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2014年1月13日

ポエムに万歳!

小田嶋隆
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)

論旨がはっきりしない、メッセージを言葉にしきれていない、あるいはそもそもメッセージなんてなく感情につりあうような単語を並べているだけの言葉をブログや広告で見かけることがある。
気になって「これはいったい何をいっているのか」と考えると途端に「無意味だ」とわかる。
そういう言葉を「ポエム」と呼び、歌詞や詩集に収められている「詩」とは区別したほうがよい。
そういう趣旨のエッセイをまとめた本だった。

講演会などで小田嶋さんの話を聴くことがある。
講演では話題に対する「ちゃちゃ」が多すぎて内容がなくなってしまうシーンが多々あるのだが、さすがに本でそれをやるわけにはいかず、論旨だけが述べられている。
小田嶋さんの話は講演だろうが本だろうが「社会、物事の嫌な側面」の指摘が多い。
だから読んででさっぱりすることはなく、むしろ休日に読むと気分が落ち込む。
それが理由で講演会などではちゃちゃをいれて、聴衆の気分をチアアップしているのかもしれない。
この本を読んでいてそう気がついた。

ただ、ここで読んだような内容を酒の席で人に話したりするのは気をつけたほうがいいだろう、と思う。
自分が知っていればいい話だから。
人に、ねぇねぇ、と言って教えるような話ではない。
内容はマスコミ報道に対する身構えのようなものだし、それを身に付けて情報をうまくフィルタすることができればこの本を読んだ意味はあるのだし。
だいたい、ちゃちゃをいれないでこの本の扱う内容をひとと話しても愉快ではないだろう。

いい本だけど、休日にゆっくり読む本ではないかな。

2014年1月 2日

村上ラヂオ2

村上春樹+大橋歩
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

書店で平積みされているのでつい手にしたが、単行本は読んだはずなので無駄な買い物なんだけど、立ち見でちらちら見ているうちにその内容をすっかり忘れていることに気づき、買ってみた。

この本で著者である村上さんも「あまり意味が無い内容」と言っているように、ほんと意味が無い内容でした。
気軽に読めるエッセイに「人生の意義」のようなテーマを求めるのは間違っているのは重々承知してますが、村上小説でのテーマにあるようなことを日常生活での出来事を題材にしたエッセイに求めるのは、やはり間違ってますね。
「どんなことが書かてているのですか?」と聞かれても、どうということはない話、「いってみればカフェでのヨモヤマ話ですね」と答えるよりない。

それでもご飯ができるまでの間、食卓テーブルに座ってビールなりワインなりをちびちびやりながら読むには「最高ーの友!」と断言できます。
その目的ならば買って損なし。
実際、週末の晩御飯を待つときの楽しみでした、この本とビール。
でも正月生活だと毎日そんな機会が多かったので、「数日で読んちゃったよ、あーぁ」です。

で、このエッセイにはどんな効能があるのか?
うん、そうだ、「NHKで放送している『世界ネコ歩き』を見るのに近い気分になれます」が正しい。
あれ、効能とか勉強になるとか求めないですよね。
それと同じエッセイですね、これ。

また、買ってこよーっと。

2012年7月16日

街場の文体論




内田樹

ミシマ社

お勧め指数 □□□□□ (5)


こういう授業を受けられた学生さんはうらやましいですね。
自分にはあり得なかった。
それでも、この本を読めたことが、僕の人生もまんざらではないと言えます。
特に好きな部分の引用します。

 受験勉強は同学年齢集団内部での相対的な優劣を競うものです。問題は、そうであるかぎり、自分が高い評点をもらうことと、競争相手が低い評点をもらうことは同義になるということです。競争相手が愚鈍であるほど自己利益が増大する。受験はそういうふうに精度設計されている。だから、受験勉強の勝者になるということを知的達成のモデルに擬した人は、いつのまにか、自分以外のすべての人ができるだけ愚鈍かつ怠惰であることを無意識のうちに願うようになる。学会での論争をみていると、それが集団的な知のレベルを上げるためになされているのか、目の前にいる人の知性の活動を停滞させるためになされているのか、わからなくなるときがあります。論争相手を怒鳴りつけたり、脅したり、冷笑したりする人は、彼らを含む集団の集合的な知性を高めることをほんとうにぜざしているのか。

 学知というのは本来集団的な営為です。厳しい山に登るときに、そこに登り、道を切り拓くような仕事です。前人未踏の山に登って、頂を究めた人は、後から続くために地図を作ります。分かれ道には標識を建て、足場が悪いところには階段をつけ、非難小屋を建ておいたりする。名も知らぬ先人がそういうふうに切り拓いてくれたおかげで、あとから来た人は、そこまでの身体能力がなくても、山頂に立つことができる。

 学問というのは、そういう物だと僕は思っています。その専門分野でも、先駆者は前人未踏の地に踏み込んで、道を切り拓き、道標を立て、階段を刻み、危険な箇所に鎖を通して、あとから来る人が安全に、道を間違えずに進めるように配慮する。そのような気づかいの集積が専門領域での集合的な叡智をかたちづくる。だから、どの領域でも、フロントラインに立つ人の責務は「道なき道に分け入る」ことだと思うんです。

 でも、査定され、それに見合う報酬を求める人たちは「道なき道」を好みません。「道がある道」にしか行きたがらない。すでにたくさん人が通った道。道がどういう歩き方をしたとか、一日に何キロ踏破したとか、何キロ荷物を担いで歩いたとか、そいういう相対的な優劣が数値的に査定可能なところを選好する。そういしないと、自分の登山家としての能力の高さをアピールできないと思っている。

なんだから今の職場ではらわたが煮えくり返った記憶がよみがえります。本当に、嫌なやつって、ここで言及される受験勉強の勝者にそういう人って多いんですよね。

でも、一方で、せっせと後の人のために階段を切ったり、鎖をつけたりすることって、報われないし、それが報われそうになると先の受験勉強の勝者がやってきて「俺がやったんだぜ」と言い出したりするんですよ。

まぁ、でも、僕は周りの人の理解を全く捨てることで、険しい道がさらに険しくなりましたが、間違ったことをやっていないと思うことで、少し息をつきました。

さぁ、がんばろうっと。


でも、

2012年4月24日

ニュースキャスター

大越健介
文春新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

NW9は、ぼくがみる数少ないニュース番組で、内容についてもNHKであるということを考慮しつつも、かなり信用している。
もちろん、原発報道については相当「放送しない」と思っているし、セレクションも保守的である。
それでも、民法よりにいいかなとは思っている。

ニュース報道については、キャスターがどのくらい信用できそうかで見るかどうかを決めている。
人を見る目など大していないし、テレビにすっかりとだまされてしまうこともあろう。
が、それでも一応話を聞いてみて決めている。

ふっとした一言などを丹念にみていえば、やらせや出来レースのようなことを報道することを何とも思っていないのかどうかくらいはわかる(はずだ・・・)。
たとえばNHK解説員の水野さんは、嘘を言う必要があるときはネクタイがおかしい、とか。

震災以後わりと頻繁に見るようになったニュースソースはNW9だから、これも何かの縁だろうと本書を手にしたわけだ。
が、なんと、半分は「ブログ」の再編集した新書だった。
NHKのサイトに書かれる文章だから、だいぶ丸まった主張が述べられてしまうのは仕方ない。
その分面白未がかけるので、まとまって読むには少しつらい。

ただ、前半半分は書き下ろしであり、その文章はわりと面白い。
ページ数を稼ぐ尋常手段として、どうしても自分の来歴を語ってしまうことになってしまうのは仕方がない。

ニュースとは別の観点からのニュースについてを語ってもらいたいなぁと思った。


2011年11月 7日

ためらいのリアル医療倫理

岩田健太郎
技術評論社
お勧め指数 □□□□■ (4)

著者である岩田健太郎さんは、大の内田樹さんファンである。
この本を読めば、冒頭の一行でそれがわかる。
いや、タイトルだけでもそれが察知されるべきだろう。

内田樹さんのファンではあるが、岩田健太郎さん自身が立派な先生である。
感染症の医師として活躍されている。
日本を代表する、といってもいいのかもしれない(いや、ぼくは素人なので全くわからないが)。

そういう人がどういう本を書いたのか。
これまでの著作とテーマとしてなにが違うのか。

主張されていることは、簡単にいえば、物事に威張って白黒つけるなよ、ということだ。

あれはAです、これはBです。
あるいはこれは良いが、あれは悪い。

はっきりと区分けをすること、もっといえば、白かでなければ黒かという判断を物事に下すことについて、もっと「ためらった」ほうがいいんじゃないですか、という提案である。

物事には白か黒かで分けることができないことが多い。

一般論では皆さん理解されるだろう。
その論の対象が具体的に設定されていないのならば、それに誰も異論は持たない。

しかし一度具体的な問題が起きると、誰が悪い、何が間違っているという話が持ち上がる。
グレーゾーンはすでに犯罪だろう、みたいなトーンの報道がなされる。

発生した問題が白か黒かに分類されることを誰もが心理的に要求し、それがなされるまでは「曖昧に処理された」という気分になれない。


それは病院の中でも、医療行為のなかでも同じであるようだ。

しかし、医療で白か黒かにきれいに別れることなどないようだ。
どっちかに区別することだけで済む話なんて、どの分野でもないのかもしれない。

仮にそうするならば、もっと後ろめたさを持って、つまり「本当は断定できないよなぁ、わからないよなぁ」ということを自覚した上で判断するべきだ。

そういう主張である。


医療関係者ではないぼくには、まぁそうなんだろう、と頷くよりない。
とはいえ、著者が主張されていることは、テレビドラマや小説、あるいはドキュメンタリーの延長線上の想像の上で判断するよりない。

幸いなことに医療にお世話になるのは「歯医者」くらいである。
この場合は虫歯だから削る、程度の判断しかないだろう。
そして、どうしたらいいのか、なんて状況にはあったことがない。
だから、実感をもってそう岩田さんの主張に頷けるわけではない。


人がやること、もっといえば、なんかよくわからないことに対しての態度というものは、似たようなものがあるのだろう。
だから、著者の気分はわかる。
そして、その判断を「もっともなことだ」として頷くこともできる。

というか、著者が内田樹さんファンということで、信用できてしまう。

2011年10月29日

うほほいシネマクラブ

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

なに?と思うくらい厚い新書。
400ページ近い。
値段は1000円だから、通常のものより300円くらい高いし。

映画評論ということで、映画一作一作について力説されているのかと思って最初はひるんだ。
というのは、ぼくは映画を見ない人だから。
成瀬や木下あたりの日本映画を最近すこし見るようになった程度で、外国映画は皆目ダメだ。
俳優さんの名前を聞いても、まったくピンと来ない。
そういう人が映画評を読んでも面白いわけがないだろうし。

とはいえ内田樹さんの本をぼくは全部読むことにしている。
それに久々の内田先生の新刊でもあるので、一気読みしてみた。

以前、映画分析についての内田樹さんの本を読んだが、これがさっぱりとピンとこなかった。
映画の構造分析:http://www.significa.jp/scienza/books/2008/09/post_538.html
このシーンは何かを暗示しているとか、映像的や意味や背景の哲学的な解釈が書かれた本だった。
ちっともおもしろと感じなかった。

ところがこの本はそれとは違う。
映画を見た人と語るような内容ではなく、これから映画を見るように仕向ける記事が元になっているからだ。
雑誌の映画欄に載せる記事だったから、基本は「見に行くことを鼓舞する」こと。

これなら映画を見ていないぼくにも読める。
そう思って流し読みをした。
読めるけど、だからといって「映画を見たいなぁ」とは思わなかったのだが。

後半はブログを立ち上げた当初に書いていた映画評になっている。
今のように有名になる前、知り合い向けに書かれたブログだったようだ。
文字数も少なく、ラインナップも場当たり的。

そりゃそうだ、言ってみれば映画メモであり、ちょうどのぼくの本読みブログのこれと同じようなものだから。
とはいえ、このブログとは違って第三者が読んでも問題ないようにはなっているのだが。
内田先生のブログにもこういう時代があったのだなぁとという感想を持った。

2011年9月 4日

運に選べる人、選ばれない人

桜井章一
講談社+アルファ文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

何かを感じる。
結局はその大切を語っている。
エピソードのとりかたなど、以前読んだ本と同じものがある。

運という用語にはツキが含まれているはずだが、長期にわたってその人によい影響を与える環境を運と読んでいるようである。

ただ、常人がそのまま取り入れ可能なものは少ない気がする。
ましては「すぐに」効果があるものもないだろう。
この本を読んだら何かが変わるということはない。
むしろ、何かを急激に変えない方法のような気もする。
説明するのが難しい・・・。

2011年6月25日

ほんとうの復興

池田清彦+養老孟司
新潮社
お勧め指数 □□□□□ (5)

2011年6月22日

ウィキリークス以後の日本

上杉隆
光文社新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

ウィキリークスの記事が読みたいからBBCやインデペンデント、ガーディアンといった英国の新聞記事をウェッブやキンドールで読んでいた。
日本の報道の「異常さ」にはそのときに気がついた。
ただ、震災の報道となると、日本の新聞社の記事をフィルタして知るよりなかったのだが。

2011年5月15日

大津波と原発

内田樹+中沢新一+平川克美
朝日新聞出版
お勧め指数 □□□□■ (4)

ラジオデイズで録音を購入しようかと思っていたのだけど、どうも気が進まなかった。
今回、鼎談を文字で起こして出版されたものが800円しないで書店にあったので、早速購入し読んでみた。

なんだかわからない違和感を感じた。

内田樹さんの著作はだいたい読んでいるし、そのうち何冊かは何度も読んでいる。
とても参考になり勉強になったと思っていたし、ぼくが参加できる内田さんの講演があるときには新幹線で関西まで往復の乗車賃をかけてまで聴きに行っていたくらいに、ぼくは熱心な(タツラー)読者だった。

しかし、震災以後の内田さんのコメントやブログに違和感を感じ、結局途中から読まなくなってしまった。
というのは、東京に足して「ざまざみろ」てきなところが見え隠れしていたから。
さらに、原発についての「煽り」はその後ますます盛んになり、辟易していた。

なるほど一人の人間全体を長期にわたって尊敬することは、それは大変難しいということなんだ。

この本を読んでみたが、内容に反対をする気にはならなかった。
この本にある見方をする人がいても、それでいいのかもしれない。
面白いし。

しかし、原発の問題についての発言は、かなり的を外しているように感じている。
原発の問題は、要するに津波でバックアップまでやられたということ。
なんで海岸側に電源系があるのだとか、外部電源が喪失したのだとか、GEの設備が要求する電圧に適合する電源車がなかったのだとか、そういうことで事態は悪化したのは事実だ。
しかし、そこをあげつらうことは意味があることだろうか。
「なぜ、電源がなかったのか」と、批判して何になるのか。

それらは全部後知恵だろう、として一括できてしまう話である。
そういった不備をもとに、いかなることでも正論として言えてしまう。
なにせ現在のような原発の状態になったのだから、エンジニアが何を言っても負けである。

問題が「浮かび上がったあと」での追求を議論するのは、まぁ文系の人にやっておいてもらえばいいし、それを防ぐことなどできない。
だが、それは原発の問題ではなく、ある種の腹いせでしかない。

何はさておき東電の現場の作業者の活動を優先させるべきだ。
これは変わらないし、今でもそしてこれからも必要だと思っている。

それを第二次世界大戦中の「兵隊さんが頑張っているのに」的な批判と重ねて彼らが非難するのは、ぼくは的外れだと思う。
戦争は原理的に止められるし、あるいは負ければ終わる。
人の問題であり、要するにケンカでしかない。

しかし、原発事故は物理過程であって、人の意志やお金で事態が収束するという道はない。
今の原発問題については、もうあらゆる人事的には批判は事態収束のためにはナンセンスなのだと思っている。

彼らの鼎談内容もその提案も、なんか「現実に何かをするひと」の発想ではない。
学者や物書きの発想である。
それはそれで文化的でよろしいとは思うが、すくなくとも政府で実施する内容とは違うだろう。

そういう違和感を彼らに対して再確認した。
彼らは現実の話をしており参考になるように思える。
しかし現実があまりにも切迫している段階では、意味を持たない主張でしかないように感じた。

なんか、とても残念だ。

2010年12月17日

僕はいかにして指揮者になったのか

新潮文庫
佐渡裕
お勧め指数 □□□□□ (5)

指揮者の話といえば、ずいぶんと昔に読んだ小沢征爾さんの『ボクの音楽武者修行』のことを思い出すことしかできないでいる。
そもそもクラシックファンではないのだから、それでも思い出せるものがあるだけよいだろう。

書店で見かけたから。
それが動機で本を買うことは少なくない。
この本もそうで、新潮文庫の棚に平積みされていた。
最近書いたのかなと思い手にしたが、ずいぶんと昔に書かれたもののようで、もう15年も前に出版されいている。
音楽を専門にしていた人なのに、なかなかどうして小気味よい文章。
立ち読みしていたらそのまま引っ張られてしまった。
普通の人でも十分と楽しめるものだった。

若い頃に業績を得た人は「おれはスゴイ」という主張をいろんな形でするもので、それが場合によっては嫌みになり、人格にアクを付けしまうものである。
しかし、この人の場合は違う。
もっとも謙遜しているわけではなく、むしろぼくは才能を見出された人だと言い切っている。
不思議とそこに嫌みを感じない。
なぜなんだろう。

そう思いながら読んでいて思ったこと。
それは、自分の才能を認めることと、他人を見下すことがセットになっていないことが原因だろう。
つまり、みんなにクラシック演奏の良さを知ってもらえたいし、そいうものを自分も多く体感したいということが行動や発言の先頭にあり、それで終わっているからだろう。
人々は自分がけなされるのでなければ、また、他人がけなされるのを見る心配がなければ安心して着いて行く。
この人の本にはそういうところがある。
この人に付いていったら面白いよなという信頼。
そこにぼくは魅かれたのだろう。

本文中で面白かったのは、登場する人物の会話が関西弁であること。
バーンスタインが関西弁をしゃべっているのは、なんか新鮮だった。
 

2010年12月12日

手離す技術

桜井章一
講談社プラスアルファ新書
お勧め指数 □□□□■ (4)


この人の日本語は簡潔で分かりやすくて、それでいてちょっと面白みがある。
立ち読みしていているうちに、もっと読んで勉強しようと決心し、購入した。

面倒くさい理論や権威の引用という方法を使わず、俺はこうやってきたし、実際うまくいった、と自ら得た世の中の仕組みを語ってくれる本である。
それは押しつけがましくなく、理路整然としている。
おそくら著者は、大半の日本人の平均よりも高いところでモノを見ることができている。

学校で勉強したり、子供の頃から技を磨いたりしないと「世の中を見わたせる人」にはなれないという暗黙の了解がぼくにはあった。
ならば著者のこれまでやってきたことはそれに匹敵するということだ。
この人は、偉大な戦歴を持つ麻雀師であり、現在は雀荘のオヤジだと自分を語っている。
この事実だけから判断すると、「どうしてそんな人の本がいいのか?」と首を傾げる人が多いかも知れない。
しかし人ってどんなことをしていても、うまく上手に偉大にやる人とそうでない人に別れるものである。
そしてこの人は、前者である。

不思議なことかもしれないが、この人のいっていることはスマナサーラさんが説く仏教の教えと共通するところが多い。
なぜだろう。
何が実力で何が運なのかよくわからない世界で生きてきた人の発言は、何が実力で何が運なのかよくわらない現実の人生を生きて行くときの考え方と共通することが多いのかもしれない。

この人のような文章力で論説文を書けるようになりたい。
この本を一つの目標としてみることにした。

2010年11月25日

サリンジャー戦記

村上春樹+柴田元幸
文春新書
お勧め指数 □□□□■ (4)


調子にのって翻訳夜話の続編も読み返してみた。
この本は村上春樹さんが『ライ麦畑』が翻訳された直後だったようで、全編それにまつわる対談になっている。
翻訳技術の話ではなく、サリンジャーをどう読んだのかについての語り合い。

この本は村上春樹さんの翻訳で読んだ。
発売当初だからもう何年も前だ。
高校生で読んだのではなくオッサンとして読んだからだろう、何がいいのかさっぱりだった。
どうしてこれが読み継がれるのか。
今でもわからない。
社会に反感を持つ青年の話が、それも大した冒険もしないボヤキ小説が、なぜ若者のバイブルなんだろうか。

とまぁ、こういう理解はこの本を読んでもかわらない。
ぼくはアホなんだろうか。

たとえアホであっても、とりあえず快適に毎日が過ごせているからいいじゃない。
ライ麦が理解できない人も気を落とす必要はないだろう。

2010年11月23日

翻訳夜話

村上春樹+柴田元幸
文春新書
お勧め指数 □□□□■ (4)


英語の論文を書く必要があって、ついつい逃避行動的に昔読んだこの本を手にした。
翻訳の技について必ずしも今必要というわけではない。
にも関わらず、ずるずると全部読んでしまった。

翻訳って難しいけど面白そうだ。
大学の授業でこういう講義を受講している人はしあわせだろう。

英文を読む機会はないわけではない。
ニュースを見たり、論文読んだりする都合上、どうしても必要なことではある。
だけど本当にどこまで理解しているのかあやしいもの。
自分の理解の程度をはっきりと知るには翻訳しないとダメだろう。

翻訳をするば日本語にうまく写せない箇所が多々あることに嫌でも気づくはず。

あれれ、なんか違うなぁ。

そういうことを繰り返しながら翻訳するわけだが、それで終わりということではないようだ。
なにせ相手が文学なのだから。
翻訳結果も文学になっていないとまずいだろう。
となると、そもそも日本語で文学ができる人じゃないと翻訳なんてとてもできないのか。

それがぼくの感想。
しかし、本当にそうかな。
ちょっと気になったので手元にあった英文の教科書を取り出し、翻訳してみようと試してみた。
ビックリした。
本当に訳せない。
ふむふむ。
やはりぼくもまずは日本語を勉強しないとだめだ。

2010年11月20日

もう一度村上春樹にご用心

内田樹
アルテスパブリッシング
お勧め指数 □□□□■ (4)

新刊だけど内容的には新装版という不思議な出版形態。
改版しようと新しい原稿を追加していたら全体の1/3を越えてしまい、こりゃもう新刊で出してもいいのではないかということで出版されたということだ。
そういうことがどれだけ出版会で行われているのか知らないのだけど、珍しいみたい。

加筆されたのは『1Q84』についてのこと。
あれだけ売れた本だからこの本がそれだけバージョンアップされるのも無理はない。
ぼくのその本を読んだけど、なんともなぁという小説だった。
村上春樹さんのファンである内田樹さんがなにも言わないわけないじゃん。
どころか言いたくて仕方ないのではないだろうか。

つらつらと読むに、なるほど『1Q84』はこう読むのかとわかって納得する。
文学の読みってのはすごいよね。

ただし、村上春樹さんのテーマである「邪悪なものとの地味な戦い」のようなことはこの本でも貫かれているようで、内田樹さんの解説もそういうラインだった。
 

2010年9月21日

おいしい人間

高峰秀子
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

読んでいて楽しくなるエッセイだった。
著者が何歳かなんて全然気にならない口調でのやり取りを読んでいると頬が緩んでくる。
その人の精神の動きをそのまま感じることができる。
擦れていない物書きの上手な文章とはこいうものだろう。

題材は著者がこれまで出会った人の思い出。
あの人はこれこれで、まったくあのときは参ったよ。
誰かに説明するのではなく、ぼんやりしているときに心に浮かんできたエピソードの記憶を言葉に写したようなもの。
なんというか、映画を見るような意味での思い出ではなく、本人が過去を追体験してるようなタイムトラベル型の思い出といえばいいかもしれない。
全く時代も環境も全く異なるそのシーンへとぼくも参加しているかような読み心地である。

こういうエッセイが赤の他人なのに価値があるのは、少なくとも読んで気分がよくなれないとダメだろう。
思い出し怒りだとか、激しく泣いた思い出などではこちらが空回りしてしまう。
状況説明も経緯も知らない人であっても追体験できるものは、ちょっとした驚きといい感じだけ。
道端の花のようなものだろう。

そういう題材を扱える人はあまりいない。
事件性がない分記憶に残らないか、あるいは、そもそも「気に留めない」かで、エッセイの題材として使われることが少ないからだろう。
商売の作家に期待するのは難しいだろう。
「演劇の題材のような」物語が求められているのだから。
だからだろう。
高峰秀子さんにのような大スターだった人がひっそりと書いてくれる文章に安心感を得るのは。

2010年9月18日

生き方の演習

塩野七生
朝日出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)


行きつけの書店の塩野七生著作コーナーに知らない本が並んでいた。
現在ボリューム陳列真っ盛りの十字軍シリーズではない。
薄く、しかもフォントも教科書体の本。
雑誌の一記事くらいしかないのに出版されている。
装幀は安野光雅さんのやわらかい感じで、司馬遼太郎さんの『二十一世紀の君たちへ』と同じだなと思った。
同じシリーズのようだ。
塩野七生さんはまだご健在なのに。

薄い本なので30分もあれば読めてしまう。
10年前に行った若者向けの講演録だった。
「ネロを書いたばかり」という発言がある。
ならば、ぼくが就職した頃の講演。
上手だよなぁ。
ポイントが整理されていて、分かりやすい。
しかし抽象的な説教ではない。
ぼくは40過ぎだし、今日読んだわけだし、という著者の意図から大分外れている読者対象のぼくだが、それでも「これはぼくにも向けられた本だ」と思った。
だから、二回読んだ。

現実について。
好奇心の存在と情報の惹きつけ方について。
複数の選択肢の存在について。
道具としての言葉について。

なるほどなぁ、の連続。
ぼくが尊敬してしまうわけだよ、今読んでも面白いもの。

ちょっと元気になった。
人生なんぞ、そもそも目的は「生きる事」でしかないのだから、成功する必要はないとつねづね言い聞かされているぼくだが、それでも「やっても無駄かな」と思うことは多い。
駄目もとでなにやら工夫していく行動を年齢を理由としてストップするべきではないな。
中途半端で終わりかけていることを見直し、物理的で継続できるならば、やりつづけてゆくことにした。

薄い本だからといって、人の行動に与える影響も薄いわけではない。
逆の結果になることは結構あるのだろう。

2010年7月 2日

日本人へ 国家と歴史篇

塩野七生
文藝春秋
お勧め指数 □□□□□ (5)

雑誌掲載エッセイの後編にあたる新書である

政治以外の話題が半分以上しめている。
ごく普通の市井の人で、かつ政治には無力感をもっているぼくにとっては、前編よりもずっとよい。
そりゃそうだろう。
ローマでの生活やイタリアのブランド品の実情話のほうが、だれだって愉快な気分になれるのだから。
わざわざ身銭を切ってまで政治のことなど聞いても人生の無駄遣いでしかないだろう。
そこまで思わなくも、政治ネタに目を通すのはヒマを持て余した時だけで十分。
少し狭隘なぼくのポリシーだが、そういう人は少くないだろうと思うが、どうだろうか。

政治エッセイとローマ生活エッセイを2冊並べて販売するとしよう。
どちらが結果的に売れるのか、それは内容次第のところがあるが、そうはいっても想像はできる。
書店でこの本の前編と後編を並べて平済みにしたら、おそらく後編のほうがずっと減っているだろう。

塩野七生さんのエッセイは政治を扱っているものが多い。
政治を語るにはある種の「強さ」が文章には必要とされる。
人を無理やり引き込み、それも強くひっぱり込み、日常生活を変えてしまうようなことにコミットさせる。
そのためには緊張感を持たせ、行動に走らせるような物言いのほうがいいのだろう。
それはそれで塩野作品には必要な味なのだが、たまには別の側面があってもいい。

