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2013年1月 5日

「リスク」の食べ方

岩田健太郎
ちくま新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

レバ刺を食べることを法律で禁止することはどうなんだろう?

この問題を題材に、食中毒とは、感染症とは、法規制とは、レバ刺禁止の妥当性は、についての考え方を教えてくれる。
普通の人が読めば全くまっとうなことを言っているとわかる。
同時に、世の中おかしなことをやっているなぁと気づく。
そんな規制をやる側の人も伝えるマスコミも、図らずともそうなることを求めている圧倒的多数の日本の人も。

なるほどなぁ、僕も気をつけよう、この件だけじゃないよね、こういう話って。
安全・安心などははなかっら求めていない僕なのだが、それでも実社会で実際に生きるときには、だからといってなにもできんよなぁ、と感じる。
マスコミには扇動されにくい人へと学んで変化しているとは思うのだが、社会の動きに対しては多勢に無勢の感がある。

まっとうなことを教えてくれる本を読むといつも決まってこの無力感を感じる。

2012年12月28日

原発と日本人 自分を売らない思想

小出裕章+佐高信
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□■ (4)

原発についての本は結構な冊数を読んできた。
なかでも小出さんの本はなるべく見かけたら購入し、すぐに読むようにしてきた。

それは知識を得るためでも東電・政府に腹を立てるためでもない。

「原発がもしも」が引き起こすことに自ら疑問に思い、それを昔から真剣に考え、それを止めるべく個人としての行動をとってきた人は、現状をどう考えて、これからどうしようとするのだろうか。
それを知りたいから、小出さんの本を読んできた。

「だからいったじゃないか」

そう周りを非難するのが人の感情として当然なことだけど、そういうことを小出さんはされない。
それでも、東電なり国なりに腹を立てている。
強い言葉を著作の中で見出すことができる。

頭が良い人ならば、頭の悪い人のやることを予想し、それを無力化するような行動を先回りにすればよい。
ぼくはそう思っている。
だが、小出さんのレベルの頭脳をもってしても、相手が東電なり国なりになると単独ではなかなか有効な手を打つことはでない。
一人でできることの限界は早々と見えてくるから。

だとすれば、大して頭は良くないし、影響力もない市井の人でしかないぼくは、何をすりゃいいんだろうか。

もちろん即効性のある有効な手立てはない。
手がないのは事実だが、考えなくなったりやめちゃったりすることはいけない。
というのは、今有効ではない手であっても、環境が変われば有効になりうる「可能性」は残っているから。

選挙結果を目の当たりにして、「反対運動をする」という行為の意味には大いに疑問を感じるようになった。
が、だからといって諦めるつもりはない。
どういう方法がありうるのだろうか。
それを今後も考えて続けていこう。
行動をせよというが、反対運動という行動はあまり意味が無いようだから、もっと別の方法を探すか。

一人でできることは少ないし、功利的でもない。
でも、それでいいだろう。
ぼくは市井の人で、影響力があるわけでもないのだから。

2012年5月 1日

小沢一郎はなぜ裁かれたか

石川知裕+佐藤優
徳間書店
お勧め指数 □□□■■ (3)

最近のニュースの報道でよくわからない小沢一郎裁判。
政治的なことがどうこういうのではなく、供述調書を「でっち上げ」られて、それがもとでの起訴なんだから、判決を出すという以前の「こりゃ、ドローだろう」ってことにならない理由がわからなかった。

そういいつつ、マスコミで識者?たちは「限りになく黒に近い」と言っており、政治家たちは説明責任を果たさせろと騒いでいる。
僕が見ているこれらの人が全員馬鹿なのか、それともぼくは何かコアになるこの事件の鍵をしらないのか。
なんだかなぁと思っていた。

そのとき、取り調べをICレコーダーでせよとアドバイスした人は佐藤優さんだと知った。
なんだよ、すげーな、ここにもいるんか。
どういう顛末でそんなことをやってヒットを打ったのか知りたいなぁ。
そう思っていた矢先にこの本を店頭で見かけた。

この事件や政治家たちの佐藤優さんの見立てを読むことができる。
感動はしなけいど、政治にも裁判にも関わらないで生きて行けたらハッピーだなと、読みながら再確認した。

2012年2月10日

日本人はどう住まうべきか?

養老孟司+隈研吾
日経BP社
お勧め指数 □□□□■ (4)

養老孟司さんの本を久々に発見したしたので、早速購入。
対談相手は建築家の隈研吾さん。
有名な方だけど、知っているのは葉山のガラスが印象的なゴルフ上の施設くらいか。

テーマは震災と表題にある「日本人って、どんなところに住んだらいいんですかね」というもの。
今の東京のようなところに住むには、よくないのだろうということは読まないでもわかる。
しかし、お二人がさらにどんな主張をされるのかわからない。
いや、養老孟司さんは参勤交代かな、と予想はできるけど。

日本の東京のような都市部は、どうしてつまらない建築しかないのだろうか。
その問いを語り合っている。

その理由は、建築に関わる人が「サラリーマン」だから。
責任が自分にない、あるいは、責任をとらないように無難なことしかしない。
あるいは、最初に住宅ローンを組まされているので、道から外れたことは、生活を守る上でできない。

なるほど、というか、そうだよね、と思いながら読んだ。

住宅ローンで最初に縛られたら、それはローン完済まで「途中で休んだり」「転職したり」「勝負にでたり」ということができようはずがない。
これは、ぼくもわかっていて、だから僕の人生は借家で行こうと思っている。
ただ、これが本当にいい方向なのかどうかは「まったくわからない」のだけど。

2011年11月30日

移行期的混乱

平川克美
筑摩書房
お勧め指数 □□□□□ (5)

新刊として発表されたとき以上に、今読み返していろいろ考えさせてくれる本だった。

日本の経済成長は今後あり得るのか?
この本の答えは「ないだろう」ということ。
理由は明確で、日本の人口は減る、生産効率は劇的には向上しない、都合よくイノベーションが救ってくれることもない。
とくに、人口減少については、人口動態の推移を見れば「自明」であって、もうどうしようもない、ということだ。

一時期(今でもだが)、子供を増やそうという政策をとっていた。
その理由は経済成長させるためと。
とはいえ実際は年金でいい加減なことをしていたことがバレないようにするための政策だったのだろう。
つまりは、人口増やす=年金維持、ということだった。

だが、もうそりゃ無理だ。
残念ながら、医療費も年金も僕らの世代では潰れている。
もっといえば、その前に経済的な意味では、破綻している。
TPPで日本の医療も完膚なきまでに壊す、と首相が意気込んでいるのだから、今の想像よりも悪くなる。

それを前提として、じゃぁ、どうするか?
それを考えていくことが「生き延びるには」を考えることだろう。

現在の震災復興のニュースを見ていて思うのは、テレビに映る人すべてが「国が指針を示せ」「国が支払え」と訴えているところだ。

確かに、放射能の被害については、東電+国が支払うのが筋で、被害者が何も言えない状態になるまで支払いを渋る、という方法にでも出ない限り、支払われるだろうと思っている(とはいえ、過去の公害裁判を見るにつけ、被害者が訴えをおこせなくなるまで「先延ばしする」という方法を政府は取るだろうことは見えているのだが)。

しかしなぁ、国が「よいことをする」ってのは、そりゃ無理なことだろう。
昨日からどのくらい過去に遡れば、そういう政府が日本にあったのか知りたいところだ。
そんなもん、あったのだろうか?

ぼくはなかったと思っている。
今後もないだろう。
まぁ、絶対ないわけではいけど。

一番最優先されること、大事なことは、まず生き延びること。

生き延びられるかどうかは、自分がどう行動するかにかかっている。
不誠実で嘘八百の部分が多い行政に全面的に頼ることしか思いつかないようでは、たぶん生き延びられない。
それよりも、どうやって政府の知能を逆手にとって、自分たちが生き延びるのに有利なことをするか。
それにかかっていると思うのだ。

自分一人で「逃げ」みたいなことをすると、結局孤独のうちに敗者になるんだろうな。

震災のことを考えれば、そういうマインドをもって行動するのは被災者だ。
しかしこの本を読めば、日本経済を考えるときには、日本人誰もがそのマインドをもって行動しないとダメだろうということがわかる。

今後は、経済成長はしない。
しないとわかっているのならば、「する」と信じて行動する人よりも有利なポジションにある。
だって、「しない」ことが確定してから行動を起こしても「間に合わない」から。

では、ぼくは何をすることで生き延びられるのか。
それに答えはない。
おそらくだが、今後のぼくの行き方、渡世の方法が、その答えになる。
少なくともぼくはそう思っている。

さ、がんばろ。
自信ないけどね。

2011年11月22日

株式会社という病

平川克美
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

時間をあけて同じ本を読み返すと、まったく違ったものが見えてくる。
改めてこの文庫本を読んで、過去に単行本でこれを読んだとき何を読んでいたのか、と情けない気分を覚えた。

どの文章も初めて読むような気がした。
情報を吸い上げようと読み始めても、文章の力によって次第に「真面目に」株式会社の問題を考えている自分に気づく。
本を読むことによって、「ぼくも」一緒の考えているのだ。

すごい。
平川さんに「考える」ということを教わっているような気分になる。

すでに一度読んだことがあると思えないのは、ぼくの頭はまだアホだったのだろうか。
それがここ数年で少しはよくなったのかもしれない。
なにせ、内容を覚えていなかったのだから。

とはいえ、全て忘れたわけではない。
ところどころ記憶には残っていて、例えば落語芝浜のCDをなぜ買ったのかの理由がこの本にあったのかと再発見した。


ぼくは株式会社に務めたことがなく、また株式会社に務めている人と接触する(会話をする)機会は殆ど無い。
だから、会社といえばドラマの中のサラリーマンを思い浮かべるよりない。
あるいは、ニュースで紹介される経済犯罪の舞台であり主犯となる対象でしかない。
どっちもあまり関わりたくないイメージである。

本書では株式会社というものがこの先どうなるのか、何が起きるのかを考察している。
コンプライアンスとかコーポレイトガバナンスとか、そういう言葉が飛び交うようになっているが、その後で何が起きるか。
株式会社の幾つく先について、考えている。

株式会社の発祥は大航海時代のイギリスである。
人類の組織や政治の歴史に比べれば、つまり王政とか民主制とかいうものと比較すれば、株式会社はつい最近現れたものに過ぎない。
その発生当初から「良い面」と「悪い面」とあり、イギリスでは「法的に禁止」されていた時期もあったそうだ。

産業革命時代の資本家と労働者の関係のように、極度な社会的分離を生じさせ、共産主義革命というものが発明され実験に供されることの発端となったのは株式会社であろう。
その実験に失敗してソ連は倒れたが、同じようなことが資本主義社会に起こらないとも限らないわけだ。

会社を株主、経営者、そして従業員に分けてしまったことが問題の発端のように思える。
株主は、株を買い株の値を上げ、それを売って儲けること「だけ」が目的である。
そのために株主に雇われているのが経営者で、経営者のもとで働くのが従業員である。
経営者に不満があれば、株主はすげ替えることができるわけだ。


人が働くことは太古から当然あり、集団で何かをするということもそころから行われてきた。
人が集まって仕事をし、給料をもらうというような仕組みが株式会社ならではのものではない。

人が自分のために、社会に役立つものを作り出して売る。
その規模が大きくなると、管理という機能が必要なるので、経営というものを作りだした。
その段階では、会社は働く人のための道具であり制度的工夫でしかなかった。

しかし、株主というものを設定したが故に、ある種の「王政」が引かれてしまった。
結果的に従業員は奴隷になった。

もし株主の欲望を止めるものがなければ、会社の製品や環境への影響などは無視されていくのは当然だ。
環境だけでなく、奴隷としての従業員について考えることもないだろう。

自分がどこに立っているのか。
これに気づかななくなったとき、無自覚に無意識に「欲望」の方程式に沿って人は行動する。
それが、いろいろな社会悪を生み出すが、一方で商売としては成功するわけだ。


例えば、毎日のようにタイの洪水の話や、円高の話がニュースで流れている。
そのニュースでは「コレコレの理由で工場を移す」と「さらっと」言っている。
そうしないと、儲けが少なくなるから、ということだ。

しかし、これ、従業員から考えると「人生がガラっと変わる」ような発言なのだ。
別のところに移動したら、今働いている人はいらない、ということだから。


この本を読んで、こういうニュースの背後になることななんなのか、少し気づくにようになってきた。
人が集まって働くことが目的だったのに、いつのまにやら「奴隷」になっている。
派遣労働者の問題は現代の奴隷制を言っているに過ぎないし。

とはいえ、この先も社会はこのままで動くだろう、しばらくは。
怖いものだ。

今まで通り、なれべく近寄らないようにしよう。

2011年11月14日

橋本主義(ハシズム)を許すな

内田樹+山口二郎+香山リカ+薬師院仁志
ビジネス社
お勧め指数 □□□□■ (4)

橋下弁護士の独裁がすごいことになっているらしい。

大阪知事といえば、横山ノックさん。
代々お笑いの人が当選するところだと思ってきた。

知事といっても、とくに何かをするわけではなく、まぁ、適当に時間を過ごして出ていくというタイプ。
それでも大阪はいろいろ回るのだから、知事の周りにいる人が、実質的に仕事しているのだろう。
だから、ヘッドは誰もでいい。

そういう仕組みが体制にあるのだろうな、と思っていた。
普通の東京の人は、そう思っているのではないか。

一方で、ニュースでいろいろ登場してきた橋下知事は、なにやらきな臭いことをしている。

踏み絵のようなものをして、知事の意見にまつろわないものは「首」のようなことをしていると。
教育に関する条例にいたっては、立派な恫喝をしているわけだ。

恫喝かよ。

なんかすごいことになっているのか。

マスコミは「橋本旋風」が強い時は特段批判記事を出していなかった。

内田樹さんがラジオで「橋本批判となると俺のところに来るのはなぜか?」と記者に怒ったことがあると言っていた。
反橋本的な意見を述べるのが「皆怖がっている」という雰囲気があったらしい。
堂々と反論を口にする内田樹さんくらいだったようだ。

教育に関する条例で、あまりにも「独裁」的なことが明らかなってきた。
そういうことが報じられて少し橋本人気に?がつき始めたら、急に橋本叩きが始まった。

マスコミのそういう態度、そりゃそれで問題なのだが、それ以上に「自分に対して反対意見を述べるものは、権力のなにおいて抹殺する」という「独裁」という形式を橋本さんは鮮明に出してきたのほうが、ずっと問題だ。

ここは現代か?

と思うくらい、綺麗に独裁を宣言している。
その内容はこの本を読めばわかる。

問題は、このあとだ。
大阪の人はどう考えるのだろうか?

大阪がどうなっていくのか、それは大阪の人の問題だから、ぼくは関知しない。
そう思ってきたが、こういう「俺に反対する奴らは抹殺する」的な態度を堂々と取る「政治家」が、当選するという事態は、見過ごすことができない。

というのは、他でも「真似する」奴がでてくるからだ。

不思議だなぁなんでこう、先祖帰りする人がでてくるのか。
人間は進化しない、ということか。

大阪の人の判断を見守りたい。
当選したら、大阪を切り離す方法を考えないとダメなんだろう。
我が身に被害が及ばないようにしないと。

2011年10月30日

日本中枢の崩壊

古賀茂明
講談社
お勧め指数 □□□■■ (3)

官僚機構を批判する、とくに自分の所属官庁を批判することで有名になった古賀茂明さんの著作である。
古賀さんの名前は何かの折に聞くことがあった程度で、あえて「読みたい」とは思っていなかった。

しかし平川克美さんがラジオで言及したり対談したりしたものを聞いていたら少し興味が湧いてきた。
経済についてそんなに興味はないのだが、売れている本だし、震災後の日本を知るうえでもいいかと思って読んでみた。

この本の売りは「固有名詞」のようで、なんとか課長とか何とか局長とは、そういう名称がページ毎に散らばっている。
官僚という組織構造や組織の生物的な性質については何冊か読んだことがある。
人事権を巡る争いや、大臣たちの取り扱いについても「そうそう」という感じで読み進めていった。
(そんな官僚組織がいいことってわけじゃないのだが、自分たちが最も利益を得るように進化した姿であるのは間違いない)

読んでいいて思うが、この本も著者の視点にも、このしょうもない世界を包む「大きな」物語が語られていない。
内部から見た役所の風景が記述されているだけで、それを外側からみたらどうなるのか、今後どうなるのか、どうするべきのかということが語られていないのだ。
このあたりが佐藤優の一連の著作とは決定的に違っている。

古賀茂明さんは人間世界、つまり「人」しか存在しない世界で生きてきたようだ。
そこには人と人の関係しかなく、それ以外には全く「価値」が与えられていない。
まるで、いじめにあって自殺を考えている「逃げ場がない小学生」のような視点なのである。

悲惨な状況がそこにあることがあり、また日本はダメになるのだということはよくわかった。
しかし、古賀さんに興味を持てるところを見出すことはできなかった。

2011年10月10日

仏の発見

五木寛之+梅原猛
平凡社
お勧め指数 □□□□■ (4)

梅原猛さんの名前を見かけると、つい手にとってしまう。
仏教の話をされていることが多い。

人が生きてく時には、こういうものは必要なんだなと思うようになった。

仏に「すがる」こと、「救済を求めること」を今現在欲しているわけではない。
それは幸いなことだと思っている。
今はいい。
しかし、いつ何時そうなるのかわからないではないか。
震災によって、現実的なダメージを心身に受ける日はそう遠くない。
東海・東南海も待っている。
TPPで壊滅的なことになるだろう日本も見えている。
そうなるのだろうから、できることをやっておかねば。

災害や不幸に対する準備は、なかなかできるものではない。
準備が功を奏したとすれば、とてもレアなケースになる。
だからこそ、マスコミで流布する。
「成功ものがたり」はほとんどありないからこそ報道されるのだ。

だから個人で準備できることは限られているし、準備したことが役に立つかどうかはその時になってみないとわからない。

そのなかで、心の準備、というものはありだろうと思うようになった。
もちろん、想像と現実とは「あまりに違いすぎて、関係ない」ということはある。
準備できたからって、怖いだろうし、痛いだろうし、悲しいだろう。
とはい、それが全く無駄かといえば、そうではないのではないか。

緊急地震速報が始まった時、ぼくはそのサービスを心底軽蔑していた。
そんなもの、いったい何のためになるのかと。
実際そういう状況になると、緊急地震速報はとても重要なものであり、それを受信したいがために携帯電話まで買ってしまった。
何もできないけど、「さぁ、来るぞぉ」と待ち構えるのは、心理的に楽なのだ。
背後から襲われるのと正面から襲われるの、結果的に同じことになったとしても、取り乱しく具合は全く違う。

そういうことから、心の準備というもの、もっといえば「死ぬんだよね」ということに対する準備は、やっておいたほうがいい。
それで、梅原猛さんのお話を聞きたくなったのだ。

これを読むことで仏教的知識が得られるわけではないだろう。
ただ、よく知っている先輩の話を聞く。
これだけで、それなりに心の準備には役にたっている。
そういう気がする。

2011年9月24日

二十世紀の知的風景




森本哲郎

TBSブリタニカ

お勧め指数 □□□□■ (4)


森本哲郎さんの文明論を読んで、世の中について考えてみたい。
考える道筋は森本哲郎さんのガイドによって決め、そこを歩いてみたい。
長らく積読状態になっていたこの一冊を取り出し、週末にかけて読んでみた。

いま、こういう本は出版されていないだろう。
発行しても売れないだろうし、こういうふうに語れる人もいないだろうから。

現在は海外へ行くことが楽なり、高校生だってフラッと行くことができる。
本だって、翻訳から原書まで、amazonやネット古本屋を漁れば大抵のものがそれなりの価格で入手できる。
一方森本哲郎さんの時代には、その二つをするには限られた人しかできなかった。
多くの人が森本さん以上の体験を得られる可能性がある現在において、この手のことをできる人がいないのは少し不思議な気がする。

森本さんの本を読んで「世界を知る旅」を歩いてみると、なるほど文科系の人の凄さを感じることができる。
単純にスゴイなぁと驚き、自分もその視点から世界を眺めてみたいと意気込んでしまう。

森本さんが通る道は、ぼくにはわからないところだらけである。
日本と世界の文学、哲学、思想、歴史。
そして、世界各地を自分の足で歩いて、現地の人と交流しながら話を聞く。
その経験から選択される話の道筋。
こりゃ、スゴイ。
そんなことができる人は、ぼくの知りあいにはいないだろうし、おそらく通った大学や働いている場所にもこれだけの人はいないのだろう
だから現実には会えないような人だ。
でも、本だから話を聞くことはできるわけだ。

息切れしながら森本さんの跡を辿るように読んでいくと、読み終わったあとに一つの風景が広がっていることに気づく。
その風景は、いわゆる「知識」の獲得によって見れるようになったものではない。
当然、他人に自慢するようなものでもない。
世界の見方の一つにちょっぴり触れることが出来たかな。
そういう風景を心に思い起こすことができるようになっているのだ。
この本も、そういう一冊だった。

知識を追いかけたり、何かを批判したり、あるいは人の愚行を思い知らされるものばかりを読んでいると気分がおかしくなるし、体調もわるくなる。
嫌な生活が続いたら山登りして精神のバランスをとりもどすように、森本哲郎さんの本を読んで、知的な山登りをしないといけないな。

2011年8月15日

報道災害

上杉隆
幻冬舎新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

原発報道に絞った上杉さんの報道批判かと思って読んだ。
が、半分は記者倶楽部批判であった。

社会にインパクトを与える問題をきちんと取り扱うことができない、あるいは多くの人が認識すらできないでいる。
その根本原因の一つに記者クラブの存在がある。

だから社会の問題のどれを扱っても、すぐにできる「第一歩」は記者クラブの廃止。
それが実現可能な処方箋になる。

今となっては原発処置は簡単ではないし、現に放射性物質が未だに漏れている。
やろうとしてもどうにもならない。

しかし、記者クラブの廃止はできる。
人が決めているルールなのだから。
記者同士の談合をなくせば、「まともな報道」があっというまに実現が可能。

原発報道については今でも問題が多い。
被害状況を小出しにしたり、誰かの失敗を隠そうとすることがつづけられている。
だから今後も被害はより拡大していく。

「社会に不安を与えるから」という理由で統制されている情報が、目に見える形(食品におけるセシウム汚染の海外からの補償要求とか異様なまでのガン発生率とか)になったところで、やがて少しずつ報道されはじめるだろう。

原発事故は地震が発端であったとしても、その後の経過は公害問題と同じ。
水俣病や薬害エイズと同じ。
報道がまともだったら「自分がおかれた状況をまともに理解できる」はずの人々が、むざむざと被害を受けて続け、その数は増えていく。

こういうシナリオに至る不幸の原因と処方のうち、すぐにでもなんとかできること。
それは、記者クラブを廃止であり、まともは報道の活性化ということである。

上杉さんの主張はこういうことに収斂していく。
なるほどなと思う。

これだけ割りやすい論理を言うにもかかわらず、上杉隆さんをテレビで見かけることはほとんどない。
MXTVの夕方だけだろう。

紳助問題を堂々と弁護し、闇権力の利用を肯定するような、「アウト」な司会者小倉のワイドショーみたいのは一杯あるのだが。

ぼくとしては政治報道よりも原発報道とそれにまつわることについて小杉さんに話をしてほしい。
しかし、なかなかチャンスがないでいる。

テレビがだめならラジオがあると思うのだが、それも難しいかもしれない。
電通・博報堂が入っているメディアでは、お笑い芸人さんが自分の意見を表明しただけでも、謹慎や解雇という検閲があるから。

