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2010年6月16日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 何度読んでも感心する本がある。この本はその筆頭だろう。

 通勤電車でもう何度も読んだ。海外出張先での夜にでも読み進めればきっと愉快だろう。そう思ってカバンに入れてきた。

 で、実際読み進めると、もう何度も読んでいるのに、知っているはずのことを憶えていない。まいったなぁと気づく。

 本なんてものは、一回読んだだけでは何もわかっておらんものだ。つくづくそう実感する。

 正直にいえば、ぼくはこの歳になってそれに気がついた。

 何を今さらという感もあるが、本は何度も読むべきだ。

 読んでいくほどに、本全体の構成が見えてくる。最初に読んでいるときは、一時限的な展開としてしか把握できないものである。

 解説であったとしても、物語のように過去と現在と未来があるように読んでしまう。そして全部読み終わったところで、すべてか過去になる。その時点で話の展開など一切をひっくりめたものが「過去」のこととして頭に残る。

 それを「知識」と呼んできた。


 だから思い出すとしても、思い出した場所を本の位置を頼りに探しだすことになる。全体ではなく、冒頭からの距離のようなものを指標としているから。つまり、話の展開を頭のなかで再現して、時間順に目的の場所へと到達するわけである。これだと思い出すのに時間がかかるし、初めのほうを忘れると終わりの方は思い出せないことになる。

 しかし何度も同じ本を読んでいると、話を全体として把握できるようになる。最初と最後という一次元的な流れでの理解ではなく、全体を全体のまま。これが結構面白い。

 とはいえ、だからといって「内容を理解した」とはとても言えない。やっぱり本を読んだくらいで、何かがわかるようになどなるはずはないから、仕方ないけど。

 そう言葉にしてみてから、疑問が思い浮かぶ。
一体、なにをどうすれば「理解した」と言えるんだろうか。

 理系の判断基準ならばさほどむずかしくないが、文系のこういうテーマにについては、「理解した」とは一体何をさすのだろうかなぁ。
 

2010年6月10日

日本辺境論

内田樹
新潮新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 海外にいると、不思議と日本についての本を読みたくなる。

 ここは外国なんだから、なにも日本について考える必要なんかないじゃん。今いる国について考えればいい。そう思っていても、不思議と日本について知りたくなる。

 自分は日本人なんだから日本について冷静に考える。それって、環境変化が原因の、ある種の現状否定の気分なのか。あるいは自分がスマートにでもなったかのような勘違いなんだろう。それくらいの冷静はまだもっている。

 こういう錯覚を肯定的に考えるならば、普段めったにみることができない普通の外国人の行動を間近に観察することで、自分を含めた日本の「へん」なところに気づくからかも知れない。まぁ、こじつけに近いかもしれないが。


 ホテルの部屋で、読みかけのこの本を枕元に置いて外出する。そのときに、ベッドメイキングの人はこの本をみてどんな気分がするのだろうか。

 ベッドメイキングの人は台湾人の若い女性であった。彼女がオーストラリアの砂漠のなかにあるホテルでこういう仕事をするに至った理由はなんなのだろうか。ワーキングホリディーをつかって外国生活を体験している学生さんなんだろうか。

 中華系の人ならばこの本のタイトルの意味を理解することができるだろう。漢字でそのままだから。

 客は日本人だと知っているだろうから、日本人がなぜ日本人論なんて読んでいるのだろうかという疑問をもったりするんだろうか。


 アメリカ人とはなにか、とかフランス人とはなにか、という自国民論が盛んなのは、日本人くらいなものだそうである。

 日本の印象はどうですか?とついつい外国人に聞いてしまうような、「他人か自分がどう見られているのかが気になる」のは、日本人がダントツに高いとか聞いた事がある。

 それはなぜか。

 こういう解説はいろいろと聞いたが、それを地政学的・歴史的な見地から説明しているものが多かった。


 それはさておき、面白い本が多い内田樹さんの著作のなかでも、この本は繰り返し読むには言い本だ。この本の随所に現れる「考える方法」が勉強になるから。

 例えば、内田樹さんの「なぜ」という問いかけがとても自然であり、またその答えにいたる理路がとても明確で自然な点。

 こんな風に考えることができれば、どんなに楽しい日々を送れるのだろうかと憧れてしまう。

 この本に書かれていることだが、何かを説明している本は、気がつくと著者の頭の良さを宣伝だったりするもの多い。解説本を読んでいて腹が立つのは、それが原因であり、意識しないまでも本の面白くなさの原因はそういう著者の動機にあったりする。