この巻の内容で、楽しかったのはローマのワインバーの話、ブランド品の製作者は中国人集団であるという話、そしてローマの歴史遺跡散歩。
そういうものを読むと新鮮な気分になる。
日常生活というものか。
書店で購入した本を帰り道にワインバーに立ち寄る様子、そしてどんな風にワインを選ぶのかなど、ローマでの生活についての話になるほどと感心した。
ローマについての歴史が頭に入っている人で、在ローマ歴がない達人はどんな時間の過ごし方をするのだろか。
旅行で立ち寄る程度のことしかローマに滞在する機会がないであろう人だって、興味がわく話だろう。
 

2010年5月28日

知に働けば蔵が建つ

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)

 結局、内田樹さんの文庫本を買い直して読んでしまった。この本で全部である。

 これらは全部単行本で購入し、読んでいる。ところが今こうして読んでみると、内容を結構忘れている。だから面白い。

 電車の中では文庫本の方が楽なので、文庫文を買い直すことは悪い買い物ではない。ただ、少し引っかかりはする。

 この本もブログからトピックを選択し、内容を書き直して本として出版されたものだそうである。いつもの内田樹さんのエッセイ本。

 不思議。どうしてブログのエントリーを寄せ集めて本ができてしまうのだろう。よっぽど元になったブログが本を目指して書かれたものなのだろうか。

 もっともっとエッセイが読みたくて、最近は内田樹さんのブログを読んでいる。

 内容の長さはまちまちで、話題は時事問題から合気道や哲学、文学の話が、そのときの思いつきでとびとびである。章立てなんて、当然あるわけではない。

 ブログは個人が生活のメモをつけるためのもの。だから、内容は薄い。そう思っていた。

 だからこうして出版に堪えられるようなものはあまりない。日本でとてもレアな物書きだということになる。プロであるアマの物書きなのだから。

 内田樹さんのブログを「出版してしまえ」と考えた人は相当の目利きだろう。

 ブログが始まった当時から面白かったのだと思うが、その面白さは口コミで広まったのだろう。

 それが本に。

 そういう出版って、前例がなかったんじゃないか。よく決めた。偉い。そう思う。

 内田樹さんがブログを書きはじめた当時は、出版するなんて意図はなかったはずだ。

 考えた事を言葉にして人に伝える。

 職業意識からでた自然な行動が、ネットワーク環境を利用して実現したわけだ。

 出版のチャンスがないだけで、実に面白い事を書ける人はいるはずなのか。もっといろいろ出てこないものか。

 ではなぜ内田さんしかいないのか。

 結局はお金の問題をどう考えるかだろう。

 内田樹さんは、ブログの内容は自由に使っていいという態度をとっている。だれがコピーして使っても良く、さらには、他人の名前で発表してもいいと宣言している。

 この態度がレアなのだ。

 知に働けば蔵が建つ。

 なるほど。上手な生き方だと思う。

2010年4月26日

ぼくの旅の手帖

森本哲郎
ダイヤモンド社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 この本の装幀はとても良い。手触り感の暖かい和紙がふんだんに使われ、同じ紙質のしおりがはさんである。今どき珍しい箱入りのエッセイ集。古本で購入した。30年前の本のようだ。今ではもう出版されていないタイプの本だろう。

 安野光雅さんや永沢まことさんような印象の挿し絵がついている。ダイヤモンド社はビジネス書しか出版しないのかと思っていたが、昔は「良い本」を出版していたようだ。ちょっとした発見。

 この本の内容自体は、森本哲郎さんの作品集で読んだことがある。だが、この本の方がずっと良い気分でエッセイを味わえる。

 本あるいは文章を情報として扱うだけならば装幀なんてどうでもいいと考えるのも無理はない。しかし、本を読む行為の目的にアートにたいする憧れがあるならば、つまり、気持ちを揺さぶるかどうかを目的としているならば、装幀は大切だろう。本を読むときに直接触るの「紙」だし、紙質は手触りだけでなく常に見えているものだから。

 コンピュータなどの電子媒体で本を読もうとする人は、作品というものを「情報」としてしか考えていないのだろう。映画をYouTubeでみて事足りると「信じている」ような人みたいに。

 昔は旅に出るという感覚が大分ちがっていたようだ。よく、世界を股にかけるという表現があるが、それはスーツケース片手に商用で世界各国に出張する商社マンに当てはまる。そういう人と森本哲郎さんとはまったく別のタイプの人。もっとも森本哲郎さんが世界各地を出掛けるようになった要因は、新聞記者として「記事」を書くためだったらしい。しかしその後の放浪癖は仕事としてではなく、漂白の想いに誘われているとしか思えない。中東やサハラの砂漠、世界名作文学の舞台や世界史の中でのビックイベントが起きた現場に佇み、思索ことなどは、ぼくのような学もチャンスもない人からみれると夢そのものである。ため息をつくよりない。

 そんな森本哲郎さんの行動のなかで唯一マネできそうなのは、外国にでかけ街中のカフェでお茶を飲むことである。タバコを吸わないぼくとしては、そんなことをしても間が持たないのだが。

 実際にカフェで時間をつぶす機会は何度もあるのだが、なかなかカフェでお茶を飲むことはしない。なんだかこっぱずあしいし、高そうだし、ぼくみたいな言葉も不自由な人はウェーターさんに相手にされないか、カモられるかのどっちかのような気がする。それでも楽しく時間を過ごす事ができたカフェでお茶を飲んだ経験は、今でも宝の物のように輝いている思い出になっている。

 英語とフランス語が話せるといいだろうなと思う。あるいはイタリア語。どんなとこおでも言葉の不安なしに旅したいよ、ホント。あるいは中東もいいし、北アフリカもいいな。夢だけは広がっていく。

 それが実現できるかどうかはどうでもよく、たんに旅情をかき立てられるような本、ぼくにとっては宝物である。それはいつも森本哲郎さんの本なんだけど。

2010年2月23日

日本辺境論

内田樹
新潮新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 内田樹さんの著作は何度読んでも面白い。同じ本を読むのをぼくは避けてるが、内田さんの本は話が別で、読みたいナと思ったら迷わず読むことにしている。この本もすでに一度読み、読書メモも書いている。が、また読んで、またメモをつけることことにした。普通の新刊を読むよりも面白かった。

 印象深いところはいくつもあったが、日本語がもつメタメッセージ送信の部分の記述には感心する。いや、もう感動する。

 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。自分の方が「上位者」であることを誇示するためには、いかにもうんざりしたように相手の質問を鼻先であしらって、「問題はそんなところにあるんじゃないんだ」と議論の設定をひっくり返すことが効果的であるということをみんな知っているので、「誰がいちばん『うんざり』しているように見えるか」を競うようになる。お互いに相手の話の腰を折って、「だから」とか「あのね」とかいう「しかたなしに専門的知見を素人にもわかるように言ってあげる上位者の常套句」を挟もうとする。

 なるほど、本当にそうだ。

 この方法はあまりにも効果的なので、政治家や評論家ではない人も使っている。自分だって、使ったかもしれない。他人がぼくの専門についてとやかく言ってきたときなど、実際に使った記憶はないが、こういう論法で「うんざり」した顔で、ようするに「だまれ」ということを言ったことはきっとあるだろう。

 内田樹さんの指摘は心理メカニズムのすぐれた物理学のようなものだ。もう、ぐうの音もでない。当たっている、ホント。自分の感じ方や行動理由の自覚していない理由を内田樹さんから教えてもらっている。

 さて、メタメッセージについての話に戻る。一度「上位者になるためのコツ」を知ったら、何にでも使いたくなるもの。それは誰でも同じだろう。自分についてはなんとか気をつけるにしても、他人からの挑戦には巻き込まれたくない。あとは以下にして、この状況に入り込まないかがぼくの考えることだろう。そしてそれは生き方ということになるのだろう。

2010年2月 6日

顔面考

春日武彦
紀伊国屋書店
お勧め指数 □■■■■ (1)

 期待したものと方向が全然違う本だった。なんか気味悪い。

 骨相と精神的な気質との関係のようなものがつまったエッセイを期待したのだけど、あまりまとまりのないものがあるだけだった。

2010年2月 1日

人生に退屈しない知恵

森毅+鶴見俊輔
編集グループSURE
お勧め指数 □□□■■ (3)

 この人に会いたかった:森毅さん。

 タイトルに魅かれて薄手の本(というより、冊子)を手にし、そのまま買ってしまった。
内容は対談である。対談者同士世代が近い(ぼくと森毅さんを比較してだけど)ので、盛り上がっている話にぼくにはピンとこなかった。戦後や学生運動の時代の話をされて、あぁなるほどとはならない。それは仕方ない。それでも、発言には森毅さん的なものがあるので、人は変わらないものだなと思いながら読んだ。

 森毅さんはこの対談が行われた後、たしか去年の初めの頃に、料理をしていたら自分の服を焼いてしまうという事故に遭い、そのままやけどで入院したというニュースを目にした。そのあとどうなったのだろうか。高齢だから何にせよ治るには時間がかかるだろう。良くなっているといいのだけど。
 

2009年10月 8日

世界は分けてもわからない

世界は分けてもわからない
福岡伸一
お勧め指数 □□□■■ (3)
八重洲ブックセンター

 タイトルに期待して購入したのだけど、これはエッセイ集だったためか、ぼくが求めるような考察は書かれていなかった。世界は分けてもわからない。生科学を極めつつあった人が従来の分析・解析手法の行き詰まりを語るとうようなストーリーならば良かったんだけど。

 とはいえ、エッセイは悪くない。それどころか、須賀敦子さんのエッセイを引きながら自分の考察を加え、まして「でもね、須賀さん」などと呼びかけてしまうところがグッとくる。ぼくもそんな風に過去の賢人に話しかけ、質問してみたい。だけど許される雰囲気にない。やっぱり、それなりのことをなした人でないと偉人に話しかけられないような気がするから。

 後半部分は、ある科学者のインチキについての物語である。その科学者があれよあれよという間に成果を挙げていくのを横目で見る同僚?視点からかかれている。ぼくは学者の世界にどっぷり浸かった事はなく、またそういった競争にも興味はないからピンと来ないといえば来ないけれど、それでも不思議な場面に立ち会ったような気分になれた。福岡伸一さんはかなり上手な語り手なんだとわかった。

 今後も研究の合間にいろいろなものを書いてもらいたいと思っているが、気になるのは調子に乗りすぎて対談などのお気楽な方法に走ってしまうことである。斎藤孝さんや茂木健一郎さんのような方向へは走って欲しくない。

2009年5月15日

たいした問題じゃないが

行方昭夫
岩波文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 英語の長文読解で読んだようなエッセイを再編した小冊である。岩波文庫の新刊だけど、中身は100年前のもの。いいものは長生きするのだ。それも、ただ長生きするのではなく、それを初めて読んだ人の喫緊の問題がその本で扱われていたりする。今読んでも新鮮とは、単に自分が不勉強だと言うのと同時に、時代が違っても、多くの人が抱えている変わらない問題を扱っているということだ。

 この本の内容は難しくない。Oヘンリの短編は小説で、この本はエッセイなのだが、おなじような印象を受ける。日々の生活で「そうそう、そういうことあるよ」ということが話の発端になっている。高所から訓示を垂れる本ではない。だから寝っころがって読んでもいい。


 読んでいて、こういう内容が大学受験の試験問題だったのかと思うと、だんだん腹立たしくなる。受験問題というのは、気分よく文章を読めない。内容ではなく、解析をする必要があるから。その文章の内容を自分の問題として考えることなどありえない。さっさと前置詞のパターンや関係代名詞や不定詞の意味を取るように訓練されていたのだ。だからだろう、読み終われば中身は頭から消えてしまう。いや、そもそも頭に一度も入れなかったと思う。こんなに味わい深い、人の世についての見識が書かれていのか。あの頃に我が身に置換えて読んでいればなぁ。

 母国語の人はこういうエッセイをどのくらい読むのだろう。中学高校の教科書に載っているのだろうか。決めの文句などは、だれでも口ずさめるのだろうか。日本で言えば小林秀雄や加藤周一のようなものか。いや、難しい内容ではないから、新聞のエッセイなのだろう。日本語で描かれた新聞のエッセイに、こういう読み物はあるんだろうか。


 せっかくだから、この本で紹介されちた著者のペーパーバックを何冊か購入した。読める時間がどれだけあるかわからないが、ここで買わないと一生読む機会がないような気がしたのだ。通勤時にでも読んでみるか。

 岩波文庫はさすが、というのが感想である。


2009年4月23日

音楽の捧げ物

茂木健一郎
PHP新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 ラ・フォル・ジュルネ関連の本として出版された旅行記である。茂木健一郎さんは忙しい人だから(本文でも1年間で休みは1日だけだったと言っている)、バッハ、ドイツを巡るこの旅行記も一気に書いているのだろう。だから、フォントは大きくて余枠も広い、ちょっと損した感がある本である。いくら新書とはいえ、これは無いんじゃないかと思うのだが、バッハについて少し知りたい都合から、買ってしまった。当然だが読みやすい。写真は茂木健一郎さんが撮影したものを使っているため、手ブレやあまいピントのものが多い。本というより、良くできたブログという出来である。もうちょっと整理したどうかとも思うが、それだともっと書き足さないとダメで、おそらくはそんな時間はないから出版出来なくなってしまうのだろう。本、とくに新書だから新刊よりも息が長いはずなのだが、あとで出版社も後悔するんじゃないかと思う。

2009年4月16日

日本列島プチ改造論

パオロ ・マッツァリーノ
大和書房
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 パオロさんの新刊が出たので購入してみる。前作の『コドモダマシ』がもう一つだったけに少し不安だったが、この本もダメだったら次は読まないことにしよう。また面白さが復活していることを期待して読み進める。
 出版社のWEBマガジンに毎月掲載されていたコラムのようなもので、エッセイというよりも、現代の日本社会に対する提案が書かれている。連載当初は気合いが入っていて面白いけど、時間が経つにつれてネタが尽きていくためかテーマ選びに芯がなくなり、内容もおなざりになっている。ただし、最初の1/4くらいはめちゃくちゃ感心する内容で、この部分だけでもこの本を買ったかいはあるなととは思う。
 この本では、日本を面白くするためのちょっとした工夫のような提案をパオロさんがしている。もちろん、物知り気な態度で説教するような人とは異なり、あぁそうか、というアイデアをぽこっとだしてくれる。それが面白い。
 例えば、最近の若者はどうして地べたに座るんだろうか、という社会問題に対する提案。一頃は電車のなかでもドア付近でしゃがんでいる邪魔くさい高校生がたくさんいたが、最近は見なくなっている。また、コンビニ前でたむろって入る中学生もいない。もっとも、ぼくの電車利用やコンビニへの立ち寄りなどは彼らの時間と重ならないからそうみえるだけで、今でもひどいことになっているのかもしれないが、それは分からない。この問題にたいしてパオロさんはこういう。なぜ、地べたに座るのか。それは、椅子がないからだ。
 はー、あー、そうかぁ。確かにそうだよ。電車は混んでいるし、商店の前にベンチなんてないからか。確かに、もしあったらそれを利用するね。そういわれてみれば、コンビニ前にベンチがある気がする。あれは、そういう理由だったのか。
 ヨーロッパの町には、わりとベンチがあるような気がする。有料でいいならばカフェがたくさんあるし、街歩きの人のためのベンチもそれなりにある。でも、日本の道路はそもそもごみごみしてるし、駅前は自転車だらけだし、そもそも街を歩く人のための「街が提案する演出」のような発想はそもそもない。
 ぼくが週末かならず立ち寄る神田神保町のすずらんどうりには通りに床几がでている。商店街の企画なのだと思う。それは必ずしも有効に使われていないかもしれないけど、そ通りの心意気はしっかりと感じる。提供されているものが即お役立ちにならなくても、道行く人に対する無償のサービスにはなんとも言えない感謝の念が湧いてきて、感情的にその街が好きになってしまうものだと思う。ならばベンチ一つ店の前に出すサービスは、地べたリアン対策だけでなく、長い目で見るとお店のためになる行為なんじゃないと思ったりする。
 などということをぼやぼやと考えているうちに全部読めてしまった。しかし、この本の半分以降は、なんだかダレダレになっているようでもうひとつだった。

2009年4月 4日

養老孟司の旅する脳

養老孟司
小学館
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 JALの車内誌に連載されていたエッセイがまとめられた本である。結構長いこと続いていたようだ。さすがJALともなれば車内誌に養老孟司が登場するのかと感心する。
 JALだからということか、最初のころは旅にまつわるエッセイを書いている。が、途中から、養老孟司さんの普通のエッセイになっている。昆虫だの都市化だのという、いつもの話題である。不思議と、そういう内容の方が読者としてはあり難いのだけど。

 養老孟司さんのエッセイを何冊も読んでいくうちに、これまでの来歴を何となく知ってしまう。家族のことから、学生時代のこと、就職して教員になり、退職していろんな活動をしはじめるところなど、特に憶えようとしないのに憶えてしまっている。だから、このエッセイを読むと既に知っていることが語られているところに出会う。ただ、そのトピックが挿入されている文脈は色々なので、もう知っているよ、と思うことはない。語れている内容そのものよりも、なぜそのトピックがそこで登場するのか、その繋がりを読んでいるから、それはそれで面白いのだ。文章を楽しむというレベルではなく、文脈を楽しむ読書になっているのかもしれない。たくさん本を読む効用が、こういう現れ方をしているのかもしれない。

 養老孟司さんの本を読むようになり、養老孟司さんの対談だの書評だのを読むうちに、気づけば茂木健一郎さん、内田樹さん、池田清彦さん、甲野善紀さんなどの本もよく読むようになった。どの人の本も同じように楽しめる。彼らは現実の世界でも中がいいのだろうと思う。
 この傾向は何もぼくだけではないようだ。ブックオフではない普通の古本屋でセール品を漁るとそれがわかる。三冊五百円というようなガレージセールで販売している本は、仕入れたときの本のまま店頭に並べられていることがある。引っ越しかあるいは持ち主が死んだかして、売られてきた物なのだろう。店頭では段ボールやテーブルにまとめて置いてあるだけの売り方だったりする。そのときの並び方は、たぶん持ち主の本箱にあった状態に近いまま置かれているものがある。
 こういうところで、例えば池田清彦さんの本を見かけるとする。おぉと思ってその周りをみると、茂木健一郎さんや養老孟司さんの著作がごろごろあったりする。ただ、ほとんどぼくは持っているので買うことはほとんどないのだけど、自分の趣味に近いなぁと思って愉快な気分になる。

 もう何冊読んだのだろうか、と思う。でも、新刊がでたらまた買ってしまうだろう。本屋さんにとってはちょろい客になってしまっている。

2009年3月24日

ニッポンの名随筆別巻44記憶

養老孟司編
作品社
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 上手なエッセイを読みたいなと思っていたところ、日本の名随筆集というシリーズの存在を知った。数十冊のシリーズであり、一冊毎にテーマが決まっており、そのテーマにあった名随筆をそのテーマの一人者が選定して編んである。タイトルと著者とから判断すれば、この本は相当すばらしくうなってしまうようなエッセイがありそうだと思ってしまう。だから古本で購入してみた。
 が、しかし、時代が合わないのだろうか、ぼくがばかのか、どれひとつ面白くないし、日本語として感心するようなものもなかった。選者は養老孟司さんなので、おかしなことになりようはないはずだ。きっと、数十年前の文章やその当時の生活様式、人々の興味の対象が現在のぼくとはあまり重なるところがないのだろう。つまり、随筆の対象となる物事に関心が持てないのだ。ならば、面白い文章として読めるはずはない。仕方ないだろう。
 これはこれで一つの発見だった。古い日本の文章を読むための障害は送り仮名や漢字の違いだけでなく、随筆の対象となる物事にもあるのだとわかったから。
 となれば、当時の人々はそもそもぼくとは別の人たちということになる。たった数十年の違いなのに、えらく違う人たちに思えてくる。人はあまり変わらないと言われている。科学による知識、技術による生活道具の変遷はあるかもしれないが、所詮人は同じようなことを考えているという意味だ。でも、違うんだなぁ。
 名随筆と言われるものは、どうやらぼくにはあまり合わないらしい。日本語能力の貧困さが原因なのか、生活様式の違いが原因なのかははっきりしないが、過去の資産の一部である名随筆は、ぼくにとってあまり意味がないものだとわかり、かなりがっかりしている。

2009年3月19日

賢い身体バカな身体

桜井章一+甲野善紀
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 bk1

 マージャンの世界ではとても知られた通称雀鬼と甲野善紀さんとの対談。
 いかなる物事でもその道を究めた人というのは魅力的であり、その人から学ぶことも多い。確かにそうだろう。
 しかし、マージャンを極めるとどんなことになるのだろうか、ぼくには想像ができない。マージャンを賭事とみるか、ある種のスポーツのようなものと見るかで、思い込みの内容が変わってくると思うが。
 この本を読むだけでは、なんとなく凄い人なんだろうなという想像はできるが、残念ながらその実感にまで至らない。当たり前だろう。本で実感はできない。甲野善紀さんがべた褒めする人なのだからよっぽど凄い人なんだろうけど、やはり見たことがないとなんともいえないよな、と思ってしまう。それが自然だろう。
 となると、この対談の内容もどんな人か分かってからになるだろう。それまではペンディングということで、よかったのか悪かったのかは判断できない。
 ただし、こういう本でも読まないと世の中の凄い人の存在を知る機会はあまりないから、読んで良かったことは確かだろう。

2009年3月16日

日本人ならこう考える

渡部昇一+養老孟司
PHP研究所
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 養老孟司さんの本なので、迷わず購入し、すぐに読んだ。ぼくは渡部昇一という人にはどちらかといえば嫌悪感があるのであまり近寄りたくないのだが、まぁ仕方がない。
 一読したが、これといって養老孟司さん側の発言に「初めて聞いた」というものはなく、もうひとつ面白くなかった。ぼくの好き嫌いが大きく反映しているわけだが、渡部色が強い本になっている。なんだかな、という気分である。

2009年3月 1日

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか

村上春樹+安西水丸
朝日新聞社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 ブックオフ秋葉原店

 村上春樹さんのエッセイ。ちょっととぼけたおじさんの挿し絵がぴったりで、著者のキャラクターがただよってくるような、気楽な読み物になっている。
 内容は著者の日常の出来事や思い出であって、読むことで何かを学ぶようなものではなく、単におしゃべりを聞いているようなものである。猫が寝言で「そんなこと言ったって」と言ったんだと著者が言い張る話なんだから、楽しまないでどうする。甘いお菓子ような気分が味わえればそれでいい。
 ぼくは村上春樹さんの感覚と重なることがほとんどないのだけど、それでもこのエッセイを読んでいると自分が村上春樹さんの視点になったような気分になれる。好きなんだ。

 このエッセイの中の話でちょっと気になるところがあって、インターネットでそれを調べて見た。差別だの部落だのという話である。神戸育ちの著者はそういう話を中学生になるまでまったく知らなかったという。ぼくは東京向島育ちで、そういう話に全くピント来ないのは同じ。なんかあるらしいけど、今の東京でそんなことを気にしている人はいないだろうし、もし存在するとしてもその人は関西人なのだと思っているくらいだ。知識不足であり、今はインターネットでタブーでも調べられるので、どんな言葉が問題になったのか、ぼくも知りたかったのだ。
 で、結局わからなかった。ただし、それを調べる途中で別のことがわかった。村上春樹さんって、すっごく嫌っている人が多いということ。なんでだろうか。とくに、嫌な気分になるようなことが描かれている小説なんてないのに。村上春樹さんが有名になるなんて許せない。おれのがもっと凄いだぞ。多分、そう言いたい人なんだろうけど、世の中の人にはおかしな人も結構いるんだとあらためて思った。

 この本の魅力は、とぼけた感だろう。そして、小説家として肩ひじ張っていないものいい。「小説家=先生」なはずないと思うのだけど、どうしても偉い存在というコンセンサスがあるようで、小説家の人にはこちらが頭を下げなければならない雰囲気がある。
 しかし、小説家が先生なはずはない。技術は凄いけれど、だからなんだ。
 村上春樹さんの日常はぼくが想像できる範疇にある。生活に自由があり、うらやましくも感じる。とはいえ、その日常は普通の人が抱える問題と同じだし、同じような喜びがあるんだな。

2009年2月25日

動的平衡

福岡伸一
木楽舎
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 雑誌に掲載されていたエッセイをまとめた本である。新書で人気がでたあとの本なのだろうけど、文章や話題の取り扱いにぎこちなさを感じるところがある。科学者ではなく普通の人との距離を探しながら書いているようで、妙に説明口調で平板な科学話になったり、エッセイでそんな細かいことを言わなくても言い科学記事になったりしているところがある。現在書き方を模索中という感じを受ける。

 ぼくは本書のタイトルにちなんだ解説本かと思って手にしたので、少しがっかりした。とはいえ、この本を読んでいれるといずれそういうものを書いてくれそうな気もする。本書にはライアル・ワトソンの本の翻訳をしたということが書かれてる。エッセイや翻訳本などの活躍があるようだから、とりあえず今後に期待しようと思う。

2009年2月19日

十頁だけ読んでごらんなさい。

遠藤周作
海竜社
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 遠藤周作さんの単行本が2006年に出版されている。書店で平積みされた本を手にして、不思議な気分になる。なぜ今になって遠藤周作さんの新刊があるんだろう。
 遠藤周作さんが素晴らしい作品を残したことは知っている。ネスカフェのCMで整然の映像を見たことがある。何冊か小説を読んだこともある。今度外国の有名な監督が『沈黙』を映画化することも知っている。要するに、今でも人気はあるのだろう。でも、なぜ最近になって単行本で新刊なんだ。
 その本をぺらぺらとめくっていたら意味が分かった。最近になって発見された原稿があり、それを単行本化したのだそうだ。
 なんだ。それは凄い。凄いけど、果たして採算あうのだろうか。タイトルには著者の自信が現れている。ならば買ってみるか。そう思い、購入した。ずいぶんとしっかりした本だけど、フォントは大きいし、行間も広い。なんだかなぁ。
 内容は手紙の書き方。ワープロやインターネットなどが普及よりはるか前の話だ。その時代における手紙の書き方か。実用書とまではいかなが、「手紙を書くということ」から説き起こしている。
 昭和の記録に類する本だとはいえ、手紙についての注意はe-mailの時代になってもさほどかわらないだろう。この本では、手段ではなく意図についての話が多いから。
 とはいえ、ラブレターの書き方が今の人にどれだけ適用可能なのかは怪しい。というか、逆効果なんじゃないか。デートの誘い方や女性の対応など、小津安二郎の世界だ。世間に暮らす人の本質は変わらなくとも、表現方法は時代時代で変わるだろう。その意味で、この本の半分くらいは昔の社会を懐かしむよすがとして読むにとどめるほうがいいだろう。

 さて、この本のタイトルにある10ページといったものは本当に10ページまでにあるのかといぶかしげに読んでいたら、ちょうど40ページで「そろそろ10ページだ」という記述を見かけた。つまりは、昔と今では、本の厚みが4倍違うのか。今は内容が1/4になってしまった本を買わされているということだ。まったく、新刊はぼろい商売だよ。

2009年2月10日

橋本治と内田樹

橋本治+内田樹
筑摩書房
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazon.co.jp

 長いことかかって読み終わった。そもそも橋本治さんの作品を読んだことがないので、代表作にまつわる話にはまったくピンと来ないのだ。ただ、橋本治さんの作品は好きな人にはそうとう好きなんだろうな、ということが内田樹さんの発言で推測できるのみ。でも、だけではなぁ・・・。
 暮れから読みはじめたのだから、ずいぶんと時間がかかった。要するに、ぼくには面白くない。橋本治さんの本を読んでから、またこの本を読んでみるか。

