メイン

2012年7月16日

街場の文体論




内田樹

ミシマ社

お勧め指数 □□□□□ (5)


こういう授業を受けられた学生さんはうらやましいですね。
自分にはあり得なかった。
それでも、この本を読めたことが、僕の人生もまんざらではないと言えます。
特に好きな部分の引用します。

 受験勉強は同学年齢集団内部での相対的な優劣を競うものです。問題は、そうであるかぎり、自分が高い評点をもらうことと、競争相手が低い評点をもらうことは同義になるということです。競争相手が愚鈍であるほど自己利益が増大する。受験はそういうふうに精度設計されている。だから、受験勉強の勝者になるということを知的達成のモデルに擬した人は、いつのまにか、自分以外のすべての人ができるだけ愚鈍かつ怠惰であることを無意識のうちに願うようになる。学会での論争をみていると、それが集団的な知のレベルを上げるためになされているのか、目の前にいる人の知性の活動を停滞させるためになされているのか、わからなくなるときがあります。論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を高めることをほんとうにぜざしているのか。

 学知というのは本来集団的な営為です。厳しい山に登るときに、そこに登り、道を切り拓くような仕事です。前人未踏の山に登って、頂を究めた人は、後から続くために地図を作ります。分かれ道には標識を建て、足場が悪いところには階段をつけ、非難小屋を建ておいたりする。名も知らぬ先人がそういうふうに切り拓いてくれたおかげで、あとから来た人は、そこまでの身体能力がなくても、山頂に立つことができる。

 学問というのは、そういう物だと僕は思っています。その専門分野でも、先駆者は前人未踏の地に踏み込んで、道を切り拓き、道標を立て、階段を刻み、危険な箇所に鎖を通して、あとから来る人が安全に、道を間違えずに進めるように配慮する。そのような気づかいの集積が専門領域での集合的な叡智をかたちづくる。だから、どの領域でも、フロントラインに立つ人の責務は「道なき道に分け入る」ことだと思うんです。

 でも、査定され、それに見合う報酬を求める人たちは「道なき道」を好みません。「道がある道」にしか行きたがらない。すでにたくさん人が通った道。道がどういう歩き方をしたとか、一日に何キロ踏破したとか、何キロ荷物を担いで歩いたとか、そいういう相対的な優劣が数値的に査定可能なところを選好する。そういしないと、自分の登山家としての能力の高さをアピールできないと思っている。

なんだから今の職場ではらわたが煮えくり返った記憶がよみがえります。本当に、嫌なやつって、ここで言及される受験勉強の勝者にそういう人って多いんですよね。

でも、一方で、せっせと後の人のために階段を切ったり、鎖をつけたりすることって、報われないし、それが報われそうになると先の受験勉強の勝者がやってきて「俺がやったんだぜ」と言い出したりするんですよ。

まぁ、でも、僕は周りの人の理解を全く捨てることで、険しい道がさらに険しくなりましたが、間違ったことをやっていないと思うことで、少し息をつきました。

さぁ、がんばろうっと。


でも、

2011年11月 4日

「しつこい怒り」が消えてなくなる本

石原加受子
すばる舎
お勧め指数 □□□□□ (5)

これでまで読んだなかで、もっとも「あぁ、そうか」と膝を打った本。
と同時に、表題の通り「しつこい怒り」を消すことができた本。
というか、たぶん、この本以前と以後とで、日々の生活がだいぶ違うものになった本。

一言、あぁ、やっと会えたか。
感慨深い気分になった。

思い出し怒りが強いぼくは、日々の生活のほとんどの時間を「イライラ」として過ごしてきた。
悔しい気分、腹立たしい気分で過ごしていた。

これまでいろんな本を読んで、この性格を変えようと努力してきたが、なんかうまくいかなかった。
考えないようするとか、前向きに考えるとか、そういう「うまくやれるのかやれないのか」わからない方法を自分なりにとってきた。

