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2012年7月16日

街場の文体論




内田樹

ミシマ社

お勧め指数 □□□□□ (5)


こういう授業を受けられた学生さんはうらやましいですね。
自分にはあり得なかった。
それでも、この本を読めたことが、僕の人生もまんざらではないと言えます。
特に好きな部分の引用します。

 受験勉強は同学年齢集団内部での相対的な優劣を競うものです。問題は、そうであるかぎり、自分が高い評点をもらうことと、競争相手が低い評点をもらうことは同義になるということです。競争相手が愚鈍であるほど自己利益が増大する。受験はそういうふうに精度設計されている。だから、受験勉強の勝者になるということを知的達成のモデルに擬した人は、いつのまにか、自分以外のすべての人ができるだけ愚鈍かつ怠惰であることを無意識のうちに願うようになる。学会での論争をみていると、それが集団的な知のレベルを上げるためになされているのか、目の前にいる人の知性の活動を停滞させるためになされているのか、わからなくなるときがあります。論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を高めることをほんとうにぜざしているのか。

 学知というのは本来集団的な営為です。厳しい山に登るときに、そこに登り、道を切り拓くような仕事です。前人未踏の山に登って、頂を究めた人は、後から続くために地図を作ります。分かれ道には標識を建て、足場が悪いところには階段をつけ、非難小屋を建ておいたりする。名も知らぬ先人がそういうふうに切り拓いてくれたおかげで、あとから来た人は、そこまでの身体能力がなくても、山頂に立つことができる。

 学問というのは、そういう物だと僕は思っています。その専門分野でも、先駆者は前人未踏の地に踏み込んで、道を切り拓き、道標を立て、階段を刻み、危険な箇所に鎖を通して、あとから来る人が安全に、道を間違えずに進めるように配慮する。そのような気づかいの集積が専門領域での集合的な叡智をかたちづくる。だから、どの領域でも、フロントラインに立つ人の責務は「道なき道に分け入る」ことだと思うんです。

 でも、査定され、それに見合う報酬を求める人たちは「道なき道」を好みません。「道がある道」にしか行きたがらない。すでにたくさん人が通った道。道がどういう歩き方をしたとか、一日に何キロ踏破したとか、何キロ荷物を担いで歩いたとか、そいういう相対的な優劣が数値的に査定可能なところを選好する。そういしないと、自分の登山家としての能力の高さをアピールできないと思っている。

なんだから今の職場ではらわたが煮えくり返った記憶がよみがえります。本当に、嫌なやつって、ここで言及される受験勉強の勝者にそういう人って多いんですよね。

でも、一方で、せっせと後の人のために階段を切ったり、鎖をつけたりすることって、報われないし、それが報われそうになると先の受験勉強の勝者がやってきて「俺がやったんだぜ」と言い出したりするんですよ。

まぁ、でも、僕は周りの人の理解を全く捨てることで、険しい道がさらに険しくなりましたが、間違ったことをやっていないと思うことで、少し息をつきました。

さぁ、がんばろうっと。


でも、

2010年12月17日

僕はいかにして指揮者になったのか

新潮文庫
佐渡裕
お勧め指数 □□□□□ (5)

指揮者の話といえば、ずいぶんと昔に読んだ小沢征爾さんの『ボクの音楽武者修行』のことを思い出すことしかできないでいる。
そもそもクラシックファンではないのだから、それでも思い出せるものがあるだけよいだろう。

書店で見かけたから。
それが動機で本を買うことは少なくない。
この本もそうで、新潮文庫の棚に平積みされていた。
最近書いたのかなと思い手にしたが、ずいぶんと昔に書かれたもののようで、もう15年も前に出版されいている。
音楽を専門にしていた人なのに、なかなかどうして小気味よい文章。
立ち読みしていたらそのまま引っ張られてしまった。
普通の人でも十分と楽しめるものだった。

若い頃に業績を得た人は「おれはスゴイ」という主張をいろんな形でするもので、それが場合によっては嫌みになり、人格にアクを付けしまうものである。
しかし、この人の場合は違う。
もっとも謙遜しているわけではなく、むしろぼくは才能を見出された人だと言い切っている。
不思議とそこに嫌みを感じない。
なぜなんだろう。

そう思いながら読んでいて思ったこと。
それは、自分の才能を認めることと、他人を見下すことがセットになっていないことが原因だろう。
つまり、みんなにクラシック演奏の良さを知ってもらえたいし、そいうものを自分も多く体感したいということが行動や発言の先頭にあり、それで終わっているからだろう。
人々は自分がけなされるのでなければ、また、他人がけなされるのを見る心配がなければ安心して着いて行く。
この人の本にはそういうところがある。
この人に付いていったら面白いよなという信頼。
そこにぼくは魅かれたのだろう。