2009年1月17日

脳を活かす仕事術

茂木健一郎
PHP研究所
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 シリーズ2冊目。勉強の次は仕事。素直な流れだ。勉強法は面白かった。これも何かの縁だろうと思い、長津田で急行待ちをする数分の間で目に付いたこの本を購入した。帰りの電車で読み切れてしまった。
 へぇと思わず言ってしまう部分が少なかったのだ。本を読むのに時間がかかるときは、著者の文章がぼくの呼吸に合っていないか、意味不明の単語が多いか、あるいは感心することが多いかである。すらすらと読め、内容に違和感がないならばすぐに読めてしまう。それはうれしいことではない。とても残念なことなのだ。発見や驚きや違和感がないならば、読まなくてよかったのだから。
 もちろん、多くの人は面白がっているだろう。この本もそれなりに売れているはずだろうし。しかし一方で、似たようなことをぼくもやっているなと感じる人も多いのではないか。
 じゃぁ、お前も書けばいい。そう非難する人もいるだろう。しかし、とりたてていうほどのことではないこと、みんなそうしているんじゃないと思っていることを本にしたいと思うだろうか。
 こういうと、じゃぁ、なんでお前は茂木健一郎さんのように有名人じゃないのだと反論するかもしれない。それに対する答えは簡単である。茂木健一郎さんが推奨するようなことをしたからといって、茂木健一郎さんのようになれるわけではないからだ。もっというと、優秀な人や成功した人が「これでぼくは成功した」ということと同じ事を別の人が実行したからといって、その人が成功するわけでもなんでもない。成功どころか、その人を不幸にする可能性するらある。
 ぼくは「似たようなこと」であって、同じことといっていない。自分バージョンになっている行動癖のそもそもの理由は、じつは茂木健一郎さんがこの本で語っていることこと同じことが理由にあるのではないのか。そう思ったのである。

 この本は勉強法の紹介である。茂木健一郎さんの才能の一部でもいいから身に付けたいと思って、「マネ」するために読んでみようと買ったのかもしれない。しかし、それは間違いだろう。というのは一般に、「AをすればBになる」ことが、人間に関してはほとんど間違っているから。ある人がある事をできるようになる過程は実に様々な出来事の結果であって、計画して実行するようなものではないのだと思っている。
 例えば、あることを「好きで」やるというアドバイスがあったとしよう。しかしそのアドバイス通りに行動できるものなのか。無理だろう。
 あることを「好きでやる」。これは意志でどうにかなるものではない。好きになろうとがんばった時点で好きでやっていないし、仮に自分を騙す事に成功したとしてもそれは後々心の病というかたちで本人に逆襲をかけるかもしれないから。
 人から学べることは、「なるほど、そういうこともあるかもいれないという気付きである。まずは試して、多分ダメだろうあらその次はどうするか考えてみるか。このくらいがちょうどよい。個人の身体や考え方は、あまりにも多様性が大きいので、万人に共通するアドバイスは「すでに知っているような」ものばかりになるはずなのだ。
 じゃ、なぜこの本を買ったのか。その理由は単純で、『脳を活かす勉強法』が面白かったからであり、茂木健一郎さんの考える「仕事についての姿勢」を少し覗けるかもしれないと思ったからである。
 では、それは分かったのか。少し分かった気がする。茂木健一郎さんはもはや仕事の内容そのものを追いかけてはおらず、何かを成し遂げたいという思いのほうが強くなっているということだ。
 仕事って結局、そういう心理的動機と一体になってしまうのだろう。

2009年1月 7日

身体を通して時代を読む

甲野善紀+内田樹
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 アマゾンマーケットプレース

 さすがにこの対談の内容を理解することは、運動不足のぼくにはむずかしい。武術なり合気道なりを相当やってきた人たちが抱く疑問やアイデアを語りあっているのだから、仕方ないのだけど。
 ただし話の方向性はわかっている。これまでに内田樹さんや甲野善紀さんの著作や対談を何冊も読んでいるから、彼らが何に興味があってどんな意見を交わすのか、どういう方向に話が進んでいくのかは予想がつく。また、実際その通りになっている。ある種の予定調和があるといってもいい。そして読者はその流れを百も承知で読むことになる。
 彼らの話を聞いて普通の人が普通の生活で活かせそうなものがないとは言わない。ヒントになりそうなこともあるだろう。
 ただし、それらはすべて「畳の上の水練」でしかない。身体の話は身体で活かすよりない。でも、身体の動かし方は言葉で聞いて実行できるものではない。この本の内容を理解するには、合気道でも初めて10年くらい経ってからでないとダメなんだろうと諦める。

2008年12月30日

クオリア立国論

茂木健一郎
ウェッ
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 なんだかまた新刊がでていたので買ってしまった。嫁さんが「いい加減にしたら」という目で見ている。そりゃそうだ、いつも読んだ感想として「もうひとつだった」と言っているのだから、何もまた新刊で買う事はないではないかと思うのも無理はない。
 しかし、ここまでくると10年前の中谷彰宏さん状態に突入している気がするから、逆の意味で面白い。つまり、どの段階で「全く同じ事を別の本で書いてしまうのだろうか」ということ。これを発見した段間で、その作家は終了する。
 クオリア立国論。意味は分かる。要するに見れば、量より質の生活を支える基盤を志向する(意訳しすぎかもしれないが)。
 しかし、この本を読む限り、立国論にはなっていない。1億の人が生きていくためのメカニズムにはなっていない。加工貿易立国という言葉の意味するところは違い、クオリア立国論はこのタイトルが示す通りのある種のクオリアを表明しているに過ぎないみたい。

2008年12月25日

昭和のエートス

内田樹
バジリコ
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 amazon.co.jp

 例によってブログのコンピレーションブックである。著者が主張している内容はこれまでの路線から大きく外れることはなく、それでいて読みながらふんふんと頷きながら頁をめくった。
 内田樹さんの思考経路にぼくは尊敬と憧れが入り交じったものを感じる。ぼくも人からコメントを求められたとき、こんな風に答えられたらなと思う。そんな意味でぼくのロールモデルとしたいと思っている。無理だとわかっていても、そう思ってしまう。
 内田樹さんのように考えるにはどうすればいいのだろうか。フランス文学を勉強しなければいけなかったのか、学生運動をしなければならなかったのか、あるいは日比谷高校で優れた友人との対話がなければならなかったのか。まぁ、それらどれとれをとってもぼくは関係がない。内田樹さんの出身(とうか中退)の高校は日比谷高校である。立派な人をたくさん輩出している名門である。日比谷高校が一高であるならば、ぼくは三高卒ということになる。先輩には芥川などもいるのに、まったくさえない人生を送っているのだから泣けてくる。まぁ、通った学校は昔のことだからどうでもいいかな。どうすることもできないし。
 最近の内田樹さんのエッセイで気に入っているものはだいたい次を主題にしている。一つは消費者メンタリティーがもたらした現代社会での人々の行動。それは、下流志向だったりモンスターペアレンツだったり。二つ目は株式会社としての学校は成立しないということ。学ぶとはの本質についての内田樹さん流の解説にいたく感心する。三つ目は、物事についての単純な解説に対する疑い。社会問題に対するコメンテーターの発言などでよく見かけるような、「原因はあれです」という実に単純素朴でナイーブな説を唱えることへの注意である。
 内田樹さんのブログについてもこの三つの話題がおもだったものだ。著者が大切だと思っている事柄だからだろう。
 こう言ったことをこの本でまとめて読むことになる。なるほど、そうだよな。と思いながら頁をめくる。自分で考えたことでもないのに、自分で考えたかのような錯覚を抱いてしまうのは、説得力のある文章のなる技である。自分すら騙さないように考えることは、おそらくこう言ったものをいうのだろう。
 今のぼくには、こういう内容のないメモしか残せない。なんとも悔しい思いだ。
 

2008年12月21日

かけがえのないもの

養老孟司
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 丸善本店

 養老孟司の新刊が文庫本で発売されたので、早速読んでみた。内容は講演をまとめたもの。テーマはいかにして都市化・意識化から距離をおいて生きるのか。そのためのアドバイスである。著者が昔から一貫して主張されている脳化、都市化の問題を普通の人でもすんなりと耳を傾けられるようなやさしい語彙で話をしている。養老孟司の講演はこんな感じのものなのかと想像すると、一度は聴いて見たかったと思う。(さすがに、もうあまりされないだろう。)
 全部読んだあとで気がついた。この本は単行本を解題して新潮文庫にしたものだ。ということは、既に一度ぼくは読んでいる。あの本だとハッと気付く。手入れの文化の本だ。読んだのは4年くらい前だから、この読書メモをつけはじめる前だったかもしれない。
 単行本でじっくりと読んだため、本書で指摘されたことは自分のなかに取り込まれている。養老孟司のいうことは自分に取り入れようと努力した結果、それなりに普通の人と考え方が違ってしまうくらいに身についたと自分では思っている。養老孟司のアドバイスを自分の行動に反映させると周りとの調和が乱されることがあるのだ。ぼくが勘違いしているのか、うまくできていないのかはわからないけれど。

 ベランダに鉢植えの花を置き、それをなにとはなしに見るようになった。天気や時間帯によって信じがたいくらい綺麗に見えることがある。慣れない手でプランターの土いじりを初め、虫と格闘したり肥料に頭を悩ませたりしはじめた。歳を取ったことによる心境の変化だと周りには説明していたが、この本の最後にあった「人工物ではないものを一日十分以上みること」というアドバイスに反応してみたのだ。読んだことを実践してみた。すると、人生に深みがでてきてきたような気がする。まったく不思議である。単に花を眺めているだけなのに。現代ではあまり省みられないそういう知恵はぼくにとって貴重である。先輩からアドバスを貰いたいところだけど、不幸なことにぼくには友人関係でも学校関係でも会社関係でも「先輩」という人はない。普通は仕事の上でそういう人に出会うものだが、幸か不幸かぼくは独力でやってきたし、この先もそうみたいだ。だから、養老孟司の本は、ぼくにとっての先生であり先輩の言葉になっている。

 「だって、しょうがねぇじゃねぇか」という説明を受け入れる態度がないと、自然はいらだたしい面ばかり見せてくる。東京に住んでると「美しい自然」などにはメッタにお目にかかれないから。
 歳をとって体調がわるくなるのも仕方ないがない。そんなことも自然の一部。それを当然として受けれられるかどうか。自然について考えていくと、ある種の仏教的なものに近づくような気がする。
 意識ばかりが充満している世界に日々生きていると、なんとも心苦しい。混雑した駅でも、にぎわう繁華街でも、人がたくさんいるオフィスでも。ストレスは不幸だから感じるのではなく、人間関係から発する匂いのようなものではないか。人間関係は「意識的」なものの最たるもの。それを自然を相手にするように、まぁしょうがねぇかという風に流せるようになれれば、いわゆるスストレスから解放される。考え方をかえると、意識に由来する感情的な苦しさは本人がだけがもつ「勘違い」と言えそうだ。寝ているときは忘れているのだから、忘れれば忘れたで何も問題はないはずである。
 脳でも意識でもそうだが、こういうことは身体を動かしていない人が悩まされやすい。会社で会議をしながら一日を過ごす、パソコンのモニタの前に座り続け気がつくと日が暮れているような仕事をしている人には、養老孟司の言葉がある種の薬になるのではないか。ピンとくる人もいれば来ない人もいるだろう。もっとも、ピンと来た人は果たしてその後スムーズに生活しているかといえば、ピンとくるレベルによるだろう。あまりにも理解してしまったら、しばらくは不幸になるはずである。ちょっと反語的だが。

2008年11月28日

思考の補助線

茂木健一郎
PHP新書
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 エッセイをまとめたものである。茂木健一郎が売れはじめてから出版されているので、最近のエッセイかと思っていたが、内容はすこし4,5年前くらいのものだろう。どちらかというと「めんどうくさい」タイプのエッセイ。哲学というか思想というか、そういう読者に向けての文章である。内容が高度かというと、とくにそんなことはない。扱っているテーマは茂木健一郎自身だから、難しくなりようがない。いつになく、面倒な口調なのでめんくらってしまう。連載された場所が知識人が好んで読む硬派なものなのだろう。
 要するに面白くない。お笑いを求めているわけではないが、この内容は自分の内部にしか目が向けられていないので、読んでいて距離がある。そして、意味が分からない箇所が多い。
 例えば、「自分一人で世界を引き受ける」という言葉が語られている。若い頃の茂木健一郎の目的だったのだろう。大きな気概が感じられる表現である。しかし、ぼくにはその意味がわからない。世界を引き受けるとは何をいっているのだろう。本人は文系や理系といった区別なくどのような分野も自分で考えられるようにしたいと言っているようだ。要するに理解したいということ。しかしだ。それが「世界を引き受ける」ということなのだろうか。そもそも、一人で世界をなんとかしようというのは愚かなことであろうし、それくらい茂木健一郎ならば分かっていたはずだ。だから別の意味なのだろうけど、ぼくにはわからない。
 最近にはあまり見かけない、分かりやすく言えば自己陶酔の中にある文章である。茂木健一郎のシンパならば喜んで読むのかもしれないが、普通の人は「結構です」だろう。売れれば何でもいいという出版社ならばともかく、PHPがやる事ではない。
 ただし、この本をそう評価をするのは単にぼくがバカなだけかもしれない。少なくとも著者や編集者はそう主張するだろう。もしそうならば、意味不明な箇所がふんだんにあるので、質問する機会があるといいな。

2008年10月29日

赤めだか

立川談春
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 嫁さんがこの本をとても気に入ったらしく、しつこく勧められたので読んで見た。ぼくはさほど落語に興味をもっているわけではないのだが、八重洲ブックセンターでも入り口近くのお勧めコーナーにしつこく平積みされているところをみるとこの本は売れているのだろう。

 立川談春という人を知らない。立川談志ならば知っている。談志の弟子なんだろう。どのくらい上手な人かはしらない。でも、自伝を出すくらいには有名な人なんだろう。

 彼は高校を中退して弟子入りしている。今どきそういう人がちゃんと存在しているのがうれしい。サラリーマンのように落語家になったというのではどうも面白くない。人間国宝もでているような芸能の世界は昔ながらの徒弟制度が残っていてもいいような気がする。

 落語に道を若いうちに決心するのはすごい。普通は結局なんにも道を見出せないで、学校に行くのだから。自分で道を見出せただけでもなんらかの才能はあるだろう。その事実一つで、その人の自伝ならば読む価値はあると判断してもいいだろう。もっとも、落語家の前には競艇選手になるつもりだったそうだ。単にサラリーマンというなんだかよくわからない職種がいやだっただけかもしれないが。 

 立川談志に入門してから、二つ目、真打ちになるまでの物語はおもしろい。笑ったり涙したり。どこで勉強したのか知らないが、立川談春という人の文章が上手い。噺家は言葉を操る技術者なのだと思うが、文章も上手のようだ。どの噺家もそうなのかはしらない。

 この本は売れたのだろう。気がつくと、落語家の本が新刊で出版されているようだ。落語ブームでもくるのだろうか。


2008年10月20日

日本語は死にかかっている




林望
NTT出版ライブラリーレゾナント04
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 八重洲ブックセンター

 不愉快な本であった。内容のレベルが低いとか間違っているとか、そういうことではない。きっと正しい事を主張されているのだと思う。それでも、この人に好感を持てる人はこの人と同等以上の立場にいる人やこの人が認めた人だけだろう。つまり、友達くらいなものではないかと思う。
 嫌な日本語を使う人に対して、ある種の教育を目指している本ではない。指南書でもない。確かに、こういうことをするべきであると巻末に教えが書かれている。その意味では教育的なことを狙っているのかもしれない。
しかしだ。読んでいるとあちらこちらで目に付く「おれは凄い感」が、もう嫌になってしまうくらい漏れ出していて、困ってしまう。読者を見下げている。中国製の食品のように農薬がしみ込んでいる。立派な人なのかもしれないけど、この人の本は残らないだろうなとしみじみ感じる。
 学ぼうとする人に毒を盛るタイプの本である。

2008年10月11日

大人のいない国




鷲田清一+内田樹
プレジデント社
お勧め指数 □□■■■ (2)

購入店 八重洲ブックセンター

 この秋から冬にかけて内田樹の本が何冊も出版されるそうである。人気が急上昇ということで、出せば売れる状態なのだろう。ならば出版社は黙っていない。とにかく出版する、なんでも出版する、短くても出版する。こんな理由でフォントが大きくて行間が広い本が登場するわけである。この本も悲しいことにそうなっている。値段は千円を超えているのに。
 一昔前に斎藤孝の本がブームになったとき、同じ著者の本なのに短期間に品質が劣化していくさまをみた。内田樹の本でもそれを体験するのだろうか。
 よい本が立て続けてだせるわけないのにばかばか出版していると、リピーターだった人が「まだかよ、もうやめろよ」と思うようになる。僕はそうだった。最後には斎藤孝というブランドが逆転し、斎藤孝の名前をみたら「買わないでいい」という行動をとるようになってしまった。今は茂木健一郎がそうなりつつある。そして、内田樹も続くのだろうか。そんな予感を抱かせる本である。
 
 さて感想だけど、ぼくは面白くないという判定。短い対談が一章あって、そのあとは二人の短いエッセイを束ねてあるだけ。テーマが重複するからお互いの考えているところを理解することはできるかもしれないけど、これ、一冊にまとめて読むようなものではない。
 それに、例によって内田樹のエッセイは過去の本を読んでいるかブログを読んでいればわざわざこのコンテキストで読む必要はないだろう。つまり、この本は出版社のための本である。買わなくていいかなと思う。

 出版社がプレジデントだから仕方ないのかもしれないけど、こういう編集されるとこの出版社について「嫌な」印象を持ってしまう。この本はそこそこ売れるかもしれないけど、長くは売れないだろう。そして記憶にも残らない。残るのは嫌な商売するプレジデント社という経験知だけかもしれない。

2008年9月23日

旅巧者は、人生巧者

ひろ さちや
ヴィレッジブックス新書 13
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 saga書店長津田

 パオロの本を行きだけで読み切ってしまったので、帰りの電車で読むものがない。しかたないので電車に乗る前に新書の一冊でも買ってみようと駅の書店に寄った。ざっとコーナーを眺めたのだが、読みたい本がない。そりゃそうだ。昨日大分買い込んだのだから。などと考えていたら、あと数分で急行が発車する。どうするどうする。

 そんなとき目についたのが「ひろさちや」という文字。この人の本はゆるい。なんというか、さぁがんばろう、という気にならない。まぁ気軽にやろうや的なテーストなのだ。これを癒し系と呼ぶのだろう。なんだかやり切れないなぁ、という落ち込んだときにはもってこいの本である。

 しかし、今日はそんな気分ではない。むしろ元気一杯。しかしまぁ、ともかく読んでみる。江戸時代の旅の手引きを参考になにやら言っている。旅についての本のようである。

 楽しいことばかりが旅ではない。嫌なこともある。むしろ、不案内な土地へいくのならば嫌なことが起きやすい。旅先は自分の家とは違う。当然、おかしなこともある。腹も立つかもしれない。そういうものである。
 しかし、それはそれで旅の機能でもある。もっといえば、目的を持つことすら、旅にはお勧め出来ないものだ。とまぁ、そういう話である。

 確かにそうかもしれない。おっしゃることに反論はない。なるほどと思うことも多い。この本は悪い内容ではない。

 しかし買って後悔したこともある。この本の行間は広く、文字も大きい。30分くらいで読めちゃう内容である。まだ一冊にするような内容のまとまりがない。巻頭の話と巻末の話が同じことを言っていて、編集も手を抜いているようだ。なんでこんないい加減なことするのかなぁ。これは、出版社の問題だろう。この会社の新書は注意するほうがいいかもしれない。


2008年9月16日

狼少年のパラドクス

内田樹
朝日新聞社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 教育論である。ポイントは『下流思考』に尽くされている。同じ路線で話が進んでいる。何か新しい知識を得たい、という人にとってこの本はもうひとつかもしれない。

 しかし、知識を獲得するだけが本の楽しさではない。本=知識では学校試験のメンタリティー。そんなの無視して、内田樹という面白い人を話を聞こう。そう思えば、読んのが楽しくなる。それだったら、聞いたことがある内容ほうが楽しく読めるではないか。この本は論文でも教科書でもなくブログを再構成して編んだ本なのだから、気軽に楽しべいい。

 そういうわりには教育論ではなく、「大学き残り」に目がいってしまった。著者は大学の先生だ。少子化に対応するための苦労を知る。あまりマスコミには登場しない話であろう。マスコミには派手な改革や勝ち組負け組のラベル付けくらいか上がってこない。だから現在稼働中の大学システムをどう修正していくのか、稼働中のシステム変更という雰囲気が面白いのだ。失敗はできないし。

 親も子供も下流指向、あるいは2極化という状況のなか、教育そのものが大変難しいらしい。それに加えて大学の生き残り。大学教授も大変なんだ。よく考えれば当たり前のことだ。大学が減るから教員が余るという単純な問題。そんなことはわかっていただろう。そう思っていても実際起きないとなんのアクションもとれない。大学教授も人の子ということだ。

 もう増えることが予想されない学生に対してなにをすればよいか。一番確実なのは縮小均衡である。ダウンサイジングともいう。小さくすればいい。ところが普通の大学は巨大化を指向する。なぜだろうか。別のタイプの学生を獲得するといったことをやる。それは危険だろう。

 例えば研究費が増えないとわかったならば、研究費が小額でも面白いことができるように準備するが普通だろう。ぼくはそう思う。だから自分ではそうしている。しかし、周りの人は違う。以前よりも大きなことをやろうとする。大きなことを提案して減額され、それで結果的に現在と同じ。そういう方法のようである。


2008年9月13日

恋愛の格差

村上龍
幻冬舎文庫
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 三省堂

 内田樹のエッセイにこの本の引用があった。村上龍の本はずいぶんと昔に『トパーズ』を読んだきりで、とくに読みたいなという気分になるものはなかったから、この本は村上龍の本の2冊目である。

 恋愛論ばかりだったら勘弁してほしいなと思っていたが、時事ネタのようなものや普通の人の問題(結婚とか、パラサイト生活とか)のものもあった。意外に普通のことを言う人なのだと知った。へぇ。

 エッセイで扱っている話題は発散しているので、一体何の本だったのか、もうひとつ記憶に残らない。「なるほど」と思ったこともある。しかし、あぁなるほどぉなぁ、すげぇや、というものはなかった。心に引っかかるものがあれば、その前後は記憶に残る。しかし、なにも引っかからないと記憶になにも残らない。ぼくにとっては、この本をいま読むべき本ではなかったのだろう。

 で、内田樹が引用したエッセイが見当たらないなぁと思っているうちに読み終わってしまうところだったが、最後のエッセイにそれがあった。まったく。結局全部読んでしまった。

2008年8月31日

脳あるヒト心ある人

養老孟司+角田光代
扶桑社新書 032
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 丸善日本橋

 養老孟司さんはもう本を書かないだろうと思っていた。そんなことよりムシを見ていた方がいいだろうから。となると、今後期待できるのは過去の記事をまとめたものか、対談かである。bk1から新刊案内のメールが届いたときうれしかった。対談ならば相手が誰かも気になるところだ。今回は女性作家のようだ。名前は聞いた事があるが、その作品は読んだことはない。嫁さんにも聞いたのだが、読んだことはないが豊崎さんの評価は良かったそうだという話を聞き、少し安心した。

 新聞のリレーエッセイをまとめていたようで、実に養老孟司調の文章である。自分の意見、それにたいする問い掛け、その応答。こういったものが地の文でつづく。養老調のエッセイはある種の気持ちよさすら感じる。ぼくもこういう調子でさっぱりとしたことが書けないものかと憧れている。

 読んでいて驚いた。リレーエッセイのお相手も養老調のエッセイなのである。文章が養老と同じように、地の文をボヤキのようにつづけていく。この種の書きかたは、自分の思考の流れを写すことになるので、そもそも論理的に無理のない、つまりジャンプがない発想が続かないと何を言っているのかわからなくなる。この作家さんはさすがは上手である。ただし、話の内容そのものが女性のものである。もし、養老孟司さんが女性だったらこのリレーエッセイのような文章になるのではないか。

 3年くらい続けれた往復書簡を読んだ。短いものが続いているが、一つ一つには「うま味」のある内容で、考えされられたり自分でも意見をいってみたくなっりするものが多い。実に得な気分になる。最近の新書ブームでは中身がない本が乱発されているが、たまにはこういう価値のある新書も読みたい。でないと、次から買う気分が失せるから。

 自分でも同じテーマで考えをまとめてみようと思う。彼らと比較して自分の考えることも文章力もいかにないのかを知る良い機会であろう。ブログは素人でも参加できる。だったら、やってみて何の問題もないだろう。

 読後(読んでいる最中)にヒトの行動を促すような本は、本として素晴らしい。この本はその意味で買って良かった。


2008年8月 6日

耳と文章力

丸山あかね
講談社 1365円
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1.co.jp

 気になるタイトルだから内容を確認しないで買ってみたけれど、感想はといわれれば・・・。

 著者は「絶対文章力は存在するか」という問いを何人かの作家に投げ掛け、自分なりにも考察している。テーマは面白そうだ。ぼくもちょっと気になる。文章は耳で善し悪しが判断されると感じているとぼくも思っているから。

 しかし、「えぇ、そうなっちゃうかなぁ」というずれを憶えた。着眼点は同じでも行動や考察が同じにならない。人の思考は「その人なり」だし、べつに著者が間違っているとは思わない。だけど、学生のゼミ発表でこの本にあるような展開をしたら相当叩くだろう。

 この本の主題はページ数でいって本書の半分で尽きている。まずいなぁと思って読んでいたが、本書の後半はあきらかに埋め草だったので全部飛ばした。題材が未消化。大半が引用。正直、なんとも残念。焦らないでゆっくり展開させて本にしてもよかったのに。

 著者はライターさんということだ。ライターの仕事の内容について詳しく知らない。その職にある人はどんな動機で文章を書くのだろうか。書くことが好きだから? だったら作家になりそうなものだ。取材が好き?インタビューが好き? ぼくのは想像できない。

 人から言われて書くのだとすれば、テーマが不安定だし、勉強に時間もとれないかもしれない。技術といっても、ライターさんのつくった文章をあれこれ評価してくれる人も少ないだろう。題材の取り上げかた考察方法で腕を振るうことに愉快さを感じるのかもしれない。

 ただ、文章を書き、それを本にしたいという動機でかかれた本。その背景にはいろいろ動機があるのだろうけど、そういう本は面白くないということがわかった。

 ブログをつくることが目的でブログを作る。とすれば、ブログも同じだろう。だから、ブログも面白くないのだろう。


2008年8月 1日

9条どうでしょう?