が、結局、イライラとする生活に沈むことになってしまっていた。

実にジメジメとした、いやな性格だよなぁ。
自分の性格に由来すると思っていた「思い出し怒り」。
これは、自分以外の人もっていたようだ。
それは性格に起因するというようなものではなく、ある種のクセだと知った。

そういう風に考えしまう最大の原因は、嫌なめに合っていることを「ぐっと我慢してしまう」ことにあるそうだ。
一時的な我慢は、時間が経てば消えると思っていた。
が、それは完全に間違いだ、ということだ。

一度思い出し怒りにとらわれると、何もすることがない時間はずっとその怒りに耐える必要があった。
それって、何をしていていも頭か離れない。
ずっと怒りの渦中にいることになっていた。

この忘れっぽくない性格、どうすればいいもんかなぁ、と思っていた。
これで、人生の相当の割合を「捨てていた」ということになる。

でも、今は違う。
本当に、違う。

自分を守るのは自分だけだ。
単純なことだが、自分を守るように考え行動しないと、自分の「無意識」の部分が潰れてしまう。
怒りの原因となったことを直接消せるかどうかはわからないが、そのための努力はしよう。

つまり、我慢しないで、「反論せよ」ということだ。
反論することによって、自分を守るための「行動」をせよと。

なんにせよ、自分の怒りをしっかりと「怒っている」と認め、そのあきらかな原因を特定し、
その原因にたいして「抗議」せよと。
皮肉などという回り道ではなく、ダイレクトに勘違いなく反論し攻撃せよと。

なんと、それいらい、今まで思い出し怒りをしてイライラしていた時間は、ほぼゼロになった。

ありがとう。
石原先生。

2011年8月 2日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

面白い。
もう3、4回読んでいるはずだが、それでも面白い。
面白さが薄れることがない。
なんなんだろ、この本。

飛行機にのるとき、機内で読みたくなるであろう本を予測して持ち込むわけだが、基本は塩野七生さんの著作にしているのだが、今回は内田樹さんもそれに追加した。
今後はこの二人の著作が一冊ずつ選択されるであろう。

この本は、日本語で書かれた「わかりやすい論説文」の最高傑作の一つだと思う。
とくだん内容に興味を持っていない人であっても、その論説の骨組み、言葉の選び方、ユーモアなど、内田樹さんを超える人をぼくは知らない。
いや、ぼくが知らないだけで多く人がいるのだろうけど、まぁそういう本に出会えていないのだから、とりあえずない、といっていいだろう。

来週しめきりで、社内報に出張した先での紀行文を書いてほしいという依頼が広報からきている。
安請け合いしたのはいいのだけど、だんだん締め切り日が近づくにつれ、どうゆうものにしようかと真剣に考えるようになる。
作家じゃないし、そういうの得意だったことがないのだから、これが最初の文章なんだけど、ぼくとしては内田樹さんのようなものにしたい。
そういう文章を体得するための一つの方法として、機会があるごとに読みかえすようにしている。
今回の機内荷物として選んだのもそういう理由がある。

読んだ後にまた感心する。
参考になるようで、参考にならないかもしれない。

2009年9月10日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店

 この本を読むのは2回目。なんだか無性に読むたくなって手にした。そして、一気に読んだ。タイトル通りにソファーに寝転がって読んでみた。げらげら笑いながら読めた。内田樹さんの本を読んでいると、ぼくは母国語が日本語でよかったとしみじみ感じる。

 この本をまた読んでみよう。そう思った具体的なきっかけは何だったのか思いつかない。ただ頭の片隅にこの本がちらちら浮かんできて、気になって仕方なかったのだ。集中できないこともあり、その衝動を静めるために読み返した。ぼくの意識が知り得ない無意識が「この本に書いてあったことが重要だから読み直せ」とばかりに指令したのだろう。既に読んだ本が気になって仕方ないという体験は初めてだ。そもそも一度読んだ本を読み返すこと自体がぼくには珍しい。

 この本を一気読みした後は満足したので、別の本を読んだ。しかし、その本を読み終わったあと再度この本を一気読みしてしまった。ここ3日間で二回も読んだことになる。一体どうしてなんだろうか。自分が何に興味を持つのか、その本心を理解できない。その衝動を自分では制御できないから従うよりなのだけど。

