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2010年9月22日

勝手にふるえてろ

綿矢りさ
文藝春秋
お勧め指数 □□□■■ (3)

ひさびさの新刊なのでわくわくして読み進めた。
しかし、「あれ?」
という感想になった。
文章は上手なんだけど、ストーリーがよくない。
というか、ぼくがダメなのかもしれない。
女性の話だからオジサンにはピンとこない。
うざったい青年の造形はよくできていると思うが、そういう部品を動かす「世界」に面白さ感じなかった。
この本の読者対象に(ある意味当たり前だが)ぼくは入っていないようだ。

著者が大学生活で学んだことなどが、ストレートに作品に反映されてるのだろうか。
だとしたら、大学って能力のアンプにはならないようだ。
とはいえ、大学卒業=能力アップ、なんて単純な関係があるはずもないのは承知している。
とはいえ、作者が見えている視野の地平が広がったようには思えない。
この小説は主人公の視野の狭さを狙ったものなのかもしれないが、この小説の読者はその視野から何を「見る」のだろうか。
隣の人の視点での平凡な世界か?
平凡さの中のちょっとした風景なのか。
わざわざ小説にして読むようなたぐいのものではないような気がする。

著者はヨーロッパあたりに1年くらい遊学してくればいいのではないか。
もっと「すげーなー」という感情を味わってきたほうがいいんじゃないかな。
まぁ、次の作品にも期待しよう。
 

2010年9月21日

おいしい人間

高峰秀子
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

読んでいて楽しくなるエッセイだった。
著者が何歳かなんて全然気にならない口調でのやり取りを読んでいると頬が緩んでくる。
その人の精神の動きをそのまま感じることができる。
擦れていない物書きの上手な文章とはこいうものだろう。

題材は著者がこれまで出会った人の思い出。
あの人はこれこれで、まったくあのときは参ったよ。
誰かに説明するのではなく、ぼんやりしているときに心に浮かんできたエピソードの記憶を言葉に写したようなもの。
なんというか、映画を見るような意味での思い出ではなく、本人が過去を追体験してるようなタイムトラベル型の思い出といえばいいかもしれない。
全く時代も環境も全く異なるそのシーンへとぼくも参加しているかような読み心地である。

こういうエッセイが赤の他人なのに価値があるのは、少なくとも読んで気分がよくなれないとダメだろう。
思い出し怒りだとか、激しく泣いた思い出などではこちらが空回りしてしまう。
状況説明も経緯も知らない人であっても追体験できるものは、ちょっとした驚きといい感じだけ。
道端の花のようなものだろう。

そういう題材を扱える人はあまりいない。
事件性がない分記憶に残らないか、あるいは、そもそも「気に留めない」かで、エッセイの題材として使われることが少ないからだろう。
商売の作家に期待するのは難しいだろう。
「演劇の題材のような」物語が求められているのだから。
だからだろう。
高峰秀子さんにのような大スターだった人がひっそりと書いてくれる文章に安心感を得るのは。

2010年9月20日

写真への旅

荒木経惟
光文社文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

松丸本舗という特徴のある書店の書棚にぽつんとこの本がおいてあった。
荒木さんの写真集がぞろっとあったが、お財布の関係からこの本にした。
写真の撮り方、などを期待してではなく、どんなむちゃな解説をするのかなという興味である。
中をぱらぱらとめくると、いかにもアラーキーの写真が添えてあり、ちょっと嬉しくなる。
きっと中身ははちゃめちゃなのだろう。

一読して、なるほど。
論理的ではないから、なにかを「説得されよう」とすれば失望するだろう。
しかし、そもそも写真好きの人に、しかも情熱で撮っている人に「言葉で教えてもらおう」なんて期待するほうが間違っている。
これは文字を読むことよりも、キーワードを「どういう口調で、どんな息遣いで」しゃべっているのかを想像しないと、読む意味がないだろう。
もっとも、実際に会ったことはないし、写真についてあれこれ思い悩んだこともない。
それでも、たまに「ピン」とくるのだ。
とくにアラーキーの写真を見て「うーん、いいなぁ」と思ったことがあるから。
そういう写真について解説しているとき、その言葉をまともに解釈するよりも、
「こういう事が言いたいのだろうな」ということが写真から伝わってくるのだ。
本人に確認したことはないから、勘違いかもしれない。
しかし、勘違いであっても、それで何かを学んでしまったわけだから、それでいいではないか。

こういう非論理的な読み方ができれば、この本は面白い。
オッサン的なだじゃれに流れていくことや、文章を読み慣れていない人特有の言い回しがあっても、全く気にならない。
挿し絵の写真を見て、なるほどと思えればいい。

この本の写真で「いいなぁ」と思ったものが一枚あった。
それは、65歳のオジサンが撮った写真らしく、アラーキーは「これはいい」ということで、ピックアップしたものだ。
お世辞抜きで、ぼくもアラーキーの意図がわかったのである。