 ところがこの本には、そういうところが全くない。


 「同じ情報をもって、同じ理路にそって考えていけば、みな同じ結論にいたる」

 なるほど。なんと素敵な発想だろう。

 こういう発想をもって説明している人って、日本にどのくらい存在しているのだろうか。

 人と話し合うための基本ともいえるこのスタンスに、どうして多くの人は至らないのだろうか。

 偉そうになってしまうことは自分にもあるから、反省しないといけない。

 そういう具合に本を読んで反省する機会を得られるのは、この本を読んだ本人「だけ」である。

 ならば、この本を読むたびに「自分のしょうもないところ」を思い出して、まだ残りの人生を楽しいものにしていこうと心に強く念じるのである。まぁ、無理なんだろうけど、やってみる価値はあるだろう。そう思いたい。

2010年6月 6日

日本人へ リーダ篇

塩野七生
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 出張中の休日、砂漠のなかにあるホテルではやることがないだろう。そんなときに読もうと思って、この本を持ってきていた。

 塩野作品のなかでもエッセーはわりと好き。ただ、このエッセーは週刊誌に掲載されていたもので、どちらかといえば時事問題というか、まぁ日本の政治について語っていることが多い。

 塩野作品を読んでいれば、塩野七生さんが政治好きなことはわかるし、塩野さんがもし男性だったらきっと政治家を目指していただろうなと思うので、エッセイで政治について多く言及したくなる気分はわかる。

 ただ、政治には興味がないぼくにはもうひとつピンと来なかった。『ローマの窓から』と同じテーストのエッセイ集になっている。

 もちろんこのエッセイも塩野作品なので、このエッセイの口振りは凄みがある。なるほど塩野作品の一つの味がはっきりとするなぁとあらためて感心する。

 ぼくといえば、政治に興味がない。なぜなら、自分じゃなんもできんから。つまり、政治の実態については「可観測でもなく、可制御でもない」のだから無関係だろうと思っている。だから本質的に興味がわかない。

 というより、興味をなくそうとしているといったほうが正しい。最近は新聞どころかウェッブニュースすら見ないようにしている。

 そういう情報を読んでも結果的になにもできないならば、要するに時間の無駄だろう。

 そんなこだから、ニュースはもっぱら通勤電車内の週刊誌の縦吊り広告か、昼食時の同僚からの話で情報を仕入れるだけになっている。

 そんな程度の人がこの本を読んでなにを考えるか。

 この本は「リーダー篇」ということだから、リーダー(あるいはリーダーになりそうな人)に向けての発言なんだろう。

 リーダ役をやる人って、数が多くない。そりゃそうだ。みんながリーダーじゃ、ことが運ぶわけがない。船頭は一人だからいい。

 となると、リーダについてわざわざメディアで訴えるよりも、直接その筋の人と話し合った方がいいのではないかと思ったりする。実際、塩野七生さんはそうしているのだろうけど。

 プロ野球中継では解説者がいろいろ語る。その内容を聞き流すならば問題はないが、こっと真剣に考えるとすぐに疑問がわくだろう。あれっていったいなんの意味があるんだろうか。

 「それって、選手に言わんと意味がないでしょ」というようなことを、ビールを野みなから枝豆食ってる人に切に訴えても仕方ないのに。

 政治指導者へ向けたエッセイは、ある種の床屋談義になってしまうような気がする。

 塩野七生さんの著作にあったが、色々意見を後方しても、それらを実行するための手段がないと、「武器を持たない予言者」と同じになってしまうのではない。それに、思った通りに社会が動かないとイライラも募るだろうから、あまりいいことはない。 

 そうぼくは考えるのだけど、こう考えるのは「国を滅ぼす愚か者」の考えることだ、と言われるような気はする。そうは納得できるものではないが。

 メディアが適当に(あるいは故意に)粉飾した物語を新聞なりテレビなりから仕入れて、それを「事実」として自分の行動を決めるのは愚かなことである。

 しかし、一方で、社会の動きを全く無視しながら生きてくのも危険である。一体どうしたらいいのか。

 この本を読んだからといって答えがでるわけではない。ほっておくか。
 

2010年6月 2日

賢帝の世紀

塩野七生
新潮文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 国際線の飛行機のなかでは塩野七生作品を読むことにしている。

 今回のオーストラリア出張では『ローマ人』から賢帝の世紀の3冊を読んだ。

 この巻は一番気に入っている。古代にはスゴイ人たちがいたんだなぁと感心できるから。彼らの凄さに舌を巻くことで、なんだか気分も大きくなって、物事を皇帝の視点でみれるように「なれそう」だからなんだが。

 立派な人が国の指導者になると、まぁ「うまくいく」ことが多い。他の国の人にはまったくもって迷惑だけど。

 トラヤヌスやハドリアヌス、ピウスの行った事は、一見全く別の目的のように見えても、要するにローマ帝国の安全のためという同じ目的のためなのかとわかる。塩野作品の好きなところは、こういうレベルでの世界史の理解を市井の人であるぼくにも与えてくれるところだ。

 この賢帝たち、古代の人なのに現在に生きるぼくのロールモデルとしても十分スゴイ人たちだ。もちろん、無限遠の彼方に存在するような目標ではあるのだが。