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2011年1月30日

東洲斎写楽はもういない

明石散人
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)

歴史学の人に嫌な気分を感じていたときにこの本を読んだ。
なるほど、彼らの言い分はこういうことなのかもしれない。
そう気がついた。
「資料」に対する態度や「本当はどうだったのだろうかな」を知りたいという欲望。
そういうものが歴史学をドライブしている。
そう歴史学者は言いたかった(言っていた)のだろう。
たぶん。

それなら歴史学者は言っていることとやっていることが違うじゃないか。
もっといえば、彼らの動機が「歴史」にないじゃないか。
そういうことが逆によくわかったような気がする。
ともかく、この本を読んで一層歴史学者の書くものを読みたいと思わなくなってしまった。
そんな、歴史学者の話なんかはどうでもいい。

この本での論考、考証、思索活動を披露している人は明石散人という人である。
初めて聞く名前なので、どんな人なのかさっぱりと知らない。
いわゆる歴史学者ではないようだ。
もっといえば職業的野心からこの本にあるような活動をしているわけではないようだ。
だからだろう、読んで感じる楽しさが歴史学者のそれとは全くちがっている。
面白い。
単純に、「本当はどうだったのだろうか」、に迫ろうしている人の肩越しに見ているような感じがしてくる。

明石散人さんの「写楽は誰か」を探る活動を横から見ている人がいて、その人がこの本を書いている。
ホームズの活動を活字化したワトソンの役割を担っているわけである。

ホームズはドイルが書いたフィクションであるのと同様、この本も明石散人のフィクションなのかもしれない。
よくわからない。
話の外枠がフィクションだったとしても、中で展開されて証明されている「写楽は誰か」については、利用した資料と論理が提示さているので、フィクションかどうかは議論で決着する必要はない。
資料を確認すればいいだけだろう。
これが歴史学ではないとすれば、著者が歴史学者ではないというだけ。
あ、そういうことなのかもしれない。
だからこそより「意味のある」本になっていると言えてしまうかもしれない。

ミステリーじゃないのだから、結論を言ってもいいような気がする。
が、まぁそこへたどり着く過程は各人がやればいいことで、おせっかいをする必要はない。

もっとも大切のは結論ではなく、途中の風景であって、どういう風に「なぜ」を発したのかに注意することでいいように思う。

全編を読んでいて思ったことがある。
動機が単純で、「どうしてだろう」というなものを丁寧に紡いでいくところ。
資料にあるから、というような他責性の強調(つまりは投げやり)なところがないところ。
それは本当なのか。
その積み重ねでゴールに向かうという方式そは、分野が違っていてもビックリするような結果を出す人には共通しているなぁと、あらためて理解した。

2011年1月27日

バイオ燃料で、パンが消える

武田邦彦
PHP Paperbacks
お勧め指数 □□□□□ (5)

アルコールは糖からできる。
糖はでんぷんと酵素から生成できる。
なんてことはない、ご飯やパンを食べれば口の中でそういう反応が起きているし、それをまねたことが酒をつくる過程でもある。

フランス料理などでフランベという余興がある。
アルコール濃度の濃いお酒をフライパンに入れて炎を出してみせる、あれである。
勢いよく炎が上がるのならば、結果的に燃料と同じような成分が含まれているはずで、それがアルコールというわけである。
以上からパンから燃料が作ることができるのだと直観的に頷ける。

ブラジルではトウモロコシが良く取れる。
その利用法は「食糧」であり「飼料」であった。
ところが最近は「燃料」という使い道もでてきたそうである。

トウモロコシが何にでも化けるのならば、一番高いものにすればいい。
農家ならばそう考えて当然だろう。

食糧が足りないで飢餓が存在する国があろうとなかろうと、自分の生産物は自分に有利に使うのがよい。
その考え方に誤りはない。

だから今後はバイオ燃料という使い道がメジャーになり、食糧生産物の使い方が変わっていくのかもしれない。
そういう未来予想(一部現実だが)に対する啓蒙としてこの本は書かれているようである。

テーマは重い。
とても読んだ人たちが何か貢献が出来るというようなことはない。
自分一人の努力がみんなに広まれば、世の中なんとなるだろう。
そういう牧歌的な世界観を持つ人が悪い人ではないのかもしれない。
しかし現実にはそんなことは全く無力である。

それどころろか、そういう活動をしているが「何かをしている」と思って驕り高ぶった結果人様に迷惑をかけても平然することもある。だったら、やらない方がいいのに。
そういう気さえする。

これはちょうど地球温暖化について、個人で何かができるなどと宣伝しているような「アホ」な話と同じである。
何かできるとしたらそれは「政府レベルからの強制」ということでしかない。

エコと名のつくももには、よくよく眉毛につばをつけてかからないといけない。

2011年1月24日

予防接種は「効く」のか?