内田樹+小田島隆+平川克美+町山智浩
毎日新聞社 1200円
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 amazonマーケットプレース

 夏休みムードが深くなるこの時期には、原爆と終戦とが同時に思い出される。といっても、ぼくはしらないけれど。24時間テレビが夏の終わりを告げるように、夏真っ盛りを告げるのはお盆の前の終戦関係のニュースである。

 内田樹の本を物色しているときに、タイトルがしゃれているので気にはなっていたこの本を、ちょうどいい機会なので買って読んで見た。ずばり、もうひとつだった。

 4人のエッセイが含まれているが、内田樹と平川克美だけあればよく、あとはわざわざ本にする必要ないだろう。もとは雑誌の記事かなにかだったのだろうか。書き下ろしだったのだろうか。よくわからないが、視点も仕上がりも違うものをバインドして一冊にされると、抱き合わせ商品をかわされた気分になる。他の二人のエッセイは面白くもつまらなくもないけれど、かわされた感を感じてしまうのでこの著者によい印象を抱かなくなる。結果的に損なものだろう。

 戦争によって問題化を解決するつもりはないし、そのために軍隊をつかうつもりはない。そして、軍隊をもつ。自衛隊と9条との矛盾を一体どうしたらいいのか、というのが9条問題であるとぼくは理解している。

 この問いに対し、内田樹の発言は明解である。9条によって軍隊を封印しているのだ。

 なるほど、その考え方はありだろう。使うために所有しているのならば、出来るだけ使った方がいいじゃないか。使わないのに持っているのはムダじゃないか。9条の問題は、言葉の無純正を追求する人か、ムダをなくせという主張する人がなんとかしろと言っているだけのような気がする。

 使いやすいように法律を整備する必要ないだろう。軍隊は使わないほうがいいに決まっている。だから、封印しておくのだ。そしてそれが憲法だったらいいじゃないか。何をいっても、問題がおきれば平気で法律などやぶるじゃないか。言葉の世界に生きている人の美観を守るために、現実に世界で生きている大勢の人が迷惑を被る必要はないだろう。


2008年7月23日

文学賞メッタ斬り! たいへんよくできました編

大森望
豊崎由美
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 毎年恒例になってしまった文学賞にまつわるあれこれを知る本。ちょっと読むとちゃかしているような感じがするかもしれないが、両人の眼力は信頼できるものである。彼らの論評を読んでから読む本読まない本を決めることにしている。盲目的にそうしているのではなく、実際彼らがお勧めの本を読んでみて、そして、まったくダメといっている本で世間で評判が高い本を読んでみた結果そうしている。絶対的なものではなく、少なくとも彼らのいっていることが全うであり、その選別の見識は僕よりも高いと思っているからそうしている。

 彼らは権威に対しておちょくるところがある。既に何かをなし得たからということではなく、今その人がどういうことをしているかによって評価している。そのおちょくり方は高齢の人に(というは、爺さんには)納得しがたいもの、あるいは噴飯ものかもしれない。しかし、よく考えると非難する爺さんどもは単に爺さんというだけの人だったりする。すくなくともぼくにはそうみえる。著者の二人のほうをぼくは信頼する。

 さて、紹介されているのは主に芥川賞、直木賞である。マスコミで騒がれる賞だけど、その実体はどういったものか。普通どういうモノかを知りたいと思ったら読むほうがいい。しかし、時間もおかねももったいないことになることが「まま」あるので、一応お二人の評論を聞いてからしている。

 ここ数年、どうも読む気にならない。賞をとって「まぁ、そうだろうよ」というものであっても読む気にならない。彼らは絶対的に推しているのではなく、候補作の中ならこれ、という評価をしている。だから、いくら彼らのポイントが高くてもつまらないような気がする。もちりん、彼らが幼いものは全く興味がない。彼らが推しても興味が湧かない。

 なんでだろうか。読んでも勉強になった気がしないからだろう。お笑いならば楽しめる。本ならば学びとる。そうしたいのだけど、最近はそういう作品に出会えていない。別に崇高なものをほしがっているのではない。恩田陸ならば喜んで読む。しかし、ないんだよなぁ、最近。

 不思議に思う。この評論本は読んでいて楽しいし、来年のものも読みたいし多分買う。しかし、そこで紹介されている小説は面白そうに思えないし、だから多分買わない。へんな気分がする。この本の役割は一体なんだろうなと思う。レベルの底上げの啓蒙書なのかもしれない。あるいは、尊敬する先輩のおしゃべりを聞くことが楽しいのかもしれない。


2008年7月18日

こんな日本でよかったね

内田樹
バジリコ 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 内田樹のブログを編集者がピックアップ、再構成したエッセイ本である。この人の著者にはこのタイプのものが多い。本を書いてやろうという直接の企画がない状態で書きためたものが本になっていき、それがベストセラーになっていくというすごさである。確かに並のエッセイよりは面白い。

誰もが「被害者」の立場を先取りしようと、必至に競い合っている。だが、被害者の立場からの出来事の記述は、そうでない人間の記述よりも正確であり、被害者の立場からの提示されるソリューションは、そうでない人間が提示するソリューションより合理的であるという判断には論理的には根拠がない。

 たとえばこの引用を読むと、一気にいろんなことの解決ができてしまう。というか、これまで感情が湧いてきてうまく考えられなかった問題にどう対処したらいいかがわかってくる。それは、殺人事件だったり誘拐だったりといろいろある。そのどれもが、上の「認識」を持つことで考える道筋ができてくるのだ。

 大学三年生相手の就職セミナーでリクルートの営業はまず最初に「みなさんは自分の適性に合った仕事を探し当てることがもっとも重要です」と獅子吼する。  その瞬間に若者たちは「この広い世界のどこかに自分の適性にぴったり合ったたった一つの仕事が存在する」という信憑を刷り込まれる。  もちろん、そのような仕事は存在しない。  だから、「自分の適正にぴったり合ったたった一つの仕事」を探して若者たちは終わりのない長い放浪の旅にでることになる。

 なるほど、とひざをうつ。リクルートって会社のトンデモ性がわかるわけだ。さすが、創業者が御縄になってもなんともないだけはある。

 自分にぴったりを探すというモデルが仕事として成功すれば、次は転職であり、結婚相手であり、式場であり・・・といくらでもビジネスモデルを応用できて設けることができる。

 社会って、そういうことで儲ける人がたくさんいるわけである。もちろんお客さんは、長い目で見ると「カモ」になってしまっているのだ。

 社保庁の乱脈ぶりが伝えられたとき、「これほど腐敗した官僚たちに食い物にされながら、それでもまだ年金支給の原資が残っていた」ことに私は感動した。社保庁にだって、まじめに働いていた人がそれだけいたということである。(略)  社会システムというのは五人に一人くらい「働き者」がいれば十分回るように設計されているのである。それ以上の「働き者」を必要とするシステムは設計の仕方が間違っているのである。

 こういう見方をはっきりと提示してくれる。なるほど、善人が善意で年金運用などするはずがないのだ、ということをよく考えれば「あたりまえ」なことが起きたのだ。そもそも、相手は「役人」なのだ。5人が5人まじめな人間なはずはない。普通の会社だって5人に一人なのだから、50人に一人くらいはちゃんとした人がいるはずで、その人たちがかろうじて年金なんだぞ、ということを理解してくれるているのだけなのだ。悲しい現実だが、そういうものだ。

 ばら色の世界にぼくは住んでいるのではない。それを思い出させてくれる。普通のエッセイだし、楽しいことが書かれているわけではないのだけど、知恵を手にした気がして感動する。


2008年6月21日

小説以外

恩田陸
新潮文庫 590円
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 本のタイトル通り、小説以外の書いたものをエッセイ集としてまとめたもの。文庫本で400ページを越える厚さがある。昔といっても97年くらいからのものだ。何かのコメントやら文庫本の解説やらコラムやらをまとめたもので、正直そんなに面白いものではない。エッセイとして面白いものを書こうとしたものではなく、要するにその文章以外の「なにか」の解説をしているものなので、仕方がないといえば仕方がない。ぼくとしては、誰かの文庫本の解説はいらなかったんじゃないか、と思う。

 恩田陸の普段の生活が垣間見れる。売れっ子の作家の生活がどんなものなのかは知らないけれど、ただいそがしいということであって、何か普通の社会人とは違った種類の人々ではないようだ。楽しみが本と酒のようだから、ごく普通の人のようである。そこはちょっと以外。ぼくとしては、いしいひさいちのマンガにでてくる「藤原ひとみ」のようなものなのかと思っていたから、残念な気もする。

 作家というよりも、本好きの人の行動がわかって面白い。「面白い話を読みたい」ということが、その人の人生をドライブしているのだ。かなりさっぱりした動機なのだ。読みたいというは、話を聞きたいということにつながる。いってみれば、お話好きの子供という感じだと思えばいいようだ。文系の人って、あーだこーだうるさいのかと思っていたのだけど、面白い物語を聞きたい、という動機で十分立派な社会人であり、創造者になれるのだということがわって愉快な気分にある。大学教授などはつまるところ「おれは偉い」というのが動機なのだから、それと比べるとやはり実際にモノをつくっている人と違う。ぼくは、実際にモノをつくった人を信じる。

 面白いものを読みたい、という動機で人生を渡っていくという発想をぼくは持っていなかった。もちろん、学生じゃないのだから思った通りの人生など歩めないことは知っているが、それでも自分はあまり不愉快なことをしないでいい仕事についているので、学生のようは人生論を持っているのかもしれない。現実に接地されていないから、ダメな人生論なんだろうけど。

 面白いものを読みたい、そして、できることならばそれを自分でも作ってみたい。そういう動機で人が生活できるのは実に幸せなことである。それで生きていける人は、過去から考えても多くはないはずだ。時代も才能も技術も、じつに色々なものが同時に自分の身の回りに発生しないとだめだから。そして、良い作品というもののいくつかは、本当にそういう動機が原因で生まれてくるものなのだということも確認できてうれしい気がする。そうでもないと、やってられんでしょう。

 下積みがないからとにかく量をこなした。そう、恩田陸の発言があったが、これは小説を書くという作業が「身体」にまつわることなのだとわかる。読んで考えて解説して、あるいは、論文を書いて。文学というものを未だに理解できないでいるぼくだが、やはり自分でも小説を書かない人がいるのならば、深読み、などしても決して文化に貢献しそうもないのに、なぜそれが学問になるのだろうか。小説は、要するに、身体の技術に違いものだ。歌とかと同系統だろう。とすれば、より小説を理解して楽しむためには、こういう感想メモでもいいから自分でも文章をつくってみることなのではないかと思う。すこしはよい作品の偉大さを感じることができるようになると思うので。


2008年6月14日

もうろくの詩

森毅
青土社 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 森毅の新刊がでているとは思ってもいなかったのでビックリして買ってしまった。さすがに最近はマスコミにも登場しないし、エッセイも書く機会がすくなくなったのだろうと思っていたが、数年分の機会を一気にまとめたものようだ。

 本は面白い。読んでいる側からは、著者の年齢を直接感じることができないから。直接あったり、テレビやラジオなどを通すと、年齢は姿勢にも肌やシワにも声にも所作にも受け答えの速度などにもはっきり現れる。しかし、エッセイならばそれがわからない。森毅のエッセイは昔からのんびりしていて、下目線のところが皆無だったからかもしれないが、話題が親しい友人の死の話であっても、くらいものを感じさせるところがない。おそらくだが、本人はくらい生活をしてないのではないかと思う。

 ぼくが浪人しているときときに出会った『サボリ流数学のすすめ』を読んだことが、本というものに興味をもつきっかけとなった。本と、しょうもない浪人で、そんなんで大学行けんのかと思っていたが、高校最後のテストも0点だった数学を得意科目に変化させ、その後数学を道具として普通に使う工学系へすすみ、博士号までとってしまうことになろうとは、あと時は思わなかった。ビックリするような変化を与えてくれた著者の本は、一応全部読んでおり、まだ書かれているということに、おれもがんばろう、などと意味のない張り切りを感じてしまった。

 さて、この本の内容では、同時代の数学者たちのあれころを話しているところが良かった。ぼくは数学者でもなんでもないが、名前が挙がった日本の数学者は全員何かしら教科書を読んだか、別のブルーバックスや読み物を読んだことがあるから。特段憶えようともしなかったのに名前をはっきり憶えているのだから、大学時代もそれなりに興味を持っていた証拠。

 今でも書いているのだろうか。さすがに次のエッセイ集というのはむずかしかろうか。


2008年5月 6日

ぼくの哲学日記

森本哲郎
集英社 1500円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 哲学日記というタイトルだが、思索日記のほうがふさわしい。さすがに厚みがある内容で、そのいくつかの哲学的な単語や哲学者の話におよび、気軽には読めないものもある。対象とする人がどういう人にしぼったのか、毎月の連載だったからか、苦しい内容もあったりするのだが、それでも「そもそもの不思議を考えること」はずっと続けられている。

 70歳を過ぎてからの内容だから、旅の話というわけにはいかない。その時点でも砂漠に行ったりしているのかよくわからないが、年に何度か数週間ヨーロッパには出かけているようことが書かれている。時差への耐性は歳とともに落ちるらしいようなボヤキがある。サハラのジャンネで絵を見に行ったときの森本哲郎ではないのだなと感じる。

 サハラへ行ったきっかけになった本が紹介されていた。『青い種族』と『沈黙の世界』と言う本だそうで、早速ネットで探して購入した。両者ともに1000円しない。古本探しは本当に便利になったが、だからといってサハラへぷらっと出かけることはできない。それはシステムではなく自分の問題であるが。

 歳をとるとなにを考えるのだろうか。昔から考えていること、昔の思い出、死である。あれだけいろんなところへ旅した人であっても、考える傾向は普通の人と同じなのだ。とすれば、ぼくが今考えていること、今思い出となるような行動は、なるべく多く持っておく方がいいはずだ。考え、行動する。これは現在の自分のためであると同時に、未来の自分のためでもある。もっとも、そこまで健康で生きていれば、であるが。

 73歳になっても、多少トーンに元気がなくなるが、森本哲郎の文章にでてくる「ぼく」は健在であり、哲学についてもエッセイで十分語っている。ぼくも、それくらいまで持っていけるモノを自分に蓄積しておきたいと思っている。そう、思わせてくれる本である。

2008年4月29日

ぼくの作文学校

森本哲郎
角川書店 980円
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 Amazonマーケットプレース

 森本哲郎の自伝的文章術獲得の物語。だれも最初は「わからん」ものなのかと思い、大いに共感し、そして、安心した。子供の頃から文才がある人はいるだろうし、どの分野にもそういう人は存在して大いに良いものを残して欲しいと思っているが、そうでない人がどれくらいいるのかも興味を持っていた。森本さんはどちらかといえばどうすれば文章が書けるようになれるのかを大学になってまで思い悩んだ口なのかと知ってうれしくなった。

 動機は単純なものだ。「どうやったら、自分が思っていることをすらすら文章にできるのか」 文章を学び、書きたいと思うようになった動機はこれ以上ないくらい単純明解だ。そして、ぼくもそうなんだ。同じ動機。別に小説家になりたいわけじゃない。だれもが文学者になりたいわけではないけれど、空を飛んでみたいと同じような動機で絵を描いてみたい、楽器を弾いてみたいと思うことがあるだろう。確かに、最終的に歴史にたえる「作品」を残すには長い時間やり続ける必要があり、そのためにプロになるのが普通だろう。でも、まぁまぁのレベルでもすいすいできれば楽しいだろうなと思っているはたくさんいるはず。ブログを始める人だって多くの人が「自分の考えていることを表現できたら面白いだろう」になっているはずだ。

 この本では小学生時代の作文の宿題の思い出から始まっている。学校の宿題。「自分の思ったことを書けばいいんだ」という、あの無責任な宿題である。読書感想文でも「感想を書けばいいんだよ」などと言われた。今でもこうしたインチキ授業が行われているのだろうか。そうでないことを祈りたいものだ。
 さて、思ったことを書こうとして書けないでいた森本少年は結果的にどうしたかというと、

そしてぼくは、作文というヤツは、要するに何かを「思う」ことなんだ、と、おそまきながら気がついたのであった。

 これ、およそモノを表現する人にはすべて当てはまるのじゃないかと思う言葉だ。そうなんだよ、そもそも普段から「考えていない」と何もでてきやしない。占い師に言い当てられたかのようにぼくはビックリしたが、少年時代にそういうことを悟れた森本哲郎はスゴイ。社会の普通の人は毎日毎日いろんなことを考えて生きているような顔をしているけど、さてブログでも書こうかなと思って「ネタがない」という段階になって、「普段は何も思っていなかった」ということがバレるものだ。しかし、それを自覚できないもの。


 通常の感想文というのは、この本が面白かったつまらなかったと書いてしまうところからスタートするものだが、それはよくみると本の紹介ではなくて「書いている自分の紹介」になっていることが多い。

作者はまず、自分がこれから何を書こうとしているのか、それを書きたいわけは何か、どういう側面について書くのか、つまり主題をはっきりとこわっているじゃないか。

 こういう具合に、いろんな人から「文章を書くとは」を教わりながら文章についての思索つづられていき、新聞記者になり、日曜版の記事を書くというところまで進んでいく。読んでいると自分も成長した気分になる。

 そして、文章上達についてはこういう見解のようである。

 英語を勉強するには英文を和訳するのと同時に、和文を英訳する練習をしなければならない。それとおなじで、文章を学ぶには、書くことはもちろん、同時に、読むことに習熟しなければならないのである。読むことは書くことと同様、内言語、外言語(自分の頭のなかだけで使っている理解の道具を内言語、他人とコミュニケーションのために生成する道具を外言語と言っている)の翻訳になれるということだからである。
 面倒がらずに読み、かつ、書くこと ー 作文の秘訣は、やはりこれ以外になさそうである。

 おそらく、そうなんだろう。だから、これ以上「文章術」なるようは本を読むのはやめようかと思っている。もちろん、この本も文章術の本で、だからこそこの文章に出会えたという事実はあるのだが。

 だが、そうはいっても、文章を書くための根本条件は、やはり第一に、書きたいものを心の中にもつということだ。いくら内言語と外言語の翻訳に自身がついても、かんじんな何を書くか、それが頭になければ文章はつくれまい。じつをいうと、ぼくがこれまで考え続けてきたのは、まさにそのことだった。何を、どう、考えたらいいのかーそのためにぼくは苦闘しつづけてきたのである。しかし、考えは無からは生まれない。考えるには考える材料がいる。その材料とは知識であり、情感であり、さまざまなイメージであり、疑問であり、それらすべてをひっくるめて「関心」といってもよい。つまり、何かに関心がなければべつに考えることもなく、何も考えなければー文章に技術にどれほど通じていようとーひとかけらの文章も書けないのだ。したがって、作文にとって何よりも必要なことは「関心」であり、心のなかになにを書きたいと思うことをいつも持っていることといってよかろう。なんとも迂遠な道のように思えるかもしれないが、「関心」こそが文章をつくりあげるのだ、ということを明記すべきであろう。

 これまでずっと知りたかったことの答えがある。ただし、それは半ば予想通り半ば意外なものだ。ぼくにとってだが。
 何かを始めるとき、道具や技術が「ない」から思った通りのことができないと考えるのは仕方ないことだが、ある程度歳をとると「道具や技術じゃない」と悟る機会はある。
 しかし、道具や技術じゃないと宣言してしまうと、そこで「才能論」になってしまう。そうなったら全てが無に帰すことになる。無責任な人は才能論をいうのだが、才能論は「結果がでたときになって」始めて才能があったといえるものであって、結果がでるまではなんともいえない性質のものだ。だから、これから何かをやろうという人には有効な議論の材料にはならない。

 文章はなぜ存在するのかから考える。自分が関心をもち、それを相手に伝える。その動機があるかぎり、読むこと書くことを訓練すればいい。ただ、それだけなのだ。
 ぼくも文章が上手になりたいと思っている。ならば、ただ読みと書きを工夫しながら続ければいい、ということだ。

 

2008年4月 2日

生きがいへの旅

森本哲郎
角川文庫 340円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 また森本哲郎の本を手にしてしまった。定価は安いが30年前以上前の値段。1970年時点で1960年の日本に生きている日本人が日本について思索するというエッセイ集で、旅をしてに出かけるという本ではない。また、自身が主人公のフィクションでもない。こういう風に思索できればいいな、という哲学の見本を見せてくれている。英語とフランス語があれば、大抵の国にでかけそこで友達を持つことができるのだな、とちょっとうらやましくなる。

 4部構成だけで、時を立つのを忘れるくらい面白いのは1部。ベトナム戦争についてはとくに勉強したこともないし、とくに興味をもって調べたわけでもないからよく知らないが、当時ベトナムで記者をやっていた視点からベトナム戦争を語ってくれている。これを読むと、アメリカはいったい何をやっているのかよくわからなくなる。人の家に土足で踏み込んであれこれ指図しようとして、その家の住人とケンカになる、というイラク戦争のようなことをしていたのかと思う。イラク戦争は要するに石油を確保したいがために手の込んだ芝居をしているのだけど、それはベトナム戦争の失敗から学んだこそくな方法なんだなと知った。

 2部から4部までは、純粋な思索である。ちょっと高度な感じがする。お気楽に読んでいたら疲れてしまった。とくにその自体の日本とつよくリンクしているような気はしない。今でも問題なく議論できるような内容である。ぼくにとってはもうひとつ面白くない。通勤電車では辛い。

2008年1月21日

大人は楽しい

内田樹+鈴木晶
ちくま文庫 700円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 内田樹エッセイが読みたいなぁとおもってここのところ大分読んだのだが、そろそろ底を突いてきた。ブログを読むなら新しいものがあるのだろうけど、通勤電車で読むという性格上単行本が好ましい。ということで、アマゾンで評価の高かった単行本を選んでみた。が、ダメだった。

 どうしてだろうか。著者の二人は気があっており、経歴(学歴や職業や家族・環境?)なども似た者通しだというが、発言や発想から言えば差が目に付いて読んでいられない。発言の切り口などや読者への配慮などは内田樹が圧倒的で、わざわざ対談を読む必要ないなと改めて反省させてくれる。実力とうか、面白さというか、そういうものを比較したいわけではないのに、この手の本を読むとバレバレになっていて読むのが心苦しい気がするくらいだ。この対談は「マッチ」していない。といっても、この本は単なる「交換日記」ということで、ゆるい精神状態?でのやり取りだろうから、それをもってその人たちの評価とするのはおかしな結論へ導くかもしれない。でも、つまらんかった。

 あー、対談本はやだ。

2008年1月19日

街場の現代思想

内田樹
NTT出版 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 文化資本のついての記述は衝撃的であり、読んだ後にシュンとなってしまう。ぼくのような普通の人ならばちょっと何かをする気力をすべて失わせるくらいのインパクトがある。これについては『下流志向』の中できちんと語られているので詳細はそちらにゆるずるとしても、でもなお、次のようなことは「はっきり言ってしまったなぁ」というもので、「本当のことを言うもんじゃない」と言われそうな気がする。

 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。
 文化資本は先ほど述べたように、「気がついたら、もう身についていた」ものであり、「気がついたら、身についていなかった」人は、すでにほとんど回復不能の遅れをとっている。というのは、芸術の鑑識眼についても美食についても作法についても、そのようなものを身に付けたいという欲望をもつということは、すでに「文化資本が身体化されている人」と、そうでない人との間に、歴然とした社会的な際が生じていることの効果だからである。
(かなり省略)
 ひどい話だ。
 「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。
 「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会のげんりである。

 よいわるいといった能力の違いの話ではない。文化的なものに対する「感度」の問題なのだ。それは、育ちで決まる。なぜなら、そういう環境に住んでいれば「感度」が自然とあがる。努力しないでも感度が合ってしまう。一方、そうでない生活をした人ならば「勉強」して身に付けるよりない。でもしれは知識なのだ。その違いは、決定的だ。

 この本で、ぼくが学んだことは次の方だ。それはいわゆる「決心」に関するなのだ。ある人が「社内改革をするべきか、ベンチャーなどをおこすほうが良いのか」といった、今後の仕事の上での決心を相談しているくだりである。内田樹はこう言う。

 (略)職場を自分にとって気分の良い場所に自らの手で作り変えようという「社内改革」は、もちろん「転職」するよりもずっと積極的な選択である。このことに異論がある方はおられないだろう。
 だが、多くの人が見落としていることがある。
 それは何かの計画について「可能性があるか否か」が論じられるのは、すでにその可能性がある程度まで経験的に確証された」場合に限られる、ということである。
 例えば、君がプロのピアニストとしてやっていけるかどうかという可能性について検討する場合、少なくとも君はピアノが弾けなければならない。「ピアノは弾けないのですが、プロのピアニストとしてやっていけるでしょうか?」というような問いにまじめに答えてくれる人間はどこにもいない。
 社内改革もそれと同じである。
 (略)
 社内改革の運動というものは、「もう始まっていて、君がすでにコミットしており、それゆえ会社に行く毎日がたいへん愉快である」というかたちでしか存在しない。「あぁ、会社行くのがつまんねーな。いっそ、社内改革しちゃおうかな」というような発言というのは原理的にありえないのである。

 こういう発言をしてくれる人が身近にいたらラッキーだ。普通は「がんばれよ、気になら出来る」というようなことか言われない。しかし、現実的に考えたら内田樹のいう通りだ。何かを始める前に決心する。その際に、出来るか出来ないかを問うのは無意味なんだ。その質問は「とりえず始めてみて、なんらかの応答を得られた人、感触をつかんだ人」がするものだ。

 これは別の問題にも応用できる。「その仕事に向いているでしょうか?」「なになにになりたいのですが、できるでしょうか?」というあまたあるものに責任を持って答えるには、「聞く前にその作業をしてみろ。その作業のとば口につけたら、すこしつづけてみろ。そうでないかぎり、無意味だ。」つまり、寝言は寝て言え、的な指摘をすればいいのだ。

 こう言う指摘をしてくれる人こそ教師なんだな。
 
 

2008年1月17日

私の身体は頭がいい

内田樹
文春文庫 571円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田樹は武道家だそうである。自身が武道家ならば、身体について考えることが普通の人よりもあるだろう。体調がよい悪いや体に良い、という軸以外にいろいろな味方をもっているはずである。

 武道の経験はない。だから、体の動きに関しての記述に同感することがなかなかできない。やっぱりこの本はぼくには向かないのかなと思っていたら、次のような記述にであった。

 私はその後もいくつかの武道を経験したが、稽古している現時的な技術上の課題の「意味」と、修業の究極の「目的」とを統一的な枠組みのうちで語ってくれる指導者に出会うことはできなかった。ときには「不動心」とか「心技体の一致」とか「剣禅一如」とかいう言葉で包括的な解答を試みようとする人もいたけれど、その言葉が技術的に何を意味するのか、人間としての生き方にどうかかわるのかについては私ははっきりしたことはわからなかった。
 ここに欠けていたのは、私たちが「私は今修業上のどの段階にいて、どこへむかっているのか」を理解させてくれる「マッピング」の言語である。

 教育法の一つとしてだろうけど、「いいから黙ってやれ」という指導者がいる。どうせ、説明しても生徒に理解できるはずもない。理解できないのだから、指導していることに意味をいちいち納得させるひつようがないからだ。だまって師匠に従えばいい。『先生はえらい』で内田樹が主張していることだ。何処へ向かっているのかについて師匠が語る必要はない。生徒はいろいろ修業をこなすうちに「気付く」はずである。そういう主張だったのだ。なにか、ぼくが勘違いをしているのだろうか。

 そう思ってい読んでいくと、どうやら「マッピング」で意味するところは、技術などといった局所的なことではなく、ほぼ人生論のようなもののようだ。「武道について」を語ってくれ。そういうことのようだ。人生として関わる人探しには、「オレはいま何処にいて、何処へ目指そうとしている」ということを語ってくれる人がいい。そういう結論のようだが、私の読みか違いかもしれない。


2008年1月15日

態度が悪くてすみません

内田樹
角川oneテーマ21 724円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この本もブログをもとに一冊の本をまとめたということだ。長さがまちまちだし、テーマもばらつきがある。何かを述べたくて書かれたものではない。それでも、編集者がうまいことピックアップしているので、まとまっている。

 この本も勉強になることがたくさん書かれているが、個人的に感じ入ったことを少しピックアップしてみる。一般的には同とらえられるのかはわからない。

 国が滅びる、ということばを耳にすることがあるが、それはいったいどういう状態なのだろうか?