 この本を合計三回読んだ。だからといって「構造主義」とは何かを知ったわけではない。マルクスもソシュールもニーチェも、フーコーもバルトもレヴィ=ストロースも凄いなぁと感心した(ラカンについてはもう一つピンとこない)。ただし彼らの名前を記憶しただけではあまり意味はない。何かを理解したとは、自分でそれをゼロから構築でき、実生活のなかで使えるかどうかだ。それくらいできないとダメだろう。さしあたって、これまで考えてきたいくつかの問題を見つめ直せば「あれ、なんでこんなこと気づかなかったのだろうか」と言えるようなものがないとこほんを理解できたとは言えないだろう。

 一応、この本を読んだあとで自分の見方に変化はあった。ちょうど総選挙の時期だったのでニュースではいろいろ言われていたが、「誰が」リーダーになるかで日本は変わるというような話ばかりであった。ニュースキャスターも解説者も血相変えてその話をしていた。お前らダメだと。東京都民であるぼくも選挙では一票投じたが、それで社会が変わるとは思っていない。だから何をそんなに主張しているのだろうかと奇異な目でニュースを見ていた。党や総理が変わると政治はかわるのだろうか。役所指導から政治主導に切り替えれば変わるのだろうか。

 ではなぜ今までのような政治がずっと続いてきたのか。戦後の問題というが、戦前はどうだったのか、江戸時代はどうだったのか、その前はどうだったのか。井沢元彦さんの著作を楽しんで読ませていただいている。だから、日本の政治のあり方は日本の状態から生まれており、歴史を通じてそう変わりないという意見をもっている。誰が指導したとしても「空気」みたいなものが意思決定者の周りに立ち上がってくれば結局今まで通りになるだろう。名前ややり方がちょっと変わるかも知れないけど。

 何かがうまくいかないのは誰かが悪いからだ。その原因を消去すればうまくいくようになる。そういう考え方がある。あるいは、この問題の本質はこういう事だ、という発想でもいい。ある特定の原因が存在し、現在の状況はその結果であるという発想は、どんな人でもそれなりに自然に思えるだろう。「本質」という言葉はどの分野にも登場するだろうから、どんな勉強をした人でもこういう考えに落ちるはずである。もちろん、それでうまく場合はそれなりにある。だから、そう考える人が多いのである。

 一方で、状況なり構造なり、特定の原因とは言えないものを考察対象にする技術がある。その場合、議論する対象あるいは疑問点は次元が少し上がる。従来の単一の要因論という考え方を変えないと上の次元に到達できない。この本にあるような説明を聞いて初めて議論の次元を上げるとはどういうことかに気がつくことができるのだ。

 いわゆる犯人探しとは別の次元。そんな議論を実際にどうやるかは状況に依存するから、なかなか日々の生活の問題相手に適用できるものではない。ただし、これまで簡単には解けなかった問題にはこの考え方で接しないとどうにもならなかったものがあるかもしれない。へぇ、構造主義ってすごいなぁ。現代思想というのに少し感心した。といっても、内田樹さん以外の人の本を読んでも、さっぱりなんだけど。


2008年5月 3日

反ユダヤ主義を美術で読む

秦剛平
青土社 2400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 毎年楽しみにしているシリーズが今年も出版された。今回にテーマは反ユダヤ主義である。著者が長年追っているテーマのはずで、今回も(あるいみテロの標的になることも恐れず)ずばっと断言してくれているので、キリスト教やユダヤ教とは無縁の順な日本人であるぼくのも「そういうことか」と疑問が氷解する講義であろうと期待し、そしてその通りの内容であった。