岩田健太郎
光文社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

とくにお医者さんに不満は持っていないし、かといって病気にかからない自信があるわけでもない。
今年もインフルエンザが流行っているが、インフルエンザワクチンなるものを接種して防ごうかな、という気はないのだが、実際どの程度の効果があるんだろう。
実際風邪を引いて寝込んだのだけど、これはワクチンで防げたのだろうか。

テレビや新聞の報道を題材にして自分の生活と直結するようなことは判断しないと決めている。
そんなときに、内田樹さんのツイートに岩田 健太郎とう名前が挙がった。
内田樹さんも感心するような人らしく、実に褒められていた。

ぼくは初めて耳にする名前だったので、早速購入してみた。

ふむふむ。
へぇ、そうなんだ。
医者なんだから現代の医術を推奨する立場だろうと思うが、記述は中立であることを努めている。
不思議なことに、記述が中立であろうとすればするほど、ワクチンの効果がわかるし、来年度かはら受けてもいいかなという気分になっている。
逆説なのだけど、不思議な説得力を持つ。

アマゾンでこの本を探すと、反対にインフルエンザワクチンに反対する人の著作もならんでいる。
不思議なことに、これらは「宗教と名のらない宗教」であるとわかってしまう。
高齢の人がインフルエンザにかかると、それが命取りになることがよくある。
幼児でも同じ。
適不適はいかなるものでも考える必要があるもので、それを無視した発言は「原理主義者」のものである。

著者はきっと頭が切れる人であろう。
それはよくわかるのだが、たぶん頭が良いと言われる人が持つ、バカは向こうへ行け、的なところがありそうである。
ぼくのような人からみれば気になる事項だけれど、実際にお会いすることはないから良い方に受け取っておこう。

2011年1月22日

歴史とはなにか

岡田英弘
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

歴史とはなにか。
この単純な質問に明解に答えている。

歴史とは、人間の住む世界の説明である。
時代と空間に沿い、一個人の体験を越えて把握すること

なるほど。
実に明解で、ぼくのあたまにするりと入り込んできた。
歴史=学問=偉い先生だけがなせる技。
そういうことを暗に主張する歴史学の先生が多い。
しかし、中にもまともな発想の人もいるので驚いた。
安心した。

この先生の著作を順番に読んでいこう。

2011年1月20日

歴史学って何だ?

小田中直樹
PHP新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

歴史研究者にとって目の上のたんこぶであろう司馬遼太郎さんと塩野七生さんとを相手取り、歴史学とは何かを説明している序盤は読みごたえがあった。

歴史学であるならば、そこでの言明には根拠を示さなければという態度をとる。
歴史書ならばその方法で書かれている。
そうぼくは理解した。
なるほど実に分かりやすい切り口である。

もしこれが講義なり講演なりで説明されたのならば、ぼくはすかさず手をあげて質問しただろう。

(問一)というこは、ヘロドトスの『歴史』や司馬遷の『史記』なんかは歴史書ではないのですね?
(問二)すくなくとも、彼らは二人とも歴史家には入らないと考えていいですね?
(問三)日本書紀なんてのもとてもとても歴書ではないという理解でよいですね?
資料ではあるが、歴史書ではない。そう考えて良いですね?