 「滅びる」といってもべつに革命が起こるとか、国家が解体するというようなドラスティックなことが起こるわけではない。
 ただ、経済が低迷し、文化的発言力が衰え、科学も芸術も精彩を欠き、国際社会での信用が失われ、その発言に誰も真剣に耳を傾けなくなる、ということだけである。

 なんだ、じゃもう滅びてるじゃんといえそうな気がするところが結構思い当たる。これは絶対的な評価ではなく、すべて以前と比べての比較級であろうとおもう。これらの要素が「全部一斉にマイナス」になれば、それは滅びているということなのだろう。国のレベルでなくとも、ある一定の役割をもっている組織にもいえそうな。その組織を特徴づける指標をピックアップし、それが全部マイナスならば衰退というわけだ。

 これは国家の老齢を測る尺度になるということで、アメリカの老齢化の説明している箇所で示されたものだ。他にも、その状態での人々の特徴にも次のようなことが言えるらしい。

 最近のアメリカの外交を見ていると、自ずから醸し出せる威厳に人々が服するというより、すぐに「オレを誰だと思っているんだ!」と怒鳴り出すで、それがうるさいから人々がしぶしぶ「はいはい」と言うことを聞いているような印象がする。
 この「オレを誰だと思っているんだ」症候群は、私たちの周りでも、定年退職後の完了はサラリーマンに顕著に見られるものであるが、それまでごく普通に享受していた社会的敬意が失われてゆき、「身の丈にあった敬意」しか受けられなくなったことに対する苛立ちの表現であり、これまた「ボケ」の最初の兆候としてしられている。  それって、よく知られたものだったのか。「身の丈にあった敬意」というフレーズは大切なものである。人間関係にある「不満」の第一は、人々がそれぞれ「身の丈にあった敬意」を受けていないという思いから発生する。言わば勘違いの一種である。それは、ちょっとした会話などから「敬意」というもの感ずることが誰でもできるのだが、大抵は「そういう扱い?」という侮辱を感じた人からいろいろ問題が起きる。これが「ボケ」の指標だとしたら、夜郎自大な態度は全部それに通ずるのだ。それぞれの人も自戒したほうがいい。

 なぜだろうか。内田樹の本はいつも本筋と関係ないようなところで、社会常識的なことを教えてくれる。本来ならば、だれが注意してくれそうな内容なのだけど、もうそういう人が周りにいないからとても助かる。 
 

2008年1月11日

疲れすぎて眠れぬ夜のために

内田樹
角川文庫 514円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 これまで何度となく「迷って」きた。内田樹とするべきか、内田樹さんとするべきか、内田樹先生とするべきなのか。いわゆる敬称というものとして何を使えばいいのだろうか。知り合いでも師弟関係でもないし、ぼくとはおおよそ無縁の偉い大学の先生だから、ニュートンとか坂本龍馬というような人と同じでいいやと思い、つまり、歴史上の人物と同じ扱いという意味で敬称略でいいやということにしようと今思った。これからはもう悩まないようにしよう。

 さて、この本は内田樹ブログから引っ張って何かの原稿に使ったエッセイをまとめている。この人の本は、きっちりしたものもスゴイが、たんなるブログでもスゴイ。面白い、愉快というのと同時に、なるほどなぁ、おれは今まで何にも考えていなかった部類のバカな人間なんだなぁとしみじみ思わせてくれる。打ちのめされるというよりも、勉強しちゃたという気分にさせてくれる。エッセイなのでとくに「コア」となる話を展開しているわけではない。毎回読みきり。長さはまちまち。

 この一文が心に残った。

 「人間の心身の力には限界がない」というのは現代人の陥りがちな誤解であるということを先ほど申し上げましたが、そのような誤解のうちもっとも危険なものの一つは「不愉快な人間関係に耐える能力」を人間的能力の一つだと思い込むことです。
 これは、若い人に限らず、性別を問わず、あらゆる年代の人に見ることとができる傾向です。
 でも、「不愉快な人間関係に耐える」というのは、ぼくに言わせれば、むしろ有害であり、命を知事メル方向にしか作用しません。

 不愉快な関係に耐えたとしても、それはその人の感覚を摩耗させやがえて自身が不愉快な人になるだけで。がんばると悪い方向にしか行かないということだ。

 全く同意した。ぼくもそう思っていた。嫌な人間には経緯をもって離れていろ、ということを大前研一の本で読んだ以来。もう何年もなる。内田樹は「挨拶だけして、離れていろ」と言っている。同じだ。ちょっとうれしかった。

 嫌なことをずっとやらせていることが「修業」だと思う人がいる。人の適性はスゴイから、嫌な人といることに対応できるようになるのだが、それは「不快感」が自分の内部に沈み込んでしまったからのだろう。そして、それは、自分自身がそういう嫌な人になっているのだ。当然、そういう人はそれを他人に教養する。要するに、ゾンビということだ。

 人間関係のくだらなさは、それが「自然現象」でも「歴史的必然」でもないことだ。そんなのあてもなくても、社会においてはどうでもよいことだ。自分が思っている程効果がない。逃げるべき。

 もうひとつ、目からうろがあった。

 世代についての誤解のもっとも分かりやすい例は「戦後世代」ということばです。「戦後世代」というと、ふつうは「団塊の世代」のことを連想します。昭和二十年から二十五年生まれくらいの人々が戦後社会の基調を決定したのだ、というふうに。(略)
 戦後の復興を担ったのは、明治生まれの人たちです。
 だってそうでしょう。ぼくの父は明治四十五年生まれですが、その父は敗戦の年にようやく三十二歳です。まだ白面の青年です。ということは、敗戦直後において政治経済や文化的な活動を実質的に牽引していたのは、明治二十年代、三十年代生まれの人々だったということです。(略)
 みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興をまずになったのは、漱石が日本の未来を託したあの「坊ちゃん」や「三四郎」の世代だということです。

 坊ちゃんたちに漱石がどういう思いを託したのかは、内田樹の別のエッセイに紹介されているのだが、それよりも重要なことは「団塊の世代」の物語って、意外にそこが浅いということ。すっかり騙されていた。冷静に考えれば当たり前なんだけど、自分たちがやってもいないことを自分の功績のようにいう人は一杯いるどころは「普通そうする」ということに注意しなければならない。偉そうなことは大抵ウソだと思ったほうが、勘違いをしなくてすむといえそうだ。

 内田樹のエッセイは、こういう驚きがたくさんある。原稿依頼がないのにずっとブログに書きためている理由は、個人的な興味を言葉にして自分で見えるようにするためなのだろう。議論する相手無しで考察するためには文章に書いて、自分で読むことなんだろうな。

2008年1月 7日

すべては音楽から生まれる

茂木健一郎
PHP新書 680円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 あー、だめだ。こういうネタは普通の人向きの本にならない。すくなくとも、さほどクラシックに思い入れがない人には全く得るものがない。どころか、腹が立ってくる。実に、実にいい加減な本を作るようになったなぁ、茂木さんは。といっても、出版社の人が実際は企画してくるのだろうから、仕方ないのだろうけど。「斎藤孝」状態だ。もう、買わん。売れっ子になると、売れるから何でもよくなるのだろう。少なくとも、この著者は自分の本を金を出して買う、という気になっていないだろうなと思う。

 新書は週刊雑誌の埋め草のようなものをのせることしかできない。そう思われたら悲しい。もっと、迫力のある本はたくさんある。こんな本が出版される必要はないないはずだろう。昔の茂木さんだったら、自分で批判しそうなもんだけど・・・。

2008年1月 3日

ぼくはいくじなしと、ここに宣言する

森毅
青土社 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ぼくが読書という習慣を身に付けた頃にずいぶんと森さんのエッセイ集を読んだ。同時出版されているものはだいたい読んだと思う。浪人していたとき、多いに励まされた。今のぼくは一連の森さんの本があったならではだろうと思う。しばらく前はずいぶんとテレビにもでていたけど、さすがに高齢だろうから最近はあまり見かけない。それでも新刊を見かけることがあり、つい買ってしまう。

 読む前に内容に察しがついてしまう。読んでみて、やっぱりそうだと思う。それでも、読んでしまう。なぜなら、この人のエッセイから血眼になって何かを発見しようとする気持ちはもうないから。浪人生だった当時、森さんの一連の受験関係のエッセイはぼくには衝撃的だった。数学に対するイメージも多いにかわり、全く数学嫌いの自分だったが、ずいぶんと精進して数学好きにまでなった。人生って、気に入った作家を見つけると大いに変わってしまうものだ。この本も、読んで楽になる。加藤締三さんの本と同じで、一種の薬となっている。どうしようかなと迷いが多い若い頃に、こういう人の気軽なエッセイを読めてよかった。

 書いてあることに察しはつくのだけど、読むたびに自分で理解していた別のことと一致していることに気付く。というか、理解するときはたいていすでにあるフレームワークに落とし込もうとするからだろう。「一丸となってなになにをしよう」という行動に対してアレルギーを持ってしまう自分のクセは、100%森さんの本から得たものなのだろう。このように感情にまで達したクセは、なぜそれを身に付けるに到ったのかの理由を覚えていないものだが、軍隊的なもの、集団一致の志向に対するぼくの嫌悪感は、森さんの「数学のすすめ」シリーズが元ネタだろう。

 ときたま原点に戻ることは、意外に実りがあるもの。ぼくの原点は高校卒業後の2年間にあるのだから、その頃熟読していた本は作家については、一生を通じて定期的に読んでみようと思うし、それを他の人に勧めたいと思っている。

2007年12月12日

翻訳夜話2 サリンジャー戦記

村上春樹+柴田元幸
文春文庫 777円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 サリンジャーの新訳を村上春樹さんがおこなったというこで、翻訳についてのあれこれを語りあった対談である。実は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読む前に購入し、すこし読んだのだが「ホールデンって誰?」という始末だったので、慌ててキャチャーを読んだ。その直後にこの本を読んだことになる。翻訳という行為についての対談は、方や小説家、方や文学教授ということで見たかが微妙に違いおもしろい。また、サリンジャーについての話も興味深い(であろうと思う。私はファンではない)。

 後書きに柴田さんがなにやら書いてるのだが、これはびっくりするくらい出来がわるいと思った。なるほど、文学者といっても読んで理解するのことに優れているのだろうけど、想像するのは普通の人なんだということを思いがけず理解できた。そこで、疑問に思うのだが、文学の研究というのは、文学と社会の関係をつけることであって、とても「小説家になりたい」人がやるものではないのだろう。

2007年12月11日

知に働けば蔵が建つ

内田樹
文藝春秋 1524円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ニートって言葉はよく聞くけど、実体は知らない。友達にはいなかったし、自分もそうではない。病的なところがあるわけでもない普通の人だから、すれ違うだけでは分からないし。アルバイトをずっとやっている人という理解でよいのだろうか。教育も訓練も充分でない人たちという理解している。

 内田さんの教育に関するお話は説得力がある。思い当たる節がある。また、ものを考える訓練を積んでいる方なので、その結論には直感的なものだけではなく、そもそも論からのきちんとした論理がとおっている。だから、きっとその通りになるのだろうなと思うから、ちょっと怖くなる。

 自分はどういう世代にいるのか。モノを学ぶことを「等価交換」と考える面が全くないとはいえないが、それは自分をどこまで冷静に評価しての結論なのか少し自信がない。とはいえ、ここまでひどくないだろうし、そんな友達はいなかったなぁと思いながら内田さんが描く現在の若者像を読んでいる。まったく、絶望的なところがある。何もできないのに、あるいは学ばないのに、「おれって実はスゴイ感」をもつ人とどう付き合っていけばいいのだろうか。結論は、離れているということなる、私の場合は。

 考えを現実とすり合わせる良い方法は、接地することである。要するに、現実に対して何かをやってみればよい。それは、体を使っての行動結果である必要がある。やってみれば、バレてしまうのだ。テストではなく、実際の行為。なんでもそうだが、大抵うまくいかない。パソコンを叩く事は、どちらかといえば「接地」には属さないような気がする。

 それにしても、ものごと「起源」から考えるというのは、スゴイ効果が得られる。考えることのすごさが身にしみる。

2007年12月 3日

村上春樹にご用心

内田樹
アルテスパブリッシング 1600円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 村上春樹論とうことで買ってみた。この本の成り立ちが面白い。著者がブログに書いたもの、過去に出版されたエッセイから「村上春樹」というキーワードで検索した結果をまとめたら一冊になった、という感じのもののようだ。そんなんで、本ができちゃうのか。

 書き下ろしではないので、助走から始まり結論ちかくで畳み込んでいく感のようなものは全くない。すでにいろいろなところで表明されいている「雪かき論、うなぎ論」についての補足説明をいろいろなエッセイで行っていたものを再構成しているので、冗長、重複が結構見受けられる。アンソロジーだから、まぁいいか、という感じのつくりである。

 この本を読んでいたら、なんだか村上春樹が読みたくなってきた。僕もいくつか読んでいる好きな作家である。翻訳書は読んでいないのだが、ロング・グッドバイを早速買ってきたので読んでみようと思う。


 村上春樹論とは別のところで興味をもった。この本の一つの節は、おそらく、ブログの一トピックに対応するのかもしれない。スゴイ長いわけではない。日記のようなものもある。それで、ふんふんと納得するような論説が書かれている。本を書くような人は、ブログでもこのような論節を書いてしまうのだろう。出版予定も掲載予定もないとして、学術用のものでもないとしても、それでも書くのか。そういうどうでもいい(?)ところに感心してしまった。

2007年11月28日

期間限定の思想

内田樹
晶文社 1890円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 このエッセイでもすこし時事的なものを扱っている。役人の問題だったり、ニートの問題だったり。それはそれで面白いが、こんな話も興味深かった。

 日本の上司は、仕事のできる自立心のある部下より、仕事はあまりできないけど、「課長、おれはどこまでも課長についていきますよぉ」とすがってくるようなバカ社員のほうが部下として好ましいと思っている。

・・・

 多くの上司は、とくに自分の能力に自信のない上司は、「仕事ができて自立心旺盛な部下」を組織的に「バカ」化することにいのちがけになる。

・・・

 社員が仕事を覚えて「使いもの」になりそうな気配がしてくると、ただちに「ふたつのこと」を陰に日向にやんわりとあるいは声高に強制する。それは、「結婚すること」と「家を買うこと」である。

・・・

 妻子とローンを抱えた男性社員は上司にとって、「いくらいびっても、いくらこきを使っても反抗しない」最高につかいやすい部下と化す。

・・・

日本のサラリーマンは半径三メートル以内にいる女性の中から配偶者を見出す。

・・・

企業が既婚女性を排除し、未婚女性を絶えず大量に職場に供給しようと躍起になっていた労務管理上「合理的」な理由はそれだけである。

・・・

つまり「妻子」の重石を男子社員に担わせ、彼らを決して会社に反抗できない「社畜」へと馴致することなのである。

・・・

企業の格が上がるほど、女子社員が美人になる。

 これらのストーリーを古い大前研一さんの本で読んだことがある。内田さんは現代思想の人だから、共通の情報源からの推論ということはなく、単に「本当にそうなんだろう」ということである。

 こういう、身も蓋もないことを言われると社会を見るめが多いに変わる。それが事実かどうかによらず、そう言う発想もあったのかと、「なるほど」とひざをうつ経験が増えるのである。学ぶということが、やめられない。

2007年11月27日

「おじさん」的思考

内田樹
晶文社 1995円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 評論エッセイ集です。まぁ、軽い感じで、読者も普通の人を対象としている。だから、説明は具体的である。例えば、今の日本ついてのくだりで次のような説明をしている。

 明治が起業記で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつもまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、無一文の晩年、というのが近代日本の「人生」である。

 笑ってしまう。もちろん、エッセイだからいろんなテーマがあり、そんなかで若い頃の気付きのような場面にも今の私がいたく共感するようなものもあった。

 というのも、レアルポリティークの場面では私は結局「誰かの尻」についていくことしかできないし、「誰かの尻」についていって、何らかの政治的成果を勝ち得たとしても、それは結局「私のもの」ではないからだ。

 私は「私の政治」というものー私以外の誰によっても構想しえず、私がいなければ決して実現できず、私が完全なる熱狂をもってそのために死ぬことができるような政治行動をーがありうるかどうかをしりかたかったのである。

 結局、全ての人にあるわけではないのだけど、一度はやってみたいという気持ちはある。

 でも、この当時興味をもっていたのは教育の話で、学級崩壊のダイナミクスについても、別の本で紹介していた「消費者」としての子供は学習することができないという話を別の角度から説明している。

 しかし、小学生の段階で「ものを習う」ことを放棄し、「ものを習う」仕方そのものを身に付けずに大きくなってしまった子供は、長じたのちも「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」をうまく習得することができない。対話的、双方向コミュニケーションの仕方が分からないからである。

 彼らは長い時間人の話を注意深く聞くことができない。人にものを教わるときの適切な儀礼(表面上の恭順さの演技)ができない。なによりも、教える相手に「自分が何を理解していないか」を理解させることができない。この子どもたちが「学級崩壊」の主人公たちである。

 要するに、彼らは「自分がしらないこと、自分に出来ないこと」をどうやって知ったり、できたりするようになるのかの「みちすじ」が分からないのである。

 だから彼らには「自分がすでにしっていること、自分がすでにできること」を量的に増大させる道しか残されていない。

 小学校の学級崩壊だけでなく、大学で勉強しない学生や、意味不明な若い社員にも全部に共通することである。かれは、学習する能力が本質的にない。ということは、そもそも教えることはムダなのだ。

 では、どういうものが大人なのか。それを内田さんは「夏目漱石の小説」という切り口から紹介してくれている。どういう人が師匠になるのか、大人になるとはどういう意味か。明治期にどうしていいかわからない若者に対するメッセージとして漱石は小説を書いた。そういう話である。

 小説の起源の一端を知った気がした。内田さんの本が何故面白いのか。それは、ものごとの「起源」を真摯に問い、それを考察してくれるからであろう。結構忍耐ずよい「哲学能力」がないとなかなかたどりつかないものだ。そういうものを読める自分は幸せであるが、一方でそれでは自分の哲学にならないとも思ったりする。最後は自分で考えないとだめだ。この人の方法をつかって、自分の身時かなことについて考えてみたい。そう、思った。

2007年11月23日

ためらいの倫理学

内田樹
角川文庫 629円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ウェブに発表された論文(エッセイ)を出版したもので、内容は戦争について、性(というはフェミニズムは嫌いということ)について、そして、教育について。読書メモを備忘録として載せている私からみると、すごい質のものをのせているのだなぁと驚いてしまう。結局、ウェブの質は物書きレベルの人がどれだけ好意でのせてくれるかによって大きく変わるんだろうということを思い知った。

 著者は現代思想の研究者であるから、さすがに評論も「哲学」になっている。私の意味では、語るテーマについての起源を考察し、そこから演繹的に良いこと悪いことを導き出しているということである。こういう行為は、私は畏敬の念を持ってながめるよりない。だって、オレじゃできんもん。

2007年11月22日

バカにならない読書術

養老孟司+池田清彦+吉岡忍
朝日新書 740円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 かなりつまらない鼎談。メンツはいいのだけど、紹介された本を読んでみようという気分には私はならなかった。もし、この鼎談だけが出版されたら売れないです。だからこそ、前半に養老先生のエッセイが入っているのだろうと想像する。

2007年11月21日

養老訓

養老孟司
新潮社 1200円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 しばらく養老先生の本は出版されないのかと思っていたら、店頭で見かけたので買った。どうやら講演をおこしたもののようだ。

 講演を聞いている人には、なぜか苦虫をつぶしたような表情のじいさんがいるそうだ。みんながわらってもぴくりともしない。なんで、いるんだろう。そういう人。講演だけでなく、社会にはそういう人結構いる。だから、私は電車などではじいさんからは「なるべく離れる」ようにしている。

 そういう人の不機嫌の原因は、私の想像だが、自分が尊敬されていないからだと思う。赤の他人に尊敬を求めるのはかなり苦しいことだと思うのだが、しかし彼らは「年上なのだから尊敬しろ」ということを不機嫌な表情で私たちに迫っているのではないかと思うのだ。

 その種の不機嫌さは、じつは老人に限らない。自分の周りにいるひとを「奴隷」と勘違いしている人もけっこういるのものだ。この本には、こんな例があった。グリーン車でパソコンをつかっていたら、車掌経由で「キーボードの音がうるさい」という非難があったそうだ。

 世の中は思い通りにならないもの

 ほんとうにグリーン車が無音のような静けさだったらどうでしょう。自分の会話がみんなに聞かれそうだから嫌かもしれません。そんなふううにめぐりめぐって、自分も辛くなるはずです。実は一番快適なじょうたいというものは、たいていの人で違わないものです。

 私は電車で無闇に「うるさい」と怒る人については、仕事がうまくいっていない人だろうと思うようにしています。仮にうまくいっていたとしても、それはたまたまであって、「無理して仕事をやっている人なんだな、気の毒だな」と思うのです。

 遠慮してそういているのかもしれないけど、おそらく、他人からうるさがれている人が怒りやすい。その逆ではない。この話の類はすべて「余裕のなさ」が原因なんでしょうね。世の中、そういう人が多いのならば、世の中には不幸な人があふれているということです。まぁ、離れているに限りますな。

 実に厭世的な気分になってしまうこともあるのだけど、その時はこう思うことにしている。

 なんだかんだいっても、死んでしまうんだからいいじゃねぇか。今の社会は人が作っているのではくて、石油が作っているのだから、石油がなくなれば消えてなくなる。どんなに自分が成功しても、石油が消えれば消えてなくなる。

2007年11月20日

ぼちぼち結論

養老孟司
中公新書 700円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 空港の書店で偶然購入し、飛行機の中で一回、帰ってきてからまた一回読んでしまった。「結論」とあるが、これまでのエッセイと変わることなく聞入ってしまう話が多かったようだ。とくに、教育についてはかなり心配されているようであり、内田樹や諏訪哲二さんの著書をもとに考察されている。「消費者として人生に登場する」子供に対して教育は不可能ではないか、という疑問を話されている。私の年代では学級崩壊は起きていなかったが、「教育を買う」という意識はすでにあったのかもしれいない。

 もうひとつ、科学の研究というか「研究」一般についての「そもそも論」について、いろいろ勉強にあった。大上段から構えるのではなく、ぼそっと発言される内容は良く考えると「オレは全く気にしていなかった」と反省してしまう、というは自分を哀れに思ってしまうものだった。

 私は大学に四十年いた。自分の研究室がいちおうあって、若者たちもいた。でも、その四十年はあまり幸福ではなかった。なぜなら私に必要だったのは情報ではなく、その処理でもなかったからである。そんなもの、著者(これは、ウェブ進化論の梅田望夫さん)の経験どおりウェブでいい。それなのに大学では、ウェブ的なものばかり、私にかぶせてきた。ウェブ的でないものとは、なにか。「まだ情報化されていない世界」である。それを情報化するのが研究だと私は思っていた。いまでも思っている。でもそれをするにしては、大学とは、貧弱きわまるものだった。

 勉強するとは本を読むこと。研究をするとは、難しい問題を設定し、それを解くということ。大学生くらいの私はそんな感じにおもっていた。なかなか幼稚な発想で、時代のせいもあるだろうけど、とても研究者などにはたどり着けない感じがする。が、今では「研究者」の資格を持っている。世の中わからないものである。その私には、分けの分からないものを言葉として定着させるという発想を今まで持てないでいた。工学をやっていたからだろうか。分けの分からないものに立ち向かうことよりも、Do More Betterの流れにのっていた方が来年の予定が立てやすいというものだから。飛行機の中で考え込んでしまった。本当にアホだな、オレはと。

 戦後半世紀上、われわれが「進歩発展」と呼んでいたものは、石油の浪費にほかならない。人間が進歩したわけでもなんでもない。安く大量に、石油がつかえるようになっただけである。古代文明は石油の代わりに木材を利用した。だから森が消えるとともに古代文明は滅びた。石油がやってくれたことを、現代人は「自分がやった」と思い込んでいる。その石油はいずれなくなる。私は本音でそれを待っている。それが人類のためであり、子供たちのためである。

 この言葉をその意味の通りに理解することができた。いや、実感できた。ここ数年古代文明に興味をもっていて、シューメルを知るにつけ「なんもかわっておらんではないか」と思っていたからだ。普通はその変化は「時間」が行ったものだと思うが、なんてことはない「便利なエネルギー源」が行ったのだ。だから、産業革命などというものがあるのだ。実にあっけなく、なぜ昔の人と今の人は同じようなことをしているのかがよく分かった。だって、同じなんだから同じ事をするだろうということだ。

 予算が大型なプロジェクトに身を置いていたことがあると、石油をお金に変更すとそのままいろいろなことが見えてくる。ある人がスゴイと思っていたことは、なんてことはない「単にお金がすごい」のかということだ。私事で恐縮だが、私は本気で「大きな予算のプロジェクト」に一切興味がなくなってしまった。一連の養老先生の本によって、進路を大きく変えてしまったのだ。吉と出るか凶と出るか、それはわからないけど、それでも実によいタイミングで養老先生の一連の本を読めたものだと思っている。


2007年11月18日

モノづくり幻想が日本経済をダメにする

野口悠紀雄
ダイヤモンド社 1600円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 理想的に機能している株式市場では、公開されている情報はすべて現在の株価に織り込まれていまっている。だから、将来の株価は、現在は知られていない情報、あるいは現在は公開されていない情報のみによって変動する。
 このため将来の株価を予測することはできず、株式市場で利益を得られるかどうかは、偶然のみによって左右される。ファイナンス理論を勉強すれば、ムダな損失を避けることは出来るが、継続的に巨額の利益を上げることはできないのである。

 これは、著者が大学院のファイナンス基礎論の講義で強調しているないようである。まったくもって、インパクトがある言葉である。

 そして、これが正しいとすれば、村上ファンドはおかしいということになる。素人の私にも「ナルホド」と納得できる説明である。こういうことを堂々と主張する「経済新聞」があってもいいような気がするが、経済の人にそんなことを期待するのは原理的に無理なのだということか。

 この村上ファンドの出資者には日銀総裁もいたということだ。私など「有名人同士だから、うまい話ネットワークがあるんだろうな」程度に考えていたが。しかし、話はそれだけですまない。日銀総裁が出資したということはもっと憂鬱な結論が待っている。

 こう考えてくると、村上ファンドに出資した理由は、論理的に一つしかありえない。それは、「村上ファンドがインサイダ取引などの不正行為を行うと期待していた」ということだ。
 不正行為を行えば、市場の平均利回りを継続的に越える収益を上げることは可能である。しかし、自分で不正行為に手を染めることはできない。ファンドなら投資者の名が明らかになることはないから、安全だ。「だから出資した」というのは、(倫理的な問題は残るにしても)合理的なものである。

 金融財政のトップがそれだから、下っ端の人がちゃんとルールを守るはずもないだろう。ここから普通の人への助言があるとすれば、こうなる。

 そして、ここから導かれる論理的な結論は、じつに重大だ。そうした出資機会を得られるのはごく一部の人たちであることを考えれば、「一般の人びとは株式投資などするべきでない」と結論せざるをえないからだ。

 先生、おっしゃることがよく分かりました。ありがとうございました(深々と頭を下げる)。

 優れた投資方法を知っている人がそれを他人に教えるはずはない

 
 今回の超整理日記は、これ関係のエッセイが際立っていた。私はこの本のタイトルに興味を持って買ったのだけど、それに関する内容は「アイルランドの金融センター」についてなど、5,6年前に大前研一が盛んに紹介してくれていたことだけであった。

