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2010年7月12日

辺境

田中宇
宝島社
お勧め指数 □□□■■ (3)

国際問題についてほとんど知らない。
その最大の理由は情報源が面白くないから。
べつにお笑いを求めているわけではないのだが、テレビにニュースは解説する側の意図が丸見えになっていて、どうもそれに寄り添う態度を取りたくないから見る気になれないでいる。

それが明確になるのは少し前の報道を見ればよい。
マスコミ(新聞・テレビ)の報道は一見分かりやすいが、しばらくたった後でニュース解説を見直すと、すごいバイアスがかかっていることがわかる。
報道されてしまえば、あとはどうでもいいという態度でニュースを作っているのが丸見えで、どうも信用が置けない。

ならばアカデミックな側はどうか。
これもまったく期待できない。
政府か新聞社のご用学者の言葉ほど、当てにならないものはない。
独自に取材して考察して結論を出すということは、国政情勢については不可能なのだから、それはそれで仕方がない。
彼らが悪いわけではないが、だからと言って信用できるわけではない。

そんなことをぼやっと感じていたときに、この人の発行するメールマガジンを目にした。
なかなか「よさげ」な解説をしてくれている。
この人のニュースソースはアメリカの新聞であり、彼の考察方法として数多くを目にする事でアメリカが何を考えているのか、世界情勢はどうなるのかを探ろうというものである。
その記事を読めば、ニュースソースも明記されているので、新聞よりは信頼が置けそうな気がする。

この本を読めば、現在の世界情勢の一つの見方を知る事ができる。
そう信じたい。
記事の書き方はそれなりにまとまっているし、少なくとも普通の人に聞かせるための配慮である「物語性」を入れてくれている。
だから、ぼくですら興味深く世界の紛争地帯について知る事ができたわけである。

読んだ直後は著者に対して好評価だった。
いい人を見つけた。
別の本も読んでみようというくらいに。
しかし、あるラジオ番組でこの人講演を聞いたのだが、まったく反対の印象を持った。
今では当てにするとろくでもないような気がして、情報源のリストからは外してしまった。

本の評価は本自体で行うのが筋である。
しかし、それだけだと不完全なんだと知った。ラジオの存在はとてもありがたい。
 

2010年5月14日

街場のアメリカ論

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

 吸い込まれるように本文を読みはじめ、途中で本を戻すことができなくなり、自宅に急ぎで帰って最後まで一気に読んでしまった。ちょっと立ち読みのつもりが、どうにも買わざるを得ないことになった。すでに単行本で一度読んでいるのに。ちょっとだけ自己嫌悪になった。

 内田樹さんの本の最大の特徴は、読む人がわかるように書いてあること。そんなこと、あたりまえでは全くない。ぼくも変だと思うが、何かを説明している本で、この素直な目的にそって創られているものをあまり見かけない。たいていのもは、読者に自分の凄さを納得させて、その知識格差から「おれは偉いんだ」とか「偉ぶらないけど、ぼくは実に良く知っている人なんだ」というメッセージを放っているだけだったりする。しかし内田樹さんの本にはそれが全くない。

 こういうのを読んで初めて「なるほど本はスゴイ発明だったのだ」と体感できる。

2010年4月25日

砂漠の修道院

山形孝夫
平凡社ライブラリー
お勧め指数 □□□□□ (5)

 砂漠の修道院。空想が広がっていく。砂漠だから暑くて水がなくて風が吹いていて、見わたす限り砂なんだろう。夜は寒いんだろう。生きていくための水が確保されれば、自給自足の生活ができればだが、生活はシンプルになるはずだ。そんな場所では欲望を持とうにもその対象がないし、そもそも修道院なんだから。きっと、思い煩うことが減って、生きていることを確認するだけの毎日になる。そんなことを考えて、ちょっぴりだが憧れる。

 今自分が生活しているところと全く別の環境には、まったく別の論理やまったく別の当たり前があるんだろう。奇妙に思えるような習慣があるとしても、それはその場所、その環境、その週間に根ざしているものだから、自分がそういう場所で生活すれば「なるほど、それは当たり前だ」と気づくはず。そして、今現在の自分の「当たり前」が実に奇妙に思えてくる。そんな心境の変化があるかもしれない。