多分全部YESであろう。

本書では歴史学を科学としてるが、そこへも質問したいところである。
言葉の定義の問題なのだが、実験で確かめられない、ただの文章である歴史は、さすがに科学ではないでしょう?
哲学の仲間には入ると思いますが・・・。

作者はどう理解しての発言なのだろう。
司馬遼太郎さんも塩野七生さんも「歴史書」を書こうと意図していないし、また、それを読む読者にとっても「歴史書」を読みたいなどと思っていない。
大衆であるぼくらは、そもそも「歴史書」を必要としていないから。
そうではなく、物語を必要としているのだと。
さすがにそこはこの本の著者も理解されているだろう。

そもそも作家の意図していることは、作家にとっての「アウトプット」であり、資料を総合した最終段(最上段)である「作品」である。
歴史学者の出力は、次の世代が利用するための「資料」であり、それらが改編されることを望んでいるわけである。
つまり、そもそも比較にならない。

なぜ学者が作家の作品を「それは歴史ではない」といちいち宣言してまわるのか、ぼくは
つねづね疑問だった。
それに対する身も蓋もない答えは、単なる「ねたみ」である。
なぜ、作家の本が売れて、作家が有名になって、作家が文化勲章までもらってしまえるのだろうか。
そういう、面倒くさいひがみなのである。
だいたい歴史は大学の教授ということになり、みんなから睥睨されることを当然と考える人たちだから仕方ないことなのかもしれないけど。

歴史家さんたち、世間を気にせずそれぞれの分野でしごとすりゃいいじゃねぇかよ、と思うわけである。

逆に、作家が歴史家を悪くいっている例はあまりない。
彼らが頼りにする資料を編纂する人たちだから、大切にしてくれるはず。

いや、あった、井沢元彦さん。
だからといって、学者が学者の仕事をしているのを邪魔はしない。
一般の人も先生がたの邪魔はしない。

先生がたの出力がそのまま多数の人にとっての文化財となるためには、優れた作家がコンパイルしないとダメだよ、ということでしかない。

本当にそれだけの問題なのに、なぜ学者はいつまでもそんなこといっているのだろうなぁ。

この本によれば、歴史学の人のかくものは、「真実」を追求しているのだそうだ。
となれば、古いことについてはどんなに資料を集めたって「わからないこと」の方が多いはずだ。

そのくせ、歴史学者は「センス・オブ・ワンダー」の漂うようなものを書きたいそうである。
さらに凄いことに、セーガンの疑似科学の話を持ってきている。
コンテキスト無視なんだなぁ。

うーん、歴史家は変な人たちだとつくづく感心する。
真実の追求だとか、科学だとか、なんだか面倒なことを主張しているのだけど、動機が透けて見える。
自分たちの成果物を使って、自分たちよりも遥か上に舞い上がる人たちにいちいちケチ付けて回っている、ということ。
なんだか、救われない人たちなんだなぁ。

自分が良く知っていることから想像すると、じつは歴史家のやっている資料批判もかなり怪しいところがある。
それは、未来において歴史資料となるはずの現在の資料について、ぼくはそもそもからして「事実ではない」ことがしゃーしゃーと書かれていることを知っているから。
新聞になった記事はファンタジーであるし、本人の手記も「嘘っぱち」であることを結構目にする。
こういうものを一級資料として「真実を追究する」とおっしゃる未来の歴史家の人は、なんとも勘違いパーソンなのだろうか。

だったら現代の歴史家もそういう目にあっているだろう。
実験出来ないのだから、歴史が科学だなんていう看板は降ろしてもらいたい。
自然科学と科学は違うなどといって拒否するだろうけど、彼らの言う科学は「自然科学」であることをミスリーディングさせる意図で使われているのだから、どっちでもいいけどね。

2011年1月15日

どうしても嫌いな人

益田ミリ
幻冬舎
お勧め指数 □□□□□ (5)

帯に内田樹さんの推薦があったので購入した。
この手の脱力的な絵のマンガを好きではないのだけど、ぱらぱらと立ち読みしていたら、テーマに魅かれたから。

登場人物であるスーちゃんには嫌な人がいる。
社会で生きていれば、普通それくらいの人はいるだろう。
そう説教じみたことをスーちゃんに言いたくなるのだが、そういう我が身にも嫌いな人はいくらでも覚えがあって、だからどうすればいいよなど問題解決へのアドバイスを申し上げることはできないと自覚している。

すーちゃんはどんな嫌な目にあっているのか、そしてスーちゃんはそれにどう対応するつもりなのか。
他人事だが自分のことでもあるような気分がして、どんどんと読み進めた。

