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2010年8月29日

山の音

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

高峰秀子さんの映画を借りようとツタヤに行ったのだが、見ていないものは借り出されていた。
残っていた成瀬巳喜男監督の作品を眺め、まぁこれでならばいいかなと手のしたのが山の音だった。
川端康成の小説が原作。
読んだ事はない。
ローマで書店をぶらぶらとしていたとき、須賀敦子によるイタリア語翻訳のペーパーバックが店頭に出ていたのを見かけたことがある。
どうしてなんだろう、日本人旅行者へのサービス?と不思議に思ったが、真相はわからずじまい。
そんなことが頭をよぎった。
原節子の作品も見たことはない。
ちょうどいいので見てみようかと手にした。
正直、高峰峰子の方がよかったのだけどなぁ、という残念な気分もあった。

ストーリーがどうのこうのいう以前に、原節子の凄みが染み入った。
スゴイ、なんだこの人は。
女優さんの演技を見ているだけで、こんな思いになるものなのか。
感情移入というわけでも、同情というわけでもない。
ただただ、見入ってしまう。
こんな女性、いや、こんな女優さん、今はいないだろう。
ぼくは見た事がないもの。
流行りもののドラマや映画には登場してきていないのならば、現代にはいないタイプといっていいだろう。

見終わっても、あーだこーだ議論をするような内容ではない。
原作が川端康成だから。
まぁ、ある種の「絵」のようなお話。
自分とはあまり交差がないだろうものなので、反省したり道徳を読み取ったりという作業はまったく必要がない。
ただ、観賞すればいい。
そうとうタイプのお話である。
あの人はその後どうなったのか?
そんなことを聞いても仕方ないし、想像しても仕方ない。

原節子の演技に感動した。
この作品の評価はとても高い。
ところでローマで見かけた須賀敦子の翻訳した本は、イタリア人に受けたのだろうか。
出版までするくらいだから、少なくとも出版社としては「意味がある」と判断しただろう。
しかし、陽光そそぐイタリアで、日本の冬の光のような話の意味が理解されるのか。

映画だったら理解してもらえるだろうけど。
原節子のあの表情ならば、きっと。
 

2010年8月22日

放浪記

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

放浪記といえば、毎年ニュースで見かける森光子さんのでんぐり返し。
しかし劇の内容は全く知らない。
なぜでんぐり返しをするのか、想像もできない。

高峰秀子さん出演の成瀬映画を見ることをこの夏の課題にしている。
店先でこのDVDを手にしたとき、
「どんなシーンででんぐり返しがあるんだろうか」
という疑問が浮かび、これをみればそれも解決するかもと期待して借りた。
が、その期待は裏切られた。
でんぐり返しのシーンは出てこなかったから。
演劇ではどんなシーンででんぐり返しをするのか想像もできない。
疑問は余計深くなって残った。

林芙美子さんを原作とした成瀬映画を何本か見た。
全部暗いが、絶望の気分では終わらない。
劇としては絶望で終わっているが、それは救われる暗さではあるから。
監督によって結末が変わるわけでもないだろし、高峰秀子さんだから救われるというものでもないはず。
ならば原作がそうなんだろう、多分。

主人公は作家本人。
要するに自伝なのだろう。
登場する高峰秀子さんの様子は、これまでみた映画の高峰秀子さんとは少し感じが違うようで、ちょっと面ッ食らった。
役者の実年齢よりも大分若い自分の人を演じるからだろうか。
時代設定はいつのなのか、いつも気になる。
ミルクホールの給仕として働く姿を見るに、これは戦前の設定なんだろう。
当時の状況を良く知らないが、ミルクホールはカフェというよりキャバレーに近いところなのかもしれない。

そういうところでせっせと働きながら、夜には詩を書いたり小説を書いたりしている。
文字通り蜜柑箱にロウソクだったりして。
本人が「これをやるべきだ」と知っている人の行動は世の東西、時代を問わず同じようだ。
ストーリーとしては、貧乏のどん底からはい上がっていくもの。
成功物語である。
文筆業は、原資が要らないので、その国の成功物語の一つのパターンになっているはず。
言ってしまえばそれだけ。
なぜ、それで面白いのだろうか。

それでも面白いと思ってい見たのだから、何か違うものを読み取ったのかもしれない。
一つは、弱いものが力を得ていくところだろうか。
可哀相な高峰秀子さん演じる娘さんがチャンスを掴んでいく様に、上昇感を味わうことで気分がよくなるのだろうか。
よくわからない。
が、こういう作品は成功した人が現れるために登場するので、尽きる事がないだろう。
ある意味、救われる国であるかどうかのバロメーターなのかもしれない。

ぼくが一番印象に残っているシーンは、高峰秀子さんの歌声。
それだけのためにDVDを買いたいと思っている。
 

2010年8月15日

流れる

成瀬巳喜男
東宝
お勧め指数 □□□□□ (5)

浅草橋、柳橋界隈の風景が描写されている。
今の浅草橋は老舗の人形屋さんと問屋さんがたくさんあるJR駅周辺というと違い、花柳界だった頃の様子である。
浅草橋は実家から近かったが、いつも通り過ぎるだけの場所だったので、映画の中で出てくる場所は同定できない。
が、それでも「あの辺だろうな」と予想はつく。
自分の子供の頃の記憶と映像はリンクしている。
そんな風に映画を見る楽しみもある。