 宗教とは関係なく、幸せな生活をしている人でも「違う自分」について思い浮かべることがあるだろう。中国には仙人がいたし、日本にだって岩山の上の修業場というものは存在していたし。要するに、砂漠に行きたいと思っている人は、何らかの意味で一端死に、そして、生まれ変わることを希望しているのかもしれない。ただし、死ぬ前後の記憶はすべて保持したままという条件つきなんだろうけど。

 砂漠のなかの修道院の生活がどういうものか、どんな人がどういう動機で修道士になるのか。この本はエッセイの形を借りた実地調査のメモ書きである。実際に取材したことが書かれている。コプト教を信じるエジプト人という、およそぼくには想像できない習慣や基準のなかで生きている人たちが語る修道士になった理由を読むに、日本人とたいして変わらない、想像できる範囲のものだなと思う。人って、同じように考えるものなんだなと実感した。

2009年10月22日

須賀敦子のフランス

稲葉 由紀子+稲葉 宏爾
河出書房新社
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 フランスに旅行に出掛けることにしたので、そのまえにこの本を読んでみた。ちょうど『ヴェネツィアの宿』を読んだ直後だったので、その本にあったフランス留学時代の話の引用がこの本に写真で紹介されていて、なんだかうれしくなった。そうか、こういうところに学生寮があったのか。パリにはこれから訪れるとはいえ、とても須賀敦子さんの足跡を訪ねることなどできないので、この本を読んで現地においてイメージを重ねて楽しむことにしよう。

 フランスというとパリが思い出され、おしゃれでファッションな街だと連想される。ところが実際歩いてみると、パリは楽しい街ではなく、むしろ最悪かもしれない。とくに中心部は車の騒音が非常に耳に付く。建物が道路を隙間なく囲んでいるから残響のせいかもしれない。ローマやロンドンはこんなにうるさくない。パリを歩くと心理的に疲弊する。だからフランスはパリを中心にイメージしないほうがいいんだろう。

 なるほど、この本の表紙は田園である。田舎の緑。ブドウ畑。そういう風景の方がよっぽどフランスらしいのかもしれない。国土の本土はこういう風景なのかもしれない。パリから三十分も電車にるとこんな風景に変わるのだ。建築はさておき、パリの喧騒などはお金をかければ中東にだってできるだろう。しかし、この畑は何処にでもできるわけではない。表紙と口絵の写真を眺めながらつくづく理解した。TGVの車窓で一番よかったのは、中仏から南仏にかけての畑だ。本当に山がない国なんだ。どこまでも畑という風景がことに美しかった。

 そんなことを思い返しながらこの本をしげしげ眺めると、なるほど上手に編まれた本だなと思い、旅行を思い出すのであった。

2009年9月 1日

中国 地球人類の難題

井沢元彦
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 井沢元彦さんの本はどの本も歴史に疎いぼくにすら「なるほど」を与えてくれる。歴史などろくに勉強しなかった人には貴重な学習の機会になるはずで、これまで読んだ日本史や宗教講座を扱ったもの以外にも読んでみたかった。歴史談義をするための歴史の知識などは普通の人にはどうでもいい。そんなことより日々のニュースを聞くときに補助線となってくれるような題材の本があるといい。ニュースキャスターの解説やら大学教授をはじめとした識者の発言は、なんでこんなに意味がないかあるいはピンボケの発言ばかり。発言者の「べきだ」論などどうでもよい。日々の生活には役に立たない。そんなものより、ニュースの構成するおおもと、つまりは地域や歴史、それらがどう変化し複雑化したのかを普通の人が把握しやすいように解説してくれる井沢元彦さんの本が読みたかったのだ。

 そういう期待で手にしたこの本のテーマは「中国」について。何やら敵対的な内容である。中立であろうとする知識人やある種の中国利権者からは白い目で見られる本であろう。もちろん普通の中国人から嫌われるのも間違いない。本書の主張は要するに、現代の中国にはいろいろな問題がある、ということ。出版された時期は北京オリンピック前。ボイコットするしないといったことは本書でもふれられているけれど、今となっては「ボイコットはなかった」ことがはっきりしていて、些細なことだがこの本に古さを感じさせているが、それ以外は別段古びていない。