本文中で面白かったのは、登場する人物の会話が関西弁であること。
バーンスタインが関西弁をしゃべっているのは、なんか新鮮だった。
 

2009年11月21日

船に乗れ!〈2〉合奏と協奏、<3>合奏協奏曲

藤谷治
JAVE
お勧め指数 □□□□□ (5+)

 この3部作はすばらしい。本っていいなぁ。そうつくづく思った。あまりに良いので、「人生って素晴らしい」とすら感じた。

 この内容が「小説」だとしたら著者の構想力はスゴイレベルだと思うが、巻末の著者略歴を読むに、要するに自分の青春時代の報告がベースになっているのだろう。本当にこんなことがあったのかどうかはわからない。出来事のタイミングが良すぎるところなどは物語として工夫していあるのだろう。それでも、大きな出来事は体験ベースなんだろうなと感じる。

 記述のところどころに未来の視点から語られているところがある。その語りにはある種の諦観があり、そしてそれが不安感を煽る結果となる。須賀敦子さんの本にあるエッセイはどれも最後に「不安」にぶち当たるのだけど、それと同じような性質をもっているようだ。だからぼくはこの本に魅かれたのかも知れない。

 未来は不安である。そう思っているからこそ、未来の不安を予感させる語りに魅かれるのかもしれない。しかし、同時に、未来にカタストロフがあるわけではないと感じている。なぜなら、未来の視点で語っている人がいるということは、その人はなんとか生きてこれ、過去を語る余裕があるわけだから。不安の結果に不幸が待っているわけでもなさそうだ。ただし、そこには必ずしも「すっごく幸せ」という感情はないかもしれない。が、ごく普通の人の幸せというものを楽しむ時間はありそうだ。

 この物語もそうなっている。1巻を読んだとき、その青春っぽさに魅了され、2巻を読んだのである。普通の人には持てない体験がつづくのかなと思って。ところがビックリして(でないと物語にならないが)、不安のまま3巻に進んだ。そして、そこには、大多数の人の実情とあまり変わらない人生の報告が待っている。ぼくはそう感じた。。いや、それは著者の経歴を侮っているのではなく、見事にこの本の物語が着地したことへの安堵であり、ぼくは納得したということである。見事に物語が閉じた。

 この本を振り返って、まるで自分が目撃したようなイメージが残っているものは、南という女性のまなざしである。ある場面での一瞬の出来事。不安、恐れと同時に懇願とそして諦めと最後に振り絞った勇気とが混じった視線である。これでこの物語は決まったのである。こんな面白い本ならば、誰かが映像化するだろう。2夜連続ドラマのようなもので。その際、このシーンだけは外さないで欲しいなぁと漠然と思う。まぁ、そのドラマは見ないだろうけど。

 かりにこの話が実体験ベースであったとしたら、著者が40過ぎまで生きてくるのは結構タフだったことだろう。しかし、なんとか人を感動させる小説を書くまでに至ることができた。いくつか小説を書いた後に、この小説を世に出した。著者の経験は多くの人の頭の中に入り込み、その人たちが生きることを鼓舞するものになったはずである。一個人の青春時代の体験が日本語が理解できる人に共有され、それが人々の財産になったのである。

 この話が実話に基づいているって思いたい。実際のところは知りえないので、もう実話だったということにしてしまおう。そう信じてしまうと、本っていいなぁと思う。ぼくには何の関係もない人の個人的な体験なのだけど、それを通り抜けた後に思うのは、素晴らしき哉人生は、である。ぼくはこういう本をもっと読みたい。

2009年2月 8日

船に乗れ!〈1〉合奏と協奏

藤谷治
ジャイブ
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 チェリストの話だというので読んでみた。帯には豊崎由美さんが『一瞬の風になれ』と『のだめ』を引き合いに出してこの本を推薦している。だぶん面白いのだろう。この本はミステリーチャンネルの月刊ブックナビという番組内で紹介で知った。知らなかったら店頭で目に止まらなかったかもしれない。本の紹介という好意は、その本の販売を促進していることは間違いないようだな、と自分の行動を観察して納得した。 
 まだ一巻しか読んでいないので、全体像はわからない。とは言え、どういう話ですかと問われれば、恋愛小説ですねと答えるのが適当だろう。それも、憧れの人に声をかけられず、ドキドキしたり、がっかりしたり、喜んだりという心理を楽しむ本。え、チェロの話はないんですか? もちろんそれが物語での出来事の必然性を与えている。ただし、音楽って素晴らしい、なんてことを訴えるのが主題ではない。
 文章や表現や物語が面白のか。そう問われてもわからない。ただ、こういう話を読めば想像力なり経験なりでドキドキ感を思い出せる人には良い本だと断言できる。