 だけどね。日本はモノを作ってなんぼですよ。金融センターだってあってもいい。どうせ、それをやる人とモノを作る人ととは本質的に違うタイプの人が必要ですから、どっちに人が流れてもよいでしょうけどね。

2007年7月14日

「狂い」のすすめ

ひろさちや
集英社新書 680円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 人生に意味はない。意味のない人生がさも意味があるかのような発想で生きているとつまんないことになる。そもそも「存在しないもの」を「それが得られなかったから」という理由で悲しい気持ちになり、そのまま死んでいくのは全くばかげた事ではないか。そういう発想をこのエッセイで諭してくれる。著者は70を越えているが、文章には「全く」説教臭いところがない。この文章は年代を感じさせない。この人には「自分はスゴイ」ということを人々に知らせようという意図がまったくないので、実にさわやかな文章と論旨になっている。自分もじいさんになったらこうなりたいものだ。そういう印象をこの本から受ける。著者は仏教の学者ということだが、ところどころで聖書が引用されているので宗教学者なのだろう。著作もすでに400冊を越えてるとか。仏教を会得した人は、なんとなくだが、あらゆるものやことに対する執着が薄い。だからだろう、その人の話を聞けばすんなり受け入れられる。老人とはかくありたいものだ。

 書名にある「狂い」とは、世間の基準からみて「狂っている」という意味である。著者によれば、そもそも世間であたりまえだと思われている基準そものが「狂っている」のであって、その基準に照して「狂っている」のならば、正常にもどる「かも」しれないという。戦前の教育をちょっと見てみると、国のために人が存在していると規定していることが見て取れる。あの時代は狂っていた、と現代の人は判断するかもしれない。しかし戦前では「全く正しい正常なこと」だった。こう考えれば、、現在の世間で「当たり前」なこともそのうちひっくり返るだろう。そこで著者は世間の基準から離れるために、世間の基準を「見下げて」しえと言っている。それが「狂う」ということだ。

世界はすべてお芝居だ。 男と女、とりどりに、すべて役者にすぎるのだ。 登場してみたり、退場してみたり。


とシェークスピアの一説をひいた説明がる。役者として人は生きている。しかし、その配役に意味はない。ただその役が必要なのだ。いろいろな役があるが、ムダな人は存在しないのだ。そう主張している。非運ばだけの人生も役柄の一つ。どうせ一度の人生だし、それに意味がるわけではないのだから、その役柄をPLAYする(遊ぶ、演じる)としょうではないか。実に爽快な諦観に私はしびれた。

 人生に意味がないと主張に頷く一方で、『それでも人生にイエスと言う』というV.フランクルの主張も捨てがたい。どっちが正しいという訳ではないが、両方の本に感動するところがある。ある主張を理解すると、それと反対の主張も同時に理解できる気がする。表面的な反発心からではなく、その主張が形成される過程に思いをはせる事が出来るから。

 キリスト教は終末に天秤にのらないといけないので、無意味な人生を適当に過ごすこともできない。彼らは大変なのだ。仏教はあるところまでいくと気楽になる。それは多分自意識が薄くなるからだろう。自分のことばかり考えているとどうにも自分の人生には特殊な意味があるような感じがするのかもしれない。そんなことより、どんな状態でもその役割を演じるだけと考えたほうがさわやかな気分でいられると思う。

 この本、とても気に入ってしまった。


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2007年7月 5日

ゼフィロスの卵

池田清彦
東京書籍 1500円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 池田さんの本を見つけた。エッセイ集だけど、たぶん社会評論と虫の話なんだろうと思って手にとった。目次を見ると養老孟司さんのかと勘違いする。人生に同じような目的をもつお二人なのだろう。エッセイまでもが似ている。

 ざっくりよんでみると、ボヤキの対象はいつもと同じ。とくに、医療、マスコミについては何度でも言っておきたいようだ。池田さんのエッセイを読んだ事がない人、あるいは本まで購入するとは思えない層の人には、池田さんのエッセイは新聞連載コラムなどでしかお目にかからないであろう。

健康にいいといわれたことをみんなやり、健康診断を律義に受けて、医者の言う通りにしているといった人だ。でも、こういう人だって、あるとき具合が悪くて医者に診てもらったら、余命三ヶ月と宣言されないとも限らない。科学は好コントロール装置だから、という意味はコントロールできないことに関してはお手上げだから、余命三ヶ月の人の面倒まで見てくれない。「先生どうしたいいんでしょう」とすがりついても、「どうしようもありません。好きにしてください」と言われるのがオチだろう。ならば、最初っから好きにいきていたほうがよかったんじゃねぇか、と私ならば思う。

 ガン検診などについては、慶応大学の先生の本からの引用をして紹介している。そういえば、私も健康診断を全部無視するようになってしまった一人である。

 池田さんは定年になったのか、現在は早稲田大学の先生をしている。昆虫とりの余裕がなくなったんじゃないか。手っきり昆虫への傾斜を深めるのかと思っていたが、まだまだ先生をやるのかと意外に思った。あれだけ本を書いても生活はむずかしいのだろうかと疑問になる。好きに生きていけばいいと言い続けている人なんだから金銭的な余裕があればそうするはず。それとも、昆虫を題材にして学生を教えるのが一番すきなのか。などといろいろ想像してしまう。
 


2007年6月26日

地球を斬る

佐藤優
角川学芸出版 1600円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 一つの記事が2ページに展開されている新聞連載を集めたもの。きちんとした背景説明や論理展開のスペースがないため外交評論になっている。鋭い「見立て」が展開されていない。読み切り記事の良さと悪さが同居しているエッセイである。

 このような新聞記事は役所には影響力をもつ。NHKのニュースや特番や新聞記事に役所の人間は敏感に対応する。市民団体の抗議など屁と思わない人たちであろうがマスコミには弱い。その修正を逆手にとって佐藤優がいろいろ提言している。ただ、偉い人は基本的に人の言う事は聞かない。社会がどうなろうとも自分のメンツを優先させる。だから、この本での提言は採用される見込みはないような気がする。

 野球解説者と同様、そういう評論は観客ではなく先週に言ってくれ、と突っ込みたくなる。評論家の提言を選手がどう思うのかは知らないが、多分採用されないだろう。無視するか反対のことをする。おそらく、この本の記事に展開されている日本外交への提言もそれと同じ扱いになるだろう。それに、細かい戦術を新聞などのメディアにのせたら「バレバレ」の戦術になってしまうので、そもそも外交に使えない。よい働きをしたとみられる役人にエールを送ったりしている。部下から褒められるよりも上司から褒められるのを望む人たちが、評論家の称賛をどう思うのだろうか。佐藤優はそんなことを百も承知で書いているはずだから、本人の狙いは別のところにあるのかもしれない。

 読者にサラリーマンやビジネスマンを想定している。彼らが外交について知ったとしても戦力にはならない。ただし、くだらない床屋談義をしなくなるかもしれない。佐藤優の狙いはそちらの方にあるのかもしれないが、本当のところは分からない。

2007年6月10日

毎月新聞

佐藤雅彦
毎日新聞社 1300円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 ちょっとした視点の違いと受け取った内容を表現する方法のズレが読者をクスッと笑わせ、ナルホドと感心させる。スマートな内容だけど説教臭くない。こういう形式がエッセイの形の一つの完成形であろう。メッセージがあり、簡単な図がある。メッセージは絵ではないので必要以上にこだわらない。この本では「新聞」という形式を採用している。それが、もっとも優れたメッセージ伝達方法の一つであると判断したからだろう。

20070610-sato.jpg

 読み始めたら止まらなかった。挿し絵や3コマ漫画の絵がかわいい。なごむ。「だんご3兄弟」や「バザールでござーる」のCM、「ピタゴラスイッチ」という番組を作ってきた人だから当然であろうが、かわいいイラストを描けるのは偉大な才能だと実感する。文章は数タイプある。「〜いる、〜ある」という平易な記述、「〜です、〜ます」という語り。「〜である」もある。何を基準に使い分けているのか分からない。主張内容もそんなに複雑なものではなく世間的なものなので、高尚な読書の結果からの結論なのかもしれない。しかし、それらをネタに友人たちと世間話をすれば「それ、あるある」と同意をとれると思う。愚痴にならない世相批判がこの本にある。

 なぜ、こんなコラムが書けるのだろうか。それは、作者が文章だけでなく、挿し絵もいれていることにある。かわいい絵はすべて子供か動物なので大抵の人に受け入れられる。文章の後味はこれらイラストによって決まってしまうようである。内容が時事問題であっても、物事の新しい見方、街で見つけた面白いこと、どれでもあってもほほ笑ましく思えてしまう。

 この本の「情報の力関係」というトピックにそのヒントがある。次のような表示を見たとき、何を考えるだろうか。この本から引用してみる。

20070610-sato-2.gif

 矢印と言葉は反対のことを意味しているが、最後は矢印が勝つ。分かりやすいビジュアルが勝ってしまう。最後の印象、感じはビジュアルが決めてしまう。ならば、同じことがこの本にも言えるかもしれない。挿し絵が記事の後味を決めてしまうことになる。

 この本は、短いエッセイの書き方を模索している人にはいろんな意味で参考になる。


2007年6月 4日

逆立ち日本論

養老孟司 内田樹
新潮選書 1200円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田という人については全く知らなかった。ユダヤ人についていろいろ考察されている人ということで、対談の半分くらいは「ユダヤ人とは」になっている。「ユダヤ人とは、〜である」という定義ができないそうで、必然的に「ユダヤ人とは〜ではない」ということでしか規定できないとか。これについては両者の意見が一致している。なので、おそらくそうなのであろう。古代オリエントからローマ史に登場してくるユダヤ人については幾らか読んだ事がある。ユダヤ人は現代社会においても一層重要なプレーヤーであることは了承しているが、身近な話しではない。そもそも「〜人」でとらえる人ならば関係がない。だから、この本での「〜ではない」という定義が正解だろうとなかろうと実生活には関係がない。しかし、歴史や社会について今後勉強するとき、「ユダヤ教徒、一神教の人」などという幼稚な理解よりましであろう。ちょっと良いことを知ったと感じている。

 それ以外。日本人論があった。ただし、日本人とユダヤ人ほどの論述はなく、そういうところがあるねというまさに会話のなかで展開された寄り道のようなものではある。面白いですけど。

・・・どう考えても、そんなに追い詰められるより前に、「それは筋が通りませんよ、やめてください」と言って相手を制しておけば済んだ話なんです。でも、主人公はありとあらゆる理不尽に耐えてしまうんですね。ほとんど自分の方から理不尽で屈辱的な状況を進んで選択しているようにさえ見える。そして、最後に「もう我慢できねぇ」といって金子信雄をブスリとさして・・・。このソリューションを日本人は大好きなんですよ。『忠臣蔵』しかり。
戦争中威張っていたやつが、まったく同じでした。あそこまで状況が変になると、ほとんど精神に異常を来しているんじゃないかというヤツの声がいちばん大きくなる。だいたいが、声を大にして言うことは極端なことに決まっているのですよ。

 これらの言葉も文脈から切り離されると少し強調されるすぎるか、勘違いされるかもしれない。しかし、普段の生活でちょっと似たようなことを感じており、それが他人の口からでてくると「それだ!」とうれしくなってしまう。勘違いであったとしても興味を持ったならば一読するとよい。




2007年5月24日

小説を読みながら考えた

養老孟司
双葉社 1600円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 本の紹介エッセイである。まだ小説推理に連載されている。養老孟司の著作を読んでいると昆虫取りとミステリーの話がつづくことがある。どんな雑誌に書こうとも、書く内容は一定の幅に収まっており、それもまた面白いので編集再度も許してくれるのであろう。当然、この本でもそうである。

 たしかにミステリー紹介の話が多いのだが、そのときそのときの評論も結構捨てがたい。科学とは何か、自然とは何かについて時折ずっしりとくる。

銅鉄主義という古い表現があった。外国の研究者が鉄で調べたことを、日本の研究者が銅で調べる。どこが新しいかと訊かれたら、まだだれも銅では調べていませんと答えればいい。いって悪いが、たいていの論文はそれだという気がする。

 はいそうです。論文のようなものを書かないと学生は卒業できないし、職員は評価がさがり首になることがあるからです。背に腹は代えられぬ。そういうことです。ただし、これが蔓延して、研究するとはそういうことだ、と疑っていない人もでてきたりして、せっかくの人生を棒にふる人も多い。
 こんな感じでいちいちどうちょうしながら読んでいると、なんの本だか分からなくなる。それなら、「養老孟司の脱線授業」を受けているのだと思えばよい。

 今回、はっとしたのは佐藤優の『国家の罠』の紹介である。本当にそうだ、とか、外務省はしょうがない、とか、政治は汚い。なんとなくそんな見方しかできなかったのだが、養老孟司は「あれは著者のロマン主義が面白いのだ」という。そんな見方、考えたこともなかった。ドキュメントである以上、その話は本当かどうか、その中での行動は正しいか間違っているかどうか。それを考えることが読者のやるべきことではなく、小説のように「ロマンだなぁ」と思えば良い。

書かれたことが「真実」であるかどうか、それは本の面白さと関係がない。ウソはウソなりに面白いのである。
真実は追究するものだとうことは、あまりのも当然である。しかしそう表現したとたんに、「追求すれば、手に入る」という錯覚に陥る人が出る。なぜなら人にはけちな性質があって、手に入らないものを追求するのはムダだと思うからである。しかし人生には、手に入ろうが入るまいが、ついきゅうするものがある。それを追うことを、私は右にロマン主義と呼んだのである。
佐藤氏の主題は政治と外交である。そうした分野に事実なんぞというものはない。あったとしても、それを人は限られた人生のあいだで、完全に知ることはできない。

 この本はミステリー紹介である。しかし、ミステリーだけでなく、ある種のホントの付き合いかたまで教えてくれる。だから私は養老孟司の本は店頭で見かけたら即買するのである。

2007年5月16日

文学賞メッタ斬り 受賞作はありません編

大森望・豊崎由美
PARCO出版 1200円
お勧め指数 □□□■■ (3)


 芥川賞と直木賞の候補作を中心とした小説評論。あれやこれやの話は、小説をあまり読まない人にとっても、ふーん、という気がすると思う。なんだか小説でも読んでみようかという気になるだろう。国語の授業のような「解説」のような評論がまじめな小説好きの人には好まれるのだろうと思い込んでいたが、そうではない人の方が多いのかな。あるいは、この2人が普通と変わっているだけで、この論評のスタンスが普通じゃないのかもしれない。

 このシリーズは前のものも読んでいて、そこでお勧めだった小説を買ってみたが、全部あたりだった。だから、今回もお勧めは購入してみた。中原昌也「名もなき孤児たちの墓」、佐藤多佳子「一寸の風になれ」。書店で平積みされていたので、きっとおもしろいのでしょう。だからといってすぐに買うことは普段はないのだけど。

 この本には「小説が読める人」という表現がでてくる。文字を読み、内容を理解するというレベルではなく、言葉で表現されているものの意図のようなものまで自然と感じ取る能力についてなのだろうか。そういえば、須賀敦子かだれかの言葉で「まだ、読めてない!」と生徒を叱ったことについての話があった。読めている、というのはずいぶんと難しいことらしい。クラシック音楽好きの人が演奏家ごとにその違いを聞き分ける能力に近いのだと想像するが、そこまで聞き分けられるとよいのかわるいのか。小説読みも同じではないか。

2007年5月 8日

<不良>のための文章術

永江 朗
NHKブックス 1218円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 普通に高校・大学を卒業した人が文章を書くと、なぜつまらない、もしくは恥ずかして我慢しがたいものができ上がるのだろうか。書き言葉と話し言葉は違うとはいえ、なぜ新聞雑誌の読者投稿欄やブログの文章は素人っぽいのだろうか。

 それはたぶん、表現方法が未熟だからだ。てにをはをはじめ、主語述語、修飾語被修飾語の関係や言葉のリズムについて素人の人は訓練を受けていないからなのだろう。そう、これまで思ってきた。確かに才能の違いがあることはだれだって分かる。訓練のあるなしで絵の上手下手ははっきりと異なるし、楽器などは旋律どころか音さえ出せないから。そうはいっても、言葉は毎日起きている間はずっと使うものなのだから、プロとアマでの違いはもっと狭くてもよさそうなものだ。

 この本には、なぜ素人さんの文章がダメなのかを教えてくれる。素人が下手くそな最大の理由は、文章を「自己表現の道具」として使っているからというのだ。自分以外の物事を対象としているはずが、実際のところは自己表現のための文章になっている。つまり、「自分はこう感じた、こんな行動をした、こんな自分はめずらしいだろう」というものになっている。そんな事例を挙げて、どうすればおカネと交換できる文章になるのか、そのステップを見せてくれている。

 結局のところ何がいいたのか。それが「自分」についてなら自己表現。自分についてではなくとも「どこかで聞いたことある、知っている」ようなことならば、わざわざ新たに書く必要はない。そんな判断はむずかしくない。その文章をおカネを払って読むかどうか、その文章が掲載される雑誌や新聞を買うかどうかで判断すればよい。大抵は、知りもしない人のことなどどうでもいいことなのだ。なるほど。流れるような文章を書く必要も、美しい表現も普通の人にとって大切なことではない。ないよりマシだという程度なのだ。それより、何について書くか、そして実際何について書かれているか。

 では、なぜ自分の書いた文章の悪いところに気がつかないのだろうか。それは自己表現を目的とした文章を読む機会がほとんどないことが理由だろう。新聞雑誌など社会で流通しているのはプロの文章は情報伝達やエンターテイメントを目的としたものである。素人の文章など、そうとうな事がないぎり読む機会はない。だから、いざ自分で文章を書いてもそれがダメな例と比較できないから、自己表現もまた他人が読むに絶えるものだと勘違いしてしまうのだろう。

 書かれた文章は他人の頭で「考えるステップ」を定義したものだろう。読む行為はすなわち考えるという行為である。著者の思考プロセスが読者の頭中で「再生」されるのだ。主観的なものは嫌われる理由は頭の中を乗っ取られるから、ということなのだと思う。人様に読まれる文章を書きたいならば、文章読本よりも何について実際書いているのかを確認するクセだろう。手っ取り早い方法が「客観」ということで、なんてことはない普通のエッセイの書きかたの正当性にたどり着いてしまった。


2007年5月 3日

明治大正翻訳ワンダーランド

鴻巣友季子
新潮新書 680円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 明治大正の時期、どんな翻訳書がうれていたのだろうか、また、訳文の質はどの程度なのか。大森望さんの本にこの本が紹介されていたので早速購入したのですが・・・。

 日本は漢文をずっと読んでいたのだから外国語からの翻訳というものがあったんじゃないかな。その考えは間違いですね。翻訳しないで「レ点」で読んでしまっていたので。翻訳しょうという発想すらなかったんじゃないか。そもそも、文章が娯楽になっていないのだから楽しく読むなって発想は明治までなったのでしょう。とすると、明治になって初めて遭遇した翻訳、人によっていろいろ態度がとられたのでしょう。そのあたりの苦闘の一端をこの本は紹介してくれています。

 翻訳者にもいろいろいたようで、感動したのは「一回全部よんで、心に残ったことをベースにかいてみました」というような、それ翻訳?、というものもあったようです。本人も「翻訳だとは思っていないが、創作というわけでもない」というスタンスを表明しています。あるいは、外人の名前は覚え難いうということから、全部日本人名に変更してしまうという方法もあったようです。フランダースの犬の主人公は清、犬はブチであったというのは最初の翻訳書ですが、これは「トリビアの泉」で放送されていました。

 他の国ではどうだったんですかね。例えば、アラビア語からラテン語への翻訳なんかでは問題にならなかったのか。中世で学問的なものはヨーロッパから消えてしまって、アラビア語として残っていたものを再度ラテン語、ギリシャ語に翻訳しなおしたものが現在の学問の基礎にあるはずです。まぁ、数学関係は対して問題ないとしても、『アラビアン・ナイト』なんて、問題ないのか。日本語への翻訳のときだけに、おかしなことが起きているわけでもないだろうに。

2007年4月15日

須賀敦子全集 第一巻

須賀敦子
河出文庫 950円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 須賀敦子さんの全集が文庫本で刊行されはじめた。1巻目は「ミラノ 霧の風景」と「コルシア書店の仲間たち」が中心である。両方とも文庫本で一度読んでいるのだが、一冊1000円だし、きちんと全部読んでおきたい作者のでまた購入してみました。

 須賀さんの文章はすごいのです。私は文学など学問に成りようがないと思っている人間です。音楽とおなじように文学ではなく文楽(ぶんがくと発音したい)とするべきだと思っているくらい。でも、須賀さんの文章は「文学ってあるのかも」と思わせます。表現がスゴイのです。

 表現が「例え」だと思っている人がいますよね。仰々しい飾りをわんさか文章にのせて「なになにのように」とする人。ああいうのは大嫌いです。わたし、あれが文系の人がやることだと思っていました。でも、須賀さんの表現は違いますね。何を書く、何を書かない。そして、視覚的に最小限にそえられた比喩があって、それで「ぐっとくる」文章になっています。感情が伝わってしまう。そういう文章なんです。言語能力というのは、こういう風に言葉を操れる人なんでしょう。だから、ひたすら勉強になります。私が体験もしたことない時代と国と人の行動を、もう知り合いのように感じさせるエッセイばかり。

 ちなみに、解説を池澤夏樹さんが書いていますが、この解説も感心させられます。なぜ、須賀さんの作品がしっとりとして、最後には物悲しいのかその原因が分かります。それは、自分の青春時代の仲間を、その人たちと一緒に生きた日々を数十年たって振り返るからです。時代も人も思った方向には動かない上、自分たちも歳をとっていく。だから、物語の最後はなんとなくたそがれてしまう。それをある種の感情を抱きながら読む。そういうからくりなのだという。確かに。


2006年12月20日

生命という物語

池田清彦
洋泉社 1000円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 哲学者との対談はつかみ難い言葉が踊るのでつまらない。話している本人は楽しいのだろうけど、一般向けの対談としては分かりにくいものだろう。もっとも、掲載雑誌は哲学系のものなので、それに見合った対談になっているのだろうけど。

虫の目で人の世を見る

池田清彦
平凡社新書 756円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 昆虫のエッセイや思い出すことなどのエッセイ。これまでのような「世の中に向かってホントのを事をいってしまった」という感じの本から外れていた作品を集めた感じがあります。結構な昆虫マニアでないと面白くない感じがします。というか、私はいまいちだった。

 逆の見方もできます。反面教師としてこの本を見ると、どういう文章をかくと読まれないのかがわかります。冒頭から自分の興味のある内容をずらずら書く、有名でない固有名詞や日付がずらずらつづくとか。文章って、書き出しが大切ですね。想定する読者が知らないであろう事や自分の好悪の対象から書き始められたものは「絶壁」みたいな気分がして、好きな作家の文章でもとても読む気にならん。勉強になりました。

科学の剣 哲学の魔法

池田 清彦 西條 剛央
北大路書房 1680円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 池田さんの後継者のような演出がされている「西条さん」という心理学者との対談です。西条さんは池田さんフリークのようです。ただし、若手研究者としても有望な人のようですね。

 とはいえ、対談が面白いかといわれると、いまいちでした。すみません。構造主義の話で盛り上がるのはいいのですが、池田さんの本を読む以上の情報は入手できなかった。別の角度からの情報が入るかといえば、そんなことはない。お二人は楽しいのだろうけど、部外者はピンと来ない。よいしょしているわけではないのだろうけど、読者は引く。そもそも西条さんの新刊の宣伝じゃねぇか、と思うような箇所も多々ありましたし。

 もう、池田さん関係の本、面白いものは残っていないのかなぁという予感がしてきました。


2006年12月11日

すべては脳からはじまる

茂木健一郎
中公新書クラレ 700円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 茂木さんの本を懲りずに読んでみた。最近、マスコミで良く見かけるので、当然忙しく、必然的に書くものがつまらないものになっている。忙しいことの代償とはいえ、読者としては寂しい限りである。この本も雑誌に連載されていたエッセイを束ねたものであるため、さほどの期待はしていなかった。

 さすがに、一つ前に読んだブログよりもきちんとした書きかたであった。プロといえでも、ブログの文章って読むに絶えないものなのだ。雑誌とはいえ、同じようなテーマを扱っていながら文書の仕上がりには違っている。ところが、このエッセイも「いまいち」感はぬぐえない。一言で言えば、エッセイを書くための「コスト」がかかっていないのだ。エッセイのきっかけは自分の体験であったとしても、そこから生まれるものには「考える」「思い出す」「調べる」「工夫する」など、コストがかかるはずなのだが、この本を含めて、対してコストがかかっているようには思えない。思ったことを書いているだけだから。

 感動したという事実を書くこととしてもだ、「その感動を伝えよう」という工夫がまったくない。何時から茂木さんこんな下手くそになったのだろうか。年齢を重ねたせいか、「道徳」や「説教」といった世間に対する愚痴も多い。何もおカネをはらって読みたかないよ。

 小説を書いても、考察を書いてもちゃんと時間をかけているであろう文章は面白いのだから、忙しいのだろうけど、もうちょっと時間をかけた作品を書いて欲しい。このままだと齋藤さんのような感じになってしまうようで、心配してしまう。


2006年12月 9日

昆虫のパンセ

池田清彦
青土社 1800円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 昆虫についてのエッセイ集。エッセイというより、哲学を語っている。知的に熱いなぁ、この人。

 構造主義生物学、構造主義進化論を実際の昆虫をつかって説明している。ただし、生物学という科学の教科書とは全く異なり、哲学的論証を行っている。昆虫と構造主義って、一体なんの関係があるのだろうか、そもそも構造主義って何よ。そういう私もで「あぁ、なるほど。確かにDNAは主役ではないね。」といたく感動した。言葉によって、あるいは、考える対象領域の慣習にそって何かを考えるときにも、大いに参考になる発想を知った。まったく有り難いことである。

 哲学的な思索といっても、自分が集めた虫の話、食べたことにある昆虫の話など、身近なところから話がスタートし、意味不明な「哲学を説明するときによくでてくる意味不明な単語」が使われてない。だからといって、中学生向きだとは思えない。逆に言うと、言葉も話題も身近なものを使っても、「常識」と思っていたような考え方を覆す説明が可能なのだとというよいお手本であろう。

三人よれば虫の知恵

養老孟司・奥本大三郎・池田清彦
新潮文庫 514円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 軽い感じでの鼎談。人の話が面白い条件の一つには、語っている人の好きなことを語っていること、というものがあると思っている。講演会でも授業でもそれは成立する。本でもそうです。学校の授業が面白くない最大の理由は、そもそも先生自身が教えている内容を「面白い」と思っていないからです。まぁ、そういうこと。その点、この本はこの人たちの好きなことしか語っていないので、虫について興味を持っていなくても、興味を持ってしまうくらい面白いです。ためになるというよりも、楽しく時間を過ごすための本です。

2006年11月23日

異端の脳がホンモノ

竹内薫・茂木健一郎
だいわ文庫 743円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 文庫だから新刊なはずはないよなぁと思い、ぱらぱらめくってみると「茂木さんが初めて書いた」といある。昔出版された本を再編集したのだろう。読んだことは無いので、買ってみた。
 どうなんだろう。前半と後半でテーマの乖離が激しい。前半は、どうでもいい本である。いや、雑学くらいにはなるだろうけど。後半は、ちょっとまじめに書こうとして未完成な感がある。脳の最新知識を盛り込もうとしてる姿勢は面白いのだが、視点が玄人好みなのかもしれない。池谷裕二さんのエッセイような感がある。