 内容としては予想の範囲内である。要するに、今の中国の普通の人はどえらい苦労を背負わされているというもの。そのこと自体はいろいろなメディアでの報道とそう違いはない。住めば都と言われるが、中国で暮らす人もそうなんだろうか。家庭のレベルでは家は楽しいのだろうけど、社会や国というレベルになると必ずしも「良いことろだ」とは思っていないだろう。どんな人もそういう感覚はあるかもしれないから、程度の問題なのだろうけれど。

 なぜ井沢元彦さんは中国(政府?)について否定的な主張するのか。それはナチスに対してどう考えどう対応したらよいかという意味である。迷惑な隣人が出現し、その数が増え、やがて周りの国に災害をもたらすであろうということ。ナチスは過去のことで、しかもドイツ。その組織の発生、興隆、その結果は既に確定している。人類史に残る災いが生じた理由については多くの研究対象になっている。その成果を踏まえると、どうやら中国政府には危険なものを感じるということだ。そういう主張のようである。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。住んだこともないので、ぼくには判断しかねる。それに人によって判断はいろいろかわるだろうし。少し前の日本も結果的には似たようなところがあったし。

 政府レベルではろくでもないとしても、その構成員である普通の人の評価は別である。普通の人が寄り集まって組織をつくると、その結果できてくる政府にはいろんなタイプのものができる。構成員一人一人の性質ならば、人類はそれほど違わないだろうは思っている。個人としては、いい人もいれば悪い人もいるという、どの国でも同じことだろうと思うんだ。

 ただし、この本を読んでいて、やっぱり怖いなと思ったことがある。それは、すさまじい格差の問題である。

 中国製の商品は安い。質がいいものもあるし、悪いものもある。食品などは農薬などでリスクが大きい。ただし、そういう点はどの国も同じだったはずで、人々の認識はだいたい似たように発生し発展するはずなので、時間がたてば世界的な基準に収まってくるだろう。なので、中国製品に対する不安は時間が解決するはずである。

 なぜ中国の製品は安いのか。安全性への配慮が弱いからではない。人件費の安さである。職人技を期待しないならば、あるいは「工夫する」「我慢する」というような、製品を作るために必要なメンタリティーが必須でないような工場システムを作ることができれば、中国には大勢の人がいる。言葉の上ではうまく表現できないが、信じがたいくらいの人がいる。当然、農村部に多くの人がいる。大抵の国の人口よりは遥かに多い人々がいる。だから人件費という面で中国は世界で飛び抜けて安い。その安い実験費のために中国は経済発展している。

 ということは逆にいえば、人件費が高騰したら他の国と条件は変わらない。教育なり訓練なり、インフラなりによってコストは上昇する。中国がなぜ経済発展しているのか。はっきり言えば、中国には「奴隷」のような状況の人が数億人いるからだ、と考えるといいのかもしれない。なるほど、そりゃ、一人勝ちできるだろうけど、発展すればすると危険な状況に国が置かれるのは明らかだ。

 国全体が似たような状況にあった時代ならば問題はないだろう。ところが現在のように都市と農村との違いが過激になると、都市の人は農村の人を「奴隷」のように考えるのではないだろうか。自分たちとは違う人々、のような感覚を抱き始めるのではないかと思う。そりゃそうだろう、あまりにも生活が違い過ぎる。同じ国の人だといっても、上海の高層マンションに住んでいる人と農村部の人とでは「同じ中国人」などと思えるはずはないのではないか。日本がそうなっていないのは、バカみたいな金持ちは別として、大多数は似たような暮らしをしているからだろう。

 オリンピック前後で、中国国内の人々の身分ようなものが確定してしまったのではないかと漠然と想像する。中国としての行動が、中国人というが都市の人であり、それ以外の人は中国人ではないというものが都市部で膾炙されるようになったりしているのではいか。金持ちは貧乏人の姿をみようとはしないし、手を差し出すことはしない。国内の貧富の差による不満は国を揺るがすことになる。そんなことは世界史の教科書を読めば、どの時代のどの国にもあったと知ることができる。人の基本的な性質から起きる現象のはずだ。だから時間の問題。

