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2010年5月28日

知に働けば蔵が建つ

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

 結局、内田樹さんの文庫本を買い直して読んでしまった。この本で全部である。

 これらは全部単行本で購入し、読んでいる。ところが今こうして読んでみると、内容を結構忘れている。だから面白い。

 電車の中では文庫本の方が楽なので、文庫文を買い直すことは悪い買い物ではない。ただ、少し引っかかりはする。

 この本もブログからトピックを選択し、内容を書き直して本として出版されたものだそうである。いつもの内田樹さんのエッセイ本。

 不思議。どうしてブログのエントリーを寄せ集めて本ができてしまうのだろう。よっぽど元になったブログが本を目指して書かれたものなのだろうか。

 もっともっとエッセイが読みたくて、最近は内田樹さんのブログを読んでいる。

 内容の長さはまちまちで、話題は時事問題から合気道や哲学、文学の話が、そのときの思いつきでとびとびである。章立てなんて、当然あるわけではない。

 ブログは個人が生活のメモをつけるためのもの。だから、内容は薄い。そう思っていた。

 だからこうして出版に堪えられるようなものはあまりない。日本でとてもレアな物書きだということになる。プロであるアマの物書きなのだから。

 内田樹さんのブログを「出版してしまえ」と考えた人は相当の目利きだろう。

 ブログが始まった当時から面白かったのだと思うが、その面白さは口コミで広まったのだろう。

 それが本に。

 そういう出版って、前例がなかったんじゃないか。よく決めた。偉い。そう思う。

 内田樹さんがブログを書きはじめた当時は、出版するなんて意図はなかったはずだ。

 考えた事を言葉にして人に伝える。

 職業意識からでた自然な行動が、ネットワーク環境を利用して実現したわけだ。

 出版のチャンスがないだけで、実に面白い事を書ける人はいるはずなのか。もっといろいろ出てこないものか。

 ではなぜ内田さんしかいないのか。

 結局はお金の問題をどう考えるかだろう。

 内田樹さんは、ブログの内容は自由に使っていいという態度をとっている。だれがコピーして使っても良く、さらには、他人の名前で発表してもいいと宣言している。

 この態度がレアなのだ。

 知に働けば蔵が建つ。

 なるほど。上手な生き方だと思う。

2010年5月26日

こんな日本でよかったね

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 こんな夢をみた。 

 友人とレストランにいた。入り口近くの待合スペース。

 そこはどちらかといえばファミレスに近いカジュアルなレストランで、シェフ以外はアルバイトでまかなっているような感じの店であった。

 そのお店の入り口に近いところで、友人と談笑していたら、奥からアルバイトの店員さんがやってきた。

 どちらかといえば、少しデンパっている様子で、小走りにぼくらの近くにやってきた。

 二人とも話を中断し、その店員さんを見た。

 「あ、田中さん、奥からオイルと乾燥のやつを急いでもってきてください。」

 確信を持ってそう言った。

 友人の服装はなんとなくスタッフのものに近い色合いだったのだろうか。それとも、顔がその田中さんとそっくりだったのだろうか。

 え、とぼくは思ったが、友人はとくに疑問を浮かべる様子はなく、すんなりと「はい」と言って、店内のバックオフィスへと繋がっていそうな細い廊下を歩いて暗がりの中に消えて行った。

 同時に店員さんも持ち場に戻っていった。

 ぼくはなんだかわからない。

 かれも事情をしらないはずである。こういうところで働いた経験はないはずだから。

 けれど、あいつならば、見つけるんだろうなと漠然とした気分でいた。そのあたりをふわふわと視線をただよわせて、なぜ関係ない友人が取りにいったのだろう。

 しらばして、さっきの店員さんがアルバイトらしき店長さんとやってきた。間違いに気づいたようだ。

 彼らがぼくに声をかけてくるかなぁ、というタイミングで、友人が荷物を抱えて廊下の奥から現れた。

 「オイルと乾燥のやつって、これでいいですか?」

 友人はそう言いいながら、両手で抱えていたものをごっそりと店員さんに渡した。

 店員さんは、平謝りながらそれらを受け取った。

 そして、ぼくの友人は何事ものなかったように、ぼくとの談笑を続け、テーブルが空くのを待った。


 これだけである。

 とくに、意味があるような話ではない。

 この本を読んだあとに、この夢を見た。

 この本は単行本が出版されてすぐによんだので、文庫本を読むのは初めてでも、内容は通しで二回読んだことになる。

 なんでこんな夢をと考えていたところ、この本のテーマに関係あることだとわかった。

 降りかかった災難には言葉ではなく、行動で応じるということだろう。そして、起きた事を他人の責任だと主張し、相手の失敗を声高に非難するのではなく、自分にも多少損になることでも、つきあってあげることもいいんじゃないか。