このマンガの作者である益田ミリさんは実によい観察眼をもっている。
そんなことは人気本の作者なのだから当たり前なことだろうけど感心してしまう。
声を上げて叫びたくなるような事柄ではなく、ちょっと嫌なことであり、どんな人でも経験があることを取り上げている。
相談してってどうにもならないのは、ある意味多くの人が認めていることだろうに。
他の人もみんなそうなんだ、と知ることが問題のシビアを緩和させてくれる一つの有効な方法だろう。
だからこの本は実際売れているのだと想像する。

この本については、最初に奥さんがいたく感心していた。
奥さんはOLを10年していただけあって、そういう体験があったのだろう、深く頷いてしまうと、自分のことのようだと感想を言っていた。

そういえばNHKBSのブックレビューでも女子アナウンサーがこの本を取り上げており、彼女も我が身のような思いがしたのでといって推薦していた。

共感してしまうのは女性だけではない。
なぜなら、スーちゃんがいう「嫌な行動をとる人」には性差を越えた類型が確立しているように思えるから。
というのは、ぼくにもいくつも思い当たる節がある。

とくに言挙げをしてその人の非道を非難する必要があるとは思えなく、またそうすることは自分の大人げなさを露呈させるだけ。
こちらがそう思ってしまうような嫌なことをする人は身の周りに結構いるものだ。
ホントに。
このマンガを通じて、そういう人がどんな人の周りにもいるものだと知ったわけである。

そういう嫌な人は、結局のところ「誰」なのか。
一言でいえば「ガキ」なのである。
自分本位な言動を社会に向けて発信し、その発言や行動の責任を取らない、またとらなくてもいいように防御している人のことといえば、ガキだろう。

幾か嫌な人の特徴をあげてみる。
一、発言の語尾に「前言撤回」を意味することばを付け、人が嫌がることをあえて言う。
二、より強い権力の加護下にあることを誇示し、自らの意志がその権力から発せられていると見せかけ自由に振る舞おうとする。
三、発言や行動の目的は自己利益拡大のためで、それらが周りに引き起こすであろう迷惑については考慮しない。
これだけで十分であろう。

これらは要するに子供の行動でははないか。
幼稚園くらいのちっちゃな子供がそういう行動をとることはよくあり、それは「こどもだから仕方ない」と大人は目に麗しく子供の成長を見守るものである。
しかし、どういうわけかいくつになってもこれをやり続ける人が発生しはじめた。
1984年生まれ以後の人は、軒並み危ない。

「嫌な人」はどういう人たちか。
少し別の方向から考えてみる。
一言えば、可愛い人であろう。
しゃべらなきゃ誰からでも好かれるかもしれない。
CanCan的なファッションできめるような娘さんとかも入るのかも知れないし、御局様も入るのかも知れない。
あるいは、既存権力にどっかりと座っているオジサンならば親族の女子は全部可愛いだろう。
この本で登場する嫌な人の例は、要するにそういう人たちである。
自分がしがないOLで、こんな人たちと働かなければならないときはさぞかし大変だろうなと、深々とため息をついてしまった。
これが素直な感想である。
なるほどOLは大変な仕事だなと。

しかし考えてれば、そういう人の出現は今に始まったことではない。
イソップ時代かあらあるのだろう。
「トラの威を借るきつね」とか(あれ、イソップだよな?)。

もし世の中にトラの威を借るきつねがいないとして、自分がきつねで、トラの威を借ったらすばらしく住みやすい世の中だろうなとも想像することができる。
それはちょうど、高速道路の渋滞でだれもがろくに走れない状態のときに路肩を爆走するのと同じ気分だろう。
痛快ということ(いかん、内田樹さんの受け売りが混じってきた)。
トラの威を借るきつねが通用するのは、みんながトラの威を借らないからだ。
トラの威を借らないで世の中を築こうとしている、うるわしい世界である。

ところがみんなが路肩を走りはじめたら、その世界は立ち消える。
もう、一瞬にして。
そして相当に面倒くさい利用規定ができるか、そもそも高速道路を維持できなくなるだろう。なにせ、ルールが向いているのは「路肩野郎」であって、普通の人ではないのだから、利用者にとって都合のよいものにはなり得ない。

スーちゃんの結論は、そういう場所から逃げるというものであった。
読んでいて「えぇ」だった。
だって、これほどの本ならば、これが「正解」だと思う人が多いはずで、実際このとおりに「止めちゃう」ことを選ぶ人は多いだろうし、あるいはこれかも選ぶ人は多いだろうから。
しかし、それでいいのだろうか。

単純な疑問なのだが、違う働き口へ移動したあとに同じようなことが起きたりしないものなのだのか?
そういうリスクは考慮しないのだろうか?

