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2010年7月25日

浮雲

成瀬巳喜男
東宝ビデオ[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

この映画を観ていたら「うる星やつら」のラムちゃんを思い出してしまった。
自分の頭の悪さが露呈し、なんともみっともないのだが、思い出してしまったものは仕方がない。
なんでこんな男がいいんだろうという人にいい感じの女の人が離れない不思議。
この映画は「大恋愛映画」ということだ。
そうなのかもしれないが、それは本当か?という疑問も残る。
昔の男女の関係はよくわからないが、一般には「硬い」というものだったのではないか?
恋愛結婚ですら珍しいというような風潮だったとか、男女共学などないからデートなどの風習もなかったとか。
しかし、こういう映画で判断するに、実際のところなんか違っているんじゃないか。
現代と変わんないんじゃないのか、あらゆる意味で。

本編では古い東京が映されていてビックリする。
焼け跡の街はセットなんだろうか。
闇市のようなところはセットだろうけど、千駄ケ谷の駅は本物だ。
上記機関車も走っているし、電車も走っている。
親から話を聴いたことや記録映画、古いドラマなどでみる戦後の風景が映っていた。
ちなみに、高峰秀子の回想シーンでの服装が『ローマの休日』でのヘップバーンみたいだった。
ということは、あれは戦中のモードなのだろうか。

こういうものは記録写真よりもずっと勉強になる。
自分の視点からより広い風景を想像できるようになるから。
東京を考えるときに頭に浮かんでくる風景の「時間的奥行き」が広がったようである。

リアリティーというものがあるからだろう。
いわゆる時代劇をずいぶんと見たが、それではまったく江戸の街のリアリティーを感じなかった。
こういう映画をもっとみて、いろんな東京の風景を目にすると、終戦直後の東京くらいまではリアリティーを感じるようになれると思う。

なぜ古い東京に興味を持つのか。
自分が生きている環境を確認したいという衝動だろう。
どういう場所に自分は生まれ、自分は生きてきたのか。
それを確認したい年齢になったのかもしれない。
ぼく同年代の人が見るには、この時代の映画はとてもいい。

ちなみに、ちょっと驚いたことがある。
それは混浴について。
この時代は混浴が普通だったのだろうか。
脱衣所は男女ともに同じで、同じところで服を脱ぎ、同じ風呂に入る。
そういう伊香保温泉でのシーンが何度か映る。
この時代にわざわざ夫婦用とかプライベート用とかいうものはるはずない。
ごく普通に混浴に入っていたのだろうか。

たしか、杉浦日向子さんの本で、江戸時代は混浴だったということ読んだことがある。
その名残はずっと戦後まであったのかもしれない。
ひょっとしたら、GHQの指導で止めたのか。
そう思ってウィキペディアを調べたら、混浴禁止令は江戸時代もでたし、明治政府も出したが、昭和30年代までは地方の温泉に残っていたということである。
この映画は昭和20年代のことである。
ひょっとしたら、混浴にだれもが違和感を感じない最後の風景だったのかもしれない。
しかしなぁ、そんな時代があったんだなぁ。
それもついこの間まで。

日本映画には発見がある、ホントに。
 

2010年7月17日

女が階段を上がる時

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

 何といえばいいのか、不思議な感覚である。
 そもそも映画をろくにみたことがないので、この映画について良い悪いの評論には興味がなく、ただ印象だけを記録しようにも、感想を上手く表現できないでいる。

 鉄琴?の妙な音楽で始まり、手書きの味がある字幕(出演とかそういうことを表示するものをなんというのか?)がでる。モノクロの映像。

 もしこれがテレビで放送されているところをたまたま見かけても、「これ見ようかな」とはならない。
 そして、こういう白黒の古い映画を喜んで見るのは「おれって映画通」を自負する人か、ぼくの両親以上の年齢の人くらいなものと判断し、ニュースにでもチャンネルを合わせるのが落ちである。第一印象はそういうものだった。