こういう本をいくら覗いても、写真は上手になれない。
技術的な意味では、勉強する余地は沢山あるが、できれば、「いいなぁ」と観賞できるようなものが撮りたいものだ。
 

2010年9月18日

生き方の演習

塩野七生
朝日出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)


行きつけの書店の塩野七生著作コーナーに知らない本が並んでいた。
現在ボリューム陳列真っ盛りの十字軍シリーズではない。
薄く、しかもフォントも教科書体の本。
雑誌の一記事くらいしかないのに出版されている。
装幀は安野光雅さんのやわらかい感じで、司馬遼太郎さんの『二十一世紀の君たちへ』と同じだなと思った。
同じシリーズのようだ。
塩野七生さんはまだご健在なのに。

薄い本なので30分もあれば読めてしまう。
10年前に行った若者向けの講演録だった。
「ネロを書いたばかり」という発言がある。
ならば、ぼくが就職した頃の講演。
上手だよなぁ。
ポイントが整理されていて、分かりやすい。
しかし抽象的な説教ではない。
ぼくは40過ぎだし、今日読んだわけだし、という著者の意図から大分外れている読者対象のぼくだが、それでも「これはぼくにも向けられた本だ」と思った。
だから、二回読んだ。

現実について。
好奇心の存在と情報の惹きつけ方について。
複数の選択肢の存在について。
道具としての言葉について。

なるほどなぁ、の連続。
ぼくが尊敬してしまうわけだよ、今読んでも面白いもの。

ちょっと元気になった。
人生なんぞ、そもそも目的は「生きる事」でしかないのだから、成功する必要はないとつねづね言い聞かされているぼくだが、それでも「やっても無駄かな」と思うことは多い。
駄目もとでなにやら工夫していく行動を年齢を理由としてストップするべきではないな。
中途半端で終わりかけていることを見直し、物理的で継続できるならば、やりつづけてゆくことにした。

薄い本だからといって、人の行動に与える影響も薄いわけではない。
逆の結果になることは結構あるのだろう。

2010年9月14日

身体を通して時代を読む―武術的立場

甲野善紀+内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

文庫本が新刊で発売されていた。
単行本を読んでから2年近くたったし、少しくらい改訂があるかもしれない。
そう思ったので買ってみた。

この本を初めて読んだときには、内田樹さんも甲野善紀さんもまだ本物を見たこはなかった。
実物を見る機会をがないものか。
その人たちの雰囲気を知りたい。
そう思って2年たった。

いまでは内田樹さんの講演会に3回程出掛けてお話を聴けたし、甲野善紀さんの講習会に出掛け、直接技までかけてもらった。
市井の人でしかないぼくには、だまってたら絶対に会えなかったであろうが、自分から行動を起こせばそれなりに結果がついてくる。
本の中での有名人である彼らは、本当に生きている人なんだな。
子供みたいな感想だが、ちょっと嬉しい気分になれた。

ぼくは武道をやっていない。
どころか、スポーツには縁がない。
しかも太っている。
なのでこれからも始めることはないだろう。
とはいえ、身体を使う機会をもっと増やさねばならないとは思っている。
何か適切なきっかけをつくらねば。
この本を含め、先生方の著作を読破していくに、身体を使うことがいかに大切なことなのか理解しているが、行動がともなっていない。
少しでもスポーツをしている人ならば、この本にあるような技の掛け合いや探り合いのようなことが想像の範囲にあるかもしれない。が、ぼくにはさっぱりわからない。
なんとかしなければ。

そう思っていたとき、ぼくにも身体を訓練する機会があるじゃないかと気がついた。
ぼくはチェロを習っている。
それを再発見をしたのだ。
ちっともうまくならないチェロだけど、これは身体を動かす訓練ではないか。
武道での内容を想像するには、チェロの動きに読み替えていけば、もっと本を楽しめるかもしれない。
と思ったが、なかなか難しい。

ひとつ気長に構えるか。
そうするよりない、今のところ。

 

2010年9月12日

私の渡世日記

高峰秀子
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

読みごたえのある二冊。
高峰秀子さんの自伝という面と日本映画の流れのスケッチという面がある。
戦前・戦中・戦後の中で、子役から女優業をスタートした人の目に写る日本映画の盛衰を知ることができる。

とはいえ、解説文ではない。
自伝の軸は育ての母親との葛藤であり、物理的、金銭的、精神的な苦労である。
いわば葛藤の記録。
大女優として成功した人の等身大の世界は、なんだか別の世界が広がっていて、世の中不思議なものだと思えてくる。
女優・高峰秀子さんの視点から、ある時代の日本人の生き方を眺めているような気分になる。

どういうわけか最近になって高峰秀子さんのファンになってしまった。
だからDVDや本を漁っている。
ぼくは映画に疎い。
洋画も邦画も見ないできた。
今になって高峰秀子さん出演の映画を集中講義のように勉強するように見ている。
こういうときは、ツタヤの存在にありがたく思う。

アマゾンで「高峰秀子」で検索結果がリストアップされる本の数は多くない。
そのなかでは、この本の評価が一番高い。
女優さんのエッセイというのはどんなものなのか。
文庫本だだから、試しに読むのもいいかな。
というわけで、まずは通勤電車で読んでみる。