 中国製品は安いなぁと単に思っていたけれど、その背後にある貧富差の拡大と実質的な奴隷制、そして大勢の崩壊という筋が見えているだけに、この本を読んでいてそら恐ろしい気分になった。何も他人の不幸を願うつもりないので、うまくやってれればそれに越したことはない。助けられるところは助ければいいだけだ。だから、この本のタイトルも「地球人類の難題」ということになっているのだろう。


2009年8月15日

ウィーン

森本哲郎
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 ハプスブルグについて調べる必要があり、これまで何冊か関連の本を読んでみたが、これといってしっくりきたものはなかった。かろうじて加藤雅彦さんの著作が気に入ったくらい。さてどうしようと試案していたら、そういえば自宅に森本哲郎さんの『ウィーン』があったっけと思い出し、まだ読んでない本がつまれているコーナーの下の方から引き抜いた。ウィーンという都市自体にさほど興味はないが、森本哲郎さんの著作だからということで以前購入した本だ。ウィーンはマルクス・アウレリウスが没した場所であるし、そもそも古代ローマがつくった都市。ローマ史にも関係しているし、ちょっと勉強してみるかという気分で本書をめくってみた。

 この本はウィーンの観光案内ではない。ショッピングや博物館、絵になる場所が記載されているわけではない。まったくの森本哲郎本である。街を歩きながら、この街の歴史と地理を題材に思索。哲学、心理学、そしてパプスルブルグと戦争と。どの部分を読んでも森本哲郎さんの本なので、見知らぬ街を歩いたような気分になってしまった。

 興味深い話があった。ウィーンの哲学者ヴィトゲンシュタインとアドルフヒットラーの対比。両者は同時代の人であり、同時期にこの街で生きていた。ヴィトゲンシュタインはこの街の資産家の生まれ、ヒットラーはウィーンに近いリンツ出身で、若い頃にウィーンに来ている。両者ともに世界に大きな影響を与えた。ヴィトゲンシュタインは哲学という分野において、ヒットラーは戦争という分野において。この両者と同列に扱った例が他にどの程度あるのか知らないが、普通の人が興味深く読み通せる文章ということならば森本哲郎さんくらいなものだろう。人の世の不思議を堪能できる一編である。

 この本には森本哲郎さんが撮影した街の風景がいくつか掲載されている。プロの写真ではないが、森本哲郎さんの目からみたウィーンをぼくも見ることができる。印象深いのはウィーンのカフェ。広々とした店内にきちっとした身なりの給仕さんが立ち働いている。なるほどこれがウィーンの雰囲気なのか。この本の思索はこういう店内でコーヒーを飲みながら、タバコをくゆらせながら生まれたものなのか。森本哲郎さんの頭には歴史も哲学も文学も入っている。ぼくもこんな場所で思索してみたいなぁと思う。作家の恩田陸さんもそういう期待を持って南米を回ったみたが、全くダメだったみたいだ。当然僕も無理だろう。とはいえ、無理だとわかっていても、いつかそんなことができればいい。今からでもいいから勉強しているのである。中年になったぼくの夢は、あと十年したら森本哲郎さんのような思索が街の喫茶店できるようになること。そうなればお金はあろうがなかろうが一生楽しんでいけるはずだ。

 まだ何冊か読んでいない森本本がある。大事に読んでいこう。


2009年4月21日

自分の中に歴史を読む

阿部謹也
ちくま文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 立派な学者さんの自伝というか、研究へと入っていた道のりを普通の人に、多分高校生くらい、向けた本を読んだ。戦前までの学問の世界は、立派な人たちが行っていたのだなと意外に思った。
 例えば、著者が20歳のとき、卒業論文のテーマについて指導担当教官の自宅!へ相談に行った時の話である。いまならば学内で見かけたら声をかけるか、教授室へ行くか、あるいは電子メールを使う。学生から見れば、どの程度偉い人なのかなど関係なく、教授は教授である。質問したら答えてくれる人、という認識だろう。ぼくはそうだった。ところが、相談は教授の家に行くのである。また、そのための連絡は葉書で書く!! びっくりする。偉い先生は自宅で会議などをしていることがあるらしく、著者が相談に行った時もそうだった。
 そこで、一つエピソードがある。学生として先生の家へ行ったっときに、先生は他の大学の教授達と会議をしていた。そのとき、部屋の隅で会議が終了するまで待っていることになったが、同席していた教授にみな挨拶をしたそうだ。偉い先生方が一人一人、東大の何とかです、といいながら。ずいぶんと謙虚なのだと感心する場面である。著者は、偉い先生は学生にたいしてもきちっと接すると感動している。学問に対する態度もみな真摯な態度である。本当にそうだったのだろうかと疑ってしまうが、そうだったのだろう。ぼくの時代から大分ちがうものになってきたのだろう。