 ところが、そのまま見続けた。
 ツタヤで借りたからということもあるし、今回は古い東京の街を見たいからということもある。とにかく見ようと思ってそのまま見続け、そして最後まで見てしまった。しかも見終わって感動している自分に気づく。

 集中するのは不思議なことで、見えるものと見えないものがはっきりと別れてしまう。
 古い映画で気になるところはモノクロだということだが、途中で映画が白黒の世界であることを「キレイさっぱり」と忘れてしまった。白黒の画像にリアリティを感じるはずはないと信じていたが、そんなことは「どうでもいい」くらいに問題ではない。全く気にならない。そういう自分のクセを再発見した。

 自分では気づかなくても、映画を見るとき目的を持っているようだ。
 お金を払って映画を見るわけだし、数多くある映画から選んだものにはそれなりの期待があるはず。この映画に何を期待し、何を吸収しようとしているのか、無意識であっても満足感を左右する大切なことである。それさえ満足できていれば、白黒だなんてのはどうでもいいことなのだ。

 映画を見ているときに自分の意識は何を追っているのか。
 僕の場合は声だったり、顔だったりと、そういうものだろう。だから白黒に注意が向かなかった。もちろん、夜の銀座という舞台設定だから白黒であることにあまり気にならないのかもしれない。


 戦後の東京の風景を見たい。
 これがぼくの目的だった。映画のワンシーンで千住の「おばけ煙突」が見れたから、その目的は達成された。それはそれで満足した。しかしそれだけでなく、なんだか予想しなかったスゴイものを見てしまったようである。発見とでもいうべきことに気づた。

 昔に対する違和感のなさである。
 自分の両親よりも上の世代の役者さん、文物や風景あるいは社会を見たことに、不思議と違和感がなかった。むしろその「違和感のなさ」に「違和感」を感じた。

 古いテレビ・ドラマなどとても見れたものではないのだろうという思い込みがあった。
 自分の生まれる前の古い時代の人がもつ感覚に感動するわけない。そう論理的に思っていた。だから、この映画のあまりにも「まともさ」に驚いてしまい、それどころが現代でもこんな映画あるだろうかと、「倍」驚いたわけである。

 なるほど、人は現在の自分を中心に過去を評価しているのである。
 なんどか読んだ子とのある言葉の意味をこれで理解できた気がする。現在は過去よりも優れているはずだ、昔の人よりも優れているはずだと根拠なく思い込んでいる。そして、自分がいる時代のものはなんでも過去のものよりはいいだろうという思い込んでいる。その矛先は科学や技術だけでなく、映像や音楽芸術、スポーツにまで広がっている。

 自分の知らないことに対して、もっと真摯な態度をとらんといかんなぁ。
 

2010年7月16日

映画メモの開始

 戦後の日本の街を見たい。

 そんなことをぼやっと思っていたときに塩野七生さんのエッセイを読んでいて、ローマで成瀬巳喜男さんの映画が上映され、それなりに人が入っていたということを読んだ。面白いことに、ダウンロードラジオのラジオデイズの番組の中で大瀧詠一さんの話を聴き、成瀬巳喜男という監督名を憶えた。そして、東京人という雑誌も手にし、どうやらぼくも戦後の東京の文化を探検したくなっていてもてってもいられなくなり、ツタヤでDVDを借りて見みてみた。

 もう、びっくりした。

 日本映画って、面白いもんだと。すごくちゃんと作ってあるのかと。全く新しい(というか古いのだけど)世界の入り口を発見したような気分がした。もっとも、それはぼくよりも年配の人や映画好きな人からみれば、何バカ言ってんだということだろうけど。

 そこで、ここは一つ、映画というものをなるべく多く見て、その一つ一つについてメモを取ってくいくことにしよう。本についてメモを付ける習慣を導入したら、5年で千冊くらい読めた。ならば同じ方法を映画に対してやってみようという目論みである。

 ただし、本は通勤電車で読めるが、DVDはそうはいかない。それはわかっているのだが、それでも10本、100本という具合に数を重ねていけば、今は知らないことでも見えるようになるのではないだろうか。

 そのためのシステム的な方法の導入として、このメモを始めてる。