本を読み終わり、ため息をつくしかないでいる。

2011年6月23日

記者クラブ崩壊

上杉隆
小学館101新書
お勧め指数 □□□□■ (4)

普通の人が知ることができる政治記事は、読んでも仕方がない。
読む場合は額面通りに受け取らないことが大切。

2011年6月21日

世襲議員のカラクリ

上杉隆
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

政治家の党首会談をみてて、野党党首の説得力のなさをテレビでみて「呆れた」人は結構いると思う。
なんで政治家って人を説得するための言葉を持っていないのだろう。
彼らは言葉のプロのはずだよね、だって言葉しか持っていないのだから。

不思議だなぁと思っていたが、この本を読んで謎が解けた。
自民の議員の40%は世襲議員なんだそうで、それじゃぁしかたがない。
世界どこへ行っても何時の時代でも、成功した人の跡継ぎにろくなものはいない。
これは人類の法則と言えるもので、こういうことってせめても仕方がないとは思う。

そういう人しかいない。
世襲議員は「俺様」であり、「俺様が君臨した愚民はしたがうのが筋だ」と考えているもの。
政治家の質云々の問題ではない。

なるほどなぁ、と感心した。
これで政治に何か期待するほうが無理だなぁ。
世襲ではない人をどう見分けるか。
これが問題になってくる。

2011年5月12日

インテリジェント人生相談・社会編

佐藤優
扶桑社
お勧め指数 □□□□■ (4)

人生相談というタイトルから想像したものと中身は大分ズレていた。

普通の人が自らの困っている問題を佐藤優さんにぶつけて、
「どうすればいいでしょうか」
のやりとりを読むわけで、その意味では人生相談には違いない。

内容が相談者個人の特殊性を扱うものではなく、誰しもが「そういうことあるな」と思うだろうことを問題としている。
だから相談するほどの悩みをもっていない人が読んでも興味がわくだろう。
なるほど、だからタイトルに社会編とあるのかもしれない。

佐藤優さんは不思議な人だわ。
あの「こわもて」の見た目と相談に応じる佐藤さんの態度やその回答の親切具合、というか丁寧さ、というかそれらのギャップが大きい。
読んでいて戸惑ってしまうくらい。

マスコミの報道写真しか知らない人は、佐藤優さんの言説をまともに聴こうという態度に心理的抵抗をもつかもしれない。
しかし、それはもったいない。
人は見かけではないというが、そういう実例だろう。
これだけ見た目のことをいうと、なんだかけなしている感があるが、そんなつもりはないのだけど。

この相談において、佐藤優さんが相談者に資金を身銭で援助した事例もある。
言葉で応答するという防衛ラインを自身に築いていないので、出来ることを本当にしてしまうわけだ。
佐藤優さんはキリスト教の牧師の資格も持っているくらいちゃんとしたクリスチャンだということだが、
これが教会のもつ機能なのか。
それを垣間見た気がする。

長く続いている宗教が強いのは、実際にその宗教の思いで行動する人がいるからだろう。

2011年5月11日

デフレの正体

藻谷浩介
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□□ (5)

久々に痛快な論説を読んだ。
これまでいろいろな人がいろいろなことをいってきた問題で、どれもこれもパッとしない解説しかなかったような日本経済の推移について、一本の軸をもとに藻谷さんは一発で解説しつくしてしまった。
ある種のアインシュタイン的な切れ味がある解説なのだ。
この本を読んでしまってからは、テレビや新聞などでの日本経済のついての解説が「ばかっぽく」て見る気がしなくなった。

要するに、人口動態に着目して戦後経済の推移を考えてみればいい。
戦後ベビーブームの人(団塊世代)、その子供たち。
日本の人口動態のなかで燦然とかがやくツインピークが、国内の経済の変化の柱、簡単にいえば流行や社会現象、そればかりかある種の当たり前のこと(持ち家主義と土地高騰)を作ってきたのかもしれない。

ごく普通の家庭には子供が3人以上いる、という世の中にならないと出生率2は達成しない。
しかし一度極端に少なくなった人口の世代の人の出生率が上がったところで、人口の絶対数は上向かない。
少子高齢化というが、少子化を解決しても高齢化にはなんの影響もない。
つまりは、働く人がスゴイ勢いで老化しているという事実をもとに日本経済の現在とこれからを語らないと、今も未来も見えてこない。

なるほど。
どんな景気対策をしようとも、国内技術力を向上させようとも、ものを買う人が減っているのだから国内経済はどうにもならん。

そんな簡単なことだったのか。
これこそ、思考の補助線だわ。

2011年1月30日

東洲斎写楽はもういない

明石散人
講談社
お勧め指数 □□□□□ (5)

歴史学の人に嫌な気分を感じていたときにこの本を読んだ。
なるほど、彼らの言い分はこういうことなのかもしれない。
そう気がついた。
「資料」に対する態度や「本当はどうだったのだろうかな」を知りたいという欲望。
そういうものが歴史学をドライブしている。
そう歴史学者は言いたかった(言っていた)のだろう。
たぶん。

それなら歴史学者は言っていることとやっていることが違うじゃないか。
もっといえば、彼らの動機が「歴史」にないじゃないか。
そういうことが逆によくわかったような気がする。
ともかく、この本を読んで一層歴史学者の書くものを読みたいと思わなくなってしまった。
そんな、歴史学者の話なんかはどうでもいい。

この本での論考、考証、思索活動を披露している人は明石散人という人である。
初めて聞く名前なので、どんな人なのかさっぱりと知らない。
いわゆる歴史学者ではないようだ。
もっといえば職業的野心からこの本にあるような活動をしているわけではないようだ。
だからだろう、読んで感じる楽しさが歴史学者のそれとは全くちがっている。
面白い。
単純に、「本当はどうだったのだろうか」、に迫ろうしている人の肩越しに見ているような感じがしてくる。

明石散人さんの「写楽は誰か」を探る活動を横から見ている人がいて、その人がこの本を書いている。
ホームズの活動を活字化したワトソンの役割を担っているわけである。

ホームズはドイルが書いたフィクションであるのと同様、この本も明石散人のフィクションなのかもしれない。
よくわからない。
話の外枠がフィクションだったとしても、中で展開されて証明されている「写楽は誰か」については、利用した資料と論理が提示さているので、フィクションかどうかは議論で決着する必要はない。
資料を確認すればいいだけだろう。
これが歴史学ではないとすれば、著者が歴史学者ではないというだけ。
あ、そういうことなのかもしれない。
だからこそより「意味のある」本になっていると言えてしまうかもしれない。

ミステリーじゃないのだから、結論を言ってもいいような気がする。
が、まぁそこへたどり着く過程は各人がやればいいことで、おせっかいをする必要はない。

もっとも大切のは結論ではなく、途中の風景であって、どういう風に「なぜ」を発したのかに注意することでいいように思う。

全編を読んでいて思ったことがある。
動機が単純で、「どうしてだろう」というなものを丁寧に紡いでいくところ。
資料にあるから、というような他責性の強調(つまりは投げやり)なところがないところ。
それは本当なのか。
その積み重ねでゴールに向かうという方式そは、分野が違っていてもビックリするような結果を出す人には共通しているなぁと、あらためて理解した。

2010年8月24日

成熟日本への進路 「成長論」から「分配論」へ

波頭亮
ちくま新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

不思議な本だった。
明解な論理と確かな事実を使って、日本は「成長することはない」と主張している。

なるほど。

そして、それはそういうものであって、悪いことではないと主張している。

なるほど。

論旨がはっきりしている。
横道にそれようがない。
義務教育をマスターしていれば、この人の見解には同意するだろう。

例えば、日本が今後経済成長しないという理由は単純にこう言える。
・就業人口が減ってくる。
・貯蓄傾向が明らかに下がっている。
・そうそう技術革新はおこらない。
この3点はGDP計算のベースになるが、これら全部が統計的に証明されている。
ならば、たし算とかけ算ができれば、GDPなどどうやっても増えないことがわかる。

日本は今後経済成長しないという主張の本を何冊か読んだことがある。
が、こんな簡単な方法で示せたのはこの人が初めてである。
一冊丸ごと読まなくても、冒頭にかるこの部分だけでも読めばいい。
そうすれば、何をしていも景気なんて良くならないことがはっきりとわかる。

そもそも景気が良かった過去の理由を考えてみれば、政府や人々の行動でどうなるものではなく、世界の状況が深く関わっていることがわかる。
なんでもそうだが、周りを無視してなんとかなるような状況などあまりない。

成長しないならば、成熟すればよい。
そのためにはどうすればいいか。
だれかが突出して金持ちになる必要などないではないか。
他人よりも多く持ち、安楽な生活をしたい。
そういう考え方もあるだろう。
しかしどうせ成長しないならば、とりあえず周りにいる人々がそれなりに幸せに生きていくようにすればいいのでははないか。
そういう考え方も一案だということだ。

この本の序盤で提案されていることに最初抵抗があった。
分配すること。
いわゆる「社会主義」を提案しているから。
なんでこんな古ぼけたい主張をするのだろうと。

ところが、この本の後半にあるように、成長は無理だと認識したところで、ではどういう生き方があるのだろうかという疑問に対する著者なりの回答なのだ。
社会主義のような「みんながそこそこしあわせならいいじゃん」という提案があるのだと気がついた。
この発想が突然でてきたら抵抗は当然ある。
しかし、成熟するしかない状況ならば、それも一つの解になるかもしれない。
なるほど。
そういうことならば、ありだ。

マッキンゼーの人がこんな主張するなんて、不思議な気分である。
が、問題に対する答えということならば、なるほどありだ。

2010年6月10日

日本辺境論

内田樹
新潮新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 海外にいると、不思議と日本についての本を読みたくなる。

 ここは外国なんだから、なにも日本について考える必要なんかないじゃん。今いる国について考えればいい。そう思っていても、不思議と日本について知りたくなる。

 自分は日本人なんだから日本について冷静に考える。それって、環境変化が原因の、ある種の現状否定の気分なのか。あるいは自分がスマートにでもなったかのような勘違いなんだろう。それくらいの冷静はまだもっている。

 こういう錯覚を肯定的に考えるならば、普段めったにみることができない普通の外国人の行動を間近に観察することで、自分を含めた日本の「へん」なところに気づくからかも知れない。まぁ、こじつけに近いかもしれないが。


 ホテルの部屋で、読みかけのこの本を枕元に置いて外出する。そのときに、ベッドメイキングの人はこの本をみてどんな気分がするのだろうか。

 ベッドメイキングの人は台湾人の若い女性であった。彼女がオーストラリアの砂漠のなかにあるホテルでこういう仕事をするに至った理由はなんなのだろうか。ワーキングホリディーをつかって外国生活を体験している学生さんなんだろうか。

 中華系の人ならばこの本のタイトルの意味を理解することができるだろう。漢字でそのままだから。

 客は日本人だと知っているだろうから、日本人がなぜ日本人論なんて読んでいるのだろうかという疑問をもったりするんだろうか。


 アメリカ人とはなにか、とかフランス人とはなにか、という自国民論が盛んなのは、日本人くらいなものだそうである。

 日本の印象はどうですか?とついつい外国人に聞いてしまうような、「他人か自分がどう見られているのかが気になる」のは、日本人がダントツに高いとか聞いた事がある。

 それはなぜか。

 こういう解説はいろいろと聞いたが、それを地政学的・歴史的な見地から説明しているものが多かった。


 それはさておき、面白い本が多い内田樹さんの著作のなかでも、この本は繰り返し読むには言い本だ。この本の随所に現れる「考える方法」が勉強になるから。

 例えば、内田樹さんの「なぜ」という問いかけがとても自然であり、またその答えにいたる理路がとても明確で自然な点。

 こんな風に考えることができれば、どんなに楽しい日々を送れるのだろうかと憧れてしまう。

 この本に書かれていることだが、何かを説明している本は、気がつくと著者の頭の良さを宣伝だったりするもの多い。解説本を読んでいて腹が立つのは、それが原因であり、意識しないまでも本の面白くなさの原因はそういう著者の動機にあったりする。

 ところがこの本には、そういうところが全くない。


 「同じ情報をもって、同じ理路にそって考えていけば、みな同じ結論にいたる」

 なるほど。なんと素敵な発想だろう。

 こういう発想をもって説明している人って、日本にどのくらい存在しているのだろうか。

 人と話し合うための基本ともいえるこのスタンスに、どうして多くの人は至らないのだろうか。

 偉そうになってしまうことは自分にもあるから、反省しないといけない。

 そういう具合に本を読んで反省する機会を得られるのは、この本を読んだ本人「だけ」である。

 ならば、この本を読むたびに「自分のしょうもないところ」を思い出して、まだ残りの人生を楽しいものにしていこうと心に強く念じるのである。まぁ、無理なんだろうけど、やってみる価値はあるだろう。そう思いたい。

2010年6月 6日

日本人へ リーダ篇

塩野七生
文春新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 出張中の休日、砂漠のなかにあるホテルではやることがないだろう。そんなときに読もうと思って、この本を持ってきていた。

 塩野作品のなかでもエッセーはわりと好き。ただ、このエッセーは週刊誌に掲載されていたもので、どちらかといえば時事問題というか、まぁ日本の政治について語っていることが多い。

 塩野作品を読んでいれば、塩野七生さんが政治好きなことはわかるし、塩野さんがもし男性だったらきっと政治家を目指していただろうなと思うので、エッセイで政治について多く言及したくなる気分はわかる。

 ただ、政治には興味がないぼくにはもうひとつピンと来なかった。『ローマの窓から』と同じテーストのエッセイ集になっている。

 もちろんこのエッセイも塩野作品なので、このエッセイの口振りは凄みがある。なるほど塩野作品の一つの味がはっきりとするなぁとあらためて感心する。

 ぼくといえば、政治に興味がない。なぜなら、自分じゃなんもできんから。つまり、政治の実態については「可観測でもなく、可制御でもない」のだから無関係だろうと思っている。だから本質的に興味がわかない。

 というより、興味をなくそうとしているといったほうが正しい。最近は新聞どころかウェッブニュースすら見ないようにしている。

 そういう情報を読んでも結果的になにもできないならば、要するに時間の無駄だろう。

 そんなこだから、ニュースはもっぱら通勤電車内の週刊誌の縦吊り広告か、昼食時の同僚からの話で情報を仕入れるだけになっている。

 そんな程度の人がこの本を読んでなにを考えるか。

 この本は「リーダー篇」ということだから、リーダー(あるいはリーダーになりそうな人)に向けての発言なんだろう。

 リーダ役をやる人って、数が多くない。そりゃそうだ。みんながリーダーじゃ、ことが運ぶわけがない。船頭は一人だからいい。

 となると、リーダについてわざわざメディアで訴えるよりも、直接その筋の人と話し合った方がいいのではないかと思ったりする。実際、塩野七生さんはそうしているのだろうけど。

 プロ野球中継では解説者がいろいろ語る。その内容を聞き流すならば問題はないが、こっと真剣に考えるとすぐに疑問がわくだろう。あれっていったいなんの意味があるんだろうか。

 「それって、選手に言わんと意味がないでしょ」というようなことを、ビールを野みなから枝豆食ってる人に切に訴えても仕方ないのに。

 政治指導者へ向けたエッセイは、ある種の床屋談義になってしまうような気がする。

 塩野七生さんの著作にあったが、色々意見を後方しても、それらを実行するための手段がないと、「武器を持たない予言者」と同じになってしまうのではない。それに、思った通りに社会が動かないとイライラも募るだろうから、あまりいいことはない。 

 そうぼくは考えるのだけど、こう考えるのは「国を滅ぼす愚か者」の考えることだ、と言われるような気はする。そうは納得できるものではないが。

 メディアが適当に(あるいは故意に)粉飾した物語を新聞なりテレビなりから仕入れて、それを「事実」として自分の行動を決めるのは愚かなことである。

 しかし、一方で、社会の動きを全く無視しながら生きてくのも危険である。一体どうしたらいいのか。

 この本を読んだからといって答えがでるわけではない。ほっておくか。
 

2010年4月13日

誰も知らない「危ない日本」

武田邦彦
大和書房
お勧め指数 □□□■■ (3)

 テレビでは発言できないが、本でならば書く事ができる。そう趣旨で実に「全う」なことを話してくる。こういう人の著作は、無理してでも読みたい。

 マスコミや役所ってには、いい人もいるんだろうけど、構造的にしょもないことを仕事としてやり続けるようになっているみたいで、つまんないよなぁ。もちろん、役所がなければ社会は混乱するし、無理になくしたとしても、同じ機能の仕事はすぐに必要になることはわかっている。マスコミもその意味で同じである。生活に密着して、とても大切な仕事なのに、なんでまた面倒なところなのか。

 とはいえ、社会は回っている。おそらくだが、20%の人がいるから社会が回っているのだろう。悪いものはなくすとむしろ悪い事が起きるから、無害化する方向にもっていけばいい。社会的にそれを行うのが難しいならば、個人の生活でそれを目指せば良い。それには、少し損をしてもいいと思う気分と、情報を欲しがらない覚悟が必要なのかなと思っている。

2010年4月 4日

日本語は亡びない

金谷武洋
ちくま新書
お勧め指数 □□□■■ (3)

 しばらく前に話題にった『日本語が亡びるとき』に対する反論が書かれた本である。『日本語に主語はいらない』の著者が書いている。

 『日本語が亡びるとき』の書き出しを読んだとき、どうもインチキ臭いなぁと感じてそのまま読むのを止めてしまったこともあり、この本のタイトルを知ったとき、「あ、同じように感じた人はいたんだな」とうれしくなった。

 それはあくまでもぼくの直感による評価だ。頭のいい連中ってのは、自分たちが文明を築いているのであって、市井の人などどうでもいいと思っている人が多いもので、それが理由で水野早苗さんの本に嫌悪感を感じたのだろう。そう思うのは、自分がアホだからではないようで、少しほっとした。

 この本を読むには、著者の主張である『日本語に主語はいらない』の議論を知っているほうがいいだろう。

2010年3月 7日

ゼロからの宗教の授業

釈徹宗
東京書籍
お勧め指数 □□□□■ (4)

 『現代霊性論』が面白かったこともあり、書店でその本の隣に置いてあったので買ってしまった。この本も一般の人向けの講義であって、実に読みやすい。宗教者といっても、その価値を他人に知らしめてやろうという動機があまり見えないので、ちょっと距離を置いて面白い話をしてくれるのをゆっくりと聴く。そんなスタンスで神道・キリスト教・イスラム教・仏教の話を聞ける。

 著者はお坊さんである。日本の仏教だから結婚して子供もいる。若い頃からいろんな宗教を勉強している。不思議なのは、そんなことしてどうして宗教人のままいられるのであろうということ。家庭をもつ現実からは世間のなかにどっぷりつかっていることがわかるし、宗教の博識さからは自分の寺の宗教的基盤を相対的に評価しているはずである。となれば、どうして住職を生業としていられるのだろうか。説法することもあるのかもしれないが、寺の宗派の教義を語ることに抵抗はないのだろうか。こんな疑問が浮かんでくる。一歩間違えば、なんかヤな感じの人でしかないから。
 

2010年2月16日

食糧がなくなる!本当に危ない環境問題

武田邦彦
朝日新聞出版
お勧め指数 □□□□□ (5)

 温暖化批判についての本を何冊かつづけて読んだので、ここは少し目先を変えようと食料事情の本を読んだ。といっても、武田邦彦さんの本なんだけど。

 この人の本を読んでいると役所やマスコミに対してついつい腹が立つ。だから読んでいて楽しくない。楽しくないものを時間をかけて読むのは嫌である。だけど、生きていくためには読んでおいた方がいいかなとも思う。そんな心境でこの本を手にした。

 なるほど。地球は温暖化したほうがいいという理路はわかった。寒冷化して得な事はない。それに現在は徐々に寒冷化しつつあるという研究もある。この意味からも、温暖化防止なんていらないとまわ思う、ホント。

 マスコミでもてはやされる理由は、人々が注目するからだろう。節約が悪に繋がることはないし。それに、人々の怠慢が絶滅を呼ぶという悲劇的なストーリーは「魅力的」でもある。

 悲劇を予感し、そうならないように立ち振る舞う行為こそ英雄への道である。地球温暖化を唱える人たちはある種の英雄像に自分たちを同化させているのだろう。温暖化防止に対して実際問題なにもできない市民でさえも、英雄になりたいのだろう。休日は高速道路1000円でマイカーを走らせ、スーパーではエコバックを使うことで貢献していると思っているレベルの人がいわゆる標準なんだから。

 地球温暖化防止の活動について、それ意味ないですよと現実的なことを言うと、彼らは猛烈に反発する。それが現実だと彼らが「良い人」「素晴らしい人」である根拠がなくなってしまうから。となれば英雄たちはこう主張する。地球温暖化懐疑の人はバカである。しかしそうならないことが現実になると、彼らはむしろ世間崩壊のシナリオが到来することをひたすら待ち望むようになる。人の心理ってのはそんなところがある。だから、地球温暖化防止を唱える人は、危険な人たちなのである。

 閑話休題。

 日本の食料自給率は低い。米くらいが安全圏にあるように思っているだろうが、米だけあっても意味がない。もう輸入なしには動かない社会に最適化されている。輸入が止まったら、都市部は全滅するだろうが、農村部だって生きれない。そんな状況になれば、いろんなところから侵略があるだろうし、それで一つの歴史に終止符が打たれるんだろう。

 では個人的に何が出来るのか。これも温暖化防止の活動と同じようなものかもしれない。実質何ができるかといえば、ない。「生活を変えない」ようにする方法は存在しない。置かれた状況に自らを対応させるよりない。そんな意識をもつくらい。

 食料についてどう考えるか。これって、政府レベルでしか対応できない。都市に住む人には対応する術がない。だからそうならないように、食糧事情について現実を知ろうなどと触れ回るのは、おそらくABCテストに引っかかる。というのは、

 A:食料自給率を上げると救済が約束される

 B:国内の食料事情について海外との関係による変動予想などの理論が存在する。

 C:人々にこの考えを理解してもらおうと広める。

 なるほどだからこの話をうっかり世間の人々に理解してもらうべく説いて回ると立派な「宗教」になってしまうのである。実に面倒なことである。

 となれば、個人的には「心構え」くらいしかとれる方法がない。それって実際にはなにもしないに等しい。なんとも無力感を感じる。

 何気なくこの本の出版社をみたら朝日新聞社とある。ホント、マスコミの主張っていい加減だよなぁ。 

2010年2月11日

「CO2・25%削減」で日本人の年収は半減する

武田邦彦
産経新聞出版
お勧め指数 □□□□□ (5)

 文句なしの一冊。読んでいて、良い気分には全く慣れない、つまり「反省」や「懐疑」や「疑問」が頭の中を渦巻いてくる。それらはすべて国とマスコミに対して向けれたもの。科学技術立国なのに、国もマスコミもどうして現実に立脚しないで「自分たちが不幸になる物語」や「外国人礼賛」の心理に乗っ取った政策をとり報道をするんだろうか、と腹立たしくなる。むらむらとしてくる。

 もしも武田邦彦さんが一連の著作を発表していなかったら、ぼくの現在の生活はずいぶんと「どうでもいいもの」に気を使っていたことだろう。ぼくだってマジメな市民だから、きっと分別したりマイバックをもったりしていたことだろう。考えもしないで、自分でできることをやろうとしただろうな。なかなかこういうところを根底から考えようとはしないものだから。

 普通の人が考えるチャンスを奪われる状況には型があるように思える。戦前ならば「東大教授」と「役人」が国民に有無を言わせないような社会だったはずで、それが一つの型だ。太平洋戦争突入までの社会の推移と現代とはさすがに違うルートをとっているが、その最大の理由は、圧倒的におかしな報道をする人たちに対抗する「まともな人」が著作を表してくれていること。NHKをはじめ、マスコミ連中が「温暖化の国教化」活動をしているなか、武田邦彦さんのように市井の人にもわかりやすい形で著作を表し、それを出版してくれる世の中の仕組みは、かろうじてだけど日本にはまだ存在している。正直、よかったよなぁと思う。