ぼくは花柳界には縁がない。
現在の様子も知らないし、過去のことも推測することもできない。
たまに映画やドラマで見ることがあるが、楽しそうな仕事ではないようだ。
この映画でも、登場人物たちはがんばって生きている。
今でいえば経営もなかなか難しいのだろう。
芸能プロダクションの内部事情なども、大筋変わっていないのかもしれない。

だから筋を追ってもつまらない。
それでも映画を観つづけてしまうのは、映像に魅かれるから。
山田五十鈴に魅かれてしまう。
三味線をぼろんぼろんと弾きながらの歌が魅力的だから。
そういう具体的な理由もあるが、それ以上に全体から醸し出す雰囲気に魅かれる。

こういう女性がいたんだなぁ。

映像では清洲橋近くの料亭でのシーンがあり、この辺にも来たのかなどとうれしくなってしまう。
gooの地図で昭和25年のものがある。
清洲橋の近くには大きなセメント工場があったようで、それは記憶していた。
この映画では、そのセメント工場が「見えた」ので、ビックリして喜んでしまった。
当たり前なことなんだけど、地図にかいてあったことは「本当」なんだ。
こんなささいなことが理由で、この映画と現在の自分とが地続きになったような気がした。
視野が広がるというか、関係する場所が広くなったというか、そういう爽快感。

風景としていいものがある映画なので、手元にDVDを置いておき、気が向いたら見返すくらいのことをしてもいいかもしれない。

2010年8月 8日

稲妻

成瀬巳喜男
角川エンタテインメント
お勧め指数 □□□□□ (5)


いい映画だった。
日本映画だから全体的に暗い感じのまま結末になるんだと思っていたが、ちょっとちがった。

下町の人らしさとは何か。
一言では言えない。
大抵は寅さん的なものということで意見が一致するだろう。
それこそ「お決まりの」典型的なもの。
その描き方に反論はない。
多くの東京の下町の人がそうだったのだろうから。
この映画での登場人物の心情も寅さんと地続きなので理解できる。
と同時に、下町の人が世田谷の人に抱く印象も、この映画の描くような感じと概ねあっている。
だが、現実にはどちらもファンターなんだだろうけど。

昔ぼくが実際見たものの近いものが映像に多くあった。
下町の商店街のお店でのシーン。
店の中から通りを見ると、店よりも外が明るく、舗装されない道を歩く人がいる。
これも寅さん映画でよくみるシーン。
店の中から外をうかがう人の心情までもなんとなく想像できる。
「ちょっと見てくるから、店番してて」といって、高峰秀子が一人残される。
自分が残されたような、こころもとない気分になる。
無音のまま場面が変わる。
こういう何気ないシーンを結構気にいってる。

ぼくが現在生活している街の昔の風景を映像で見ることができる。
それだけで、不思議なことだがワクワクする。
両国橋、国技館と隅田川沿いが映る。
清洲橋の素晴らしい風景。
あるいは銀座中央通り。
交通標識に英語が残っている。
占領下の日本の様子、映画のなかでもあまり見た事がないことに気づく。

この時代の女性の目標は現代において達成されている。
高い教養を身につけ、自活して生きていく。
この映画はこういう女性を描いている。
しかし、現実はそうならない。
自分の理想から大分遠ざかっている下町の人たちの中で暮らしている主人公は、なかなか思い通りには物事がはこばない。
そんなところに、世俗を代表するような男との縁談が持ち上がる。

この映画のどういうところに感動したのだろう。
粗筋をたどるだけなら、なんとなく想像できそうな映画だから。
トリックもミステリーもサスペンスもない。現代に移し替えてドラマにする企画自体が通らないくらい、なにもない日常。
それでも、設定した時代と役者さんとがあうと、素晴らしいなぁと感じる。
なぜなんだろう。
不思議な気分になる。

映画の要素と全体の印象の関係はどうなっているのか。
脚本がスバ抜けているわけではないし、演技が優れているわけでもないし、映像が美しいわけでもないように感じる。
それでも、全体として「いい映画だなぁ」という気分になれる。
個々の要素を足し合わせたものが全体になるわけではないのだな、とあらためて納得する。

自分が生きている時代よりも昔は、「過去」という一つのものとして考えてしまいがちになる。
過去はそれよりも過去から変化してきたのか。
ごく普通の人だって、個々の制約の中で「こうなりたいなぁ」というおぼろげであっても目標があり、それを目標にして生活してきたんだ。
当たり前なことではあるのだが、そう気がついた。

古代ローマなんていう古代のことを知るのはある種のフィクションを楽しむ気持ちがあるのだが、近い過去つまり自分の親が若かった頃の映画をみると、自分の過去が少しだけ引き伸ばされたような感覚をもてる。

芸術を楽しもうなどのような高尚な目的とは無関係に、この時代の映画を見るのは自分の視野が広がるから、入手できるかぎりDVDを見てみよう。