というのは、この本の中で、スーちゃんの友達はすーちゃんの境遇について「よくわかる」と言っていたではないか。
ということは、嫌な人がいるのは「それは世間でよくあること」だということではないのか。
世間でよくあることならば、移動先でまた同じことになるのではないか?

もうひとつ疑問になったこと。
それは、スーちゃん自身は誰か他人にとって「嫌な人」になっている可能性は本当にないのだろうか、ということ。

自分が常に正しくて常識人ということはないだろう。
どんな人も少しかおかしなところがあるもので、それは他人からしたらイライラの原因になっていることはありそうな話だ。
だからスーちゃんがいなくなって「良かった」と思っているだっているのかもしれない。
自分の嫌いな人が悪人ということは決して決まっているわけではない。
自分が悪いという考えはなかなか真剣に考えようとしはしないだろうけど、可能性としては大いにあるものだ。

で、この問題についてぼくが考えるだろうこと。
この問題はすーちゃんが現在のスーちゃん自身でいる間は決して解決しないだろう。
それはスーちゃんの生活の中には、スーちゃん自身が追い求めるものがないから。
仕事のなかでも何かを目指す途中ならば、障害は「障害」であって、嫌なことではない。
障害があっても目指す先があるなら、障害にいちいち付き合っていない。
目指すものがなくても、「疑問」なり「魅力」なり、あるいは「謎」といったものが、スーちゃんの生活にはないものなのだろうか。
これがないと、人の生活はどこへ行っても同じところになってしまうだろう。

誰々さんが嫌なことをするんだとか、そういうことが問題になるのは、現在の生活がある種の平衡状態に達してしまい、すでに人生に対する疑問を消失してしまっていることに原因がある。
今ある状態を「何もしないで維持したい」と思うのならば、その場所は人生のゴールになっている。
ならば、それ以上に良くなることは絶対にない。
悪くなるだけである。
生活のなかに、仕事やそれ以外の時間の中で、気になる謎があれば、自分の関心をそっちへ持っていけば、それ以外のことはどうでもよくなってしまうものだ。

ぼくがいう「謎」とは、人はなぜ生きているのだろうというようなレベルの根源的な問いであってもよい。
誰かがおいそれと答えをだせるようなものではないものでも、「なんだかしれないけどひかれるのよね」といえるものならば、それでよい。
それを考えていれば、もっといえばその疑問に自分なりに答えを求めることが生きることになる。
それって、なんでもいいのだけど、それが全面にでてくるようになると、目の前に嫌な人がいて悩ませられるのは山道でヤブ蚊に悩まされるのと同じようなもので、くそみたいな問題でしかない。
もちろん、くそみたいな人によるくそみたいな問題なのだが、問題には違いない。
どうやって、それを交わすのかは、まぁすーちゃんの方法もありではあるが、最終回答では決してないだろう。

漱石の草枕の冒頭は、それを言っているような気分がして、あらためて読むと涙がでてくるわけである。

山道を登りながらこう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる。


 

2011年1月11日

大人の学校卒業編

橋本治+杉浦日向子+中沢新一+養老孟司+天野祐吉
静山社文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

養老孟司さんの名前を見つけた。
講義録である。
テレビ番組での講義を書籍化したもの。
だから一般の人向けによく調整されている。

講師は養老孟司さん、橋本治さん、杉浦日向子さんなどなど。
文庫本だが、結構ぶ厚くお得感がある。
で、こりゃええわと思って読んでみた。

しかし感想は「もうちょっと」。
映像だと面白いのだろうけど、もうちょっと臨場感が欲しいところ。
講師の発言をただ活字にしただけだと、どうもワクワク感がでてこない。
語りおろしや対談であっても臨場感があるものは多いのに。
だから、編集の問題かとも思うが、そのあたりはもうひとつわからない。
ハリーポッターの出版社だから、あまりよくないのだろう。