の説明で「ぶれない生き方」についての引用があったのだ。その言葉はなんとも心に残り、もう若くもないわが身ながらも感心してしまった。そうだよな、がんばろうという気分になった。

 この本は買わねばならない。今でも「迷い」のなかにある自分なので、青年向けの本を読んでどうするのかという気分もするが、ここは一つ平山郁夫さんの話を聞いて見たい。ということで買ってみた。

 カラオケが上手な人よりも、自分の歌を歌い続ける人のほうが、結果的に生き残る。
「自分の絵を描くこと」を目指していた人がそう言うのならば、きっとそうなんだろう。その言葉の語り口からして、なんだか本当にそうなんだと思える気がしてきた。

 芸術家が持っているポリシーには、過激なものが多いが、この本での語りは平山郁夫さんの絵のように落ち着いた表現なので、ごく普通の人にもすんなり理解できるだろう。過激なことや驚くようなこと言って目立とうという意図がなく、ご自身の歩いてきた道を語ってくれている。

 成功する人のいうことは、岡本太郎は別として、同じようなことを教えてくれる。要するにそういうものなのだろう。ただし、だからといって、平山郁夫さんと同じようなポリシーをもち、同じくらいがんばって生きたけど、結果的にはうまくいかなかった人も結構いるのかもしれない。実のところどの程度「信憑性」があるのかははっきりしないのだけど、一つの物語としてはとても受け入れやすい。

 それにしても、世に名をなす人はそれなりに不幸な過去を持っているか、結果的に不幸な死に方をするのはなぜなんだろうか、とあらためて疑問になる。平山郁夫さんは、若い頃に広島で被爆し、原爆症を患っていた。そのとき、死ぬまでにはちゃんとした絵を描きたいと真剣に抱き、それが平山郁夫さんの絵のスタイルを獲得するきっかけとなっている。逆に言えば、そういう境遇を経なければ、スタイルを獲得できなかった。この本で紹介されている自伝部分を読む限り、そういう感じた。

 毎日を嫌な思いや辛い思いをせずに過ごしている自分には、平山郁夫さんのような生き方は結局は遠い世界の話のように思える。まぁ、可もなく不可もない人生ってのは、それはそれでいいような気もする。ぼんやりとそんなことを考えた。

2010年4月 4日

日本語は亡びない

金谷武洋
ちくま新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 しばらく前に話題にった『日本語が亡びるとき』に対する反論が書かれた本である。『日本語に主語はいらない』の著者が書いている。

 『日本語が亡びるとき』の書き出しを読んだとき、どうもインチキ臭いなぁと感じてそのまま読むのを止めてしまったこともあり、この本のタイトルを知ったとき、「あ、同じように感じた人はいたんだな」とうれしくなった。

 それはあくまでもぼくの直感による評価だ。頭のいい連中ってのは、自分たちが文明を築いているのであって、市井の人などどうでもいいと思っている人が多いもので、それが理由で水野早苗さんの本に嫌悪感を感じたのだろう。そう思うのは、自分がアホだからではないようで、少しほっとした。

 この本を読むには、著者の主張である『日本語に主語はいらない』の議論を知っているほうがいいだろう。

2010年4月 1日

アホの壁

筒井康隆
新潮新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 表紙の印象からして『バカの壁』のパロディなのかと思ったが、まったく違った。「まえがき」にも「パロディーではない」と断ってあるし、実際読んでも確かにパロディーではない。それどころか、いや実に読みごたえのある愉快は本だった。だいぶ予想とちがった。

 人はどうして「アホなこと」をしてしまうのだろうか。この素朴な疑問に正面から取り組み、答えている本である。たとえば、何人かで話をしているとき、とつぜん話題からしてズレたことを言う人がいる。なぜ、今そんなことを話す必要があるのだろうかと腹立たしくまた不思議に思った経験をどんなひとでももっているだろう。そのひとはなぜ話の流れとは無関係に(しかも大抵つまらない)話をするのだろうか。著者のいう「アホ」とは、そういう「文脈を読まないとんちんかんな行動」をさしており、どういう人がどういう状況でどんな心理記的な帰結でアホなことをしてしまうか、つまりアホの壁を越えてしまうのか、について考察している。内容的には『バカの壁』と対等なものといえる。

 筒井康隆さんの著作を読んだことはない。嫁さんは昔(中学生くらいのとき)に好んでいたそうで、しょうもないショートショートが好きだったそうだ。この本を見せたあげたところ、「アホや、アホや」と心の中で叫ぶくだりをかなり気に入ったようだ。普段、新書であつかうような内容を読まない人にも勧められる、ということなのかもしれない。