 著者の態度でとても感銘を受けたことがある。それは、「わかる」とはどういうことか。これを正面から考え、格闘している。それを研究にまで高めている。そうそう、それこそが学問だよねと、読みながら頷いた。人によって「わかる」の定義は微妙にことなるようで、著者の先生は「変わるとは、自分がかわることだ」と言っている。著者は、「中世ヨーロッパがわかるとはどういうことか」をずっと考え続けていた。何をしていいのかをそこから考えているのだから、数ヶ月活動を続けても結果はできない。まったくもって、感心する。そうだよそう、と言いたくなる。ぼくだって、今のぼくだってそれと格闘しているのだから。著者は立派な先生であり、ぼくとは大分違うのだけど、それでも学生時代の態度にとても親近感をもってしまう。
 自分のなかに歴史を読む、というタイトルの本であるが、それは自分の来し方を眺めていることだ。著者についてほとんどしらないが、中世ヨーロッパの研究について、著者がどういうとかかかりをしたのか、どうやってテーマを見出し、それにのめり込んでいったのかを、歴史として語ってみたのがこの本なのだ。自伝というものは大抵「自分が以下にスマートにやってきた、偉い人なのか」をそれとなく、あるいは大々的に協調する物が多い。もう、うんざりするものも結構見陰るが、こういう自伝を読むとほっとする。偉い先生にも、立派な人がいるんだと安心する。そうでもないと、なにが学問だと言いたくなってしまう。
 研究というのは、自分に対してなぜと問い、自分が自分を完全になっとくさせようとあれこれ手を尽くすことが基本になる。研究テーマとうものは、かならずしも最初からパッケージとして存在するものではなく、あれこれ何でいているときに、ふとしたことが目に入り、それを糸口に発展させながら、気づくとすでに研究の中にいる。自分の前に研究はなく、自分の後に研究がある、というような行動の結果として定義でそうなものである。もちろん、オリジナルが大事だとか、他の人の研究成果を踏まえるとか、そういう手順があるのは確かだが、そんな面倒なことをやる最大の理由は、自分がこころから疑問に思ったことを自分に教える過程なんだということだ。

 理系、文系という区切りがフレームワークとしてすでに頭に存在し、理系できたぼくには文系のやることの意味がよく理解できないできた。それって、学問なの?研究なの?という思いが常にあった。しかし、学問のそもそもの動機が、自分が抱いた疑問だということであり、それに答えを見つけようとする行為が研究であるとするならば、文系も理系もないだろう。そこには「なるほど」を求めて活動する人がいるだけである。そして、それはかならずしも生き死にに関係しない、平和で幸せな生活の一つの形なんだろう。