 だからといって、ぼくは悲観していないわけではない。日本人の集団愚をあなどってはいない。温暖化については、おそらくこのままマスコミがねじ伏せてくるだろう。お雇い帝大教授の数もことかかないし、かららの「無謬性」は役人とどうよう治らないだろう。ならば、多かれ少なかれ日本は衰退、しかもある時点で衰退するだろう。そう確信する。つまんない世の中になるだろうな、棲んでいる人は不幸なところになる。ならば、自分の子供をここに住ませたいなどとは思わない。

 仕事で役人と接した人ならば、彼らの無謬性や他人を見下す性質を体感しているはず。霞が関に魔法があるかのように、面白いように誰もがそうなっている。どうしてなんだろうな、と当時考えたのだが、小さい頃から「俺は偉い」を成就するために試験勉強に励み、東大を卒業してきた過程で「おれらは常人とは違う」という信憑を受け入れ、役所に入ってからは「国民などどうでもよい」と仕事の本来の意味を忘れた人たちが群がっているからだろうと思う。これはもう、治んない。

 地球温暖化問題については、「クリミネート・ゲート事件」によって世界のマスコミのスタンスは大きく変わるだろう。ただ、日本はどうだろうか。間違ったことをしたと絶対に認めない役人やマスコミが、その本質的な性質である無謬性を破って、クリミネート・事件を取り上げたりするのだろうか。期待薄である。だから日本の政策はそんなに変わらない。それどころか、逆ギレして議場仕分けで「温暖化対策」が優先されるようになるかもしれない。

 結局、日本の場合は、まともな情報は少数の有識者が自身の著作を出版することで、水面下で広がっていくことでしかないのだろう。とすれば、そういう本は自分で探して集めるよりない。テレビ番組を見る事で一気に知る方が効率が高いのだが、この国では期待出来ない。

 新聞社が出版している本なのか。だったら、新聞で報道すればいいのに・・・。

2009年12月30日

学問への旅

森本哲郎
佼成出版社
お勧め指数 □□□□□ (5)

 自伝風の思索エッセイ。生立ちから新聞記者、そして物書きになるまでのことが書かれている。にもかかわらず他の本と同じように思索風のエッセイになっている。まるで自分の生立ちをパリのカフェでコーヒーを飲みながら思い返しているような雰囲気である。まぎれもない森本哲郎本である。

 「ぼやっとする」という言葉は普通何も考えていないという意味だが、森本哲郎さんの場合は違う。ぼやっと=思索なのである。つまり、ある出来事をきっかけに世界を旅した記憶をたぐり、文学や哲学の言葉を引用しながらなんらかの疑問を言葉にして、それに対する答えを見出していくことを意味している。

 森本哲郎さんの場合、それをカフェで行う。タバコの煙がふわっと舞い上がるのを眺める時間の中で、頭の中では時間も空間も越えた世界が広がっていく。これが森本哲郎さんの味である。文章が上手だとかいうレベルとは違う感動がある。そんな本を読んでいると、自分でもそんなことを思索しているかのような錯覚を楽しめる。

 ぼくは読んだ本の感想をWEBにアップしているが、思えばこんなことをしているのも森本哲郎さんのような文章を生み出したいなと思ってのささやかな努力なのである。まぁ、到底見込みはないが、それでもいつの日かという思いからこうして書いている。

 森本哲郎さんの本を読んでいると単純な疑問が浮かんでくる。どうしたらこの本のような思索ができるようになるのだろうか。哲学を専攻しないとだめなんだろうか。世界を旅しないとだめなのだろうか。

 旅をすれば思索ができるわけではない。小説家、つまり、売り物になる文章を書き、想像力も十分ある人でも書けるわけではないからだ。恩田陸さんの南米紀行を読んだことがある。本人は森本哲郎さんのような思索をするつもりだったそうだが、まったくそうなっていなかった(『メガロ・マニア』)。思索本ができそうな条件をそろえてもそれで思索が生まれるわけではないようだ。

 とはいえ、森本哲郎本はどう展開するかはなんとなくわかっている。話の展開に注意してこの本を読んでみると気づくだろうが、要するに「問い」と「答え」が繰り返し立ちあられるところにある。

 思索の発端はなんでもよい。ぼんやりと浮かんだ昔の記憶でもよい。それについて「疑問」を感じることが最初の一撃である。疑問が成立しないところに思索は生じようがない。

 疑問くらい誰でも浮かぶだろう。そう考える人は疑問について考えた事がないはずだ。実際「あぁ、疑問よ出てこい」と念じても出てこない。とくに、読み物になる文章として成立させるには多くの人が共感する疑問でなければならないが、そいう疑問は「あたりまえ」のなかに隠れてしまっているもので、それを見つける方法などないからだ。それこそその作家の資質と言えるだろう。

 疑問についてあれこれ考える。考える材料は自分の体験がとっつきやすいし、具体的なので話が発散しない。だが、日々の生活から材料を集めるとすぐになくなってしまうものである。普通の人には普通のことしか起きないからで、そんなものは大抵面白くない。となれば、非日常的な生活、一番良いのは旅行であり、観光旅行よりも取材旅行や冒険旅行での思い出をたぐることだろう。森本哲郎さんは今ではとても行けないような紛争地帯にも多く旅しているから、普通の人が知りえないレベルでの考える材料をもっている。

 考えた結果を疑問に対する回答として提示する。回答するときには、自分の好き嫌いを根拠にした議論や判断はダメである。他人とは共有できないからだ。そうれではなく、文学や歴史や風土なをもとに、なるべく普遍的と思われるところまで考えてから回答を見出すことだ。そうでないと、オジサンの独りよがりになってしまうし、一歩間違うと説教に落ちてしまうから。森本哲郎さんの独自性は文学と歴史を味方につけていることにあるのだろう。

 そうやって答えを見出したとしても、それで終わりではない。一度到達した回答について「さらに」疑問を見出すのである。「もしそうならば、なぜこんなことになるのか」というように。回答が次の疑問を生じさせる。その連鎖が自然なものならば、読者は引き込まれ、抜け出せなくなる。人は論理に魅かれることはないが、疑問には魅かれるからだ。とくに「自分でもそう思う」というような疑問には必ず着いていく。

 森本哲郎さんの本は疑問と回答のペアが延々と続くが、その連鎖に無理がない。強引さがない。それどころか、途中に文学、歴史、思想史が絡んでくるので読んでいると「勉強」になった気分がする。だから感情的にも理性的にも「この本は面白い」と思ってしまうのである。結果的にいつまでも読み続けてしまう。

 考えることは誰にも出来る。が、文学、歴史、思想史、地理などを総合して頭に入っている人はほとんどいない。いわゆる学者、あるいは並の小説家では絶望的である。だから、森本哲郎さんのような本を書ける人はほとんどいないのだろう。

 疑問と回答の連鎖のパターンは時代によらず人の興味を引く。森本哲郎さんの本を読んでいて「古いなぁ」と思った事はない。たとえ話題が昔のことであっても、興味を引かれていく過程には時代は関係がない。思索(疑問と回答)、文学、歴史、思想史はそもそも過去のものだから、古くなりようがないのである。

2009年11月15日

日本辺境論

内田樹
新潮新書
お勧め指数 □□□□□ (5)

 待望の内田樹さんの著作が出版された。新潮新書なので街中の本屋さんでも平済みされている。早速購入し、日曜日の楽しみとして読んだ。

 いやー、愉快。自分の何気ない、無意識で普通にやってしまうことの根源的理由を解き明かしてくれたような気がする。なるほど、そうだったのか。自分の感情や行動指針の根源に触れた気分。腕のいいセラピストはこんな風に「あなたはこういう人です」と話してくれるのだろうか。

 内容は日本人論である。「真実や文明は日本の外からやって来る。日本の知識人はいかに早くそれを吸収し、そして自分たちの足元をバカにすることで自分たちが高みにあがるのかを考えている」。なんども聞いた事がある命題である。過去にこのテーマはいろいろなところで扱われているが、内田樹さんがそれらと違うところは、その根源的理由を日本の置かれた地政学的な位置にあるとしているところである。そして、それを「ダメなところ」としてあげるのではなく、そういうものだからこれでなんとかやっていきましょうという事実の確認をしているところである。

 内田樹さんは、日本の問題を他人のせいにてしまって終わりにすることはしない。事実がそうならばそれを認めていく人である。ちょっと前に『こんな日本で良かったね』というようなタイトルのエッセイを出版されていることからわかるように、基本的に日本についてはAS/ISのまま受け入れている姿勢を内田樹さんはとる。みんなはアホで自分はそれをわかっているというような、普通の知識人がとる行動をとらない。そこがまた、この人を信頼できるところである。

 一方で、日本の知識人の行為の本質をよく教えてくれる。その箇所には大いに納得した。首を縦に振って「そうだよ、そうだよ」と言ってしまったのだ。ぼくは大学教授がうようよしているところで仕事しているせいで、かれらの本質的な行動パターンを知っている。彼らは詰まるところ「おれは偉い」ということを主張しているだけなのだ。彼らはなぜ研究対象に本当に興味を持ってないのだろうかと不思議に思っていたが、その原因がこの本でわかった。彼らは頭がいいから研究者や教授になっただけだって、対象について知りたいわけでではないからだ。


 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議の番組を見ていると、どちらが「上位者」であるのかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。自分の方が「上位者」であることを誇示するためには、いかにもうんざりしたように相手の質問を鼻先であしらって、「問題はそんなところにあるんじゃないんだ」と議論の設定をひっくり返すことが効果的であるということをみんな知っているので、「誰がいちばん『うんざり』しているように見えるか」を競うようになる。お互いに相手の話の腰を折って、「だから」とか「あのね」とかいう「しかたなしに専門的知見を素人にもわかるように言ってあげる上位者の常套句」を挟もうとする。


 いわゆる東大あがりの人は大抵こういう人だ。断言できる。そうじゃない人って、いるんだろうか。
 要するに貴族なのだ。そして、ぼくのように、「貴族」でも「東大倶楽部」でもない人があれこれ考察して議論を持ちかけても、ろくに相手にされない。そうなるのもむべなるかな。


 自説への支持者を増やすためのいちばん正統的な方法は、「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論にたっするはずである」というしかたで説得することです。私と聞き手の間に原理的には知的な位階差がないという擬制をもってこないと説得という仕事は始まらない。
 けれども、私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではありません。もっとも広範に用いられているのは、「私はあなたよりも多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法です。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。
 「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する。「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。


 こういうロジックで知識人は動いている。知識人のモデルを言葉で知る事ができた。それはそれでとても良かった。常日ごろ感じていたもやもやが晴れたのだ。
 しかし、だからといって、日々の生活が変わるわけではない。コミュニケーションをとることが目的なのに、上位者獲得ゲームにつきあわされるのかと思うと、それはそれで面倒だなと思うのである。

 日本辺境論の結論は、まぁ日本はそういうところだよ、というものである。ならば、ぼくの生活も「まぁ、日本なんだからしかたないだろう」となる。が、それだとしんどい。あとはどやってかわすかである。こうなると面従腹背くらいしか手がないということかもしれない。

2009年10月23日

差別と日本人

野中広務+辛淑玉
角川oneテーマ21
お勧め指数 □□□□■ (4)

 この新書は書店で平積みされているのを見かけたときから気にはなっていたのだけど、手にする事はなかった。差別についての本なのに結構売れているのはなぜだろうと少し不思議な感じがしていた。
 例によって通勤電車の乗り換え駅で時間がないとき急いで手にしたのはこの本。選択する時間がないときは、以前から気になっていた本を取り上げるものだ。つまりは平積みも宣伝効果があるということである。差別問題を切実に感じる世界にいないぼくにはあまりピンと来ないない内容だろうと思っていたが、読んでみて初めて問題の糸口がわかったような気がする。

 ぼくは東京生まれで東京育ちである。社会科の勉強のなかで差別だの朝鮮だの同和だのの用語を耳にしたことはある。教科書には「やってはいけないことです」などと強調されていたはずだ。いやしかし、ぼくの周りにはそんなものはなかった。だから「一体、何言っているのだろうか。」子供の頃はそうもっていた。成長するにつれ関西にはそういう問題があるらしいと知るようになったが、それでも「一部の右翼的な人」がそうしているに過ぎないことだろうと思っていた。

 ところが現在でも結構あるようである。なぜそんなものが残っているのかはわからない。自分の近くにないからだろう。それにしても、アナクロニズムな世界が未だに残っているのが信じがたい。

 差別は「感情」である。論理ではない。なぜメロンが好きなのか、なぜ生のタマネギが嫌いなのか。そんな理由はいくら自分を探ってもわからない。仮にわかったからといって、好き嫌いがなくなるわけではない。好きなものは好きで、嫌いなものは嫌い。これは、子供のときに憶えることであって、どうして憶えたのかの経緯は不明であることが多いだろう。それであってもちゃんと心に刻まれている。万引きが悪い事です。そういうのと同じで、子供の頃からやっている人にはいくら教えても無駄なのだ。差別という感覚も子供の時に憶えたかどうかで決まるのだろうと思っている。

 ならば、子供の時にこの本で取り上げられた差別が身の回りになかった人は、大人になっても「差別する感覚」は存在しない。ある種の演技は可能かもしれないが、心情としては湧いてこないだろう。一方で、子供の時にあった人は、大人になってもあるだろう。それは論理で教えても無駄なものである。つまり、関西で育った人は「お気の毒様」ということである。日本人が反ユダヤ主義と無縁なように、関東人はこの種の差別とは無縁なのである。

 東京に生まれて良かったことはなにか。それは、この本にある差別は現代の関東にいれば関わらないですむということだ。関東人ならば差別がないのかといえば、そうではない。その対象が違う。差別と同根のいじめは東京でも盛んに行われている。

 人というハードウエアは日本全国どこでも同じだ。差別には物理的実体はない。いわばソフトウエアだ。ハードウエアとは関係がない。ならば差別の理由などない。差別しなければならない環境があるだけだ。環境がないところには差別も存在しない。この本のタイトルの「日本人」は言い過ぎだろう。差別の種類によって地域性があり限定的なことでしかないのに、まるで日本全国この問題があるような雰囲気になってしまう。もっとも、対象は変われどなんらかの差別は程度の違いはあれ必ず存在するものである。違いが「ある」のだから。

2009年9月15日

農協の大罪

山下一仁
宝島社新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
amazon.co.jp

 マスコミで報道されないけれど、実は日本の大部分の人は知らず知らずに「農協の存在」の被害にあっているのかもしれないのかと知った。こんな本を出版できるのは宝島くらいなものだろう。そんな内容はセンセーショナルなものほど好まれるマスコミでは扱われないから、こういう本で読むよりない。ただし、そいうことを教えてくれる本を読む気分は、勉強になるなという感心もあるが、嫌な気分のほうが強いのだ。沖縄の苦い野菜を食べるような複雑な思いがする。なんでこんなものをわざわざ読まなければならないのだろうか、という気分なのだが。

 非常に腹だたしいという感情的な気分、知ったところで個人としては為す術がないという諦観、ならばこういう被害を自分は受けないようにするにはどうしたよいかという考察。読書するにはいずれもマイナスの気分でであり、読んでいる最中に頭のなかでぐるぐると回る。決して楽しい読書ではない。できれば知らないで(読まないで)過ごしたい。とはいっても知らないと自分も巻き込まれてしまうし、かれらの思うつぼである。

 本書で解説されている「農協の実像」には驚いた。農業人口が減り続けている時代なのだから「農協」という組織は「設立趣旨」のようには機能していないはずだとは思っていたが、ここまでひどい事になっているとは。農協について深刻に考えると暗くなるよりない。どっちにしろお気の毒な人生だ。一度しかないせっかくの人生なのに、人の迷惑しかしてない活動なんだから。

 もっとも、こういうことは農協に限った話ではない。結果的に農協に似たことをやっている組織はいくらでもある。いわゆる特殊法人や独立行政法人も、時代時代の変化とともに変化しなかった組織は存続自体が目的という、ある種の社会的生物になっている。創立当時の組織設計意図と現実とが関係のないものになってしまうのである。それはそれで仕方ない。不思議なことだが、日本人の組織はたいていそういうものなのかもしれない。

 ぼくは根っからの都市生活者である。最近は日本の農家の依存は決して高くない。中国をはじめ世界各国の農家に世話になっている。自分の暮らしから考察するに、べつだん日本の農家には世話になる必要ないのかもしれない。都民はエネルギーから食料まで実質輸入に頼っているのだから。

 いざ、というときに日本の農家に頼ることができるのならばいいのだけど、それは期待できない。しばらく前にあった米不足のときに明らかになった通り、いざと言うときに農家は足元をみて値段を釣り上げるだけである。それはそれで合理的な生き方である。ただし、日常的にもいざというときにも日本の農家は都市生活者にとって頼りにならない。なのに、税金だけ巻き上げようとしている。そして何をやっているのかといえば、パチンコをしているだけである。農村のパチンコ屋はいつも大盛況である。筑波に住んでいたとき、そこから即刻引っ越ししようと決心したのは、そこいら中にあるパチンコ店の大型駐車場がいつでも満車だったのを見たときである。パチンコ代金消える農業助成金などは即刻中止してその分を医療保険に全額つっこんで欲しいところである。

 予想通りだったが、この本を読むにつれ、どうしてもこんな情緒的な反応しか思い浮かばなくなる。そしてこの上なく不機嫌になる。読まなければ良かったと後悔する。

 ダムでも農業でもそうだが、田舎の問題についてぼくがあれこれ考えても無意味なので、考えるだけ損である。彼らは彼らなりに「当然のこと」をしているだけである。悪気があってやっていることではない。当然のことを主張し、行動している。

 大切なのは、この状態を終結させるために自分に何ができるか。実際のところ全くない。敵のことを腹立たしく思ったからといって何かが起きるわけでもない。つまり、腹立たしく思う価値すらないことになる。だったら、そんなものは考えることすら無駄ではないか。一番安上がりなのは、存在を無視するという単純なことになる。これじゃぁ、なにも進まない。

 ぼくのような単純な思考しかしない人は、こういう問題を解決できないだろう。妥協策を考えようとしないからだ。本来であれば、ここで政治家が出動するはずだ。しかし、それも期待できない。だから、しかるべき役所にお鉢がまわってくるが、それこそ期待できない。なんだ、結局日本社会は崩壊いていくだけなのか。

 しかし、内部事情にまで通じているこの著者はどんな仕事を役所でしたのだろうか。わかっていて、何もしなかったのか。あるいは、取ったけど無力だったのか。この本をかけるくらいの人が奮闘してどうにもならなかったのならば、どっちかが倒れたあとのことを予想して準備するより手がないような気がする。

2009年9月10日

寝ながら学べる構造主義

内田樹
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店

 この本を読むのは2回目。なんだか無性に読むたくなって手にした。そして、一気に読んだ。タイトル通りにソファーに寝転がって読んでみた。げらげら笑いながら読めた。内田樹さんの本を読んでいると、ぼくは母国語が日本語でよかったとしみじみ感じる。

 この本をまた読んでみよう。そう思った具体的なきっかけは何だったのか思いつかない。ただ頭の片隅にこの本がちらちら浮かんできて、気になって仕方なかったのだ。集中できないこともあり、その衝動を静めるために読み返した。ぼくの意識が知り得ない無意識が「この本に書いてあったことが重要だから読み直せ」とばかりに指令したのだろう。既に読んだ本が気になって仕方ないという体験は初めてだ。そもそも一度読んだ本を読み返すこと自体がぼくには珍しい。

 この本を一気読みした後は満足したので、別の本を読んだ。しかし、その本を読み終わったあと再度この本を一気読みしてしまった。ここ3日間で二回も読んだことになる。一体どうしてなんだろうか。自分が何に興味を持つのか、その本心を理解できない。その衝動を自分では制御できないから従うよりなのだけど。

 この本を合計三回読んだ。だからといって「構造主義」とは何かを知ったわけではない。マルクスもソシュールもニーチェも、フーコーもバルトもレヴィ=ストロースも凄いなぁと感心した(ラカンについてはもう一つピンとこない)。ただし彼らの名前を記憶しただけではあまり意味はない。何かを理解したとは、自分でそれをゼロから構築でき、実生活のなかで使えるかどうかだ。それくらいできないとダメだろう。さしあたって、これまで考えてきたいくつかの問題を見つめ直せば「あれ、なんでこんなこと気づかなかったのだろうか」と言えるようなものがないとこほんを理解できたとは言えないだろう。

 一応、この本を読んだあとで自分の見方に変化はあった。ちょうど総選挙の時期だったのでニュースではいろいろ言われていたが、「誰が」リーダーになるかで日本は変わるというような話ばかりであった。ニュースキャスターも解説者も血相変えてその話をしていた。お前らダメだと。東京都民であるぼくも選挙では一票投じたが、それで社会が変わるとは思っていない。だから何をそんなに主張しているのだろうかと奇異な目でニュースを見ていた。党や総理が変わると政治はかわるのだろうか。役所指導から政治主導に切り替えれば変わるのだろうか。

 ではなぜ今までのような政治がずっと続いてきたのか。戦後の問題というが、戦前はどうだったのか、江戸時代はどうだったのか、その前はどうだったのか。井沢元彦さんの著作を楽しんで読ませていただいている。だから、日本の政治のあり方は日本の状態から生まれており、歴史を通じてそう変わりないという意見をもっている。誰が指導したとしても「空気」みたいなものが意思決定者の周りに立ち上がってくれば結局今まで通りになるだろう。名前ややり方がちょっと変わるかも知れないけど。

 何かがうまくいかないのは誰かが悪いからだ。その原因を消去すればうまくいくようになる。そういう考え方がある。あるいは、この問題の本質はこういう事だ、という発想でもいい。ある特定の原因が存在し、現在の状況はその結果であるという発想は、どんな人でもそれなりに自然に思えるだろう。「本質」という言葉はどの分野にも登場するだろうから、どんな勉強をした人でもこういう考えに落ちるはずである。もちろん、それでうまく場合はそれなりにある。だから、そう考える人が多いのである。

 一方で、状況なり構造なり、特定の原因とは言えないものを考察対象にする技術がある。その場合、議論する対象あるいは疑問点は次元が少し上がる。従来の単一の要因論という考え方を変えないと上の次元に到達できない。この本にあるような説明を聞いて初めて議論の次元を上げるとはどういうことかに気がつくことができるのだ。

 いわゆる犯人探しとは別の次元。そんな議論を実際にどうやるかは状況に依存するから、なかなか日々の生活の問題相手に適用できるものではない。ただし、これまで簡単には解けなかった問題にはこの考え方で接しないとどうにもならなかったものがあるかもしれない。へぇ、構造主義ってすごいなぁ。現代思想というのに少し感心した。といっても、内田樹さん以外の人の本を読んでも、さっぱりなんだけど。


2009年9月 8日

なぜ、日本は誰でも総理になれるのか

井沢元彦
祥伝社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 そうそう、タイトルを読んで思わず手がてでてしまった。たまたま書店で井沢元彦さんのコーナーを眺めていたが、そのときまでは歴史関係の本を買うつもりはなかったのだけど。ぱらぱらとページをめくり、書かれたのは小渕総理から森総理へと変わった時代のもので、主なテーマは「なんでまたこんな人が総理になれるのだろう」という素朴な疑問だだった。ぼくもその疑問を常々もっていたので購入した。

