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2011年12月18日

原発と祈り

内田樹+名越康文+橋口いくよ

お勧め指数 □□□□■ (4)

原発事故について、圧倒的多数の人とは別の方向から発言している本。
正直、今だから楽しく読める、という気がする。

少なくとも、橋口さんの発言は、これは確実に関東にいなかった人のものではないか(知らないけど)。
3月14日から一週間、関東にいた人の発言ではない気がする。

いや、原発の状況が悪化していくさなかの人でこのような余裕を持っていた人がいたんだろうか、と疑問になる。

本書では、原発を「おかしな連中が囲っていた変な機械」と見ないで、ある種の「神」あるいは「怪物」とみなし、災害は「祟り」とみる。
原発が怒りに震えて爆発してしまったからには、心情としては「祈る」ということをしたほうがいいんじゃないか。
そう考えた提案がこの本で話されている。

一理ある。
原発が制御不能になったら、大多数の人は「祈るよりない」わけである。

ところが、お三方は「なにもできないから祈る」というネガティブなことを言っているわけではない。
もっと積極的な方法として「祈り」を挙げている。


2011年12月 5日

濹東綺譚

永井荷風
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

たまには古典を読まないと。

そういう気持ちになることが発作的な症状のようにある。
そして何を読むのかを決めるのは、そう思いついた直前に何を読んでいたのか、による。

というのは、「古典を読まないと」という気分にさせてくれるのは、本だから。
当然その本で紹介されている本を手に入れて読むことになる。

平川克美さんの本を読んでいて、永井荷風を読もうかなと思った。
その本では濹東綺譚が紹介されていたわけではない。
ぼくの貧弱な知識では、永井荷風ならばこの本だろう、と思ってのことだ。

選択の動機は、この本で描写される風景は僕の子供の頃にうろうろした街だから。

ぼくは向島で育った。
遊ぶ範囲は、西は浅草寺、田原町、北は玉ノ井くらいが境界だった。
この本の冒頭にでてくる言問橋は、近所に家があった。

この本を読むとき、地名だけで風景が頭に浮かぶ。
もちろん永井荷風の時代のものではなく、昭和40、50年代のものだけど。
小梅やら地蔵坂やら、ほんとに地元のことが書かれている。
へぇと感心しながら読んだ。

寺島図書館の辺りの風景、6号から西に伸びる狭い路地のような商店街の昔の様子を知って意外な気分になる。
「アラーキー」が語りそうな街だったのか。

意外に思ったが、小説としても面白かった。
が、風景どころか匂いまで頭に浮かんでくるので、果たして小説としてちゃんと読めたのか、わからないでいる。

別段「昔の小説」と断らなくても「十分面白い」ものは、今でもありだと納得した。
漱石のような「文学」ではなくとも、読むことに「浸れる」作品ならば、年齢や時代に関係なくよい。

小説って、そういうもんなのかもしれない。

2011年12月 2日

経済成長という病

平川克美
講談社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

平川克美さんを読み返したくなっていたが、一応これで完結ということになる。
この本も2回目。

一度読んだだけでは何も覚えていない。
そう改めて実感した。

どんな本でもそうだが、この本を読んで、自分の行動は以前とは違う方に「屈折」したはずだ。
つまり、読まなかったときと読んだときで、数年後には明らかに考え方やら行動方針やらが変わったはず。
で、結果的に「読まなかった時とは違う自分」になったはずである。

読んだ内容をテストされるわけではない。
憶えている部分のみみが自分にとって必要な情報だったのだ。
そうではないところはそもそも読んでもいないのだろう。

この本も「成長しつづけることが前提」の経済なんて、そのうちおかしなことが起こるんだから、ほどほどにしたほうがいいんじゃないか、と述べている。
読んでいて「まったくそのとおりだなぁ」と思ってしまう。

こんな風に素直に「そう」思ってしまうのは、ひとえにぼくが「研究職」についているからだろう。
「研究費は増え続ける」ということを前提するのが「おかしい」と思うのと同様に、経済発展がし続けるのが正しいと思っていない。

ぼくの研究活動は多額の予算を必要としないから、常に「研究費」というものを追いかける必要がない。
もっといえば、「研究なんて無くたって、知りたいことは知りたいし、実験したいことはしたい」と思っているタイプの研究者だからだろう。
予算なんて、ありゃあっただし、なきゃないで、何とかするのがいいのだ、と思っている。

エネルギー保存則というものが、世の中を全ている、ということを物理で学んでいる。
この発想は「心底」自分に身についている。

そういう話は抜きにしても、ちょっと立ち止まって考えれば、誰でもなっとくできることをこの本は主張していると思うが、それが通用しない世の中になってしまっているのだろうか。
実はそのあたりが実感できないでいる。