2009年4月14日

ロシア・ショック

大前研一
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 bk1.co.jp

 ひさびさに政治経済の本を読んで感動してしまった。ロシアについての本だったのだが、読んでいる最中からプーチンは古代ローマのトラヤヌスような人なんじゃないかという思いが離れなかった。賢帝のトップバッター。怖い顔をしているために、元KBGだとか独裁とか、そういうイメージと結びやすい。プーチンが大統領ということは怖い国なんだろうなぁとこれまでロシアのニュースを見ていたけれど、ぼくは本当のアホだったと思う。プーチンはやるべきとを全部やってロシアを立て直した凄い政治家なんだ。きれい事だとかみんなの意見を聴いてだとか、そういうおかしなことを主張する人手は無い。とても現実的な人だ。どん底にあるロシアを建て直すためには、ときには軍事的なことも必要だし、外交も必要だし、国内政策も必要だし、ということでおよそ考えられる全てのことを処理してきた。そして、今のロシアがある。司馬遼太郎が描いた時期のロシアでもないし、冷静時代のロシアでもない。現在のロシアは、資源として石油と天然ガスがあり、産業も高度なものがあり、人々の教育水準は高く、開発されていない場所も歴史のある場所もある。これ以上ないくらい今後が期待できる国ととして存在している。もちろん、過去の遺物はマフィアやだの汚職役人だのが存在しているという事実はあるにせよ、税制などの工夫し、軍をうまく使うことで8年でどん底から国をピカピカに磨いてしまったプーチンはすごい。
 ただそういうロシア像はプーチンのなし得たことなどについて、日本のマスコミを見ている限りわからない。この本ならば200ページ程度で概観できてしまう。さすがに大前研一さんだ。
 プーチンのなしたことをいちいち孫引きしても仕方ないので、結論だけいうと、彼は古代ギリシャのペリクレスであり、古代ローマのトラヤヌスのような人なんだろう。そうぼくは眺めることにした。歴史上、賢人がリーダになって「良い」と思われる社会を作り上げた人は何人もいる。軍人だから絶対にダメということはない。ただ、人であるかぎり賢い人は少ない。軍人にだって当てはまる。だから、賢い軍人が政治を担ったら、暮らしやすい社会が実現するのだが、そんな人はめったにいない、ということだ。
 政治がで国をよくしてくれた人など、ぼくが知り得る限りにおいていないし、ぼくが生きている間にはでてこないだろう。明治くらいまではいた「らしい」が、過去ならば、いろんな解釈が成立するだろうから、よいと言われた人がどの程度良かったのかはわからない。
 ところがプーチンのなしたことを知って、賢人な政治家というものが存在し得るのだと、理論上明白なことだったが、それを信じることができるようになった。うあぁ、いるんだ、凄い人が国のリーダになるということがあるんだ、という感想である。数世紀経つと歴史上の重要人物になるであろうプーチンをぼくは同時代の人として見ることができる。なるほど、ペリクレスは評判が悪かったという意見もあったのだろうことは現在の報道を見ていればわかる。しかし、そういう判断はたいていその場の感情や自分だけが偉いと思っている学者のものである。歴史の中で現在を捕らえている人には、ちゃんと現在に賢人を見出すことができるのだ。歴史を知るって大切だ。古代も中世も近代も、そして現代史も。

 試験にあまりでないからという理由で敬遠される近代現代の歴史を知っている人は少ないだろう。日本の社会人では皆無なんだろうと思う。だからロシアといえば、未だにソ連と変わらないと思っているかもしれないし、コメントすることとしては北方四島返還しか思いつかない。それが日本人の現状だろう。その理由はマスコミはそれしか放送しないからだと思う。あるいは、司馬遼太郎は日露戦争までを書いてくれたけど、近代の日本、現代の日本についてはあまり書いてくれなかったからかもしれない。佐藤優さんの本を何冊も読んだが、この本にあった視点でロシアを解説したものは無かったかと思う。佐藤優さんは博識であり、ロシアの政治の現場で生きてきた人だから、発言内容の信憑性は高い。しかし、経済という視点の解説は少ない。そもそも、思想史や宗教という観点んからロシアを見るのが仕事であり、好きなのだと思うで、ファシストがどうのこうのという貝瀬牛か書かないのは鵜名付けるが、それでは見えないものがお起き過ぎる気がする。

 日本の未来について、明るい出来事を想像することはぼくはできない。過去のどの時代よりも現代が物理的に生きやすいのは間違いがない。バカみたいにエネルギーが使える時代なんだから当たり前だ。物質的には幸せな生活があるにもかからず、未来については蔵予想しか浮かばない。それは、賢いなぁという行動をとる人が政治家に現れないからだ。いわゆるニュース番組は報道については、解説されるほうも解説する方も、バカに見えて仕方ない。どいつもこいつも、自分の仕事としていることについて、なぜ真摯に現実を見て、足りないところを勉強しようとしないのだろうか。不思議であるし、呆れてしまうこともある。ぼくがみる社会像は、マスコミがつくった風景でしかないから勘違いかもしれない。そうだとしても、役人だろうが政治家だろうが、なんで普通の人がいないんだろうと不思議に思う。だから、この生活が数十年続くとは思えないのだ。
 