 総理大臣というよりも、ニュースに登場する政治家の発言におかしなものが多い。そういうものだけをセレクトして放送しているということもあるが、中には小学生だっておかしいのではないのかという感想をもつだろうものもけっこうある。おそらく普通のニュースを日常みている普通の大人で政治家を「賢い」とか「立派」だとか考えているひとはいないだろう。

 政治家がおかしな発言をする。すぐにマスコミが問題にする。すったもんだの揚げ句、大臣が更迭される。この流れは少なくともぼくが子供の頃から変わっていない。もちろんマスコミ側の扱いはまともなものとは言えないし、煽りに満ちていることは承知している。それにしたって人々を言葉で動かすのが政治家たちなのに言葉が下手くそなのが不思議でしょうがなかった。言葉以外にこれといって知識なり技術なりがあるわけもでないのだから、いったい彼らはなぜ代表なんだろうと思っていたし、いまでも思っている。現代の七不思議でもある。

 この本での解答は至極簡単なものである。立派な人がリーダーにならないようになっているのが日本だというのだ。この考え方は井沢元彦さんの別の本で読んだことがある。だから復習ような感じで読めてしまった。

 具体例として聖徳太子の憲法十七条の一条と十七条についてを引いている。日本で一番大切にされているのは、みなで話し合うという考えである、というものである。それは古代の日本においても「そういうものだ」と思われていたというのである。初めて読んだときは「へぇ」と声にだしてしまうくらい納得した。当事者での合意が全てである、という決め方は「まぁ、正しいだろう」と自然に感じるからだ。民主主義だろうがなんだろうが、日本では「角を立てないように、みんなで話しあって」ということがどんな状況でもまず最初にでてくるのは確かなこと。この考えを補助線として政治のごたごた眺めるもめている様子がバカみたいにあっさりと理解できてしまう。

 話し合いが人々の納得を引き出す最初の一歩である。そう納得してから最近のニュースをみると、自分の見方が変わってしまっていることに気づいた。新閣僚の人事報道で新総理の動向が報じられており、そこには常に「話し合い」が強調されている。もちろん話し合いでいいのは確かだ(なるほど、ぼくも日本人だ)が、それでも「こういう政治がやりたい」と主張してきたのだから、粛々と新総理の考えで勧めればいいとも思う。ところが部外者であるマスコミすらそう思っていないようだ。

 数合わせの少数政党の人がしゃしゃり出てきて面倒なことになっている。自民党時代でも「自民党の中で」やっていたことだから、とくに珍しいものではない。話し合い話し合い。この状況からして、政治がこれまでとは変わったものになるとは思えない。やり方は常に同じだから。役者と演出がちょっと変わった程度である。ひょっとしたら、いかにして「自民党が出現したのか」を民主党が変貌していく様で理解できるかもしれない。そう思ってしまうくらい。

 ぼく個人の意見だけど、現実と直に接するところに話し合いは要らないと思っている。現実は「人」ではないからだ。現実に直に接するのは科学であり工学である。芸術は結局のところ人が評価を下すから、それには含まれない。理解するもの、操作するものが人間以外のものやことだったら、話し合いなんて要らない。むしろ極力排除しないとおかしなことになる。「意見の不一致」から生じる「怨恨」は人にしか生じない。科学と工学には無関係。もっといえば、いわゆる理系に話し合いなど必要ない。現実に働き掛ければ答えが一発でるから。理系のいいところは何か問われてたら、迷わずそれを挙げる。

 では、話し合いが悪いことなのか。それ自体の価値は判断できない。日本はそういう仕組みにある、ということが理解できればよいはずで、あとはその仕組みの中でどう立ち回るかによって幸不幸が決まる。話し合い主義(つまり、角を立てない主義)は日本で組織をつくるときの方法所与の事実である。大事なことはそれを西洋流に変えることではなく、それを完全なまでに理解することである。万有引力なんて嫌いだといっても、f=maという法則は現にある。同じように日本の物事の原理として。日本にいる間は、そのルールの中で考えることである。

 なぜそんなルールを日本は選択してしまったのか。そんなことはわからない。数千年前からのものなのかもしれない。そんな昔の人の工夫が、工夫として日本に住む人たちの間に生き残っているのである。生き延びるには、それを理解し活用するよりない。


2009年6月 1日

バチカン

秦野るり子
中公新書ラクレ
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 八重洲ブックセンター

 最初の数十ページにわたる概要がよくまとまっている。キリスト教の誕生についての古代ローマ、そこから中世への流れ。あっさりと読めて、むしろ驚いた。キリスト教についてのぼくの知識の源泉は山本七平さん、秦剛平さん、塩野七生さんたちの一般向けの本のである。何冊も読んで得たものがこの概要であっさりとまとまっている、とまではいかないが、それでも今まで読んだものを次々と思い起こさせてくれた。著者の説明力に感心する。ここだけでも新書ならば十分にペイしている。

 キリスト教でない人がバチカンにどういう興味を持つのか。いわゆる総本山的なものに対する怪しさと警戒感と、ちょっとした興味というところだろうか。ぼくはこれまえ宗教の教えを信じなければやっていけないほどの不運な目には合わないですんでいるので、バチカンに本気で参拝している人の気持ちは全くわからない。

 東洋から来るお上りさん(観光客)と同じで、美術品や建築が目的である。バチカンが「国」と言われてもピント来ない。これが国です、となるのならばディズニーランドだって国でいいじゃないかなどと不謹慎にも思ってしまう。しかし、そこは純然たる国であり、各国の外交手腕が試される場所でもある。

 へぇ、じゃぁどうやって運営されているのだろうか。その存在そのものが歴史の生き証人なのだから、運営方法は歴代経営者の工夫の産物であるはずだ。どうすれば長生きの組織ができるのか、という興味を片手に読んだのである。

 結局のところ、バチカンも所詮は人がつくった組織であり、なんだか泥臭い世界のようである。とても聖人の集団ではないみたい。まぁ、そりゃそうなんだけど。ということで、2000年を生き長らえた工夫のようなものを知ることはできなかった。

 著者の文章はとても軽く万人向けで、新聞の日曜版のコラムのようだ。


2009年3月10日

ユダヤ・キリスト教「世界支配」のカラクリ

ベンジャミン フルフォード+適菜 収
徳間書店
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 アマゾンマーケットプレース

 適菜収さんの『いたこニーチェ』がいたく気に入ったので、別の本はないかと思って見つかったのがこの本。ベンジャミン・フルホードさんの本もこれまでに何冊か読んでいるので、こりゃいいやと思ってアマゾンで購入。2007年出版の本なのに現在書店では売っていない。完売ではなく、たぶん回収したのだろう。この本を読んでいて、クレームがきそうな内容がいくつかあったから。
 最近のフルホードさんは世界の黒幕にしか興味がないようで、すべての本がその論調になってしまっている。黒幕が世界を操るということも大いにあると思うが、ときには別の視点から同じ現象を考察したほうがいいこともあるだろう。そう、アドバイスがしたくなるほど同じ結論になる。残念ながら、この本もフルフォードさんの部分はそうなっている。
 対談本として企画されたのかようだけど、両者の意見はかみ合っていない。両者が話あって展開していく形にはなく、お互い言いたいこと言っているだけの感がある。適菜収さんとフルフォードさんが別々の本を出した方がすっきりするのではないかと思うのだが、それだと分量がたりないかもしれない。だからくっつけたのかもしれない。

 この本は徳間書店的な本の作りで、井沢元彦さん講座のような雰囲気がある。同じ人が編集したのだろうか。
 

2009年3月 7日

読まない力

養老孟司
PHP新書
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 養老孟司さんの新刊は無条件に買うことにしている。最近はあまり書いていないだろうから、新刊を読める機会はぐっと減っている。いくつかのエッセイで読んだけれど、もう言いたいことは言った感があるということだから、対談か講演録くらいしか今後は期待できないだろう。
 このエッセイの冒頭には圧倒された。エッセイ集となっているこの新書に収められた他のものは少し昔のものなのだけど、冒頭の地球温暖化問題についてはつい最近のものである。本人はそうとう腹を据えかねているような怒りを感じているようだ。とくに、HNKで放送される温暖化問題の報道は、ぼくがみてもおかしな構成になっているから、養老孟司さんさんならばなおさら腹が立つのだろう。要するに、インチキなのだ。
 政治レベルでの温暖化問題煽りについて、まともな発言をする人はあまり多くない。相手が政府になると、相当影響力のある人でないと「それは扇動だ」ということが無意味な結果をもたらすし、そもそも社会に知れ渡ることはないだろう。だから養老孟司さんのような人が、まっとうな意見をことあるごとに表明して欲しいのだ。この国は、戦前において大本営発表を散々やった。今の報道をみていると、また同じことをマスコミと一緒になってやっている感がある。
 また近々養老孟司さんの新刊があるようなので、楽しみに待っていよう。

2009年1月30日

「知の衰退」からいかに脱出するか?

大前研一
光文社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 大前研一さんの本はずいぶんと読んだ。ここ10年くらいの間に、一般に入手できるものは読み倒した。初期の本はビジネス書としてベストセラーだったから、ブックオフの100円コーナーで買えるものが多い。ブックオフで手に入らないものはアマゾンマーケットプレースで、洋書もアマゾンで注文した。もちろん新刊が発売されればすぐに購入して読んだ。大前研一さんは自らの著書は200冊以上あると発言されているが、ぼくが探せたのは70冊くらいだった。もちろん、全部読んでいる。
 これらの本を読んだからといって、その内容が全部分かったことにはならない。なんでもそうだろうが、わかったからといってできるわけではない。ビジネスマンでなけれは商売にも関係してないぼくには、ビジネスマンの心得について想像するしかない。大前研一さんのような目で社会を見渡せる位置に入る人はほとんどいないのだから、大前研一さんの読者のほとんどは、読んだところでそれを使えないはずである。ある種の畳の上の水練で終わっているのではないかと思う。
 論理的思考や問題解決などのビジネススキル、ボーダレス経済、はたまた、国家戦略問題なでを扱った著書を読むことは、こうていってはなんだが、娯楽でだろう。なぜなら、大前研一さんの著著の場合、読者も大前研一さんの視点に立てることができるが、そんなことはほとんど現実離れしているから。義務教育終了程度の論理力と語彙があれば、大前研一さんの言っていることはわかる。とても簡単なことのような気がしてくる。まるで戦国時代の合戦の様子を上空から眺めようなものだ。これが娯楽でなくてなんであろう。
 大前研一さんは、ご自身の著書が売れたのに人々がその本によって変わらないことを嘆くことがある。しかしちょっと考えれば、変わらないのは当たり前なのだ。素晴らしい音楽に感動したからといって、みんなが楽器を演奏できるようになるわけではないだろう。ビジネスだって同じで、問題解決方法を知ったとしても、身体を使って自分の問題を解くことには練習が必要だ。言葉によって理解できたことがそのまま自分に能力として組み込まれるはずはない。誰かがどんなに面白い本を書いても、またどんなに啓蒙的な本を書いても、すぐに応答があるわけけがない。その辺りをどう理解されているのか、質問したいところである。
 これまで何十冊もの大前研一本を読んできた。今まではそれらに反論するところなどなかったし、そうしようなどと想像すらできなかった。ある種の神に近い対象だったといえるだろう。ぼくはひたすら勉強し、自分も同じ見晴らしの場所へ上がって行きたいものだと望むだけだった。
 が、実に驚くべきことだが、この本を読んでいてぼくは反論したい気持ちを憶えた。そういう箇所がいくつかあったのだ。「いや、違うのではないか」と言いたくなったのだ。特に最後の教養についての章については、「それは全く違うだろう」とクレームを着けたくなった。こんな気持ちになったのは初めてであり、困惑すると同時にうれしい気分ににもなった。大前研一さんの本を読みはじめてから初めて自分が「成長」したのではないかと実感したのである。もちろん、ぼくの反論は全くの誤りである可能性がある。それを承知しても、大前研一さんに対してただ単に平服するよりない状態から自分は脱したような気がする。

 この本の内容は、大前研一さんの従来の主張からの逸脱はない。日本人の集団知能はどうしてここまで低いのかという問題を定義し、低金利時代におえる銀行預金、死ぬまで続く貯蓄傾向、場当たり的に感情的に反応する外交、それらを煽るマスコミ、おっさんでしかない政治家の行動などについて具体例を示している。そして、そういう風潮から抜け出す方法の提案を行い、大前研一さん自信で行っている実験の結果を紹介している。こういう部分を読んでいると、自分でも簡単にできそうな気分になってしまう。さらには、諸外国の新しい動きと、その先にある10年後の未来予想図を提言している。大前研一さんの本でこういうことが紹介されると、真似っこビジネス書がいくつか出版され、テレビでは評論家が自分のアイデアのような顔をして語りだすというところもきっと同じだろう。
 大前研一さんは不思議なくらい凄い人であることは、今現在でも変わっていない。だからこそ、今でも諸外国からのアドバイザー依頼が途絶える事はないのだろう。

 ぼくも大前研一さんの提言に従い、いろいろと勉強したり、行動したりした。英語・ファイナンス・ITについては一通り勉強したし、リーダ論についてもいろいろ著作を読み、今できることとして自分にリーダー的な行動を取るような試みを仕事のなかで試してみた経験がある。
 しかし、あるときばったりと辞めた。興味がなくなったわけでも、大前研一さんの説く方法の有効性に疑いをもったわけでもない。理由は単純で、結局ぼくは経済活動を「面白い」と思わないのだと分かったからである。人の命はさほど長くないし、日本のために自分があるわけでもない。自分が面白いとも思わないものに、なぜ自分の人生を賭ける必要があるのだろうかと当たり前のことに気がついたのである。それ以後は、大前研一さんの発言は日本の社会に足りないところを知る上でのデータとする程度に取り込んでいる。ぼくはぼくの仕事をするればよいと思っている。
 大前研一さんの発想は、日本の普通の生活者の生活レベルをよくするためのものである。発想には何らかの価値軸が必要で、それを究極の目標として問題可決を行っていく。大前研一さんの話では、最後に全部「経済」になってしまうのである。
 戦前の日本と比較すれば、現代日本の生活は比較にならないほど恵まれている。たいした生活ではないやと思っている人の生活であっても、諸外国の大半よりは遥かに恵まれている。だからもし、現在の生活のままでいいと思っていたとしても、ボーダレスワールドのなかで今の日本の位置をキープするには経済を今以上に拡大させていく必要がある。
 こういう考えがあるのだろう。だから、1にも2にも経済なのである。
 確かにそうでなのかもしれない。現在の生活レベルを維持するには、経済活動を活発にする必要があるのかもしれない。そして、みなが「リーダー」として高給をとれる仕事をしなければならないのかもしれない。
 しかし、だからといって、ぼくは生活レベルを維持するために生きているのではない。現在の日本の状況は世界史のある状態の中で、そしてこれまでの日本人の活動の結果としてある。それには感謝するとともに、敬意を評している。しかし、それと何のために生きているのかという個人の究極的な価値観とは関係しないとぼくは思う。
 経済は大切である。まったくそうであるが、ぼくは金利が5%だの7%だのということに常に注意を払い、どっちに投資するのかなどを考えるつもりは全くない。それは金利という数値の意味するところが分かっていないからではない。73を金利で割った数値が、投資した資金が倍になるまでの年数であることくらい知っている。しかし、10年20年たって倍になる喜びよりも、今自分にできることをする方に時間を投資する。それは借金をして車を買うための理由付けではない。金融について感心をもったり、勉強や実施のために時間をつぎ込んだりすることが「もったいない」のである。もっとやる事がある。5%くらいの金利ならば、ぼくはその時間で本を読むか、音楽を効くなどに時間を使いたい。そういう意味である。
 もちろんこういう発想がでてくるのは、日本が今のような経済状態にあるから。それは承知している。とはいえ、ならばそこで何をするべきかという問題はその状態を維持するためにあるのではないと思う。現在の生活レベルを維持したところで、人は確実に老いて死ぬのだ。

 この視点からみて、この本の提言にはいくつか反論がある。
 例えば教育問題については、大前研一さんの提案は的外れである。ぼくは内田樹さんの提案をとる。骨の髄からのビジネスパーソンである大前研一さんに、教育はできない。大前研一さん自身は社会人向けの学校を開校しており、それなりの成果を得ているのだろうけど、日本人全部がそんな人になる必要はない。
 ぼくが最もおかしいと思ったのは、21世紀の教養である。そもそもからして定義がおかしい。時間や場所という制約を越えて人に価値をもたらすものが教養と言われるものであろうと思っているから、「YouTubeは次になにをやるのか」とか「Googleはどうなるのか」、「アフリカのエイズ対策何をすべきか」、「環境を守るために何をするべきか」という話題について発言できることを教養と呼ぶつもりはない。それは時事問題でしかない。大前研一さんのおつきあいのあるセレブや世界企業の偉い人たちがそのようなことについて興味をもち、雑談のようなときにこういう話ができないと相手にされないと教えてくれている。しかし、YouTubeやGoogleは時間的は進化はバカみたいに早いし、環境にも大きく影響されるし、そんなものを予想したところで「的外れ」でしかない。ましてや数年たてばどうでもいいゴミみたいな話題に成り下がるであろう。要するに、世界のセレブやトップ経営者が興味を持っている事が教養になるではない。なのに、大前研一さんはそう言わない。
 そもそもgoogleがどうなるのかなど、セルゲイ・ブリンにも分からないだろうし、技術屋でもない人の噂についての議論など、時間を捨てること以外の何のもでもない。そういう勘違いがセレブやトップに蔓延しているのならばそれはそれで構わないが、自分の人生をそういう人に合わせて捨ててしまうことはないだろう。結局、人の方向を見つめるだけで自分についてを見失ってしまうというよくある例の一つでしかない。

 大前研一さんの主張は一貫している。だから、ある程度本を読めば「またか」という内容ばかりになる。実際この本も所見であるといえるところはほとんどない。
 それでも社会に氾濫する情報を自分で処理していく方法を実例から学べる。だから今後もぼくは読者でありつづけるだろう。ただし、今後は反論を抱くことも多くなるのだろうなと思う。


2008年12月28日

民主主義という不思議な仕組み

佐々木毅
ちくまプリマー新書
お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 amazon.co.jp

 佐々木毅という権威が、ちくまプリマー新書に書いているというアンバランスさに興味をもった。プリマー新書は中高生を想定しているはずで、東大総長は彼らにどういう語り口をとるのだろうか。もちろん、オトナが読んでも遜色がないシリーズなのだが。
 一読し、内容には引き込まれてしまった。さすがだ。こびることもなく、子供相手にいい加減なことをいうわけでもなく。それでいて、民主主義の不思議さと不完全さといい加減さを教えてくれる。また、だからといって、どうしようもないことまで指摘している。民主主義=いいことだ、という信憑を受け入れてはいけないと表明してくれている。
 とはいえ、文章には読み難さが残っている。ぼくも面倒だなぁと思いながら読んだところもある。こういう微妙なところで、つまずく人も結構いるだろう。子供はいろんな選択肢をもっていて、ちょっとでもつまずくと別のことを始めてしまう。無理して子供用にすることなどなく、普通の新書で出してもいいような気がするのだが、どうだろう。

2008年11月15日

アースダイバー

中沢新一
講談社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazonマーケットプレース

 東京に古くからある神社や寺がある場所は、縄文時代東京の低地が海だったとき、岬や海岸線だったところなのだそうだ。古い神社は、縄文時代を記憶している。そう、内田樹の本のなかでこの本が引用されていた。ひどく興味をもったので、ぼくはこれまで手にした事がない中沢新一の著作を読んでみようと思った。
 この本には一枚の地図がついている。東京近郊までをカバーする地図で、現在の東京の主な神社や寺、墓の場所と縄文海進時の海岸線とが重ね合わせてある。東京の下町部分は下町というくらいすべて海の底である。また、上野やもっと新宿よりのあたりは陸地でその近くには貝塚の遺跡があったりする。なるほど、確かに海岸が東京の奥にあったのだ。
 現在でも上野やお茶の水の辺りを歩くと道路が登ったり下ったりしていることに気がつくが、それは縄文時代ならば海と陸を出たり入ったりしていることになる。
 この地図を眺めながら、街を歩くと海岸線が想像しやすいのだそうだ。著者はそういう散歩をしているそうだ。そして、その時代の岬の部分では本当に神社があるのだそうだ。歩いていると、ひょっとしてこの辺りはとなんとなく雰囲気がしてきて、実際神社があるという経験を何度もしたということだ。
 面白い。実際のところその地図を眺めてみると岬に神社が必ずあるというわけではない。そういう神社もあるというところだ。もっと素直に言うならば、「そりゃ言い過ぎだろう」という部分もある。怖くなるくらい、神社が縄文時代の岬にあるわけではない。だから、ちょっと煮え切らない。もちろん、そういう事実もあるし、実際そういうところは面白いし、ワクワクする。学説という程の説得力はないかもしれない。
 この本の著者はすごくロマンチストのようである。もちろん、実際に縄文期の土地利用の記憶を今でもとどめていることはあるだろう。また、人が住むというときに「住みやすい」という場所は心理的に良い悪いがあるだろうから、そういうところは縄文時代から変わっていないということも認める。それにしてもだ、ちょっと夢がありすぎる仮説ではないだろうか。
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。理論ならば反例があると崩れてしまう。「古代の海岸線沿いや岬に神社がある」という主張は、当然だが現在の東京からは証明できない。ただでさえ古代のことであるからその証拠が残っていることは非常に珍しいのだし、これまで絶えず新しいものを人が作り出してきたのだから「必ずしも」それに合致しないところに神社を造ったこともあるだろうし。そもそも、全部がそんな意識の下で作ったことでもないだろう。要するに、そうかもしれないし、そうでないかもしれないということでしかない。
 学説の場合、こういう状態の取り扱いはどうするのだろうか。なるほどそうかもしれない学説であったとしたら。ぼく個人は満足するし、ワクワクもするから好きな説だから、それが「説」として登場ずるのは構わない。でも、それ以上のモノにはなり得ない。となると、なるほど一つの説明になるという段階でOKになるのならばそれでいいが、それは一種の面白い物語を語るということなのではないかと思う。理科系の感覚ではそういう評価しか下せない。文科系の世界は、面白いけどずいぶんと心もとないもののようだ。

 ぼくは向島育ちである。隅田川の対岸は浅草。住んでいる街の道は比較的まっすぐなものが多く、それは直行していて、なにより平ら。坂道はない。自転車で走るとわかる。自転車で大変な思いをするのは大きな橋である。それが当たり前であった。ところが、世田谷だとかの西の方へ行くと、道はぐちゃぐちゃだし、アップダウンが激しいし、こんなところによく住むなと感心してしまうことしきりで、できれば住みたいなんて思っていなかったし、今でもそう思っている。そう考えると、ぼくは非常に狭い世界に生きてきたのだ。まぁ、それはぼくのせいではないのだけど。
 そういうわけで、東京の土地に海岸線だの岬だのが隠れていると聴いて驚いた。考えて見れば、昇平橋からお茶の水は結構な坂を上がるし、上野は本当に山だ。それは知識として持っている。ここで、全く別の系統の知識にそれが繋がると驚いてしまう。と同時に妙に面白くも感じる。これが「発想」であり、脳も喜ぶ現象、新しいネットワークができたときの快感なのだろう。最近所用で訪れた東大赤門前の通りを眺めていたら道路が上って下る様子が見えてきて、なにやら現在と過去とを同時に想像できて、その場所にいること自体が楽しくなった。東京の生活に地味な楽しみを覚えた。
 東京にも地形というものがあるのか。素朴だがそれが一番の収穫である。そんなことも知らんかったのかと言われると、ハイそうですと応えざるを得ない。ぼくには地面が盛り上がっているところは「橋」であるという世界で育ったために、現実には坂があってもその重要性を「まったく意識しない」できたし、意識せざるをえない世田谷あたりは、こんなの東京じゃねぇだろうと思ってきたのである。まったく狭い了見だったと反省する。この歳になっても学問する意味があるのだとすれば、それはこういう「モノの見方」を広げてくれるものであるだろう。知識など増やしても仕方ない。それが若干「ロマンチック」なものであっても、新しい見方ならば歓迎するべきことであるし、一生を通じて勉強していくことって、こういうことなんだろうなと思う。
 中沢新一という人が他にどういう本を書いているのは知らないが、ちょっと外にも読んで見ようかな。