 そういうメッセージなんだと理解している。

 「こんな日本にだれがした」、というと他責性の強い言葉になる。

 しかし、「こんな日本でよかったね」は違う。現実を受け入れ、他責性を考慮しないで、現実に合わせて幸せとなる道を探す。そういう気分がある。

 ぼくが見た夢は、この言葉をぼくなりに解釈したということなのだろう。夢にでてきた友人は、いかにもそういうことを笑顔でやってくれそうな人なんだよね。思い出しただけで、いい気分になる。そういういい人なんだ。
 
 この感想文を書いていて気がついた。

 これって、キリスト教の根幹にあることなんじゃないかと。

 「絶対神」の存在に対する信頼とそれを崇める行為(畏敬)の二つをキリスト教から引き抜けば、「こんな世界で良かったね」ということを受け入れた気分になるのかもしれない。

 まぁ、ぼくにはまだ考察が足りないから、なんとも言えない。

 なにも「自己犠牲」というレベルまで考える必要はない。

 「それって、俺が損じゃないか。なぜ、そんなことになるんだよ」と自分の損失に敏感になってしまうと、幸福の女神は近寄ってこないかもしれない。

 この本は僕の生き方への警鐘かもしれない。

 もっと、笑顔で生きていきたい。決して恵まれているという環境にはないのに、なんだかいつも気分がよさそうな、あの友人のように。

2010年5月24日

新参者

東野圭吾
講談社
お勧め指数 □□□□■ (4)

 人形町が舞台の小説が出た。

 去年の暮れの出版だったと思う。TVドラマも人気のようで、似たような時間帯のドラマでは視聴率が一番らしい。

 直木賞もとった人気作家の作品だということで、できはどうなんだろうか。地元民が読んでも面白いのだろうか。そう思いながら読んでみた。

 なるほど、もろに人形町周辺の話だった。ぼくはこのタイプの小説を余り読んでいないので、大筋と周辺とを絡ませながら説いていくこの小説に新鮮味を感じた。

 嫌な気分がまったくないので気に入った。買ったはいいがまだよんでいない本として『容疑者Xの献身』がある。早速読んでみよう。

 
 ミステリー好きの人の『新参者』の評判良くない。

 その理由はわかる。全体が軽く、謎解きも軽い。別の可能性が見えたり、都合が良すぎるだろう。要するに、ディテールにリアリティーがない。そういうところだろう思う。

 読む前に耳にしていた評判はそういうものだったのでもう一つ読む気分にならなかったのが、ちょっと損をしたわけだ。ドラマがわりと面白いので読んだのだから、ドラマを見てなかったら読まなかったかもしれない。

 評判を鵜呑みにするのは怖いことだ。いろんなミステリーを読んでいる人は、ある意味幸せなことが減っているかもしれない。

 
 普段から買い物の街として人形町へ行く。ぼくには近所の散歩スポットである。

 小説に登場する店は、だいたい察しが付く。たぶんあの店かな、という場所がちらほらと小説に登場する。

 小説に登場する店のモデルはどれも見つかる。向かいが喫茶店とか、そういうところはだいたい正しいが、テレビドラマでは場所がちがっていたりする。

 いくら地理的なことが現実にちかいからといって、登場人物までは違うだろうが。小説にはほどほど、テレビドラマでは過剰なくらい「下町感」が漂っている。しかし、実際はそんなでもないのだろうなと思う。

 
 街にはいろんなお店で阿部寛さんがでかでかと印刷されたポスターがそこいらじゅうに張られていた。

 このドラマの影響はそれなりにあるようだ。最近更に混んできた。

 ここ数年、人形町には観光客の人が増えてきていたような気がする。

 小説を読んでいて、ピンと来ないところはいくつかあったが、浅草橋と小伝馬町が「すぐそこだ」という表現には少しまごついた。

 いや、そこまで近くないだろう。遠くはないけど、そこまで近くではない。何と比較して、ということなんだろうけど。

 全くとりとめのない感想である。

2010年5月14日

街場のアメリカ論

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 吸い込まれるように本文を読みはじめ、途中で本を戻すことができなくなり、自宅に急ぎで帰って最後まで一気に読んでしまった。ちょっと立ち読みのつもりが、どうにも買わざるを得ないことになった。すでに単行本で一度読んでいるのに。ちょっとだけ自己嫌悪になった。

 内田樹さんの本の最大の特徴は、読む人がわかるように書いてあること。そんなこと、あたりまえでは全くない。ぼくも変だと思うが、何かを説明している本で、この素直な目的にそって創られているものをあまり見かけない。たいていのもは、読者に自分の凄さを納得させて、その知識格差から「おれは偉いんだ」とか「偉ぶらないけど、ぼくは実に良く知っている人なんだ」というメッセージを放っているだけだったりする。しかし内田樹さんの本にはそれが全くない。