ユダヤ人たちは、その場所がどこであれ、民族の習慣を守って生活する。民族独自の慣習を遵守すれば、その生き方は周囲の者たちの中で浮き上がる。浮き上がれば、ひそひそとその習慣が貶められる。なぜ彼らは皇帝像の前で頭を下げないのか? なぜ彼らは金曜日の日没時からシナゴークに集まるのか? 好奇心は猜疑に転じ、猜疑は憎しみに変わる。異邦人たちがユダヤ人にたいする憎しみを共有するとき、それは煮沸しはじめ、飽和点に達すると爆発する。その爆発は凄惨である。肉片が四方八方に飛び散る酸鼻をきわめるものである。

 反ユダヤ的感情、反ユダヤ主義を順をおって解説してくれる本書の内容であるのだが、上記の引用はその核心を短く表現しているので、この引用が含まれている前書きだけ読んでも目的は達成できるのではないかと思う。

 要するに、猜疑が憎しみに変わってしまうという人ならばだれでももつ心理の特性があり、それが容易に再現してしまような社会の中での生活をしてしまう人たちが(いまもだろうけど)いた。なんというか、運が悪いということなんじゃないかと、ぼくは思ってしまう。

 いったん憎しみに変わってしまったものを「教義」としてキリスト教は取り込んでいる。それは、容易に出される場合と背景に塗りこめられてしまうけど、キリスト教の図像をみるについて、なんともこまったものを内包しているのだなとよく理解できる。とくに、部外者である日本人の多くは「なるほど、西洋史ってのはこういう心理ダイナミクスの積み重ねなんだな。それを、まだやっているのか」ということに気付くことができる。

 人の心理ダイナミクスは、場所も時間も越える。だから、「猜疑は憎しみに変わる」という反ユダヤ的な感情は、現代で普通の生活を営んでるぼくにだって容易に理解できる。いったん猜疑心をもった相手は、憎らしく思ってしまうのが普通だから。

 また逆に、おかしなことをやっていると他のグループから猜疑の目で見られることになり、それはすぐに憎しみに変わりひどい目にあってしまうことにもなる。人と違うということを、故意に主張し続けるとろくなことにならないだろういう教訓が引き出せるわけだ。


 それにしてもこの秦剛平という人はスゴイ人だ。あまりに関心してしまったので、この本の元ネタになっているセミナーを受講しようと思っている。

2008年2月22日

<現代家族>の誕生

岩村暢子
勁草書房 1800円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 社会学というものがあるのだとしたら、おそらくこの本のようなものがアウトプットとして優れた評価を受けるのだろうと想像する。まったく、すごい。どう表現していいのかわからないのだけど。家族、という現象を中心に日本の現代社会がどう変遷したのかがわかる。物事はいろいろなものと関連をもっている。あるものが他のものによって影響され、その結果別のものへと波及する。実にダイナミックなものなのだ。そういうイメージをぼくに与えてくれる。テレビ番組でやってくれないかな、と思う。そうすれば、見る人はたくさんいるだろうから。

 現在の普通の家族の食卓風景について、ある意味本当の姿を見せる。そこが話の発端になる。食パンとラーメン、総菜がごちゃごちゃになって置かれているが、これが夕飯だというのだ。まさか。さすがにそう思ったのだが、どうやらこれが以上な風景ではない、とこの本は話を切り出している。まさに、驚きの風景である。一体全体、どうしてこれでいいのだろうか? どうして、こんな家族ができちゃったのだろうか? このお母さんはどうしてこれいいと思っているのだろうか? どんな育ちかたをしてきたのだろうか? これが、探求のそもそもの動機である。そして、それは十分に「科学」である。

 結論への解明の道筋はこの本を読んでもらうとしよう。別にミステリーでもないから結果をいってしまうと、戦争ってやぱりスゴイインパクと社会に与えているんだなということ。そして、現代社会の変化のし方は、親の機能を無意味にするくらいインパクトがあるのだとわかる。実にビックリする。親でさえモノを教えられないのだから、おばあちゃんが役立つはずはない。なるほど、家族という言葉が指し示す意味が、どうやら戦後社会で変わってしまったようだ。もっといえば、家族の形態が日本で定着してから数百年たっているが、それがここ数十年で変わってきているのだ。