2008年11月 3日

地球最後のオイルショック

デイヴィッド ストローン
新潮選書
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 考え込んでしまった。なるほど、そういうからくりだったのか。アメリカ発の国際情勢、紛争の原因はピーク・オイルを睨んだ政治的な行動なのか。だから、普通の人がどんなに犠牲になろうともアメリカは「正しい事」をしていると主張するし、良心の呵責にさいなまれることもない。ピーク・オイルの問題は他人が本腰を入れる前にやらなければいけないことだし。世界情勢についての解説をただ聴くだけでは目くらましにあってしまう。ピークオイルが補助線になる。
 考えてみれば、毎日の生活において、手で直接触れる「物体」から手で直接ふれられない「放送」などのという概念の普及ということまで石油が大きく貢献している。今はそういう世の中に住んでいる。人やモノの輸送に必要な「力」の源泉であるエネルギーも石油であるし、生活材からビルにいたるまで、多くの物質の原料にも石油が使われてる。さらに、それを作り出すとき時にもかなりの石油が必要になる。つまり、どんな切り口で考えても、今の世の中は石油が支えてくれているのである。
 このような世の中になったのは、ほんの100年というスケールである。歴史においては短期間にも関わらず、ずっと昔からそういう社会であったような気がするから不思議である。人は、自分の経験を「あたりまえ」として考えているので、生まれたときからある世界は過去から未来までそういうものだと思い続けてしまうからである。
 明治や江戸の時代より昔になると日々の風景は全く変わる。いや、石油に依存する直前の状態、たとえば戦前くらいであっても日本は違う風景であったろう。
 電気は結局のところ石油が支えているし、物質の移動(トラックや電車)はほぼ百パーセント石油(ガソリン)による。プラスティックや樹脂なども石油なのである。あらためて考えるといやになってしまうくらい、石油が使われてることに気付いてしまう。
 こんなにまで石油の潜在を前提としているのならば、石油はずっと「ある」のが当然と思うものである。例えばボーナス月が毎月でないことを知っているのは当然のようなもので、一時的に使えるだけのものだったら誰も石油に頼らない。ずっと石油はあると社会は同意していることになる。
 しかし、石油は掘り出してくるものである。しかも、水とちがって地球上で循環しているものではない。一方的に消費するだけ。産み出されることはない。石油を使うことは、貯金を食っているようなもの。ならばどうして社会は不安にならないのだろうか。
 石油が枯渇する。このフレーズは恐怖を呼び起こす。しかし一般的には狼少年の警告なのである。いずれなくなるだろうけど、すぐには来ないだろう。ぼくが子供の頃からそう言われている。現に、石油がなくなるなどという報道は現在でもない。だから、石油枯渇という話や警告はデマということで世の中に了解されている。
 この本は石油の枯渇を訴えていない。枯渇についてを全く問題にしていない。枯渇などはどうでもよい。もっと大切なことがある。それは、石油産出量がピークを迎えることだ。これが問題だといっている。
 石油は掘り出してくるものである。需要が高まれば、新しい油田を掘り出すことでそれに応える。石油は生活必需品であるので、必ず売れる。だから必ず儲かる。必ず儲かることならば多くの人が油田を探す。だから、今も日々新しい油田を探しているし、実際見つけて掘り出している。
 しかし、地球が有限なかぎり出てくる量に限りがある。ゼロから増えていった石油生産量はいつか生産量がピークになり、やがて原産していき、最後は枯渇する。この事実で注目すべきなのは、最後ではなく、途中のピークである。
 経済学で重要な概念に需要と供給のバランスがある。あるものを欲しい人がたくさんいれば、その値段は上がる。そして、値段が上がると買える人は少なくなり、需要はへる。そして、需要と供給ががバランスする。ものの値段はそこで決まるという考え方である。
 石油は欲しい人がたくさんいる。発展途上国の人も欲しいだろうし、中国やインドなど猛烈に発達している国もエネルギー源としての石油はどうしても必要である。だから、需要が増ええている。その需要の増加分は現在は生産量の増加で補っている。だから、石油の価格が現在のレベルで落ち着いている。
 ところが、何かの拍子に石油増産ができなくなると、石油価格が高騰する。すると、世界中にいろいろな問題を引き起こす。なにせ、現在の石油価格水準を前提として社会がつくられているのである。一割価格高騰でもいろいろな問題がでる。それくらい、石油を前提とした社会においては、石油価格、ひいては石油精製量が重要なのである。
 ここで、ピーク・オイルを迎えたとする。これ以上石油精製量が増えない状態になるということだ。まず、すぐに石油価格が上昇する。二割、三割、四割と上昇する。社会に混乱が起きる。
 石油が他の商品と違うところは、価格弾性が低いことである。価格が上がったからといって、それが贅沢品になるということはなく、上がっても必要なものは必要である。すると、需要と供給とがバランスする価格がるが他の商品とくらべてずっと高い。今では考えられないような高い値段になっても売れることになる。
 石油価格が高騰すると、社会生活においてあらゆるものの値段が高騰する。贅沢品がたかくなるのではない。電気や輸送にかかる値段が高騰していく。要するに、エネルギーを使うことはすべて高くなる。
 値段が上がると量を少なくしてバランスをとるものがある一方で、存在そのものが消えるものがある。例えば、普通の人の海外旅行はお客さんがある量を下回ると「ジャンボジェット」が維持できなくなるので、いわゆる海外旅行という概念が成立しなくなるかもしれない。
 当たり前である。社会の前提が変わるのだから、社会そのものがかわってくる。明治人が現代の日本の生活を想像できなかったのと同じように、現代人もピーク・オイル以後の世の中を想像できないだろう。
 人は見たくないもは見ない、というクセをもっている。ピーク・オイルの話は当然見たくない部類のものである。だから、ピーク・オイルという問題は枯渇の問題にすり替えられてしまう。そして、それは狼少年の例だろうという結論になり、ピーク・オイルの問題は無視されることになる。
 いや、そもそもピーク・オイルの問題を知ったところでどうにかなるようなものがあるのだろうかという気がする。実際のところ、どうにもならない。一人でできることが全くないのである。一人一人が節約しても、その分を他の誰かが使うだけであって、トータルのはなにも変わらないのである。
 ぼくが生きている間にその変化を目にすることがあるかもしれない。いや、その変化の影響でぼくは死ぬのかもしれない。まぁ、でもそれはしょうがない。
 古代ローマの賢帝の一人トラヤヌスの時代、ユーフラテス側の東には「燃える水」がわき出すところがあるという記録が残っているらしい。素晴らしい建造物を作れた古代ローマでも石油を使うことを思い至らなかった。ぼくの時代よりも100年くらい前から、石油を使う知識を得たわわけだ。そして、それが原因で社会は繁栄することがあった。
 この時代が異常だったのだろう。よく、文明は加速的に発展しているので、そのうち人類は滅びるなどと主張する人がいる。今でもいるのかもしれない。あるいは、地球温暖化などといって百年、二〇〇年先の世界を騙る人がいる。しかし、その人たちは、このピーク・オイルを知らないでいる。
 オイルが消えるとビックリするくらい人類社会は後戻りする。そして、後戻るするだけでなく、そのときから進む方法は違うものになるだろう。というのも、エネルギー源がなくなってしまったのだから、もう一度石油社会へ進めることはできないのだ。違う歴史になるのだろう。というか、そのまま数億年経って、人間ではない違うものの世の中になっているのかもしれない。
 ドレイク方程式では、このエネルギーの影響を含めているのだろうかなどと思いつく。 
 そんなことを知ってしまった。未来を想像する方向が自分でも少し変わってしまったようである。

2008年10月30日

暴走する「地球温暖化」論

武田邦彦+池田清彦+渡辺正+薬師院仁志+山形浩生+伊藤公紀+岩瀬正則
文藝春秋
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 地球温暖化論が現実と遊離して暴走している。そういう趣旨の記事や論文がまとめられた本である。

 普通の本は一人の著者が一つの視点から語っている。もしその著者が信頼できるなら、その本を読むのは楽しいだけである。ふむふむ、なるほど、知らなかったわ、とか言いなが読めばいい。その著者が考えるように自分も考えていけば主張は分かるので、楽しいだけである。
 しかし、信用できない著者だと面倒だ。なぜならば、その発言内容は一つの世界で正しいものでしかないから。普通、自分と矛盾する論旨を自分の著作に入れることはないので、読者は批判的に読まなければならないからである。でないと、不本意な結果を招く。
 具体的には、主張される項目それぞれについてその根拠や証拠を見つけ出し、それら採用できるかどうか自分で吟味するのだ。
 いわゆる批判的な読み方である。批判といっても、反対することが目的ではなく、自分で考えながら判断することをさす。
 批判的に読んだ本をもとに行動し失敗したら、それは著作に問題があったのではなく、自分の判断の誤りだったということになる。
 批判的に読むには、ワインを飲みながら楽しく、というわけにはいかない。だからぼくは信頼できる人の本を読む方が好きである。
 ぼくは本を著者で選らんで買うことにしている。まず最初に批判的な読み方をして、この人は信頼できると判断したらその人の著作を順に読んでいくのだ。仲の良い友達になっていく過程と全く同じである。

 この本に収録されいている記事の著者では、武田邦彦、池田清彦、薬師院仁志、山形浩生については信頼できると判断している。これまでこれらの人の著作を何冊も読んでおり、その結果信頼できると判断したのだ。幸い、これらの著者の論文が多数派なので、この本を気楽に読んで見た。

 池田清彦の本を何冊が読んだが、それらで紹介されている根拠はここで紹介されている論文から選んだようである。だから、初めて読むような気がしない。
 とくに、薬師院仁志の主張は分かりやすい。彼は、温暖化がウソであるとは主張しているのではなく、矛盾が多くあることを指摘しており、温暖化を主張する専門家たちにそれを質問しているのである。それらの矛盾が論破されないと地球温暖化論は致命的な理論であると。そしてまた、矛盾を指摘する証拠が明確に並べてある。
 そういう疑問を温暖化問題の専門家は無視するようである。個人的な経験則だが、「儲かっている専門家を信用してはいけない」ものであるから、無視するのは当然であるような気もする。

 どうやら本腰を入れて地球温暖化についての本を読んだほうがよさそうだ。これから年末にかけて、目立った本を買い集めてみることにしよう。

2008年10月28日

正義で地球は救えない

池田清彦+養老孟司
新潮社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jp

 池田清彦が地球温暖化とその対応について声明文のような本を出している。養老孟司の影響力をつかって一般の人に広く訴えることを目論んでいるのだろう。
 前半は池田清彦の解説。地球温暖化問題はウソであると主張している。アナウンサーのような冷静な語り口ではなく、どちらかといえばべらんめい的な調子ですすむ。よっぽど腹にすえかねるのか、憂いが深くて怒りに転じているのか、あるいはその両者の混合か。本気なところが伝わってくるので、ぼくは分かりやすい。
 だだし、内容はこの本で初耳というものはない。これまでに出版された本や論文の主張を紹介し、だれにでもわかるようにまとめることが目的だから。温暖化問題の切り口はたくさんあるが、古本で紹介されている全ての切り口から考えても温暖化問題はペテンのようである。なるほど、それならぼくにもわかる。そう、言いたくなる解説である。

 後半は養老孟司との対談。少し前に同じようなテーマの対談本を出版したばかりなのに、また対談しているから重複が多いかとおもいきや、そうでもなかった。
 石油の代替エネルギーはどうすんだよ、ということに比重が移っている。温暖化問題などどうだっていい。問題はエネルギーなのだ、ということらしい。
 ただし、怒りの主張しているわりには、両者は焦ってはいない。なぜなら、温暖化問題にしても、石油枯渇問題にしても、もう彼らの問題ではないからだ。彼らはリタイア組だ。
 この本の内容を知らされるべきは小学生なんだと思う。その意味で小学生の教師の人がこの本をどれだけ読んでいるのだろうかが気になる。このメモを書いたときamazonでの売り上げ順位は102位だった。どんな人が買っているのだろうか。

2008年9月25日

本質を見抜く力

養老孟司+竹村公太郎
PHP新書 546
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 環境問題について、安心して聞いていられる意見を言ってくれる人は数少ない。代表格に養老孟司がいる。対談形式であれば、読んでいてフムフムと頷く。

 対談相手は元役人である。いろいろなデータからちゃんとしたことを主張しているようである。この人の経歴が紹介されていなかったが、ぼくはなるほどなぁと安心して読んでいたことだろう。

 しかし、この人はもと河川局長だということだ。環境問題の元凶の一人ではないか。自分が散々やってきたことをどう思っているのだろうと思って読んでいると、どうやら「正しいことをした」という認識らしい。

 彼はOBである。悠々自適で高いところから世間を観察している。何を言っても自分の身が危うくなることはない。だから、ある意味正しことを言う。政府だろうか役所だろうか、関係者だろうか、ダメなことを一刀両断している。どうして、気づかないのだろうなどと言っている。まったく、迷惑な人である。

 自分の身が安全になれば何でも言えるだろう。なぜ、日本の河川行政でも農政行政でもいいが、それがおかしなことをしているのかといえば、過去のお前のようなヤツがその職についているからだろう。まずは、我が身、ついで仲間たち。そういうメンタリティーの人が、どうして現在の行政を批判するのだろうか。読んでいて不愉快になる。すべてお前が責任者のときにやれ。

 なぜ、今「良い人」のような発言をこういう人がするのかといえば、おそらく勲章が欲しいのだろう。自分はいい人だったと、日本が散々迷惑を被ったその元凶の人に感謝しろと言っているのだろう。早く消えて貰いたいものである。

 養老孟司の発言だけをピックアップして読んでいったので、結構苦労した。

2008年9月19日

偽善エコロジー

武田邦彦
幻冬舎新書
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 世の中に流布している信憑をとりあげ、それが単純なウソであること、そして、なぜそれがウソとして流布するばかりか法律となっていたり、あるいは、行動が推奨されているのかを一つ一つ言及してくれている。
 こういうことをきちんと本にし、義務教育終了時点での知的水準で十分に理解できるかたちで発表してくれる人は、その国に暮らす人にとってとても有り難いことである。

 テーマは環境問題についてである。いわゆるレジ袋からはじまる「市民運動」や「環境行政」には、まともに科学・工学を学んだ人からみるとおかしなことが沢山ある。
 話をあいまいにしようとせず、一問一答という形で「全く効果がない」とか「意味がある」とか結論づけている。普通の大学の先生はちがう。揚げ足をとることが目的であるクレーマーを相手にすると切りがないので、大学の先生などはあいまな結論をだす。一番多いのは「場合による」という語法で語る。しかし、この著者は本当に主張しておかないと日本が危ないと考えているから、自分で火中の栗を拾う覚悟をもって断言してくれる。そういう人の言葉は傾聴に値する。

 テレビのコメンテーターや国(いわゆる役所)の人が国民の幸せを願うことはない。かれらは、自分の幸せを願っている。できれば、行政職の人が優遇される社会であるべきで、一般の人などどうでもいいと考えている。こういうことは、実際に役人と向き合って話をすればよくわかる。
 ただし、法律も国家予算も手にしているのは彼らである。マスコミの制御権すらある。普通の人が戦うにはあまりにも勝算がない。役所のまわりをシュプレヒコールを挙げてうろうろするのでは全く効果がない。
 どうころんでも転げ落ちていく日本をよくすることはできないだろうとぼくは思っている。

 この本がどんなに話題になっても、100万部とかいうオーダーである(そんなにいかないことは分かっている)。とすると、この本で示唆されている環境問題の風説や根拠のない対策のおかしさに気づく人は最大100万人である。
 となれば、おかしなことを正すという行為は無理である。普通の人はそれすら分からないからである。

 「ところで、先生は結局どうしたらよいと思いますか?」と、環境の講演をするとよく聞かれます。そんなとき、私は、
 「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる。もし好きな人がいなければ、電気街に行ってパソコンを山ほど買い、一人で家にこもるよりない」
 と答えることにしています。(P221)

 環境問題は果てしない欲望からきている。大抵のことは必要以上の量を求めることに元凶がある。仏教のように欲望を捨てることを人々に説いてもムダである。
 結局日本がどうなるのか。ハンドルは持っている人の普通の人がない。だから、おかしくなっていく時代を自分の体験として吸収するよりない。これもこういう時代に居合せた因果である。今現在はとても過ごしやすい時代である。それは長続きしない、とその時代にいる人がわかるわけがない。昨日の続きに明日があることはない。歴史がどれだけ教訓を残してくれていても。

 そんなときに何をもって自分の幸せとするのか、そもそも何を得たいから生きているのか、得る必要があるのか。そういった基本的なことを長い時間をかけて自分で考えていくよりないと思っている。
 そして、その回答は意外にコスト安で達成できるのではないかと思っている。

2008年8月28日

解体されるニッポン

ベンジャミン・フルフォード
青春出版社
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 以前からそうなのだが、最近の本はことごとく陰謀論になってしまった。著者は陰謀論ではなく実際の仕組みを説明しているというのであろう。その真偽は普通の人であるぼくはわからない。FRBがどうであろうと、ロックフェラー財閥がどうであろうと、それが事実であったとしても個人的な対応は全くとれない。

 ベンジャミンの本はもはや都市伝説本になってしまった。本来であれば、なんらかの主張をする場合にはそれなりの証拠を積み上げていく必要がある。俺のいっていることを疑うのか、という態度では結果的に有力な情報にならない。ある人はそれを信じ、ある人は信じない。どんな主張をしようと、結果的にそのどちらかの判断をなされるのである。そのための根拠が、僕は事実をしっているのだ、という展開ではあまりにも弱い。

 この著者が『日本がアルゼンチンタンゴを踊る日』を出したときは衝撃を受けたのだが、それは著者が自分の知名度のレベルを把握しているため、親切な説明を試みていたことが理由であった。しかし、この本になると、知名度があったためだろうと思うのだが、主張の根拠が与太話になってしまっている。すくなくとも、そういう世界と無縁の人が読む限り、単なる都市伝説でしかなくなってしまっている。

 出版社から考えれば、この本を読む人は素人であるはずだ。素人を相手にするには説明が必要だ。それは、「実はこんなことを知ったのだ」という噂程度の根拠ではなく、きちんとした証拠をつかって論理を積み上げていくあるは検証していくことが必要なのだ。そうでなければ、たんなる血液型入門と同じではないか。あえて出版する意義はない。

 著者が世界の闇を主題にしているのならば、そもそも普通の人はその論拠も事実も知り得ないはずで、そういう人に以下に都市伝説を記事にしていくのか、に注意を払わないと読み捨てされる記事になってしまう。これがいい例であろう。なんだか寂しい気分がする。


2008年8月22日

定説だってうそだらけ


日垣隆
WAC お勧め指数 □□□■■ (3)
購入店 bk1.co.jp

 軽い気分で読んでみるもの悪くないかな、まぁ、勉強というよりもどちらかといえば休憩として。日曜日のラジオ番組の書籍化らしい。全体的にそういう雰囲気の本である。少し古い感じの喫茶店でまったりとコーヒーを飲みながら過ごす時間。そういう本だった。

 内容は武田邦彦、池田清彦、近藤誠という人たちで、何を主張するのかはわかっているようなものだから説明せんでもいいやろ、という話である。


2008年7月 7日

東京ファイティングキッズ

内田樹+平川克美
朝日文庫 660円
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 amazon.co.jpマーケットプレース

 内田樹と平川克美の往復e-mailの本である。e-mailでの対話が本になるのかと思ったが、なっている。なんだかきっちりした内容を交換しあっていて尊敬してしまう。扱うテーマが高尚なものではないけれど、だからといって読んでいてい学べてしまう。出版されることを前提にかわしたメールだけれどよそ行きな雰囲気がしない。おそらく、両者はいつもこのような会話をしているのだろう。ぼくの知らない世界を覗けた気分がする。

 普通の人はこういう会話をしているのだろうか。ぼくの身近にはいないかもしれない。なるほどなぁと第三者が頷くような論理なり考えなり思想なりを普通のe-mailで出せてしまうのはなぜだろうか。明らかなのは、地に足がついた考察結果だということだろう。何かの引用があるにせよ、彼らが深く考えて自分の言葉でしゃべっているからだろうか。抽象的なものいいがあっても、それが「抽象的だな」という気分にならないのだ。それって、自分で考えた言葉の特徴なのではないかと思っている。

 人がもつ欲望の無制限生についてとか、贈与とか、これらはすべて一般には「高尚」と見とれられた学者の研究成果を下敷きにした会話として取り上がれている。その使い方が実に的をえているために、それら学者について知らないぼくですら、なるほどなぁと「意味」に感心してしまう。キーワードをならべて「おれってスゴイだろう」ということを相手に伝えることが目的じゃない人の現代思想の話が出来る人は内田樹くらいなんだろうと思う。まったく。

 友達って大切だなと思う。彼らは物事がよく見得ているのだろう。高い山から過去や外国など見晴らしがいいところで会話をしているのだろう。おれにもいればなぁ、などと思ってしまう。しかし、まぁ、それは無い物ねだりだろう。それに、そんなことを言っては現在の自分の友達に失礼というものだ。今のままでいいや。


2008年3月 2日

テレビ標本箱

小田島隆
中公新書ラクレ 740円
お勧め指数 □□■■■ (2)

 好きなタイプの本ではなかった。悪い気分がするとか、腹が立つとかではない。どうしてもいいような気がするような内容をあつかっているから。ナンシー関の本ですね。そもそも芸能ネタに興味がもてなかったり、政治家に怒りをぶちまけたりする気分がしないので、興味がもてないのです。もし、ナンシーが好きだったら、この本も好きになると思います。

2008年2月25日

ひとはなぜ学歴にこだわるのか

小田島隆
知恵の森文庫 648円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ずばりのタイトルである。なんでなのかといわれても、レッテルとしてすごく情報量がありますから、当然そうしますよ。この本でどんなにレッテル性に疑問を呈してもダメでしょう。世間がそれを欲していますから、負け試合になります。ほっておくしかないです。

 いろいろな大学の学生と接する機会が多いのですが、内容は大学によって変わることはありません。同じ大学でも個人としての違いが圧倒的に大きいです。ただし、大抵の人は大学のカラーに合わせてようとしているようです。早稲田は早稲田的、慶応は慶応的というように。直接モノを造り出す仕事に付く場合は、それが理科系であろうと文科系であろうとなんだっていいのですが、大学は関係ないです。一方で、管理職とはマネージャーのような仕事は大学名が幅を利かせます。だって、バレませんからね。

 この本では学歴を相手に、そのメカニズムを探ろうしていたり、実際をレポートしていたりとします。だだし、結局のところ早稲大学出身の著者のことが書かれている章が一番正直な言葉で淡々とかかれていてよいと思います。まぁ、その程度のはなしなんですどねぇ、と読める読者がどれだけいるのかは疑問がありますが。

 日本の社会が学歴社会である面が大きいので、この問題はどうにもなりません。会社員はつまるところ学歴しかないのです。役人や学者は東大倶楽部にいるほうが圧倒的にお得です。では、そうでない人はどうすればいいのか。この本では書かれていませんが、方策はあります。現実と接地した仕事をとることです。歌手だって画家だって、プログラマーだって、小説家だっていいです。結局、「面白い」とか「すごい」とかあるいは生き死ににかかわるような仕事につけば学歴問題は解消します。日本の社会で学歴がとやかく言われるのは、要するに実力がばれないサラリーマン社会だからでしょう。