 大前研一さんの本(この本やこれ以前の出版された本)を読むと、日本にもいろんなチャンスが転がっているのだなとつくづく感心する。これでもか、これでもかと日本という国が浮上するきっかけを世界中が与えてくれている。それなのに、マスコミも政治家も、そんなことを考えようともせず、「自分はいかに偉いのか」を主張しているだけである。もったいと思う。逆にいえば、「自分が偉い」ことを周りにわからせたいということが動機ではない人がリーダになれば、あっとういう間に国のレベルでよくなることがおきるかもしれないなとも思う。
 これに気づくと、なるほど国の少し先の姿は、偶然に左右されたものはなく、間違いなく今の人のなした結果なのだとわかる。今の日本でぼくはとても良い生活をさせてもらっている。しかし、ぼくらの世代のやった結果は少し先の日本として現れ、それは間違いなくぼろぼろなものだろう。一人ではどうにもできないし、ぼくには考察力も発言力もないから、その方向を止めることは出来ないだろう。

2009年3月17日

さらばアメリカ

大前研一
小学館
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 なんでまたここでアメリカ論など出版するんだろう。そう思って手に取った。
 読んだところ、なんだか勢いがある。書き下ろし部分はほぼ一気に書き上げたのではないだろうか。何かの雑誌記事をまとめたというよりも、どうしても言っておきたかったことを書いたように思える。大前研一さんだからなのか、ですらなのか、ブッシュのアメリカやAIGのボーナス持ち逃げのようなアメリカが許せないのだろう。大前研一さんの目から見ても、今のアメリカはそうとうおかしなものになっているようだ。
 とはいえ、記述方法はいつもの分析と考察という論理思考をつかったアウトプットで、ある種の見本のようなものである。一般向けの本だから、内容は平易な語彙でとどまるようにしてあり、概念からして複雑な説明が必要になるようなものは記載していない。なんとしてでも日本の普通の人に聴いてもらいかったことが書かれているのだろう。本格的な主張は英語で書くはずだ。
 ただし、ごく普通の人がこの本を読んだとしても、どんな行動がおこせるのかといえば、それはほとんどないだろう。著者も行動などを期待していないのだろうし。なんとういか、ある種のアメリカに対する祈りのようなものだろう。

2007年6月20日

自壊する帝国

佐藤優 新潮社 1600円

国が滅びるときは帝政末期のローマのようだ。
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ニュースを見て愉快に感じる外務省関係の報道は全くない。一市民の大衆から見て「うまい事やるなぁ」という仕事の面の意味での評価ではなく、ろくでもない役人気質がらみの事件への感想があるだけだ。要するに「なんでこんなやつら必要なんだろうか」というごく不通の市民がもつ感想である。

 しかし、佐藤優だけが飛び抜けているのかどうかはわからないが、この本に書かれている行動が「外交官の仕事」であるとすれば、なるほどたいした仕事であり外務省の本来の仕事内容を多いに尊敬してしまう。司馬遼太郎の明治初期のマリア・ルーズ号事件の際の日本の外務卿であった副島種臣の話をどこかで聞いたことがある。私のもつ「外交官」とはかくあるものだ。でも実際の外務省の人は、報道されているように、官房機密費で馬を買ったり高級レストランで毎日昼飯を食べたりすることが目的なんだろう。平然と使途不明金を使ってもバレる仕組みがなければ人はダメな方向へ落ちていくに決まっている。なぜ、機密費なんてものがあるのか、その歯止めとなる仕組みないのだろうかと訝るのもごく不通の市民がもつ疑問である。

 外交官の仕事がこの本にある佐藤優のとった行動を指し示すならば、なるほど経費というか機密費というものが外交にといって必須であることが理解できる。決済書にいちいち理由を残せないものある。だから、機密として組織長が決裁する仕組みが必要なのだ。外交官の仕事はつまるところ「交渉」であり、そのための「情報獲得」と「現状分析(見立て?)」と「戦略・戦術立案」および「実行」が実務である。そして、その対象は全て「人」である。人から物を聞き出すには相手に合わせる必要がある。情報持っている人が地位のある人ならばそれ相応に会う場所で交渉や下相談をする必要がある。そもそも、交渉以前に仲良くなり、信頼関係を築く必要がある。ちょっと考えれば、実に気が遠くなる話だ。それにはかなりの額の費用がかかる。仮に地位がない人でであっても、その人が有力な情報源ならば資金的な意味を含めての援助をする必要がある。金がなくては話の発端も作れない。要するに、相手が自分を金銭的な意味も含めて、人がもつ知識や思想などを信頼してもらえるように行動することが仕事のキーポイントになる。費用捻出もそうだが、そもそも「人」に興味がある人でないと勤まらないだろう。「自分がどう扱われるか」にしか興味がない人にはそもそも無理なのだ。試験上がりの人では不可能な仕事ということだ。