文章は平易。
もって回った言い回しがない。
つかれないで読める。
かといって、小学生のようなものではなく、立派な物書きの文章である。
面白くてつかれない。
とってもいい本だと思う。

女優さんなのに、どうしてこういう本が書けるのだろうか。
本書のなかで何度も告白しているが、高峰秀子さんは子役のころから相当忙しく、学校で勉強している時間は殆どなかった。
九九さえあやしいそうである。
そういう状況のまま大人になった。
なのにどうして、こういう簡潔な愉快な文章を、しかもこれほどの量を書けるのだろう。

文章が上手になりたい。
そう思って、わずかだが努力している一人であるぼくからすれば、たいへんな希望的存在である。
読書経験が浅く、物書きの訓練時間が少なくとも上手な文章が書けるという証拠なのだ。

よし、ぼくの努力も無駄ではないかも。
そう思っていた矢先、その理由がわかってしまった。
確かに学校に行く時間は少なかったのかもしれないが、そのかわりにやっていたことは、役者だった。
役者って、セリフを覚えてしゃべる。
その量は半端ではない。
演じる作品が文学的ならば、覚えるセリフだって日本語としてよいものだろう。
そういう言葉を大量に暗唱するわけだ。
となれば、日本語の練習量は半端じゃないことになる。
文章を書く経験は少なくとも、日本語自体は達人だったということだ。
ならば文章のコツを獲得すれば、短期間でいろいろなものを書けるようになるのかもしれない。
そうだよなぁ。

人生として成功する反面があれば、楽しい生活から遠くなることもある。
人の一生でうまくできるのかもしれない。
 

2010年9月10日

ネットビジネスの終わり

山本一郎
Voice select
お勧め指数 □□□□■ (4)


この本、書店で見かけたときに買おうと思っていたが、大型書店ですら見かけななかったので買えないでいた。
アマゾンの「今は買わない」カートに500以上のエントリーができていて、それを整理しているとき、この本を読んでいないことに気がついた。
この著者の本ならば面白いはずなのだが、余り話題になっていなかったようだけど、どうなんだろうか。
早速読んでみる。

もってまわった感のある書き方だが、内容はぼくが知らないこと(それは色々あるが)で、かつ普通は言いにくいだろうことをずばずば言い切っていて、さらにそれが当たっている(だろう)ので、読んでいて爽快感がある。
例えば、アニメの購買層はそもそも高収入な層ではない、というようなところは「そうだよなぁ、子供かニートだろうからなぁ」と思い当たる。
政府がそういうものを鼓舞しても仕方ないし、それは勘違いからくるピント外れの行為なんだとわかる。
身も蓋もない。
斬込み隊長ここにあり。
すいすいと面白く読み進んだ。

ただし、途中で冷静になって考えた。
この本の読者対象って、一体誰なんだろうか。はた。首を傾げてしまう。
少なくともぼくではない。
ぼくに、ネットインフラ、ゲーム・アニメ業界の見通しのなさを説明されても、「そういうものなんだ、へぇ」ということしか言えない。
ぼくにとっては役に立てようがない情報だ。

この情報をもらって何かの行動に転化できる人ってどんな人なんだろうか。
と考えた。
経営者?
中小企業の人ならば日々の問題対応に忙しいだろう。
大企業経営レベルの人は、そもそもこういう議論に耳を傾けないだろう。
では、現場の人?
それこそ、そんなヒマはないのではないか?
少なくとも、この本で説明されているアニメやゲームの人の労働環境から考えると、難しいだろう(時間的な意味もあるし、毒書傾向的な意味でも)。
と考えるとやじ馬?
ぼくのような、現場からも業界からも遠くにいる人がNHK特集を見るような感じで読むときに、「へぇ」と感心することが目的なのか?
それでは床屋談義ではないか、この本は。
著者も編集者もそれを意図していないだろうけど実質床屋談義本になっていると思う。

ビジネス本を読むと、そこでの主張されていることはどれも同じで、不思議な気がする。
彼らの意見は、もっと儲かることやれ、だからだ
それしかない。
儲からないから、金融やれ、みたいな提案しかない。
実に不思議。
世の中には儲からなくてもいいからやってたいという人が結構いる。
現状をつづけていても先はないとわかっている。
それでも使命感をもってやっている人って結構いる。
それはそれだと思うのだが、ビジネス人からは「死ね」って言われるだろうな。

なぜか。
それは簡単。
論説する人たちは言葉を使うことしかできないから。
紙であってもプレゼンであっても、あるいは直接会っての議論でもいいけど、交わすのは言葉でしかない。
信用だの理想だの、どんな言葉で形容してもいいけど、とどのつまりやっている事は言葉を交換しているだけ。
だから、言葉で出来ないことがあるって、知っていても無視してかかる。
だから、言葉を軽く扱う人を罵倒する。
それは自分の存在を否定されたことに気がついたからだろう。

面白いけど、ぼくは読者として的外れでした。