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2012年12月30日

独学術

白取春彦
ディスカヴァー・トゥエンティワン
お勧め指数 □□■■■ (2)

この本は前半と後半で違う人が書いたんじゃないかと思うくらいに著者の態度が違っているように思う。
前半は普通の人を取り込もうと努力されたあとがあるが、後半は馬鹿は嫌いだ的な著者の灰汁が全部でている。
普通の人に向けた本ならば、後半なくていいんじゃないかと思う。

哲学の人っって、こういう人がたくさんいるんだろう。
短い人生においては関わらないでいたい。
著者も「それで結構」って言うだろうから、実質ぼくとは無関係なままで生きて行けるのだけど、たまにこういう本を読んで失敗をやらかす。
知らない人の本に手を出すのは、よくよく気をつけないといけない。
とはいえ、どんな人の本も最初は知らないだけど。

2012年の最後の本はこれだったか。
残念。

2012年12月28日

原発と日本人 自分を売らない思想

小出裕章+佐高信
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□■ (4)

原発についての本は結構な冊数を読んできた。
なかでも小出さんの本はなるべく見かけたら購入し、すぐに読むようにしてきた。

それは知識を得るためでも東電・政府に腹を立てるためでもない。

「原発がもしも」が引き起こすことに自ら疑問に思い、それを昔から真剣に考え、それを止めるべく個人としての行動をとってきた人は、現状をどう考えて、これからどうしようとするのだろうか。
それを知りたいから、小出さんの本を読んできた。

「だからいったじゃないか」

そう周りを非難するのが人の感情として当然なことだけど、そういうことを小出さんはされない。
それでも、東電なり国なりに腹を立てている。
強い言葉を著作の中で見出すことができる。

頭が良い人ならば、頭の悪い人のやることを予想し、それを無力化するような行動を先回りにすればよい。
ぼくはそう思っている。
だが、小出さんのレベルの頭脳をもってしても、相手が東電なり国なりになると単独ではなかなか有効な手を打つことはでない。
一人でできることの限界は早々と見えてくるから。

だとすれば、大して頭は良くないし、影響力もない市井の人でしかないぼくは、何をすりゃいいんだろうか。

もちろん即効性のある有効な手立てはない。
手がないのは事実だが、考えなくなったりやめちゃったりすることはいけない。
というのは、今有効ではない手であっても、環境が変われば有効になりうる「可能性」は残っているから。

選挙結果を目の当たりにして、「反対運動をする」という行為の意味には大いに疑問を感じるようになった。
が、だからといって諦めるつもりはない。
どういう方法がありうるのだろうか。
それを今後も考えて続けていこう。
行動をせよというが、反対運動という行動はあまり意味が無いようだから、もっと別の方法を探すか。

一人でできることは少ないし、功利的でもない。
でも、それでいいだろう。
ぼくは市井の人で、影響力があるわけでもないのだから。

2012年12月27日

街場の文体論

内田樹
ミシマ社
お勧め指数 □□□□□ (5)

通勤電車で本を読んでいて、ふっと別の本を読みたくなる。
読んでいる本が面白く無いとか、集中できないとか、そのときの気分に相応しくないものを読んでいるときに、そんなことを感じることがある。

もっと深く考えたいなぁ、これといった具体的な対象があるわけではないのだけど。
この漠然とした想いは、自分なりに「もっと勉強がしたいなぁ」と思っている状態なので、この気分がしたときは内田樹さんの本を選ぶことにしている。
ハズレがないので。

街場の文体論はこれまで3回くらい読んでいる。
こんな授業を受けていたら、今とは違う自分になっていただろうなぁ。
そう確信的に思える本である。
別にいまの自分が不本意な生活にある、ということは全くない。
むしろ正反対の満足な状況にある。
だけど、それても「もっと違う考え方」が「もっとちがう自分」を生成させていかもしれない。
そう感じ、あったかもしれない自分を少し想像してしまう。
「学ぶことの可能性」ってのは、こういうもんなのだろう。
そう感じさせてくれる。

読んでいていつも気になることがある。
最後の章で語られている宇宙機は「はやぶさ」なのか「あかつき」なのかちょっと判断使いない。
一般的には「はやぶさ」という単語が刷り込まれているだろうけど、時期からすれば「あかつき」のことなのか??
編集者が確認をとってくれればよかったのになぁ、と少し残念な気がする。