 正直買わなくてもいいように思う本だった。売れっ子になった後に出版される本は、気をつけないといけないなぁと、改めて思った。

やわらか脳

茂木健一郎
徳間書店 1500円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 茂木さんのブログを再編集してまとめた本。当然だが、エッセイの原形のような記事である。自問自答や怒りをぶちまけているような者があったり、前後関係の説明がはっきりしないものがあったりする。茂木さんのような方でも、ブログって粗削りなものなのだと分かる。しかし、幾ら再編集したとしても、1500円は高いかもなぁ。

 最近はきっと忙しいのだろうから、あまり多くの本は出版できるはずはないと分かっていながら手をだすと、やぱりがっかりしてしまう。

2006年11月18日

生きる力、死ぬ能力

池田清彦
弘文堂 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 一般公演を本にしたもののようである。生命の発生について、人間社会についてをテーマに「ですます」調のやわらかい説明である。だからかもしれないが、「なるほど」というズバっとした切り口は少なく、物足りない感がある。ただし、根尾・ダーウィニズムはうそであるということや構造主義生物学のさわりが語られているので、取っ付きやすいかもしれない。ただし、その説明は別の本にあるものなので、何冊か池田さんの本を読んだ事があるのならば退屈するかもしれない。

2006年11月11日

科学はどこまでいくのか

池田清彦
筑摩書房: 1100円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 池田さんの著作は、別の本を読んでいると予言がでている。というか、気になったたびに別の本でまとめて書いている。だから、一冊よりも多くを読むのが楽しい。関連していることもあるが、一人の人がどう考えを構成させていくのかを知ることができるから。

 この本もまたまた「身も蓋もない」ことばかりである。科学というか、論文を書く世界で時を過ごしたことがある人ならば、誰でも感じる疑問や矛盾点をずばり言葉で表現しているから。そういう発言ができる理由は、おそらく、(1)高額な研究費を必要とする研究をしていないこと、(2)経済的自立の基板を持っていること、があげられるだろう。この2つのことは、科学を遂行するうえで実は前提になるものなのかもしれない。職業でやる人は「結局自分が偉いをことを見せびらかしたいだけか、だれかに媚て金をもらおうとしている」ことが本当の動機だから。ただし、こんなこと言ってしまうと「身も蓋もない」のだ。

 ”要するにパラダイムが確立して、学会が設立され、学会誌が刊行されるようになると、凡庸で保守的な研究者は有利になるが、天才的で革新的な研究者は不利になりやすい。制度化され細分化された科学は、凡人の凡人による凡人のための科学なのである。”

 ”加速器の建設というのは、とてつもなくカネがかかる大事業である。最新の加速器を造るには数千億円以上のカネがかかる。それでは、次々に新しい加速器を造らなければどうなるか。素粒子物理学は新しい情報を生み出す力が衰えて、魅力を失い、優秀な人材の流入がストップして、衰退せざるを得なくなるだろう。
 これは何を意味するか。科学は一般に、モノとカネをコンスタントにつぎ込んでいるだけでは、新情報を生み出せなくなり、衰退する可能性が強いのである。科学というシステムは、システムに流入するモノ・カネ・ヒトが増大し続ける限りにおいて、健全に機能する運動体なのである。特に最先端の科学では、この傾向は極めて強い。これは科学が知識累積的な営みであることに、もちろん強く相関している。”

 ”科学に優秀な人材が集まらなくなると、モノとカネをつぎ込んでも、質の高い情報を産み出すことが困難になってくる。これは、科学から情報を資本として、新技術、新製品を造り出し、金もうけをしようつする資本主義にとって由々しき自体である。”

 ”例えばノーベル賞をとるためには、ほかのことにはわき目もふらずに研究しなければならない。競争に勝ち抜いてノーベル賞をとって、社会的な発言力を獲得しても、政治や経済や社会や文学や芸術に対する知識は素人と同じであるから、発言を求められても、そのへんのオッサン以上のことが言えるわけのものでもない。”

 ”科学者がエリートであり続けることと、科学が自己増殖を続けて科学者の数が増えることは矛盾する。科学の自己増殖性は科学のバブル化と空洞化の原因なのである。”

 さて、これだけ身も蓋もない、かつ、本当のことを言われると目が覚めるし、自分の立ち位置をはっきり把握することができる。そして、自分がやっていることをさめ目で見れるようになる。だから、多く科学・工学の専攻のヒトに読んでもらいものだなぁ。

やがて消えゆく我が身なら

池田清彦
角川書店 1300円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 身も蓋もないエッセイ集。他の本よりもマイルドなのは、掲載していた雑誌のトーンに合わせたためなのかもしれない。池田さんの主張は「全く自然」に感じるのは、根本的なところで似た価値観を持っているからかもしれない。もっとも、私は普通の人なので、比べることはおこがましいのだが。例えば、

"会社でイヤな役目を今年か来年引き受けなければならないとしよう。上司はきっとあなたにこう言うだろう。「どうせやらざるを得ないのだから、早くやってしまった方が精神的に楽だよ。それに、客観醸成からして、来年は今年より大変なのは確実だからね。」でもねぇ、と私は思う。会社今年の暮れまでに潰れてしまうかもしれないし、あなたも今年中にリストラされてしまうかもしれない。それいそのイヤな役目は会社の都合で今年限りで廃止になるかもしれないではないか。”

全くその通りである。あるいは、

”最悪なのは、子供はみんあキラキラしたすばらし才能をもっているという何の根拠もない予断の下に、すべての子は個性を発揮して輝くべきだ、といった愚にもつかない思い込みを子供に押し付けることだ。断言してもよいが、ほとんどの子は人並みの才能しか(すなわち何の才能も)もっていない。”

 人間の現実を直視し、現実の社会をマスコミの押し付けをはがしてみれば、そうとしか言い様がない。政治や社会に悪など存在しなくても、普通の人で構成した社会が「機能する」ことが軌跡な感じがする私には、子供だからといってなにか特別な存在のように扱う「物語」と「その物語のフリーク」には私もうんざりしている。実に池田さんの言っている意味がわかるのだ。

他人と深く関わらずに生きるには

池田清彦
新潮文庫 362円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 生き方の指標である。基本原理は「対称性」。ある人の主張が「よい」か「わるい」かを判断するのに「対称性」があるかどうかを探すとよいのだ。しかし、そもそも、あらゆることに「絶対的な根拠などない」ということをお忘れなく。なぜ人を殺してはいけないのかという言葉が流行したときに、宇宙の視点からながめると「そんな根拠は存在しえない」という私なりの結論と通じるところがあったので、池田さんとは気が合うかもしれないと思った。

 ”法律を守るためにだけに法律を守っているのはバカである。”
 ”官の威光がどんなにすごいかを民に見せつけるためにやっているとしか思えない。殺人犯を捕まえるのは大変だけど、シートベルト未装着の運転手をつかまえるのは簡単だもんな。”
 ”交通信号というのは、交差点に同時に車や人やらが入ってきた時に、どちらが優先かを決める便宜のために作られたに過ぎない。元々、便宜であったものを金科玉条にする。これを原理主義という。だから青信号で道を渡っていて車にはねられる人が後を絶たないのではないかと私は思う。”

 身もふたもない。先日も車が全くこないのに赤信号で待っていて、青信号になったら脇目も振らず全速力で自転車を横断した小学生を見たが、あれはろくなヤツにならんだろうなぁ。

脳は何かと言い訳する

池谷裕二
詳伝社: 1600円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 暇つぶしには良いエッセイなのだが、池田清彦とかベンヤミン・フルフォードとかを読んでいる最中に読むと「なんとつまらん本なのだ」と思ってしまう。もちろん、この人は一流の科学者であり、エッセイの内容も最近の研究雑誌からネタをとっているので、サイエンス・ライターさんのものよりも質は高いだろう。私個人が読むタイミングを誤ったのかもしれない。

 みのもんた的な「こうすると健康に良い」という話は、例え確からしいものであっても、どうでもよいと思う私にとって、興味深いエッセイは「血液型」に関する考察についてであった。A,B,AB,Oという血液型のバランスはシミュレーションを行うと将来一つの型に収束するのではないかという結果がでたというもの。現在の血液型構成比は過渡的なもので、O型の人は減るだろうということだ。だからなんだ、という気もするのだが。

 つまるところ、本にして読むほどのことではない。本人も「口述筆記」したと言っているくらいだから、要するに与太話である。

2006年10月28日

座る技術

万大
かんき出版 800円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 どうすれば通勤電車で座ることができるのだろうか? このテーマでのメルマガを再編集して解説イラストを付けた本である。半分冗談か、あるいは、著者固有の環境にしか役に立たない記事かと思いきや、電車に乗る人ならば無意識に実施しているような小技が解説されていて、誰にも役に立つ良い本だと思う。いかなることでも前向きにユーモアを交えて考察すれば、よい作品が生まれる可能性があるという教訓になりそうな本である。

 解説されている方法では、始発にのるとかそういうくだらないものはなく、どの列に並ぶとどうなるのか、どの車両の出口に並べば良いのか、どういう人の前に立てば良いのかまで考察されている。たとえば、本のしおりに手をかけている人、身だしなみを整えている人、アナウンスの直後に目をごしごししている人などは、おりるサインであるとかそういう内容である。たしかに、そのような傾向はある。自分がそのサインを発していることもある。

 日常のなかにも、考察対象はあふれているのだあと関心しました。

2006年10月21日

英語の感覚・日本語の感覚

池上嘉彦
NHKブックス 970円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 放送大学の教材を一般書に編纂し直したものということで、内容は気軽に読むにはちょっと高度なものにまで達している。といっても、専門書に近いという意味ではなく、電車で気軽に読むには読者に要求される英語のレベルと文学的指向のレベルについてである。文学を学ぼうという姿勢の人には、気軽に読めるような内容なのかもしれない。

 私が興味を持ったのは、the と thatの類似である。the -> 単語、that -> 節という説明は、分かりやすかった。なるほど。でも、知ったところでどうかなぁとう話ではあるが。こういう機械的な内容ばかりでなく、I belive John honestと I belive that John is honestのニュアンスの違いのような説明も結構あった。表現の話ですね。

 ただし、全体的に言えば、全体として「テーマが散乱」していて、読者層も絞れていないような、中途半端な印象を持ってしまった。新書としては×ですね。

使える読書

齋藤孝
朝日新書 720円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 どうしたんでしょうねぇ、齋藤孝さん。全くダメですよ、この本。この本の言いたいことである、「面白かった、つまらなかっただのの読書感想文はやめて、その本の要約となる作者の言いたい部分を探し出し、それを何かの機会に引用できるようにせよ」には十分頷けるのだが、それは3色ボールペン以来の主張だから得に新しいことはないし、もう何冊も本を出している。この本は、その実戦例なのかもしれないけど、内容がいかにも薄い。週刊誌の連載記事だからで済ませることも可能かもしれないけど、齋藤さんの本に対する姿勢はずいぶんと落ちたんだなぁと関心するほどである。

 この本の感想を言えといわれれば、いやぁ、TVにたくさん出演するということは怖いことですね、ということか。

2006年10月 5日

サイレント・マイノリティ

塩野七生
新潮文庫 460円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 読むのは2回目である。イタリアへ出張した帰りの機内で読んだ。この本を読むのは2回目であろうと思う。少ない理由は、冒頭の数章がイタリアの時事問題に関するエッセイだらであろう。ただし、それ以後はイタリア以外にかかわらず普遍的な内容の話が扱われており、どちらかといえば哲学的な記述が多い。哲学科卒とうことを自信の一つにしているらしい塩野さんのおどけのような書き出しから、一気に考え込ませる内容へと引っ張られていくエッセイは、人生勉強に近い。

 私は多くの人と関係する仕事をしていないためか、古代から現代まで一貫している人間の問題を考えるきっかけはあまりないので、こういう本は大切なのだ。

2006年8月28日

文学賞メッタ斬り!リターンズ

大森望・豊崎由美
パルコ 1680円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この二人の評論、なるほどなぁといつも感心させてもらい、本を買うときの参考にさせてもらっている。小説ってのが、「プロの技」ということを評論を通して教えてもらっているのである。こうして読書メモを付けることが馬鹿くさくなるくらい、評論している人は読み取っており、そして、文学にはあまりおつきあいをして来なかった私は読めていない。そういうことがこの本を読むと身にしみる。芥川賞も直木賞も、その選考員の発言をかんがみれば、受賞本が「よい本」だとは限らないことがよくわかる。もっとも、この本を読んんで買った本は一冊だから、私は小説好きではないのだろう。

 お二人には是非とも、定期的にこういう本を出版して読者層を啓蒙してほしい。本を読むには時間もおカネもかかるので、どうせならば「よいもの」を読んだほうがよい。つまんないもので人生を潰したもったいない。ある年齢に達すると時間がなにより大切なので、読書のためのフィルターがなによりも貴重なのだから。

2006年8月22日

シリコンバレー精神

梅田望夫
ちくま文庫 640円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 シリコンバレーで働くうちに自分が変わっていくことに気がついた。その変化を手紙という形で日本の雑誌に連載していた著者のエッセイ集。内容は技術というより、シリコンバレーの内側の雰囲気をそこで働く人との接触によって描いたものである。何より、日本語が読みやすい。
 著者はコンサルタントとしてシリコンバレーで働くうちにその町がたまらなく好きになり、現地で会社を興した。ネットバブルとよばれた2000年前後を現地で働くことで体験しているので、金融の数値やニュースなどを総合した「外側」からの観察ではない。その情報はネット関係者ではない私にはどうでもいいことに近いのだが、社会が変化していくなかで自分を見つめる著者の姿勢に憧れるものはある。

"相手は「お前は何をやっているのか」「お前のアイディアはなんだ」「お前の価値はなんだ」「お前は今まで何をしてきて、これから何をするのか」、先を急ぐように、私という「個人」を引っ張り出そうとするからであった。”

 会社に所属する一人としての自分の役割を求めようする私には、ちょっとひるむ環境である。また、本書の中に、ゴードンという人の会話のなかに、はっと気付かされるシーンがある。

”「これで会社を辞めて一人でやっていく権利ができたよ」と何気なく彼に話した。その時、ゴードンの表情が大きく変わった。」「そうだんだ。何でも何でも、すべては個人の中から生まれるんだ。会社からじゃないんだ。価値を生み出すのは会社ではなく個人なんだ。日本人でそういうモノの考え方をするヤツに初めて会ったよ。」彼は急にまくし立てるように話した。”

 人が集まって価値をつくる事が「大切」なものだという考え方をしてきた。もちろん、その通りではあるのだが、それは組織の傘の下にいないときをさすのであって、組織の中で団子になって生きていくことはないのだ。集まってするからこそ「お前は何ができるのか?」が大切になるのだ。決して「比較により自分のポジションを確認する」ことが目的ではないのだ。
 もちろん、この生き方はユニバーサルなのかどうかはわからない。シリコンバレーでは大切だということだ。日本においてどこまで意味があるのか、ケースバイケースとしか言い様がない。とはいえ、あなたはどうしますか? そういうメッセージであるようにも、私には思える。


2006年7月22日

食のクオリア

茂木健一郎
青土社 1400円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 食についてのエッセイ集。Webマガジンで書いていたものをまとめたもの。気軽に読める。エッセイの前半は、クオリアを軸に「食」を解説仕様としている。エッセイなのに解説を試みているので、ちょっとつまらない。一方、後半は思い出と食の自然な繋がりを書いているので、面白い。結局、エッセイもある種のクオリアを求めているようである。少なくとも私は。

 この本を読んで、お酒を覚えたくなった。「ただ好き」というだけという人がたくさん存在するのだから、実は良いものなのだろう。お酒に触れる機会があまりない自分の生活に、少し楽しみを増やそうと思う。食べるものがなくてもいいから、お酒を飲みたい。アル中までは困るが、生きている楽しみの一つを知らずして死んだらもったいないから。

2006年7月21日

旅の極意、人生の極意

大前研一
講談社 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 よく出かける人は、良いところを知っている。世界的企業をまたにかけて半端ではない数の海外渡航経験をもち、かつ、現地で一流の人と交渉を行ってきた人ならではの「海外旅行お薦めスポット」の紹介となれば、ちょっと興味を持ってしまう。おいしい店、知られざる場所など、期待してしまう。ただし、きっと「超高級」と名がつくようなレストランばかりだったらがっかりなのだが。

 紹介されているところは、確かに高級なところが多い。ベネチアの「ダニエリ」なんて、そりゃ泊まりたいけど「分不相応」という気がする。実際問題普通の人がいけるかどうかは不明なのだが、紹介されている内容に「嫌み」がないのがよい。芸能人などがこういうものを紹介すると大抵腹が立つのだが、そこは大前研一さんだけあって、「普通の人が読んで、へぇ」と思えるように仕立ててある。OLグループならば「じゃ、行ってみようか」といいそうな感じの本である。

 でも、この本の価値としては、大前さんが学生のときに「通訳バイトを通じて身に付けたことが、私の人生の基本になった」という、有名な話を実感させる文章であり、証言である。これらがコラムになっている。学生時代って、偶然の出会いでもあるよなぁ。

 この本は写真も多いし、文章も易しいので気軽に読めます。リラックしたいときにお勧めかな。ちなみの、私は「ベネチア」に行って見たくなりました。来年、移行かな。

2006年6月20日

イタリア遺聞

塩野七生
新潮文庫 438円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 この本は、イタリアからの帰途に機上で読んだ。これも何度目であろうか。塩野さんがローマ人にのめり込む前のエッセイ集で、ルネッサンス期の作品を書いている背景がかかれている。ローマ人に始めから興味をもっていたのではない、ということがよくわかる。この時期はベネツィア一辺倒。その背景として、ローマ人があるようである。

 結局、自分の興味のあることを勉強していくと、興味の範疇の「境界」にも目を配らざるを得なく、それが結果的に興味のシフトを促すようである。浅く広く学んでいたら、結果的に「記憶に何も残らない」実に哀しい人生を過ごすだけのようである。エッセイとはいえ、自分とは別の人の生き方も読み取ることができるものなのだ。やはり、結果を出す人の生き方には物語があるようである。

2006年5月20日

須賀敦子のローマ

大竹昭子
河出書房新社: 1800円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 須賀さんの軌跡をたどるエッセイ集。須賀さんの文章で紹介された土地、人を巡りながら須賀さんの生き方を理解しようとしている。この本だけ読むとすれば写真がよいかんじなので楽しめるだろうけど、須賀さんの4部作をよんで、その半生に思いをはせることができるのならば、かなり興味をもって読めると思う。

”「須賀さんは、自分の作品を書く前から、作家のような話し方をしていました」
  須賀と三十近く齢が離れていながら、さまざまな面でつながり持つ友人がこう語るのが、私には興味深かった。
  (中略)
  では、「作家のような話し方」とはどのような話し方を言うのだろうか。作品を読むときに、なぜ、このように書いたのかと作者に問いかけ、その対話が成立するかどうかによって作品の価値を判断する。作家と作品を過度に切り離すこともなければ、作家の生い立ちや性格を直截に作品と結びつけることもしない。作家が生まれ持った素質と、人生の過程で得た素材と、醸成された思想とがどのように作品化されているのかを、自分の生と重ね合わせて学びとうろうとする態度、つまりは書くことを生き方の問題としてとらえるということなのではないだろうか。”

 なるほど。そう考えれば、架空の物語を書いてそれを楽しんでもらえることにもきちんとした「意図」が入り込む余地がある。文学というが果たして学問なのかと以前から疑っているのだが、上記のような「意図」をどう作品に反映するのかという結果を体系化すれば、表現の手法についての学問になる。道具の学問が工学になるように。

 そんなことよりも、眺めるだけでも、ローマの普通の風景写真がなんともいえない雰囲気を醸し出しているので、見るだけでも楽しめる本です。


2006年4月 7日

第一阿房列車

内田百けん
新潮文庫: 476円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 簡素な記述。余計なことがない文章です。扱っている対象は、「鉄」である自分の行動記録なのですが、それでいてユーモア感があるので、楽しく読めるのです。内田百けん自身のおかしさ、同行者であるヒマラヤ山系君のとぼけ。なんだか、不思議な取り合わせの道中です。珍しい出来事など何一つ書かれていないのに、読んでしまいます。だから、とても人には勧められないです。それでも売れているようです。日本語そのものに興味を持っている人ならばたどり着く人なのだろう。

 読んだところで何一つ「得るものがない」ような気がする本なのだけど、読んでいることが楽しいのでまた読んでしまう。絵を見るような、おいしいものを味わうような本であって、知識を得る、賢くなるための読書の題材ではない。それでも興味を持ってくれる人にはお勧めします、ハイ。

2006年3月28日

ミラノ 霧の風景

須賀敦子
白水社: 1700円
お勧め指数: ■■■□□ (3)

 不思議な気分になった。私とは関係もなく、時代も違い、しかも職業も趣味も、性別まで違う人の生活の話しを聴いた気分なのだが、どうしたというのだろう。若いときの記憶ならば、良くても悪くても思い出すのは楽しさと哀しさがまざっているものなのだろうけど、ちょっと他人事のようには思えない気がするから不思議なのだ。なんとも、この本の中身については表現しようがないので、この本については別のことをメモしておく。

 本の装幀が綺麗ですね。綺麗なままで取っておきたい気がします。ただ、これ古本でかったので、ちょっと古びているのだが。
 古本を読むとき、新刊にはないおもむきを感じるときがある。本の装幀や文字の大きさについて、最近の本はだめだ、という類いの話しではない。そうではなく、前の所有者の断片がふとしたことからにじみ出るようなこと。そんな古本は新刊本を手にした以上の喜びがある。

 今、須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」という本を読んでる。美しい日本語とはこういうものだろう。文系でもない自分がそう思うほどに、しっとりとしたエッセイ。この本はブックオフで買ったのだが、ちょっと得した気分になる。新刊にはないものが、入っているから。

 表紙の裏に新聞の切り抜きが入っていた。この本についての書評である。余枠なしで切り抜かれている。この本のタイトルにマーカーが魅かれている。前の所有者の性格を感じとることができる。そして、本の奥付の上にえんぴつで「91.10.6 秀太の運動会の日に」と書かれている。綺麗な自体。そんなときに、読んだんだ。と想像を働かせてしまう。ちょっと痩せ気味の美人の人だったりして。想像というより妄想か。

 なぜ、この本をブックオフに出したのか? 今は2006年。となれば、15年たったことになる。運動会という響きは幼稚園から小学生までだろう。高学年というより低学年か。となると、5ー10歳の頃に読んだ本になる。ひょっとしたら、秀太くんは大学を卒業して就職したとか、あるいは、高校卒業後プロフェッショナルな職業に就き、結婚したとか。あるいは、子供が家を出ていき、夫も定年になり、前所有者が住み慣れた家を引っ越しすることになったとか。

 本の中の世界と本の外の世界。丁寧に読まれた本ならば、二つの世界を同時に受け取ることができる。そのよさは、新刊にはない。

2006年3月24日

ヴェネツィアの宿

須賀敦子
文春文庫: 533円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 なぜ、須賀敦子という人の評価は高いのだろうか? その疑問が一発で吹き飛びました。確かに、この本は忘れられない本です。これならば、日本の文芸誌に残ります。読んで良かった。

 過去の自分の視点、現在の自分の視点、子供の自分の視点と話しごとに縦横無尽に飛び回ります。だから、少しばかりの須賀さんの経歴というか生活を過ごした場所や時代を知らないと読んでいて戸惑うと思います。私は「コルシア書店の仲間たち」という別の本を読んでいたので、おぼろげに須賀さんの過去を知ったのですが、どの本でもいいのかもしれない。
 子供の頃は戦争時代、学校はミッションスクール。生活には困っていない。パリ、ローマに留学。帰国後職についたのだが、チャンスを得てイタリアに留学。ひょんなことからミラノに滞在。60年代から70年代にかけてミラノの書店に関わり、そこで働いていた人と結婚。旦那さんが病気でなくなり、数年後日本へ帰国。こんな感じであろうと思います。
 須賀さんの本に登場するのは実在の友人たち。うるさくない描写ですが、その友人の雰囲気が伝わってきます。もちろん、話しの中での著者の感じも。

 ”カティアが歩いた道”、”オリエント・エクスプレス”。この2編は一生私の記憶に残ると思います。若い頃の何気ないけれども人生の分岐点だった出会いとか、楽しかった人生で最後に残るものは何かとか。著者自ら「あの四冊は書けてよかった」という作品はすべて60歳を過ぎてからのものです。なるほど、だからストーリーの結末が物悲しいのでしょう。未来から過去を見ると、「あぁ」という哀しさが溢れてしまうのでしょうか。私にはまだわからないですが。

 合間をみて、須賀敦子さんの作品は全部読んでみようかなと思います。そう、思わせる一冊です。

2006年3月20日

トリエステの坂道

須賀敦子
みすず書房: 1800円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 連想記憶のようにつぎつぎと思い出される著者の回想。若い頃の不安とあかるい風景とが交差することで、印象深く残る。教訓も学習も、悲劇も喜劇もないのだが、なにか自分とは全くちがう人生をあるいている人がいるのだなぁと感慨をもってしまう作品。ようするに著者がイタリアで生活していたときの思いでと現在の生活とが描写されている。トリエステに行ったときの記憶ではないかといえばその通りなのだが、20代のちょっとこころもとない日本の女性が不案内な土地でなんとか立ち回る。ぼんやりとした不安のようなものが、読んでいて美しいと思わせるのかもしれない。うまく、説明でないのだが。

 一つ気になった個所がある。文体についての話。
”あるとき、私は著者が幼かったころ、プルーストに夢中になった彼女の母親が、医学者だった父親の「軟弱な」お弟子さんたちといっしょに、気に入った個所を声を出して読んでいたという話を頭なの中で反芻していた。それまでにもその話をなんどか読んでいながら、私はプルーストに夢中になるお母さんやきょうだいがいたなんて、ずいぶんすてきな家族ぐらいにしか考えていなかったことに気づいた。もしかしたら、これはただ恣意的に挿入されたエピソードなんかではなくて、彼女の文体宣言に代わるものではないか、そう思いついたとき、ながいこと、こころにわだかまっていたもやもやが、すっとほどける感じだった。好きな作家の文体を、自分にもっとも近いところに引きよせておいてから、それに守られるようにして自分の文体を練り上げる。いまこうして書いてみると、ずいぶん月並みで、あたりまえなことのようになのに、そのときの私にとってはこのうえない発見だった。”
 私はただ単に、文字数最小、理解のための使用メモリ最小、使用ロジック最小、かつ、ちょっと粋を感じさせるものが書きたいだけなので、文系の人の悩みまでは立ち寄らないことにしよう。そんな感想を持った。

2006年3月13日

コルシア書店の仲間たち

須賀敦子
文春文庫: 437円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 若い頃にイタリアに留学?し、ひょんなことからミラノの書店に関係したことで知った人たちに関するエッセイ集。別の本で見たことがあるのだが、須賀さんの若い頃の写真はとってもかわいいんですよね。キュートという言葉がぴったり。そんな感じではあっても文学要素としては一流のものをお持ちだったので、本も出版している書店で一定の役割があったのでしょう。かわいいけど、頭がいい。しかも、日本人。そんなアンバランスさもあったのかもしれませんけど。

 1960年代から70年代にかけて、若者ではなかった私には、この時代の世界の動きは良く知りませんし、ピンともきません。だから、書店の人たちの社会的な位置づけというのはよくわからない。まぁ、職場の変わった人たち程度の認識しかもてません。それでも、ちょっとほろ苦い感じのする人生の断片を垣間見れた気がしています。