 西洋社会では「キリスト教」についての理解がどれだけあるかで、どれだけ社会の中に溶け込めるか決まる。宗教が忌避されていたソ連であってもそうだったようだ。佐藤優は同志社で神学を修めている。それだけでも西洋社会の内部へ入るパスポートをもっているようなもので、逸材だろう。また、本人の動機も継続して神学的な研究をしたいことにあるから、現地でも行動が積極的になる。東大では外国事情を、モスクワ大学では宗教について教鞭をとっていたくらいのレベルで見識がある。それだけでも食べていける能力がある。余談だが、そういう能力は公共の仕事の上層部に付くための条件にしたほうがいいのだろう。でないと、天下りのことを30代から考えるような人しか役所にいなくなるわけだから。

 もっとも、この本は「主催者側発表」であることを忘れてはいけない。いたるところに「薮の中」がある。あるいは、自分の希望が現実と沿うような記述や解釈があるはずだ。その可能性は割り引く必要がある。しかし、そうはっていってもこの本は「外交とは、ロシアとは、国が崩壊するときとは」について考えるのによい教材である。普通の人である私はこの本で十分満足だ。佐藤優のような外交官がもっと出て欲しいですよ、ほんと。

2007年6月10日

世界のイスラムジョーク集

早坂隆
中公文庫 629円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 イスラム教の人たちの間で知られているジョークをもとに、イスラム社会の生活、習慣、風土、政治について解説している。ちょっとした教養番組とクイズ番組とバラエティー番組のような感じがする。岩波新書のような堅苦しさはなく、かといって最近いろいろ出版されちている新書のような内容の薄さも感じられない。イスラムについて知らないであろう知識、出来事について読むにはよい。

 イスラムのジョークには明るく面白いもの、宗教的な敵対を感じさせるもの、近隣の国にたいする毒をもっているものがある。これらはどこの国にもあるので、ジョークはどこの国の人にも通用する。立ち読みの段階でクスッと笑ってしまったくらいである。面白さを追求するジョークを引用するとネタバレに近い効果があるかもしれないので、ちょっと別のものを引用してみる。

◎それぞれのやり方  モスクでの礼拝を終えたイスラムの僧侶が道を歩いていると、一人の男が倒れていた。男はカトリックの神父であった。イスラムの僧侶は手を差し伸べ、肩を貸して病院まで連れて行こうとした。神父は言った。
 「どうもありがとうございます。我々は方法は違っても、言わば神に仕えるもの同士ですからね」  それを聞いた僧侶はうなずいて言った。
 「そうですね。あなたはあなたのやりかたで。私は神のやり方で」

 一瞬、いい話じゃないかと思う。キリスト教もイスラム教も媒介者が違うだけ同じ神を崇拝している。聖書といわれている書物のグループ分けが違うだけで、同じ人物、天使が聖書にもコーランにも登場する。仏教から見れば、細かい事を気にしなければ要するに同じじゃなか。そういえる。東京と大阪は全く違うと主張しあうけど、中東諸国からみたら同じですよ。日本と韓国も同じにみえるでしょう。同一か同種類か、どちらの意味において議論しているのによって評価は変わっていく。

 引用したお話は「ジョーク」なのだろうだが、正直最後の一文のニュアンスがわからない。イスラムの僧侶は、キリスト教のやり方は「神のやり方」ではないと言っている。神は一つだからその礼拝のやり方も一つ。ならば、キリスト教のやりかたは「あなたのやりかた」であって「間違っているよ」ということである。しかし、敵としては見ていない。

 彼らに共通の敵ができれば、つまり、そもそも絶対神などはなっから認めない人たちが彼らの前に現れ、それが彼らの生活に強烈に強い影響力をおぼし始めたら、諍いはなくなるような気がする。とはいえ、世の中そんなに単純じゃないだろうけど。とまぁ、そんなことを考えるとっかかりとしては良い本です。