 それだけではない。生活の色々なものも、絡み合っていることがわかる。電気洗濯機などの家庭電化製品が主婦の仕事を減らす。すると、ヒマになった時間ができる。テレビはワイドショーを料理番組を始める。町ではお買い物を勧める。情報交換が頻繁に行われる。考えてみれば、戦中戦後は食べるのが精いっぱいだったのだから、家庭の味なんてあるはずない。その世代が料理学校へ通い、婦人雑誌やテレビで料理を憶え、それを子供にだす。インスタント食品、冷凍食品、総菜屋が幅をきかす。いったい、どこに古くから伝わる料理がるのか? 生活のための道具が変わる。どうして、おばあちゃんが知恵があるのだろうか。社会に対応していくのは常に若い人であるならば、継承するべきものはない。かくして、家族が家族たる意味を消失される。

 なかなかうまく説明できないが、そういう色々なものを一気に知ることができる。稀にみる本である。私は勉強になった。そして、考えるようになった。家族って、本当に必要なんだろうか。

2007年11月25日

下流志向

内田樹
講談社 1400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 長年気になっていたことが解けました。人生に消費者として登場する子供の悲しさですね。私はこの本で懸念される世代ではないと思っていますが、間違いなく片足を突っ込んでいることは確かです。自分が「買い手:お客」になったら、年齢を問わず大切に自分を扱えと要求できることで、また、実際そうされる。ころを幼時のときに経験したら、人格の成長はそこでストップし、もう復帰する見込みはない。

 「ぼくは買い手である」と名乗りさえすれば、どんな子どもでもマーケットに一人前のプレイヤーとして参入することが許される。その経験のもたらす痺れるような快感が重要なのです。
 幼い子供がこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子供たちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子供たちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取りしようとします。彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、ふところ手をして、教団の教師をながめます。
 「で、キミは何を売る気なのかね? 気に入ったら買わないでもないよ」
 それを教室の用語に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」
という言葉になるわけです。

 なんと、そうだったのか。それが、「なぜ、勉強するのですか?」という問いが発生するメカニズムなのだ。昔、金八先生という番組で「女がなぜ勉強するのか」ということで騒ぎを起こすという話があった。当時、私も中学生か高校生だったが、「そんなことを考えたことなかった」のである。その質問をしている学生は「要するに、勉強したくないということを言っているのだろう」と思っていた。まぁ、だいたい当たっていたのだが。

 この質問にはどう答えるべきか。いろいろ工夫して、「〜だから勉強した方がいい」と答えるのは絶対にダメ、なのだそうだ。

 学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。

 しかし、このような学びのプロセスは、「教育サービス」を購入するために「教育投資」を行う消費主体としての自らを確定した子供には理解不能です。

 そうだ、まったくそうだ。なぜ、学ぶ前に学ぶことに「意味」を知ることができるのか。学んだあらその人は「変わってしまう」とことを知っていれば、学んだ後のことを学ぶ前に評価できるはずはないではないか。

 子供は大人と対等ではない。対等ではないから学ぶのであって、年をとれば対等になるわけではない。実際、学べなかった人がたくさんいるではないか。モンスター・ペアレンツなどはその典型なのだ。

 ここで、一つのことが理解できる。買うという経験をする前に、学ぶという経験をしておく必要がある。これは、絶対だ。数十年前は社会的に当然そうなっていた。お小遣いを貰って何かを買うよりも前に、いろいろなことを教わっていたのだ。学ぶ経験が一つであれば、その後「学ぶって、どうやったっけ」と思い出すことができる。

 しかし、一度も学んだ経験がないと、学びようなどないだ。消費者が学ぶことは、もう出来ないのだ。

 この事実を知った。私はどうだったのだろうか。そして、なぜ、今の学生さんは退廃しているのかよくわかったし、教えるには教えることが可能な人を選定する作業が必要になることも分かった。実に示唆的な本だった。

2007年4月 4日

つっこみ力

パオロ・マッツァリーノ
ちくま新書 735円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 パオロさん、さすがっす。この人のように切れがあり「わかりやすく」社会を説明してくれる人は滅多にいません。少なくとも、私はあったことがない。本の中だから話を聞くことができるんですね。だから本が好きになります。