 こういうのを読んで初めて「なるほど本はスゴイ発明だったのだ」と体感できる。

2010年5月 6日

1Q84 Book3

村上春樹
新潮社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 へぇ、続きがあったんだ。

 そう思って読んでいたら気がついた。Book2で、この小説は終わりようがなかったのか。もしもあそこで終わっていたら、ぼくにはなんだかわからないままだった。登場人物もストーリーも、なんだか宙ぶらりんで終了しているなぁと感じていたが、巨匠がそれでいいということならば仕方ないと素直に考えていた。

 とはいえ、「続編があるかもしれない」とは思った人はどのくらいいたのだろう。1Q84はBook3まで読まないと、いろんな意味で「落ちない」。

 良い感想なり解説なりがあるとすれば、それを読んだことが本編を読むこと(あるいは読んだ事)に全く影響を与えないものだろう。自分が読んで感じたことや気がついたことがあるとして、それを「あやまりだった」などと指摘するような解説はいらない。

 これからいろいろな評論やら感想やら、その派生やらが公になり、良いものは出版されるのだろう。小説にはいろんなメタファーがあるから、解釈によってどうにでもなる。何か言いたい人は1Q84にそれを託すのだろうなぁ。

 本編のストーリーとは関係なく、読んでいて気になったことがある。それは、どういうときに過去形を使い、どういうときに現在形を使うのかの基準である。

 単純に考えれば、思い出して語るときは過去形を使うというもの。例えば、朝食はラー油かけご飯「だった」。そういうたぐいである。

 この小説では、読者の視点で使い分けがあった。つまり、読者が「見ているもの」と読者の側にあるもので、現在形と過去形が使い分けられていた。

 目の前の天吾の行動を牛河が言葉にするとき(思考しているとき・認識しているとき)は過去形が使われている。一方で、青豆が自分の行動を言葉にするとき(考えるとき・認識するとき)は現在形。時制での使い分けではない。例えそれが読者の視点からすれば「過去」にも関わらず現在形なのだ。

 「生き生きとした表現」を狙って、過去のことでも現在形で表現することがある。そんな単純な方法では分類できないような使い方があるようだ。まぁ、そりゃそうなんだけど。

 上手な小説ほど、そういう使い分けがキレイにできているのだろうか。文学の芸術としてしての「部品」は、そういうものなのだろう。

2010年5月 1日

日本人と日本文化

司馬遼太郎+ドナルド・キーン
中公新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

 読んでいない本を並べるための本棚が何段かある。たまに本を入れ替え、そのときどきで気になる本を目立つ場所に移動する。興味を持ったからこそ買った本なのだが、読まないうちに興味が消えていることは珍しくない。しかし、だからこそだが、あるときふっと読みたくなったりする。本棚の整理は、そんな気の移り変わりを冗長する作業になっている。

 司馬遼太郎さんの対談。ちょと気を引き締めないといけない。最近は茂木健一郎さんの対談本を読む事が多く、それらとは大分様子が違う。ちょっと驚いたくらい。碩学の人たちなので、知性というか、話題の知的レベルが違うようである。ぼくとは両方ともに好きだけど、それでも新書サイズの対談本一冊をとってみても、最近の本の内容は薄くなったということをあらためて確認してしまった。単にフォントが大きくなったのではなく、中身のある人同士の対談がさっぱりなくなったのかもしれない。

 ぼくはサラリーマンではないから、これといって司馬遼太郎さんの作品を読み倒したわけではない。とはいえ、有名どころは読んでいるし、エッセイも好きだ。しかし戦国時代を好んで読むようなことはなかった。

 自分でも情けないが、ぼくは日本史についてもさほど知らない。知っている事といえば、司馬遼太郎さんと井沢元彦さんの著作を面白く読んでいるうちに見つけたものばかり。それでも何年にもわたって何冊も読んだせいで、それなりに知っていると思いたい。もちろん、歴史オヤジにはとてもかなわないけれど、普段生きていくときに藤生はしない程度の知識はあると思う。

 そんな人がこの対談を読むとどうなるか。結構面白かったという結論になる。変に細かい話にならないし、テーマが「日本人とは」という、日本人ならばだれもが興味を持つものだから。日本人だからということで自分の自信に組み込めるのは、その歴史ということになるだろう。それはどの時代のどの国の人も同じだろう。となれば、本のテーマとしては世界的に一般的なものになりそうだが、日本人論が好きなのは日本人の特徴らしい。ならば、それを堪能すのは、日本人ならではの特権と言える。まったく他人に迷惑のかからない趣味なのではないかと思った。そして、その日本人とは論を司馬遼太郎さんも気になるのならば、ちょっと悪い気分はしないものだ。