 ぼくはいいオッサンになる。だから、こういう本を読んでいていいのだろうか、それで楽しんでいていいのだろうかとフッと我に返ることがある。なにやっているんだろうと。もっと、今後の自分に関わるようなことを読んだ方がいいのではないか。そんな焦りのようなものも感じる。
 本を読むことは勉強ではない。それはよくわかっているけど、子供の頃からの思い込みはなかなか消せない。勉強になる本はつまらないはずだと心の底では感じているから。
 そんなことを考えていると毎日が灰色になりがちである。だから少し考え方を変えて見る。例えばこういう具合に。
 今後の自分の生き方を考えるために音楽を聞いても仕方ない。全く意味はない。なのに、音楽は聞いてしまう。同じように、今後の自分を考えるために、ワインを飲む人もいない。音楽もワインも、今生きていることを楽しむために取っている。ならば本も同じであっていいのではないか。
 この種の本は、今の自分の生活がどうであれ、今後の自分の生き方に参考には無関係であれ、読んでいるときに「うわー、面白い」って言えればそれでよいはずだ。
 ならば読んでいる最中は、自分の視点を作中の視点に完全に重ねてしまうほうがよい。主人公になり切って読むのだ。そして今とは別の世界で時間を過ごすこと。それが小説を読んでいる目的なんだろう。
 そうおもってこの本を読んで見ると、なんだかもう一度高校生になったような気がする。嘘ではなく、人生のレベルで得をした気がする。そうか、こうやって本を読むのか、と今更ではあるが、また一つ本の読み方が分かった。
 ちょっとしたことかもしれないけど、この本を読んだことによって小説との距離の取り方が自分なりに会得できてしまった。ありがたい。
 

2009年2月 3日

退出ゲーム

初野晴
角川グループパブリッシング
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 ミステリーチャンネルの番組「ブックナビ」で紹介されていた。ぼくは高校生もの、青春ものは苦手なのだが、「ミステリー」だというので読んだ。消極的な気持ちで読みはじめたのだけど、読み終わったときの評価はびっくりするよい作品。大森望さん豊崎由美さんの推薦は信用できる。さすがだ、と感心した。
 この本は続きものの短編4本から構成されている。1本目はキャラクターの紹介、2本目は「へぇ、面白いじゃん」というミステリー、3本目はこの本の表題作でビックリするほどよい演劇話、最後の一本はぼくが一番好きなジャンルのもので「うあぁ、好きだぁこういうの」と感動してしまった。最初の一編を読み終わった段階では、この本最後まで世無くてもいいかなと思ってしまった。でも、辞めなくて良かった。

 高校生が主人公の話は、恋愛ものであり成長モノである。切ない気分になる話を読んで不愉快になることはないが、だからといってそういうお話を「読む必要」はないだろう。そういう気分になることが好きかどうかの問題である。
 高校生のカップルが電車のなかでいちゃいちゃしているのを見て、うれしいとか楽しいとか思う人はいないだろう。とくにオトナになった人には。そう思う理由は、教育上どうかなとかそういうことではなく、単に自分とは無関係なものであり、うっとうしいからだと思う。 
 同様の感情を青春小説を読んでいて感じる事がある。今になってあだち充を読むのと同じで、もうどうでもいい感が一杯になってしまう。だから最近は読まない。
 しかし、青春小説が全部嫌いなわけではない。何が良くて何が悪いのかの境目ははっきりしている。それは、「そうだよね」と言えるようなキャラクターが登場するかどうか。気分を味わうためではなく、人間観察の意味で読む。
 だから、登場人物が自分と重ね合わせられるか、自分のよく知っている人に見立てられるか、あるいは、そういう人っているよねと言えるかどうか。こういったことで読む読まないを決めている。
 美男美女と天才しかでてこない話に親近感は持てない。かといって、自分の知り合いにいなそうな「おかしな」人ばかりでも、興味が失せる。現実味を持てる人をきちんと表現できるのか。逆に、普通の人ばかりでは面白い話が回せない。したがって、いかにキャラクターを設定するのか、動かすのかに小説の善し悪しがでてしまう。
 