 さて、例によって世間に流布している「社会学的な」あるいはマスコミ等で評論家が解説しているような内容に対して、「それはちがうだろう」という説明です。全く普通の人の視点からの解説なので、「こんなことは知らんだろうなぁ」的な解説にうんざりしている人ならば感動してしまうのではないでしょうか。

 いろいろ事例があるのですけど、今回一番納得したのは「なんだかんだいっても、結局面白い話でなければ人は受け入れないのですよ」という人間の原理の説明でしょう。マスコミが中心になって広げる「おかしな」理論がありますよね。有明海の問題とか、環境問題とか。ああいうものについてどんなに「正しい、論理的な」見解を社会の人に示しても効果ないんですよ。なんだかんだいっても、「インパクト」がある、あるいは、「それって面白い」ストーリーになっている方を世間の人はとるのです。それは社会の成熟とかとは関係なく「人間ってそういうもの」っていう感じなんですね。そんな悟りのような解説がこの本に載っていまして、大変勉強になりました、私には。

 間違っているときに「間違っている」と上からの視点で指摘する、あるいは怒る。こういう態度はやめましょうよ。誤りの指摘って、それが「つっこみ」にならないならしなくていい。なぜなら、誤りを受け入れるってことは正しいことを求めている場合だけであって、世間は正しいことではなく「面白いこと」を受け入れますから、野暮なんです。つっこみを生かして、間違いを笑わせるタイミングをつくれるのならば、あるいは、それによって自分にとっておいしい場合だけ指摘すればいい。そうでもない限り、誰も得しないから。そういうスタンスを教えてくれる本です。

2006年10月 9日

チョコレート・コスモス

恩田陸
毎日新聞社 1600円
お勧め指数 □□□□□ (5+)

 ここ数年で一番の小説なんじゃないですか。こんなスゴイ小説をかける人が、現代日本にいたんですねぇ。はじめてですよ。読み終わった直後に「さて、最初から読むか」と思ったのは。映画だと2回連続で見るという話は珍しくないですが、小説では初めての経験でした。

 内容は、要するに演劇。そもそも大学時代つきあいで見た程度しかないので、その世界についてはさっぱり知りません。TVや映画と舞台は違うだろうから、普段見ているとも言い難いし。それでも、魅了されました。主人公が女性たちで、私が男性だから魅了された、というのとはちょっと違うと思います。当然内容については書きようがないので、これ以上は説明できないです。

 恩田陸という小説家。これまで学園ものがメインだと思っていたので、ちょっとショックを受けました。もう、学園モノかかんでいいですよ。それより、このチョコレート・コスモスのようなものを書いて欲しい。恩田さんは演劇好きだろうから、ここまで書けたのかもしれない。となると、他のジャンルでは無理なのかな。

 とにかく、読んで損はない。今年はこれが読めただけでも、収穫があったと思います。

2006年8月12日

新・世界の七不思議

鯨統一郎
創元推理文庫 700円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 この本、すごいです。ミステリー小説ということになっていますが、歴史学の新解釈です。学者は相手にしないかもしれませんが、学者は「自分の仲間以外の人が考える発想」を邪道と考えるものですから、学会のようなところでは評価されないような内容が含まれています。私は感動しました。「アトランティス」とは、そういうものだったのか。これでさっぱりした。

 著者はコンサルタントだったそうです。だから、現実というものを常に相手にしていたはずです。人の都合などは考慮してくれない「結果」をもとに行動計画を立てる世界で仕事をいていただろうから、歴史学者などの文系学者の世界とは関係ない。だから、世界の七不思議と言われているものをすぱっと解説しちゃいます。読んでいて快感が味わえます。

 バーでの出来事をベースに話を進めます。カクテルについての記述が要所要所にでてきて、五感を刺激します。想像のものですけど。でも、それが通常の小説にない面白さを読者に与えてくれるのでしょう。もっとも、私は小説を読まないので、普通の人とは違う感想を持っているのかもしれませんけど。