2012年12月19日

死と身体

内田樹
医学書院
お勧め指数 □□□□□ (5)

何を言っているのか、何をしようとしているのか、どんな価値を持っているのかも分からない存在ともの会話(交流)ができるのならば、死者とすら交流ができるはずだ。

驚くべき結論を実にわかりやすく説明してくれる。
別にオカルトとか宗教とか、そういうテーマを扱っている本ではない。

死者を弔いとはどういうことなのか。
なぜ人類だけが死者を弔うのか。
この疑問への考察に対して、「昔からそうしている、そういうものだ」というのでは「ない」説明があるとすれば、この本の説明もそのひとつになるはずだ。

そう、とらえればいいだろう。

沈黙交易を行なっていた人類は、どういう心理状態だったのだろうか。
海岸で漁労をしている人と山奥で狩りをしている人は、どういう方法で何を交換した、あるいはできえたのだろうか。

巷にある「必要なものを交換する」とか「同じくらいの価値のものを交換する」といった、まともに考えれば説得力がまったくないような行為をするはずないだろう。

人類史を語るわけでも、宗教を語るわけでも、文明論を語るわけでもないのに、読み終わると結果的にそれらすべてのとっかかりを得ていることに気づく。

いい本はホント日々の生活すら楽しくさせてくれる。

2012年12月14日

宗教はなぜ必要なのか

島田裕巳
集英社インターナショナル
お勧め指数 □□□□■ (4)

宗教についてのベーシックな議論。
なぜ、宗教なんて必要なんだろう。

西洋社会におけるキリスト教、あるいはイスラム社会でのイスラム教など社会の基盤的なところに宗教がある状態に対して違和感を感じるのは普通の日本人の反応だろうと思う。
ぼくもそうだ。
僕だってそれなりに本を読んだり旅行へ行ったり、あるいは信心深い留学生と話したりすることがある。
なので、彼らにとっての宗教の大切さについては理解している。
だから彼らに対して敬意を払った行動をとるようにしている。
自分がどう振る舞うのかと自分が本当はどう感じているのかは、宗教に置いていはわけないとイカンということくらい理解している。
それでも、本質的なところでは「へんなの」という気分は抜けないでいる。

なぜ宗教が必要なのか。
そういう切り口で問われたら、とてつもない不幸に落ちいた人が宗教にすがるという状態を想像してしまう。
病気になるとか、騙されるとか、自分に咎無くて死す、という状態に陥った人には必要なんだろう。

あるいは生まれながらに宗教が社会の全景にあるところで育った人は、宗教があるのは当たり前ということになる。
ぼくのように「宗教ってへんなの」と感じるのと同じように「宗教がないってどういうこと?」と思う状態。
そういう人には当然必要だろう。

この本でなるほどと思ったのは、神秘体験をもった人について。
自分の五感を通して「不思議な出来事、不思議な心の感覚」を持った人は、宗教というものがその原因にあるらしいと確信するだろう。
ならば結果的にその後の人生において宗教は必要になる。
なるほど、そういうことってあるかもなぁ。

薄い本なので、もう一つ突っ込めないうちに読み終わってしまった。

2012年12月 9日

レーダーの歴史




辻俊彦

芸立出版

お勧め指数 □□□■■ (3)


レーダーという装置がどういう歴史的背景のもとに登場してきたのか。
戦争の道具として着目され、英国とドイツが世界大戦のなかでどのような工夫をしながら使ってきたのか。
スペックや能力の競争という視点とは別の、工学的な意味における「要望と対応」のようなものを解説している著作である。

ただし、軍事マニアでも電磁波の工学にも説通していない自分からみると、整理されている具合が少なく、発展しとしての流れも上手にかけているようには感じなかった。
資料の抄訳的な感がある。

2012年12月 7日

下流志向

内田樹
講談社文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

単行本で何度も読んでいるのだが、文庫本を書店で目にしたので購入した。

この本を読んで「気分爽快」になることは全くない。
むしろ嫌な気分になる。
嫌な気分といっても、野田政権や安倍政権のニュースや原発礼賛の読売・産経の記事を読んだりするときの気分とは全くちがう。
「消費する主体として社会に登場したこども」という事実を認めることの苦悩だろう。
要するに、自分も関係しているであろう「嫌なこと」を直視する苦痛を感じるのだと思う。