2008年2月22日

<現代家族>の誕生

岩村暢子
勁草書房 1800円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 社会学というものがあるのだとしたら、おそらくこの本のようなものがアウトプットとして優れた評価を受けるのだろうと想像する。まったく、すごい。どう表現していいのかわからないのだけど。家族、という現象を中心に日本の現代社会がどう変遷したのかがわかる。物事はいろいろなものと関連をもっている。あるものが他のものによって影響され、その結果別のものへと波及する。実にダイナミックなものなのだ。そういうイメージをぼくに与えてくれる。テレビ番組でやってくれないかな、と思う。そうすれば、見る人はたくさんいるだろうから。

 現在の普通の家族の食卓風景について、ある意味本当の姿を見せる。そこが話の発端になる。食パンとラーメン、総菜がごちゃごちゃになって置かれているが、これが夕飯だというのだ。まさか。さすがにそう思ったのだが、どうやらこれが以上な風景ではない、とこの本は話を切り出している。まさに、驚きの風景である。一体全体、どうしてこれでいいのだろうか? どうして、こんな家族ができちゃったのだろうか? このお母さんはどうしてこれいいと思っているのだろうか? どんな育ちかたをしてきたのだろうか? これが、探求のそもそもの動機である。そして、それは十分に「科学」である。

 結論への解明の道筋はこの本を読んでもらうとしよう。別にミステリーでもないから結果をいってしまうと、戦争ってやぱりスゴイインパクと社会に与えているんだなということ。そして、現代社会の変化のし方は、親の機能を無意味にするくらいインパクトがあるのだとわかる。実にビックリする。親でさえモノを教えられないのだから、おばあちゃんが役立つはずはない。なるほど、家族という言葉が指し示す意味が、どうやら戦後社会で変わってしまったようだ。もっといえば、家族の形態が日本で定着してから数百年たっているが、それがここ数十年で変わってきているのだ。

 それだけではない。生活の色々なものも、絡み合っていることがわかる。電気洗濯機などの家庭電化製品が主婦の仕事を減らす。すると、ヒマになった時間ができる。テレビはワイドショーを料理番組を始める。町ではお買い物を勧める。情報交換が頻繁に行われる。考えてみれば、戦中戦後は食べるのが精いっぱいだったのだから、家庭の味なんてあるはずない。その世代が料理学校へ通い、婦人雑誌やテレビで料理を憶え、それを子供にだす。インスタント食品、冷凍食品、総菜屋が幅をきかす。いったい、どこに古くから伝わる料理がるのか? 生活のための道具が変わる。どうして、おばあちゃんが知恵があるのだろうか。社会に対応していくのは常に若い人であるならば、継承するべきものはない。かくして、家族が家族たる意味を消失される。

 なかなかうまく説明できないが、そういう色々なものを一気に知ることができる。稀にみる本である。私は勉強になった。そして、考えるようになった。家族って、本当に必要なんだろうか。

2008年2月12日

亜玖夢博士の経済入門

橘玲
文藝春秋 1650円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 橘玲の本だから株や借金の本だろうと思って読んだのだが、かなりシュールなものだった。対象範囲は経済という枠ではくくれない「社会・心理」までおよんでいる。いじめや詐欺についての考察はマスコミには登場しない見方であって、的確とおもえるがゆえにシュール感がただよう指摘になっている。本としては悪くはないが、読んで楽しい愉快な気分はしなく、どちらかといえば寂しい気分がする。株については、「本気でやったら絶対勝てないけど、いい加減にやっている人は儲かるかもしれいが、それが家計を支えることはない」とぼくは考えているので、空売りの話には興味が持てなったし、今後もないだろうなと思う。

 連載だったせいか途中に苦しいところや不必要じゃないかなという記述、ちょっとどうかな感がある箇所がある。登場人物にリンレイという男の子がでてくるが、これが著者のアバターなのだろうか。それと、橘玲の本には、ホームレスの人が登場してくることが何度かるが、著者はホームレスとなることに抑圧された恐怖を抱いているような感じがする。そんな感じが本全体の通奏低音になっているように読める。おそろく、それを感じ取ってしまうから、良くできた話でも寂しげに思えるのかもしれない。

2008年2月 7日

異郷からの手紙

森本哲郎
ダイヤモンド社 980円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 ゆたかさとはなにか。生きるとはなにか。精神とはなにか。そして、わたしたちとは何か。こういう誰でも感じる哲学的な疑問について、旅をとおして考える小説。いわゆる結論はないのだけど、森本哲郎の本が好きな人ならば楽しく読めます。自分探しという、矮小化されたテーマとはちがう。いわゆる、今をリセットするための行動ではなく、数千年つづく、というか人がいる間つづく普遍的なテーマを追っている本ですが、ごく普通の人が出来そうもないたびを仮想的に体験することで、読み終わった後、ため息をつき、久しぶりに日本に帰ってきた気分がしてくる。森本「本」とでもいうジャンルなんでしょう。

 この本は確か文庫本にもなっているはず、入手しやすいはず。ぼくは神保町のガレージセールで3冊500円で買いましたが。テーマがテーマだけに、現代の人が読んでも言い本だといえるものだと思います。ただし、世界情勢は少しずつ変わっているので、バクダットのホテルに普通に泊まったりするところが時代を感じさせはするのだけど。

 森本哲郎の旅はヨーロッパではなく、インド・中東・ギリシャなど古代文明があったところが多い。そして、かならず修業するくだりがある。老師がでてくる。よくわからない言葉が、修業していくうちに体感できるようになる。そういう構造があるのだけど、それはその当時の型だったのだろうか。ぼくはよく知らないピッピーのいた時代の話には、どうもピンと来ない。そして、本でも求めているものが悟りの境地であるところが、ピッピーと似ていなくもない。このあたりも時代を感じさせるので、余り多く本が現在では流通していない理由なのかもしれない。

2008年1月18日

国家の品格

藤原正彦
新潮新書 680円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 このベストセラーには賛否両論つきまといっていた。ぼくよりも5歳くらい若い身近な人が「数ページ読んでいてむかむかしてやめた」ということを言っていた。アマゾンの書評にもえらい評判が悪かった。「これからの日本に必要なのは情緒だって、バカじゃない」というような言い分だった。「若き数学者のアメリカ」など昔のエッセイはずいぶんと読んでいたので、年を取ってから発想が変わったのかな?」と思い、また、ベストセラーだったので読まないでいた。ところが、ブックオフに100円でていたので買ってみた。読んでみたのだが、どこも悪くないので拍子抜けをした。

 なぜ、気にくわない人が多いのか。ぼくが感想を聞いた人はすごい優秀な人だから、「年功序列にするべきである」というようなところが気に触ったのか、論理よりも情緒を大切にするべきだというところに腹を立てたのか、たぶんそういうことだろうと思う。

 この本で言いたいことは割りと単純で、「論理的志向が正解にたどり着けるなんてのはウソで、そもそも公理は外から与えられるものであるし、さらり数学でいえばゲーデルの証明にあったようにそもそも論理をつきつめていくと論理で考えていたことが矛盾するという事実もある。結局、人の集団にとっての長期的な生き残り戦略は歴史的な作業で身に付けてきた「品格」だし、それを良いものだとする価値観は情緒の感度を与えるものなのだ。グローバルスタンダードなんて所詮はアメリカのローカルスタンダードだから後生大事に祭り上げる必要などなく、そもそも日本には部指導的な精神からなる品というものが明治期にはあったのだから、それを学び直せばいい。」ということだろうと思う。ぼくはそう解釈した。

 この本は講演内容を文字におこしたものだ。内容に「冗談」も入っているが、活字の仕方が直接すぎるので、ひょっとしたら「冗談をまともにうけとったことで立った」という人もいるのかもしれない。それでもだ。ぼくはこの本は普通にいい本だと思う。

2007年12月20日

私家版・ユダヤ文化論

内田樹
文春新書 788円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ユダヤ人についての考察がまとめられている。まとめるというよりも、展開されている。読んでいて、ある考えが目の前で立ち上がっていく様を「見る」ことができる。自分自身でこのような考察をすることはとてもできないので、人が考えることの仮定とその結果、あるいは、限界について想像を巡らすことができた。頭がいいって、この本ような思考をすることができることが一つの指標なのだろう。他にいろいろあるのだろうけど。

 ユダヤ人という不思議な存在は、古代オリエント史に興味をもつ私にはこれまでもずっと興味がった。ただし、日本で生活している限り、あるいは、ヨーロッパの観光地をちょっと回る限りでは想像ができない。アメリカにおけるいわゆる黒人の問題ほど目に見えないのだろう。結局、差別という枠でくくられるものだし、できれば忌避したい話題だからあまり教えてもらえる機会がない。自分で体験することも、直接教えられることも、話題にものらないことなので、本で読むことでしかしることがないものだ。

 そういう人を内田さんはどう議論するのだろうか。歴史の中での役割や民俗的な奇習がある方面の能力向上に結びついたという見解のようである。ちょっとまとめすぎた説明なのだが、私にはそもそもこの本の後半部分を半分も理解できなかったので、仕方がない。新書としては珍しく、マジに考察されているし、読者の思考に対する要求も半端なものではない。

 さて、この本で歴史を学ぶことにしついて面白い記述を目にした。この意見は「本当に重要」で、そもそも歴史を学ぶ意義そのものを言い当てていると思う。

 生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義になるのら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人間ならば比較的簡単にスクリーニングすることができるからだ。その種の「悪人」だけに警戒の目を向けていれば破局は回避されるだろう。
 しかし、私が反ユダヤ主義者の著者を繙読して知ったのは、この著者たちは必ずしも邪悪な人間や利己的な人間ばかりではないということであった。むしろ、信仰に篤く、博識で、公正で、不義を激しく憎み、机上の空論を嫌い、戦いの現場に赴き、その挙に思想の全重量をかけることをためられない「オス度」の高い人間がしばしば最悪の反ユダヤ主義者になった。
 反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東条英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけてことを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績の卓越を論って、「こんな立派な人間だったのだから、その慰霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように、『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。
 彼が善意であることも無視無欲であることも頭脳明晰であることも彼が致死的な政治失策を犯すことを妨げなかった。この痛切な事実からこそ私たちは始めるべきではないか。そこから始めて、善意や無視や知力とは無関係のところで活発に機能しているある種の「政治的傾向」を解明することを優先的に配慮するべきではないか。私はそのように考えるのであr.

 歴史を考えるときにこの発想が「なぜ」に答えるための補助線になる。ある失敗があったときに、だれが悪い、お前は責任をとれ(心情的には死ねといっている)としか言わないのでれば、上記の発想に全く学ぶところがない。つまり、事件が行ったあとにマスコミに耳を傾けるのは、死刑執行を楽しむ人であることを意味している。そんなことはしなくて良い。むしろ、質の良いドキュメントをなんとか入手することに腐心したほうが良い。ただし、そんなものはメッタに読めないのだけど。

 考えること。それはマラソンや書道と同じように、ある程度までは師匠に練習することで身に付けることが出来る。みんなが天才の域まで行けないとしてもね。今年は実に内田樹という尊敬するべきモデルを知ったことが有益なことだったと思う。

2007年10月30日

エコロジー幻想

武田邦彦
青春出版社 1400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 バランスがとれた読みやすい啓蒙書。環境についてあまたある議論のなかで、この視点で書かれたものは他にないんじゃないかと思う。エコロジーについて、心情的な賛成でも偏見的な反対でもなく、リアリズムに徹した視点で発言するとこうなるのだろう。観念ではなく現実を相手にした本。

 環境論を扱っているはずなのだが、そもそもなぜ人が環境との共生やエコロジーということを主張するにようなったのかから話を起こしている。
 要するに、「みんな未来が不安で、現実に満足していない」という視点から考える。だから、養豚場の豚のように成長過程で一度も「振り向くことがないような人生」を送っているという仮説を提示し、現在社会の都市における普通の人の生活を考えてみて、どうすれば「不安を軽減し、満足を得ることができるか」を論じている。
 一見、エコロジーとは離れているような気がするのだが、実はそれがかなり有効な方法であろうということが後半になって分かる。

 この人の主張はマスコミでは正面からとりあげられないだろうな、と思う。こんな考え方があることを知るには本を読むよりない。なんのためのテレビなんだろうなぁと思うが、それも仕方ないか。


 この著者はペットボトル再利用は環境に悪いという主張をされている人。本も読んでなっとくしていたのだが、この本を読んでいて別の意味での理解を得られた。
 そもそもペットボトルは使い捨てをするためのギリギリのデザインなので、それをリサイクルするというのは設計意図に反しているな。だったら、別の設計にしたものをリサイクルにするのが自然だ。
 素人のアホな思い込みが、現実も事実もしらない人の思いつきが、なぜ法律になってしまうのだろうか。



2007年10月20日

ヒトデはクモよりなぜ強い

オリ・ブラフマン+ロッド・ペクックストローム
日経BP 1800円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 最初は中心なしの組織構成についての本だろうと思った。ヘッドとなるヒトがいないのに、なぜか組織がだすようなアウトプットを出力する集団は結構目につくからだ。
 ただし、社会学の本か、自然科学の本は、ビジネスの本かで着眼点が違うはずだが、購入前はよくわからなかった。

 結果からいうと、この本は自然科学的な現象の説明を試みたあと、ビジネス本へと転化しようして完全にはできなかった感がある。ちょっと宙ぶらりんの読後感だが、内容はわるくない。途中話を膨らませすぎのところがあるので、そういう部分をはしょると本人の主張が分かりやすくでると思う。

 この本で気に入ったところは何点かある。

・社会には中心(リーダー)がいないにもかかわらず、集団として結果を出す人たちがある。その人たちは、中心をもつ通常の集団との争いで勝つことがある。

 → 支配者と奴隷たちとう構図以外にも、人々が集団としてまつまる方法があるのかと興味をもつ。アパッチ族の実例やデジタル音楽ファイルの交換などを例に、そういう組織の耐性について説明があり、実感しやすい。

・リーダーがない集団にリーダーはいないが、触媒となるヒトとイデオロギーは存在する。

 → 共通の価値観を持っており、その場その場で具体的な行動を率先して行う触媒格のヒトがいて、あとの人はその人の行動を真似るという構図である。逆に言えば、この要素がそろえばどのような集団もヒトデになれる。

・リーダーがない集団では、情報は至るところに存在する。情報が整理されていないかわりに、断片的なものは誰でも入手できるし、場所も特定されないでいろいろなところに転がっている。

 → 行動を起こすときには情報が必要。ヒトデタイプでは集団のメンバ個人個人が自主的に行動するので、情報はだれでも入手できるようにばらまかれている必要がある。行動の目的はイデオロギーとして共有されている。

・リーダがない集団が崩壊するのは、その集団に外部からエネルギーを注入されたときである。

 → 外部から資源という形(エネルギーやお金、土地などなんでもよい)がその集団に注入されると、注入ポイントの近くにいる人が「分配」を担うことになる。一人で独占するか、他の誰かに分配することになる資源はその集団のなかで「流れ」を形成する。流れは「幹」と「枝」に分岐していき、末端まで伝わる。もちりん、全員に伝わることはない。この流れに関わる部分が「派閥」になり、幹に近いヒトほど「支配権」が発生する。こうなると、ヒトデ組織ではなくなる。


 ヒトデかた組織についての記述は聞いたことがある。その原理も生態も所見ではない。しかし、崩壊する理由については初めて知ったし、それで納得した。
 集団が壊れる流は外部からエネルギーが入り込むことだ。もし、集団がその内部から出力を生成するだけだならば、利権は発生しえない。自分たちでつくったものだから。
 
 これは、教訓になる。なんでもそうだが、外部からのエネルギー注入には気をつけること。それは想像性をなくすし、集団を分解するからだ。


2007年10月13日

国家を斬る

佐藤優
同時代社 1143円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 政治にはまったく興味をもたないままこれまでやってきたためか、佐藤さんが語る前提知識のようなものがすっぽり抜けていることに気付く。この人は相当な政治史の知識があるので、一般の人が読んでも多くはピンとこないだろうとは思うだろうことでも、誰でも知っているようなこととして話題に取り上げられている。
 専門セミナーであるからこそのシーンだと思うが、話題についての参考情報として本を挙げることはあまり見られることではないだろう。専門家たちが議論するような場は別だが。
 この本の元になったセミナー?にはどんな人が集まっていたのだろうかと少し興味をもった。普通の人でも、政治に興味を持っている人はいろいろ知っているんだと意外に思った。同時に、それを持っていない自分に対して、おれってダメなぁと反省してしまう気分になった。

 この本の内容は、官僚組織っておかしなことを平気でやっているんだなぁという話があふれている。現代人で頭がいいと言われている人たちでも、せっかく現在に生まれたのにこんな人にしかなれないんだなぁという、絶望を感じる。
 そういうひととのかかわり合いをなるべくゼロにして生きていくことは、道端に落ちている犬のうんこを踏まないように歩くのと同じような気分でいくよりないだろう。
 そういう、一種の覚悟をせまってくるようなことをこの本は教えてくれる。日本ってのはくだらないところだ。そんなところでも、一部の人は日本を世界の舞台に持ち上げてくれた。それは軌跡だな。自動車や半導体などを築いた人をまつる神社でもつくったほうがいいだろうな。

2007年10月 7日

騙されるニッポン

ベンジャミン・フルフォード
青春新書 730円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 陰謀説という言葉でフルフォードさんの本を封じる人がいる。普通の人には知り得ないことばかりで、不安な未来が描かれるような話は都市伝説ということで丸め込まれてしまう。
 しかし、全部が全部陰謀説や都市伝説なのではない。言霊に憑かれていない人ならば、たとえおかしなマスコミのだす情報であっても、断片的に組み合わせることで知り得ないことを知ることができる。
 大事なことはすべてプラウダに書いてあったと解説してくれた佐藤優のような視点があれば、日本でも同じようなことが可能なはずだ。

 フルフォードさんの主張はちょっと別の記事当たれば確認できるものがある。911の問題や不良債権の問題などもそうだった。現時点で日本はまだアルゼンチンタンゴを踊ってはいないが、だからといって「あれはでだまった」とうもう「すーぺー(超悲観的)」だとも思えない。

 こういう人が本を出版できるのは、外国人だからであろうと思っていた。ところが、フルフォードは古歩道と書くのが正式な日本人になってしまった。今後、こういう本を出版しづけられるのか不安ではある。

環境問題はなぜウソがまかり通るのか2

武田邦彦
洋泉社 952円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 さすがに1がうれたので続編が出版された。中だるみが多いかなと思ったけど、すこし切り口が違っている説明だったし、明解な論理と根拠による論証は読んでいて気持ちが良い。
 「自分は理科系でよかった。」と思わせてくれる本だ。

 ペットボトルの再使用は困難だしコストがかかる。温暖化による海水面上昇など対したことないし、森林うんぬんは視点がちがった議論になっていることがよくわかる。巻末に池田清彦さんとの対談があり、マスコミと役人とのおかしな行動についての話を読むと少しブルーになる。

 PETボトルの再生のイメージとして金属と同じに考えていたときがある。溶かせば元通りになると。多少の不純物なら簡単に取り除けるのだろうと。でも、よくよく考えると、PETは無理だ。高重合化合物が簡単にできるはずない。となると、材料の精練に偉くコストがかる。
 実際は、トラックで運んでくることや溶かすという工程の段階で、新しくPETボトルを作ったほうがエネルギー的にはとくなのだそうだ。都心ですらそうなのだから、東京以外ではそもそも輸送の段階で採算が合わないらしい。

 環境問題を推進する人たちは、戦争中の大本営と同じことを普通の人も一緒になってやっているわけだ。分けがわからないで環境問題を推進する人は、非国民と連呼していた人と同じということだ。

 そういう基本的なことをきちんと説明してくれている。もし、まともな環境問題推進をする気があるならば、この本の論点になっているところを自分たちなりに考えて結論付けたほうがよい。それでもやる、と結論するならばそれはその人たちの結論だから仕方ない。
 実際は「言霊」問題がるから、「そんな発言はするな、みんな一所懸命やっているのだから」と言って、バカが推進させるだけなんだろうけど。

 そう言えば、最近ゴミ回収の決まりが変わって、ほとんどのプラスティックゴミは「燃えるゴミ」になった。あれだけ分別回収を強制していたくせに、役人どもはしれっとやる。だったら、プラスティックとしてPETも追加すれば、おかしなPETボトル騒動も終焉するのに。

言霊

井沢元彦
祥伝社 NON POCHETTE 480円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 なんだかよく分からなかったことがあるキーワードによって真っ青な空のように理解できることがある。それを「補助線」という比喩をつかう。
 日本の普通の生活において、マスコミやら世間やらにおけるタブーの根源をこの言葉で理解することができる。それが「言霊」である。言った事は現実化する。いや、言わないよりも言ったときの方が現実化する可能性が高くなる。
 幽霊だの宇宙人だのに興味を持たない人でも、言ったら現実化する可能性が、全く無視するよりも高くなるような気がするというような「感覚」はもっているのではないか。ばりばりの理科系だと本人は思っている私ですら、「言霊」の意味を知るまでは思っていた。

 だから、日本史では不可解なことがおきるし、日本軍はおかしなことをするし、いまでもマスコミや役所はおかしなことをする。口する、発表する、そういうことはつねに「現実化するかもしれない」というタブーに近い感覚を共有している日本では、言葉にできない。いまでも言霊が生きている。
 山本七平のとく日本教や員数主義、あるいは三島由紀夫が主張していた内容とその結末が井沢さんの補助線でよくわかった。

 一つの補助線を見つけると、今後似たような問題に接することがあれば、まずは使ってみるほうがよい。新聞のたて吊り広告もこの補助線でいろいろ楽しめるので今からワクワクする。

2007年7月11日

国家の崩壊

佐藤優
にんげん出版 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 ロングインタビューと研究会での講演を整理し、ソ連崩壊の様子を佐藤優の視点から再構成したもの。聞き手に答える形での話だから自ら何を語るかの外枠を規定していない。だから、話の運び方は聞き手の考えにも影響されているところがあるだろう。また、本書で紹介されるトピックは別の本でも紹介されているものもある。けれどそれを読むのもまたよい。別の本で登場したキャラについての言及にほっとする(もっと詳しいことを別の本で読んだぞ、という安心感)ので、暗い話であるのだけど全体を通して読むのを楽しくしてくれる。

 本書を読んでいて、へぇと思った細かい知識をいくつかあげる。


 それから、チェチェンには、独特の「血の報復の掟」があるんです。チェチェンでは、子供が生まれると、男の子だけですが、七代前までの名前を全部暗記させるんです。それから、どこで生まれてどこで死んだのかということも全部暗記させるんです。そして、もし祖先の七代まえまでのうちに殺された人がいたら、誰に殺されたかも同時に暗記させるんです。それで、殺した奴の七代前までの報復をしなければいけないのです。殺したほうの家の男系七代に渡ってそれは続くんです。そういう「血の報復の掟」があります。これは今でも厳しく守られています。仇討ちの旅に出なければならないんです。そうじゃないと一族が許してくれない。

 なるほどチェチェンは怖いところだ。数年前、チェチェン人が立てこもった劇場にロシア軍が突入した事件の映像を思い出した。「なんでロシア軍は覆面しているのだろうか?」と疑問に思ったのだが、これが原因か。顔から身元がわれると七代に渡って報復を恐れないといけないから覆面をしていいたのかもしれない。こういう実際問題教科書に載せられない知識が国際ニュースをみるときに手がかりを与えてくれる。
 となると、チェチェンでは殺人事件はすくないだろう。リスクが大きすぎる。交通事故やケガでもおなじ掟が適用されるのか。よくわからない。