2006年3月24日

ヴェネツィアの宿

須賀敦子
文春文庫: 533円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 なぜ、須賀敦子という人の評価は高いのだろうか? その疑問が一発で吹き飛びました。確かに、この本は忘れられない本です。これならば、日本の文芸誌に残ります。読んで良かった。

 過去の自分の視点、現在の自分の視点、子供の自分の視点と話しごとに縦横無尽に飛び回ります。だから、少しばかりの須賀さんの経歴というか生活を過ごした場所や時代を知らないと読んでいて戸惑うと思います。私は「コルシア書店の仲間たち」という別の本を読んでいたので、おぼろげに須賀さんの過去を知ったのですが、どの本でもいいのかもしれない。
 子供の頃は戦争時代、学校はミッションスクール。生活には困っていない。パリ、ローマに留学。帰国後職についたのだが、チャンスを得てイタリアに留学。ひょんなことからミラノに滞在。60年代から70年代にかけてミラノの書店に関わり、そこで働いていた人と結婚。旦那さんが病気でなくなり、数年後日本へ帰国。こんな感じであろうと思います。
 須賀さんの本に登場するのは実在の友人たち。うるさくない描写ですが、その友人の雰囲気が伝わってきます。もちろん、話しの中での著者の感じも。

 ”カティアが歩いた道”、”オリエント・エクスプレス”。この2編は一生私の記憶に残ると思います。若い頃の何気ないけれども人生の分岐点だった出会いとか、楽しかった人生で最後に残るものは何かとか。著者自ら「あの四冊は書けてよかった」という作品はすべて60歳を過ぎてからのものです。なるほど、だからストーリーの結末が物悲しいのでしょう。未来から過去を見ると、「あぁ」という哀しさが溢れてしまうのでしょうか。私にはまだわからないですが。

 合間をみて、須賀敦子さんの作品は全部読んでみようかなと思います。そう、思わせる一冊です。

2006年1月 6日

キリストの勝利

塩野七生
新潮社: 2600円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 冒頭の「読者へ」が著者の内心を良く物語っている。というより、この本を書いているときの気持ちそのもの。一人廃虚にただ済み、この別邸に住んでいた人に思いをはせている。


もしも彼が生きた時代が前一世紀であったら、ユリウス・カエサルに従ってルビコンを渡っていたかもしれない。それが後一世紀ならば、初代皇帝アウグストゥスの秘書官の一人にでもなって、諸制度の抜本的な改革とその定着に、田園のヴィラ生活など愉しむ暇もないほどに忙しい日々を送っていたであろうか。もしも彼が生きた時代が二世紀であったならば、ハドリアヌス帝に随行して帝国の辺境をくまなく観察してまわり、広大なローマ帝国の安全保障と統治システムの再検討に、壮年の男のエネルギーを使い果たしていたかもしれないのだった。だが、実際に生きているのは、ローマはローマでも、四世紀のローマ帝国なのである。

続きを読む "キリストの勝利" »

2005年10月19日

日本人とユダヤ人

イザヤ・ベンダサン
角川ソフィア文庫: 460円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 山本七平の日本教徒論です。文句なしの本です。知識を消化するとは、このような思考活動をさすのでしょう。よく、このような本を著すことができる、とため息がもれます。恐らく、私とは全く別次元の脳を持っているのだとわかります。かなわん。

 ごく普通の日本人がもつ世界に対する認識(いわゆる、常識でしょ?という類い)の勘違いを説明してくれます。そして、ここが類書と違うところですが、「なぜ、そうなるのか」について書かれています。そして、それを日本人が指摘するのではなく、日本人とは別の視点、しかもヨーロッパ世界史からみても「外人」となるユダヤ人の視点から解説している。さらに、、その説明方法はもはや「理系」のそれです。テレビをつければ出演されている「いわゆる評論家」のもつあやふやな「偏見」をベースに語っているのではありません。私は、これが山本学か、と感嘆しました。

続きを読む "日本人とユダヤ人" »