「生意気な子供」を考えてみると、それはみなお金を背景にした物言いや行動がそのいらつきの原因になっている。
なるほど、そうか。
それが、受験のための学校通いという社会的な訓練と重なって、僕の子供の頃よりひどい状況になっているらしい。
なるほど、そうなのか。
内田さんの分析は、あるいは、内田さんが引かれた著作の著者たちの分析は、すとんと腑に落ちる。
そうだったのか、そうだったのか、の連続になる。

このような分析は、軽蔑のような悪意を含んだ物言いではないので、ずっと聞いていられる。
自分の考え方、無意識レベルの癖のようなものの「生成過程」を見ているような気分になる。
自分がそこまで下流志向マインドに「汚染」されているのかは分からないところもあるが、全く無垢な状態であるはずはない。

本を読んで不愉快な気分になる必要はないだろう。
そんなことをする必要はない。

しかし、現実を直視して辛い気分になることは悪いことではないはずだ。
少なくとも自分の周りの多くの人の「行動壁」の深層を理解することができる。
それは辛いと同時に「なるほど、そうか」という心地よさを感じることはできる。

もっと多くの人に読まれることを望む。

2012年12月 2日

年収150万円で僕らは自由に生きていく

イケダハヤト
星海社新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

ぼくが40代になって気づきたことがこの本で書かれている。
もちろんぼくが気づいたことはこの本の一部のアイディアで、イケダハヤトさんのように広い視野で気づいたわけではない。

お金のためにどの程度働くのか。
これは昔か議論されてきたことで、時と場合と語る人によってその評価は全く違うものになっている。
清貧の発想があるころは貧乏に対していろいろな感情が沸き起こったと思うが、今は忌避されるか負け組扱いかだけだろう。
貧乏なのは嫌だが、だからといってそこから抜け出れるわけではない。
抜け出れないと悟ったら、ならば自分の生き方をそれにあわせて変えるよりない。

原理的には正しいのだが、「本当にそうか」と問われると強く言い返せない気がしていた。
しかし、最近若者でも違う発想の人はいるもんだ。
ぼくはイケダさんの主張に全面同意はできないけれど、その理由は「僕がおっさんだから」かもしれない。
あるいは、イケダさんは普通の人が同意できないような極端な例を意図的に提示しているのかもしれない。
「可能性を提示し、さらにうまい方法を考えてくれることを誘い出している」という意図で。

イケダさんに同意した最大の理由は、「生活するのためのお金は思ったより少なくてすむ」を体験して知ったから。
原発事故以後、汚染食材を食べたくないなぁと思っていろいろ工夫していた。
その模索の結果、ウィークデイの朝昼は自分の家で作ったおにぎりだけになってしまった。
というのは、偽装ではないことが確からしい食材を選択していくと、外食は減る。
同時に食べる量も減る。

さらに、安いものだけで自炊しても以外にうまい、ということを知った。
この生活は1年くらい続いているのだが、食費って思った以上にかかっていない。
本書の中でも「鳥の胸肉」についての記述があるが、赤札堂に行けば、
「どうしてこんなに量があった200円なんだろう、全くマズくないのに」
と思いを毎回するので、著者に対して「本当に考えているな」と信頼をおける。
自炊で安く済ませるのではなく、自炊していると結果的に安く上がるのだ。
だからといって痩せたり食事に対する不満がたまったりはしていない。
この体験が裏付けがあるので、イケダさんの意見がすっと頭の中に入り込んでいるのだろう。

この本のアマゾンの書評をチラ見したが、どうも頓珍漢なものばかりな気がする。
少なくとも内容についての批判ではないから。
原発事故についてのマスコミの批判、みたい。
アマゾンの処方も政治的なもに陥りやすいが、それって日本だけのかなぁ。

世間での評判はどういうものなのか、ぼくは知らない。
しかし思うのだが、結果的にイケダさんの主張がメジャーになっていくでしょう。
勝ち組になってドンペリ開けて、という随分と古い生活を夢見ている若者たちは、そもそも現実の認識はできないし、それに対応する生き方を模索するという創造性もない。
だから、イケダ批判は今後も続くかもしれないがいずれ消える。

大事なのは人の言動ではない。
現実を相手にした行動だろう。

さて、安く幸せに生きていくには、この他にどんな工夫があるんだろうか。
いろんな人が考案し、出版してくれるといいな。