 あるいはこんなもの。


 ブレジネフ時代を通じてずっとあった「明日は今日より良くなるかどうか分からないけれど、悪くなる事は絶対ない」という関係、それを信じていい状態が崩れたこと、明日は悪くなるかもしれない、いやきっと悪くなるに違いない、という不安こそが、この物不足パニックの背景にあったと思うのです。

 ブレジネフ時代といえば行列の映像を思い出すが、ゴルバチョフ時代はそもそも別の意味で物がなくなった。ロシアではウォッカ、タバコ、じゃがいも、といったものに政府が手を付けてはいけないそうだ。これが出回らなくると確実に暴動がおきるそうだ。ゴルバチョフはそれをやってしまったので、人々の不満は高まるばかりになったことが崩壊の原因の一つだったということだ。
 これって、人が「幸福ってなんだ」を考えるよすがになる。どんな状態でも明日はよくなる、と思えれば結構やっていけるもの。逆にどんなに恵まれた環境にいても明日は良くならないと思ってしまったら幸せとはほど遠いものになる。

 それはさておき、「聞き手」の発想には「もう一つ」を感じた。「リーダーがアホだと国は崩壊する」などとまとめてとして言っている。このての発言には全く意味がないと知らないのだろうか。なぜなら、リーダーがアホでも滅びなかった国はたくさんあるし、そもそもこの手の発言は「後知恵」だから。過ぎた後なら「なぜ気付かなかったのか」といくらでもいえる。聞き手は全くそう考えていないようだ。この手の本を読むと、聞き手と佐藤優には越えられない壁があるように感じる。自分はこの聞き手のような「頭のいい人の尻馬に乗ろうとして馬脚を現してしまう発言」はしたくないとつくづく反省する。


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2007年7月10日

国家の自縛

佐藤優
産経新聞社 1500円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 インタビュー記事をまとめている。ロシアや国家、外交についての考え方を語っている。『国家の罠』と同時代のものなので、その本ではよく分からなかったかもしれないことを補ってくれている。インタビューアーもその道の人なので、素人の私でも全体をつかめることができたと思わせてくれる。

 佐藤優の発言には感心する。それは、一貫した発言の裏にはきちんとした論理・価値が構築されていいること。この人の発言や行動はそれにしたがってのものであると確認できるので、あった事もない人だけど「この人の話は聞いておく価値はある。他では聞けないだろうか」と思ってしまう。行動原理が明確でぶれない人は誰であっても尊敬してしまう。若い頃から深く思索してきた人なのだろうか。神学が専門なのだから、本を読んだり考えたりという大学生活だったのだろうか。この本にも同志社の頃の話が少しでていたが、現代の理工系の研究室しから知らない私には想像しがたいので、結局どういう生活だったのかはわからない。

 佐藤さんはことあるごとに「国益」という。外交官なのだからそうだろう。ただし、本心からそういう発言がでているのだろうか。

 チェコ人ができる時にはドイツ人を敵とする、「敵のイメージ」があり、ポーランド人が形成される時にはロシア人を敵とする、「敵のイメージ」があるんです。ロシア人がロシア人だという意識を草の根から持つのはナポレオン軍との戦争を描いたトルストイの『戦争と平和』が流行ってからです。ロシアではナポレオン戦争を祖国戦争と呼び、第二次世界大戦を大祖国戦争というんですね。「敵のイメージ」ができることによって民族ってできてくるんですよ。  中国で今回初めて、内陸部を含めて本格的な産業化、近代化が始まった。その中で日本は「敵のイメージ」を付与されてしまっているように私には見えます。だから中国との関係はなかなか良くならない。

 外交官ならば、他国と接しているわけだから日本を意識する。相手がODA援助対象国でないなら、常に駆け引きがあり失敗して日本が損することになった経験をもつ人も多いだろう。となると、それがきっかけで「国」を意識する。日本で普通に生活しているかぎり、敵のイメージは外国にはならない。それは競合組織か同じ組織の上司、部下、同僚、あるいは恋敵くらいものであろう。だから、間違っても国益という発想はない。外交官でつばぜり合いをするくらいに外国とやり合った人ほど「国益」を考えるようになる。となる、まるでドメスティックな人の口からでる「国益」ほど怪しいものはない。それが、政治家かなり役人なりマスコミなりの発言を評価をするリトマス試験紙になりうる。

 しかし、この本を読んだ役立つことは日々の生活ではほとんどない。それであっても、なにか勉強した気がするので佐藤優の本が好きなのだ。



2007年4月21日

医原病

近藤誠
講談社α新書 780円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 近藤先生の別の本を読んでみたところ、これもまた衝撃的な内容であった。医療は、とくに現代医学は、本当にどこまで役に立ってきたのかというデータをつかった説明を展開してくれる。なるほど、治る病気は治っているし、治らない病気は結局医療とてあやまり役に立っていないのだ。

 この本で特に注目したのは「予防注射、ワクチン」や「特効薬」と言われるものの効果である。ポリオや天然痘については、まったくの完全勝利ということだが、それ以外はどうであろうか? 結核だって、ジフテリアだって、はしかだって、対して効果が実はないのだ。ともあれ、この本の41ページの図だけは、立ち読みでいいので覗いてみる価値がある。

 要するに、医療をかいかぶるな。そういう警告である。医者や医療関係の人がそんなことを言うはずは決してない。直接当事者でない国なども同じ。大きな人口というのは、彼らから見れば肥沃な畑なのだ。まぁ、そんなネガティブなメッセージもあるようです。もちろん医療にはプラスもマイナスもあるのでしょうけど、そのあたりをちゃんと「認識」するのに良い一冊ですね。


2007年4月17日

グローバル経済と現代奴隷制

ケビン・ベイルズ
凱風社 2500円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 奴隷制って、現代もあるんだ。そんなかたちで。そうなんだ。なんだ、人類って決してシンポしているわけではないのか。

 絶望的な生活環境にいるだけならば奴隷とはいいませんよね。そうではなくて、基本は他人に人生を支配される、それも完璧に。そして、夢なんてそもそもなく、あっても仲間内で「長」になるくらい。それが奴隷でしょう。その状態を自らの働きによって「終わらせることができない」状態。そういったものが、グローバル経済のなかでかなり増えてきているというレポートになっています。

 結局、人口が多いと人の命の価値が下がってしまう。需要と供給なんだということです。人件費が安いから、東南アジアや南米、アフリカ、インドに工場を出す。でも、なんで人件費が安いのかといえば最悪な労働を「只」でやる人が沢山いるからです。物価が安いから、その国の人たちもそれなりに幸せなんだろう、と思いがちですが、そうではない。単に、奴隷として働いている人がいるから、燃料の炭が、レンガが只同然で手にはいり、それをもとに工場が操業でき、・・・という連鎖がある。そういうことなんです。

 人は2万年くらいは体の作りは変わっていないそうです。それなのに過去には沢山奴隷がいて、勝手な王様がいて、本の一握りの人しか「楽しんでいない」という状況があったのに、今はそうではないのだろうか。そう疑問に思っていましたが、なんてことはない変わっていないのです。ただし、それは水面下で広がっている。だれも人のダークサイドを見たくないから。それなのに、この著者はフィールドワークをやってのけます。

 安い商品が本当によいのか。ちょっと、手を止めて考えてみる。何ができるのだろうかと。考えるだけではダメなんですけどね。


2007年4月10日

環境問題はなぜウソがまかり通るのか

武田邦彦
洋泉社 1000円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 言い本です。でも、絶対にメジャーになることはないでしょう。なぜならば、この本を取り上げて評判にする理由がマスコミにはないからです。どんなに良い本もマーケティングがダメなら売れません。良い物が良いから売れるのというわけではないのと同じですね。

 平易に書かれた分かりやすい本です。環境問題は政府の張ったりだ。それは知っていましたが、ペットボトルの回収、あるいは、分別ゴミもそうだったとは知りませんでした。ペットボトルを回収してリサイクルするという行為は、1)実はリサイクルされていない(リサイクル業者の実体は裁断して焼却処分しているのだが、役所はその内容を無視して「リサイクルされた」とカウントしているそうです)、2)無理にリサイクルすると余計なエネルギーがかかりかえって環境に悪い(プラスティックは結局溶かして原料に近い形にしてから使うので、そうするためのエネルギー(石油)の方がそのまま作るときの石油よりも多くかかるそうですね)のどちらかだそうです。それに、ペットボトルごときをどうにかしたところで、車社会からみれば「屁」見たいなものだとか。エネルギー消費の全体枠を把握した後で、個々の要素の影響を考えれば「その行為がどれだけ大切か」が分かりますが、この本はまさにそれをやってくれます。

 基本は政治なんですね。環境ではないのか。まぁ、これが人間の社会ですから周りの人をバカにしても仕方ないですけど、私は彼らと一緒になることはしたくないですね。

2006年12月30日

パレオマニア

池澤夏樹
集英社 2500円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 大英博物館をめぐると気になる展示品を見つける。そのいくつかを選び、それが発掘・収集された場所へ旅する。展示品となっている物の誕生をめぐる歴史・地域・文化について思索する。不思議なエッセイです。教養の誇示ではない。著者の思いが空まわりすることもない。歴史的文化的な視点で「物」を見つめる方法を著者自ら示してくれている。そんな思索は、大げさな表現かもしれないが、理想的な哲学することに思える。

 45歳くらいまでに、この著者の発見した思索の旅を私も実践してみよう。その頃にはイラクも落ち着いていて欲しい。シュメールの遺跡が見たいから。パキスタンも落ち着いていてほしい。インダスの遺跡が見たいから。ずいぶんと個人的な要望だけど、早いとこ紛争が小康状態になってほしい。そして、紛争が昔話になってほしいですね。切実に思います。

 3ヶ月ほど仕事の都合でロンドン近郊に滞在する幸運を得た。週末は大英博物館に通うつもり。この本は、その意味でも参考になった。

2006年12月 2日

イギリス式人生

黒岩徹
岩波新書 630円
お勧め指数 □■■■■ (1)

 イギリス式というが、内容はイギリスの話ではなく、日本の政治家・官僚批判である。自分は安全なところにいて、それで知識人として批判するというタイプの愚痴ばかり。こういう事を言う人って、大抵「新聞記者」なんだけどなぁと思って著者略歴をみたら、新聞社の特派員だった。なーんだ。読まないでよい本である。☆一つなのは、極たまにイギリスの慣習がかいてあったから。

世界の歴史 <7>

J. M. ロバーツ
創元社 2400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 革命の時代。産業革命、フランス革命、名誉革命、7月革命、5月革命、ロシア革命・・・とタイトルだけは知っているのだが、その内容は怪しい。世界史はジェームスなんちゃらとか、どうでもいいやと思っていた高校生だった私は、ナポレオンすら辞書の逸話しかしらない。

 産業革命がなぜイギリスで起き、その後うまくいったのは「それ以前の準備」にあるとうこだ。なぜ、日本で明治維新後の急速な近代化が成功したと同じで、目立つルールを持ち込んだから成功したのではない、ということ同じようである。こういう話を書いてくれるロバーツ先生、司馬遼太郎さんのような「語り部」の要素を持っていますね。

 この巻では、ルネッサンス以後のヨーロッパの国の再編、産業の発達による経済効果の変化、および、アメリカ大陸での動きなどが書かれていて、それが「出来事の記載」ではないので、電車の中でも面白く読める。産業革命期の記述は「わくわく」してしまう。

 中世後、ヨーロッパの農奴たちは悲惨な生活だった。しかし、産業革命が起きても、農奴から開放された人が都市のスラムでの生活を余儀なくされ、これまで悲惨。時代の動きと関係なく、悲惨さ生活をする人はいつまでも悲惨の生活をするようで、なんとかならんものあろうかと偉大な思想家でなくても考えてしまう。

2006年11月28日

世界の歴史 <6>

J. M. ロバーツ
創元社 2400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 このシリーズはとても面白い。日本人の大学教授さんたちが編纂した教科書に「面白いものは存在しない」のはなぜだろうとつくづく思う。山川の教科書を読んで歴史に興味を持つ人はいないでしょう。ちゃんと世界を探せば、バランスがとれた「読ませる」教科書が存在しているのですね。高いけど、質が高いです。

 この巻は、世界史が「結合」していく過程を扱っています。大航海時代、という言葉でくくられる時代。それぞれの地域がそれぞれの歴史をたどっていた時期は過ぎ、どの地域も互いに影響しあうようになる。それは航海術、貿易、武器、領土拡張などだが、世界中に伝搬していく過程。今までと違うのは、影響が自分に短時間で跳ね返ってくるというところにあるようです。

 そういうダイナミックな状態を綺麗な図をつかって説明してくれる。こんな教科書をまともにとりあつかっていたら高校生は世界は受講する、きっと。

2006年11月23日

イギリス式生活術

黒岩徹
岩波新書 700円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 イギリスについていろいろ知る必要ができたので、とりあえず手にした本である。岩波新書だから、まぁ、大丈夫だろうと。最近いろいろ新書シリーズがでているが調べものをする取っ掛かりになる新書というのは、岩波、中公、講談社くらいなものである。あとは、無理やりネタにしているものがおおく、消えていくだろうなぁとこういうときにしみじみ思う。

 イギリスではこうしましょう、こうしてはダメ。こんなことに気をつけましょう。まぁ、そういう事を知りたいのだが、この本の前半1/3はそれに答えてくれた。内容も書きかたもちょうどよい。面白いなぁと思っていたところ、残りはダメでああった。要するに内容がイギリスの話ではなく、ただのエッセイなのである。世界中の時事ネタ。各章の書き出しはイギリスについてなのだが、1段落以後は世界の話になってしまう。

 ちょっと失敗したが、この著者の本はもっと以前の本を当たってみたほうがいいかもしれない。

2006年11月11日

日本のマスコミ「臆病」の構造

ベンジャミン・フルフォード
宝島社文庫: 600円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 マスコミの実業についての紹介。記者クラブにいて、そこに投げ込まれる記事や張り出しの記事、あるいは、記者会見が「取材」であり、その要約を文章にまとめることが実際やっていることだということがよく分かる。当然、政や官、闇の権力にやすやす取り込まれ、取材結果は「都合のよい物語」になっていく。その鬱憤は、政や官、闇の権力ではない方向に向けられるという、毎日目にする光景へとつながっていく。変な正義感などもたずに読むと「なるほどなぁ」と理解できる。とても良い本である。当然、宝島からの出版になる。

 給料がよければ余計なことはしないだろうし、かといって、意味ないところで力を発揮させるマスコミの力学がよくわかる。それを是正するなどということはおこがましく、そうやってその環境で生きていくかによるのだ。新聞やTVは電通だと思えば腹も立たないだろう。

 この本のなかで、著者は面白い視点を提供している。マスコミの力学を理解すれば、信用できる情報ソースは、右翼街宣車、週刊誌、雑誌、新聞・テレビ、NHKなのだそうだ。なるほど。本当のことを隠す作業をしている人にとって、本当のことを言われると一番堪える。そういうことなのだろう。こんど街で遭遇したら、ちょっと聞いてみるか、という気になる。

 それにしても、人は情報よりも「物語」しかも「勧善懲悪」の物語が好きなんだなぁ。世の中にそんなものは起きないことを身とめれば、大抵のマスコミのニュースは「物語になるように」構成されていることに気付く。つまらなかったり、断片だったりする記事をいかにうまく取り込んでいくのかが、世の中での身のこなしになっていくのだろうか。

2006年10月22日

インディアスの破壊についての簡潔な報告

ラス・カサス
岩波文庫(青427-1)560円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 南米アメリカに対するスペイン人が行った虐殺についての客観的な報告書。映画や小説よりも「怖い人」が歴史上たくさんいたし、そして今でもそういう人がたくさんいるのだろうなぁと想像さてくれます。コロンブスが新大陸を発見したあと、当然だが現地を探査し、領土を獲得、資源を搾取、原住民を抹殺あるいは奴隷化するというのは、人類史が記録されるまえからあったのかもしれません。とはいえ、ルネッサンスと呼ばれる時代においても、平気でヨーロッパ人はやっていたんですねぇ。キリスト教徒でなければ人殺しをしても平気だったはずのキリスト教司教バルトロメー・ラス・カサスという人が、スペイン人が行う虐殺行為があまりにもひどいので、スペイン王になんとか止めてもらいたいという動機でつづった報告書がこの本です。

 それにしても、高度な文明があったインカ、アステカは数少ないスペイン人に言いように殺戮されちゃいました。現地の人はスペイン人に食料供給などもてなしをしたうえでの殺戮ですから、まぁ、スペイン人が言い悪いというより、そういう考え方をもった人類なんでしょうね。同じようなことは、北米大陸においてのインディオについてもアングロ族、サクソン族が行っていますから、まぁ、ゲルマン族、ゴート族など「蛮族」とくくられる人は、現在でも洋服を脱げば何も変わっていないのでしょうね。おおこわ。

 ただし、結局のところ、武器がないから言いように滅ぼされたインカ・アステカから何を学べばいいのでしょうか、私たちは。マキャベッリの言う通りなのかなぁ。歴史において殺戮の実積がある人たちと付き合うときには、「ハードウエアの人間としては2万年変化していない。おそらく、同じ状態になれば、同じ行動をとる」ということを忘れないようにしておいたほうがいいですね。

2006年10月21日

9・11テロ捏造―日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ

ベンジャミン・フルフォード
徳間書店 1680円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 先日、中国経済の実体についての本を読んで、なーんだ結構いい加減だなぁ、と気分が軽くなる気がしたのだが、一方アメリカの方を読むと気分が暗ーくなる。日本の隣人も参ったものだが、日本がすり寄っている国も参ったものなんだなぁ。”とかくこの世は生きにくい”ということなのだろう。

 ベンジャミン フルフォードさんは、官僚の実体についてずいぶんとちゃんとした本を書いている。日本人が書いたら消されちゃうような内容だけど、カナダ人が書いているから嫌がらせぐらいで済んでいるのだろう。だから、何冊か読んで「実体的には良くかけてるの」と思ったのだ。今度はアメリカについての本。あぁ、気付かなかったなぁ。マイケル・ムーアの方は「困った人がアメリカを混乱させている」という、どちらかといえばコメディーを感じたのだが、フルフォードは、「やり場のない絶望感」を感じ、ため息がでてしまう。

 あらゆることで言えることだが、国の性格とそれを個性する個人の性格とは大分違ったものになる。国の性格というのは、とくに意識的な性格というのは、代表者のキャラクターに過ぎない。何億もの人口がいたら、もっとばらばらなもので、いい人もいっぱいいるし、嫌な人もいっぱいるのだ。単に、たまたま見えている人々の性格が、国の性格になる。アメリカでも、中国でも、官僚でも全部同じである。だから、「国を嫌う」という発想はばかげている。

 陰謀説って、世の中には流布しやすいけど、少し時間がたてば「ばれる」もの。この本の内容は、時間がたったあとに浮かび上がってきたもの。私思うのだけど、人類のシンポを一番左右するのは「報道」なんだろうなぁ。政治力が働かない、たんたんとした報道を整理することができればいい。google newsのようなものを駆使し、小さいけど、大手新聞の発表と矛盾するものを準備できれば、せっかくの人生つまんないことにふりまわされないようになるのだろう。

2006年10月15日

「俺様国家」中国の大経済

山本一郎
文春新書 790円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 なんだ、中国の実体って、そんなものだったのか! 大前研一さんの本ばかり読んでいたので、もっと驚異的なものだと思っていたが、あの経済成長率の数値さえ「テキトー」という状態だったのか。いろいろな面からみて中国の経済ポテンシャルは高いのだろうけど、それも「絶対」というレベルではなく、いろんな要素をかんがみないと単純な「経済大発展」という現象が継続することにはならないのか。もちろん、希望的観測からいうのではなく、「大発展しても、大失敗しても、日本はそのときのために備えて手を打っていかないと、えらい巻き添えを食う」ということで、楽観視するような本ではないです。読んで安心した、というよりも、読んでなお一層中国については考慮しておく必要があるなぁと思わせてくれます。

 この本、よくも悪くも「切り込み隊長」です。そこが好きだから買ったのだけど、さすがに内容もちゃんとしていて、ますます山本さんに興味を持ちました。もうちょっと別の本、ブログを除いてみようと思います。

2006年10月 8日

驕れる白人と闘うための日本近代史

松原久子
文芸春秋 1600円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 かなり珍しい本である。率直に言えば、近代の西洋社会がやってきたことなど「とんでもない悪どいことなのだ」ということを教えてくれる。そして、江戸期の日本社会は、動じたいの世界と比較して、決して「おかしな、未開の」生き方をしていたのではなく、むしろ、高度なそして平和な社会を築いていたのだということを教えてくれる。そして、この本の作者は、ずっとドイツ、ひいてはヨーロッパ社会の論壇で日本を語ってきた人で、その思考の論理性から尊敬を受けているのである。

 近代史は、学校の歴史教育のなかではほとんど扱われない。古代から学習を始めるから、大抵そこまで授業が到達しないで試験期間になったり、戦争責任の問題を「陽」に扱うことを入試も教師もさけるからでしょう。私も知りません、自分で読んで仕入れた知識以外は。そういう意味で、せめて江戸時代末期のアジアの歴史を知っておくといいですよね。アヘン戦争なんて、だれもが中国に同情するし、現在の中国がなぜ世界に向けてそういう態度をとるのかよく分かりますしね。

 我が身を知る上で、読んでおくと良い本です。司馬遼太郎さんはこの本の視点ではあまり発言をしなかったしね。

2006年7月16日

神々の世界(上・下)

グラハム・ハンコック
小学館 各1900円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 読んでいて、久々に興奮する本でした。「シューメールと日本には繋がりがあった」というような、くそトンデモ本とは違い、ちゃんとしか考察と引用文献、それと識者との議論がかかれいて、十分知的な本です。ハンコックを悪く言う人は多いようですが、ある程度自分でものを考えた経験のある人ならば、彼の本は「読む価値がある」と思えるはずです。

 思いつきはとんでもないけど、その後仮説を明文化し、それを証明するための証拠や過去の研究を探すところは在野の作家にはない態度です。とくに、過去の文献、論文を調べて、その文献のキーマンとなる人とあって話を聞く、自分の意見を聞いてもらう、話が平行線になってもその状態を認めるという態度は学生さんに見習って欲しいところです。ハンコックの切で弱いと思う態度は、自分に不利な証拠がでてきたら、それを「全部」明示するというところでしょう。この本では、それが完全にはなされていないようですが、学術レベルに高めるときにそれがネックになるでしょう。ただし、いかなる研究であっても、そもそもは「思いつき」が動機であるし、それがこれまでの常識を覆すものであれば素晴らしい研究のテーマになるものであって、素晴らしい研究者であるにはそのようなテーマを見つける能力にあるわけですから、ハンコックの発想は十分評価させるべきです。私は研究者として、そう思います。

 さて、内容ですが、結構衝撃的です。1万年くらい昔に海に沈んだ場所に、人口の巨石文明の跡がある。それも、多くのところで見つかっている。さらに、その場所を記した古い地図には、その場所の氷河期の終わりのころの地形が示されているというものです。この場所を著者が赴き、調査し、研究者と仮説をぶつけ合う。つまんないミステリーよりもはるかに面白いです。

2006年7月 6日

君子の交わり、小人の交わり

養老孟司, 王敏
中公新書ラクレ 700円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 養老孟司さんの対談集。今度は中国について。中国出身の日本文学研究者である王さんと現代の中国について話しあうというものです。中国の政治を議論してもしょうがないのですが、そこは養老先生のことです、政治議論にはなりません。中国語には「冠詞」がないことから、抽象と具象の違いをどう表現するのか? その違いがないから、「日本人が悪い」などという抽象と具象との違いをかんがみない行動になってしまうのではないか? というような話が展開されます。