 この小説で登場する人は、きちんとしていそうでいてもおかしなところがある。そこに親しみを感じる。微妙な設定だけど、そんなところで上手だなと感じる。
 一方で不自然な設定も目立つ。例えば、一般にメカ好きの学生さんが登場する。専門分野を深く掘り下げるタイプの人は、社会の出来事をあまり知らないものである。この小説では、近代史や現代史上の出来事を年号から把握するだとか、その出来事が社会的にどう捕らえられていたのかなどを知っている設定なっているが、そんな人は皆無であろう。専門性を深く知っていくことは、興味の範囲を極限まで狭め、まさに「集中」させる。この状態で教養を求めることは無理というものである。そのような、実際の学生像と乖離しすぎている設定がある。そこがまたある種のSF的な雰囲気を醸し出すのかもしれない。

 とはいえ、久々に「面白い」と思う小説に出会った。なんとなく続編も期待できそうだ。今年はいい年になりそうだ。

2008年12月18日

「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法

茂木健一郎
講談社文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 以前、朝カルの講義でちょっとだけだが赤毛のアンについて茂木健一郎先生が講義したことがある。赤毛のアンのファンなのだそうだ。ぼくも赤毛のアンは子供の頃から好きだったので、内容はほぼ覚えている。ただし、アニメを通じて知ったので、アンは山田栄子の声でしかないのだが。
 時の人である茂木健一郎先生はどんなことを話すのだろうか。先生も子供の頃にはまったそうだ。が、原著で全部読んだそうだ。その辺りがぼくとは大分ちがう。普通はアニメで知ったはずだ。本好きな子は児童文学書、オトナは新潮文庫というのが普通だろう。そのあたりから先生は常人ト違う。慣れない英語で読みはじめたが、シリーズ全巻読破するころには英語に慣れたということだ。まったく、うらやましい出会いである。
 赤毛のアンについての話ならば、想像力についてとか、友人との関係について、恋愛についてなどをテーマにするのが妥当だろう。しかし、そんな赤毛のアン論は内容透けて見えるのであまり興味がもてないでもない。では、我らが茂木先生はどのように赤毛のアン論へと突っ込むのかと思っていたら、「道の曲がり角」をもってきた。すごい。あれは、ぼくも衝撃をうけた箇所である。人生は見通せると思っているけど突然角を曲がるようなことがある、というあれである。この言葉を物語の中で聴くと、悲しさとワクワクとが入り交じった実に不思議な気分を感じる。そんな箇所である。
 ぼくが聴いた先生の赤毛のアン論の講義は、20分くらいの内容で、どちらかといえば講義の中では寄り道ようなものだった。その講義で気を良くしたのか、朝カルで赤毛のアンだけで特別授業をしたそうだ。ぼくは聴講しなかったが。
 朝カルの茂木先生の講座に集まる聴講生は圧倒的にOLだあろう、教室は一杯になるが、そのほとんどは若い女性である。ぼくのようなおじさんは珍しい部類で、むしろ場違いな気がする。
 今でも赤毛のアン人気はつづいているのだろうか。あのお話は子供の時に出会えば、おそらく一生付き合えるはずだから、その世代が子供に赤毛のアンの本を与えれば世代を越えて読まれていくはずである。そもそも赤毛のアンは女性が好きなのだろうから、子供に引き継がれる可能性は高い。

 通勤の乗り換え駅にある本屋に立ち寄った際、この本が平積みされていた。新刊は大抵平積みなるが、この本だけが残り数冊だったので平済みコーナーに穴が空いているで、この本がずばぬけて売れていることが分かった。というわけで帰宅途中に読み始めた。 
 本書の内容の1/4くらいは朝カルの講義で話したことである。ただし、想像力を「仮想」という言葉で言い換えている箇所も多く、アンの話を脳学者らしい解釈をいれている。同時に、先生の子供の時の体験談も交えて語られている。確かに、小学生くらいだと赤毛のアンが好きと公言するのはちょっと恥ずかしいだろう。ぼくもそうだった。
 この本の対象読者はOLである。女性を狙った表現やエピソードを意図的に入れている。もう、嫌になってしまうくらい気をつかっている。これ以上その意図が感じられたら読み続けることができなかっただろう。でも、つまらなくはない。単に抵抗を感じたまで。きっと編集者は女性だろうし、それを意図しているのが見え見えである。