 須賀さんのエッセイって、最後は哀しい感じなんです。しかも、昔話が終わると急に現在に引き戻される感じがします。それが、この人の文章の味わいのあるところなのでしょうか。知識をもとめて本を速読する私には、ちょっと戸惑いと魅惑とを感じる本でした。

2006年3月 5日

レット・イット・ビー

若桑みどり
主婦の友社: 1400円
お勧め指数: □□□■■

 美術史家の若桑みどりさんのエッセイ集です。10年以上前のものだし、扱っている話題が自伝につながるものが多いです。若桑さんはずっと美術史教授だろうと思っていたのですが、語学教師として20年以上も生計を立てていたのですね。しかも、二人の息子さんを女手で育てている。そんな環境だったから、嫌らしい感じのしない骨太な美術解説をされるし、フェミニズムについての発言も多いのでしょう。イコノグラフィーの本を読んでいるだけではわからない一面を知ることができました。

 芸大の音楽科で語学教師を20年以上しているのならば、その間に美術史家としての業績を積んだことになります。それはスゴイ。日々の雑事にかまけ、時間がないという言い訳でなにもできないまま歳をとってしまい、あぁ運が悪いなぁ、と現世を恨むのが普通の人です。嫌なことが多い日常だったのでしょうが、それでも結果をしていく。その結果は甘いものになるはずはないでしょう。

 絵は何年も生きてきた人でないと理解できるはずはない。だから、子供にはわからないのだ。そう主張されているところがあります。子供にもわかるのは生物学的な「色彩」の世界でしょう。いわゆるグラフィックデザイン。現在でクリエーターと呼ばれる人たちのつくる雑誌紙面は綺麗ですけど、質量を感じるもものがないのは、子供でも理解できるものだからでしょう。芸術にはならないのかもしれない。

 この本のタイトルは、齢を重ねるときに噛みしめる「生きるコツ」なのかなと思いました。


2006年2月23日

IT時代の社会のスピード 「超」整理日誌5

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1600円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 連載100回を迎えるというタイトルのエッセイにつぎのようなことが書かれている。

” また、書き始めてから思いつく事項もある。仕事にとりかかっていれば、食事中でも出勤途中でも、無意識のうちに考えが進む。寝ているときでさえそうである(朝、目がさめたときに、アイディアを思いつくことも多い)。このような「熟成期間」を作るためには、少しでも早く仕事にとりかかるほうがよい。”

 これは本当にそうである。私もそういうことがよくある。今朝も朝起きたときに考えていたことは、昨日一に考えていたことの続きであった。「考えよう」と意識しなくても、考えちゃっているところが人にはあるようだ。
 また、やり始めるとあたらに思いつくというのも本当である。思いつくときは、文章をタイプしながらであっても、一気に思いつく。映画のように筋が見えるのではない。背中がむずむずする、というような「感触」に近い。一種のクオリアなのだろう。

 小説や映画の脚本は、初めに誰かが考えたものである。観賞していくに従って生み出されているわけではない。では、作者はどうなんだろうか? 時間順に考えていくのだろうか。それとも、空から地上をみるように、過去と未来とを一度に見るような「視点」からストーリーを組み立ててしまうのだろうか? 私はそのようなものを作成したことがないのでわからない。

 有名な画家の「素描」は興味深い。考えている途中がみえるから。ダ・ビンチも対策の部分をスケッチという形で残している。有名な「最後の晩餐」の登場人物の素描はウインザー城図書館に結構残っている。ピカソの絵も、X線で覗くと途中で上塗りした絵が見えてくる。やっているうちに変わっていくのだ。最初から完成していたわけではない。
 一方で、彫刻はそうはいかない。あれは、途中変更は不可能だ。運慶快慶の阿吽やミケランジェロのダビデ象は頭の中にあったものがでてきているはずだ。そう考えると、やり始める前から名作があったものと、なかったものがあるようだ。

 野口さんのエッセイはつねにネタ帖をもとに書いているそうだ。しかし、書いている途中で話しが変わってしまうこともあるとのこと。それが普通なのかな。
 では、私はどうするのか。まず書き出している。しりきれトンボになることも多い。それでも、書いていることで、他人の文章を見るときの「注目点」に気付くようになったのだ。素人が読書メモをつけるのも、まんざら意味がないことではない。


2006年2月21日

日本にも夢はあるはず 「超」整理日誌7

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1400円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 この本は古本として購入した。表紙の裏に「謹呈 著者」という札が入っていた。関係者の方がamazonマーケットプレースに流したのだろうか。まぁ、100円だからどうでもいい話しなのだが。

 ”小泉劇場”の構造崩壊という見出しのエッセイに「物語の構造」の説明が書いてある。野口さんは無類の「指輪物語」好き。別のエッセイ本で「風の谷のナウシカ」についての小論文も書かれていたので、ファンタジーもお好きのようだ。その野口さんは次のように言う。人気がでる物語は必ず次の構造を持つと。

 物語の5つの要素。(1)主人公が故郷を離れて旅に出る。(2)旅の途中で仲間が加わる。(3)敵が現われる。(4)最終戦争で勝利を収める。(5)故郷へ帰還する。
 なるほど確かにそうである。桃太郎も、ガンダムも。ローマの休日もそう言えなくもない。そういえば、歴史上最も古い物語である「ギルガメシュ」もそうだ。なるほど、本当だ。

 物語と映画の話しがこの巻では多かったようだ。


デフレとラブストーリーの経済法則 「超」整理日誌8

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1400円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 数学よりも先に論理手思考力と題されたエッセイの中で次のようなことが書かれている。

”もし論理的思考力を身につけたいなら、論理学の基本的なルールを習得するほうが重要である。たとえば、「逆は必ずしも真ならず」というようなルールだ。これは、形式論理の最も初歩的なルールだが、日常の会話や文章では、実に頻繁に無視される。つまり、必要条件と十分条件を混同してしまうのだ。
 たとえば、「論理的思考力を身に付けるには、形式論理の基本ルールを習得するべきだ」とかくと、「そんな簡単なルールを習ったところで、論理的思考はできない」という反論が出てくる。「企業を改革する必要がある」と書くと、「政府の改革も必要だ。それに、構造改革だけで日本経済が活性化するわけがない」という反論が出てくる。私は、この類いの批判、つまり論理的に誤った批判(必要条件と十分条件を混同した批判)に、うんざりしている。”

 よくよく考えると、自分も良く間違っていることに気付く。とくに、逆も真なりという論法を考えてしまう。対偶ということばは知っているが、数学の枠のなかでしか意識しない考え方になっている。つまり、せっかくアリストテレスが遥か昔に整理してくれた道具をいまだに使いこなせていないのだ。これでは2300年後に生まれたメリットを生かしていない。人類史に申し訳いない気もする。

 このエッセイを読んで一つだけ実践しようと思っている。それは、せめて「形式論理」を一端確認した上で「何らかの発言(言い切り型のもの)をしよう」ということである。エッセイも勉強のために読んでいるのだから、実践に投入してその効果を観測していこう。そんなことを考えました。

2006年2月19日

365日の「超」知的生活

野口悠紀雄
三笠書房: 495円
お勧め指数: □■■■■ (1)

 野口さんが提案する方法のダイジェスト版。安直に紹介している本という気もする。何れにせよ、新しい内容はない。だから、あまり評価しない。ただし、押しだしファイリングなどの方法を全く知らない人には手早くまとまっているので有益かもしれない。その他、「超」整理手帳やWWWリンクの紹介と、98年当時の情報、そして、編集者のコメントなどがある。だが、そんなに面白いものではない。


2006年2月18日

地動説を疑う 「超」整理日誌9

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1400円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 ご自身の書斎などの写真が載っていた。平机でなければならないそうだ。全くもって同感。北向きの採光窓も共感がもてる。そのなかで次のような文章があった。
"本の「積ん読」は、一般にはよくないこととされる。だが、私は、大変意味があると考えている。
 自分の蔵書なら「自分の側」にあると感じられるから、本のほうから近づいてくる。そして、いつかは読めて、本当に「自分の本」になる。五年も十年mのあいだずっと積んでおいた本を、何かのきっかけで読了し、自分のものとしたことも多い。
 これに対して、書店は図書館にある本は、なかなか読めない。いつになっても、「あちらの側」のままだ。だから、読みたいと思った本は、迷わず買うべきだ。”
 全く同感。わたしも、購入して5年位して、あるときふと読み始めて、その日に全部よんでしまったという経験がなんどもある。野口さんと同じような気分になれるのは、似ているところがあるからなのだろう。


2006年2月17日

「鏡の国」の経済学者 「超」整理日誌4

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1600円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 この巻も面白い。野口さんが面白いと思って書いているエッセイは本当に面白い。時事批評は評論などはつまらないのだけど。この巻は教育についての話しが多かった。
"人間は、「先天的能力は低いが、後天的学習によって非常に高い能力を獲得する」という特性をもつ生物なのである。"
 要するに勉強することで賢くなるということです。賢さをはかる指標に文章があります。ダニエルキースのアルジャーノンのなかのチャールズゴードンという主人公が知能を発達していく過程をみせるのに文章を使っていまして、それを紹介しています。
"物語は、主人公チャールズゴードンの日記として展開されている。最初に現われる文章は、つぎのようなものだ。
Dr. Strauss says I shud rite down what I think and every thing that happins to me from now on. I dont know why but he says its importint so they will see if they will use me.”
稚拙さ、幼稚さというのが文面にでているのです。易しい単語の構成と言い回しで表現しているのですが、それははやり、「幼稚さ」を著していて、そんな文章を書くの人ならば精神も幼稚だろうと判断されても仕方ないということです。
 これを読んで私は確信しました。はやり、英語で論文を書くのはやめよう。だって、アホ見たいなものを残そうと必死になっても、意味ないじゃないか。それならば、日本語でマシなものを残そうと。賛否両論ありましょうけど、もういいやと。

 とりあえず、この原著をアマゾンで購入しましたので、それを読んでみて精神のレベルと文章のレベルの相関を味わってみよう。そんなことを考えました。


2006年2月16日

時間旅行の楽しみ 「超」整理日誌3

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1600円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 先週読んだ「超」整理日誌シリーズの2冊はつまらなかったのだが、この巻は面白いと思った。「ためになること」や「こうするべきだ論」ではなく、野口さんの好きなことについて語っているのが原因でしょう。星のこと、スコットランドのこと、そして、昔の話など。その人が本当に好きなことを語っているのを聞くのはとても楽しい気分になれます。内容を通してではなく、直にその人の感情が伝わってくるから。人は楽しい人が好きなんです、幸せな人と一緒にいたいもんなんですね。

「もし星空が千年に一度しか現われないのなら、人々は神の都である星空を信じがたいものとして崇め、幾世代にもわたってそれを語り継ぐであろう」(ラフル・エマソン)
 こんな言葉がこの本の中で語られています。


2006年2月14日

「超」整理日誌2 無人島にもっていく本

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1600円
お勧め指数: □□■■■ (2)

 雑誌連載エッセイをまとめてある。書名に魅かれる。私ならば何をもっていくのだろうか。数学概論かな。一度じっくり読みたい本だろうけど、実際問題死ぬか生きるかというときには何を選択するのだろうか。野口さんは「星図」だそうだ。なるほど、粋な解答。

 この本では珍しく愚痴がかいてある。マスコミの批判について反論している。ある水準を超えている人ならば、野口さんが弁解しないのでも、野口さんの著書の素晴らしさはわかる。ほっておけばいいのにと、私は思う。ただ、「このようなやからは相手にしないでおくと、さらに追求してくる。だから反論するのだ。」そのような態度にでている。なるほど、そうなのかもしれない。

 一方で、「アルジャーノンに花束を」を名作であるとエッセイで書いたところ、それを「十代の小娘ではあるまいし」と批判されたことについて書いている。これは、福田和也という人の新書で「こういうバカ教授がいるからこまったものだ」というという例として書かれているのを読んだことがある。このK.F氏は典型的な「おれってすごい」的な人だと読んでいくうちにわかったので、他の新書を購入するのはやめた。どうやら私は野口さんの方と馬があうようだ。


2006年2月 8日

「超」整理日誌 情報メディア経済を捌く

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1300円
お勧め指数: □■■■■ (1)

「超」勉強法にあった「速読」で読んでみた。といっても対した方法ではなく、音読しないで読むだけ。あとは無意識レベルが言語の解釈をしてくれると信じて読む。いや、80:20の法則を信じて読む(キーとなるのは全体の20%のみというもの)。連載エッセイだから「思いを込めた」文章が少ないので、この方法でよんでも読み飛ばしたとは言えないであろう(と信じている)。

 本書は2部構成になっている。1部は連載エッセイ。2部は「風の谷のナウシカ」を語るというもの。圧倒的にナウシカの方に勢いがある。もうちょっと書いてもらって別に出版してもいいんじゃないの。そう、思わせる。

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2006年2月 7日

「超」整理日誌6 正確に間違う人、漠然と正しい人

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1400円
お勧め指数: □■■■■ (1)

 野口さんのエッセイ集。雑誌に掲載されているもの1年分を1冊にしてある。これまで読んだ「超」シリーズとちがい、面白くない。無理に話しを膨らませている、あるいは、他で読んだ話しが紛れいている。なんか、損した気分にもなった。

 なぜだろう。恐らく、「締め切り」に合わせてエッセイを書いているからではないだろうか? 他の「超」シリーズは、書かんでええのに書いたのだが、連載エッセイは締め切りがあるために書いた。そんな感じがする。時事ネタを発端として、別の話しにつなげていく。最後はいかにも「まとめ」のような記述になっている。冴えないなぁ。


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2006年1月25日

天使の出現

野口悠紀雄
日本経済新聞社: 1575円
お勧め指数: □□□■■ (3)

日経に連載されていたエッセイを下敷きにしたものです。内容はばらばら。「時間」をキーにしているということですが、科学あり、経済あり、歴史あり、文学あり、音楽あり、思いであり。新聞で読む程度の深さの小品がそろっています。

 この本では、それぞれのエッセイの後で、「あとで考えたこと」というエッセイが書き足されています。新聞紙面では文字数が制約されているので書けなかったことや、後日談です。そこで、あることに気づきました。

 なにかを説明するとき「たとえば、〜という本に詳しく紹介されている」というような本の紹介です。自分の視点だけではく、本の内容を下敷きにすることで内容に「普遍性」を持たせている。研究論文では「あったりまえ」のことです。ただ、エッセイではやり過ぎるとうるさくなる危険がありますが、巻末に参考文献としてあげるよりも「どこを読んでどう考えたのか」がわかるので、このような紹介はうれしいものです。

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2006年1月24日

「超」旅行法

野口悠紀雄
新潮社: 1400円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 旅行のときにすると良いこと。哲学的なことでも詩的なことでもない。著者の備忘録がそのまま本になっている。例えば、どのような荷物を持つべきか、出かけるときに注意することはなにか、どのようなホテルに泊るべきか、どうやってレストランをさがすのか。「旅行のしおり」のような本にある、誰にも当てはまるようにしたために記述が抽象的になってしまった、という本の対局です。具体的。というより、著者はこうしている、という紹介です。

ミシュランの使い方。電車の乗り方。ホテル予約のFAXの例。現地での行動パターンなど、普通の人の目線でおしえてくれてます。読んだときに意味なく旅行に行きたくなりますね。 旅行好きの人の嫌みな本ならお断りなのですが、「超」シリーズの他のホント同じように、簡潔で信頼できそうな内容です。お勧め。

2006年1月22日

超バカの壁

養老孟司
新潮新書: 680円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 バカの壁の新作。というより、一人語りによるエッセイ。養老さんの本を読んでいる人ならば、違和感を持たない内容。おそらく、どこかで断片的に語っているのを聞いたことがあるであろう。バカの壁のときもそう思った。両者は内容として同じ推薦評価があるのだが、こちらの本は売れるのだろうか。

 本文中に、普段から私が思っていることがそのまま書いてったので、引用したい。

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2006年1月 2日

老人力

赤瀬川原平
筑摩書房: 1500円
お勧め指数: ■■■■■ (0)

 1月1日からブックオフは開店する。毎年ついふらふらよってしまう。ちなみに、初詣は行かない。100円コーナーにはたまに掘り出し物があるので、漁ると楽しい。取りあえず、この「老人力」を手にとってみた。この著者は少しかわった視点をもっているので面白いのだし、損はしないだろうと思ったが、それが間違いだった。

 びっくりするほどつまらない。年をとって、物忘れがおき、また、「ま、いいか」的な緩い発想ができるようになることを「老人力がつく」と言うらしい。それはそれで面白いのだが、このエッセイはそれをコアにして、私はこんな物忘れをしてしまったということをゆるゆると書いている。それが、実につまらない。いや、私がエッセイに求めているものとあまりにも違うだけなのだろうが、ちょっとあきれるくらい読んでいてつまらかった。

 正月一発目から不発。まぁ、しかたない。これを通勤電車で読んでいたら悲しいだろうが、ソファーで眺めていただけなのである意味害はない。というより、休日の無為さを強調するようなアイテムとして、あるいみ役に立ったのかもしれない。


2005年12月28日

クオリア降臨

茂木健一郎
文藝春秋: 1619円
お勧め指数: □□■■■ (2)

文学評論の本なのだと思います、多分。はっきり言い切れないのは、この分野の本をあまり読んだ経験が少ないため、分類するための「よすが」がないので。本文では漱石や小林秀雄などを引きながら、文学を読むということ、書くということ、その意義と意味、人が生きている感覚、あるいは、現代社会における減少とのかかわり合いについて論じられています。「さっぱり分からん」ということはないと思いますが、かといって「さらっと読める」ような気はしません。いや、私の話しですが、結構頭をつかったつもりですが「要するに何がいいたのか」と考えるとはっきり言葉にできない内容も結構ありました。要するに、良く分かっていないです。

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2005年11月 6日

ユルスナールの靴

須賀敦子
河出書房新社: 1553円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 「ハドリアヌスの回想」の著者、マルグリット・ユルスナールについてのエッセイである。須賀敦子という人について、私は詳しく知らないし、他に読んだ本もない。しかし、「ハドリアヌスの回想」という本はよく目にするので読んでみた。塩野さんと同じか少し前の世代の人であろうか。イタリア住まいの長い人という点でも興味をもってしまう。

 内容は著者のこれまでの生活(とくに、ヨーロッパへ留学したときのこと)の回想と、ユルスナールの生い立ちをパラレルに紹介したもの。ユルスナールの生い立ちや作家として変貌していく出来事を、著者の過去、そして、現在の出来事と並列して書き進めているエッセイ。

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2005年10月23日

こまった人

中公新書: 700円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 養老さんのエッセイ。雑誌に掲載されいているものをまとめたようです。内容は時事問題ですが、昆虫集めや東大教授時代の体験の視点から、見えてくる社会を教えてくれます。そして、語るときの判断基準は「だって、そうだろう」という常識なのです。人というより虫の視点から、といってもいいかもしれません。ある意味、至極全うなことを言ってくれます。例えば、

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2005年10月16日

食べちゃおイタリア!

パンツェッタ・ジローラモ 光文社知恵の森文庫: 686円 お勧め度: □□□■■ (3)

 ジローラモさんのエッセイ。イタリアでの思い出と食べ物の話しが綴られている。登場人物もエピソードも「おもしろいなぁ」というものばかり。悪い人がいない世界のように思えてしまうので、休日の午後に読むには持って来いの本。本当のこと?なのかどうか、詮索しようという気にならないのは、奥さんの日本語訳がジローラモさんのしゃべりにマッチしているからでしょう。つい、笑ってしまう。

2005年7月19日

ものが壊れるわけ

マーク・E・エバハート
河出書房新社: 2200円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 破壊力学を研究してきた著者の回想と随想録。工学でも科学でも表通りには面していない「破壊」という研究分野の大切さを語っている。タイタニック号の破断を展性=脆性転移温度以下での現象という説明から書き始めている。応力集中拡大係数という言葉を一般の人向けの本に見いだすとは思いも寄らなかったが、その説明の自然さに感心した。

 「靭性」など基礎的な単語の説明をコーニング社のガラス食器の例を交えて説明してくれる。全く初めての人だとちょっと戸惑うかもしれないが、工学部で機械工学を学んだ人なら「懐かしー」と思うであろう。つまらないと思っていた「破壊力学」、面白いかもしれないと思った。教科書を読み返してみたくなった。

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2005年7月 5日

いまを楽しむ人生論

森毅
イースト・プレス: 1400円
お勧め指標: □□□■■ (3)

 人生20年論。20年ごとに違う人生を生きてみよう。肩の力をぬいて。そういう感じのエッセイ集。森毅はもう20年くらい前から読んでいる。エッセイ集ばかりだが、結論がいつも同じになるので、ある意味安心していられる。なんといっても、その頃の関心事であって受験。大学での数学は何を基準に評価するのか。答があっていることではなく、考える道筋をどうみるのか。○×式の「評価」しか思い浮かばなかった私には衝撃的な内容であった。 森さんの本を読み始めたのは人生のセカンドステージに入りかけた頃。もうすぐ、それも終わろうとしている。早い物だなあと思う。この人から「気楽さ」を教えてもらって、生きるのが落になったと思う。

 いまの受験生にも通用するのではないかな、「サボり流数学のすすめ」などは?

2005年7月 3日

遊ぶ奴ほどよくデキる!

大前研一
小学館: 1400円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 『遊び心』『やりたいことは全部やれ』に続く本です。生き方論の提案。大前さんの生活を具体例として「こういう理由でこうしている、そしてそれはうまくいっている。ダメな物はこれで、こうやって回避したんだ」そういう具体例が詰まっています。「こうしなければならない」という抽象論を大上段から積極される本とは違います。

 編集者がつけたのでしょうけれど、この書名はピントがはずれています。「よく遊ぶ → よくできる」という意味ではない。因果を示すのではなく、相関を示しているのでしょう。あるいは、「良くできる人 → よく遊んでいる」という観測された事実があるとしても、「逆」は成立しないはず。ちょっと、媚びている感じがして、嫌な感じがします。

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2005年7月 2日

私の脳はなぜ虫が好きか?

養老孟司
日経BP社: 1300円
お勧め指標: □□□■■ (3)

 虫取りについてのエッセイ。日経エコロジーに掲載されていたものをまとめた本。著者はファーブル昆虫記のようなものにするつもりだったが、環境に関係する内容を入れようとした(要請された)ことと、虫取りそのものを細かく記述するほど余裕がなかったことから、虫取りを中心した社会評論的な読み物になっている。

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2005年6月18日

戦争と仏教 思うままに

梅原猛
文芸春秋: 1800円
お勧め指数: □□■■■ (2)

 新聞に掲載されたエッセイをまとめたもの。時事評論と思いつくままに書き残した日本仏教のお話がまとめられている。 以前読んだ「梅原猛の授業 仏教」や「梅原猛の授業 道徳」は素晴らしい本であったので、この本も店頭平積みのものを中身も見ず買った。ある意味、失敗であった。

 内容が書かれた時期はブッシュがイラク戦争を始める頃だったので、それに関する話題が1/3位を閉めている。その評論は、著者の偉大さからみるとあまりにも稚拙なのだ。というか、新聞評論の焼き直しに過ぎない。

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2005年4月30日

極楽イタリア人になる方法2

ジローラモ・パンツェッタ
KKベストセラーズ: 524円
お勧め指数: □□■■■ (2)

 ジローラモさんのイタリア(というか、ナポリおよび家族、親戚)についてのエッセイ。日本語への翻訳は奥さんがされている。等身大の生活がかかれている。おしゃれなところではなく、汚れており、また、普通の人間の生活している世界がテンポのよい言葉で語られている。

ジローラモさんが推薦する物は、イタリア人の親しい友人でもいないと体験できないことばかりだから、これを読んでもしょうがないっちゃ、しょうがない。 読んでいて困るのは、パスタやピザ、ワインがあたまに浮かんできてしまうこと。夕飯どこかへ食べにいくか? いや、お金がないからスゲッティーでもゆでるか? などと妄想にとらわれることか。

2005年4月29日

イギリスPubウォッチング

デズモント・モリス ケイト・フォックス
平凡社: 1165円
お勧め指数: □■■■■ (1)

 パブとはどんなところなのか。パブにはどんな種類があり、どんな人が通うのか。その社会的な機能はなにか。散文とも解説書ともいえない、気軽な読み物。著者のモリスは有名なひとだし、養老孟司書店の書架に並んでいたし、翻訳が林望であったので読んでみた。が、そんなによい本には思えない。パブ協会発行の会報に掲載されていました、みたいな軽い文章である。

 パブはパブリックハウスの意味で、プライベートハウス(要するに自宅)に招くほど親しい人と話をする場所である。なるほど。要するに、お金を払って使わせてもらう居間なのだ。日本ののみやとはだいぶ違う性質のようだ。だが、日本のパブにすら行ったことがないので、私にはあまり意味をなさない本だった。


2005年4月23日

たいのおかしら

さくらももこ
集英社: 950円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 さくらももこのエッセイ3部作の最後。この巻はどちらかといえば小さい頃の思い出が多い。冒頭の文章を数行よむだけで引き込まれてしまう。読んでいるとTARAKO(ももこの声優さん)がしゃべってくれるので、ちびまるこを見ているようである。まったく、キャラが立っている作品は人間に与える影響も大きいだろう。サザエさんとちびまるこ、そしてドラえもんは他の声優さんではむりだろうとは思うが、ドラえもんはどうなったのかな。

 ベストセラーだったので、BOOKOFFには置いてあるでしょう。私は三部作とも100円で買いました。

2005年3月22日

笑いの力

河合隼雄・養老孟司・筒井康隆
岩波書店 1300円
お勧め指数 ★☆☆☆☆

 3人をパネリストにした講演録と対談録。フォントが大きく、行間が広い。対談集だって割には、装丁がきれいで立派な本。1300円もする。
 内容は全然だめです。笑いについて語る、というより銘々勝手なことを言って逃げ腰。笑いの話しをしても面白くない、と論者は口をそろえて言うが、本当に面白くない。

 養老孟司の講演で次の一節があった。いろいろなところで話している。
 ”いまの若い人には変わらない私がある、それがほんとうの私で、それが世界にたった一つの花だと、どこかで思っていますよ(笑い)。それが自分の勝ちだろうと。どうして、死ぬまで変わらない自分がある、ということになってしまったのでしょうか?”
 全くそうですね。そんなものは、ない。

2005年2月13日

もものかんづめ

さくらももこ
集英社 866円
★★★★★

 この人、すごく上手なエッセイ書き。ちびまる子ちゃんのアニメのキャラ先行で、文章を読んでいても頭のなかで声優さんの声に変換される。まるこ、おねーちゃん、おかーさん、ひろし。だから、読んでいても漫画を「見ている」ようで、すごく楽しい。漫画を見るよりいいかもね。へんに文学好きの人がかくより、場面が人物が浮き上がるような言葉が並んでいる。地の文がもももこのしゃべりになる(TARAKOの声)ので、読んでいる気がしないのだけど。

 内容は漫画と同じ。ももこの着眼点とちょっと変わった「比喩」。子供の発想の「面白さ」が、妙に笑える。嫌みがない笑い。じーさんが死んだときに笑い転げるところが、子供の残酷さでもあるのだが、それは本当なのだから仕方がない。ともぞうじいさんは、理想像だったんですね。

 もっと評価されてしかるべき作品ですよ、このエッセイは。

さるのこしかけ

さくらももこ
集英社 918円
★★★☆☆

 もものかんづめに気を良くして出した2冊目。1冊目の「ほんわかさ」が弱くなっている。まるちゃんの話しではなく、現実の人の話だということがつたわってくる。面白いエッセイを書いてもらうためにインド旅行に行ったりしているが、これは入らない。この人の良さは、普通の生活の切り出し方、とくに、子供ならではの視点にあるのだから。