 興味を持ったのは日本文学についての話。本の内容とは直接関係ないのだけど、村上春樹への言及が面白かった。曰く、あの人の作品には「日本の土俗性が全く感じられない」というもの。だからこそ、世界で受け入れられるのだと。なるほど。そうかもしれない。王さんが日本文学の研究者だからでしょうけど、中国の人と日本の人の「考えの背景」にあるものの違いを知ることで、それぞれの文学の違いについて知ることができました。

2006年7月 2日

神仏のすみか

梅原猛, 中沢新一, 松井孝典, 日高敏隆
角川出版 1800円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 梅原猛さんの対談集。テーマは、まぁ、人間や宗教。それ以外のものを選べってのは無理な話かもしれない。哲学者として、科学者として、対談相手の人との共通な関心を語り合うという対談集的な対談集。意外性はないようです。

 梅原猛先生はもう80歳だというのに、まだ多くの本を書きたいようで、ずいぶんとエネルギッシュな方です。私のような門外漢の人間が読んでも、なるほどなぁ、という発言をされているので、私は学ぶことが多いので対談集もなるべく読むようにしている。この本は、対談相手の人それぞれに興味をもっているので読んでみた。

 アイヌ文化は縄文文化を残している。言葉も含めて。だから、日本語の起源について調べるとき、アイヌ語は重要になる。そういう意味の主張を梅原先生はしている。なるほどなぁと思う。
 松井先生、日高先生との対談は、正直かみ合っていないような気がする。どちらかがしゃべりすぎるか、説明しすぎるかで、展開がない。なので、全体を通しては、いまいちな感がある本である。

2006年7月 1日

男女の怪

養老孟司, 阿川佐和子
大和書房 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 男女関係を含めた人についての対談。「おとことおんな」を「おすとめす」という見方をすると、なんとも人間関係がよくわかるものだなぁと気付かされる。無理のないように話を自然に引き出す阿川さんはうまいものである。人間というのは「ふかいもの」というような解釈を文学や哲学ではしたがるようにみえるけど、養老さんにかかれば「必要以上に複雑なこと」のような気になるのが不思議である。生きているとは?と死ぬほど考えるよりも、自分を生物としてばっさり考えてしまうほうがわかりやすい。

2006年6月29日

ローマから日本が見える

塩野七生
集英社インターナショナル 1300円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 読むのは3回目である。ローマに向かう飛行で読む塩野七生は絶品である。狭い機内だが、楽しみが詰まっている時間。たっぷりある時間に、塩野七生を読みながらローマで過ごす日々。これは、私が想像しうる極上の時間である。

 この本はローマ人の物語の前半部分のダイジェストのようなものである。ただし、本人は「絶対に要約できない」といっているローマ人の物語なので、私自身の感想でしかない評価ではあるが。ローマ建国から五賢帝の時代までの「リーダー」となる人について語っている。それも、ただ賛美するだけではなく、「なぜそうなったのか、どういう状態でか」という問いを望ながら答えてくれる本なのである。人間世界において、日の下に新しきものなし、であるのだからビジネス書などを読むよりも、私は現代社会が見えてくるような気がする。

2006年6月 8日

「みんなの意見」は案外正しい

ジェームズ・スロウィッキー
角川書店: 1600円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ある問題について、多様な人の意見を集計すると、大体妥当な答えになる。人が思うほど、衆愚というものは存在しないのだ。ちょっと面白い始点の話を、きちんと解説している珍しい本です。

 衆愚政治という言葉がある。普通の人の意見など、意味がない。頭の良い優れた人の意見に耳を傾けるべきだ。そいういう認識が存在する。いわゆる政治学の問題である。これまで数千年、そんなことを実現しようとがんばってきたようだが、結局一度も成功していないようである。まれに、一時的に目的を達成できそうな状態になっても、コアになる人が死んでしまえば、再び混乱になる。結局、安定して優れた人を排出する機能は人間社会にない。だから、困っている。

 多くの人を集めて意見を集計すると誤った方向にいく。実はこれは「多くの人の質」に問題があるのだ。均質な人をたくさんあつめても、集団思考という状態に入り、事態は悪い方向へと進む。
”意思決定者たちの世界観や考え方が似通っていると、集団思考に陥りがち”
”異なる意見を封じ込めるのではなく、何らかの形で異なる意見が合理的に考えてあり得ないと思わせる。”
”集団に共通している認識と矛盾するような情報は、度外視されたり間違っているとして退けられたりするので、人々は議論を通して自分の考えの正しさをますます確信するようになる。”

まぁ、結局、B29を倒すために竹槍訓練している人にむけて、「竹槍ではB29に届かない」と言わせるかどうかである。

私もよく経験する。頭の良い人の集団ほど、周りがばかだと思っているというシーンは日常茶飯時である。そういうくだらない集団からいかにして逃れるか。これは楽しく生きるために是非とも知っておくコツであろう。みんなの意見は「案外」正しいのである。そういうマインドをもって、人の意見を集計してみる視点を持つのは一つの方法であろう。

2006年2月24日

1940年体制 さらば戦時経済

野口悠紀雄
東洋経済新報社: 1300円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 日本型の会社というと、終身雇用が思い出される。日々の生活で気になる制度といえば、源泉徴収という仕組み。私は賃貸住宅に住んでいるので、面倒な契約(更新料や礼金、保証人という制度)の不条理さを味わう。こう言ったものは、古くから、といっても対象あたりから?、続いているものだと思っていた。

 この本を読んで、これらの制度は1940年代、つまり、戦争続行のための処置としてはめられたのだと知った。そうだったのか。

”日本型企業や業者行政など、しばしば日本特有と考えられているものは、昔から存在していたのではなく、総力戦遂行という特定の目的のために投入されたものだった。金融もう、自由な市場での直接金融方式から統制的な間接金融に変質した。
 税財政制度もそうである。(中略)。農村の状況も、大きく変わった。江戸時代から継続していた地主と小作人の関係が、食糧管理制度の導入によって本質的に変化を遂げたのである。都市における地主の地位も、「借地・借家法」の強化によって弱体化された。
 制度だけでなく、人々のメンタリティーも変わった。(中略)
 戦後日本社会の特徴といわれる平等主義も、日本社会のもともとの特質とはいえない。日下は、それまでの日本企業では「月給取り」の正社員は少数で、「日給」の行員や職員との間に画然とした差があったこと、「オール月給化」は一九三八年頃からの新しい制度であること、これが従業員のモラル向上二大きく寄与したことを指摘している。
 (中略)現在の日本では、食糧管理制度により、コメの取引は政府管理下におかれている。しかし、江戸時代には、日本のコメ市場は、自由な市場原理の支配する市場であり、世界最大の大規模な先物市場を形成したほどである。”

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2006年2月14日

重大事件に学ぶ「危機管理」

佐々淳行
文春文庫: 505円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 公助、互助、自助。危機管理にも3つのカテゴリーがあるのだが、現在の都市社会で意味があるのは自助である。そういうメッセージがつまっている本である。著者は警察出身。浅間山荘などの高度経済成長期の日本の治安を担当した。今と違い、体を張っていたことが文章から、また具体例から読み取れる。だから、信用できる記述であろう。

 まず、公助は機能しないと考える。阪神淡路の例をみるまでもなく、役人が危機に対応できるとはゆめゆめ思わないほうがよい。彼らは逃げるか命令するかのどちらかで、実質いなくてもよい役職であろう。次に、互助。農村社会や企業城下町ならば機能する仕組みである。阪神のときも、実質意味があったのはこれだ。ただ、東京のようなところでは、そのような概念は存在しない。結局頼れるのは、自助。まさに、これである。できることは限られているが、すくなくとも、自分以外に頼れる人はいないと初めに諦めておこう。そこが、肝心なのだ。


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2005年12月 7日

反社会学の不埒な研究報告

パオロ・マッツァリーノ
二見書房: 1429円
お勧め指数: □□□□■ (4)

"社会問題として語られる論説の多くは、じつは個人的かつ感情的な意見にすぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために、学者のみなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。注意していただきたいのは、意識調査の結果からなんらかの結果を引き出すのではなく、なんらかの予測を裏付けたいがために、ほとんどの意識調査が実施されている点です。"
 久々の新刊。パオロさんの思わず笑ってしまうような指摘は、統計に向いたようである。新聞や報告書で「証拠」として提示される数値がある。事実を示す定量指標を装っているこれらの数値、本当に意味があるのだろうか?

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2005年11月 6日

イスラムの読み方

山本七平・加瀬英明
祥伝社: 1000円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 イスラムとの向き合い方についての対談。新装版になったものらしい。この本で、イスラムについて山本七平の理解を知ることができるかもしれない。ユダヤ教を座標原点として、イスラエルの地勢からはイスラムはとどうみえるのか。その問題設定ならば、私は山本さんの話しをもっとも信頼する。

 イスラムの本音をどうとらえるのか。中東ならば全部イスラムというわけではない。イランはイスラムというよりも「ペルシャ」「パンテア」です。原理に忠実なタイプではなく、本音と建前とが明確にある人々でしょう。

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2005年10月19日

日本人とユダヤ人

イザヤ・ベンダサン
角川ソフィア文庫: 460円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 山本七平の日本教徒論です。文句なしの本です。知識を消化するとは、このような思考活動をさすのでしょう。よく、このような本を著すことができる、とため息がもれます。恐らく、私とは全く別次元の脳を持っているのだとわかります。かなわん。

 ごく普通の日本人がもつ世界に対する認識(いわゆる、常識でしょ?という類い)の勘違いを説明してくれます。そして、ここが類書と違うところですが、「なぜ、そうなるのか」について書かれています。そして、それを日本人が指摘するのではなく、日本人とは別の視点、しかもヨーロッパ世界史からみても「外人」となるユダヤ人の視点から解説している。さらに、、その説明方法はもはや「理系」のそれです。テレビをつければ出演されている「いわゆる評論家」のもつあやふやな「偏見」をベースに語っているのではありません。私は、これが山本学か、と感嘆しました。

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2005年10月14日

新聞・テレビはどこまで病んでいるか

稲垣武
小学館文庫: 476円
お勧めゲージ: □□□□□ (5)

 新聞・テレビの報道を真に受けるとどうなるのか。真実とか不偏報道とか、どの程度のものなのかを検証している。かなりバランスがとれている。普通、このようなタイプの本は、「こんな記事はこの程度のいい加減な根拠、記者の価値観で独善的に書かれている」ということを書いている方法が「いい加減な根拠、著者の価値観で独善的に」書かれているものだ。しかし、この本はちょっと違うようだ。

 朝日・毎日・読売・産経、および、ニュース番組の過去の事例を中心に「なぜだめなのか」をきちんと説明している。取り上げられている内容を読むに、こんなニュースのために金も時間を費やしたくないものだと、心底思う。

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2005年7月 6日

仏教・神道・儒教 集中講座

井沢元彦
徳間書店: 1500円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 仏教・神道・儒教についての解説本。単に知識をまとめてあるのではなく、日本人ならば普通に感じる、あるいは、当たり前のように行動することへの「意識されていない理由」をはっきりさせてくれる。「あぁ、そう自然に感情が沸き起こる理由は、これが原因だったのか」と気づくことができる。

 教科書の内容で暗記したことなんて、ほとんど忘れてしまうのが普通で、それならば生きていくのに必要ないと思ってしまうことが学生の頃の私には多かった。とくに歴史という科目についてそう感じていた。しかし、日々の生活で遭遇する行動の「理由」を知るために勉強するのだということに気づけば、歴史を見直に感じるようになると気がついた。

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2005年7月 1日

タリズマン 上・下

グラハム・ハンコック ロバート・ボーヴァル
竹書房: 各1900円
お勧め指標: □■■■■ (1)

 ハンコックの最新作。今度のテーマはキリスト教カタリ派の流れとフリーメーソン。パリの軸線(町並みのデザインの骨格、道の流れと建物の関係)とルクソールの軸線。

 だだし、記述は冗長(2人で持ちあった原稿に重複があったのだろう)、執拗なまでの参考文献。上下巻で900ページは厚いですね。もっと削れるはずです。本というより、論文を狙ったのでしょうか。しかし、論理は「〜であるかもしえない。」という推定がいつの間にやら事実として変容し、それを根拠に次の説が導かれるという「科学では、やっていはいけない」説得法が多いので、参りました。証拠がない世界の話しだから、科学的な記述は不可能なのは理解できますが、もうちょっと書きようがあるだろう。「神々の指紋」のような切れ味がないので残念です。

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2005年6月29日

誰が文明を創ったか

ウィル・デューランド
PHP: 2500円
お勧め指数: ■■■■■ (0)

 タイトルから想像するほど強い主張がない、たんなる歴史上人物伝。以下にもよきキリスト教の知識人が「あたりまえだろう」といいそうな、オーソドックスな世界史感で選定されている。全体を通して読んでも、章ごとに拾い読みしても、変わらない。

 なんで、こんなにつまんない本なんだろうと不思議に思いました。それは、人物の選定に意外性がなく、また、内容も深くないこと、さらには、キリスト教的世界観の元での「評価」がなされていることでしょう。「ピューリッツァー賞」受賞作家の本という、権威にだまされました。 買う必要全くないです。

2005年6月26日

日本人と「日本病」について

岸田秀+山本七平
文春文庫: 420円
お勧め指標: □□□□■ (4)

 ものぐさ心理学で有名な岸田さんと山本さんの対談集。古代 ローマの話しに痛く感心したメモを書いた後で、


 ”どんな国家でも、その国民一般の平均水準以上の指導者を持つことはできないんですよ。たまたまその水準を抜きん出た賢明な指導者がいて、国が間違った道にはまりはまり込もうとしているのに気づいて押しとどめようとしたら、暗殺されるか、暗殺されないまでも失脚させられます。そして国民は、国民の気に喰わぬことをしようとした者が暗殺されたことを拍手喝采して喜ぶでしょう。”

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2005年6月22日

もう牛を食べても安心か

福岡伸一
文春新書: 720円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 狂牛病とはなにか。何が問題なのか。病気の背景の小史と現在の病気の解明正体を説明する。また、全頭検査による輸入制限は「正解だった」という主張の説明がある。さらに、「消化という現象はエネルギーを得るという側面と他の生物のもっていた情報を破壊するという側面がある」という見方を紹介している。

 まさに新書。読み安さと内容のレベルのバランスがとれている。私はこういう新書をもっと読みたいです。日々の生活のなかで世界を見る違う視点が得られたからです。

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2005年5月21日

存亡の条件

山本七平
講談社学術文庫: 340円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ある民族が勃興し、衰退し、滅亡する。人類史では繰り返し起きる当たり前の現象である。この現象をユダヤの歴史をもとに、日本の戦前戦中の社会の動きを考察したのが本書である。文明衰亡の解説書。

 太平洋戦争へ突入する前の日本の指導者について「悪口」を書いてあるわけではない。物理化学の現象を解説するように、集団心理のダイナミクスを解説している。非合理的な特徴をもつ人間の集団を合理的であろうとすると組織が崩壊していまうのだが、その解説を歴史的な例を用いて説明している。さらに、人が信仰心をもつ契機とその一つの予想される結果についても書いてある。講談社学術文庫だけあって「通勤電車」で読むには苦労する文章である。読者対象そうのレベルが高く設定しるため気楽に読めないが、その分読みごたえがある。

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2005年5月19日

禁忌の聖書学

山本七平
新潮文庫: 476円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 聖書学についての解説書。といっても、トピックを選択して、それについて解説を加える読み切り文章を6編掲載している。

 以前、R・ドーキンスの著者『虹の解体』のなかで「処女降誕」という話しについて読んだことがある。その話しができた原因は誤訳にある。若い女というヘブライ語をギリシャ語に翻訳したとき処女という単語を当ててしまった。それが世界が混乱する一つの原因を作ったというものだった。

 山本七平さんも同じトピックについて解説しているが、数段分かりやすい。アールマーというヘブライ語をパルテノスというギリシャ語にあてた誤訳があるそうだ。ヘブライ語での処女は別の単語があり、ギリシャ語のパルテノスは処女という明確な意味がある。したがって、誤訳だということだ。そして、この処女降誕の話しは、皇帝ネロ時代のローマの社会にも関係していた。

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2005年5月17日

「あたりまえ」の研究

山本七平
文春文庫: 340円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 「あたりまえ」と思える時事・社会評論。当たり前といえる基準は感情ではない。人類史を外観した上での現代の日本の基準を通しての評価である。だから、説得力がある。そして、なぜか「あたりまえだろう」と思ってしまうこと(常々疑問に思っていたのだが)に対する違和感について、解き明かしてくれる。


啓蒙主義を権威として受け入れたという伝統はわれわれももっている。「である」と「であらねばならなぬ」の違い、いわば思想・信条の選択権を等しく個人がもつか、同一の思想・信条をもたねばならぬとされるのかは、基本が違う。

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2005年5月14日

聖書の旅

山本七平
文芸春秋社: 2300円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 旧約聖書の世界、つまり現在のイスラエル・シリアの旅行記。ゆく先々の風土を紹介することが目的ではない。ユダヤの歴史をその場所に立ってみて考え、それを随想録としてまとめている。それも、個人的な想いを文章にするのではなく、その場所場所で起きた事件を「ユダヤ史のなかでの意味」を探り、現代にも通じる一つの「知恵」としてまとめている。

 言って見れば、イスラエルでの「街道をゆく」とった感じの本です。著者にある「強烈な量の、かつ体系的にまとめられた、意味づけされたユダヤ史」をもってして、初めて眺められるイスラエルの風景が味わえます。私はこの旅のドライバーでも買って出たいくらい。


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2005年5月 9日

一つの教訓・ユダヤの興亡

山本七平
講談社: 1300円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 ユダヤは世界史の中でも特徴のある歴史を持っている。文字で書かれた記録が残っているおかげで、2−3千年前からの歴史的出来事だけでなく、人々の特性、周りの人々との関係なども調べることができる。

 著者はそこから一つの試みをもってユダヤ史を語っている。それは、現代世界史における日本立場を日本から離れた視点、現代から離れた視点で読み解けないか。そのための補助線としてユダヤの人々の歴史を使ってみようというもの。この本、私にはそう読めました。

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2005年5月 4日

聖書の常識

山本七平
講談社文庫: 450円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 日本ではあまり理解されていない聖書についての解説。古代史や美術史に興味をもつと一番最初の壁になるのは「聖書」の知識である。聖書は旧約が39冊、新訳は27冊の本から構成されている。旧約にしろ新訳にしろ、それを読むためには、それが成立させた人が生きていた自然環境、社会環境、生活様式、価値観をまず知っておく必要がある。でないと、まったくの勘違い的な解釈をすることになるから。

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2005年4月24日

比較文化論の試み

山本七平
講談社学術文庫: 500円
お勧め指数: □□□□■ (4)

 日本とユダヤ教(セム族系の社会?)との違いについて説明している。宗教の説く内容ではなく、その人たちが「何に拠っているのか」の根本を説明しようとしている。違いの原因は何か? どんなものに「聖」を感じるのかという、論理とは別のものにあり、これは説明不可能なものなのだ。それを「知る」ことから議論を進めないといけない。この本はそういう論旨になっている。

 つぎの説明が興味深かった。

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2005年3月18日

世界の「宗教と戦争」講座

井沢元彦
徳間文庫 590円
お勧め指数 ★★★★★

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道、儒教といった宗教についての解説。「世界にも常識がある。それを知っておけ。そして、無宗教だと大抵の人が思っている日本人も、「和」や神道の影響にどっぷり使っていることを気づいて欲しい。」というのが、著書の意図のようだ。

 この本の特徴は、「和」と「神道」を浮かび上がらせること。「言霊」や「ケガレ」という、日本人の無意識のレベルに実装された、気づかないけれど強烈な価値判断基準を世界宗教と比較しているところにある。いつもならが、井沢さんの迫力にたじろいてしまう。

 興味を持ったのは2点。法華経とバイウォーター氏の本について。

 ”日蓮の立場からすると、阿弥陀を信じることも禅も間違いである。禅者がいうように自分の力で救われることなど人間にできるはずがない。法華経だけを信じれば良い。信じるだけでなく、広めなければいけない。それが、大事である。そしてそういうことをやった人間こそが救われる。”
 なんだ、コンセプトは違うが一神教っぽいですね。人の行動は宗教に関わらず収斂するのかもしれない。

 もう一つはバイウォーターさんの本。神道にからみ「言霊」の説明のくだりで引用されている。この内容が私には衝撃的だった。長いけど、引用してみる。
 ”中国に於ける権益問題でアメリカと対立した日本政府は、内政に対する国民の不満をそらす意図もあって、対米開戦を決意する。開戦当初日本は海軍力においてアメリカよりもやや優位にあり、その優位を維持し戦局を有利に展開しようと、海軍はフィリピンに奇襲攻撃を掛けマニラを占領し、西太平洋の制海権を握る。しかし、生産力に勝るアメリカが、海上封鎖による持久戦法を採り、中ソ両国も反日に転じ、戦局は逆転する。そして、艦隊主力をもって行われたヤップ島沖海戦でも日本は敗北し、アメリカはグァム島などの南洋の島々を次々に占領し、日本側守備隊は次々全滅する。そしてマニラも奪回され、この間ソビエトは樺太に侵攻しこれを占領する。中国軍は南満州を支配下に置く。ついに内閣は総辞職する中、アメリカの爆撃機が東京上空に来襲する。ここに至って日本は、アメリカの講和勧告を受託し戦争は終結する。”
 フィリピンがハワイに、ヤップ島沖がレイテやミッドウェーにに変わっただけで。この本は、大正13年に刊行されているのです。はぁ? えつ? 本当?
 馬鹿くさくなりませんか? 一体日本は何をやっていたのかと。日本は神道の「言霊」を信じていますから、口にしたことが実現すると信じます。だから、この本に対して、『アメリカおそるににたらず』という本が出版されベストセラーになったそうです。そうです、バカなんですよ、この国の人。

 言霊を信じることは現実を無視して、なおかつ適切な行動をとらないこと。そう思えます。もちろん、私も無意識だと言霊信仰になっています。日本の歴史はそれなりに長いし、当然私に大きく影響しているでしょうから。ただ、言霊を信じて行動すると、先人の失敗を繰り返してしまうでしょう。マキュアベッリではないが、「天国に行く唯一の方法は、地獄へ通じる道をしることだ」ですから、言霊の影響から逃れないと。

2005年3月 1日

邪馬台国はどこですか?

鯨統一郎
創元推理文庫 700円
★★★★★

 日本の古代についてのミステリー。邪馬台国や聖徳太子などの歴史を解説する。「新・世界七不思議」よりは若干知識が必要かもしれない。しかし、論理を骨格とする話しの構成は感動的なほどである。小説の部分は会話が主体でぱっとしないが、本来は論文や解説として世に出したほうがよいものかもしれないので、この程度でよいのかもしれない。

 多くの専門家の感心がある特定の領域に収斂し、煮詰まっているときに全く新しい方向を提示されると部外者は快感を感じる。煮詰まった世界にいる人は立場がなくなるので嫌だろうけど。科学的であれば、そのジャンプを快感として感じるはずなのだが。

 この小説の態度は、科学よりも工学で有益ではないか。論理的と実践的な態度とは、この小説の主人公「宮田」さんのようなものであろう。

2005年2月28日

新・世界の七不思議

鯨統一郎
創元推理文庫 700円
★★★★★

 世界の不思議なものの新解釈。驚くどろころか、これが正解ではないか? 学説にする人はいないのか。グラハム・ハンコックのようなしつこさはない。非常にさっぱり、あっさりした「不思議のなぞ解き」を提示している。良い本に出会えたことに感謝。