「道の曲がり角」についての解釈。これが、この本の最後の方で紹介されている。なぜ、道を曲がるのか。というか、なぜ曲がってしまうのか。茂木健一郎先生の指摘は、なるほどと思えるものだった。
 赤毛のアンは、夢と現実とが両方ともに末広がりになっていくことを期待させる。最後には幸せに暮らしましたという希望を抱かせる。が、物語の最後で結果的にはごく普通の人の人生にしぼんでしまう。恐ろしいほど現実的な結末であり、そういう状態でどう生きるかを示唆しているのだ、という話である。
 講義でこう聞いて驚いた。そうなのか。あれは、末広がりが確実に思えた未来が、現実には歳を取ると当時にしぼんでしまい、ごく普通のオトナになってしまうという、誰にも当てはまる現実をモデルにした話なのだ。それを聴いたとき、茂木健一郎を茂木健一郎先生と呼ぶ事にした。立った数回の講義を受講した聴講生の一人に過ぎないが、そう言いたくなった。
 第49話が「道の曲がり角」である。48話の最後にある次週予告のナレーションは、今見ても怖さとドキドキが同居しているクオリアを感じる。YouTubeで全編みれる。ぼくは、小学生であり、毎週日曜日のアニメを楽しみにしていた。アニメではナレーションの男性の声が、世界のフレームを規定していたように思える。神の目を持ったやさしい存在がナレーションの声からうかがえた。もう最終回が近いし、しかもその先に何があるのかわからないでいた。でも、明るい未来ではないのだろうと予測できた。
 最終回を見てしばらくした後、本では続きが出版されているのだと知った。母親にせがんで大きな本屋へつれていってもらった。昔の東京堂書店だった。あの2階にあった背の高い書架と梯と。まぁ、そういう思い出と一緒に赤毛のアンはある。小さい時に本を読むのは大切だし、本を読んだあとでリアクションをとるのはもっと大切なのだなと今にして思う。

 茂木健一郎先生は、人気がでたために変な本が沢山でるようになってしまったが、それでもたまにこういうちゃんとしたものが出版されるところに救いを感じている。赤毛のアンについてどんな本がこれまで出版されてきたのか、文芸研究についてはとんと明るくないのでなんとも言えない。が、それを知らなくとも、この本は単体として「素晴らしきガイド」であろうと自信を持っていえる。ただし、この本は赤毛のアンを知っている人に向けた本である。知らない人が読んで、果たしてどこまで意味をなすのか、ぼくはわからない。たぶん、もったいないことになるだろう。だから、このガイド本を読む前に、本編を読む必要があるという、実に不思議なガイド本である。さて、原作をもう一度読む返して見ようか、それとも村岡花子訳ではないほうをよんでみるか。人生に置いて、なんど読んでも良い本は、結局子供の時に出会っているのであろう。子供の時の読書って、大切なものなんだなとしみじみ感じた。

2007年4月24日

鹿男あおによし

万城目学
幻冬舎 1500円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 『鴨川ホルモー』があまりにも面白かったので期待して購入。正解でした。電車のなかで読んでいて吹き出すことはありませんが、でも風景としてはこちらの方が出来がよい。いくつまでもこの心象風景の世界を維持してほしいですね。

 言ってみればファンタジーです。ベースは『ぼっちゃん』。でも内容はマキメさんの世界。決して現実味がある話の進行ではないのだけれど、なぜか魅かれます。その理由は、『ホルモー』のときと同じように話が進行する場所の描写にあるのでしょう。リアルというか、現場を良く知っているというか、「そう、確かにそこにジャスコあるよ」ということを突っ込みたくなる記述がちらほら見受けられます。これが現実の奈良の町にリアリズムがないものであれば、つまり、「別に奈良の町でなくてもいい」といえるような表現だたら、全体がファンタジーとなってとても「ぬるい」作品になってしまう。現実と想像とのコントラストをきっちりつけることが面白いのでしょう。

 もっと読みたいですね。はやく次の作品がでないものか。


2006年9月18日

鴨川ホルモー

万城目学
産業編集センター 1200円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 物語として面白いけど、学園ものといえば学園モノといってよいでしょう、多分。タイトルが興味深い。「ホルモー」ってなんだろうか。そのあたりを万城目さんも心得ていて、この本を読ませる方向へと引きずり込んでいきます。主人公の語りで話がすすみます。一風変わった「勝負」や学園モノにつきものの恋愛記述があったりと、とっぴなところはないのですが、まぁ読んじゃう。アニメにはしやすいですね。ドラマには向かないでしょう。京都中心の話なので、市内の様子はランドマークになる場所を知っているならば、より楽しめる。

 ただ、読んで何が得られるのか、と言われると・・・。楽しい時間ということでしょうか。