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2011年7月13日

いつも心にクールなギャグを

デーブ・スペクター
幻冬舎
お勧め指数 □□□□■ (4)

震災当初から落ち着きがなく、いつも悪い方向へ事態が行こうすることを恐れていたぼくにとって、ギャグなんて読む余裕はなかった。
ただ、その時期にiPhoneを手に入れ、ツィッターをニュース速報代わりにするようになり、しょうもないツイートが毎日登場するデーブ・スペクターさんのフォロワーになった。
親父ギャグのツイートが日に何度か流れてくる。
それはそれで、ちょっと和むので気に入っていた。

そのツイートが本になったそうである。
タイムラインを遡っていけば全部読める内容なのだろうけど、まとまっていたほうが読みやすい。
1000円超えていたが、確実に楽しめる本だからということで購入した。
もちろん、あっという間に読み終えた。

人の気分はその人の置かれた状況を色濃く反映するもの。
というか、その人の置かれた状況をどのように「理解」しているか、どのように「感じているか」がその人の気分。
気分が塞ぎ、物事が見えなくなると、生き延びる可能性は大分減る。
気分が暗くふさぎ込んだ人に幸福の女神はやってこない。
なんたって「女神」というくらいで「お母さん」ではないのだから。

震災後のデーブ・スペクターさんのツィートは、地味でしょうもないことも多いし、時事問題としての政権批判も多いのだが、考える方向にヨワクを作ってくれていた。
「しょうもない親父ギャグだな」
そう思える瞬間をつくってくれた。

サバイバル時の生き方のコツを一つ教えてもらったようなもので、デーブ・スペクターさんには感謝している。


2010年9月20日

写真への旅

荒木経惟
光文社文庫
お勧め指数 □□□■■ (3)

松丸本舗という特徴のある書店の書棚にぽつんとこの本がおいてあった。
荒木さんの写真集がぞろっとあったが、お財布の関係からこの本にした。
写真の撮り方、などを期待してではなく、どんなむちゃな解説をするのかなという興味である。
中をぱらぱらとめくると、いかにもアラーキーの写真が添えてあり、ちょっと嬉しくなる。
きっと中身ははちゃめちゃなのだろう。

一読して、なるほど。
論理的ではないから、なにかを「説得されよう」とすれば失望するだろう。
しかし、そもそも写真好きの人に、しかも情熱で撮っている人に「言葉で教えてもらおう」なんて期待するほうが間違っている。
これは文字を読むことよりも、キーワードを「どういう口調で、どんな息遣いで」しゃべっているのかを想像しないと、読む意味がないだろう。
もっとも、実際に会ったことはないし、写真についてあれこれ思い悩んだこともない。
それでも、たまに「ピン」とくるのだ。
とくにアラーキーの写真を見て「うーん、いいなぁ」と思ったことがあるから。
そういう写真について解説しているとき、その言葉をまともに解釈するよりも、
「こういう事が言いたいのだろうな」ということが写真から伝わってくるのだ。
本人に確認したことはないから、勘違いかもしれない。
しかし、勘違いであっても、それで何かを学んでしまったわけだから、それでいいではないか。

こういう非論理的な読み方ができれば、この本は面白い。
オッサン的なだじゃれに流れていくことや、文章を読み慣れていない人特有の言い回しがあっても、全く気にならない。
挿し絵の写真を見て、なるほどと思えればいい。

この本の写真で「いいなぁ」と思ったものが一枚あった。
それは、65歳のオジサンが撮った写真らしく、アラーキーは「これはいい」ということで、ピックアップしたものだ。
お世辞抜きで、ぼくもアラーキーの意図がわかったのである。

こういう本をいくら覗いても、写真は上手になれない。
技術的な意味では、勉強する余地は沢山あるが、できれば、「いいなぁ」と観賞できるようなものが撮りたいものだ。
 

2010年9月12日

私の渡世日記

高峰秀子
文春文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)

読みごたえのある二冊。
高峰秀子さんの自伝という面と日本映画の流れのスケッチという面がある。
戦前・戦中・戦後の中で、子役から女優業をスタートした人の目に写る日本映画の盛衰を知ることができる。

とはいえ、解説文ではない。
自伝の軸は育ての母親との葛藤であり、物理的、金銭的、精神的な苦労である。
いわば葛藤の記録。
大女優として成功した人の等身大の世界は、なんだか別の世界が広がっていて、世の中不思議なものだと思えてくる。
女優・高峰秀子さんの視点から、ある時代の日本人の生き方を眺めているような気分になる。

どういうわけか最近になって高峰秀子さんのファンになってしまった。
だからDVDや本を漁っている。
ぼくは映画に疎い。
洋画も邦画も見ないできた。
今になって高峰秀子さん出演の映画を集中講義のように勉強するように見ている。
こういうときは、ツタヤの存在にありがたく思う。

アマゾンで「高峰秀子」で検索結果がリストアップされる本の数は多くない。
そのなかでは、この本の評価が一番高い。
女優さんのエッセイというのはどんなものなのか。
文庫本だだから、試しに読むのもいいかな。
というわけで、まずは通勤電車で読んでみる。

文章は平易。
もって回った言い回しがない。
つかれないで読める。
かといって、小学生のようなものではなく、立派な物書きの文章である。
面白くてつかれない。
とってもいい本だと思う。

女優さんなのに、どうしてこういう本が書けるのだろうか。
本書のなかで何度も告白しているが、高峰秀子さんは子役のころから相当忙しく、学校で勉強している時間は殆どなかった。
九九さえあやしいそうである。
そういう状況のまま大人になった。
なのにどうして、こういう簡潔な愉快な文章を、しかもこれほどの量を書けるのだろう。

文章が上手になりたい。
そう思って、わずかだが努力している一人であるぼくからすれば、たいへんな希望的存在である。
読書経験が浅く、物書きの訓練時間が少なくとも上手な文章が書けるという証拠なのだ。

よし、ぼくの努力も無駄ではないかも。
そう思っていた矢先、その理由がわかってしまった。
確かに学校に行く時間は少なかったのかもしれないが、そのかわりにやっていたことは、役者だった。
役者って、セリフを覚えてしゃべる。
その量は半端ではない。
演じる作品が文学的ならば、覚えるセリフだって日本語としてよいものだろう。
そういう言葉を大量に暗唱するわけだ。
となれば、日本語の練習量は半端じゃないことになる。
文章を書く経験は少なくとも、日本語自体は達人だったということだ。
ならば文章のコツを獲得すれば、短期間でいろいろなものを書けるようになるのかもしれない。
そうだよなぁ。

人生として成功する反面があれば、楽しい生活から遠くなることもある。
人の一生でうまくできるのかもしれない。